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大正後期から戦後の乳幼児審査会の歴史的役割に関する研究 利用統計を見る

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大正後期から戦後の乳幼児審査会の歴史的役割に関

する研究

著者

茂木 潤

雑誌名

東洋大学大学院紀要

51

ページ

293-317

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007311/

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要旨

大正期の日本では、乳児死亡率の高さが社会問題として認識され、子どもに関する課題の 中では最も重要視されていた。乳児死亡率には、貧困や衛生状態の悪さも深く関係していた が、衛生や疾病、栄養等、子育てに必要な基本的な知識が、親をはじめ、国民に十分に備わ っていないということが最大の要因であるとされた。 このような状況の中で発足した大阪児童愛護連盟は、子どもにかかる様々な活動を行って いた。そのひとつである乳幼児審査会は、満2歳以下の乳幼児とその親を募り、身体測定や 内科検診の他、多様な専門家により子育ての知識の普及を図り、子育てに関する国民の関心 を高める契機となった啓蒙活動である。これがどのように国民を啓蒙し子育ての知識を普及 させ、役割を果たしたのかを考察するために、主に同連盟の機関誌『子供の世紀』から、今 回は東京の乳幼児審査会の実態について明らかにした。 キーワード:乳児死亡率、児童愛護、『子供の世紀』、東京乳幼児審査会

1.研究動機

学部時代に児童福祉の歴史に関する授業を受講し、まだ日本に福祉という概念すらなかっ たような時代での社会事業家の活動や、社会事業家が作り上げたシステム、施設発達の歴史 などについて学び、自らが仕組みを作り献身的な活動をしていた人々の存在と内容は、福祉 の歴史に全く触れたことのなかった自分にとっては、非常に興味深く、衝撃的であった。今 まで児童福祉を全般的に学んできたが、児童福祉や児童養護などの歴史について興味が沸い た。子ども支援を専攻していたこともあり、戦前の子育てがどのようなものであったのか、 それに対しどのような支援がありどのような影響を与えたのか、またそれが現在にどのよう に関係しているのか、などに興味を持った。そこで卒業論文では、昭和戦前期に焦点を当て、

大正後期から戦後の乳幼児審査会の

歴史的役割に関する研究

福祉社会デザイン研究科ヒューマンデザイン専攻博士後期課程1年

茂木  潤

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戦前の子育ての現状とそれに対する支援について研究を行った。 当時の子育てにおける問題として、公衆衛生や子どもの健康、栄養、疾病などの知識が、 民衆に正しく浸透していなかったということが多くの専門家によって指摘されていた。これ は、公的な制度を整えるだけでは改善が困難で、子育ての知識を普及するための啓蒙活動な どを行う必要があった。そこで注目したのが1921(大正10)年に乳児保護宣伝デーという名 称で開始した運動で、毎年5月5日を中心に、育児カレンダーや子どもの育て方を記載したパ ンフレットの配布、講演会などを行い子育ての知識普及を図ったものである。のちに全国児 童愛護週間という全国的な週間運動となり、これは現在5月5日を中心に1週間実施されてい る児童福祉週間の前身である。 当時社会的に子育てを支援したと考えられるこの運動に着目し、その時代の社会的背景と 施策、法律の制定などを踏まえた上で、当時行われていた子育ての実態について明らかにし、 社会問題として浮上していた乳児死亡率の高さに対してこの運動がどのような役割を持ち、 死亡率を低下させたかを分析、解明した。 修士課程では、学部と同じく戦前の子育ての実態とその支援、子育ての正しい知識を民衆 に浸透させることを目的とした啓蒙活動に着目し研究していくことにした。新聞記事や先行 研究論文を検索していると、当時の啓蒙活動のひとつである乳幼児審査会という運動があっ たということを知った。乳幼児審査会は以前からその存在は知っていたものの、実際の内容 はどのようなものであったのかは知らなかった。 そこで、乳幼児審査会がどのようなものであったのかを知るべく、まず資料収集のしやす い新聞記事のデータベースで検索をしてみたところ、様々な団体が、主に東京都内で審査会 を行っていたことが判明した。記事を収集し整理してみると、主催団体の中に大阪児童愛護 連盟(日本児童愛護連盟)という組織の存在を発見した。 この連盟が主催していた乳幼児審査会の新聞記事は、他の審査会のものよりひときわ目立 っており、また大々的に審査会の広告を載せていることもあった。他の審査会は、小児科病 院や小学校などが主催で、そこで審査会が行われていたが、大阪児童愛護連盟主催の乳幼児 審査会は、三越や高島屋といった大型百貨店を開催場所として行われており、他の審査会に はない特徴がみられた。 現段階で、いわゆる乳幼児審査会に関する先行研究は、病院が独自に行ったものの成績結 果や、そこから見えた当時の子どもの発達を医学的に分析したものなどがあるが、乳幼児審 査会の実際の様子や、具体的な審査方法、担い手の詳細などを調査した研究、特に大阪児童 愛護連盟主催の乳幼児審査会に関する研究は確認できない。同連盟主催の審査会は、非常に 大々的な行事として開催されており、中央省庁も協賛していたこともあって、国をあげて当 時の乳児死亡率や子育てへの支援について取り組んでいたと考えられる。 この審査会がどのような経緯で開催され、子育てをする人やその他の国民に対し働きかけ、

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乳児死亡率への対策や子育てへの社会的支援として、どのような役割を果たしたのか、明ら かにする意義があるのではないかと感じ、研究を行うことにした。

2.研究方法と時期区分

本研究では文献資料に基づく文献研究を実施する。大阪児童愛護連盟が1923(大正12)年 から1944(昭和19)年まで刊行していた機関誌『子供の世紀』等から、東京における乳幼児 審査会関係資料を抽出し、その内容と特色を明らかにする。東京での審査会は1925(大正14 年)に始まり、戦後1955(昭和30)年の第22回までが判明している。そこでこの審査会の内 容を明らかにしていくために、便宜的に時期区分を設けて、各時期の内容と特色をまとめて いくことにする。 まず第1期を1925(大正14)年の第1回から1934(昭和9)年の第6回までとする。これは、 東京で乳幼児審査会が開催されるようになり、大阪児童愛護連盟が児童愛護首唱15周年を迎 える前までである。次に第2期を1935(昭和10)年の第7回から1943(昭和18)年の第15回ま で(1944年から1948年までは開催されなかった)とし、これは大阪児童愛護連盟児童愛護首 唱15周年を迎え、戦中、敗戦前までの時期とする。最後の第3期は戦後の1949(昭和24)年 の第16回から1955(昭和30)年の第22回までとする。本論文では第1期の内容と特色に焦点 化して分析することにする。 特に、『子供の世紀』に掲載された審査会に関連するすべての資料を手がかりに、その内 容と特色を明らかにする。具体的には、審査会開催の趣旨や、開催場所、審査会における協 賛団体や後援団体、審査主任や顧問の人物像、参加人数の推移、実際の審査方法、審査結果 と表彰式の内容などを分析し、考察を加える。

3.結果

東京における乳幼児審査会の実態を述べるにあたり、大正期の社会事業の成立や政策、当 時の乳児死亡率に関する内容に触れ、それを把握した上で論を進める。 (1)大正期の時代背景と社会事業の成立 ①大正期の時代背景 1914(大正3)年の第一次世界大戦は、日本経済に未曾有の好景気をもたらした。「ヨーロ ッパの先進諸国の資本がアジアから後退して物資の需要をたかめたことを契機とし」1て、日 本の資本主義は急速に成長し、いわゆる大戦景気となった日本は、繊維産業や軽工業、重化 学工業が発展し、生産高の向上や労働者の急激な増加も生じた。 しかし、この大戦景気による物資の需要に対する労働者の環境は劣悪で、過酷な労働条件 のもと、賃金の上昇は物価の騰貴には到底追いつかず、結果、そのアンバランスさは国民の 家計に大きな影響をもたらし、労働者階級における貧困層が拡大、生活難に追い込まれる

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人々を多数生み出した。 この状況の中で1918(大正7年)に勃発したのが米騒動である。米騒動の原因には物価騰 貴や通貨の膨張、米の生産費高、供給の不足、地主の売惜みなどがあり、特にシベリア出兵 に向けて米が買い占められ始めると、米価は急高騰、国民は生活難に陥った。その結果、米 価値下げの訴えとして米騒動が勃発した。 その後日本は第一次世界大戦後、激しい資本主義恐慌に陥る。価格の騰貴や需要の増大に よって、事業の新設・拡張のための資金需要が増大したことにより、銀行預金高の増加より 貸出高の増加が加速し金融が逼迫状態になると、大戦景気から一転し日本は不況に陥った。 立て続けに銀行や商社、工業などが休業や倒産に追い込まれ、日本は激しい資本主義恐慌の 渦に巻き込まれていった。 そこへ重なるように1923(大正12)年の関東大震災が発生し、東京は激しく被災し、閉鎖 する工場も続出した。つまり戦後の恐慌に震災恐慌が重なり、日本は慢性的な恐慌状態に陥 っていったのである。 ②大正期における社会事業の成立 日本で社会事業が成立するきっかけとなったのは、先に述べた米騒動や震災、第一次世界 大戦による経済状況の激しい変動、そしてそこから発生した様々な社会問題の浮上であった。 孫(1994年)は、米騒動について「この事件で、政府は消極的ながら直接救済に乗り出す ことになり、各種の社会事業施設が設置または助成され、公営社会事業が抬頭することとな った」2といい、「この傾向は大正12年(1923)の関東大震災によってもっと激しくなった」3 も述べている。吉田(2004年)は、「大正社会事業の成立を促した一つに関東大震災(震度 六、マグニチュード七・九、死者九万一三四四人、行方不明者一万三二七五人、家屋焼失率 〔東京・横浜〕六二・五%〔『対象大震災火災誌』上〕)がある」4と述べる。さらに古川(2005 年)は、「第一次世界大戦後の大正デモクラシーの時代に社会事業が成立した。そのきっか けとなったのは第一次世界大戦後に各地で起こった米騒動であり、これによって社会問題対 策が急速に進展することになった」5と述べている。 すなわち、大正期における社会事業成立の背景には、第一次世界大戦による日本経済の激 しい変動やそれに伴って発生した米騒動や関東大震災の被害が重なったことで不況が慢性化 し、失業や貧困に追いやられた人々が多数生じ、社会的な対策が必要となったことにある。 その具体策を講じていくためには、失業者や貧困者の実態を調査する必要があった。 国レベルでさまざまな調査が行われた結果、貧困層の実態、医療費、さらには乳幼児死亡 率の高さなど、日本国民の生活状況が明らかになり、これ対しては当然、国が施策を講じて いくことが強く求められた。 失業問題及び貧困問題に対応するための法律が次々と制定されたが、同時に簡易食堂や、 公設浴場、共済組合、隣保事業などが新設され、既存の施設で特に増加したものには、幼児

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保育、職業紹介、宿泊保護、貧児教育などがある。 また、乳幼児死亡率が高率であったということも社会問題として認識されており、大正期 の社会的背景がもたらした日本の状況は、大人の生活だけでなく子どもの生活にも大きな影 響を与え、心身の健康を脅かしている状況にあった。一番ヶ瀬(1981年)は、「この時代の 性格・特質を要約するならば、それは、第1に直接的な経済保護事業の拡大」6だといい、そ れが分化や専門化し、予防性が考えられるようになり、発展を遂げ、その中でも「とくに児 童保護事業のそれがまず注目される」7と述べている。 このように大正時代の日本においては、恐慌や震災がもたらした失業問題や貧困問題によ り、大人の生活だけでなく、より弱い立場の子どもの生活をも脅かされ、そのような問題が 絡んで乳幼児死亡率の高率が深刻な問題として認識されつつあった。それに対し対象療法的 なさまざまな法律が制定され、政策も講じられた。また、これまでの救貧政策では追いつか ないことを認識し防貧政策という視点からも社会事業施設が増設及び新設され、国レベルで の本格的な対策が講じられるようになり、それが日本における社会事業成立の契機となった のである。 (2)大正期の乳児死亡率の実態と大阪府内での取り組み ①大正期の乳児死亡の実態 当時浮上していた社会問題のひとつであった乳児死亡率の実態は、一体どのようなもので あったのだろうか。表1は、日本と諸外国の乳児死亡率の一覧である。日本の乳児死亡率は 諸外国と比べると高い数値で、1920(大正9)年の時点では16.6%である。その後の1926(大 正14)年、そして大正期を終え1926(昭和元)年から1930(昭和6)年までも、その数値は 10%を下回らなかった。毛利(1972年)によると、当時の乳児死亡の三大原因は「肺炎およ び気管支炎、下痢および腸炎、先天性弱質」8であったと述べられている。 海野(1924年)は、「貧困なるものは(中略)有害なる影響を児童に与ふるを免れぬ」9 「母乳で養育する場合に於ては、通常、死亡率は低減するが、この場合に於ても、良家の方 が貧家より遥かにその率が高い」10と述べている。また、衛生の問題について「不潔なる区域 例へば、汚水横溢し、粗悪なる便所を設け、塵埃散乱するが如きところは無論死亡率が高 い。」11と述べている。さらに、「母親の無智と云ふことは、死亡を大ならしむる重大なる原因 である」12とも述べている。 つまり、貧困状態にあることや公衆衛生状態の良し悪しに加え、母親に衛生や疾病、栄養 のことなど子育てに必要な基本的な知識が備わっていないことが、乳児の死亡率を増大させ る大きな原因であったということである。

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表 1 出産 100 に対する海外の乳児死亡率 国別 年次 1920 (T9)年 1925 (T14)年 1926 (S 元)年 1927 (S2)年 1928 (S3)年 1929 (S4)年 1930 (S5)年 日本 16.6 14.3 13.7 14.2 13.8 14.2 12.4 イギリス 8.0 7.5 7.0 7.0 6.5 7.4 6.0 アメリカ 8.6 7.2 7.3 6.4 6.8 6.8 ― ドイツ 13.1 10.5 10.5 9.7 8.9 9.6 8.4 フランス 9.8 8.5 9.8 8.3 8.1 9.5 7.9 イタリア ― 11.9 11.9 12.0 12.0 ― ― オランダ 7.3 6.1 6.1 5.9 5.2 5.9 5.1 オーストラリア 6.9 5.3 5.3 5.4 5.3 5.1 4.7 ニュージーランド 5.0 3.9 4.0 3.9 3.6 3.4 3.4 注:T は大正、S は昭和の略である。 出典:生江孝之、「乳幼兒愛護週間と模範的施設」、『児童保護』、第 2 巻第 4 号、日本感化 教育会、1932 年、pp.2-3 ②大阪における乳児死亡の実態 東京で乳幼児審査会が開催される以前には、先駆けて大阪で乳幼児審査会が開催されてい たため、大阪の当時の状況に加え、それに対する取り組みの一部を紹介したい。 和田(2006 年)は、「明治・大正期を通じて、乳幼児死亡率の高さが国家の人口問題と絡 んで深刻に議論された時、大阪市は都市における最悪の数字を出していた」13と述べる。大 阪は日本一の商工業都市として発展したが、人口が集中による住宅不足で生活環境は非常 に劣悪な状態であり、それ故に大阪の乳児死亡率は国内で非常に高いものであった。 その原因には、「母親が就労する家庭の乳幼児は遺棄状態」14であったこと、「労働と貧困 のため母体保護が成されず、分娩後の不衛生と不養生のため母子ともに虚弱」15であったこ となどが挙げられる。これにより 1919(大正 8)年の時点で、先の特定の地域では「生後 1 年以内の乳児死亡率は 29.1」16にもなり、これが大阪全体の乳児死亡率を押し上げていた。 ③大阪府内での取り組み このような状況に対し、諸施設の増設及び新設の他、啓蒙活動なども実施されていた。 13 和田典子、2006 年、「大阪児童愛護連盟の機関誌『子供の世紀』について―創刊・終刊を 中心とした書誌事情とその位相―」、『近畿福祉大学紀要』、第 7 巻第 2 号、p.187 14 同上 15 同上 16 和田典子、2007 年、「大阪の乳幼児保護施策と公的保育の成立(1)―大正期大阪の社会 事業を背景として―」、『近畿福祉大学紀要』、第 8 巻第 1 号、p.17 ②大阪における乳児死亡の実態 東京で乳幼児審査会が開催される以前には、先駆けて大阪で乳幼児審査会が開催されてい たため、大阪の当時の状況に加え、それに対する取り組みの一部を紹介したい。 和田(2006年)は、「明治・大正期を通じて、乳幼児死亡率の高さが国家の人口問題と絡 んで深刻に議論された時、大阪市は都市における最悪の数字を出していた」13と述べる。大阪 は日本一の商工業都市として発展したが、人口が集中による住宅不足で生活環境は非常に劣 悪な状態であり、それ故に大阪の乳児死亡率は国内で非常に高いものであった。 その原因には、「母親が就労する家庭の乳幼児は遺棄状態」14であったこと、「労働と貧困の ため母体保護が成されず、分娩後の不衛生と不養生のため母子ともに虚弱」15であったことな どが挙げられる。これにより1919(大正8)年の時点で、先の特定の地域では「生後1年以内 の乳児死亡率は29.1」16にもなり、これが大阪全体の乳児死亡率を押し上げていた。 ③大阪府内での取り組み このような状況に対し、諸施設の増設及び新設の他、啓蒙活動も実施されていた。施設の 例を挙げると、出産介助や妊娠中の保健指導、産褥時の処置や新生児の養護等を行う①助産 施設、妊婦と育児について無料で相談ができる②妊産婦相談所などがある。一方、啓蒙活動 では、児童衛生に関する種々の資料を集め、それを民衆に公開することで児童養育上の知識 を普及することを目的とした③児童衛生展覧会、乳児の健康保護の奨励、また子育てについ て社会一般の関心を高めることを目的とした④赤坊審査会や⑥子供愛護デーなどの取り組み

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があった。 このように、施設以外において一般の人々にも向けた啓蒙活動を行っていたことは非常に 注目できる点で、子育てをしている家庭のみならず、その周囲の人々に対しても子育ての知 識を浸透させていく効果が期待でき、地域社会への普及にも連動したと理解できる。 その中でも、大阪市立北市民館に本拠地を置いた大阪児童愛護連盟は、主事伊藤悌二が一 貫して主動し、乳幼児審査会を主催した。これは、大阪府内を始めとし全国的展開を成し遂 げた運動である。本研究ではこれに着目したい。しかし、今回は東京で開催された会のみに 着目する。まず、東京の審査会が当時の新聞に大々的に取り上げられ、文部省なども後援と して加わるほどの催物になっていたこと、また、同会の具体的な内容を分析するにあたり、 資料の関係から東京のものが適していたということを理由としたい。大阪の審査会について は、今後明らかにしていく。 (3)東京における乳幼児審査会の内容 ①開催趣旨 各審査会の開催趣旨は、主催者側の開催目的を凝縮したもので、且つその目的を当時の一 般民衆に知らせて開催の目的や意図を啓蒙する役割を有しており、その意味では本論文にと って最も重要な分析資料の1つである。開催趣旨は毎回その規定に記載されていたが、例と して第1回目の趣旨をあげると、次のようになる。 コドモは、民族発展の原動力であります。 その保健問題は直ちに国家の消長に関する重大事であります。 コドモを単なる両親の私有物であると思つてはなりませぬ。コドモこそ実に次の時代を組 織する国家の礎であります。本連盟は、多年各地に診査会を開催して、コドモの健康と発 育に就いて、専門の諸大家により素人の気の付かぬ点までも種々と御示教に預かり、一方 育児上の相談に応じて御両親に必要なる注意を促したのであります。 今回は東京に於て開催し益々乳幼児の保健と愛護に貢献したいと思ひます。 皆様、奮つて御参加をおすすめ申上げます。17 このように、開催趣旨には乳幼児審査会の目的が記載されており、「コドモこそ実に次の 時代を組織する国家の礎」18であると述べ、子どもの健康と発育について、一流の専門家によ って、子育て中における「気の付かぬ点」までその指導をすることにより、乳幼児審査会が 子育て中の家庭へ専門的な立場から養育指導や両親の育児中の悩みに応じ、子育て中の家庭 を支えるという目的を持っていたことが理解できる。 そして、乳幼児審査会は、「育児智識の普及をはかり児童問題の輿論を喚起」19する役割を 持っており、子どもを健康に産み育てる知識や子育ての重要性を、子育てをする養育者やそ の周囲の人々に浸透させると同時に、一流の専門家によってそれを支援するという実践的な

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啓蒙活動であったということが理解できる。 回数を重ねると児童愛護連盟の活動そのものの趣旨も記載されるようになる。大阪児童愛 護連盟は「全国に魁し児童愛護を主唱して諸種の運動を遂行」20しており、そのさまざまな諸 運動の中のひとつが、乳幼児審査会であったということも理解できる。 ②開催日時 審査会は、第1回目は2日間にわたったが、第2回目以降は5日間に及んで開催され、いずれ の審査会も午前9時から午後4時までとほぼ一日がかりで審査が行われていた。開催された時 期は、10月半ばに行われた第1回目以降は、6月から9月の半ばまでに行われた。これは、乳 幼児を裸にさせて身体の様々な部位を審査するにあたり、あまり肌寒くてはそれに適さない と連盟主事の伊藤が判断し、第2回目以降は気候を配慮し、夏期にあたる6月初旬から9月初 旬までの間で開催日時を設定したということになる。 ③開催場所の動向 乳幼児審査会は、第1回目のみが東京芝公園増上寺前の協調会館で開催され、第2回目以降 の審査会では三越、松坂屋、高島屋といった当時一流の大型百貨店で開催されていた。当時 一流の百貨店において乳幼児審査会が開催されたということは、多様な階級の母親を一流の 百貨店が受け入れたことになり、乳幼児審査会が社会的に認知されてきたことを示す出来事 になったと理解できる。 さらに、同会に参加する者以外の百貨店利用者にも乳幼児審査会の存在が目にとまること となり、これは乳幼児審査会の宣伝にもなり得たであろうし、逆に審査会で多くの人が百貨 店に足を運ぶことによって、百貨店の売り上げへの貢献にもなったと考えられる。また、百 貨店がひとつの企業として乳幼児審査会に参入したことは、子育ては現に子どもを育ててい る養育者のみによって行われるのではなく、養育者以外の家族やその他の国民にも子どもの 発達や子育てにおいて関心を持つことが子育てにおいては必要であるということ、つまり子 育ては社会全体で行われ、社会的な支援が必要な行為であるということを当時の日本の社会 に示す契機となったと理解できる。 ④審査会主催団体の内容 乳幼児審査会での主催団体は、大阪児童愛護連盟あるいは日本児童愛護連盟、そして児童 愛護連盟(東京・大阪)といった表記もあったが、その意味については解明できなかった。 大阪児童愛護連盟が発展したものが日本児童愛護連盟であると和田(2006年)は述べている が、大阪児童愛護連盟が発展を遂げ、東京で前東京乳幼児審査会が行われるようになったた めに、日本児童愛護連盟が新たな名称の団体を創設したのか、それとも名前のみの違いなの か、今の段階では両連盟の詳細な関係性を明確にすることが困難であるため、審査会主催団 体の実態については今後の研究で明らかにしていくこととする。 ⑤協賛団体の動向

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乳幼児審査会には、内務省、文部省、拓務省といった中央省庁が協賛していた。このこと から、この時代における乳幼児死亡率の高さがひとつの社会問題として認識され、国レベル でもその改善が重要視され、かつ、この前提となる乳幼児の健康や子育てに関する啓蒙活動 を推進させたいという思惑と理解できる。中でも、第6回目からは拓務省が加わり、乳幼児 の健康や子育ての問題が政策に連動していく兆しも垣間見られる。また、乳幼児審査会が中 央省庁の協賛を受けることで、参加する保護者はもちろんのこと、一般民衆にとっても同審 査会の信頼と評価を高めることに役立ったとみる。特に東京という国の中心的都市で開催さ れたことが、中央省庁が協賛として加わる契機となり、将来的には国家的な行事となること を予感させた。 ⑥後援団体の動向 第1回東京乳幼児健康診査会と、第5回目、第6回目の審査会における後援は不明であるた め、それ以外の後援について述べる。 第2回目の東京赤ちゃんの審査会では、主催者が大阪児童愛護連盟であったことに対し、 日本児童愛護連盟の後援で開催されている。 第3回目の審査会での後援は、中央社会事業協会と中山文化研究所であった。中央社会事 業協会は、現在の社会福祉法人全国社会福祉協議会の前身であり、同時期に全国乳幼児愛護 デー(後の全国児童愛護週間)を実施していた組織である。一方、中山文化研究所とは、 1903(明治36)年に化粧品卸業として創業された中山太陽堂21(現在の株式会社クラブコス メチックス)が1923(大正12)年に創設した研究所であり、当時「『女性文化研究所』『整容 美粧研究所』『口腔衛生研究所』『児童教養研究所』の四部門」22で事業展開をしていた。この 研究所は大阪と東京に創設されていたが、審査会の後援においてどちらの研究所のことを示 しているかは不明である。 第4回目で後援に加わっているのは栄養と育児の会で、これは現在のわかもと製薬株式会 社という薬品会社が1929(昭和4)年に東京市芝公園大門で設立した当時の会社名である。 栄養と育児の会は、「わが国の健康増進、乳幼児の死亡率逓減のために種々の社会事業を行 はんとする」23目的を持つ製薬会社で、わかもとという胃腸薬を「大衆的廉価で発売」24してい た。 このように、審査会を後援していた団体や組織はいずれも社会事業や児童保護、医療、衛 生といった分野を専門とする団体や会社であったことがわかる。なお、後援団体がどのよう な役割を果たしたのかは不明で、今後明らかにしていく必要がある。

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⑦審査主任の人物像 10 名である。栄養と育児の会は、「わが国の健康増進、乳幼児の死亡率逓減のために種々の 社会事業を行はんとする」23目的を持つ製薬会社で、わかもとという胃腸薬を「大衆的廉価 で発売」24していた。 このように、審査会を後援していた団体や組織はいずれも社会事業や児童保護、医療、 衛生といった分野を専門とする団体や会社であったことがわかる。なお、後援団体がどの ような役割を果たしたのかは不明で、今後明らかにしていく必要がある。 ⑦審査主任の人物像 表 2 第 1 期(第 1 回~第 6 回)審査主任一覧 第 1 回 不明 第 2 回 前内務省衛生局技師/医学士 宇上英夫 第 3 回 医学博士 内村良二、鎮目専之助 第 4 回 医学博士 鎮目専之助 第 5 回 医学博士 鎮目専之助、中鉢不二郎 第 6 回 医学博士 小山武夫、中鉢不二郎 『子供の世紀』第 3 巻第 11 号、第 4 巻第 7 号、第 5 巻第 9 号、第 10 巻第 5 号、第 11 巻第 6 号、第 12 巻第 6 号に記載されていた各審査会(診査会)の規定より作成。 乳幼児審査会には、各回に審査主任と顧問が存在した。顧問の人数が非常に多いため、 今回は審査主任の人物像の詳細のみを述べる。審査主任は、第 1 期の乳幼児審査会におけ る審査主任の一覧は以下の表 2 の通りであるが、第 1 回目の診査会における審査主任の存 在は明らかではない。第 2 回目以降の審査会で存在が明らかである審査主任は、各審査会 の責任者として重要な役割を果たした人物とみられ、その人物像は、各審査会の性格を代 表するものと理解でき、審査主任の人物像の詳細をみていくことにする。 第 2 回目の審査会における審査主任は、前内務省衛生局技師で医学士の宇上英夫であっ た。しかし、この人物を詳細に示している資料や論文、新聞記事等が現時点では存在しな かったため、略歴を述べることはできない。 第 3 回目の審査会では、鎮目専之助と内村良二という 2 名の医学博士が審査主任として 携わっており、「午前の審査主任は鎮目博士であつて午後は内村博士であつた」25という。 午前の担当の鎮目専之助は、東京帝国大学を卒業したのち慶應義塾大学の小児科へ入室 し、助教授として勤務していた人物である。鎮目は続けて第 4 回、第 5 回の審査会におい ても審査主任として携わっている。 午後の担当の内村良二は、鎮目と同じく東京帝国大学を卒業後慶應義塾大学の小児科に 23 1931 年 10 月 10 日読売新聞(東京)朝刊 p.5「[広告]錠剤わかもと/栄養と育児の会」 24 同上 25 一記者、1927 年、「東京赤ちやんの審査会五日間の日記」、『子供の世紀』、第 5 巻第 10 号、 p.27 乳幼児審査会には、各回に審査主任と顧問が存在した。顧問の人数が非常に多いため、今 回は審査主任の人物像の詳細のみを述べる。審査主任は、第1期の乳幼児審査会における審 査主任の一覧は以下の表2の通りであるが、第1回目の診査会における審査主任の存在は明ら かではない。第2回目以降の審査会で存在が明らかである審査主任は、各審査会の責任者と して重要な役割を果たした人物とみられ、その人物像は、各審査会の性格を代表するものと 理解でき、審査主任の人物像の詳細をみていくことにする。 第2回目の審査会における審査主任は、前内務省衛生局技師で医学士の宇上英夫であった。 しかし、この人物を詳細に示している資料や論文、新聞記事等が現時点では存在しなかった ため、略歴を述べることはできない。 第3回目の審査会では、鎮目専之助と内村良二という2名の医学博士が審査主任として携わ っており、「午前の審査主任は鎮目博士であつて午後は内村博士であつた」25という。 午前の担当の鎮目専之助は、東京帝国大学を卒業したのち慶應義塾大学の小児科へ入室 し、助教授として勤務していた人物である。鎮目は続けて第4回、第5回の審査会においても 審査主任として携わっている。 午後の担当の内村良二は、鎮目と同じく東京帝国大学を卒業後慶應義塾大学の小児科に入 室し、講師を務めていた。その後昭和時代には昭和医学専門学校(現在の昭和大学)等で教 授や学長、理事長などに務めていた人物である。 第5回目の審査会では、鎮目の他に中鉢不二郎という人物が審査主任を務めていたが、第2 回目審査会の宇上同様、中鉢についてもその略歴を示す資料は見つからなかった。しかし、 「離乳期栄養に就ての諸問題」(1954年、『綜合臨床』、第13巻第10号)、「日本の小児栄養法の 回顧」(1960年、『小児保健研究』、第19号第1号)などの論文が存在し26、中鉢は小児科医で あったと推測できる。 第6回目の審査会では、先に述べた中鉢と小山武夫が審査主任であった。小山武夫は、前 述した人物らと同じく東京帝国大学を卒業し、同大学の小児科に入局、薬理学にて研究をし

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ていた。その後千葉医学専門学校(後の千葉医科大学、現在の千葉大学医学部の前進)の教 授を務め、海外留学を経て千葉医科大学の教授(初代)として務めていた。昭和時代には東 京都済生会乳児院の院長、東京都衛生局長などに努めた人物である。 このように、乳幼児審査会に審査主任として携わっていた人物は、詳細を明らかにできた その全ての人物が名門大学の医学部を出た医学博士で小児科を専門としていた人物であった ことがわかる。このため、乳幼児の発育状態や健康、病気の有無などに詳しい専門家を乳幼 児審査会の審査主任として選任したことは、審査会に参加した乳幼児の体格や健康を詳しく 審査することを重要視したためであったことが理解できる。 ⑧顧問等の人物像 次に、審査会に顧問として名前が挙がっていた人物であるが、人数が非常に多く、一人ひ とりの詳細を述べると膨大な量になるため、当時の役職のみ紹介する。審査主任は直接子ど もの審査を行ったことは前述で明らかになっているが、顧問が実際にどのうような役割を持 っていたのかは現段階では不明であるため、今後詳細を調査する必要がある。 小児科医、医師として顧問に務めた人物は、唐沢光徳、富士川遊、戸川篤次、小原芳樹、 瀬川昌世などである。顧問全員のうち、小児科医や医師が半数を占めていた。 それ以外には、高島平三郎(児童心理学者)、巌谷小波(童話作家)、倉橋惣三や岸辺福雄 (教育者)、渡辺海旭(宗教家)、その他現カネボウ株式会社や、審査会開催場所の三越の取 締役、そして内務省や文部省など官僚の人物の名もあった。 このように、様々な専門家が審査会に携わっていたという事実は、当時の乳児死亡率や健 康、病気など、子育てに関して実に多方面から支援しようとしていたと理解できる。また、 内務省や文部省といった行政機関に関わる人物が顧問として加わっているということは、国 をあげて全面的に子育てへの支援や啓蒙に取り組んでいたということが理解できる。 すなわち、先に述べた顧問等に選任された人物は、乳幼児の健康や発育を評価し、優良児 を表彰することだけを目的としていたのではなく、乳幼児の健康や発育を多方面の専門分野 から支援できる専門家で構成されていたことが確認でき、乳幼児審査会において非常に先駆 的な試みがなされていたことが理解できる。 ⑨参加人数の推移 各審査会では予定受付人数が決まっており、表3には『子供の世紀』及び審査会関連の新 聞記事を元に、審査会の予定受付人数とそれに対する実際の参加人数を表した。資料が見つ からず詳細な人数がわからないものについては、不明とした。

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12 に先駆的な試みがなされていたことが理解できる。 ⑨参加人数の推移 各審査会では予定受付人数が決まっており、表 3 には『子供の世紀』及び審査会関連の 新聞記事を元に、審査会の予定受付人数とそれに対する実際の参加人数を表した。資料が 見つからず詳細な人数がわからないものについては、不明とした。 表 3 第 1 期の審査会における予定受付人数と実際の参加人数 予定人数 参加人数 第 1 回 2000 人 不明 第 2 回 2500 人 2185 人 第 3 回 2500 人 2062 人 第 4 回 2500 人 2706 人 第 5 回 2500 人 2600 余名 第 6 回 3000 人 不明 『子供の世紀』第 3 巻第 11 号、第 4 巻第 7 号、第 5 巻第 9 号、第 10 巻第 5 号、第 11 巻第 6 号、第 12 巻第 6 号に記載されていた規定及び審査会関連の新聞記事より作成 審査会においては受付する人数があらかじめ設定されており、先着順に受け付けて審査 を行っていた。第 2 回目や第 3 回目のように、実際の参加人数が予定人数に達しなかった 審査会もあれば、第 4 回目や第 5 回目のように予定人数を超えて参加者がいた審査会もあ ったが、審査会の回数を重ねるごとに予定受付人数が増加していることから、審査会の存 在が徐々に広く世間に知れ渡って地域社会に浸透していき、乳幼児を持つ養育者間に普及 していったことが理解できる。 また、第 2 回目及び第 3 回目の審査会に限り、審査会参加者の住居や母親の年齢などを 表にした資料が『子供の世紀』第 4 巻第 8 号、第 5 巻第 11 号に掲載されており、参加者の 地域分布が確認できるので次に紹介するが、今回は第 2 回目の審査会における参加者の地 域分布を例としてひとつ取り上げ、表 4 にまとめた。 当時東京市は 15 区で、審査会の会場が日本橋区の三越呉服店であったため、同市内から の参加者がの半数以上を占めており、1192 人であった。また、府下と呼ばれた東京市以外 の地域からの参加者合計は 94 人である。つまり東京府内からの参加者を合計すると 2086 人となり、審査会参加者の殆どを占めていたことが確認できる。 しかし、東京府以外の地域からの参加もあり、神奈川県や千葉県、埼玉県、茨城県、長 野県、山梨県、静岡県、遠くは新潟県からも参加者があった。東京以外の地域からの参加 者があったということは、新聞などによる報道で乳幼児審査会の存在が広く知られていっ たと理解し、そして、それは全国各地で開催される契機になることが予測できる。 審査会においては受付する人数があらかじめ設定されており、先着順に受け付けて審査を 行っていた。第2回目や第3回目のように、実際の参加人数が予定人数に達しなかった審査会 もあれば、第4回目や第5回目のように予定人数を超えて参加者がいた審査会もあったが、審 査会の回数を重ねるごとに予定受付人数が増加していることから、審査会の存在が徐々に広 く世間に知れ渡って地域社会に浸透していき、乳幼児を持つ養育者間に普及していったこと が理解できる。 また、第2回目及び第3回目の審査会に限り、審査会参加者の住居や母親の年齢などを表に した資料が『子供の世紀』第4巻第8号、第5巻第11号に掲載されており、参加者の地域分布 が確認できるので次に紹介するが、今回は第2回目の審査会における参加者の地域分布を例 としてひとつ取り上げ、表4にまとめた。 当時東京市は15区で、審査会の会場が日本橋区の三越呉服店であったため、同市内からの 参加者がの半数以上を占めており、1192人であった。また、府下と呼ばれた東京市以外の地 域からの参加者合計は94人である。つまり東京府内からの参加者を合計すると2086人となり、 審査会参加者の殆どを占めていたことが確認できる。 しかし、東京府以外の地域からの参加もあり、神奈川県や千葉県、埼玉県、茨城県、長野 県、山梨県、静岡県、遠くは新潟県からも参加者があった。東京以外の地域からの参加者が あったということは、新聞などによる報道で乳幼児審査会の存在が広く知られていったと理 解し、そして、それは全国各地で開催される契機になることが予測できる。

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表 4 第 2 回審査会の参加者の地域分布 神田区 140 荏原郡 290 日本橋区 125 豊多摩郡 271 浅草区 115 北豊島郡 228 芝区 114 南葛飾郡 80 下谷区 112 南足立郡 16 本所区 90 北多摩郡 10 本郷区 86 西多摩郡 1 小石川区 81 府下894 (899) 八王寺市 3 京橋区 65 神奈川県 26 麻布区 62 横浜市 25 牛込区 53 千葉県 23 深川区 52 埼玉県 20 麹町区 43 茨城県 1 赤坂区 37 長野県 1 市内 1192 四谷区 17 山梨県 1 静岡県 1 他府県99 新潟県 1 総計 2185(2190) 「東京赤ちやん審査会概評」、『子供の世紀』、第 4 巻第 8 号、1926 年、p.8 より作成。 また、職業別では勤人の参加者が最も多く、次に商業と続き、それ以外も多様な職業を 持つ者が参加していた。伊藤悌二は「職業別にすれば各階級の人々が参加したのは実に愉 快なる事にして上は貴族院議員より学生、自由労働者、産婆、角力年寄、車掌に及んで(中 略)中には大学教授、弁護士、医師等の子女も可なり多く支那人、朝鮮人もあつた」27と述 べている。 このように、審査会に多様な職業、階級、住まいの参加者が 2000 から 3000 人も集まっ たということは、審査会の規模や各地への情報の広がりと国民全体の子育てへの関心が高 まりがうかがえる。そして様々な発達段階にある乳幼児が集まり身体測定やその養育者へ の種々の質問を行うことは、この時代において子どもの発達や子育ての基礎的なデータと して社会に寄与されたといえる。 27 伊藤悌二 1926 年、「東京赤ちやんの審査会を終りて」、『子供の世紀』、第 4 巻第 7 号、p.3 また、職業別では勤人の参加者が最も多く、次に商業と続き、それ以外も多様な職業を持 つ者が参加していた。伊藤悌二は「職業別にすれば各階級の人々が参加したのは実に愉快な る事にして上は貴族院議員より学生、自由労働者、産婆、角力年寄、車掌に及んで(中略) 中には大学教授、弁護士、医師等の子女も可なり多く支那人、朝鮮人もあつた」27と述べてい る。 このように、審査会に多様な職業、階級、住まいの参加者が2000から3000人も集まったと いうことは、審査会の規模や各地への情報の広がりと国民全体の子育てへの関心が高まりが うかがえる。そして様々な発達段階にある乳幼児が集まり身体測定やその養育者への種々の 質問を行うことは、この時代において子どもの発達や子育ての基礎的なデータとして社会に 寄与されたといえる。 ⑩審査方法の内容 乳幼児審査会では、体重、身長、胸囲、頭囲、大泉門等の測定及び栄養体質の鑑定並びに 母親に対し育児事項の質問がなされていた。質問の内容は、授乳やその他栄養のことなどで

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ある。 a.身長、体重、胸囲、頭囲 身長と体重、胸囲、頭囲については、三島博士の標準表を参考にしていた28。林ら(1989) は、「わが国の乳幼児身体発育値の研究は三島(1902)に始まるといっても過言ではない」29 と述べている。それ以降さまざまな研究者による報告があったが、「これらの報告は一地域 の乳幼児や農村の乳幼児のみが対象であったり、母乳栄養児と人工栄養児の比較、さらには 健康優良児のみの報告であったりで、全国的な規模での実態調査ではなかった」30ということ で、乳幼児審査会において三島による発育値と審査会の平均体格とを比較したことは注目す べき点である。 b.大泉門の審査 大泉門についての具体的な資料は存在しなかったが、現代では、大泉門の閉鎖が遅延や早 期閉鎖、陥凹している場合、病気や障害の可能性が疑われる。当時も、このように病気の有 無を確認するために審査会において大泉門を審査項目にしていたと推測できる。 c.栄養体質の鑑定 栄養体質の統計は、乳幼児に与えるものとして、母乳、牛乳、混合したものに分類し、そ れを表にした上で百分比で数値を出したものである。第2回目と第3回目のみその統計が資料 から確認できたが、両会、母乳で育てていると回答した者は約8割であった。審査主任内村 は、「この結果から見て(中略)乳児の栄養は母乳を以てなすべきものなる事は実施せられ て居る」31と述べているが、「生後一ヶ年を経過したる離乳期を経過したる幼児の栄養状態は 成績甚だしく不良であつた事は審査に当る私をして非常に驚かしめたる点であります」32とも 述べており、母乳の重要さは浸透していても離乳のタイミングやその方法についての養育者 の意識は、不十分なものであったということが理解できる。 d.質問事項とその内容 第2回目のみ、母親に対する質問事項の内容を確認することができた。養育者たちに対し 「発育上不審の点について」、「栄養方法について」、「離乳の時期及その方法」、「養護上の注 意について」、「神経質につきて」、「疾患につきて」、「皮膚疾患」、「其他」に、気になる事が あれば養育者に記入をしてもらい、子育てに対し不安や相談内容の調査をしたものと理解で きる。 e.審査会の実際の様子 では実際にどのような方法で乳幼児の体重計測等を行っていたのだろうか。『子供の世紀』 や当時の新聞記事当に掲載された写真の一部から解説をする。 写真1~3は、審査会において乳幼児の体重を計測している写真である。写真1からは、実 際に体重を計測している様子がわかる。写真2中央は、実際に胸囲を計測されている乳幼児 の様子で、写真2右は内科の検査を受けている乳幼児とそれを抱える母親の姿である。写真3

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下部にある、当時の文部大臣であった水野錬太郎と、連盟主事伊藤悌二との会話から、当時 の日本では徴兵検査の時期、二十歳を迎えるまでは集団的に健康調査を行うという機会はな かったことがわがる。つまり、同連盟主催の審査会は、乳幼児期に集団で身体測定や健康の 調査を行い、その統計を取り情報を掲示することで、子どもの健やかな発育と健康を促進す るための極めて重要な役割を持っていたと理解できる。 『子供の世紀』第5巻第10号冒頭に掲載されていた第3回審査会のものを転載 写真1 第三回東京赤ちやんの審査会総裁水野文相の臨場(其の一)

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『子供の世紀』第10巻第8号冒頭に掲載されていた第4回審査会のものを転載 写真2 審査主任鎮目博士と鳩山文相夫人

『子供の世紀』第5巻第10号冒頭に掲載されていた第3回審査会のものを転載 写真3 身長を計る赤ちやんを見つむる水野文相(其の二)

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また、これらの写真を見ると審査主任や顧問ではない看護師が多数協力し、乳幼児の身長 や体重を測定していることがわかる。これは、学校や病院に勤務していた審査員が、看護師 や学生に応援を頼んだものと理解する。 このように乳幼児審査会では、身体測定の結果から数値の平均を出し、日本における乳幼 児の身体的発育の研究の草分けと言える三島のデータを用いて比較した。大泉門の審査で は、閉鎖の状態や時期から、乳幼児の発症する病気を早期発見することに役立てていたと理 解できる。 注目すべき点は、得られた体重、胸囲、頭囲の数値を掲示し、それが科学的な知見に基づ き審査会参加者及びその他国民に周知させる契機となったといえることである。乳幼児審査 会は「幾多親達の育児上に関する質問に対して満足を与へ」33、当時の子育てに対する専門的 な視点から支援が行われる場となっていたと理解できる。 また、審査会によって得られた多様な視点からの審査結果をまとめ、視覚的にわかりやす いデータにしたことは、子どもの養育者、その他の国民に対し、子どもの成長発達に関心を 向ける契機になったといえる。 ⑪審査結果の内容 表5は各審査会における審査結果の一覧表で、これは『子供の世紀』及び乳幼児審査会関 連の新聞記事から情報を抽出し作成したものである。%値については、筆者が計算をし、小 数点以下を切り捨てて表記したものである。 第2回目以降より、最優良児、優良児、佳良児といったように分け、具体的な参加乳幼児 の人数と入選した乳幼児の人数が判明している審査会を見ると、入選した乳幼児は第3回目 では半数以上であるが、それ以外の審査会では全体の3割弱~4割弱となっている。 また、これらの写真を見ると審査主任や顧問ではない看護婦が多数協力し、乳幼児の身 長や体重を測定していることがわかる。これは、学校や病院に勤務していた審査員が、看 護師や学生に応援を頼んだものと理解する。 このように乳幼児審査会では、身体測定の結果から数値の平均を出し、日本における乳 幼児の身体的発育の研究の草分けと言える三島のデータを用いて比較した。大泉門の審査 では、閉鎖の状態や時期から、乳幼児の発症する病気を早期発見することに役立てていた と理解できる。 注目すべき点は、得られた体重、胸囲、頭囲の数値を掲示し、それが科学的な知見に基 づき審査会参加者及びその他国民に周知させる契機となったといえることである。乳幼児 審査会は「幾多親達の育児上に関する質問に対して満足を与へ」33、当時の子育てに対する 専門的な視点から支援が行われる場となっていたと理解できる。 また、審査会によって得られた多様な視点からの審査結果をまとめ、視覚的にわかりや すいデータにしたことは、子どもの養育者、その他の国民に対し、子どもの成長発達に関 心を向ける契機になったといえる。 ⑪審査結果の内容 表 5 は各審査会における審査結果の一覧表で、これは『子供の世紀』及び乳幼児審査会関 連の新聞記事から情報を抽出し作成したものである。%値については、筆者が計算をし、 小数点以下を切り捨てて表記したものである。 第 2 回目以降より、最優良児、優良児、佳良児といったように分け、具体的な参加乳幼 児の人数と入選した乳幼児の人数が判明している審査会を見ると、入選した乳幼児は第 3 回目では半数以上であるが、それ以外の審査会では全体の 3 割弱~4 割弱となっている。 表 5 第 1 期審査会における参加者と表彰者 入選児 参加者数 最優良児 優良児 佳良児 合計 第1回 不明 実施せず 同左 同左 同左 第2回 2185人 ― 221人(10%) 590人(27%) 811人(37%) 第3回 2062人 ― 449人(21%) 1024人(49%) 1473人(71%) 第4回 2706人 127人(4%) 287人(10%) 521人(19%) 935人(34%) 第5回 2500余名 ― 400人(16%) 300人(12%) 700人(28%) 第6回 不明 241人 259人 501人 1001人 『子供の世紀』第 4 巻第 8 号 p.13、第 5 巻第 11 号 pp.36-37、第 10 巻第 9 号 p.70、第 11 巻第 8 号 p.9、第 11 巻第 10 号 p.74、第 12 巻第 12 号口絵、東京朝日新聞 1934 年 10 月 27 日朝刊 p.5 より作成。

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⑫表彰式の内容 入選した乳幼児たちとその養育者たちは、審査会表彰式で表彰を受けていた。各審査会の 規定や、『子供の世紀』に掲載された表彰式の内容の記事から、開催日時と表彰式挙行(予 定)日時、表彰式開催場所をまとめると表6のようになる。第2回目以降から表彰式が行われ、 会場は第2回目は第3回目は三越(おそらく第5回目と同様の三越)、第4回目は東京上野松坂 屋、第5回目は東京日本橋区室町三越、第6回目は東京日本橋区通町高島屋と、それぞれ審査 会での会場と同じ場所を表彰式の会場として設定していたことが理解できる。 ⑫表彰式の内容 入選した乳幼児たちとその養育者たちは、審査会表彰式で表彰を受けていた。各審査会 の規定や、『子供の世紀』に掲載された表彰式の内容の記事から、開催日時と表彰式挙行(予 定)日時、表彰式開催場所をまとめると表 6 のようになる。第 2 回目以降から表彰式が行 われ、会場は第 2 回目は第 3 回目は三越(おそらく第 5 回目と同様の三越)、第 4 回目は東 京上野松坂屋、第 5 回目は東京日本橋区室町三越、第 6 回目は東京日本橋区通町高島屋と、 それぞれ審査会での会場と同じ場所を表彰式の会場として設定していたことが理解できる。 表 6 第 1 期における各審査会の日時・表彰式挙行日・場所 審査会日時 表彰式日時 表彰式会場 第1回 1925(大正14)年10月15日~17日 ― ― 第2回 1926(大正15)年7月1日から5日間 同年8月1日 三越ギャラリー 第3回 1927(昭和2)年9月12日~16日 同年10月17日 東京三越のホール 第4回 1932(昭和5)年6月6日~10日 同年7月31日 東京上野松坂屋 第5回 1933(昭和8)年6月23日~28日 同年9月中 東京日本橋区室町三越 第6回 1934(昭和9)年6月19日~23日 同年9月中 東京日本橋区通町高島屋 『子供の世紀』第 3 巻第 11 号 p.29、第 4 巻第 7 号 p.48、第 4 巻第 8 号 p.52、第 5 巻第 9 号 p.46、第 5 巻第 12 号口絵、第 10 巻第 5 号 p.2、第 11 巻第 6 号 p.14、第 12 巻第 6 号 p.2 より作成。 表彰式の全体の流れは、連盟主事伊藤悌二による開会の挨拶、会長からの式辞、審査主 任より概評の報告や子育て上の注意喚起がなされ、最後に連盟主事伊藤の挨拶によって閉 会といった内容34である。表彰された乳幼児とその親たちには、連盟から賞状やメダルが贈 呈された。 また、各審査会の表彰式を一部を取り上げる。写真 4 は、第 5 回目審査会の表彰式の様 子である。写真には、「久留島武彦先生が祝辞をのべられるところ―向かつて右端白衣の人 は文部大臣代理大西学校衛生官―」35という文章が添えられている。久留島武彦は、第 5 回 目の審査会の顧問を務めていた人物である。 写真 5 は、第 6 回審査会の表彰式における実際の写真である。写真 5 の(上)の写真は、 「開会に先立ち厳かなる君が代合唱――右より、顧問岸邊福雄氏、伊藤優良児母の会々長、 廣井審査会々長、永井総裁、文部大臣代理岩原体育課長、山桝文部参与官(本連盟創設当 時よりの理事)」36という説明がなされている。写真 5 の(下)の写真は、「表彰されんとす 34 1926 年、「東京審査会表彰式」、『子供の世紀』、第 4 巻第 8 号、p.52 35 1933 年、「第五回全東京乳幼児審査会表彰式―九月二日・東京三越ホールに於いて―」、 『子供の世紀』、第 11 巻第 10 号、口絵 36 1934 年、「第六回全東京乳幼児審査会表彰式(十月二十七日)」、『子供の世紀』、第 12 巻 表彰式の全体の流れは、連盟主事伊藤悌二による開会の挨拶、会長からの式辞、審査主任 より概評の報告や子育て上の注意喚起がなされ、最後に連盟主事伊藤の挨拶によって閉会と いった内容34である。表彰された乳幼児とその親たちには、連盟から賞状やメダルが贈呈さ れた。 また、各審査会の表彰式を一部を取り上げる。写真4は、第5回目審査会の表彰式の様子で ある。写真には、「久留島武彦先生が祝辞をのべられるところ―向かつて右端白衣の人は文 部大臣代理大西学校衛生官―」35という文章が添えられている。久留島武彦は、第5回目の審 査会の顧問を務めていた人物である。 写真5は、第6回審査会の表彰式における実際の写真である。写真5の(上)の写真は、「開 会に先立ち厳かなる君が代合唱――右より、顧問岸邊福雄氏、伊藤優良児母の会々長、廣井 審査会々長、永井総裁、文部大臣代理岩原体育課長、山桝文部参与官(本連盟創設当時より の理事)」36という説明がなされている。写真5の(下)の写真は、「表彰されんとする最優良 児241名、優良児259名、佳良児501名の母子たち、波の如く会場なる東京日本橋高島屋に参 集の光景」37である。表彰式の会場となった東京日本橋高島屋のホールには、入選した乳幼児 を抱いて主にその母親たちが大集合している。2枚の写真から、表彰式の会場は満員状態で

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あったと理解できる。 このように乳幼児審査会では、審査会に参加した乳幼児たちを審査し、優良児や佳良児と いったように分け、全体の3割弱~4割弱が入選した。表彰式の会場は、審査会会場と同じ大 型百貨店のホールやギャラリーであった。表彰者に対しては賞状やメダルなどが贈呈され た。表彰式には連盟主事伊藤を始め、顧問を務めた医学博士や官僚の人物なども出席し、壮 大な催物になっていたと理解できる。

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『子供の世紀』、第10巻第11号、口絵より転載

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『子供の世紀』、第12巻第12号、口絵より転載

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4.考察

大正時代の日本の現状や社会事業の政策の変遷等を踏まえた上で、国を挙げて子育てを支 援していくことが必要であるという認識があった。そのような状況に対し、この東京におけ る乳幼児審査会は、実践的な啓蒙活動であったということが理解できる。それまで等閑視さ れがちであった子育てに関する問題を、乳幼児審査会という行事と結び付けることによって、 子育てをする当事者たちの意識を体験的に啓蒙して転換させる契機になったと考えられる。 また、乳幼児審査会に携わった審査主任や顧問には医学博士のみならず童話作家や教育 者、宗教家、社会運動家など様々な専門家が携わっており実に学際的で、当時の乳幼児の死 亡率や健康や病気のことに加え、乳幼児とその養育者への支援を実に多方面から実施してい たと理解できる。さらに、中央省庁の協賛を得ながら実施されていたということは、特筆す べき内容である。 様々な専門家によって、子育てをする者やその他の国民に対し、子育てに関する正しい知 識や方法を普及させたことは、社会全体の子育てへの関心を高めていったと理解する。そし て乳幼児審査会で得られた科学的データは、その後の日本の小児医学や幼児教育等の研究の 基礎的データとして大きく寄与していったと理解できる。 特に、この乳幼児審査会は、従来の社会事業が対象としてきた失業や疾病などによる生活 困窮の状況下にある人々のみならず、全ての乳幼児を対象とした活動であった。子どもを育 てている養育者への支援にも目を向けていたことは、当時成立し始めた社会事業のあらゆる 活動の中で、注目すべき点である。 このような方法で、全ての人々を対象とした子育て支援を考案・実施し、養育者は体験的 な啓蒙を受けたという点は非常に先駆的であり、優れて実践的な啓蒙活動であり、歴史的に 大きな役割を担ったといえる。 5.残された課題と今後の展望 今回は触れることができなかったが、その後乳幼児審査会は戦争の激化に伴って、皮肉に も国の兵力になるような強い子どもを育てるといった意図が加わり、次第に審査会で入選し た子どもは将来の兵士として期待されるようになり、父が兵士として戦争に携わっていくと、 親子共々一層たたえられるような風潮も出始める。大正デモクラシーの自由な風潮の中で、 子どもを純粋に愛護する首唱、社会全体での子育てに関する意識啓発に大いに貢献した大阪 児童愛護連盟の活動も、社会の変容に伴って、乳幼児審査会の主旨や目的の変容を余儀なく され、審査会の消滅に象徴されるように縮小の一途をたどる。 今後は、今回着手した第1期の審査会に続く第2期、第3期の審査会の実態と、戦争と相俟 った内容の変化を吟味し、この運動が大正期においてどのような役割があったのか、研究を 行っていくこととしたい。

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1 右田紀久恵、高澤武司、古川孝順編、1977年、『社会福祉の歴史』、p.205 2 孫順鎬、1994年、「児童保護事業の歴史的一考察」、『佛教大學大學院紀要』、第22巻、p.103 3 同上 4 吉田久一、2004年、『新・日本社会事業史の歴史』、勁草書房、p.220 5 古川孝順、2005年、『社会福祉原論[第2版]』、誠信書房、p.32 6 一番ヶ瀬康子、高島進編、1981年、『社会福祉の歴史 講座 社会福祉第2巻』、有斐閣、p.52 7 同上 8 毛利子来、1972年、『現代日本小児保健史』、ドメス出版、p.100 9 海野幸徳、1924年、『児童保護問題』、内外出版株式会社、p.13 10 同上、pp.13-14 11 同上、p.14 12 同上、p.14 13 和田典子、2006年、「大阪児童愛護連盟の機関誌『子供の世紀』について―創刊・終刊を中心 とした書誌事情とその位相―」、『近畿福祉大学紀要』、第7巻第2号、p.187 14 同上 15 同上 16 和田典子、2007年、「大阪の乳幼児保護施策と公的保育の成立(1)―大正期大阪の社会事業 を背景として―」、『近畿福祉大学紀要』、第8巻第1号、p.17 17 1925年、「乳児と幼児の健康診査会-愛せよ、敬せよ、強く育てよ-」、『子供の世紀』、第3巻 第11号、p.29 18 同上 19 1927年、「第三回東京乳幼児審査会規定=一名赤ちやんの審査会=」、『子供の世紀』、第5巻第 9号、p.46 20 1927年、「第三回東京乳幼児審査会規定=一名赤ちやんの審査会=」、『子供の世紀』、第5巻第 9号、p.46 21 株式会社クラブコスメチックス、ブランドヒストリー http://www.clubcosmetics.co.jp/pdf/history.pdf (2014年8月20日アクセス) 22 株式会社クラブコスメチックス、企業情報、沿革 http://www.clubcosmetics.co.jp/company_history.html (2014年8月20日アクセス) 23 1931年10月10日読売新聞(東京)朝刊p.5「[広告]錠剤わかもと/栄養と育児の会」 24 同上 25 一記者、1927年、「東京赤ちやんの審査会五日間の日記」、『子供の世紀』、第5巻第10号、p.27 26 CiNii(http://ci.nii.ac.jp/)において著者検索 キーワード「中鉢不二郎」(2014年6月19日)

(25)

27 伊藤悌二1926年、「東京赤ちやんの審査会を終りて」、『子供の世紀』、第4巻第7号、p.3 28 1926年、「東京赤ちやん審査会概評」、『子供の世紀』、第4巻第8号、p.12 29 林路彰監修、1989年、『乳幼児身体発育値』、南山堂、P.11 30 同上 31 内村良二、1927年、「第三回東京赤ちやん審査会所感」、『子供の世紀』、第5巻第11号、p.32 32 内村良二、1927年、「第三回東京赤ちやん審査会所感」、『子供の世紀』、第5巻第11号、p.33 33 1926年、「東京審査会表彰式」、『子供の世紀』、第4巻第8号、p.52 34 1926年、「東京審査会表彰式」、『子供の世紀』、第4巻第8号、p.52 35 1933年、「第五回全東京乳幼児審査会表彰式―九月二日・東京三越ホールに於いて―」、『子供 の世紀』、第11巻第10号、口絵 36 1934年、「第六回全東京乳幼児審査会表彰式(十月二十七日)」、『子供の世紀』、第12巻第12 号、口絵 37 同上

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Abstract

During Japan’s Taisho period (1912‒1926), the high infant mortality rate was acknowledged as a social problem, and came to be regarded as one of the most important challenges relating to children. Although infant mortality rates were closely related to poverty and poor hygiene, the most significant factor was thought to be the fact that parents, and citizens at large, were not adequately versed in the basic knowledge required for parenting such as that relating to hygiene, disease, and nutrition.

Launched against this background, the Children’s Protection Association of Osaka undertook a variety of children-focused initiatives. One of these was the Babies Screening Board, an awareness campaign that invited children under two years of age (and their parents) for physical measurements and medical examinations, seeking additionally to serve as an opportunity for stimulating citizens’ interest in parenting and to promote parenting skills through the involvement of a variety of experts. To consider how people were educated about parenting, how such knowledge was disseminated, as well as the nature of the role of the organization, the present study clarified the nature of the Tokyo Babies Screening Board by drawing primarily on the organization’s in-house newsletter, The Century of Children.

Keywords: infant mortality rate, child welfare, The Century of Children, the Babies Screening Board of Tokyo

A Study of the Historical Role of the

Babies Screening Board from the Late

Taisho through Postwar Periods

表 1  出産 100 に対する海外の乳児死亡率  国別  年次  1920  (T9)年  1925  (T14)年 1926  (S 元)年 1927 (S2)年 1928 (S3)年 1929  (S4)年  1930 (S5)年 日本  16.6  14.3  13.7  14.2  13.8  14.2  12.4  イギリス  8.0  7.5  7.0  7.0  6.5  7.4  6.0  アメリカ  8.6  7.2  7.3  6.4  6.8  6.8  ―  ドイツ  13.1
表 4  第 2 回審査会の参加者の地域分布  神田区  140   荏原郡  290  日本橋区  125   豊多摩郡  271  浅草区  115   北豊島郡  228  芝区  114   南葛飾郡  80  下谷区  112   南足立郡  16  本所区  90   北多摩郡  10  本郷区  86   西多摩郡  1  小石川区  81   府下894(899)  八王寺市  3  京橋区  65   神奈川県  26  麻布区  62   横浜市  25  牛込区  53   千葉県

参照

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