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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) (平成16年度 退職記念号 浅野 裕司 教授 水野 勝 教授) 利用統計を見る

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完)

(平成16年度 退職記念号 浅野 裕司 教授 水野 勝

教授)

著者名(日)

佐藤 俊一

雑誌名

東洋法学

48

2

ページ

197-240

発行年

2005-03-25

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00000571/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政︵二・完︶

  目  次  序 一 知事公選化間題と広域行政 二 事務再配分問題と広域行政 三 町村大合併間題と広域行政 四 府県制改革間題と広域行政  小  括︵以上、本巻本号︶ ︵以上、第四十五巻第一号︶

東洋法学

三 町村大合併問題と広域行政  旧内務官僚によれば、シャウプ勧告以前から合併によって町村規模を拡大し、自治能力の強化を図ろうという        ︵−︶ 考え方を有していたという。そうであれば、シャウプ勧告︵一九四九年九月︶から地方行政調査委員会︵いわゆ

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完)       ︵2︶ る神戸委員会︶の第一次勧告︵一九五〇年十二月︶は、以前から各地で個別に進められていた合併のみならず、 旧内務官僚のそうした考え方をオーソライズした。その結果は、一九五一年一月の自治庁による府県に対する町 村規模の合理化︵合併︶へ積極的に取り組むべしという指示となったといえる。  しかしながら、実際には町村合併はなかなか進展しなかった。その大きな理由は、合併町村にとって重要な財 源である平衡交付金が合併前における旧町村時の合計額より減少したりすることにあった。朝鮮戦争後の景気後 退により再び財政の窮乏化に直面することになった市町村にとり、それは合併に二の足を踏ませるものであった。 とはいえ、弱小町村にとっては、当面、合併以外に財政危機を打開する方途を見出しえなかった。そのため、既 に合併へ踏み切った町村の全国協議会を基軸に、合併町村育成の法的措置や合併を進めうるようにするための財 政的助成措置を求める圧力活動が活発化した。そうした活動は、最終的には一九五三年八月の議員立法としての 町村合併促進法︵三年間の限時法︶へ収敏されることになった。この経過の分析については、優れた論文がある       ︵3︶ のでそれに譲ることにし、本稿の課題という観点から次の諸点に注視したい。  第一に、一九五一年五月、D・マッカーサーに代りGHQ最高司令官に就任したM・B・リッジュウェイは、 占領終結・講和独立後に備えるため日本政府にいわゆるポツダム政令などの再検討権限を与えた。それを受け、 日本政府は直ちに政令諮間委員会を設置した。そして、同委員会の答申︵八月︶は、国・都道府県・市町村の事 務配分を円滑に行うには自治体の行財政能力を強化する必要があるとし、﹁都道府県の財政調整的機能及び広域団 体としての特殊的機能を認めること﹂、﹁市町村の規模の適正化を目的としてその統合を勧奨すること﹂として、 198

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東洋法学

府県の特殊性︵市町村との相違性︶を認め、市町村合併を推奨した。だが、これとあわせ、備考として﹁地方自 治制度については、前述のほか、なお、府県の地位、特別地方公共団体の制度その他再検討を要する根本間題が 少なくないから、別に強力機関を設けて改革案を検討せしめること﹂としていた。これは、審議過程で府県制の 廃止論などが展開されたためであった。そのため、答申案を作成した田中二郎東大教授は、後日、府県制の擁護      ︵4V 論を発表した。  しかし、これ以上にこの答申で注目されることは、次にあった。すなわち、冒頭で﹁真にわが国の国力と国情 に適合した行政制度を整備﹂すべしとし、中央地方を通じ﹁簡素且能率的で、而も民主主義の原則に則る行政制 度を確立すること﹂、﹁国力特に財政力とにらみ合せ、且つ、行政効果を考え、行政事務の範囲はこれを大幅に整        ︵5︶ 理縮小すること﹂など四つの基本方針を示したことである。そのため、シャウプ・神戸勧告との関連で論議をよ        ︵6︶ ぶことになったが、これは、本論・序で述べたそれまでの地方自治制度の在り方をめぐる縦糸としての︿現代化﹀ に対する横糸としての︿国際化﹀が︿日本化﹀”︿伝統化﹀に、また︿民主化﹀と︿分権化﹀が︿能率化﹀から ︿集権化﹀へ反転し始めたことを示すものであった。そして、以後、やはり本論・序で述べた戦後地方自治制度の ﹁再改革﹂﹁再調整・再選択﹂は、両ベクトルの確執、攻めぎ合いの中で展開されることになったのである。  第二は、政令諮間委員会の答申が備考で提示した別途の強力機関として一九五二年一二月に第一次地方制度調 査会︵以下、地制調︶が発足したことである。そして、後述するように一九五三年二月、自治庁は戦後地方自治 制度の根本的改革に関する図表⊥二︵後掲︶のような検討課題”論点を行政部会に提示した。これについて注目し

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) たい点は二点ある。  一つは、広域行政についてである。それには、既に神戸勧告で示されていたものであるが、市町村の規模の適 正化をもってしても処理困難、不適当と考えられる﹁広域的な行政﹂と現行の府県の区域を超える﹁広域行政﹂ という二つのレベルがあると捉えていたことである。もう一つは、合併それ自体とは異なる市町村の標準的な適 正規模の基礎は何かという検討課題につき、やはり神戸勧告を受けて﹁自治経営能力か、住民の協同意識か、ま たは住民による行政利用の距離ないし住民に対する行政浸透の区域﹂かという論点を提示していたことである。 しかし、この点に関しては、結論を先取りしていえば、地制調では全く論議されず、神戸勧告を受ける形で市の 人口は五万以上とすべしという答申以外は立法過程中の町村合併促進法案に委ねた。そして、同法案の審議過程 においても適正規模の基礎について論議が深められることなく、いや、住民の協同意識などを配慮することなし に、次にみるように能率性を核とする﹁自治経営能力﹂の確保へ収敏された。  第三は、合併目的の変容である。先行的に合併した町村の全国協議会は、前述したように合併町村の育成措置 や合併に伴う財政的支援措置を求めた。ところが、政府・自治庁はこの圧力活動を合併を望まぬ、あるいは必要 のない町村も含む全般的な合併促進に転化した。そのような︿合併町村の育成﹀から︿町村合併の促進﹀への転        ︵7︶ 化を促したのは全国町村会であった。この背後には、地方財政の危機による赤字団体の急増があったといえる。 その後、合併促進に対する他省庁の反対などもあったので、自治庁と全国町村会は背後に退き、議員立法として の町村合併促進法となったのである。とはいえ、同法は自治庁と全国町村会の連携を母体としたものであったが 200

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ゆえに、目的は合併町村の育成強化ではなく、﹁町村合併によりその組織及び運営を合理的且能率的にし、住民の 福祉を増進するよう規模の適正化を図ることを積極的に促進し、もって町村における地方自治の本旨の充分な実        ︵8︶ 現に資する﹂︵同法第一条︶とされたのである。  第四は、合併をめぐる町村と市の確執及び結果としての市町村合併である。町村合併促進法案の審議過程に入 ると、全国市長会と全国市議会議長会は、特別市制推進の思惑もあり、︿町村﹀合併ではなく︿市町村﹀合併の促 進と市の合併に対する人口十万未満という法適用範囲の解除を強く求めた。これに対し、全国町村会と町村議会 議長会及び自治庁︵﹁法案想定間答﹂︶は、法案の企図は弱小町村の合併による規模の適正化と行財政能力の向上        ︵9︶ にあるので都市自治体に法的助成措置をとる必要がないとして反対した。そして、結局、︿市町村﹀ではなく︿町 村﹀合併促進法となり、市の合併については十万未満とされた。  しかしながら、自治庁官僚は、現存の町村規模を一万前後にする﹁中町村主義﹂に対して、三万以上で大きけ れば大きいほどよいとする方針を﹁大町村主義﹂とし、この﹁大町村主義﹂こそ﹁新しき地方制の輩固な基礎を        ︵−o︶ 形成する﹂という考えに至っていた。それゆえ、町村合併促進法第三条㊧解説でも、町村は﹁人口八千を有する のがよい事を一つの目安として定めたに過ぎない。本法を誤解して、人口八千が適正規模だと考える人があるが、 これは最低規模をいっているのであって標準的なものでというのではない。むしろ﹃その規模をできる限り増す       ︵U︶ る﹄といっているように、大きい程よいという趣旨である事に注意されたい﹂とされた。かくして、神戸勧告を 受けて一九五二年に改正された市制施行の人口要件五万に対する経過的特例措置である人口三万以上による合併

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) 図表一1 町村大合併の結果 大合計 a十b十c 市c 平均 人口 町村規模(%) 1万5千入

以上

  9,868   3,975 e5,893    286    498

㊥212

5,396 15.871 3.4 22.7 8千人∼ 1万5千人 未満 10.8 38,7 人満 千 8未 合計 a十b 村  b 町  a 85.8 38。6   9,582   3,477 e6,105   7,616   1,574 e6,042   1,966   1,903

e 63

年月\ 1953年10月 1956年9月

増減

注)高木、1991年、表55−bと表55−eより作成 新市が多数誕生しただけでなく、政府の﹃町村合併計画﹄も市や人口八千以上の 町村への編入合併と人口八千以上の町村でも合併を積極的に推進するとしたので ある。こうした結果、﹁昭和の大合併﹂は、﹁大町村主義﹂方針のもと図表⊥に示       ︵12︶ すように﹁単なる町村合併ではなく市町村合併﹂になったのである。  そうした﹁大町村主義﹂に基づく﹁昭和の大合併﹂を、自治庁︵旧内務省︶官 僚は次のように論弁し意義づけていた。  まずは、﹁大町村主義﹂による大合併の論拠づけである。それは、近代化の観点 から二つの必然性論をもって論弁される。一つは、社会経済の発展により拡大し た生活・経済圏と行政圏の乖離という﹁社会経済的必然性﹂と、もう一つは、近 代国家の法制度の一環とされた自治体に対して国家が求める方針や機能の変化と いう﹁法的制度的必然性﹂であるという。そして、両必然性の合流に、すなわち 拡大した生活・経済圏と行政圏の整合化の要請と、戦後の民主化改革による中央 集権から地方分権への転換が市町村へより多くの機能と責任を求めることになっ たことが、規模の合理化と行財政能力の強化を必須化し、大合併を必然化たらし         ︵13︶ めたというのである。  また、広域行政を意識した類似の論理もみられる。すなわち、政令諮間委員会 202

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の答申は、占領下のく民主化Vを︿能率化﹀によって補正しようとするもので、市町村の規模の適正化を目的と する統合を勧奨していたが、これは自治体の区域と機能の技術的な調整を求めているものだとする。ここには、 シャウプ・神戸勧告が提示した事務再配分を目的にする規模の適正化論からの飛躍がある。それは、合併が広域 行政の方式︵手段︶の中に位置づけられることになったことである。すなわち、この区域と機能の調整︵事務の 協同処理︶手段ーまさに広域行政の方式・手段間題といえるーとしては、従来の自治体の組合の他、一九五 二年八月に改正された地方自治法に神戸勧告を受ける形で導入された協議会の設置、機関の共同設置、事務の委 託もあるが、合併も﹁事務の協同処理形態の一つ﹂であると位置づけられる。しかし、両者の間には、行政機能 の能率的な遂行を﹁個別的﹂に捉えるか﹁総合的﹂に捉えるかの﹁次元﹂の相違があり、わが国の市町村におけ る区域と機能の調整には合併という﹁手段が最良﹂で、合併以外の手段では﹁所期の目的は十分に達成されない﹂ とする。というのも、わが国も﹁今後、いよいよ国家職能は拡大の傾向を辿ることは必然的な過程であり、しか もなお地方分権の体制を堅持しつつ市町村の強化を図るとすれば、市町村の行政規模の拡大もまた必然的である          ︵14︶ から﹂というのである。  次に、大合併の意義づけである。前者の二重の必然性論者によれば、明治期の市制・町村制施行のための町村 大合併”﹁明治の大合併﹂が町村自治体の自然村︵村落共同体︶からの脱皮ー自治体の近代化ーの第一段階 であったとするならば、今次の﹁昭和の大合併﹂はかかる近代化の完成であるという。すなわち、行政村として の町村自治体に残存してきた村落共同体的性格を払拭し、﹁行政主体としての町村を完成する事業﹂であるという

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完)    ︵15︶       ︵16︶ のである。同様のことは、自然村連合的な行政村“﹁行政共同体から事業共同体﹂への転換であるとも表現され ている。さらに、後者の必然性論者は、大合併を時代状況が求める﹁地方制度の改革又は地方分権の再編成の一 環として、否、その先駆者﹂と意義づけ、地方自治法そのものの再検討1この含意は府県制の在り方の再検討に        ︵17︶ あるようだーを要請するものだとする。  このように論者はいずれも大合併による市町村“基礎的自治体の規模と能力の拡充を強意するが、しかし、大 合併は︿民主化﹀を︿能率化﹀へ、また︿分権化﹀を新たな中央集権化︵ニューセントラリゼーション︶へとシフ ト化するものであったといいうるのである。  そもそも合併必然論に対する批判者は、いうところの﹁社会経済的必然性﹂なるものがせいぜい合併を可能な らしめる背景を示しているにすぎず、それを補うものとして﹁法制度的必然性﹂が提示されているのであり、こ        ︵18︶ の論理の背後にあるのは国の﹁行政目的の変遷﹂による﹁行政の必要﹂であることを喝破した。それでは、ここ にいう国︵中央政府︶の﹁行政目的の変遷﹂による﹁行政の必要﹂は何か。それは、占領から講和・独立あるい は復興から自立を経て意識され出した本格的な近代化ー国家目標としての︿西欧に追いつけ追いこせ﹀ーと それを可能にする経済成長、そして経済成長を具現化する工業化あるいは地域開発政策の推進である。  この点を合併必然論者は率直に認める。すなわち、大合併後の市町村に求められるものは、﹁産業経済行政と土 木行政を中心として、これにその他の分野の行政中必要な部分を加味し、全体を一つの総合的企画により統一的       ︵19︶ 運営をしていくもの⋮即ちその市町村全域にわたる総合開発事業ではないか﹂とした。そして、顧みれば、大合 204

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併により﹁その後の昭和三〇年代の社会経済の進展をそれに起因する市町村行政の内容の高度化、複雑化、或い は新規行政需要の発生、各種開発行政⋮計画行政の展開というものに対する受入体制の整備が、タイミングよく、 事前に完了した形となった。市町村、殊に小規模の町村は、もしこの再編成がなかったならば、昭和三〇年代の、 急速な社会経済の進展に伴う行政需要の量的増嵩と質的転換に到底ついて行けなかったであろう。⋮︵中略︶・ たまたま困難に当面する以前に、期せずして準備体制の整備を完了していたという形で、この第二次の市町村再        ︵20︶ 編成は予期せざる効果をもたらしたといえよう﹂とする。  かくして、﹁大町村主義﹂方針の大合併が町村の完全な﹁行政主体﹂化を、あるいは﹁行政共同体から事業共同 体﹂への転換をもたらしたということは、大合併が来たるべき高度経済成長をさらに促進するための地域︵工業︶ 開発政策を担える﹁行政主体﹂あるいは﹁事業共同体﹂の形成i事前にそこまで意図していたか否かは別としてー という﹁行政の必要﹂性を充当したのである。そして、一九六〇年代の地域︵工業︶開発政策の推進のために生 じたことは、新たな機関委任事務の急増や補助金行政の拡大に加え中央省庁の地方出先機関の強化や広域行政の 名のもとにおける市町村から府県へ、府県から中央省庁への事務権限の引きあげなどの新中央集権化︵ニュー・ セントラリゼーション︶であった。だから、﹁昭和の大合併﹂は、この新中央集権体制化への布石になったといえ     ︵21V るのである。  さらに、合併による完全な﹁行政主体﹂化論や﹁行政共同体から事業共同体﹂への転化論の根底にある︿民主        ︵22︶ 化﹀に対する︿能率性﹀の重視は、﹁自治の極小化・綾小化と行政の極大化﹂を求めるのである。すなわち、自治

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) の単位を﹁素朴な隣保共助の美風﹂へ極小化・倭小化する一方、町村自治体は経営組織的な行政体としてこれま で国や府県が行っていたサービスまでも担える﹁強力な、能力ある自治体﹂たるべきとして極大化が求められる    ︵2 3︶ のである。このことは、次のようにもいわれるのである。合併によって﹁解消すべきは行政協同体としての機能 に適しなくなった従前の町村であって、隣保共同体たる部落ではないことはいうまでもない。⋮︵中略︶⋮この ような考え方に立つとき⋮住民の自治意識の低下のおそれは、部落の機能を見直し、これに新しき生命を吹き込       ︵24︶ むことによって、防止できるのではないかと考える﹂。  かくして、﹁ここには、住区・住民組織の民主的編成、それらを包摂する町村自治体の民主的重層的構成という 問題意識はもはや存在しない。こうしたことは自治の中身とその単位を隣保共助の共同社会実体の中にしかみい だせず、行政体︵経営体︶としての町村も、結局のところ国家目的遂行のための機能合理的な手段としかみるこ        ︵25︶ とのできない︵市︶町村観に拠るものであった﹂とされる。いや、そうした自治観に拠っていたがゆえに、シャ ウプ・神戸勧告における自治体の︿規模の適正化﹀としての合併は︿規模の拡大化﹀に転化されつつ、区域と機 能の技術的な調整方式手段に位置づけられることになったといえるのである。  そして、神戸勧告は、合併はあくまで事務配分を前提にした︿規模の適正化﹀の手段と位置づけられ、少なく とも市町村の区域を超える広域行政の手法とは別次元化されていた。しかし、区域と機能の技術的調整論は、前 述したように、合併を事務事業の共同処理形態の一つとして広域行政の方式・手段に位置づけ、神戸勧告からの 転換が図られている。もっとも、合併とそれ以外の共同処理形態  自治体の組合や協議会など  には、﹁総合 206

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的﹂か﹁個別的﹂かという方式上の相違があるとする。これは、今日的には﹁目標設定型の広域行政﹂方式と﹁需       ︵26︶ 要対応型の広域行政﹂方式と換言されている。それはともかく、事務事業の﹁総合的﹂共同処理方式とされる大 合併が進捗するほど、行財政能力の拡大・強化された新しい市町村にとっても処理し難い事務事業にどのように 対処するかとともに、改めて府県の役割U機能は何かを間うことになる。このことは意識されていたが、実際に 間題設定され論議されることになったのは地制調における審議においてであった。

東洋法学

︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶  長野士郎﹁市町村合併促進措置の提唱﹂﹃自治研究﹄第二十九巻第一号、一九五三年一月、一〇一∼一〇二頁。﹃神 戸委員会︵地方行政調査委員会議︶の審議経過と勧告内容−佐久間彊氏ヒアリング﹄地方自治総合研究所、一九七 五年、一六∼一七頁。  永井暉﹃町村自治の拡大と合併間題﹄朝日新聞調査研究報告、一九五二年、六四ー七一頁。﹃全国町村会五十年史﹄ 全国町村会、一九七二年、三八頁。  河中二講﹁議員立法形成の行政学的考察ー町村合併促進法の成立過程﹂﹃自治研究﹄第三十二巻第一号、あわせ 同前﹃全国町村会五十年史﹄三八∼四二頁も参照されたい。  田中二郎﹁わが地方公共団体の二重構造の意義−府県制廃止論の批判1﹂﹃都市間題﹄第四十三巻第二号、一 九五二年四月。  以上、答申文については、神戸都市問題研究所編﹃戦後地方行財政資料﹄第一巻、勤草書房、一九八四年、六九三∼ 六九四頁と六九九頁。  さしあたり﹃自治研究﹄第二十七巻第十一号、一九五一年二月の特集﹁講和と地方自治﹂、及ぴ第二十八巻第一 号、一九五二年一月の座談会﹁地方制度の再検討﹂を参照されたい。  一九五二年には前年度より赤字団体が都道府県で二倍強の三六団体に、市町村では三倍強の二五九六団体に急増

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ パ  ハ 1211 )  ) ハ 13 ) ︵14︶ ハ  ハ

1615

)  ) 佐久間彊﹁町村合併と部落﹂﹃自治研究﹄第三十一巻第一号、一九五五年一月、四七頁、同﹃地方自治講義﹄第一  林忠雄﹁町村の性格の転換﹂﹃自治研究﹄第三十巻第六号、一九五四年六月。 一九五四年一月。  降矢敬義﹁町村合併の技術的性格!町村合併促進法成立の意義と若干の間題口﹂﹃自治研究﹄第三十巻第一号、 一九五二年一二月。  林忠雄﹁市町村合併雑観︵その一︶1市町村合併の二つの必然性について﹂﹃自治研究﹄第二十八巻第十二号、 九∼一〇一頁。  高木鉦作﹁町内会廃止と﹃新生活共同体の結成﹄︵十四︶﹂﹃国学院法学﹄第二十八巻第三号、一九九一年一月、八  林、前掲﹁解説﹂、三六頁。 五一頁。  林忠雄﹁大町村主義の示唆−市町村合併雑観︵その四︶﹂﹃自治研究﹄第二十九巻第六号、一九五三年六月、四八∼ 及び二六二頁。また、この問題をめぐる混乱ぶりについては、長野、同前書、九九∼一〇〇頁。  ﹃町村合併促進・新市町村建設促進関係資料︵法令編︶﹄第一巻、自治省行政局、一九六二年、二〇〇∼二一一頁 ある。立法関係者の一人である長野士郎﹃地方自治の展開﹄第一法規出版、一九八二年、九三頁を参照されたい。 事務再配分を前提にした合併ではなかったし、解説がいうような﹁やがては事務の再配分も可能﹂にしなかったので 治研究﹄第二十九巻第九号、一九五三年九月、三四頁。しかし、同法は、周知のようにシャウプ・神戸勧告のように も可能﹂となり、地方自治の本旨の実現︵民主化︶に資するというのである。林忠雄﹁町村合併促進法の解説﹂﹃自 より事務能率の向上、経費の節減が図られ、﹁規模の拡大﹂による行財政能力の向上により、﹁やがては事務の再配分  同法の解説は、町村の合併は能率化と民主化の要請を同時に実現するものだという。すなわち、﹁規模の適正﹂に する。藤田武夫﹃現代日本地方財政史︵中巻︶﹄日本評論社、一九七八年、九九∼一〇二頁。 法規出版、一九七六年、一〇二頁。なお、﹁地縁的共同体から機能的統一体へ﹂変質したという表現もみられる。 吉富重夫﹃新版地方自治﹄勤草書房、一九六〇年、一二∼二五頁。 208

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ハ  パ  パ  ハ  ハ  パ 22 21 20 19 18 17 )  )  )  )  )  ) ハ  パ  パ  パ 26 25 24 23 )  )  )  )  鳴海正泰﹃戦後自治体改革史﹄日本評論社、一九八二年、二二〇頁及び二二七∼一四八頁。  林忠雄﹁広域市町村圏の一考察﹂﹃自治研究﹄第四十八巻第一号、一九七二年一月、三五∼三六頁。  林忠雄﹁新市町村経営の一方策﹂﹃自治研究﹄第三十一巻第四号、一九六〇年四月、二三頁。  大島太郎﹁町村合併の論理と間題性e﹂﹃自治研究﹄第三十四巻第十号、一九五八年一〇月。  降矢、前掲論文e、﹃自治研究﹄第二十九巻第十一号、一九五三年一一月、二五頁。 村上順﹃日本の地方分権﹄弘文堂、二〇〇三年、二七八頁。この点は、鈴木俊丁立花敏男論争︵同、 七七頁︶から析出されている。  林、前掲﹁町村の性格の転換﹂、四四∼四八頁。  佐久間、前掲論文、五三ー五四頁。 村上、前掲書、二八○頁。  佐々木信夫﹃市町村合併﹄ちくま新書、二〇〇二年、四六頁。 二七三∼二 四 府県制改革問題と広域行政

東洋法学

 戦後の第二次地方制度改革により都道府県︵以下、府県とする︶知事の公選公吏化が図られ、府県は市町村と 同様に普通地方公共団体︵完全自治体︶化された。しかし、天川晃教授は、この新しい府県制は﹁その歴史に由 来する基本的なジレンマを抱えて出発﹂することになったという。このジレンマにかかわる論点が当初から指摘 されていたことは、本稿の第一節で瞥見したところであるが、改めて天川教授に従えばこうである。ジレンマを もたらす一方の要因は、普通地方公共団体の二層制、すなわち市町村と府県という二つの完全自治体の重層間題

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) である。ここで、府県が完全自治体に徹しようとすれば、市町村と異なる特質と存在理由が問われることになる。 他方は、新たな府県は、戦前のような国の地方行政区画︵総合出先機関︶たる性格を完全に払拭したものの、戦 前の知事が処理していた国政事務の処理方式に根本的な検討  例えば国政事務を処理するため府県とは別途区 画のいわゆる道州制導入もありえたなど  をほどこすことなく、知事へ機関委任事務方式を適用したことであ る。そのため、府県は国の行政区画的な性格を有することになるのだが、国政事務を処理する上での区域と監督 の点で適切であるか否かが問われることになった。そして、このジレンマが、すなわち府県の存在理由が間われ、 従来の区域の再編成がなされなかった間題点が集約的に露呈することになったのが、地方自治法にもりこまれた        ︵−︶ 特別市制の実現間題であったとする。  見事な論点析出である。ししかし、以上を踏まえつつも、本論・序で述べた戦後の地方自治制度をめぐる﹁再改 革﹂あるいは﹁再調整・再選択﹂にあたり、府県制改革が焦点化されることになった理由を大きく三点あげたい。 第一は、︿規模の拡大化﹀を目途にした町村大合併である。この進捗も、完全自治体の二層制における府県固有の 機能目役割から府県それ自体の存在理由を間うことになった。第二は、地方自治法に根拠づけられた特別市制の 実現をめぐる都市自治体と府県との確執・対立である。府県の区域外に独立し府県並みの機能n役割を有する特 別市制は、まさに府県の区域と存立いかんに刃をつきつけることになったからである。第三は、府県の区域を超 える広域行政の問題である。国政事務の処理区域の間題に加え、これも改めて既存の府県の区域や代替的な組織・ 機構などを間うことになった。 210

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東洋法学

 これらが、府県の機能”役割、性格、区域などから府県それ自体の存廃︵代替的な組織・機構も含め︶を間題 化することになったのである。そうした府県制の根本的改革にかかわる論点を整理したのが、図表⊥二︵後掲︶で あった。しかし、地制調を発足せしめた府県制の根本的改革という課題は、中央行政機構の再編と、とりわけ内 政省構想と連動化していたことに注意しなければならない。したがって、地制調発足以降の府県制をめぐる諸改 革構想・案は、本論・序で述べたように基本的に︿内務省ー府県体制﹀志向なのか、それとも︿内閣−道州制体 制﹀志向なのかという観点から、中央地方関係の点ではどのようなタイプー︿集権・分離﹀型、︿集権・融合﹀ 型、︿分権・分離﹀型、︿分権・融合﹀型1なのかをも明らかにする必要がある。  ところで、右のような府県制改革と中央行政機構の再編の主要舞台は、ともに一九五二年一二月に発足した地 制調と行政審議会︵以下、行政審とする︶であった。この舞台での改革・再編論議は、前節で示したように縦糸 である︿現代化﹀に対する横糸では、︿国際化﹀対︿日本化﹀“︿伝統化﹀、︿民主化﹀と︿分権化﹀対︿能率化﹀ と︿集権化﹀という相反ベクトルの確執・攻めぎ合いの中で展開されることになったのである。そして、特に地       ︵2︶ 制調委員が国会議員、学識経験者、地方自治体代表、関係行政機関から構成されていたことが示唆するように、 改革論議をめぐるアクターは、政党︵自由党・民主党・社会党︶、学者︵行政法学者、財政学者など︶、いわゆる 現在・過去官僚︵旧内務省・自治庁と他省庁︶、マス・メディア関係︵全国・地方新聞や通信社︶、地方六団体及 び自治労︵全日本自治団体労働組合︶などが入り乱れるものであった。  そこで、右のような潮流ベクトルとアクターが交錯する中で、まずは、地制調を舞台にした府県制改革ー府

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) 県の機能”役割、性格、区域などに、言い換えれば特別市制と道州制1にどのような構想・案が提示され、ど のような結着と賛否の評価をみたのかについて分析することにする。次いで、それらの構想・案は、行政審を舞 台にした中央行政機構の再編、とりわけ内政省構想とどのような連関性にあったのかを検討することにする。  さて、一九五二年八月には、二つの出来事があった。一つは、政令諮問委員会の答申を受け、地方財政委員会 と地方自治庁を統合し、それに全国選挙管理委員会をも吸収した自治庁︵総理府外局︶が誕生したことである。 もう一つは、地方自治法の大幅な改正をみたことである。主要な改正点は、冒頭に目的条文を挿入、機関委任事 務・必置規制の別表化、都道府県の標準局部制化、副知事・助役の任意設置制、議員定数の条例主義化、特別区 長の公選制廃止、それに神戸勧告を受け広域行政の新たな手段としての簡単な事務共同処理方式︵事務の委託、 機関などの共同設置、協議会︶の導入などである。しかし、この改正は政令諮間委員会がいう府県の地位などの 根本的間題に触れていない点でいまだ弥縫的であった。  そのため、前節で述べたように同諮問委員会の備考による地方制度を再検討する強力機関としての地制調が設 置された。ねらいは府県制改革であり、その背後にあったのは道州制と特別市制間題であった。というのも、道 州制論者の吉田茂首相は、そもそも地方行政調査委員会︵神戸委員会︶にその導入の検討を諮間したのであるが、 第二節でみたように同委員会は道州制の導入を否認し、当面、府県合併をもって広域行政へ対応すべきとした。 とはいえ、吉田首相は、道州制の導入を断念せず、むしろ政治間題化し始めていた特別市制が道州制導入の障害        ︵3︶ になるとみなし、特別市制間題にも結着をつけて道州制化を図ろうという思惑があったとされているからである。 212

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したがって、地制調への諮間や地制調の始動にあたっての次にみる挨拶には、こうした思惑が秘められていたの である。  吉田首相は、﹁現行地方制度について改正を加える必要があると認められる。これに対する改正の要綱を示され たい﹂というきわめて抽象的な諮間を行った。この含意は、次の挨拶でやや明らかになる。すなわち、吉田首相 は、まず﹁我が国の実情に即し、一層合理的な安定した地方制度を確立し﹂たいと、政令諮問委員会で明示され た﹁再改革﹂のベクトルを追認した。次いで、本多市郎自治庁長官は、﹁地方行政の各分野における法制相互間に 必ずしも統一的な一体性が保たれているとは言い得ないのみならず、地方財政の現況は誠に困難なる局面に遭遇 している﹂ので、政府は﹁いわば地方自治の再建を目指﹂し、﹁本調査会の答申をまって地方制度の根本的改革﹂          ︵4︶ を企図しているとした。  こうして始動することになった地制調の活動は、府県の存廃ー府県合併か道州制か  をめぐる委員間の厳 しい確執と答申案の採決という異例の結着となった第四次地制調答申︵一九五七年一〇月︶をもって一段落する       ︵5︶ ことになる。それゆえ、この時期は、﹁地方制度調査会の歴史上最も脚光を浴びた時期﹂であったとされる。そこ で、以下、経年的に活動を追って論点などを検討してみることにする。  さて、発足した第一次地制調は、鮮刀頭から地方六団体を中心に現行地方制度の基本維持か、それとも根本的再        ︵6︶ 検討かという論の厳しい対立をみた。だが、いずれにせよ諮間事項があまりに抽象的で広汎すぎるということか ら、まず自治庁が現行の地方制度についての主要な検討課題目論点を三点の基本的事項と一〇点の個別的事項に

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     戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) 図表一2 地方六団体の地方制度改革に対する立場

道州制

反ヌ寸    府 県 制 維持・自治と国家的機能 の調和、区域の適正化  特別市制 反対・事務配分 の適正化で対処 地方六団体 全国知事会 反対 維持・自治と国家的機能 の調和、区域の適正化 反対・事務配分 の適正化で対処 全国都道府県 議会議長会 賛成・国の総合出 先機関 廃止・特別地方公共団体 の創設 賛成・大都市の 独立化 全国市長会 賛成・国の総合出 先機関 廃止・特別地方公共団体 の創設 賛成・大都市の 独立化 全国市議会 議 長 会 当面留保・将来は 国の総合出先機関 当面存置・市町村の連合 自治体化 反対・事務配分 の適正化で対処 全国町村会 当面留保・将来は 考慮 当面存置・区域の統廃合 反対・事務配分 の適正化で対処 会会

附長 国 全議 注)基本的に各団体史によって作成。 整理し、説明した。三点の基本的事項とは、e中央・地方 関係の在り方、口地方における国の出先機関と自治体との 構成の在り方、日自治体の種類、機能、規模、性格をどう するか、であった。このため、自治庁”﹁事務局が審議項 目を提示し、それを委員が追認することで審議を開始する、        ︵7︶ という慣例が定着していくことになった﹂とされるが、と もかく自治庁の提示を受けて様々な意見が開陳された。特 に地方六団体は、既に特別市制の実現の賛否をめぐり厳し い確執を繰りひろげていたので、それと関連する府県制の 在り方、道州制について六団体代表委員は、大概、図表−二 のような立場を表明した。これが示すように、府県存置の 府県サイドと府県廃止の市サイドは真っ向から対立し、町 村は中問的立場をとっていた。また、学識経験者委員の多 くと国会議員の一部︵社会党︶は、府県廃止や道州制、特 別市制などを内容とする根本的改革に賛成の立場をとり、 官吏出身委員は府県の規模などは別にして概ね府県存置論 214

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の立場に立っていたようだ。そして、府県存廃論が焦点化したことにより、府県の憲法上の地位間題−府県廃       ︵8︶ 止は憲法違反か否かーから地方自治の本旨にそう改革とは何かなどが議論された。  しかし、政府が義務教育費の全額国庫負担制度を立案中であったため、それが最初の審議課題になるとともに、 自治体警察制度の改正間題に続き地方税財政制度の合理化間題も提起されたので、第四回総会後は行政部会と財 政部会に分かれて審議することになった。そして、行政部会は、自治庁が提示した先の基本事項の日自治体の種 類、機能、規模、性格から審議することにしたので、自治庁はこれまでの意見などを踏まえた論点整理を行い、 それを提示した。それが図表−三である。ここでは二点について注目したい。第一は、既に前節でふれたところで あるが、広域行政の観点からすると、それは市町村の規模の適正化をもってしても処理困難・不適当と考えられ る﹁広域的な行政﹂と現行の府県の区域を超える﹁広域行政﹂︵例えば総合開発事業︶の二つのレベルに分けられ、 それぞれに対する可能な対応策を地方六団体などの論議をより論理的に整序して提示していることである。第二 は、仮に府県とよぶ中問的地方公共団体の性格・機能についても、やはり地方六団体間の論議を踏まえ、完全自 治体になるよう強化するか、それとも国と自治体的機能を併せもつ中間団体とするか、あるいは市町村会が主張 するような﹁市町村の広汎な総合的組合﹂とするか、それとも市長会が主張するような特別地方公共団体とする か、に整序されていることである。  こうした論点提示にもかかわらず、両部会は、自治庁の要請により警察・教育の事務配分や行財政の簡素合理 化、地方財政の確立という当面の解決を要する間題の審議を先行させ、根本的検討と答申案の作成を学識経験者

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) 図表一3 第一次地制調・行政部会に対する自治庁提示の論点事項 1.自治体の種類 中心論点は、市町村と中央政府の間に中間的団体を設ける必要の有無。 1) 市町村(特に町村)の規模の適正化をもって自己完結的な行政をなし  うるか、それとも次のような行政は困難・不適当といえるか。   ①広域的な行政、②特殊な施設の設置管理、③市町村行政の総括調整 2)前項における一般市町村で処理困難な行政について代替的に考えられ  る次の処理機構のうちどれが最も合理的か。   ①中央政府の直接的処理または出先機関(総合的または個別的)の設  置、②市町村の組合(総合的または個別的)、③自治的行政機構(都道府  県、道州、郡など) 3) もし自治的行政機構とするなら、どんな組織を考え、その性格、規模、  権能をどうするか。   個々の行政ごとに区域、内容を異にする別個の組織を考えるか、ある  いは一定の地域を基礎にした総合的組織を考えるか。後者の場合、都道  府県、道州、郡のいずれにするか、一重組織あるいは二重組織とするか。 4〉現在の都道府県の区域によって処理するを適当とする行政が少なくな  いが、また都道府県を超える広域行政(例えば総合開発事業)もあり、  これをどう処理するか。   都道府県を超える行政は中央政府の責任で出先機関により処理する  か。この場合、単独の出先機関を設けるか、総合的な出先機関すなわち  道州庁を設けるか。その際、既存の各種の出先機関の統合を考えるか。   あるいは府県の統合などその区域の拡大を図るか、それとも府県組合  その他府県の協同組織で処理するか。 5)各市町村または都道府県は、その規模、能力は必ずしも一様ではない  が、これを更に都と道と一般府県、特別市、大都市など種類を分けて別  種の自治体とすべきか、あるいは個々の事務に応じて調整を図って可な  るか。 2.自治体の性格、機能 1) 市町村と中央政府との間の中間的団体(仮に府県と呼ぶ)は、前述の  ように市町村の処理に適しない公共事務を処理するとともに、市町村の  行政を補完し調整すべき国家的事務を処理するものであり、いわゆる公  共事務も市町村のそれよりはるかに国家的関心と責任の濃度を濃くする   ものであるが、これを自治体として市町村と全く同一に考えるべきか、  中央政府と市町村との中間的な性格を有するものとするべきではない  か。 216

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2〉府県は市町村と併立する団体ではなく、従ってその機能は対立的競争  的ではなく、むしろ複合的、協同的性格を有するものと考えるべきでは  ないか。例えば市町村の広汎な総合的組合を考えるとすれば、府県はま  さにかかる機能、性格を持つものではないか。 3)府県は市町村とは区域を異にするため、自らその機能の内容を異にす  るが、市町村と同様に一般的、総括的な権能を認むべきか、それとも、  その権能は特殊的、限定的とするべきか。もし後者とするならば、具体  的にいかにこれを規定するか、現在府県の行使する個々の法令に基づか  ない一般的権限を廃止して可なるか。 3.自治体の規模 1) 市町村の適正規模を定める標準の基礎をどこに置くか。市町村の自治  経営能力か、住民の協同意識か、または住民による行政利用の距離ない   し住民に対する行政浸透の区域を基礎とするか。   自治経営能力はその重要な基礎であろうが、いかなる程度の行政処理  能力(例えば中学校、保健所、警察署、職業安定所の設置など)を基準   とするか。 2)府県の区域を超える広域行政で必要性の強いものは既にブロック単位  の出先機関により処理されているが、現在の府県の区域において処理す   るのが適当な行政も多く、その場合、府県の区域の基準をどこに置くか。   現に府県の区域に広狭があり、能力にも強弱があるが、現行の大府県  を前提にして調整すべきか、ブロック単位などの大区域を探るべきか。  仮に後者にするならば、市町村との間に何らかの中間機構が必要となら  ないか。また、中央政府との権限の調整をいかにするか、各種の出先機  関をいかにするか、単なる自治体として取扱うことは可能か。 3)広域化した行政の処理は、府県の区域の間題として考えるべきもので  あるとともに、団体の協同処理の間題、中央政府の権限としても考える  べきであるが、その目途をどこに置くか。協同処理も単に自治体間だけ  ではなく、1−4)で述べたように中央政府との間においても新たな考案   を必要としないか。 注)横田・園田、(一)、1978年、27∼29頁。若干、文言を変えたところもある。

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) からなる小委員会へ委ねた。そして、一九五三年九月には小委員会による行政部会案が総会に説明報告され、十 月に第一次地制調の﹁地方制度の改革に関する答申﹂がなされた。その上、最終総会で特別委員会が根本的改革 に関する調査事項として道府県制度・道州制、国の地方出先機関、首都制及び大都市制度、地方公共団体の機構 を設定したことに加え、地方財政制度も付加することを決定し、第一次地制調は幕を閉じた。この間、民間研究 所などからの改革案の提案や地制調に対する期待や批判も多々みられることになった。  例えば、改革案としては、まず第一に、小委員会委員ともなった蝋山政道教授の﹁地方都﹂構想である。﹁地方 都﹂とは、人口五十万以上の大都市を府県の区域外に独立する特別市としつつ、それと残余の市町村をもって構 成する連合的自治体である。これは、地方制度改革の根底には区域問題−産業化・都市化に伴う区域再編の必 然性1があるという観点から、抜き差しならない対立を形成してきた特別市制の実現間題を打開し、将来的に        ︵9︶ 府県区域の再編から道州制への移行を展望しようとするものである。第二は、著名な七人の行政法学者による﹁地 方制度改革意見﹂である。これは、戦後の地方制度改革は、分権化と民主化を急ぐあまり、制度と運営の齪齪を 惹起したり、能率化と経済化への配慮に欠けた点があるとしつつも、基本的には現状維持、運営改善を志向する。 すなわち、国と市町村との間に中間団体としての府県自治体の必要性を認め  ただし規模の適正化は必要とす る1知事の公選制は維持する。そして、特別市制問題は事務と財源の再配分により解決すべしとする一方、住 民の共同意識を基礎にする自治体としての道州制が存立しうる可能性はないので、結局、国の行政区画としての        ︵−o︶ 道州制となって市町村自治を中央集権的官僚支配下に置くことになるであろうから反対だとする。 218

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 さらに第三は、東京市政調査会地方制度研究会の﹁地方制度改革意見﹂である。この試案では、特別市制度を 容認するとともに、総合開発中心の広域行政のため自治的道州制を近々実現するべく国の地方行政機関を統合し た総合開発庁を設けるとしていたが、成案ではそうした点が後退する。すなわち、現状の府県制を維持し、大都 市制度については事務配分で対処する一方、府県の区域を超える広域行政については府県合併や道州制ではなく、 当面、個別行政ごとの機能的・地域的な協力方式をとるべきとする。そして、現代行政の集権化傾向を分権化と       ︵11︶ 調和せしめるため、中央政府に地方自治審議会を設置すべきであるとする。第四は、大阪市政研究所の﹁地方制        ︵12︶ 度改革意見﹂である。これは、大阪市立大学の吉富重夫教授の改革案をべースにしたものといえる。すなわち、 現行の府県制は存続せしめるが運用面で実質的に市町村連合体たらしめ、大都市制度には事務配分で対処し、総 合開発行政については道州制ではなく特定開発区域とそのための国の行政機関を設けるが、それは分権と自治の        ︵13︶ 要請を満たすものでなければならないとする。  しかし、地制調の答申は、諮間への期待に反するものであった。というのも、政府が当初企図していた﹁地方 制度の根本的改革﹂を先送りし、現状維持を図るものであったからである。すなわち、現行の市町村と府県の二 層制を維持し、市町村は完全自治体としての基礎的自治体であるが、府県は広域的自治体であると同時に、大量 の機関委任事務を処理する実態から国家的性格を併せもつとみなす。また、大都市行政については、特別市制の 実施にあたっては残存地域の扱いという難間があるので、事務と財源の配分で対処する。このように、府県合併 や府県制の廃止、道州制の実施などは先送りされたが、先に示した自治庁の論点整理には明示化されなかった地

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) 方行政の総括官庁案が提起された。行政部会案によれば、﹁中央各省と地方公共団体間及び地方公共団体相互間の 事務運営の総合調整を行うため、強力な中央行政官庁を設けることは喫緊の要務である﹂とし、それは旧内務省 とは異なると釘を差しつつ、﹁地方行政の実体をなす厚生省、労働省ないし建設省等の所掌事務を併せ、名実共に        ︵14︶ 地方行政を総括する機構たるべきものである﹂とする。もっとも、旧内務省出身の委員を除き、ほとんどの委員 が地方行政を総括する強力な中央官庁案に反対したので、答申では﹁強力な中央行政官庁﹂を削除し単なる﹁総          ︵15︶ 括調整機関﹂とされた。  いずれにしろ、現行制度の維持、現状追認を基調とする答申案に終った要因としては、実施可能な改革を志向 したこと、調査研究の時間的不足、約五〇名の委員の多種多様性、特に地方六団体などの圧力などが指摘されて  ︵16︶ いる。そして、研究者には批判的評価が目につく。例えば、﹁理念なき改革案﹂︵吉富重夫︶、理論的な首尾一貫性 の欠如︵藤田武夫、俵静夫︶、そのことは府県の性格の不明瞭性︵杉村章三郎︶を、いやそれ以上に府県の国家的性 格︵国の出先機関化︶の強意をもたらし︵俵︶、逆コースないしは官僚的中央集権化への傾向をもたらしていると       ︵1 7︶ みなす︵杉村、藤田、吉富︶。そうした評価は、さらに府県の実態が旧態依然であることを批判してきた市町村関係          ︵18︶ 者により強くみられた。  さて、第二次地制調は、一九五四年七月に開催された。冒頭、自治庁長官は、第一次地制調の最終総会におけ る根本的改革に係わる五つの調査項目を確認しつつ、道府県制度の在り方を中心にする審議を要請した。これを 受け、道府県制度から調査審議が行われることになった。そのため、自治庁は、府県制度に関する大学研究者の 220

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論文集成や中央新聞の論調を審議資料として提出・説明したり、国の行政の観点による各省庁の府県制度に関す る意見を紹介した。特に注目されるのは各省庁の意見だが、第一に、ほとんどが府県の区域は国の行政区域とし ては狭いとしている。第二に、戦後の府県制改革については、民主化の点では是認しうる面もあるが、他の観点 ︵国政の観点︶からすると悪影響がみられるとして、国の施策が十分に浸透しないことや財政赤字をもたらしてい ることを強調する。こうした消極的評価は、府県制改革の要点であった知事公選については長所よりも短所を多 数く挙げている点に如実に示されている。第三に、合併により町村の規模を拡大したとしても、一般に市町村と 国の間に中間団体が必要であることは是認しているが、間題が微妙だけにそれが道州制なのか、もしそうだとし       ︵19︶ ても自治体なのか国の行政機関なのかは明確にされていない。       ︵20︶  以上を踏まえた審議過程には、次のような特色が見られた。第一に、現行府県制維持の全国知事会は、調査項 目に中央と地方の行政事務の適正な配分間題を追加することを求め、了承された。それは、抜本的改革が府県制 の廃止、道州制の導入へ至ることに予防線を張り、改革を事務配分の適正化←府県規模の適正化に留めようとす るものであった。第二は、全国町村会の立場の変容、すなわち道州制への賛成である。その理由は、町村合併促 進法の成立による合併の進捗が市町村の自治能力を高め、府県の補完機能を縮減するということにあった。第三 は、会議規則にもない特別委員会や小委員会が設置され、しかも委員・傍聴人を厳しく資格限定した︿密室﹀で 審議が進められたことである。特別委員会は、総選挙と統一地方選挙により地制調委員に空臼が生じたため、新 委員任命までの間、学識経験者の委員により府県制・道州制間題を調査研究するとして設けられたものであり、

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) 小委員会は特別委員会の調査研究結果をさらに詳細に検討するためというものであった。第四に、これら委員会 の︿密室﹀審議は内部的にはきわめて熾烈な対立となり、採決まで行われたものであったことだ。それは、こう である。  小委員会は、特別委員会の総括的意見を次の三案に整理した。第一案は、現行の府県制を前提にし、不合理な 点を事務・財源の再配分、区域の若干の修正などで改める。第二案は、二∼三府県の統合により広域行政に適し た区域とするが、府県の性格は現行どおりとし知事の公選制を維持する。第三案は、ブロック単位を区域とする いわゆる道州制︵国の地方行政官庁︶またはこれに準ずる制度︵自治体と国家機関的性格をあわせもつ中間団体︶ に改める。そして、第一案は、今次地制調が根本的改革のための﹁理想案﹂を作成しようとしていることから不 適当とされ、きわめて広域となる道州を完全自治体とすることは不可能という合意のもと、第二案と第三案の調         ︵21︶ 整を図ることにした。しかし、意見は一致せず、むしろ対立を深めた。特に早くから府県制擁護論を展開し、第 二案を支持する東大教授の田中二郎委員と、戦後地方制度改革に否定的で、第三案の道州制1その内実は国の       ︵22︶ 総合出先機関で官選首長案であった!を支持する旧内務官僚の三好重夫委員は、真っ向から対立し激しい論戦 を展開した。こうした状況のために第二案︵府県統合︶か第三案︵道州制︶かで採決が行われ、さらに区域︵現 状・小拡大・大拡大︶と首長選出方法︵直接・間接・任命︶について採決が図られた。しかし、その結果はいわ ば区々バラバラで、結局、成案はえられなかった。  こうして地方制度の根本的改革に関する地制調の結論は、再び先送りされた。そして、一九五五年八月に開催 222

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された第三次地制調では、引き続き府県制、道州制の問題を始め、根本的改革について審議が要請されつつも、 目前の地方財政の窮状打開策の審議に追われた。そのため、根本的改革に関する審議は、一九五六年一〇月以降 の第四次地制調に委ねられ、ここで決着をみることになった。この結果は、先にみた第二次地制調・小委員会の いわば第二案と第三案を採決する形になったのだが、それには次の要因がからんでいたといえる。        ︵23︶  そもそも、府県制改革には様々なバリエーションがあり、その基本タイプは自治庁の論点整理︵図表−三︶など で既に提示されていた。第一に、大都市制度関連では、e現行の府県制を存置した上で大都市への事務・財源配 分を特別措置化する、特別市制を実施しそれと残余市町村をもって﹁地方都﹂を構成するという蝋山構想、現行 の府県を統廃合して広域化し、それに大都市を包括化するか外在化n独立化するか、などがありうる。第二に、 現行の府県制を存置した上での改革には、専ら府県の区域を超える広域行政へ対処するために協同処理方式を開 発したり統廃合を行う、あるいは府県事務の約八割を占める機関委任事務を全廃して府県の完全自治体たる性格 の実質化を図る一方、国の個別出先機関を統合した道州制を設ける、などが考えられる。第三に、現行の府県制 を廃止した上での改革と多様化である。全国市長会案や全国町村会案のように府県を専ら補完機能や連絡調整機 能を担う特別地方公共団体や市町村連合自治体に切り替えるとか、道州制を導入するにしても、その性格として は広域の完全自治体とする、自治体と国家機関の性格を併せもたせる、国の完全な行政官庁︵総合出先機関︶と する、などがありうる。  しかし、第二次地制調の小委員会は、大都市制度に配慮せず、根本的改革の﹁理想案﹂を作成するーしかも

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完)       ︵24︶ その根底には、︿民主化﹀︿分権化﹀よりも︿能率化﹀︿集権化﹀への配慮があったといえる  として多様な改革 案を十分吟味することなく、一挙に第二案と第三案へ収敏してしまったといえる。そして、基本的にこの両案の 考え方が第四次地制調に流れこむことになった。というのも、自治庁のリードのもと、第四次地制調が開催され る以前に大都市制度についてのひとまずの決着が図られたからである。  すなわち、政府・自治庁は、ようやく一九五五年に入り第一次地制調答申の主要部分を実現するため地方自治 法改正に着手し、改正法案の国会提出を行った。それは、特別市制を廃止︵条項削除︶する代りに、政令で指定 する大都市に府県事務を移譲するという特例措置化を図った。それゆえ、五大市と五大府県は激しく対立したの だが、議会権能の縮小や活動の制限を図る改正案でもあったため、各議長会の猛反対により流産してしまった。 そこで翌一九五六年に入ると、政府・自治庁は主として事務配分などに重点を置いた地方自治法改正案を国会に 提出した。そして、政府・自治庁は、﹁いわゆる府県と大都市とのバランス論﹂ー両者の痛み分けを図るともい えるー立場から、与党・自民党の了承も得、府県事務の移譲という特例措置の代わりに特別市制の廃止︵条項       ︵25︶ 削除︶にはきわめて強硬であった。こうして同年六月、地方自治法改正案が成立した。その結果、周知のように 市町村は基礎的自治体と、また都道府県は市町村を包括する広域的自治体と規定され、それは広域・統一・連絡 調整・補完の四機能を担い、それぞれの事務例示がなされるとともに、特別市制条項︵第三篇第一章︶が全面削 除され、政令指定都市制へ切り替えられたのである。  さて、第四次地制調は、開始後、まず当面の地方税財政間題の答申を行った後、特別委員会を設けて府県制間 224

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題を審議することにした。同委員会で自治庁︵鈴木俊一次長︶は、従来の委員などによる意見から府県制度改革 の必要性の理由を八点にまとめて説明した。八点とは、e府県制実施以来六十年問の事情変化、口戦後地方制度 改革に伴う弊害、日国全体にとっての合理的な行政制度の確立、四国・地方の財政合理化、㈲町村合併による市 町村の規模・能力の変化、因地方自治の強化発展、㈹府県の性格・機能上の矛盾の調整、㈹行政事務の再配分の 実施、である。そして、同委員会が各省庁や地方六団体などへのヒアリングを行った後、自治庁︵鈴木次長︶は、 現行府県制度の間題点を四点指摘した。それは、e現行の府県の区域は、広域行政の要求に対して狭小であり、 経済社会の実態に即していないこと、⇔府県の力の不均衡、日市町村の力が大きくなり府県とのバランスがとれ       ︵26︶ なくなっていること、四行政経費の節減要求あるいは行政の近代化要求、である。こうして自治庁は、審議をリー ドし、府県制度の根本的改革を積極的に支持する態度を示した。その背後には、中央行政機構の再編、特に内政 省設置構想があった。  その点の分析は最後にするとして、第八回特別委員会後、府県制度の改革間題は小委員会で審議検討すること にした。そして、小委員会は、第二次地制調の小委員会案と同様に改革案を三つに整理するとともに、それをさ らに二∼三府県統合案といわゆる道州制の両案に集約した。府県統合案は現行府県の完全自治体としての性格と 知事の公選制は維持し、区域を再編しようとするものであるのに対し、いわゆる道州制案は現行の府県を廃止し、 新たに自治体と国家機関の性格を併せもつ中間団体としての﹁地方﹂をブロック単位で設置し、その長は﹁地方﹂ 議会の同意をえて内閣総理大臣が任命するというものであった。このように異質な案であったため、結局、両案

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戦後日本の地方自治制度の形成と広域行政(二・完) につき起草委員会を設けて起草することにした。府県統合案は東大教授の田中二郎委員が、﹁地方﹂制案について は旧内務官僚の三好重夫委員が起草した。そして、一九五七年一〇月の最終答申は、周知のように投票による採    ︵2 7︶ 決となり、しかも一票差で﹁地方﹂制案となり、府県統合案を少数意見として添付したのである。  この両案に対する各アクターの対応は、大概こうであった。まず、地方六団体︵代表委員︶であるが、既述し たように全国町村会は町村大合併の進捗を理由に、いわゆる道州制に対して従来の当面留保から支持に転じてい た。だから、全国市長会と市議会議長会、全国町村会は﹁地方﹂制を支持し、全国知事会と府県議会議長会、全       ︵28︶ 国町村議会議長会は府県統合案を支持した。政党・議員は、社会党が事務・財源の再配分による改革という立場 から両案へ反対したのに対し、自民党は当初、いわゆる道州制志向であったが、﹁地方﹂制案のように府県制を廃       ︵29︶ 止することは困難ということから慎重な態度に変り、結局、同党委員は採決時に退席した。  学識経験者は、真っ二つに分かれることになったといってよい。すなわち、学界は全般に官治型の道州制には          ︵30︶ 批判的であったのだが、学者委員は府県統合案を支持したのに対して、旧内務官僚や官僚OB委員、それに政府 委員は﹁地方﹂制案を支持した。もっとも、政府委員の一人である鈴木俊一・自治庁事務次官は、採決時に退席        ︵3 1︶ した。それは儀礼以上に、有力な旧内務官僚にもいわゆる道州制に批判的な者もおり、自治庁内も必ずしも一枚 岩でなかったことによったのかもしれない。しかし、それはともかく、マス・メディアには、結果的に答申︵特        ︵3 2︶ に﹁地方﹂制案︶が内務省復活に向けた旧内務官僚と自治庁の策謀として受けとられたりした。そうした報道が 示すように、マス・メディア︵特に新聞︶は、当初、府県制改革には必ずしも反対の態度をとっていたわけでは 226

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東洋法学

なかったのだが、両案が提示され、投票採決による﹁地方﹂制案の答申がなされると一斉に批判・反対の態度を   ︵33︶ とった。  新聞の批判・反対の理由は、大きく二つあった。第一は、﹁地方﹂制案の府県制廃止には憲法違反の疑義があり、 特に首長の官選化とその権限は旧内務省による官僚的中央集権体制への復活に至るのではないかという危倶で あった。第二は、府県制改革の実質審議は一九五七年三月に始まり一〇月に答申と、答申を急ぎすぎて根本的改 革にしては十分な審議をつくしておらず、しかも強行採決という手段をとったことにあった。ただ、この性急さ には、二つの時間的制約要因があったといえる。一つは、府県制を根本的に改革するならば、一九五九年の統一       ︵34︶ 地方選挙年が迫っているので、今次地制調でその決着を図っておかなければ難しいと考えられていたことである。 そして、もう一つは、今次の地制調委員が一〇月で任期切れになることであった。  それでは、以上のようなアクターの交錯をみた両案をどのように捉えたらよいのであろうか。府県統合案の起 草者である田中二郎委員は、﹁地方﹂制案を批判してこういう。戦後の地方制度改革、とりわけ府県の完全自治体 化は、地方自治の憲法的保障のもと民主的統治構造の一環をなすという﹁政治的意義﹂を有するものである。だ から、府県制改革は、地方自治の本旨を十分発揮しうるような﹁行政技術的な改革﹂でなければならない。とこ ろが、﹁地方﹂制案は、戦後改革の﹁政治的意義﹂を看過・否定し、専ら行政の統一とか能率化・経済化という行 政技術的見地から根本的改革を図るという政治的改革を行おうとしているところに間題があるとする。これに対 して、﹁地方﹂制案を起草した三好重夫委員は、そうした批判を受認するかのように、行政の能率化とわが国の国

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