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井上円了の「教育」理念序説 利用統計を見る

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井上円了の「教育」理念序説

著者

飯島 宗享

雑誌名

井上円了研究

2

ページ

3-17

発行年

1984-03-14

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006753/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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井上円了の﹁教育﹂理念序説

1明治啓蒙における位相から浮かび上がる像についてー

飯 島 宗 享

目 次 一、方法的考慮 二、明治政府の教育方針との関係  日﹁人心教導意見案﹂︵以下次号︶

一、方法的考慮

 井上円了の﹁教育﹂理念を考察・究明するにあたり、ここでは明治期における啓蒙活動のなかに円了を位置づけ て、啓蒙家としての円了が他の啓蒙家たちと異なるいかなる特性を有していたかを吟味する視点から考究が為される ものであることを、まず明示しておきたい。主観的にまったく白紙の状態で考究に臨むことがありえない以上、円了 に関してこれまでに私の持ち合わせている知識・印象に促がされて生ずる予見と、そこにもすでに働いているはずの 志向的な私の関心とを、はっきりと対象化して自覚的に目安にすることの方が、却ってその予見が妥当であるか否か をふくめて考究に批判性をもたせると考えられるからである。円了を啓蒙家とすることも、したがってその関連で円 了の﹁教育﹂理念を考察することも、この意味での予見にもとつくことなのである。そして予見そのものは暫定的な 3

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見当にすぎないが、その予見が主題に関する考究を進める場合の手続きについて幾つかの考慮にみちびく。しかも、 円了の﹁教育﹂理念が主題であるとき、ここでの予見が当の理念との関連でその手続きを格別に重要ならしめ、かつ 特殊的ならしめるように思われる。それゆえ、この場合に考慮にみちびかれる事項を、主要な三点に限って概観して おくことにする。 4 仁}  考慮すべき事項の第一は、時期的推移に関するものである。主題に関していえば、教育というものを円了がどんな ふうに考えていたかという点で、時期的に推移するものと、全時期を通じて一貫するものとを、どのように分析する ことが可能か、という視点がこれである。また、時期的推移に関しては、一方では時勢との関連で、他方では円了自 身の個人的経験の線上で考察することが必要である。その内容について述べるなら、次のように言えるであろう。す なわち、時勢の推移に関しては、維新後の明治期にあっても明六社に集中的表現を見いだす啓蒙思想の勃興期から、 やがて啓蒙思想とその運動とが国権的な啓蒙のあり方と内容、民権的な啓蒙のあり方とその内容に分かれていくとい う、きわめて激烈な対立と変化を惹き起こす時期に際会する。そしてその中から、国権的な天皇制明治体制が固めら れていくなかで、明治政府の教育方針が明確な方向を定めて体制的にも整えられていく。政府の教育方針は明治十年 代後半に策定されて、二十年代、三十年代と、教育勅語を産み出しながら、日清・日露の戦争期を通じて定着してい くと見られる。その後には日韓併合と大陸進出の情勢と、その背面でのいわゆる﹁社会主義の冬の時代﹂を境に、や がて円了の晩年の時期にあたる大正デモクラシーの時期を迎える。右に略記したような節目をもちつつ推移するそれ ぞれの時期に、時勢との関連のなかで円了の考え方が、とりわけ﹁教育﹂についての考え方がどうであったか、若干

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の変化が見られるかもしれないし、一貫性も認められるかもしれないので、変化するものと一貫するものとを析出し て見定めることが必要と思われるのである。  また他方で、円了の個人史では、浄土真宗の仏門に生まれ、儒学に洋学を加えた教養を少年時代に経験した上で、 東京大学を卒業する明治十八年までの、被教育者としての円了が身につけた教養と学問的知識の内容、そしてそれら の受容のなかで形成された円了の思想が、それぞれにまず確認されねばなるまいし、これに明治二十年代、三十年代 および大正期とつづく円了の社会的活動の経験に徴しての考え方の推移が検討されなければならぬと思われる。これ は、時勢の推移とも重なり合う関係にあることは言うまでもない。従って、さしあたりこの点での推移を考える指標 としては、円了の﹁教育﹂理念を主題とする限り、四期に分けて整理することが許されるであろう。すなわち、みず から求めて学び考えたにもせよ、被教育者の立場で得たものの成果として、一八八五年、大学卒業当時を第一期とし て、まずこの時期に円了が教育についてどのように理解していたかである。円了のばあい教育をいかに理解するかと いうことは、哲学をどう理解するかということと同じ理解にあり、この時期の﹁哲学﹂理解と﹁教育﹂理解について は、卒業直後の諸著と、大学在学中から始まった学会創設・雑誌発行の事績に加えて﹁哲学館﹂創立の事業、そのと きの創立趣意書などで窺うことができる。︵着目すべきことは、この時期からすでに、円了の思想を考察するには論 著に見える文字だけでなく事績に表はされているものを合わせ考える必要のあることが示されていることである。こ と﹁教育﹂という段になると、円了の場合ことにそうであり、これについては後でまたその所を得たいと思う。︶こ うした事情を勘案すると、哲学館創立までを第一期に入れるか、あるいは少くともそれを第一期の延長上に位置づけ ることが妥当であろう。従って第二期は、欧米旅行から帰国した円了が、その経験を思想に反映して、日本主義を標 榜し﹁哲学館﹂をその趣意のものに﹁改良﹂していく時期としてよいであろう。この期には後に触れるはずのナショ 5

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ナリズムをめぐる円了の思想と、思想界での円了の位置が、格別の吟味を要求するものと思われる。第三期として は、哲学館事件と称されるものの起った明治三五年から大学長など学校のすべての責任職から隠退する三九年までを 画して、若干の前後をふくむこの時期に見られる多くの出来事、たとえば修身協会設立、哲学堂建設、大学令による 哲学館大学に脱皮︵さらに東洋大学と改称︶、幼稚園設立などを通じて、この時期の円了の心にあるものが何かを探るこ とが、教育についての円了の考えを辿るさいに不可欠であり、またこの時期を特別のものたらしめる。この時期はま た日露戦争とその勝利がもたらした状勢との関連でも、大陸および海外への日本人の進出をからめた視野で考えてみ る必要があろう。その後の晩年を第四期としたいが、この期に特徴的なのは、哲学堂の堂守的な経営・建設とそこで の講演・講習会など私塾的な運営がその一つである。次には精力的な地方巡講︵および海外旅行︶、そしてそれらと関 連する修身協会︵後には国民道徳普及会と改称︶と雑註56発行である。この期では社会主義思想と大正デモクラシーとに対 する円了の対応も念頭において考察されねばなるまい。  以上が、考慮すべき事項の第一である。 6  第二に考慮すべき事項は、円了の思想家としての特質と、それを反映する﹁教育﹂理念を、明治期の他の多くの思 想家たちとの対比関係において定位しようとする場合に、どういう座標軸が可能か、また必要かという問題である。 そうした座標軸として三つのものを考え、それらを重ね合わせながら考えて定位することが有益と思われる。︵その 一︶は、啓蒙主義とナショナリズムという座標軸である。これは近代日本、ことに明治期の思想を解明するにあたっ て一般的に行われていることであり、多くの人々がそれぞれの論著のなかでこれを主な座標軸として論をなし、その

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なかで円了を位置づけた議論もいろいろに存在する。そこには、概説的に円了について妥当すると思われるものが存 在するけれども、それだけで済むものではないように思われることが、﹁教育﹂に関する円了の特質を考察しようとす る場合には、特に意識される。すなわち、啓蒙活動に関しては、円了が啓蒙において目ざしたもの、その相手として 立ち向かった入々、その実行手段とそこでの事績、それらを通じて彼をそこに駆り立てた彼の人生の推進力にまで目 を届かせるのでなければ、彼の特質の肝腎なものが欠落するように思われるのである。またナショナリズムに関して は、円了の日本主義の立場を、﹁日本人の日本人たる主元素﹂を仏教としたものと規定し、そのいわゆる﹁日本仏教﹂ の活性化をはかることが円了の目標であったと説くだけでは十分ではあるまい。その仏教は、主元素中の主元素であ りつつ他の主元素たる儒教、神道と﹁相待ち相和し﹂て複合体を形成するものと、円了によって理解されており、総 じて﹁国粋﹂とされている日本固有の言語・歴史・宗教・風俗・習慣など愛護改良されるべき善美なる日本的なるも のの中核に仏教が存すると考えるのが円了の場合であるからには、彼の掲げる﹁日本仏教﹂については、単に仏教理 論としての解釈にとどまらず、日本の伝統的文化の総体との融合関係を包摂する解釈が求められるであろうし、その 点で円了自身が十分に論及してはいないところまで含めた理解が試みられて然るべきであろう。そして、これらのこ とが座標軸︵その一︶を︵その二︶へその三︶と重ね合わせる必要ともなるのである。  座標軸︵その二︶は、一応、﹁官﹂と﹁民﹂の対比で見立てられる。周知のごとく、円了の場合は﹁官﹂からの誘いが いろいろとあったにもかかわらず、官途に就くことを拒んで、生涯﹁民﹂の立場で、いわば民間人としての活動に終 始した。もちろん、﹁官﹂にも友人知己の関わりは非常に深くあったが、円了自身はあくまでも在野の思想家、在野 の教育家にとどまった。また、東京大学予備門以来、円了の大学での修学は東本願寺の留学生としてなされたという 経緯から、卒業後は東本願寺に直属しての活躍を期待されたにもかかわらず、宗門の権威と組織に依拠してそれに制 7

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約されることを避け、自由な一人の思想家として独往の道を選んだものであった。こうした立場を選びとらせたとこ ろに円了自身の考え方を見なければならないだろうし、そこには同時に円了の思想内容が重大な関係を持っているは ずである。この場合の﹁官﹂と﹁民﹂というのは、啓蒙家をふくめて一般に明治期の指導者・思想家を分かつときの 指標とされる﹁国権派﹂と﹁民権派﹂という対置における﹁官﹂と﹁民﹂の関係とは異なる形で考えなければならな いし、円了の﹁民﹂の立場とその在野性は明らかに民権派の﹁民﹂とは異質である。国家権力をめぐって現に官11朝 の立場にあるか、現に民ー野の立場にあるかという図式における﹁官﹂と﹁民﹂、あるいは権力闘争と権力保持とい う共通土俵における当面の優者の位置と劣者の位置、従って時の力関係で官が民に、民が官に交替することが可能で ありかつ目指される場での相対的な立場としての﹁官﹂と﹁民﹂、これは、いま円了に関していわれる﹁民﹂とは無 縁である。また、そうした権力闘争の政治領域に導かざるをえない性格をもつイデオロギーとして主権の在所を問う 論議、その意味での国権i民権における﹁民﹂、これも円了に関しては当らない。円了は政治に関与することを努め て避け、権力と摩擦を起こすことについては国権に関しても民権に関しても臆病と見えるほどに逃げ腰であったこと を窺わせるものがある。しかし、政治や権力に対して積極的に関与しない態度が、結果的に、時の権力者であり﹁官﹂ である明治政府に対する消極的擁護になったかといえば、そうではない。むしろ逆に、明治政府の体制づくりのなか で、幾つかの枢要な柱に関しては、たとえば天皇制、家族主義、儒教倫理、富国強兵策などに関しては、円了はきわ めて積極的に、その﹁民﹂における活動に取りこんで精力的な協力を見せており、そのために円了が国権派、ないし は国家主義の思想家とされることもあるほどである。しかし、諸学の基礎としての哲学を標榜して私学を起こし、 民間の俗信・迷信退治に励むことなどに表明される円了の活動の本領としての在野性を﹁民﹂として、これを座標軸 ︵その一︶と重ねて考えるとき、円了自身の思想内容とそれにかけての啓蒙的教育活動に沿うものが政府によって提示 8

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される限りそれを幸便として利用したものと解することができるし、さらに座標軸︵その三︶を導入すれば、思想家と しての円了の全容とそれに対する評価との前では、円了を国権派とか国家主義の思想家とか銘うつことは局面的な規 定たるを免れないであろう。  座標軸︵その三︶は、右に触れたような在野性にかかわるところでの円了の哲学理解と教育理解とを、それを担う円 了の実存と結び合わせて考えるためのそれである。啓蒙は人権や法・社会・経済・自然・歴史等の諸領域における科 学的・技術的知識の導入としてそれぞれに為されうるし、それによって知的蒙昧さのゆえにそれまで見えなかったも のが見えるようになり、知が力となってみずからの力の開発・展開の可能性に目ざめ、開かれた未来に希望をもちう るように人々を導くからこそ﹁啓蒙﹂といわれもする。明治啓蒙にあっては、欧米の文物に関する知識の受容という 形でそれが為されたし、欧米近代がそれによっていわゆる先進性の実を発揮して強大にして富裕な国家を形成しえた ゆえんのものを摂取するという意味では西洋流近代への参入としての近代化であった。明治ナショナリズムも明治民 主主義としての民権運動も、日本国の独立性の擁護という前提と、そこから生ずる課題に関する限り、この意味の近代 化の推進者であることに変りはなく、口本ー東洋に固有のものの尊重を唱える場合にも﹁改良﹂の工夫がこの近代化 に包括されることを許した。大枠としてこうした近代化に通ずる啓蒙の中に位置をもちながら、啓蒙家としての円了 の特性は、各個領域や個別科学やその応用技術に関する知識にかかわるのでなく、それらすべての根抵をなすと見ら れた﹁哲学﹂に関する啓蒙家として立ち現われたことに、まず認められる。それは権力にも金力にも直接的な関わり のない場所であり、生活上の実利とも結び合わない。﹁哲学﹂にかかわる円了の啓蒙は、それゆえ、さしずめ知的入 格形成に向けられたものと解される。そして、この西洋的な﹁哲学﹂的知性を介して、やがて人格の完成形としての 道徳的・宗教的人格の形成にあずかるべき活性化した仏教が念慮されることが、そしてそれが円了の素志であること 9

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が、彼の活動開始期の﹃仏教活論﹄で示されてもいる。円了にとって、要は近代的宗教人に万人を化育することであ り、それにふさわしい仏教の近代化であり、西洋の哲学はその近代化に不可欠のものと捉えられていたのだという認 定が、ここで予想される。それにしても、円了の啓蒙の特性が哲学から宗教につながる線上での活動にあるとすると き、そもそも哲学や宗教にとって啓蒙とは何か、それらについて覚醒・開眼的経験をもたらすところで意味をもつ啓 蒙の方法と限界とは如何、むしろその限界の彼方にこそ哲学の、わけても宗教の本領はあるのではないか、その点で は近代化に関してのみ役立つ啓蒙の営為は哲学にも宗教にも本質的意味をもたないのではないか、等々の疑問が生じ るが、今はそれは問わない。問題はこのような人格形成的志向をもつ円了の特殊な啓蒙活動が、何によってこころざ され︵むしろ﹁発心﹂されとか﹁発願﹂されとか言われるべきか︶、生涯持続され、また人々によって支持されたか、という 円了その人の人柄、いうなれば円了自身の実存の秘密である。知的エリートとしての評価こそあれ、組織の力に乗る わけでも、私財に恵まれているわけでもなく、いわば徒手空拳の一私人たる円了が、学校を創設・維持し、著作物を 刊行し、全国津々浦々におよぶ講演旅行を繰り返すなどの活動を実現しえたについては、円了その人の志操と共に、 それに応じて資金その他の支援を惜しまなかった広汎な人々の円了に対する評価を無視するわけにはいかない。これ は円了自身が自覚的に学問的な叙述や一般的な講話や記述の中で、哲学や教育について説明をほどこしているものを 越えて、その行実にあらわれる円了の人間的実存にかかわるものであろう。従って円了の思想家としての質的意味を 捉えるのには、彼自身の文言の分析をこうした彼の実存との関連というところまで掘り起こして省察することが必要 であろうし、その理解をしなければ哲学や宗教や教育にかかわる円了の一番肝腎な部分を欠落させることになるよう に思われる。円了の人間的実存を考え合わせるとき、示唆的なものは、彼の掲げる﹁四聖﹂である。儒教において孔 子、仏教において釈迦で代表される東方的財と、西洋哲学における始祖ソクラテスと近代的最高峯と目されたカント 10

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とが挙げられる西方的財と、この両者の統一のなかで核心として統一の契機をなすと見られる仏教的宗教心、これが 彼の所論の深層で果たしている意義まで目を届かせるとき、初めて円了に関する納得のゆく理解に道が開けるように 思われる。そこに浮かびあがる像は、仏徒円了である。 (四)  考慮すべき第三の事項は、予見として立てられ、それにもとついて方法として考慮されたところから浮上する啓蒙 家としての円了の像についての、実証的な検証・点検の作業である。この作業は、円了の著述と事績・行実の両面か らなされるべきで、その結果次第で右の暫定像はあるいは補充され、あるいは修正され、あるいは別の像でとって代 わられねばならなくなるかもしれない。︵目下の予測では、円了の主観とはいささか異なり、いっそう根源的な場で 円了の真面目を評価することになろうし、啓蒙家である円了像を包括するもう一つの円了像、それはもはや啓蒙家と はいうべくもない円了像を描くことになるように思われる。︶  付記  右の方法的考慮のすべてをつくすことは一定年月内に、また一個人の研究でなしうることではない。それ  ゆえ、それについてはすでに公表されている諸家の論述と、本研究部会に属する同僚諸氏のそれぞれの報告を相当  する部位にあてて受容した上で、総括的把握に関しては部会の共同討議があたえてくれるものに期待したい。 二、明治政府の教育方針との関係 11 円了が哲学を基軸に教育活動を事業として展開していく当時、政府がいかなる教育方針を立てて、それを実施して

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いく情勢にあったか、そして円了はそれにどう対応していく関係にあったかを見ておくことにする。  総じて明治政府が安定的に、軌を一にして体制化を進めるのは、明治十年の西南戦争の後である。もともと維新後 の新政府は、幕末期に幕府主導で欧米に派遣された留学生を初めとして、蛮書調所に集まっていた洋学者たち、さら には行政のテクノクラートとしての旧幕臣、これらの人々を登用して、その開明性と新知識に期待しつつ、官僚群を 構成せざるをえなかった。欧米文化の摂取は、伝統の上に先進性を国威に反映していた英仏に範を取る形で進められ、 それが明治初期の政府の諸措置にも見られた。やがて範型が英仏からドイツ︵プロイセン・ドイツ︶に切り替えられ る時期を迎え、その時期が明治十年代の体制がための進む時期と重なる。それゆえ、明治体制としてその後の日本に 定着していく諸制度とそれを裏づける考え方の基調には、ドイツ流のものが色濃く影を投じている.。教育に関して も、事情は全般的情勢に通じており、十年代のなかばに教育方針の原案が策定され、二十年代になって着々とその原 案の線で制度と内実が実現していくことになる。明治国家の文教体制の確立にあたっては、自由民権運動への対策的 考慮が主な動機をなし、また推進力となって進められる経緯があるが、そこで主導的な役割を演ずるのが井上毅とい う人物で、彼は当時の政権の中枢部である参事院の議官であった。彼はまた元田永孚と共に教育勅語の原案を作った りもするし、明治憲法についても一役買っており、後に文部大臣にも就任した人物である。その井上毅が明治十四年 (一 ェ八一年︶に﹁人心教導意見案﹂と称するものを作るが、この案の通りにその後の政策が進められて、文教体制が 実現していく。︵﹁人心教導意見案﹂は国学院図書館刊﹃井上毅伝i史料篇一﹄でその全文が見られる。︶ 日 ﹁人心教導意見案﹂︵以下において﹁教導案﹂と略記する︶ この案は、前記のごとく主として自由民権運動への対策として考慮され、その実現過程は民権運動の衰頽過程に相 12

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応するが、後の思想善導・思想統制と世論操作に通ずる要素を有しており、この案で人心の教導の方策として挙げら れているのは次の四点である。第一が﹁新聞の誘導﹂という表現で言われているもので、世論に影響力をもつ新聞を どのようにして政府の望む方向に誘導するかを課題としている。これは直接・間接のマス・コミのコントロールで あり、情報・思想・言論の管理・統制・操作を意味する。第二には、士族の組織化が挙げられている。俸禄を離れて 糊口の道を新たに求めねばならぬ境遇にありながら誇り高き人たちである士族の群れは、明治政府にとって大問題で あった。下手をすると反乱に走りかねない不平不満をいだく彼らの心情をどう教導し、体制内にどう組織的に安定さ せるかについての処方が、この項の課題である。第三は中等教育の振興である。明治初期の学制で設けられた小学校 が初等教育を担当した後を受けて、中等教育の振興をはかる段になったという判断で、中学教育と実業教育の学制化 が課題とされる、やがてこの案にもとついて尋常中学校というものが全国に設けられ、同等の中等教育を実業に即し て行うものとして実業学校︵商業学校、工業学校、農学校をふくむ︶が設立される。さて第四に掲げられたものが、思想 的に、従って本論の主題にとっても重要な意味をもち、以下にやや立ち入ってその内容と展開を検討することにもな るものであるが、漢学とドイツ学の奨励である。  ﹁和魂漢才﹂﹁和魂洋才﹂に関しては後に明治ナショナリズムをめぐる問題のところでそれに触れる場をもつつもり        ざえ であるが、往昔、中国大陸の先進文化が日本に導入受容される当時に、﹁和魂﹂と対置して﹁才﹂として﹁漢才﹂とされ       ざえ たものが、西洋文化の受容の時期になると、﹁洋才﹂の﹁才﹂に対してはすでに﹁和魂﹂のうちに含めてとらえられる理 解の仕方を示す点が注目される。井上毅が﹁教導案﹂で提起する漢学とドイツ学の奨励は、彼流の﹁和魂洋才﹂の把 握とその統一志向と認められるのである。井上毅が漢学に期待するものはもっぱら儒教倫理であり、後の教育勅語に 貫流する儒教的な道義であり、それが彼にとっては﹁やまとこころ﹂の外ではないどころか、むしろその核心とされ 13

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て然るべきもののごとくである。この点では円了も同様で、日本仏教を主軸として儒教をもそれに習合させたところ に日本固有のものを見る円了の場合も、儒教を﹁やまとこころ﹂に組み入れて洋才に対置する構図に関しては井上毅 と共通している。この事例は他にも多くの類同を見いだすのにさしたる困難はないであろうし、儒仏両教がわが国土 に渡来して以来の長い歴史経過のうちで土着化して日本的なるものに結晶したという日本文化論に通じるものでもあ ろうが、ここではこれ以上は追わない。  井上毅によって漢学の奨励があえて提起されるについては、明治維新の激動期を通じての漢学の衰退の事態があ る。もとより明治新政府の要人たちは、いずれも幼時より漢学の素養を身につけている。しかし、新旧権力の交替と 文明開化の登場で斬新な価値が迎えられる情勢のもとで、他にもさまざまな理由が複合して生じた事態ではあるにせ よ、旧価値として軽視され弱体化する事態を漢学も免れなかった。廃仏殿釈ほど乱暴な否定のされ方こそしなかった けれども、復興が課題となる形勢に置かれていたことは、漢学の場合も仏教と同様であった。幕藩体制下で儒教的な 漢学が栄え、朱子学が官許の学として幕府の権力的支柱を得ていたのに対し、明治期になってその支柱が失われたこ とも大きく響いていた。そういう事態にあって、儒教に通ずるものとしての漢学の復興と奨励ということが、政府方 針として井上毅によって立てられるのである。︵それは儒教であり漢学であって、仏教ではなかった。それが﹁官﹂の 方針となった。それゆえ仏教の復興と活性化を使命とする限り、円了の道は﹁野﹂にあるべく強いられたともいえ る。︶そしてその目的を﹁教導案﹂は明白に表明して、﹁漢学をすすめて、忠愛・恭順の道を教える﹂と述べている。  次に﹁教導案﹂がドイツ学の奨励を掲げるときの意図について述べておこう。これは、先述のごとく、受容する西 洋文化を英仏系からドイツ系に切りかえるという体制の全般的方針の一環をなすと共に、民権運動を危険視する観点 からそれへの対策的考慮を最も露骨に示すものとなっている。﹁教導案﹂では、それが﹁ドイツ学を奨励して、英仏 14

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学の直往無前の勢いを挫けLと表現されている。すなわち、英仏学を革命の温床と見なし、その革命的な急進性が既 成のいっさいのものを否認し、無視し、躁噛し、打倒し、破壊して養進する勢いを危険視し、民権運動をその線上に あるものと見立てて、その勢いを挫くのに役立つものとしてドイツ学を奨励するというわけである。なぜ、ドイツ学 がそれに役立つのか。井上毅の言表によれば、西洋でもドイツだけは﹁政府はすなわち王室の政府であり﹂、その意 味で日本の国柄に近いから、ドイツ学を奨励することは﹁天下人心をして、やや保守の気風を存せしむるに役立っ﹂ のである。  ここで注目されるのは、明治初年に開化的な思想として一律に迎え入れられた西洋思潮の啓蒙性が、危険な啓蒙と 奨励さるべき啓蒙とに色分けされ、民権派的な啓蒙は前者でフランス型、国権派的な啓蒙こそ後者でそれがドイツ型 とされる動向が、教育方針に現われるまでにこの時期には政府のうちに定着していることである。この動向は明治国 家が天皇制国家として体制をかためてゆくのと表裏の関係にあり、そのことを井上毅の言葉は明示している。そして、 この動向の進行過程で、後年の明六社同人である福沢諭吉や加藤弘之が、あるいは所論の重点を移動させ、あるいは 転向を声明することによって、体制内化するという出来事も起ってくる。 ﹁教導案﹂の登場する一八八一年︵それは 井上円了の東京大学入学の年でもあるが︶という時を念頭において福沢や加藤の転回の時と様相を考えるならば、それだ けでもこの﹁教導案﹂が時勢の推移のなかでもつ象徴的、代表的意義を窮わせるに足りるであろう。すなわち、かつて ﹃学問のすすめ﹄の冒頭に、周知の﹁天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり﹂の語を掲げて、人間の 平等を唱え、 ﹃文明論之概略﹄において、 ﹁国体﹂を第一義的に﹁自国の独立性の保持﹂と解し、国体と政統と血統 を区別して﹁国体とは、一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自から互に視ること他 国人を視るよりも厚くし、自から互に力を尽すこと他国人の為にするよりも勉め、一政府の下に居て自から支配し他 15

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の政府の制御を受るを好まず、禍福共に自から担当して独立する者を云ふなりLと述べ、 ﹁凡そ世界中に国を立てる ものあれば亦各其体あり。支那には支那の国体あり、印度には印度の国体あり。西洋諸国、何れも一種の国体を具へ て自から之を保護せざるはなし﹂と記して、個人と国家の主権の擁護者として立っていた福沢諭吉が、一八八二年に なると﹃帝室論﹄において﹁帝室は人心収撹の中心﹂と述べるなど天皇家の人々の格別の身分と意義を強調すること になり、同年には列強からの民族独立を保つための必要という理由で﹁官民調和論﹂を唱え、一八八五年には﹃脱亜 論﹄において、とうてい独立を維持できそうもないと彼が見た隣国、支那と朝鮮について、 ﹁わが国は隣国の開明を 待ちて共にアジアを興すの猶予あるべからず、むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那・朝鮮 に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに接するの風に従ひて処分すべきのみ﹂ と、両国の主権侵害を鼓舞するがごとき論調を展開するにいたる。また加藤弘之の場合は、転回がきわめて明確であ る。 ﹃国体新論﹄において天賦人権論に依拠する立憲的政治思想を説いていた彼が、一八八一年に東京大学総理にな るや転向声明をおこない、一八八二年の﹃人権新説﹄において天賦人権説の妄説なるゆえんを論述し、人権論争を惹 き起すことになるのである。こうして、中江兆民や植木枝盛などを代表者とする民権派の啓蒙とは一線を画し、さら にはそれを英仏型啓蒙として弾圧の対象としつつ、国権派の啓蒙の路線でドイツ型を範型とすることを、教育方針で 明確にしたのが﹁人心教導意見案﹂だといえよう。西欧十八世紀啓蒙におけるフランス啓蒙とドイツ啓蒙のもついち じるしい性格の相異、わけても後進国ドイツが先進国に追いつき追い越すことを目ざして、その国家目的のために啓 蒙王と称されるプロイセン・ドイッのフリードリヒ大帝みずから旗ふり役となっておこなわれた啓蒙、それゆえフラ ンス啓蒙が﹁下からの啓蒙﹂と呼ばれるのに対して﹁上からの啓蒙﹂と呼ばれるドイッ啓蒙、これに目をとめて明治 政府は日本の近代化の道としたのであろう。しかし、その影響もあってのことであろうか、官許の哲学者カントの啓 16

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蒙思想がしきりに説かれるに比例して、ドイツにおける﹁下からの啓蒙﹂の担い手であった在野の思想家レッシング

が、文芸家としてはともかく哲学者としても思想家としても日本では触れられること少く、ことにその啓蒙の意義に

おいて評価されることが十分でないという問題を残している。

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