文化背景としての日独の宗教の違い
麦倉達生
Die Religionen als kulturelle Hintergrnnde
in I)eutschland und in Japan
Tatsuo MUGIKURA
1.文化の背景に宗教あり いまさら改めて言うまでもないことながら、 ヨーロッパはキリスト教文化圏である。した がって、ヨーロッパの一員であるドイッがまた、 キリスト教文化に彩られているのはむしろ当然 といえよう。つまり、ドイツの文化とキリスト 教とは不離一体の関係にある、あるいはドイツ の文化の背景をなすものはキリスト教である、 といって間違いなかろう。それでも一これ また常識的なことながら一ドイッ人が現在 のようにキリスト教化される以前の、その祖先 であるゲルマン人は、キリスト教とは異なる信 仰(“森の民”としての樹木信仰)のうちに生 きていたのだった。それをいま仮にゲルマン信 仰と呼ぶとする。と、そうしたゲルマン信仰な るものは、ドイッ(人)のキリスト教化の過程 で、キリスト教へと吸収されたり融合したり、 また背後に追いやられたりして消滅していった かに見えるのだが、それでも少し詳細にみてみ ると、(後で見るように) ドイッの文化の基底 をなしていまもなお生きっづけていることを知 らされる。つまりは、ドイッの文化の背景には このようにゲルマン信仰なりキリスト教なり・ 要するに「宗教」がひかえていると見なし得る ということなのである。 そうしたことはまた、日本(人)についても 言い得るだろう。グローバルな視点から見れば、 日本もまたモンスーン地帯の東洋の一員として、 間違いなく仏教文化圏に属している。そして現 在、日本文化のいわば代表格のように見られて いる生け花とか茶の湯とかの背景にも仏教(と りわけ禅仏教)がひかえていることは、よく指 摘されるところである。しかしながら、これま た少し詳しく見てみると、日本の仏教はお釈迦 さまの教えそのままではなく、日本化された仏 教であることが明らかになってくる。そして・ そうした日本仏教化をもたらしたものが・日本 への仏教伝来(AD538年)以前にすでに日本 に根付いていた神道であることも容易に理解で きる。この神道は、そのご仏教に対抗したりあ るいは習合したりの過程を経ながらも、仏教と もども日本文化の形成に大いにあずかって力 あったのである。要するに日本文化の背景には、 古来の日本民族固有の信仰としての神道と、日 本化されていった仏教という二つの「宗教」が ひかえている・と捉えてよいように思う・ このように言うと、文化を形成するのはなに も宗教にかぎったわけではない、との反論がか えってきそうである。たしかに人間生活の万般 がいわば文化的な営みなのだから、各民族のそ うした文化の背景をひとり宗教にのみ求めるの は、余りに宗教重視の偏った見方であるといえ なくはない。それにまた宗教そのものがそもそ も・それぞれの民族が住む風土と連結したとこ ろから生まれてきたものでもあってみれば、和 辻哲郎の『風土論』を引き合いに出すまでもなく、各民族の文化を生みだし形成したもの(= 背景)は、他ならぬ風土そのものだと言ったほ うが、当を得ているかも知れない1)。しかしそ れにもかかわらず、現在のドイッ(人)と日本 (人)に特徴的な幾っかの文化的特性を見比べ てゆくときには、それらのいずれもがより直接 的には、それぞれの宗教とこそ密接にかかわり 合ったものであることを知らされる。そのよう なわけで、異文化理解へのアプローチの点から もここでは敢て、それぞれの文化的特性の背 景・背後には「宗教」がひかえており、かっ 「宗教」こそがその中心軸となってそれらの諸 特性を関連づけていると見なす観点から、日独 の文化的特性のちがいにっいて見てゆくことに しようと思う。 (A) ドイツの場合:文化の背景としてのキリス ト教 地方分権の国であるドイッでは、 たと えばフランスのパリにおけるごとく大都会に文 化が集中することなく一そこかしこの地方 の中小都市において文化の精華に出くわし得る のは、ドイッを旅する者にとっての大きな楽し みの1つである。そして、そうした中小都市は いうに及ばず、どんな小さな町また村において もその中心に教会の塔がそびえているのを目の あたりにするときには、ドイッがキリスト教文 化の国であることを如実に知らされる。他なら ぬ教会堂そのものが、ロマネスク様式 ゴ シック様式一ルネサンス様式 バロック 様式 ロココ様式等々と時代的変遷をたど りながらの、まさにキリスト教文化の建築的文 化遺産なのである。600年の歳月をかけて造ら れたケルンの大聖堂などは、まさしく世界に とっての文化遺産である。 かっまた教会堂のなかに入れば、宗教的な絵 画や彫刻に目をうばわれる。それらはもちろん キリスト教の教えを、その当時文字の読めな かった一般の民衆にも分らせようとする宗教的 な意図をもって描かれまた彫られたものであっ たにちがいない。しかし我々のような旅行者の 目には、それらは同時に芸術作品(文化の1っ のあらわれ)とも映るし、またそのように見た からといって何も悪いわけではなかろう・じっ さいドイッの中小都市なら必ずといってよいほ どに博物館とか美術館を完備していて、そこで はそうした宗教画や彫刻・彫像が、キリスト教 的な文化遺産として鑑賞できるよう展示されて いるからである。たしかにルネサンス以降では、 かせそれまでの巾世的で宗教的な枷がとっぱらわれ て、人間中心主義の絵画・彫刻へと脱皮・展開 していってはいる。が、それでもなおその題材 の多くが聖書をはじめキリスト教関連のものに 求められていることを知らされると、逆にか えって彼らの文化がいかに強くキリスト教に刻 印されたものであるかと、認識をあらたにさせ られるのである。 また教会堂にはかならずパイプオルガンが設 置されている。それは、キリスト教の宗教儀式 であるミサなどにさいして楽の音を奏でるため である。そして、こうしたキリスト教的な宗教 音楽からそのごのヨーロッパ音楽が発達・発展 していったものであることは、“音楽の父”と いわれるバッハの作品(=宗教曲)が何よりも よく物語っているように思う。つまり、クラ シック音楽をはじめとするヨーロッパ音楽の開 華の源は、ほかでもない、キリスト教という宗 教にこそあるのだ、と言って過言ではないであ ろう。じっさい教会堂の内部空間というものが そもそも、パイプオルガンの音色が堂内にひび きわたるようにと、何よりもその音響効果を考 慮にいれて造られているように思えてならない のだQ……もうずいぶん以前のことになるが、 はじめてドイツ滞在の機会に恵まれたときのあ る日、ピクニックのような形でたまたまある小 高い丘のうえに建つ修道院を訪れるということ があった。何気なくその修道院に一歩足を踏み いれたとたん、全身にふるえが走り、まるで金 しばりにあったかのように立ちっくしてしまっ た一全堂をふるわす荘厳なパイプオルガン の音が堂内にひびきわたっていたのだ。その響 きに私の体までもが呼応し、同じようにふるえ だすかのような感動をおぼえた。どのくらい時 がたったろうか、パイプオルガンの音色が止ん でも、しばらくはしびれたかのように、体が動 かなかった。生れて初めての体験だった。とも かくこんなことがあって以来、そのごドイツヘ
ま ち 行く機会があったときには、どんな都市であれ まず必ず教会でのパイプオルガン演奏のプログ ラムを確認しておいて、都合のつくかぎり聴く ようにしている。そのような演奏会では、宗教 とは無関係の曲が奏されることも多々あるが、 それでも不思議に心に共鳴するのはやはりなん といっても宗教的な曲であり演奏であるように 思える。そしてそのっど、西欧音楽の源という か原点はやはり宗教(キリスト教)にこそある のだとの思いをっよくするのである。 ドイッ人にとっての1年の諸行事も、その多 くが教会暦によって彩られている。彼らにとっ て最も大きな祭りであるクリスマス、あるいは 復活祭からしてキリスト教の祭りなのだ・その クリスマスは、言うまでもなく救世主(クリス トゥス)であるイエスの誕生を祝う祭りである。 12月24日の夜に生まれたので、この日をクリ スマス・イブとして、翌25日ともどもに祝う。 この日に家族のあいだでクリスマス・プレゼン トの交換をし合う風習は、イエスの誕生を知っ じゃこう もつやく た東方の三博士が、購香や没薬などを持参して お祝いのしるしとしたことに由来すると聞いた ことがある。あるいはこんな説もあるという。 すなわち、ミラノ司教であった聖ニコラウスが、 3人の貧しい娘にこっそりと結婚費用のお金を 窓辺に置いてやったことがその始まりだともい う。それで子供たちにとっては、聖ニコラウス (サンタ・クロース)が贈物の聖人ということ になって、靴や靴下を置いておくと、「よい子」 にはいろいろのご褒美を入れておいてくれる、 と信じるようになったわけである。これはもと は「聖ニコラウスの日」と呼ばれる12月6日 に行われていたのだが、ルターの提唱により、 クリスマスのときに行われるようになったとの ことだ。 キリスト教国にとって、クリスマスと並んで 大切な祭りは復活祭である。いや、考えように よっては、復活祭こそがキリスト教国最大の祭 りといってもよい。なぜなら、イエスの復活に よってこそ・キリスト教が成立したともいえる からである。……そもそも理性的に考えるなら、 いったん死んだ人間がふたたび生きかえるなど ということはあり得ない。それゆえ、イエスが 予言どおり死後3日目にしてよみがえったとき にも、弟子たちでさえ、自分の目の前にいるイ エスを幻影か何かと思ったほどだった。それに 対してイエスから、「そのように信じがたいの はりつけ であれば、礫になって突き刺されたときのこ の傷口に触れてみよ」と言われるままに傷口に 触れてみてようやく、復活がまことであること を知ったのだった。それによってはじめて、イ エスが「神の子」であることを確信するにい たったのだ。このことがあってから弟子や信者 も急に勇敢になり、イエスの教えを伝導しはじ め、それがのちのキリスト教普及の礎えとなっ たのである。生前の弟子たちにしてなおかくの 如くである。ならば、人間の頭でもってはどう にも理解しがたいこの歴史的事実をただもう信 じるしかないのちのちの我々にとっては、キリ スト教信仰に生き得るかどうかはひとえにイエ スの復活を信ずるかどうかにかかっているとい えよう。復活祭こそがキリスト教国最大の祭り となるゆえんである。 なおここでっいでながら、クリスマス、復活 祭いがいのドイッにおける1年の主だった祭り を挙げてみよう。・D…・カーニヴァル(謝肉祭、 2月)、キリスト昇天祭(5月)、聖霊降臨祭 (5月)、聖ヨハネス祭(6月24日頃)、収穫感 謝祭(9∼10月、ミュンヘンのオクトーバー フェストが特に有名)、聖マルティン祭(11月 11日、子供たちの提灯行列が見られる)、万霊 節(11月)と、このようにざっと見ただけで も、いかにドイッの祭りにキリスト教とふかく 関わるものが多いかを知らされる。ところが、 一見このようにキリスト教の祭日に見えるもの でも、さらにそのルーッをさぐってゆくと、意 外にそれらの多くが(後に見るように)古くゲ ルマン起源のものであることを知って、ドイッ 文化の背景ないし基底にはひとりキリスト教の みならず・ゲルマン的なるものが横たわってい ることを再認識させられるのである。 (B)日本の場合二文化の背景としての仏教 ドイッがキリスト教文化圏の国であるのと対 比していえば・日本は仏教文化圏に属する国で ある。奈良や京都のような古都はいうに及ばず、 国内のいたるところに国宝あるいは重要文化財
としての仏教寺院(寺院建築)がみられるし、 また全国津々浦々どのような村にもお寺の屋根 の見られぬところはないからである。こうした ことは我々日本人にはあまりに身近かに慣れ親 しんでいることなので、かえって日頃はほとん ど意識されず、言われてみてはじめて、日本が 仏教の国、仏教文化圏の国であるのは抗いよう のない事実だとして首肯されるというのが、多 くの日本人にとっての実際ではなかろうか。あ るいはまた最近では多くの日本人が海外旅行に 出かけるようになったが、そうした人たちが旅 先で異文化にふれてきたその目で帰国後あらた めて日本を見てみるならば、日本がまごうこと なく仏教文化の国であることを容易かつ明瞭に 認識させられることであろう。 ただそうは言っても、日本がドイッと異なる 点は、日本では仏教寺院とならんで神社がこれ また全国の隅々にいたるまで厳然として存在し ていることである。ドイッでは、キリスト教化 される以前の古いゲルマン信仰の名残りは、今 日もはや可視的。具体的な形ではほとんど見ら れない。それに対して日本では、仏教以前から の古い信仰としての神道がいまなお連綿と生き っづけていて、それが神社建築物としてばかり でな<、年中行事としての祭礼や生活習慣にお いても、明瞭に存在しているのである。そうし た意味では日本は単に仏教文化の国というより は、「神道・仏教文化の国」という方がより妥 当であろう。ただこの神道なるものは、日本の 風土と不離一体、不可分の関係にあるので、日 本の土地を離れてさらに外へと広がってゆくこ とがない。他方仏教は普遍性をもっ宗教なので アジアのいろいろの国へと広がり、文化的にも 仏教文化圏を形成したのだった。だからさらに より正しくは、日本は「神道・仏教文化圏の 国」といった方がよいのかも知れない。それは ともかく以上から要するに、日本の文化の背景 には普遍宗教としての仏教と固有の民族宗教で ある神道と、二つの宗教がひかえていると、解 し得るのである。 仏教寺院の中に入ると、日本文化の一っの粋 ともいえる仏像(彫刻)を目のあたりにする。 もちろん仏教の教えにあっては、キリスト教の ごとき超絶した人格神(人格仏というべきか) を設定しないばかりか・“仏”といってもそれ は・その存在を感覚的に把握し得るごときもの などではない。在るとも無いとも規定し得ざる もの、それが仏なのだ。その在るとも無いとも 規定し得ざるものが現実には森羅万象となって 現象しているのである。だから逆に森羅万象こ とごとくが、仏そのものともいえる。しかしそ のように言ったのでは、たとえそれがこの世界 の実相だとしても、あまりにも漠としてとらま えどころがない。人間としてはやはり、可視 的・具体的なものとして表わしてくれる方が、 祈るにしても祈りやすい。そうした人間の要求 にこたえて、かつまた“仏”にはもともとこれ といった決った相など何もないことから、いろ いろな形姿をとって表現されることとなった。 有名なものとしては例えば奈良・東大寺の毘盧 遮那仏があるし、一般的なものとしては阿弥陀 如来仏とか薬師如来仏、釈迦如来仏等々がある。 またみずからは仏になり得るにもかかわらず、 衆生済度の願いをおこしたがゆえに、それを成 就するまでは菩薩にとどまっているとする観世 音菩薩をはじめ、諸々の菩薩がおられる。そう した仏像はもちろん、仏(教)の教えにたいす る理解を何とか少しでも容易ならしめようとの 思いから産みだされたものであることは言うを 待たない。しかしそれにもかかわらず、それら の仏像彫刻を一つの文化的な遺産として見るこ とも可能であり、また許されるでもあろう。そ してそのように芸術的な観点か,ら見てみるなら ば・寺院建築はもちろんのこと、仏像もまた仏 教ゆえに生まれたところの、つまり仏教を背景 にもっところの文化(遺産)である、といって よいであろう。 そうしたことはまた絵画についても言えるだ ろう。なぜなら、絵ももとは仏国土とか極楽浄 土とか、仏教の教えの世界を描くところから 始っているからである。そしてのちに寺院の襖 絵とか障屏画としての山水画や水墨画など日本 絵画を代表するもの(例えば雪舟のそれのよう に)がまた、多く仏道修行者(とりわけ禅仏教 修行者)によって描かれているからである。 一西欧の絵画では、それ自体で一つの完結し
た情景なり世界なりを描き出そうとする。その ため画面は余すところなく塗りこめられていて、 空白な部分など存在しない。額縁の中でのこの 完結した絵画世界は、額縁のそとの世界とは何 らのかかわりも持たない。だからこの絵を見る 者も当然のことながら・この絵の世界を客観的 にっきはなして・それ自体で自立した独自のも のとして鑑賞しようとするのである。 それに対して日本の山水画や水墨画あるいは いわゆるの日本画では、画面中に何も塗ってな いところ、空白な部分があるのはごく当り前の ことである。しかしこの空白部分は、決して塗 り残した無意味な余白などではない。なぜなら、 まさしくこの空(白)なる部分をとおして、画 面の内なる絵画世界が、画面の外なる世界へと、 っまりその絵を見ている者へと、ひとつながり 的につながってゆくことを得るからである。そ のとき見る者は、もはや絵の世界を客観的につ きはなしながら鑑賞することを止めて、絵の世 界の中へとみずから入りこみ、共々にその世界 を楽しむこととなる。見る者と見られる絵の世 界とが、ひとつながりになるのだ。見る者と見 られるものとが二つに分かれる以前の、ぶっ続 きの世界が現出するのである。そして、そうし た不二一如の世界こそが、まさしく仏教の目ざ すところに他ならないのである。 先ほど、日本文化の代表格のように(とりわ け外国人に)見られているものとしての生け花 (華道)とか茶の湯(茶道)とかの背景にも仏 教(宗教)がひかえていることに言及しておい たが、その点にっいても少し述べておくことに しよう。まず、 (1)生け花について。 生け花は、いうまでもなく自然の植物を対象 素材としている。この植物(とりわけ植物とし ての花)の生命力のうちに神の存在を見ようと する素朴なアニミズムを基盤とするのが原初の 神道、つまり原始神道である。すなわち、古代 よりしろの日本人は、植物に神の依代を見てきたのであ る。こうしたことは、伝統芸術としての生け花 の成立以前のことであるのだが、それでもこの ような原初の神道的な思いが、日本人が植物と しての生け花を見るにさいして、なお今日でも 何がしかあとをとどめていはしないであろうか。 く げこれに対して中国から伝来した仏教は、供花と しょうごん いう荘厳(かざり)を日本人に伝えた。供花 とは、仏前に花を供えること、またその供えた 花のことである。このことによって、それまで の原日本的な依代的樹枝への神聖観と、供花的 な花の宗教的装飾性とが習合して、そのご時代 とともに独特の生け花という世界をっくりあげ ていったとみてよいであろう。 そのごの「生け花」成立にむけての詳しい過 程は省略するが、要するに室町期の《たてばな (立花)》を、桃山末期から江戸初期にかけて池 坊専好(初代・二代)が発展させて、のちに 《りっか(立花)》と音読みにされる「生け花」 を完成させた。座敷飾(二客間の飾り)の花で あった立花は、その初期にはなお宗教的色彩の っよいものであったのだが、しだいにその宗教 性を薄めて一瓶の立花として観賞される芸術作 品へと発展していったのである・かくして生け 花の目的と内容とは、自然の再構成ということ になるが、しかしそれは自然の月並みな模写で はなくて、植物の生命を理解したうえでの抽象 化と純化における自然の再構成なのである。こ かぎょうこにおいて生け花における花形の理念が生ま れる。そしてそれが明確に定まるのは江戸時代 てんも後期(文化・文政期)であって、いわゆる天 ちじん 地人三才格という花形の定めが一般化すること になるのである。 生け花には諸流派があるが、今日池坊派が、 女性たちの加入によって、日本における最大の 流派の一っになっている。この流派では、自然 をこころでもって表現しようと努め、そしてそ のことによっていわゆるの悟りに至るべく努め ている。それによって人は、瞬間に対して永遠 を付与することができるとしているのである。 このように、生け花に宗教的な修道性の面を強 調した場合には、「生け花」の代りに「華道」 という言い方をすることもある2)。 (2)茶の湯について 茶の湯または茶道とは、喫茶を中心とする宴 の芸能(ないし寄合の芸能)として発展した日 本独特の生活文化である。この茶の湯は栄西禅
師が12世紀に中国から禅宗とともに、宋代の 新しい飲茶の文化(今日飲まれている抹茶とほ ぼ同じ茶)をもたらしたことにその源をみるこ とができる。このことによる喫茶の習慣が、そ のご禅宗寺院や武家社会のなかにしだいに浸透 し、鎌倉時代後期には庶民のなかにまで広がっ ていった。そうして14世紀になってようやく、 されい禅寺におけるお茶の儀礼(「茶礼」)から茶の湯 が生まれてきたのだったQそのようにしながら 15世紀後半になると、村田珠光によって新し い茶風(のちにわび茶と呼ばれるもの)が創始 された。16世紀に入ると、武野紹鴎がこれを どう引きっいで、一っの道へと洗練し、茶道を確立 した・そして紹鴎の弟子の千利休が16世紀に、 《わび(佗)茶》として茶道(の様式)を完成 の域にまで高めた。すなわち利休は、大徳寺の 古縷宗陳ら禅僧に深く帰依することで禅の影響 をつよく受け、床の掛物に墨跡を重視するなど 茶道に禅宗を一段と近づけたのである。もちろ ん茶の湯は、その発展過程において諸々の芸能 的な要素をも取り入れていったので、たとえば その振舞いのなかには芸能的な美も含まれてい るなど、日本的な芸能ないし総合芸術ととらえ ることももちろん出来る。だがしかしその精神 性の点では、やはり禅思想(禅仏教)をバック ボーンにもつもの、ないし禅思想に立脚するも のだと、考えてよいのではあるまいか。じっさ い、茶禅一味が説かれ、お点前、作法をふくむ すべての動作に、宗教的な修行ともいうべき性 格があることは見のがしがたい事実だからであ る。そしてこの利休のわび茶は、秀吉による利 休切腹というわび茶への圧殺があったにもかか わらず、そのご古田織部によって引き継がれた し、それはさらに小堀遠州が継承し、そうして 利休の孫の三人の息子たちがそれぞれ表、裏、 武者小路の三千家としてわび茶の伝統を守るこ とにおいて・現在の日本の生活文化としての茶 道へと引き継がれてきているのである。 この茶道の中心点にあるのがほかならぬ佗び、 っまり閑寂な風趣であり、それはことばを換え ていえば、一切に対する慎しみ深さ、謙虚さ、 誠実さであって、何よりも簡素静寂の境地が重 んじられる。そしてそのために茶人は、まずは 俗的な日常性からみずからをすっかり解き放っ て、天地自然と、宇宙と、ひとつながりの調和 的一体感に身も心もまかせきることが求められ る。茶の湯はいわば、そうした恣意的な日常を 克服して、自己本来のいのちに回帰してゆく、 自己統御のための全人的・集中的な訓錬の場で もあるのだ。今日では茶の湯をとおして礼儀作 法の習得をねがう女性たちも多いとのことだが、 そうした人たちでも、本人が意識するかどうか は別として、こうした茶禅一味の世界、あるい は禅的な世界に触れているのである。日本文化 の一っである茶の湯の背景に禅仏教ありとする ゆえんである3)。 H.ドイッ文化の基底としてのゲルマン信仰 先にドイッの主だった年中行事として祭日の 多くが・キリスト教と深い関わりを持っことを 見たのであったが、それでも歴史的にさかの ぼってゆくと、往々にしてその背景にゲルマン 的信仰がひかえていたり、その基底にゲルマン 的起源なるものが横たわっていたりすることを 知らされる。ここでは、そうしたもののうちの ほんの2、3を例示してみることにしよう。 (1) クリスマスについて。 キリスト教はいうまでもなく一神教であって・ 絶対唯一の人格神ヤーヴェヘの信仰いがいは、 いかなるものも異教・邪教として排斥し、また いかなる爽雑物をも廃絶しようとする。ところ が、その神の子イエスの誕生を祝う祭事にさい して、クリスマス・ッリーなるものを飾りたて、 まるで樹木をも崇めるがごとくに為すのは一体 どうしたことであろうか。一これには次の ような背景がある。すなわち、のちには「ドイ ッ人の使徒」と言われて尊ばれることになるボ ニファティウス(672年頃∼754年)だが、彼 のゲルマンの地への宣教活動は当時は当然のこ とながら、なおヴォーダン神を主神とする多神 教信仰に生きていたゲルマン民族の樹木崇拝と はげしく衝突することとなった。なぜなら狩猟 民族としてのゲルマン人にとっては・森こそは いのちの糧としての獣を棲息せしめるかけがえ のない場である。そしてその森とは樹木の集り にほかならないのだから、彼らが樹木を神聖視
する樹木信仰になるのはあまりに自然なことで あった。ところがヤーヴェの神のみを信ずるキ リスト教の立場からすれば、樹木を信仰するな ど邪教もよいところである。なんとしても正し い教えの道へと導びかねばならない。そのよう な固い信念から、ボニファティウスはゲルマン 人たちに言った。「そのようにお前たちが神聖 視するその樹木にまことヴォーダン神の霊とや らが宿っているというのなら、私がいまその樹 を伐り倒してみせたとき、きっとその神の怒り とたたりがあるはずだ。だが、伐り倒しても何 のたたりも起きないということならば、ウォー ダン神などいない証拠となるはずだから、その ときには私のいう神を信ずるがよい。」そうし てゲルマン人たちの目の前で、彼らが神聖視す る樹を伐り倒してみせたのだ。しかしボニファ ティウスの身に何の異変も起きはしなかった。 このようにして表向き納得させながら彼は、ゲ ルマン人たちのあいだにキリスト教を布教して いったのであった。だがしかし、自分たちの樹 木信仰を踏みにじられ、目分たちの神を蔑ろに されたままでおさまらないのがゲルマン人だ。 っいにこらえかねたその一団がボニファティゥ スをひっとらえ、白昼よってたかって撲り殺し てしまったのである。 この事件があってからキリスト教伝導の側で も考えた。「ゲルマン人たちの樹木信仰を頭ご なしに否定したのでは、キリスト教の布教もす すまない。このさい、彼らの樹木崇拝をも一応 認め、それをキリスト教信仰のなかへうまく取 りこむ手だてを講ずるのが得策だ。」そう考え て、救世主(クリストゥス)イエスの誕生を祝 う祭りにさいして、樹木をも共々に(クリスマ ス・ッリーとして)崇めるというのではどうか、 との妥協案を提示したのだった。これによって ゲルマン人たちもひとまず納得し、それ以降は 比較的スムーズに布教もはかどった。そしてそ の後カール大帝のキリスト教令(AD800年) が出るにおよんで、ゲルマン人(ニドイッ人) のキリスト教化も一気にすすむこととなったの である。 これとはちがって、もっと穏やかな説明もあ る。すなわち、古いゲルマン民族の習慣では、 真冬の寒いさなかにも緑の色濃い「モミ」の木 には神の霊が宿っているとされていて・それを 冬至のころ家の中に飾ることになっていた。こ れがキリスト教に取り入れられて、クリスマス にはモミの木を飾るようになった、というもの である。 いずれにせよ、このようにしてゲルマンの樹 木信仰がクリスマスに取り入れられたのだが、 これが時代とともに、ゲルマン起源のものであ ることが分らなくなるくらいにまでキリスト教 化がはかられることになる。つまり、クリスマ スにとって不可欠のものとなったクリスマス・ ツリーは、やがて「楽園の木」を意味するよう になり、そのためモミの緑の葉は限りない生命 のシンボルとなるのである。エデンの園の樹に はいつも果実がなっていて、つらい仕事などせ ずとも、手を伸ばしさえすれば、いっなりとお いしい食べ物が手に入る。こうした聖書中の楽 園のイメージから、ツリーにはリンゴやクルミ やクッキーなどを付ける習慣が出来ていった。 またッリーには、ローソクが付けられるように なるが、そのローソクの光は、聖書(創世紀の や み 第1章)にあるように、黒暗を追いはらってこ の世にもたらされた神の光を象徴している。ク リスマスが近づく待降節(アドヴェント)の頃 ともなると、ドイツではイルミネーションが街 を華やかに飾ってくれて実に美しいが、これも また同様の意味あいをもっものなのである。 (2〉復活祭について。 そもそも人間の理性をもってしては、いちど 死んだ者が再び生き返るなどおよそ信じがたい。 だからこそ逆に、イエスの「復活」を信ずると ころにこそ、キリスト教信仰のカギがあるとも いえる。そしてそれゆえにまたキリスト教に とって復活祭が、クリスマスと並ぶ重要な祭り ともなっているのだ。ところがこれもまた調べ てみると、ゲルマン人がキリスト教へと改宗し たのにともなって、もともと彼らの祭りないし 慣習であったものが、キリスト教の復活祭へと 内容的にすりかえられたものであることを知ら される。というのも、復活祭という語、つまり オースター(英語のイースター)は、元来キリ スト教関係の言葉でなく、ゲルマン神話の春の 女神エオストルに由来していて、したがって
オースターは、もとはエオストルのための祭日 であったからである。ご存知のように、ドイッ の冬は長くきびしい。だからゲルマン人の春を 待ちわびる思いもひとしおだったことだろうが、 そうしたきびしいゲルマンの地(ドイッ)の冬 もゆるんで・やっとどこやら春めいてくるのが・ 3月末から4月にかけてのオースターの頃のこ ま いと。この頃になると、さすがに春が復た活きか えってきたという気がただよい出すのであって、 そうした春の復活を祝ってゲルマン人たちは、 春の女神にふさわしい祭りをもよおしていたの だった。つまりは春の復活をよろこび祝った古 代ゲルマン人の季節の祭りが、彼らのキリスト 教への改宗にともなって、キリストの復活を祝 う宗教的な祭りへとうまく吸いあげられすりか えられていったということなのである。 オハスタ ひハハゼ なおついでながら復活祭には、復活祭兎が 産む色とりどりの卵(ゆで卵)を探し出して食 べるという、ドイッの子供たちにはひどく嬉し い楽しみがある。ウサギは子供をたくさん産む ところからもともと生命力の象徴とされてきた のだが、この復活祭の卵では、それが宗教的な 意味での永遠の生命力の象徴となっているわけ である。つまり、現在のキリスト教のこうした 卵探しの習慣もまた、元来は多産をねがった古 いゲルマン起源のものなのである。 (3)万匪節について。 これはキリスト教で、この世を去ったすべて の信徒を記念する日であって、万聖節(キリス ト教の諸聖人を記念するため毎年ll月1日に 行われる祝祭)の翌日、っまり11月2日に行 われるものだが、これもまたゲルマン的起源の ものである。 ゲルマン人たちは1年にい ちど、収穫も終り、冬の薄暗い日々がやってく る時期に、死者たちを共同の供儀に招いて、一 族の繁栄のための彼らのご加護にたいし感謝の 念をささげていた。そのときには饗宴が催され て、死者たちにも席がもうけられ、子孫たちと の家族の団らんを楽しんでもらうように取りは からわれた。死者たちとのこうした真情あふれ る連帯の習慣が、そのご時流に即した変容をと げっっキリスト教の教会の取り上げるところと なって、そこから死者(信徒)を記念する祭日 としての万霊節がつくられたのである。今日で はこれはもっぱら力トリック教会の行事になっ ているが、この日、有名なDies lrae(怒りの 日)を唱えるミサが終ると、信者は一族の眠る 墓地を訪れ、赤いガラスの容器にローソクの火 をともし、故人の好物を供える。遠く故郷を離 れた者もこの日には帰郷して墓参りをするとい う。 (41 ドイツの国技:サッカー このようにほんの2、3例を取り上げただけ でも、キリスト教文化の背後にはゲルマン信仰 ないしゲルマン的起源のものが横たわっている ことを知らされる。っまり広義の意味でのドイ ッ文化の背景には、ひとりキリスト教のみなら ず、さらにはゲルマン的起源のものがひかえて いると見なせるわけである。そうだとするとこ こで、キリスト教とは直接なんらの関係もない のだが、現在のドイッの国技であるサッカー (スポーッもまた広義には文化の一っのあらわ れと見ることができるだろう)がまたゲルマン 的起源のものではあるまいかとする観点から、 敢て一っの仮説を立ててみることも可能なよう に思われる。というのも筆者には、サッカー競 技においてチームのメンバーが互いに連携をと りながら次第にボールをゴールヘと追い込んで ゆくあのさまが、まさに狩りの情景そのものの ように思えてならないからである・……古代ゲ ルマン人は、国土の8割を森がおおう地に住ん でいて、その森に棲息する獣を主たる命の糧と する狩猟民族であった。狩りには単独でするの と共同でするのとがあるが、効率のよいのは共 同狩猟だろう。それは部族の多くの成員が連携 をとりながら、獲物を逃がさぬよう次第々々に、 前もってしっらえられた罠場へと追いこんでゆ くというものである。そのような狩りの現場に おいては、時にはたまたま隣接の部族の者たち とぶっかりあい・獲物をめぐって競合しあうこ ともあったろう・そのようなときにはいずれの グループも、目分たちが設けた罠場のほうに獲 物を入れこもうとせり合ったのではあるまいか。 いまだ実際の狩りに加わらせてもらえぬ年少の 者たち(獲物を持ち帰るくらいしか加勢させて もらえぬ者たち)も、こうした狩りの実際を目
にしながら大きくなっていったろうし、早く一 人前の成員になりたいと思ったことだろう。そ うしておそらくは、そうした子供たち同士で、 何か獲物に見たてられるもの(球形のもの)を 作っては、それで狩りの真似事をしながら、そ の練習としたのではあるまいか。そしてそのよ うな遊びのうちに、少しずっ約束事が、つまり 一種のルールのようなものが、出来上っていっ たものと考えられる。そんな子供たちの遊びに、 ときに大人も加わることがあったかも知れない。 そのごゲルマン人たちが狩猟民族から一獲 物の獲得・確保を確実で安定したものとするた めに 次第に牧畜民族へと移行していった ときにも、こうした狩りの真似事としての遊び は継承されていったものと考えるのが自然では あるまいか。そしてさらに時代が下って、狩猟 がもはやかってのごとくに一般的なものでなく なってくると(王侯貴族くらいしかやれなく なってくると)、逆にそのため、狩りを思い出 させてくれるそうした遊びに大人たちもが打ち 興じるようになっていったものと思われる。そ うなるといきおい遊びは競技化し、約束事とし てのルールもよりととのえられてゆくことに なったろう。 たとえばイングランド(周知のように、ゲル マン民族のうちの、アングロ族とサクソン族が ブリテン島に渡り、土着のケルト人を支配下に おいて建てた国)では、11世紀の初めごろか ら球形のものをけりあうフットボール(サッ カーの原形)が行われていて、14世紀になる とそれに対してしばしば禁止令が出されたそう だが、それは逆にいうと、それほどまでにこの 競技が盛んになっていたことの証拠でもある。 そのようにして現在のスポーッとしてのサッ カーが誕生したのは、1863年世界最初のフッ トボール協会がイングランドに設立されたとき とするのがふっうである。そのごこのスポーッ が世界的なひろまりを見せて、今日のワールド カップの隆盛を見るにいたっていることは、い まさら説明するまでもないであろう。 ちなみに、サッカーのヨーロッパ選手権試合 とかブンデス・リーガのときなどにたまたまド イッを旅行していてレストランに入ったりする と、ときにはかばかしく料理が出てこない目に 遭ったりする。コックもウェイターも自分が応 援するチームの試合のテレビ中継に熱中してい て、ついつい仕事のほうがおろそかになるとい うことのようだ。おそらくそうした観戦のとき には・かつての狩猟民族としてのゲルマン人の 血がさわぐ熱狂状態に陥っているのではあるま いか、と思いやってみたりもするのである。そ れはともかく、現在のドイッ人のサッカー好き は、彼らの祖先たるゲルマン人が狩猟民族で あったことと深く関わっているのは間違いない ところであろう。 皿.日本文化の基底としての神道 日本語の「祭り」ということばは、そもそも は「祀る」から出てきたものである。だから日 本の祭りの多くが神仏を祀ることに、つまり神 道や仏教の祭事に、ルーッをもっのはしごく当 然のことであろう。各自思いっくままに身近か な祭りを思い浮かべてもらえば、それらの多く が神社や寺院とふかい関わりをもっものである ことに気づかされるはずである。しかし、そう した個々の祭りのことはいまここではさておき、 日本人全体にとっての重要な年中行事としての 祭り(祭事)である正月、お盆、秋祭りの三っ を取りあげて、その由って来たる源について見 てみることにしたい。 (1)正月について。 大晦日の夜、百八ツの除夜の鐘をききながら 1年が仏式でしめくくられると、っづいて新し い年(正月)が始まり、人びとは最寄りの神社 へと初詣に出かける。このことからもただちに、 正月の祭事が神道に直結し、かつ由来するもの であることを容易に理解し得る。正月には家を 清め、門松を立て、しめ飾りをするのは、そこ が神聖な神祭の場であることを表わすためだが、 これもまた何よりも「清浄」をたっとぶ神道ゆ としがみえのことである。新年にまつる神を歳神あるい としとくじん は歳徳神という。神職が配る歳神のお札や御幣 を神棚や床の間にまっることが多いが、このト みのシには稲などの稔りの意味がある。っまり正月 は、稲作こ神道とふかく関わる行事なのである。 なおまたこの神道における円環的時間観にあっ
ては、新年は時問の周期が原点にもどる日で、 そこでは時間的へだたりが超克され、この世と あの世との交流が可能であると考えられていた。 だからこのときに、この世の人は、祖霊となっ ているあの世の人たちを招いて供応したのであ る。そのことは、今日でもなお正月には祝箸を 用いることのうちにその名残りをとどめている ように思われる。つまり、箸の両側が細くなっ ているのは、一方がこの世の人たち用であり、 もう一方はご先祖さまたちが食べるためなので ある。また正月には雑煮を食べるが、雑煮とは 本来神(祖神)に供えた食品をさげて食べる調 理法で、神(祖霊神)と人(子孫)が食事をと なおらいもにする直会の一種であった。ともかくこのよ うに祖先の霊を迎えまつることが、新年の行事 の重要な要素であったことは問違いない。そし てこの祖先崇拝こそが神道の根本理念であって みれば、正月(行事)とはほかならぬ神道に由 来し直結する行事であることは、疑いようのな いところである4)。 (2)お盆について。 お盆とは、陰暦7月15日を中心に行われる う らぼんえ祖霊供養の法会のことで、正式には孟蘭盆会と いう仏教行事である。孟蘭盆の起源にっいては 幾っかの説があるが、いずれの説が是、いずれ の説が非であるかといったようなことを云々す る立場にはないので、その起源についてはここ では立ち入らないことにする。ただ日本では、 仏教の伝来(AD538年)ののち1世紀余りで もう孟蘭盆会が設けられ、そこにおいては孟蘭 盆経が講じられて、祖先供養のなされたことが 文献から明らかである。それ以降は朝廷の恒例 仏事となり、諸大寺でも行われ、しだいに民問 の各寺院へと普及した。そして今日もなお孟蘭 盆会は寺院で盛んに営まれるが、民間でもお盆 と略称して、一家そろって先祖のお墓まいりに 出かけるなど、祖霊や死霊の祭祀として執り 行っている。こうしたことからも、日本におけ る孟蘭盆会ないしお盆の行事の本質は、祖先な いし死者の霊魂を迎えまつる先祖祭祀にあるこ とは明らかである。 しかしここでふと立ち止って、はたしてそも そもお釈迦さまの教え、つまり仏教の教理のな かに、祖先の霊魂(=祖霊)を祀るといったよ うなことがあったろうかと考えてみねばならな い。祖霊を祀るという形で、祖先をうやまい崇 めるといった「祖先崇拝」の教えがあったろう か、と。端的にいって、祖先崇拝といったよう な教えは、本来仏教の教理のなかには存在しな いのである。それなら、いったいなぜ日本のお 盆では、祖先の霊魂を迎えまつるという形での 先祖祭祀が、その中心をなしているのであろう か。・臼一これにっいては次のように解し得る。 すなわち、仏教の伝来以前に日本では、弥生時 代の水稲耕作の一般化にともなって、神道(古 神道)が日本人に固有の民族宗教としてすでに 確立・定着していたことにその理由を求め得る ということである。稲作農業にとって何より大 切なのは水田であるが、その水田を今のごとく にあらしめてくれたのは他ならぬご先祖さまの 努力のたまものだと、子孫たちとしては感謝と 崇敬の念いから、おのずと先祖の霊魂を神霊そ のもののごとくに見立てる祖先崇拝の心をっの らせていたのであり、そこから祖先崇拝こそが 神道の根本理念となったのだった。このような 民族宗教がすでに日本人のあいだに確立・定着 していたところへあとから入ってきた仏教が・ この民族宗教からの影響を受けて・みずからの 内にも祖先崇拝的な要素を付け加えていったと しても、それはごく自然なことであったろう。 いや、じっさいには新来の仏教のほうが、日本 という風土に根づくためにはこの祖先崇拝をみ づからの内にも取り入れるにしくはなしと考え て、いち早く積極的にみずからの教理の一っと していったとするほうが、むしろ当っているか も知れない。いずれにせよ、仏教と神道との習 合による仏教の日本化(=日本仏教化)によっ て、仏教はその教理の一つに祖霊供養・祖先供 養を付け加え、お盆という仏教行事においては、 もとは神道の根本理念であるものをあたかも本 来的な仏教教理であるかのごとくに、それを前 面に打ち出すまでになっていったのである。 一このように見てくると、最も仏教行事ら しいものとしてのお盆の根本的要素が、仏教伝 来以前の神道にそのルーッをもつことを知らさ れるのである。ちなみにお盆の期間に盆踊りが 行われるのも、もとは祖霊を供養するためのも
のであることは言うまでもないであろう5)。 (3)秋祭り。 言うまでもなく秋祭りとは・農耕の収穫を感 謝する祭りである。豊作祈願のための予祝儀礼 である春祭りに対して、秋祭りは稲作の終りに さいして神の恩恵に感謝するもので、全国の各 神社において神に初ものと豊富な食物の献供が あり、共同飲食が盛大に行われる。宮廷祭祀と しては、当年の新穀を神に献上する伊勢神宮の かんなめさい 神嘗祭が旧暦の9月に、および天皇が新穀を天 神地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭 にいなめさい 儀としての新嘗祭が旧暦11月に行われる。民 間での秋祭りは、明治の改暦後は10月に集中 するようになった。 ところで秋祭りといえば、筆者などには今も 例の童謡が耳に聞こえてくる 「村の鎮守の 神さまの、今日はめでたいお祭りだ、ドンドン ヒャララドンヒャララ、 ドンドンヒャララドン ヒャララ、朝から聞こえる笛太鼓」。秋祭りの ころはきまって空は青く晴れ、さわやかな大気 はやしのなか笛太鼓の嚥子が聞こえてくると、なんと も心がうきたっ思いになったものだ。長く稲作 農業の国であった日本が、現在では工業立国に なったかと思えるくらいに様変りしつつあるが、 それでも今からほんの135年前の明治維新まで は、人口の9割が農民であって、人びとは村落 共同体のなかに生きていたのだった。その村落 の中心にいますのが村の守り神である鎮守の神 さま、氏神さまである。人びとは秋の農作業の 終了をまって、この氏神さまをまつる神社の境 内に集まり、収穫にたいする感謝を神に述べ、 かっまた翌年の豊作をも祈願したのち、自分た ちの農作の労をねぎらって共同飲食し・それに よってまたあらたに元気を取りもどしたのだっ た。そしてこうした共同飲食のあとの余興から 出てきて発展していったものが、のち日本の国 技となった相撲と思われる。それについては次 に述べるとして、ともかく日本人にとって重要 な年中行事である秋祭りは、そもそもは水稲農 耕のはじまったはるか弥生時代の昔にまでその ルーッを遡りえるのであって・かっまたこの祭 りにおいては仏教からの影響もなく、純粋に神 道的な祭りとして現在に及んでいるのである。 (4)日本の国技:相撲。 今から1400∼1500年前の古墳時代の埴輪や 土偶から、日本ではもうすでにそのころ相撲と 同様の競技が行われていたことがはっきりと確 認・立証される。とするなら、その始まりはそ れよりもなおずっと以前のことになるわけだが、 一体どんなふうにして始まったのだろうか。先 も とに筆者は、相撲の原形は弥生時代の秋祭りにお ける共同飲食のあとの余興から出てきたのでは ないかとの考えを述べておいたのだが、想像を たくましくしてみるに、たぶん次のようなこと だったのではあるまいか。 あるとき誰か が次のように言いだした。「今年もこうして稲 の収穫に恵まれたことに対してご先祖さまやら 氏神さまにお礼を申し述べるのは当然だとして もよ、来年もまたどうか豊作になりますように と一方的にお願いするばかりちゅうのは、どう もちと身勝手すぎるのじゃあるまいか。お願い するにしても、そのさいせめてご先祖さまや氏 神さまを喜こばせ楽しませるような何かをして からが筋ちゅうもんじゃあるまいか。」rなるほ ど、お前の言うのももっともだ。そんならこう したらどうだべか。米作りちゅうのは、肩に力 こぶが出来るくらいの力仕事なもんだから、力 自慢の者らも多い。そこでだ、その者らにひと つ力くらべをさして、それをご覧にいれるちゅ うのはどうだべか。」それはいい考えだという ことで、皆して円い人垣をっくったその中へ、 日頃から力自慢の太郎ベエと次郎ベエを呼び出 し、「それ太郎ベエがんばれ」「次郎ベエも負け るな、のこったのこった」とヤンヤの声援をお くりながら、きそわした。すると、それを見て いた氏神さまが、ワハハワハハ、これは面白い、 と大よろこびされた。そうすると、それを見た 村人たちが、「ほれ、氏神さまがあんなに喜こ んでいなさる。これなら来年以降もずっと秋祭 りのときには、この力くらべをご覧にいれるべ も とし」ということになって、それで相撲の原形に なる競技が定着していったということではある まいか。つまり、相撲のもとは、氏神さまやら ご先祖さまを喜こばせ楽しませようとする余興 から始った、ということではあるまいか。そう してその後、神前でのこの相撲は、神明の加護 に感謝し、五穀豊穣を祈願する村単位の奉納相
撲へと受けっがれていったと考えられる。今日 でも多くの神社の境内に土俵場がしっらえられ てあるのも、その名残りであろう。ただこの奉 納相撲は、近代にはいっての農村構造のはなは だしい変化から全国的に衰微していったが、そ れでも近年になって少年相撲にともなう鎮守祭 の習俗とともに、復活のきざしを見せる地方が 多くなってきているという。 いっぽう、われわれが今日一般に知る相撲は、 江戸時代いらいの興行的な勧進相撲の形式と内 容を受けつぐものであり、その延長上にあるも のである。ただ、そのように現在の相撲は直接 的には江戸勧進相撲の流れをくむものであるわ けだが、それでもそれが単なるスポーツでも武 術でもなく、がんらい神事であることは、いろ いろの点から容易にわかる。まず土俵に塩をま いて清めるのは、かって神前で行なわれたカく らべのさいに、その場を清めたことに由来する ものだろう。まわし以外なにもっけず裸で行な みそぎ うのは・喫によって清められたそのままの姿で あることを表わしており、また試合のまえに口 を漱ぐのも、念入りな清めの行事である。また かしわで 土俵入りのさいの拍手も神拝の名残りと思わ し めれる。さらには、周囲に七五三縄を張ったり、 ごへち勝負を行わない土俵には御弊を立てるなども、 神事たることを物語っているだろう。……とも かく以上から、日本人にとっての国技である相 撲はがんらい神事であって、祖先崇拝を根本理 念とする神道(一古神道)にそのルーッを求め 得ることは、まず間違いないところである6)。 IV ドイツ人社会にみられる キリスト教的な文化特性 キリスト教文化に彩られた現今のドイッでは あるが、それでもなおキリスト教化される以前 のゲルマン信仰なるものが、いまも形を変えな がら生きつづけていることを垣問見てみた。し かしながらそうはいっても、現在のドイッ人社 会においてみられる諸々の文化的特性のそのほ とんどは、まがうことなくキリスト教を基盤・ 背景にするなりキリスト教と直結するものであ ることは疑う余地のないところである。たとえ ば、いまのドイッ人の時間意識(時間とは過去 から未来に向かって直線的に流れ進んでゆくも のだとする時間意識)が、キリスト教の時間意 識(時とは神の天地創造にはじまり、未来の “最後の審判”に向けて直進してゆくとするも の)に依拠していること然り・あるいは牧畜文 化の社会であることがまたユダヤ・キリスト教 の基盤である遊牧・牧畜社会につながってゆく ものであること、さらには現在みる個人主義社 会、ヨコ型社会、資格社会(実力主義社会)、 契約社会等々の文化的特性が、いずれもキリス ト教の伝統を土壌として育ってきたものである ことなど、すぐにも思いっくことだろう。こう した文化的特性の1、2のものについてはのち にやや詳しく見てみるつもりだが、それに先 だって、ここに挙げた幾っかの特性がいずれも キリスト教を中心軸にして関連し合うものであ ることを、まずもって概観しておくことにしよ う。 キリスト教の神は、全智全能、絶対唯一の超 絶した存在者(人格神)であって、その神の前 では、人問はあくまでも「個人」として立たさ れる。決して集団として、あるいは集団の一員 として、神の前に立っのではない。目己の行為 行動の一切の責任は、個人として背負わねばな らないのだ。たとえ夫婦、親子といえども、 我々人間はとどのつまりはあくまで個人として 生きているのである。そして社会もまたまさし くこの個人が集ったものとして成り立っている のだ。このようにあくまで「個人」を立脚点と し、社会や集団も個人の集合と考えて、それら の利益に優先させて個人の意義と価値を認めよ うとするところにこそ・ドイツのみならず西欧 に一般的な社会通念としての「個人主義」の基 盤もまた存するのである。日本のように個人よ りも集団を優先する社会では、この個人主義は 往々にして利己主義と同一視されがちである。 がしかし、ほんらいあくまでも個人として神の 前に立つことを背景にもっこの「個人主義」 (だから神にたいして個人として責任を負う) は決して、己れの利(益)のみを行為の規準と するいわゆるの“利己主義”と同じものではな い。それにまた、社会は「個人」の集りだと把 えるドイッ(一般に西欧)では、個人の利害と 社会の利害とは相互に関連しあうものと考える
ので、そこに当然、単なる利己主義にたいして は社会(;公共)の側からの規制が働くことに なるからでもある。要するに、一人一人の個人 がいわば一っ一っの細胞として社会という有機 体を成り立たせているのであり、そしてその細 胞としての個人を活かしめる血液の役割をはた すのが「個人主義」だと言ってよいでもあろう かQ いっぽうまた人間をはるかに超えた絶対的な 神を前にしては、個々の人間の差異など無に等 しく、ために個人は全く平等な被造物としてそ の前に立っことになる。たとえこの地上におい て、かたや国王、かたや乞食といった身分的な 差異があったとしても、そのような違いなど神 の目から見れば無きに等しい。所詮は裸で生ま れてきて裸で死んでゆく有限の被造物として、 完全に平等なのだ。たしか誰かある作家が言っ ていたように記憶するのだが、国王であろうと 乞食であろうと、それはそれぞれに与えられた 地上での配役にすぎないのであって、この世と いう舞台上での配役を演じ終えたなら、あとは みな同じく舞台から降りて去ってゆくまでのこ と。この世は国王ばかりでも、また乞食ばかり でも成り立たない。国王もいれば乞食もいてこ そ、この人間社会は成り立ち得ているのである。 だから、人間社会でのそうした地上的身分とか 地位といった差異など、神からすれば無いも同 然なのだ。要するに人間は、神の前では完全に 平等で自由な意志をもったものとして、一人ひ とりがヨコ1列に並んだ存在なのである。そう した意味でドイッ(のみならずキリスト教文化 圏である西欧)はまた、「ヨコ型社会」と言わ れるのである。 このようにキリスト教文化圏に属するドイッ では、神の前に立つ「個人」を立脚点とし、 「個人主義」を基本理念として、「ヨコ型社会」 を形成するわけだが、しかしながら人間は、 “個人”としてはやはり弱い存在である。そこ で、弱い存在である個人が一集団を形作っ てその集団に守られながら生きてゆくという形 態をとったりせずに一それでもなお社会の 中で「個人」として生きてゆき得るために考え 出されたのだが、「資格社会」というシステム である。……各個人がそれぞれにまずは(社会 なり国家なりから公認された)何らかの社会的 な「資格」を取得し身につける。そうしてこの 「資格」を互いに尊重しあって・資格にともな う権利・義務領域は侵害し合わないようにする。 そのことによって個々人が、みずからの資格に 見合った社会的ステータスを与えられ、それに 相応する社会生活が営めるように保証しあうの である。現今のドイッは、どんな職業・職種で もことごとく「資格」がものをいう社会である が、その最もわかりやすい例が中世いらい今も なお生きている“マイスター制度”であろう。 こうしたことについてはすでに述べたが、要す るに同じ職業・仕事であっても、「資格」の有 る無しによって給与体系をはじめ諸々の優遇処 置まで変ってくるといった資格付与の社会シス テムによって、「個人」の生活を守ろうとして いるのがドイッの「資格社会」なのである。 そしてさらにまた、端的には個人の「権利」 を守ることを通してその生活全般を守るもの・ 個々人の「資格」を実効性あるものたらしめて 資格社会そのものを支え守るもの、それが他な らぬ「契約」である。契約とはひらたくいえば 約束あるいは取り決めだが、とりわけその約束 が相互の意志表示の合致によって成立している 法律行為のことをいう。契約は、個人と個人、 個人と集団(共同体、社会、国家etc.)集団 と集団等々いろいろのケースがあるが、いずれ の場合もその「契約」に効力が存するのは、単 にそれが法律にもとずく行為であるだけでなく、 人問と人間の約束としての「契約」の背後に、 そのおおもととしての「神と人間との約束」と しての《契約》がひかえているからである。だ から人間相互の契約をやぶることであっても、 それはとりもなおさず神との契約をやぶること を意味し、したがって契約違反は神への裏切り 行為となるのだ。っまり、r契約」に実効性を もたせているものは、ほかならぬ神なのである。 そうした意味で、キリスト教文化圏の国ドイッ は、「契約」こそが社会をその根底においてさ さえる「契約社会」なのである。そしてまた・ このように神を背景にもつ「契約」によって個 人の「権利」が保証されているがゆえに、個人 があくまで自己の権利を主張する「自己主張の 文化」特性と、またそれに伴う諸々の文化的特
性も出てくることになる。が、それについては 項を改めて見てゆくことにしたい。ともかく、 「契約社会」であるからこそドイッは、「個人」 を立脚点とする社会たりえているのであり、 「個人主義」も本来の機能をはたしえているの であり、「資格社会」たりえているとも言える のである。そうしてそれらすべてを関連づける その中心軸が神であることは、いまさら言うま でもないであろう。 V.日本人社会にみられる 神道・仏教的な文化特性 グローバルな視点から見れば、日本は仏教文 化圏に属する国である。しかし仏教の伝来以前 にすでに日本には、日本人にとっての固有の民 族宗教となる神道が確立・定着していた。この 神道は、そのご歴史的過程において仏教と習合 したような時期もありはしたが、それでも基本 的には本来の姿をよく保持して、連綿と生きっ づけ現在に至っている。したがって、(ドイッ ではキリスト教がそれ以前のゲルマン信仰をほ とんど融合・吸収してしまったのとは異なり) この神道と仏教とがほぼ同等・対等に、日本の 文化的特性をささえる二本の柱になっている。 たとえば丸神道の時間観は、稲作農耕に特徴的 な一年周期の円環的なものであるが、仏教の時 閻観もまた(輪廻転生ということばが端的に言 い表わしているように)円環的なものであるそ の共通性から、現在の日本人における時間意識 も一般的・基本的には円環的なものとなってい る。また日本もインドもともにモンスーン地帯 として稲作農耕が営める風土ということで、仏 教伝来以後も日本は一貫して農耕文化の社会を 形成してきた。そしてそのことからまた現在み るような集団主義社会、タテ型社会、肩書社会 (年功序列型社会)、人間関係重視(義理人情) の社会等々の文化的特性をもっにいたっている。 逆にいえば、これらの文化的特性をささえるも のは、神道と仏教という二っの宗教だというこ とになるのである。 現在の神道のうちにももちろん、その最も原 初的なアニミズム信仰ないし自然宗教の要素が 残っていなくはないが、それでも今日の神道の 根幹(根本理念)をなすものは・何といっても 祖先崇拝である。そしてこの祖先崇拝なるもの は、稲作農耕が確立・定着することにおいて、 その田畑を拓いてくれた祖先への感謝と崇敬の 念から生まれたものであったことについては・ 先に述べた。そうすると現実の農耕生活にあっ ては、この祖先崇拝に裏打ちされて、農耕のい ちばんの経験者としての年長者、つまり家長に 権威・権限が与えられることになる。すなわち、 当時は親子三代が同じ家に住むのがふつうだっ たと思われるが、そうした家族(現今の核家族 から見れば大家族)のなかで、家父長がいわば ピラミット構造の一家の頂点に立って全体を リードしながら、農作業が営まれることになっ たのだった。こうして家長制度、家族制度が形 成されていったわけだが・そうなるとそのこと からいきおい何をするにも、この家族=《家》 (イエ)を基本にして考える思考・発想が一般 化していくのは、ごく自然な成り行きだったろ う。そしてこの《イエ》=《ファミリー》は、す でにそれが「集団」(最小単位ではあるが最も 基本的な集団)であることにおいて、日本人の 思考発想がまたおのずと集団重視・集団中心的 なものになっていったのである。「個人」より もむしろ「集団」に価値をおく「集団主義」が 考えの中心的基準になっていったのである。 いっぽう、この《家》はまた《ウチ》とも言 われるように、イエニウチ(=“ウチウチ”) を重視し第一義とすることは、イエのソトを第 二義的なものとする考えに直結する。そしてそ のことからまた、日本人に特徴的な「ウチとソ ト」という考え方も出てくることになる。そし てこのウチは伸縮自在な概念であって、このウ チはふっう「馴化され、名無しとなった多数の 構成員から成る高い壁に囲まれた社会で、内部 の者にとってソトは存在しないに等しい。」 (『異文化コミュニケーション』P.10)つまり、 実在するのはウチという集団(グループ)のみ であって、ソトは実質的に不在となるのである・ ウチに対するソトとしての世間は、だから日本 人には実体として不在なのである。不祥事を起 こしたあと「世間をお騒がわせして申訳ありま せんでした」と頭を下げる光景をよくテレビで 見るが・そこに全然こころがこもっていないの