明治期における倫理の葛藤(二) ―所謂「哲学館事
件」をめぐって―
著者
針生 清人
著者別名
HARIU Kiyoto
雑誌名
アジア・アフリカ文化研究所研究年報
巻
31
ページ
1-13
発行年
1996
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00010096/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja明治期における倫理の葛藤
(
二
)
│ │ 所 謂 ﹁ 哲 学 館 事 件 ﹂ を め ぐ っ て │ │ 井上円了は、教育勅語が初章を﹁徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ﹂で始め、末 章を﹁威其徳ヲ一ニセン﹂でしめくくっていることから、勅語は﹁徳﹂が 中核であって、﹁忠も孝も皆徳の区分﹂であり、﹁徳の樹が分岐して忠孝二 道﹂となるという。 これが勅語の﹁表面の相対的釈義﹂だというのである。 この相対的釈義によると、勅語全体は﹁相対的忠孝﹂で一貫しているとい わ れ る 。 これに対して円了は自ら﹁独自 L という﹁絶対的釈義﹂があり得るとい ぅ。すなわち、﹁父母ニ孝ニ:::一日一緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ L に お い て 、 ﹁ 以 テ ﹂ が ﹁ 一 旦 緩 急 ﹂ のみを受ける なら、﹁皇運扶翼﹂は相対的忠を示めすにとどまるが、﹁父母ニ孝一一﹂以下 の全条を受けると解するなら、 それは﹁絶対的忠﹂を意味するというべき である。すなわち、﹁一旦緩急 L と は ﹁ 国 家 の 危 急 存 亡 の 場 合 ﹂ で あ り 、 ﹁以テ﹂の語がこのような万一の場合のみを受けるとすれば、﹁忠﹂は﹁変金
十
生
清
人
時﹂の忠であり、﹁平常無事の日には無き﹂ も の で あ る 。 これは﹁忠君愛 国﹂といわれる時の﹁忠﹂ ﹁無事の日と危急の日とを問 で あ る 。 し か し 、 わず﹂人は生きねばならぬ。﹁無事の日 L ( 平時)こそ人の生きる時であり、 人はそのような時にこそ、孝道、友道、和、信を尽くし、国憲、国法に遵 ぃ 、 ﹁ 以 テ 皇 運 ヲ 扶 翼 ﹂ す る の で あ る か ら 、 忠は孝を初めとする諸徳目を 包含するというべきであり、 ﹁ 義 勇 奉 公 L のみを示めす変時の﹁忠﹂とは 異なり、﹁絶対的忠 L だというのである。 勅語の最終句の﹁忠良ノ臣民﹂は﹁忠﹂ を 意 味 し 、 ﹁爾祖先ノ遺風ヲ顕 彰 ス ル ニ 足 ル ﹂ は 、 ﹁ 孝 ﹂ を意味する句であるが、 それは国民個々人が日 常の社会生活において、 孝 友 和 信 、 義勇奉公の諸徳目を遵守する時、﹁忠 孝相通じて一となり、君主に忠なるは父祖に孝なる所以、父祖に孝なるは 君主に忠なる所以﹂であり、忠と孝とは同一のものとなる。 それ故、円了 は﹁余が所謂絶対的忠は此忠孝一致の極まる処に与へたる名目﹂だという のである。このような社会生活における諸徳の実践は、個人に道徳的に自 立を求めるものであって、単なる﹁忠君愛国﹂ の 倫 理 で は な く 、 ﹁ 自 主 愛明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 ( 斗 国﹂の倫理と呼ばれるべきものである。 しかし時代は、西欧の倫理に学ん だ﹁自主愛国﹂の倫理を、直ちに﹁忠君愛国﹂の倫理を離れて論ずるよう な状況にはない。 円了はこのような状況にあって、 ﹁我等臣民は皇室の分 家末孫 L であるから、父祖に孝を尽すことは忠になるというレトリックで ﹁孝﹂に意味をもたせたものであるといえる。 円 了 は 、 孝経の﹁所謂天孝 天之経也、地之誼也、民之行也﹂が絶対的孝、 忠経の ﹁ 所 謂 天 之 所 レ 覆 、 地 之 所 レ 載 、 人 之 所 レ 履 、 莫レ大ニ於忠一﹂が絶対的忠を示めすものであり、 また、尼乾子経の﹁君者民之父母﹂がその論拠だとして、絶対的忠孝を伝 えるのは﹁神儒仏三道が最も適する﹂としているが、神道がそれを果し得 るという論拠を挙示していない。円了にあって、絶対的忠はあくまでも日 本に特殊である。 従来、﹁忠君﹂が説かれるにしても、 そ れ は ﹁ 個 人 的 忠 君 に し て 、 人たる一臣民が一個人たる一君主に対して尽くす心得のみ﹂を説き、国家 愛国を説かざる風﹂があ の主権に尽くすものではなく、 ﹁ 忠 君 を 説 く も 、 るので改めなければならぬという。 教育勅語の解釈にも見られるように、井上円了の倫理思想は、当時の国 情を反映して、忠を主軸にして論じなければならなかったのは他の人々に とっても同じことであったが、円了は﹁忠﹂概念の中に、 あるいは忠と一 致させる形で﹁孝﹂概念を取り入れ、 それによって他の道徳的徳目を﹁忠﹂ と同等の位置に引き上げ、 ﹁ 忠 君 ﹂ の他に庶民の社会生活が存在すること を知らしめる。また、世界普遍と日本特殊の倫理を区別するが、 日本に特 殊な倫理の中に﹁愛国﹂を導入しようとしている。 それは、教育勅語と良 心の樫椅の中で、従来﹁忠君 L に無縁であった庶民に、武士 H 士族のいう 忠とは異なる忠をいかにして教えるか、 そして﹁自己、家族、社会、国家﹂ に対する忠に目覚めさせるか、を目的としていたのである。 それは天皇に 対する忠ではない。 また、国家の危急存亡というようなことは、希有の事なので、戦時、変 事を前提にした﹁忠君愛国﹂ 寸日夜百事を行なう平時、無 の 倫 理 よ り も 、 事の日﹂の倫理を重視する。﹁忠君愛国﹂ の倫理を強調する神道、 儒教に 対して、仏教は教育勅語の﹁玄義を謬まることなきを得ベし﹂という。円 了の説く倫理は、市井の生活を営む庶民に向けられたものであり、啓蒙の 意味が強いといえる。 以上のことから、円了は﹁忠君愛国﹂の倫理を表面に立てながら、世界 に普遍的な倫理を以って庶民を道徳化しようとしていたといえる。 し か し 、 個 ﹁忠君愛国﹂の倫理を表面に立てざるを得ないというような状況はいかに して生じたのであろうか。 維新政府は﹁王政復古﹂を宣言(慶応三年十二月九日)し、新政府の基 本方針を﹁五箇条誓文﹂(慶応四年三月十四日﹀によって示めし、﹁誓文﹂ の趣旨(﹁制度規律ヲ建ツルハ御誓文ヲ目的トス﹂)に基づき、幕藩体制下 の庶民に対するイデオロギーであった仏教を抑さえるため、﹁神仏混滑耕一市 止﹂を布告(慶応四年三月二八日)、 ﹁ 政 体 書 ﹂ ( 慶 応 四 年 四 月 一 一 一 日 ) に よって太政官制度を敷いた。 それは封建諸制度を廃止しつつ新官制の整備 を行なうものであり、三権分立、官吏公選、公議政体制を明記したもので、 政治における﹁開化﹂を示めす新鮮さがあった。 しかしそれは、欧米の政
治制度を表面的に模倣しただけであって、民主主義的な政治思想を受容し たものではなかった。反ってその実際は、表面的な寸開花﹂を示めした ﹁五箇条誓文﹂と同時に布告された ﹁ 五 梼 の 掲 示 ﹂ に見られるように、幕 藩体制下の人民支配を踏襲していたのである。 第一札定、人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事。 第二札定、・:徒党シテ強ヒテ願ヒ事企ルヲ強訴トイヒ、或ハ申合セ居町 居村ヲ立退キ候ヲ逃散ト申ス、堅ク御法度タリ・:。 第三札定、切支丹宗門ノ儀ハ堅ク御禁制タリ:・。 これらに見られるように幕藩時代と何ら変わることはなかったのである。 維新の諸変革を支えたイデオロギーは﹁天皇親政﹂であるが、 それは﹁抑 臣等居ル所ハ即チ天子ノ土、臣等牧スル所ハ即チ天子ノ民ナリ、安ンゾ私 有スベケンヤ﹂に依って実現したのである。それは確かに幕藩体制を根底 から覆す﹁王政御一新﹂ではあったが、人民統治のイデオロギーには何ら 変るところはなかったのである。 政体書に従い太政官制がとられ、 その一つとして﹁掌レ統コ判神祇祭祝部 神戸こを職務とするつ神祇官﹂が新設された。 ﹁ 職 員 令 ﹂ ( 明 治 ニ 年 七 月 八日)によって、神祇官は太政官に上位することになり、 さらに﹁大教宣 布 L ( 明治三年一月三日﹀の詔勅によって﹁教部省 L に拡大され、﹁教導 職﹂が置かれた(明治五年三月十四日)。 そ れ は 、 全ての宗教思想を統制 し、神道によって﹁国体観念の徹底﹂を計るものであった。仏教に代って、 神道が国民教化の主柱となったことは、維新のイデオロギーが﹁神道﹂に 求められたことを意味するのである。 一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキコト 明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 (斗 一、天理人道ヲ明ニスベキコト 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト このコニ条ノ教憲﹂は明治政府の基本方針を明らかにし、宗教、道徳を 政府の管理下に置くことを明確にしたのである。 ﹁ 王 政 御 一 新 L は神道に傾斜することによって、旧幕時代に繁栄し、 そ の 宗教的、道徳的土壌となっていた仏教を排除する結果になる。 それは一方 で全国に散在する寺院領の没収、 他方で﹁神仏判然令﹂(慶応四年三月 八日)によって仏教を﹁外教 L と規定し、斥けることになるのである。し かし﹁神仏判然ノ御所分被レ為レ在候ぺ専ラ孝敬ヲ在天祖宗ニ尽クサルル 為ニシテ、今更宗門ヲ褒疑スルニ非ズ。然ルヲ賊従、批一言ヲ以テ、朝廷、 排仏段釈コレツトムト申触一フシ、下民ヲ煽威動揺セシムル:・ L に見られる ように、政府は必ずしも廃仏製釈を意図するものではなかったが、神道に 傾斜する政府の意図を積極的に受け入れる地方官庁によって廃仏製釈が進 められ、明治四年頃まで全国的に広まったのである。しかし、 このような 廃仏の動向を新政府の神道政策と受け止める仏教各宗は何ら抵抗すること なく、反って新政府の宗教政策に同調する途を採り、仏教諸本山各宗連名 の﹁大教院創立の建白﹂(明治五年五月) そ れ は 、 を提出したのである。 ﹁ 今 輩 下 ニ 一 大 教 院 ヲ 設 ヶ 、 神道ヲ始メ釈漢洋科学ヨリ宇内各国ノ政治風 俗農工物産ニ至ルマテ悉ク之ヲ講習シ、海外ノ講師ニ娘サラシメ、人材ヲ 練育シ、頑固透僻ノ悪習ヲ一洗シ、今日定用ノ学ヲ起サシメ:・﹂と述べら れるように、仏教は従来の枠組みを超えて神道さらには政治経済、科学を も視野にいれて社会の啓蒙に当るというものである。これは仏教が政治と 新たな結合をなし、生き残ろうという意志表示であったといえる。
明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 同 仏教各宗は、古くから庶民と密接な粋をもち、本山末寺の統制的な関係 で結ばれ、説教能力を有する無数の僧侶を擁し、 しかも説教の場としての 寺院を全国に遍在させている。このことからすれば仏教は、当時最も秀れ た、あるいは唯一の、国民教化の能力とネットワークを有していたのであ る。その故に、政府は、仏教側からの建白を受け入れ、芝増上寺に﹁大教 院﹂を置き(明治六年二月五日)、 ﹁ 中 教 院 ・ 小 教 院 ﹂ を漸次、各 さ ら に 府県に設けて行ったのである。これによって寺院は政府機関の末端となり、 住職は地方官によって任命されて﹁教導職﹂となり、官に奉仕することに な っ た 。 各級教院及び教導職の任務は、新政府の政策を全国に示めして国民を教 導することにある。国民教導に当つての原則は、前記の﹁三条の教憲﹂で あり、復古神道、道徳教化、天皇体制の三点を教化することに限定し、 れ以外についての法談を禁じている。 教導職任用及び進級に関して、教部省は﹁十一兼題、十七兼題﹂と称す る項目を与えている。 十一兼題は、神徳皇恩、人魂不死、天神造化、顕幽分界、愛国、神祭、 鎮 魂 、 君 臣 、 父 子 、 夫 婦 、 大 械 、 の 十 一 項 目 で あ る 。 十七兼題は、皇国国体、道不可変、制可随時、皇政一新、人異禽獣、不 可 不 学 、 不 可 不 敬 、 万国交際、国法民法、神法沿革、租税賦役、富国強兵、 産物整物、文明開化、政体各種、役心役形、権利義務、 の十七項目から成 っ て い る 。 この両兼題に見られる各項目は、新政府にとっての緊急かつ重要な課題 であり、単に教導職の任用、進級のための試験科目に終ったわけではなく、 四 教導職を通じて政府の意図をこれらの項目に托して反復、国民教化を行な っ た の で あ る 。 国民教化を組織的に行ない、文明開化を推進するため、明治政府は早く から教育の制度化に力を尽したといえる。 それは先ず高等教育から始めら ー レ F -
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み A吋争 j 旧幕時代ノ最高学府﹁昌平校﹂がっ大学﹂と改称された(明治二年五月) が、その基本的性格には変更はない。 ﹁ 道 の 体 た その﹁綱規﹂によれば、 るや物として在らさるなく、時として存せさるなく・:、其要は則ち三綱玉 常、其事は則ち教訓教化、其詳なるは則和漢西洋、諸書の載する所、学校 そ は乃ち斯道を講じ、知識を広め才徳を成し、以て天下国家の実用を奉ずる 所の者也、蓋し神典国典は皇道を尊み国体を弁するにあり、乃ち皇国の目 的学者の先務と云ふべし、漢土の孝悌倫葬の教治平天下の道、西洋窮理開 化日新の学、亦皆是斯道の在る所、学校の宜しく講究採択すべき所なり﹂ と明示されるように、大学で譲与する国政国家の学は神典国典にとり、道徳 人倫の学は漢学に、格物窮理は西欧に求めるものであって、﹁学政の最大要 ﹁明かに政府の人才を養成するの所 ( 5 ) と見なしたる L ものだと竹越も指摘するところである。しかしこの﹁綱 旨 は 、 唯だ一の折衷主義﹂にすぎず、 規 L が規定する重要事は、 ﹁皇道を尊み国体を弁する﹂ ことが第一であっ て、倫理道徳も政治も、 開化をもたらす洋学も全て、 ﹁皇道国体﹂に従属 させたことである。 国家主義的なイデオロギーを基底に置く教育が目指す倫理は、常に﹁我園田有﹂と云われるのみであって、他国他民族にも固有の倫理がある事は 結局は認めるところではない。 いうならば、佐久間象山謂うところの﹁東 洋道徳、西洋芸術﹂の域を越えず、東洋文化の真髄である忠孝の倫理を堅 持するだけである。しかし、そうであるにしても、﹁西洋道徳 L の存在する ことに気づく者も現れる。 黒船の浦賀来港を見た由利公正は、 ﹁ 嬢 夷 の 空 論たるを知って、彼国がどうしてかういふ精鋭な武備ができたか、其原因 を研究せねばならんと思ひ付いた﹂ という(﹃由利公正伝も。 また大隈重 信 も 、 ﹁種々の書籍を輸入し是れを読むに及んで、 始めて彼の国にも亦た 君臣あり政府あり、其の制度、法律、秩然として備はり、其の宗教、文物 まで亦た取るに足るものあるを覚れり。・:外人の長所は単に器械兵制のみ ( 6 ) にあらざるを知れり L というように、西洋道徳に注目する者も現れていた。 海外に渡航した者も、 ﹁忠君﹂とは別種の精神が国家を支え、 繁栄させ る源となっていることを自覚するに至るのである。 その最たるものは、右 大臣岩倉具視を特命全権大使とする遣外使節団、所謂岩倉使節団、 の体験 である。岩倉使節団は幕末維新期の最大かっ強力な影響力を有した最後の 使節団であった。大使岩倉具視(右大臣)、副使木戸孝允(参議﹀、大久保 利通(大蔵卿)、伊藤博文(ヱ部大輔)、山口尚文(外務少輔)以下四八名 (資料によって若干の異同があり、 玉一名と推測される﹀ か ら 成 る 。 派 遣 の直接的な目的は、条約改正協議の期限(明治五年)を目前にしたが数年 の延期を要請することにあったが、明治四年十一月十日から六年九月十三 日までの一年九ヶ月一二日に及ぶ欧米諸国の﹁政教兵備ノ底細ヲ観察廉 訪﹂した体験の方が重要であった。その全体が杉浦弘蔵(後、畠山義成) と久米邦武によって記録された。 その﹃特命全権大使米欧回覧実記﹄は、 明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 ( 斗 tと 公 書旦式 」 記 で 録 あ た
富
田
の 最 大 関 ,[., 事 は 文書類を含んではいないが、 ﹁日本国民に対する公的な実況報 日本の近代国家への基礎固めで あり、将来問題である。 その関心に沿って﹁日日目撃耳間セル所ヲ筆記﹂ されるのは、東洋西洋の比較、国情、産業その他多岐にわたるが、小国日 本に鑑み、欧州大固と対峠するベルギー、 オ ラ ン ダ 、 スイス等ノ小国に強 い関心を示めしている。これらは小国ではあるが、﹁能ク大国ノ間ニ介シ、 自主ノ権利ヲ全クシ、其営業ノカハ、反テ大国ノ上ニ超越シテ、自ラ欧洲 一一管係ヲ有スルノミナラス、世界貿易ニ於テモ影響ヲナス﹂存在であると いう。また、使節団はウインで開催されていた万国博覧会を見学している が、諸工産を出品している状況を見るにつけて、大国に対して小国も﹁工( m )
各良宝ヲ組蓄スル﹂こと 芸ニ於テハ相譲ラ L ぬ の は 、 ﹁ 民 ノ 自 主 ヲ 遂 ケ 、 を知る。要は、﹁自主ノ精神﹂ の多少にかかっている。 ﹁ 自 主 の 生 理 ﹂ 寸 自 主の精神 L を堅持する限り、小国も大国をしのぎ得るのであって、 工産品 の競争という﹁太平の戦争﹂に勝利するには﹁忠君﹂の倫理ではなく、﹁自 主の精神﹂こそが不可欠なのだということをはっきりと自覚したのである。 四 大 隈 重 信 は 、 黒船来航の折を回顧して、 なかりしなり﹂ ﹁徳川時代の武士には愛国心は ( 日 ) ﹁彼等の歩を導きたるは唯忠義心ありしのみ﹂といい、こ れに対して明治十年代は﹁今や、其の忠義は一変して愛国心となれり﹂と 指摘している。 それは﹁忠君愛国 L の倫理から﹁自主愛国﹂の倫理への移 行を述べるものであるが、 そのような﹁自主愛国﹂の倫理は自然発生した ものではない。封建の廃滅、維新の改革は、社会を変えただけではなく、 五明治期における倫理の葛藤 ( ニl 寸実に形市上の事物即ち人の思想の上にも一大変化を与へ、信、義、廉、 潔など云へる我が国民特有の美性は著しく消失して、不信義、不廉潔の悪 習は、漸く社会の上下に浸及するに至 L ったと見なされたのである。 明六社同人中村正直は、﹁王政御一新 L と称されるがそれは ﹁ 幕 政 ノ 旧 ヲ去リ王政ノ新ヲ布ク﹂ということであるので、﹁一新 L と は ﹁ 政 体 ノ 一 新トイフマデニテ人民ノ一新﹂ではなかった。人民は﹁旧ノ人民 L で あ っ て、﹁奴隷根性、下ニ購リ上ニ婦ビ、無学文盲、 酒 色 ヲ 好 ミ 、 読書ヲ好マ ズ、天理ヲ知ラズ職分ヲ省リ見ズ、智識浅短局量編小、労苦ヲ厭ヒ顛難ニ 堪ヘズ、私智ヲ挟ミ小慧ヲ行フ、勉強忍耐ノ性ナク、浮薄軽操胸中主ナク、 自立ノ志ナク人ニ依頼スルヲ好ム、観察思想ノ性ニ乏シク、金銭ヲ用フル ヲ知、ザル、約諾ヲ破リ、信義ヲ重ンゼザル、友愛ノ情ニ薄ク合同一致シガ ( 日 ) タキ、新発明ノ事ヲ務メザル人民﹂であるという。よくぞこれまで羅列し たといわざるを得ぬほど、徹底した愚民観に立っている。この様な愚民の ﹁性質ヲ変シ善良ナル心情高尚ナル品行ニ化セシ﹂むることが必要だとい う の で あ る 。 中村正直の様な徹底した愚民観に立たなくとも、庶民は無道徳的状態に あると認める者は多い。 であるからこそ、国民啓蒙、道徳教化を説く者を 輩出したのであり、 それを実践することが﹁文明開花 L への捷径だとした の で あ る 。 そのような文明開化の運動の先駆となったのは福沢諭吉の﹃学 聞のすすめ﹄(明治五年)であり、﹃文明論之概略﹄(明治八年﹀であるが、 独力の気力、自主独立の精神こそが文明の精神であることを国民に広く教 えたのである。 このような﹁自主の精神﹂ ﹁独立の気力﹂が﹁文明の精神﹂ であるとい 」 ノ、 う主張が広く世に受け入れられた明治十年代の倫理教育の教科書として採 用されたのは、主として翻訳書あるいは翻案書であったが、 それらは﹁忠 君 L の倫理ではなく、﹁愛国 L の倫理を説くものであった。 従 っ て 、 当 時 の 文
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た ( と 明 い 治 え 四(る 年日の 〉 で で あ る あ る が 、 そのつ巻之上、第一篇人ノ務ノ種類 L では人の務として﹁天、自 己、人﹂の三者に対する務をあげ、 ﹁ 巻 之 中 、 第四篇人ニ対スル務﹂の内 ﹁顧恩﹂の項では、﹁天ノ思、父母ノ恩、国ノ思 L が説明されるが﹁君ノ恩﹂ という項目はない。 ﹁巻之下、第六篇国ニ対スル務 L 第一八七章では﹁国 ハ数万ノ家族相合シテ成ル者ニシテ、上ニ君長アリ、法律ニ循ヒ之ヲ管理 ス﹂、第一八九章では﹁国民ノ最大ナル務ぺ国法ヲ尊ミテ百事之ニ倣ヒ、 官府ヲ敬シテ万件之ヲ助クルニアリ﹂ と あ る が 、 ﹁ 忠 孝 ﹂ は説かれていな ぃ 。 ま た 、 兵 役 、 報国志を述べる第一九章では、﹁士民ハ皆国ニ忠ヲ尽ク シ、泰平ノ日ハ其法令ヲ守リ之ヲ修整シ、外冠アル時ハ死ヲ怖レズ之ヲ防 護ス可シ L 、 ま た ﹁己ニ克チ国ノ為メニ我財産我性命ヲ憐タントスル心ヲ 名ケテ報国志ト云フ﹂(一九八章)、 猶其父母ヲ愛敬 ﹁ 人 其 国 ヲ 愛 敬 ス ル 、 スルガ如クス可シ﹂に見られるように、愛国の倫理が強調されるが、忠君 は欠除している。 ﹁愛国の倫理﹂はそれに対応して国民各個の権利を保障する。 それについ ては﹁士民ノ国ニ報ユル務ニ換へ国法ニテ土民ニ左ノ権利ヲ授ク﹂として、 ﹁士民自由ノ権、所有ノ権﹂(二O
四章)が挙げられ、 そこに示されるのは ﹁身体自由、本身自由、意思自由、出板自由、 一 言 詞 自 由 、 物件自由﹂とい う市民社会の原理的権利が列挙されている。さ ら に 、 ﹁ 徳 ニ 進 ム ノ 法 、 ﹃ フ ラ ン ク リ ン ﹄ ノ教務﹂(一二七章)には、 フランクリンのいう徳十二条が列挙されている。即ち、節制、沈黙、順序、 確志、節倹、勤労、誠実、公義、温和、清潔、寧静、謙遜、 である。ここ では全く﹁忠君 L の倫理は姿を見せていない。 その後も相つぐ西欧からの輸入思想は近代化を急ぐ日本にとって、 日 本 をゆさぶるものでもあった。それを代表する自由主義的な政治思想は﹁愛 国 L 思想と結合して、大きな政治運動となるのである。立志社による﹁民 選議院設立建白書﹂(明治十年)に始まる ﹁ 自 由 民 権 運 動 ﹂ の基礎理論と なるのは、ミル、 スベンサ l 、 ル ソ
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の思想であり、この三者の思想に応 じて政治運動も類型化される。自由民権運動は秩父騒動(明治十七年)に おいてその頂点に達するが、明治二十年代には、この民権運動の過激化と、 それ以前から保守派を刺激していた鹿鳴館に見られるような極端な欧化主 義に対する反動として国家主義が次第に発言力を増して来たのである。 れ は 、 日 本 道 徳 の 確 立 、 日 本 人 の 覚 醒 、 キリスト教排撃という形で現われ て い る 。 五 日本道徳の確立を標梼する西村茂樹﹃日本道札縦﹄(明治十九年) t土 王政維新の初め、﹁旧物ヲ一洗﹂ したため道徳の標準、 道徳の根拠も失な って、旧時代に比して﹁人心其固結カヲ弛緩シ、民ノ道徳漸ク頚敗ノ兆﹂ を見るに至った。従って﹁王政維新以来全ク公共ノ教トイフ者ナク、国民 道徳ノ標準定マラズ﹂今日に至っている。道徳地におちるときは国の危亡 の 時 で あ り 、 ﹁全国ノ民カヲ合セテ本国ノ独立ヲ保チ、 併セテ国威ヲ他国 明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 ( ニォ -一耀カスヲ以テ必須至急ノ務 L としなければならぬ。 しかし A 寸 日 、 ﹁ 一 モ 西洋二モ西洋トシテ其美悪ヲ弁別スル﹂ことがない。西欧の考索研究によ る学術、政治、法律は優れているとしても﹁人情風土ノ異ナルアリテ西国 ノ学術等ヲ其億ニ之ヲ東洋ニ用フル﹂ことはできない。 西村茂樹にあって﹁日本道徳﹂確立の要求は、﹁国家独立﹂﹁国威発揚﹂ の見地からなされる。 そして西村は﹁日本道徳﹂の確立と普及のため、 ﹁ 日 本 弘 道 会 ﹂ ( 明 治 二O
年、前身は明治九年創立の東京修身、学社、明治十 七年日本講道会と改称)によって具体的な運動を開始する。 そ の ﹁ 綱 領 ﹂ は次の項目を挙げている。 一、神明を敬うベし。二、本国を大切にすべし。一一一、国法を守るベし。 四、学聞を勉むべし。身体を強健にすべし。五、家業を励むべし、節徳を 守るべし。六、家内和睦すべし、同郷相助くべし。 七、信義を守るべし、 そ 慈善を行うべし。八、人に害をなすべからず、非道の財を食るべからず。 九、酒食に溺るべからず、悪しき風俗に染まるべからず。十、宗教を信ず るは自由なりといえども本国の害となる宗教は信ずるべからず。というも の で あ る 。 以上の項目を見ると、西村の云う﹁日本道徳 L は、伝統的な神道、仏教 を根本とし、社会道徳と愛国を強調し、 キリスト教を排除するという形で、 国家体制を強く意識した倫理ということができる。 ﹁日本道徳﹂ということを主張する西村の立場は儒教に立つものであるこ とはいうまでもない。西村の哲学の根本は、﹁宇宙開唯一の元気あるのみ、 元気は至大の動力ありて、浩々蕩々、無始無終、大は六合の聞に時晴し、 小は微塵の中に透入す、 日月星辰の大より草木魚虫の微に至る迄其生育、 七明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 同 其変化、其枯死、 ︿ 時 ﹀ 一も元気の為に非ざるはなし﹂と述べているように、物 質も精神もコ苅気﹂という実体に帰属させる。このコ否丸﹂を動かすのは で あ る 。 術語用法から指摘されるように、西村は儒教的観念論の立場に立って、道 人間の五感によっては感知され得ぬ﹁神明﹂﹁天道 L このような 徳論を論ずると同時に、﹁政治 L と﹁修身﹂の分離に反対している。 ﹁愛国﹂の倫理に立ち、政治と倫理の分離に反対するからといって、西村 の道徳論は福沢諭吉や民権論者の主張とは全く異なる。西村にあっては、 皇統連綿が先にあって、 その後に国家があるという意味での﹁愛国﹂であ る。これに対して、福沢諭吉が述べるのは、経済繁栄によって国力を養い、 その国力を以って皇室の連綿を維持するというものである。 い う な ら ば 、 皇室の安泰は国家の独立繁栄の結果、自然に生来するというものであって、 忠君の倫理よりも愛国の倫理を鼓吹するものである。 また、民権運動は自主独立の倫理を提唱するものであり、自ら愛国を名 ﹁愛国社﹂の﹁愛国社合議書﹂(明治八年二月一一一一日)も同様の趣 とする 旨を記している。すなわち﹁此社を結ぶの主意は、愛国の至情自ら止む能 はざるを以てなり。夫れ国を愛する者は、須らく先ず其身を愛すべし﹂と 政社創立の理由を述べ、 この愛国社に依って、 ﹁以て各其自主の権利を伸 長し、人間本分の義務を尽し、小にしては一身一家を保全し、大にしては 天下国家を維持するの道より、終に以て天皇陛下の尊栄福祉を増 L すもの だという。これに於いては、 よ り 明 確 に 、 一身一家の保全が先であり、国 家の維持がそれに次ぎ、 それによって初めて天皇の尊栄が成るというので あ る 。 しかしこのような﹁自主愛国﹂の倫理が政治と結合し、民権運動となっ 八 て過激化する時、﹁忠君愛国﹂の倫理からのまきかえしが始まる。﹁自主愛 国﹂の倫理を干渉、否定するものであるところから寸干渉教育令﹂と攻撃 された﹁改正教育令 L ( 明治十三年﹀は、教育の根本方針を、﹁学校ニ従事 スル者ハ宜ク先ヅ我国体ヲ明ニシ、幼稚ヲシテ夙ニ大義ノ在ル所ヲ弁ジ、 其尊王愛国ノ心ヲ養スルヲ以テ一大主脳ト為スベシ﹂(﹁小学修身書編纂方 大 意 ﹂ ) 修身科を教科の最上位に置いたのである。 というところに定め、 これは儒教主義的倫理教育の復活を意味する。これを受けた元田永字の ﹃幼学綱要﹄(明治十五年)の掲示した徳目は﹁孝行、忠節、和順、友愛、 信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲、倹素、忍耐、貞操、廉潔、敏智、 剛勇、公平、度量、決断、勉職 L の二十徳目であるが、 その中には、箕作 麟祥訳述﹃泰西勧善訓蒙﹄に見られたようなっ士民自由ノ権﹂の徳目は欠 落している。開化を進めるため西欧に学んだ権利思想を欠いたこれらの徳 日 主 義 は 、 ﹁ 自 主 愛 国 ﹂ の倫理への反撃として現われたばかりでなく、民 権運動とも対立するものである。 ﹁改正教育令﹂の﹁改正﹂は、 従 っ て 、 ﹁学制施行以来の教育制度を改正したとか大成したとかではなく、 まった く別の原理にもと e ついて再出発させたもの、 あ と る
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え は よ ( 、 う珍こ L ~ と に の 初 指 め 摘 て は 学 重 校 教育が国家の手で内容的にも始められたもの、 要 で あ る 。 ﹁ 小 学 校 令 L ﹁教科用図書検定条例﹂(明治 そしてこの傾向は、 十九年)にも継承され、﹁教育勅語﹂(明治一一一二年)によって、国家主義的 教育、忠君愛国の倫理教育を更に強化整備されて行くのである。 そして ﹁小学校教則大綱﹂に示めされた修身教育の目的は、﹁教育勅語﹂に基いて、 児童の良心を啓発し、徳性を踊養し、道徳実践の方法を教授するという所 に置かれたのである。 そこに示めされる徳目は孝悌、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹であり、特に尊王愛国の志気と国家に対する責務につい て教授することが重視された。 それ以後、昭和二十年に至るまで、倹理教 育を教育勅語に基づく﹁忠君愛国﹂の倫理、国家への義務に収数させる姿 勢は変ることがない。 .品ー , 、 、 ﹁ 自 主 愛 国 ﹂ の 倫 理 に 対 し て 、 日本人の覚醒を求めたのは、三宅雪嶺、井 上 円 了 、 志 賀 重 昂 、 杉浦重剛らによる ﹁ 政 教 社 ﹂ ( 明 治 一 一 一 年 創 立 ) の 運 動であり、機関誌﹃日本人﹄によって明治二十年代の国民主義的イデオロ ギ ー を 代 表 し た 。 ﹁ 政 教 社 ﹂ は直接に倫理を論ずる団体ではなかったが、 その説く所は全体的にいって極めて倫理的啓蒙の色彩が強くあった。欧化 主義によって本来の自己を見失った感のある日本人に自己を取りもどさせ ょうという﹁政教社 L の活動を代表したのは三宅雪嶺である。自己を失い、 投げやりの気分に陥っていた日本人に対して、 ﹁ 日 本 人 は 有 為 の 種 族 ﹂ あり、理想的日本とでもいうべきものを世界に実現するという使命を実現 する能力をもつこととその可能性が論ぜられた。三宅雪嶺の﹃真善美日本 人﹄、﹃偽醜悪日本人﹄(共に政教社明治二四年刊) t士
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日本人の本質と能 力 を 明 ら か に し 、 日本人の任務を規定しようとしたものである。人類の進 化は究極的には真・善・美の極点に至ることであるが、日本人も人類の一 員である限り、この理想の建設に参与する。 それは人類の文明文化を進加 させることであり、真善美に進むことである。 日本人にはそれを実現する 能 力 を 持 ち 、 そうする使命を有する。 その目標の一つである﹁真 L に つ い ては、西欧に学んで科学的国家を形成するとともに、東洋の新事理を探求 明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 ( 斗 して全世界の真を極めるべきである。﹁要するに日本が東洋の新材料に蒋 りて、未発の新理義を発揮 L すべきであり、東洋学の研究が目下の急務で あ る 。 ﹁ 益 田 ﹂ に つ い て は 、 日本道徳の主要観念である﹁正義﹂を世界に向けて行 なう必要がある。正義の実現には﹁相互の権力の平等﹂が必要であること を根拠として、﹁軍備拡張 L ﹁ 国 威 発 揚 ﹂ ﹁ 国 家 独 立 L ﹁産業発展﹂を主張す る 。 ﹁ 美 ﹂ に つ い て は 、 東 洋 、 特に日本の﹁軽妙﹂ を特色とする美術を振 興することが必要である。 ここで主張されるのは、軍備拡張のためには産業の発展が、産業の発展 のためには原料の獲得が不可欠であること、従って﹁夫れ己に富財を増殖 するを得ば、以て軍備を拡張するを得ベく、随て以て毅然として海外の諸 強固に当るを得ん﹂(四六回頁﹀ と い う こ と で あ る 。 これほど美事な﹁富 国強兵﹂論は他に類を見ない。軍事的機構への従属を基本とする﹁実業振 で 興﹂論からすれば、﹁軍備拡張の挙らざる紳商﹂ そ は 排 斥 さ れ る 。 ま た 、 のような軍事産業国家を形成するに当って、社会主義が障害として排斥さ れる。人間の資質は巳に天棄の差別があるところであって、 そのような差 別ある人間によって﹁社会を組織する以上は、社会上の差別到底見るべか らざるは明らかなり﹂(五一五頁﹀ が 論 拠 で あ る 。 そして社会主義対策と してあげられることは、﹁第一人倫の大道を講じ社会の道徳を高めざるべ からず。第二に特占の事業に対し政府は之に干渉して、 一個人をして独特 の利益を聾断せしむべからず L ( 玉一五頁) と い う も の で あ る 。 こ こ で い われる﹁人倫﹂には最早、﹁自主愛国 L を存在させる余地はなく、 国家統 制を主張する国家主義のみがある。ここに至って、 ﹁ 日 本 道 徳 ﹂ は社会主 九明 治 勢 に お け る 倫 理 の 葛 藤 義を抑圧するイデオロギーと化している。 ま た 、 キリスト教に対しても、宗教の相異ということからではなく﹁耶 蘇信者は外国崇拝内国卑下の弊に陥り易い﹂(五一七頁﹀ という観点から 排斥されるのである。 寸政教社﹂結成に参加した井上円了は、一二宅雪嶺と同じく国家主義が台頭 する明治十九年頃から思想活動を開始したが、三宅雪嶺、志賀重昂らの国 家主義的イデオロギーになじめず、間もなく﹁政教社﹂から離れて行く。 それは井上円了が寺院の出であったことに主な原因があったと思われる。 円 了 に は 、 かつて仏教が国家権力によって排斥され、管理されたという苦 い体験がある。しかも円了がこの頃から終生かかわったのは市井の片隅に 追いやられ、あるいは農山村で貧しさにあえぐ者、 あるいは貧しき故に学 び得ぬ者である。彼らは兵役、納税の義務に服する者であるが故に、厳し い国家管理の下にある。円了は彼らを管理する﹁官﹂と結びつくことなく、 全く﹁私﹂の立場に身を置く。 しかも後に、﹁修身教会﹂ を 設 置 し 、 地 方 有志にもその設立を薦めるが、 その経営は地方の自治、自主に委ねる。 の目的は個人の自主、自立にある。 円 了 は 、 かつて国家権力によって﹁旧弊﹂として排斥された仏教が、哲 学および科学の吟味にも耐え得るものであり、 それ自身深い内容を有する 哲学としての仏教を世間に認知させ、哲学、仏教を主柱にした国民啓蒙を 為そうとするのである。 それは倫理、道徳という形を以って実践される。 円了は当初、仏教が﹁旧思想﹂として排斥されたのに対して、僧侶の覚醒 を求めるに止まっていたが、次いで、仏教は哲学、科学の合理的批判に十 分耐え得るものであることを論じ、更には仏教も一つの哲学であると主張
。
するに至っている。 円了の哲学の基本的な主張は、現象の背後に﹁真如﹂と呼ぶ不動の実在 を求め、進化論、 エネルギー保存則(科学)に依拠して物資と精神を表裏 するこ面として捉えようとしている。 そして仏教の概念である﹁真如﹂は へ I ゲルの絶対者と同一であるというのである。﹁自然ノ進化ハ物質ノ其 体ニ含有セル勢力ヨリ生ズルモノニシテ別ニ天神アリテ之ヲ生ズルニアラ ズ、而シテ物質ト勢力トハ常ニ相並存スルヲ以テ一方ニ物質ノ進化アレパ、 一方ニ勢力ノ進化ナクンパアルベカラズ。即チ構造上ニ動植人類ノ別アル ハ物質ノ進化ニ依ルモノナリ、作用上ニ有感、無感、有智、無智ノ別アル ハ勢力ノ進化ニヨルナリ﹂、﹁人ニ心身ノ別アルハ其ノ物質ト勢力トノ一一者 ヨリ成ルニヨル其自身ハ物質ニシテ其心性ハ勢力ナリ﹂、そして、﹁物質ハ ものであり、﹁勢力ノ 本性ハ意識性ニシテ而モ其大進化ノ目的ハ此内包ノ意識性ヲ外発﹂したも によって統一されるとい 勢力ノ現象即チ勢力ノ外面ヲ我感覚ニテ認メタル﹂ のであり、﹁心身﹂は一つの本体である ﹁ 真 如 ﹂ そ h つ J。
井上円了の哲学は以上のように、当時の科学で論ぜられた進化と勢力 (エネルギー)を基礎に置くことによって、 哲 学 の 科 学 性 、 合理性を論ず るのである。全体的にいって、円了は﹁学﹂を哲学と理学に二分し、理学 は相対的な物質的科学であり宇宙の一部分の道理を統合するものである。 哲学は精神科学と純正哲学に二分され、純正哲学は諸科学を統合して宇宙 全体の真理を考定し、絶対に向わしむるものである。従って哲学と科学と は密接不離の関係の内にあり、 いかなる科学も哲学的意義を有するとして 、 , 、 J 0 ・h v ャ d ι 1七 ﹁真如﹂による統一を論ずる円了は哲学を、宇宙本体を究明するもの、 してその本体に我を結びつける。我が宇宙の本体そのものとなって、国家 社会のために活動し、生を営むのだという。従って、円了の哲学は一方で、 宇宙に存するものの全ては哲学世界に属し、哲学の外に宇宙は存在しない という。全ては哲学の現象であるので、﹁我が身心即ち哲学世界﹂であり、 人生とはいうならば﹁哲学世界の道中 L を歩むことだという ( ﹃ 哲 学 道 中 記 ﹄ 明 治 二 十 年 ) 。 所謂﹁生活 他方で、哲学は現実の社会生活に即する、 哲学﹂が強調される。即ち﹁世間の実際に向って応用する﹂として、哲学 の実践を﹁哲学の通俗化実行化﹂に認めるのであり、哲学は社会に向って の﹁活哲学 L ﹁奮闘哲学﹂であるべきだという。 と い う の も 、 最近の哲学 の在り方を見ると、西洋各国の書を繕き、諸家の説を﹁博覧会的 L に羅列 し 紹 介 す る だ け で あ り 、 ﹁ い よ い よ 微 に 入 り 細 を 極 め 、 其結果年を逐うて 人事に遠かり、通俗を離るるよう L に な っ て い る 。 そ れ 故 に 、 ﹁ 高 尚 の 哲 学を通俗化して世間に普及する道を聞き、併せて実行的方面を開達して世 道人心を神益﹂することが﹁哲学上に於ける余の使命﹂だとしたのである。 円了の進む方向は自ずと明らかである。 明治十九年三月、﹁帝国大学令﹂が公布され、 同四月﹁師範学校令、小 学校令、中学校令﹂の公布、同玉月﹁教科用図書検定条例﹂と続いて、教 育の国家的管理が強化された。また、明治二十七年七月、﹁官吏服務紀律﹂ の改正公布があり、教員を含めて官吏は天皇と政府への﹁忠順勤勉﹂が規 定された。これに対して井上円了は明治二十年九月、哲学の通俗化による 普及を目指して﹁哲学館﹂を設立する。 ﹁ 哲 学 館 開 設 ノ 旨 趣 ﹂ ( 明 治 そ の 明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 ( 斗 二十年六月)によると、哲学が全ての人にとって必要であるが﹁当今哲学 そ ヲ専修スルヲ得ルハ、独リ帝国大学ニ限﹂られている。 いうならば哲学は 帝国大学に独占されているので、これを広く開放しなければならぬ。この 観点から﹁哲学館﹂は哲学を初め﹁大学ノ課程﹂を﹁晩学ニシテ速成ヲ求 ムル者、貧困ニシテ資力ニ乏キ者、洋語ニ通ゼズシテ原書ヲ解セ、ザル者﹂ に対して、学ぶ機会を開放しようというものである。 ﹁ 開 館 趣 旨 ﹂ ま た 、 (明治二十年九月)も同様のことを述べているが、﹁虚無党社会党ナドガ欧 羅巴ニ起リタル﹂は哲学の影響と見なす者がおり、哲学を庶民に教授する の は ﹁ 有 害 ﹂ ﹁ 無 用 L であり、﹁哲学ハ今日ノ急務ニ応スルカガナイ実用ニ 適セヌ議論﹂だとされていることに対して﹁哲学教育﹂の必要を論じてい る 。 哲学教育の利点、従って﹁哲学館﹂設立の必要性を次の様に述べている。 哲学は﹁諸学を総合統括スル学問﹂であるから﹁西洋諸学ノ関係ヲ知リ其 価 値 ヲ 知 ﹂ リ 、 ﹁西洋ノ諸学ヲ我国ノモノニ知﹂ らせるには有益である。 第二に﹁東洋学問ノ短所ヲ補フ﹂という便益がある。 第 三 に 、 ﹁ 東 洋 ノ 学 問ノ弊ヲ救フ L の 益 が あ る 。 第 四 に 、 ﹁学者ノ気風ヲ高クシテ学問ヲ公平 一一見ル﹂ことである。第五に、﹁東洋ノ学問ヲ利用スル﹂こと、﹁西洋哲学 ト東洋哲学ヲ兼修スル L こ と が 可 能 と な る 、 と い う の で あ る 。 そして﹁哲 学館ニ在テ研究シタル者カ彩ク世ニ出ルニ至ラハ従来ノ学風ヲ一変スルノ カアルモノ﹂と考え、高等教育に無縁で庶民が﹁従来ノ学風ヲ一変﹂させ るカとなることに期待するのである。 そのことは後に﹁哲学館﹂卒業生が 中等教育に於ける倫理科教育に多く関わる時、 ﹁ 無 試 験 ﹂ の資格を剥奪す る﹁哲学館事件﹂となるのである。
明 治 期 に お け る 倫 理 の 葛 藤 (二) また﹁哲学館目的ニツイテ﹂(明治二二年)では、 さ ら に 、 欧米寸各国 固有ノ学問技芸ヲ愛シテ一国独立ノ精神ニ富﹂んでいる。 しかし欧化主義 にある日本の状況は﹁全ク己レヲ棄テテ西洋人ヲ崇拝セント欲スルモノニ シテ恰モ西洋人ノ奴隷タランコトヲ用意スルニ似 L ている。従って﹁先ツ 日本独立ノ基礎ヲ確立シ彼ノ長ヲ取リ乍ラ我ノ短ヲ補ヒ我ノ短ヲ補ヒ乍ラ 日本ノ独立ヲ維持﹂し、益々文明開化をすすめる精神が必要である。 そ れ は一部の学者や上流社会だけで成るのではなく、国民の多数を占める庶民 を含めて﹁国民全体ヲシテ其精神ヲ具へ其気質ヲ成サシメ L る 必 要 が あ る 。 ﹁学理﹂を解しない庶民には ﹁言語、歴史、宗教﹂ を介して﹁国民悉ク日 本ナル精神ヲ具﹂えるように教化しなければならない。哲学館は﹁全ク日 本主義ヲ以テ立﹂つことを目的とするが、 それは、哲学館創立の時期が ﹁政教社﹂結成する時であるので、 その主張に呼応して、﹁日本主義﹂の語 が用いられている。 しかし、井上円了の云 P フ﹁日本主義﹂とは、国家主義 的な意味でのそれではない。円了の日本主義とは﹁一国ノ独立ヲ堅固ニス ルトハ表面ノ目的ノミ其ノ裏面ニ入レハ猶一ノ大ナル目的アツテ存ス之ヲ 名クレハ宇宙主義トモ云ハン﹂というものである。 日本主義のみが主唱さ れる﹁政教社﹂的﹁日本人﹂ に止まるのではなく、 ﹁此国家主義ト宇宙主 義トノ二者は決シテ離ス L ことはできぬというもので、﹁宇宙主義﹂ と し、 う語に普遍性を求めるのである。 日本主義と宇宙主義が協合しなければ﹁道徳ノ完全﹂を致し得ないので ある。このことは、哲学の理論が﹁宇宙ノ真理﹂を研究するのに対し、哲 学の実際は﹁人聞社会ノ利益幸福等を目的 L とするところにある。実際の 差別から論ずれば ﹁階級﹂も必然であるが、 理論の無差別からすれば﹁社 会平等人権問等 L が論ぜられる。 ﹁社会平等人権同等 L は﹁忠君愛国﹂の 倫理には含まれぬものである。 明治二三年、﹁教育勅語﹂が発布され、 天皇絶対主義のイデオロギーが 確立されるが、井上円了は、 その発布(十月三十日)に伴なって、勅語の 旨趣を国民に徹底敷街せしむるためと称して、全国巡講の途につく(十一 月 二 日 ) が 、 その実際は哲学館に専門科を設置する資金を広く江湖より募 るためであり、全国各地に﹁自主自立﹂の﹁修身教会﹂の設立を求めるた め で あ っ た 。 註 ( 1 ) ﹁ 修 身 教 会 雑 誌 L 十 号 六 一 八 頁 。 ( 2 ﹀ 薩 長 土 肥 四 藩 主 に よ る ﹁ 版 籍 奉 還 上 表 ﹂ 明 治 二 年 一 月 一 一 一 二 日 。 ( 3 ) 一 二 枝 博 音 、 鳥 井 博 郎 ﹃ 日 本 宗 教 思 想 史 L 世界書院、昭和二三年、二三四頁 以 下 、 ﹁ 廃 仏 段 釈 の 経 過 ﹂ 参 照 。 ( 4 ﹀竹越与三郎﹃新日本史 L ( 明治文学全集)筑摩書房、昭和四十年、一四七 頁 。 ( 5 ﹀ 同 前 一 四 八 頁 。 ︿ 6 ) 円 減 寺 清 ﹃ 大 限 伯 昔 日 誇 ﹄ 富 山 一 房 昭 和 十 三 年 七 頁 。 ( 7 ) 久米邦武編﹃特命全権大使米欧回覧実記﹄(明治十一年十月、御用刊行書 博 聞 社 刊 ) 岩 波 文 庫 昭 和 五 二 年 、
H
九 頁 。 ハ 8 ) 同前書付四一二頁解説問中彰。 ( 9 ) 同 前 書 同 一 六 五 頁 。 ( 叩 ) 同 前 書 回 二 二 頁 。 ( 日 ) ﹃ 大 隈 伯 昔 日 語 ﹄ 一 一 六 頁 。 ( ロ ) 同 前 書 三 九 四 頁 。 ( 臼 ) 中 村 正 直 ﹁ 人 民 ノ 性 質 ヲ 改 造 ス ル 説 ( 明 治 八 年 二 月 十 六 日 演 説 ) ﹂ ﹃ 明 治 啓 蒙 思 想 集 ﹄ ( 明 治 文 学 全 集 ﹀ 筑 摩 書 房 、 昭 和 四 二 年 、 三OO
頁 。 ( M ) ﹁ 明 治 文 化 全 集 思 想 篇 ﹂ 日 本 評 論 社 、 昭 和 四 二 年 二 七 三 頁 。︿ 日 ) 西 村 茂 樹 ﹁ 日 本 道 徳 論 ﹂ ﹃ 明 治 啓 蒙 思 想 集 ﹄ ( 明 治 文 学 全 集 ﹀ 三 六 九 頁 以 下 。 (日)﹃泊翁業書第一編﹄日本弘道会、明治四二年六一九頁。 (口)鳥井博郎﹃明治思想史﹄河出書一房、昭和三十年、第四章﹁明治哲学史の概 観 ﹂ 参 照 。 ( J M ) ﹃ 自 由 党 史 ﹄ 岩 波 文 庫 伯 一 五 八 頁 。 ( m 印﹀山田洗﹃近代日本道徳思想史研究﹄未来社、昭和四七年、二八七頁。 (却)三宅雪嶺﹁真善美日本人﹂﹃明治文化全集思想篇﹄日本評論社、昭和四二 年 、 四 五 頁 。 (幻)井上円了﹃哲学一タ話﹄明治十九年、第二篇十三頁。 (幻﹀井上円了﹃破唯物論﹄明治三一年、二三六、二三八頁。 (幻)井上円了﹃仏教活論序説﹄明治一九年九八頁。 明治期における倫理の葛藤 (二)