近江商人外村市郎兵衛家の経営
上
村
雅
洋
はしがき ︵1︶ ︵2︶ 近江国神崎郡金堂村に居住する近江商人である外村﹁族については、これまで本家である外村与左衛門家、その分家で ︵3︶ ︵4> ある外村宇兵衛家、外村宗兵衛家についてとりあげ、その存立基盤・経営内容・雇用形態・家訓・家結合などを中心に分 析を行なってきた。ここでとりあげる外村市郎兵衛家は外村与左衛門家の有力な分家であり、また外村市郎兵衛家の創設 以来、維新期を乗り切り、現在に至るまで存統する貴重な近江商人として存在する。そこで、本稿ではこのような外村市 郎兵衛家の長期的な企業経営や家相続の在り方を通して、外村市郎兵衛家の創出をはじめ、外村与左衛門家を本家とする 外村一族の家結合の在り方、分家外村市郎兵衛家の役割、事業展開、組織化、利益動向などについて明らかにしたい。時 期的には、天保一一年︵一八四〇︶から昭和一〇年︵一九三五︶に至るほぼ一〇〇年間に及ぶ。 ︵6︶ ︹7︶ ︵5︶ なお、外村市郎兵衛家については、すでに﹃創業百十年史﹄と﹃外市株式会社百十五年史﹄ の二冊の社史があり、本稿 でも大いに参考にさせて頂いた。 ︵1︶外村一族である外村与左衛門家・外村宇兵衛家・外村市郎兵衛家の家訓・店則については、五個荘町史編集委百会編﹃五個荘町史資料集正一近江商 近江商人外村市郎兵衛家の経営 一近江商人外村市郎兵衛家の経営 二 人外村家の家訓・店則集成1﹄︵滋賀県神崎郡五個荘町、一九八九年︶の史料集がある。 ︵2︶拙稿﹁近江商人外村与左衛門家と家業一﹁先祖代々伝来記﹂を中心にIL︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第二六号、一九九三年三 月﹀。外村与左衛門家の社史としては、﹃外与二百七拾年史﹄︵外与株式会社、一九七〇年︶、﹃創業二八○周年記念誌﹄︵同、一九八○年︶かある。 ︵3︶拙稿﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂︵滋賀大学﹃彦根論叢﹄第二六二・二六三号、一九入九年﹁二月︶、同﹁近江商人外村宇兵衛家の 雇用形態﹂︵滋賀大学経済学部紅軍史料館﹃研究紀要﹄第二三号、一九入九年九月︶、同﹁明治期における近江商人外村字兵衛家の経営﹂︵同第二四 号、一九九〇年]二月︶。 ︵4︶拙稿﹁近江商人外村宗兵衛家と家訓﹂︵滋賀大学﹃彦根論叢﹄第二入五・二巴六号、一九九三年一一月︶。 ︵5︶﹃創業百十年史﹄︵外市株式会社、一九七三年︶。 ︵6︶﹃外市株式会社百十五年史﹄︵外市株式会社、 ﹁九七七年︶。 ︵7︶﹃創業百十年史﹄と﹃外市株式会社百十五年史﹄は、ほぼ同じ時期に刊行されたもので、後者は前者の改定・増補版と考えてよく、ほとんど同文で ある。後者は、時間の経過にともない前者の最後の項目﹁新社屋の竣工﹂を大幅に書き加え、新たな項目として﹁百億円企業へ﹂を付け加えたもの である。したがって、本稿においては、煩雑になるため引用箇所は﹃創業百十年史﹄に統一した。ほかに外村市郎兵衛家の研究としては、大橋金造 編﹃近江神崎郡志稿﹄下巻︵滋賀県神崎郡教育会、一九二八年、四六二∼四六三頁︶や前掲﹃五個荘町史資料集1一近江商人外村家の家訓・店則集 成1﹄などがある。 外村市郎兵衛家の創出 外村市郎兵衛家の創出については、初代外村市郎兵衛有志による市郎兵衛家の独立以前にすでに本家外村与左衛門家か ︵1︶ ら分家市郎兵衛家の創出が試みられていた。それは、外村与左衛門家の天保=二年︵一入四二︶年﹁先祖代々伝来記 巻五﹂ によれば、次のようであった。 一天保十一庚子六月嘉兵衛義長浜6卯兵衛方江貰ひ受五六月十入日二村入相擬製候 ﹁六月廿三日二宗兵衛殿仲人二言卯兵衛方δ此方へ貰ひ親子盃相済申候、則与左衛門方6別宅させ申候事 一与左衛門嘉兵衛親子盃相済候ヘハ、おうの兄弟姿二相成り候二品、改メ卯兵衛方子分二してもらい盃させ、仲人宗兵衛殿
相頼候て、六月十三日婚礼之福相勤気申候、尤新家二おいて相勤メ可申述処、雇うつり相済不申候買付、本家新建二歳相 勤メ申候 右ハ市郎丘ハ衛⋮死去 ︵年脱︶ 天保十三七月二日繹成信様御死去 右成慈母忌明相済かたミのぎハ・文成様被軸組通り宇兵衛子方へ遺物二して蕩差送り申候へ者以前それ一親類衆 へ被致候 また、﹁当家の儀は本家与左衛門の分家にして、妙秋様御子文成︵基信︶様の御代、女子うのをして新家を建て、初め長 ︵2︶ 浜の宇野五郎左衛門三男嘉兵衛と申すもの、養子に定めこれあり候処天保十三寅七月二日男の刻死去致され候﹂とあり、 近江国坂田郡長浜町の宇野五郎左衛門家の三男嘉兵衛を天保=年︵一入三九︶に外村与左衛門家の分家である外村宇兵衛 家に一旦貰い受け、同じく与左衛門家の分家である外村宗兵衛の仲介で、宇兵衛家から与左衛門家へ養子として入った。 そして、嘉兵衛は再び宇兵衛家の子供として、九代目外村与左衛門文成︵基信︶の長女うのと同年六月二三日に結婚し、外 村市郎兵衛家として分家独立したが・天保一一季七月二日置二誌の若さで死亡した・そこで・残されな准と結婚して・ 市郎兵衛家を改めて継いだのが、初代外村市郎兵衛有常であった。この間の事情については、次のようであった。 一彦面様御領分江州愛知郡中下村梅本藤兵衛雅客熊吉と申者、 大阪店せ名前持無之候二付、則人別送り左之通り 天保十一子六月 近江商人外村市郎丘ハ衛家の経営 手前江奉公致し元服して小兵衛と名がへ致し廿六才二相成、 彦根御領分 江州愛知郡中下村 庄屋 三 善治
近江商人外村市郎兵衛家の経営 四 横目伝平 大坂瓦町弐丁目 年寄 高安御氏江 右之通り中下村6大坂瓦町弐丁目江人別送り回申候 , 一新宅市郎兵衛死去致し、其後大坂名前持布屋八郎兵衛殿を市郎兵衛方へおうの養子闘魚ひ申候故、八郎兵衛事市郎兵衛お ︵5︶ うの事お富と相成、新宅持セ申候、夫故お主事宇兵衛方子分ニ当無之候、以上 ︵6︶ すなわち、近江国愛知郡中下村の梅本藤兵衛家の熊吉が、外村与左衛門家へ奉公に出て、元服して小兵衛と名前を替え、 大坂店の店名前である五郎兵衛として大坂店を差配し、市郎兵衛亡き後にうのの養子として入り独立し、うのも名前を富 と改めた。 さらに詳しくは、次のような小兵衛の引越手形や一札が残されている。
引馨取手形蒙
一軸御村藤兵衛殿弟小兵衛、右之者此度当村布屋八郎兵衛方へ養子引越被申候処実正也、然る上ハ感喜村方当未年之宗門御 改御帳面御除可被成候、当方宗旨御璽御帳面江書載可白露、為後日人別請取手形侃而如件 天保六年未二月 神崎郡金堂村庄屋休兵衛印 全 年寄 孫右衛⋮門印 愛知郡中下村御役人衆中 引越請取手形範 一直雇村藤兵衛弟小平、右著者此度当村八郎兵衛方へ養子引越被申墨壷実正也、然る上者其御村方来る裏年宗門御薩御帳面相除可被成候、当方宗旨相改御帳面書載可申候、 天保十︼子年三月 為後之人別請取手形価諸軍件 郡山領分神崎郡金堂村 庄屋休兵衛印 年寄孫右衛門印 彦根様御領分愛知郡中下村御役人衆中 一札鞄 一此早出生者同国愛知郡中下村百姓藤兵衛惇小兵衛と申者、市郎兵衛名跡相続二付、御相談之上村住人二連成下候中研有奉 存候、雲上者当村百姓二相違無御座候、万一出生之儀二付如何様之儀出来仕候共、我等罷出急度將明少しも御世話相懸申 間敷候、此上神事其外お定の通急度相守可申候、為後日之侃県会件 天保十四年卯二月 本人 小兵衛印 世話人 銀丘ハ衛印 親類 宗丘ハ衛印 惣若連中様 前二者は、小兵衛が、近江国愛知郡中下村の藤兵衛家から外村与左衛門家の所在する神崎郡金堂村へ移籍する引越手形 であり、これは小兵衛が外村与左衛門家の大坂店で八郎兵衛として店名前で活動する際に取られた処置である。もう一つ は、小兵衛が、うのと結婚して市郎兵衛家の名跡を相続した際に、提出されたものである。小兵衛は、有能な奉公人であ ったようで、また小兵衛を養子に迎えるに当たっては、本家外村与左衛門家における家庭の事情も関係していた。﹁うの母 回訓︵法名︶様にも同年︵天保一三︶六月二十七日未の刻に御往生、其後父文成様も御病気にて同年九月二十二日午の刻 に終に御往生遊され、御両親並に当家相続人御三人酔同年に死去、本家上火の消えたる如く、文成様子茂丘ハ衛︵死去︶与 近江商人外村市郎兵衛家の経営 五
第1表 外村与左衛門文成(基信)の子供 近江商人外村市郎兵衛家の経営 続柄 名前 生年月日 死亡年月日(享年) 備考 長男 智教(与市) 文政2・12・5 文政3・12・8(2) 二男 成心(幸次郎、茂 文政5・6・24 弘化2・6・24(24) 兵衛) 長女 うの(とみ) 文政6・11・15 明治25・11・10(70) 天保11年新屋、外村市 郎兵衛有常の室 三男 照成(伝吉、与兵 文政8・正・9 明治21・8・20(62) 10代目外村与左衛門 衛、応信) となる (註)「外村氏家乗資料 天」(外村宇兵衛家文書)より作成。 .L. ノ、 兵衛両人とも幼年、その外手代皆々若年の者計りと相成り、愁傷限りなく差当り家事相続 方十方無明の次第、別けて同年より御公儀様より呉服法度、諸品共二割下げの御改革の御 趣意を厳しく申し出され、国中取引向大変の成行、これは前代未聞の取決め本家不都合と ︵10︶ も言語に絶したる次第恐入り奉難事しとあり、うのにとっては自分を支えてくれた人々が 短期間の間にこの世を去ったのである。母である妙成が天保一三年︵一入四二︶六月二七日 に四四歳で死亡し、父である本家外村与左衛門家九代目当主文成も同年九月二二日に五五 歳で亡くなり、さらに前述したように夫である外村市郎兵衛もすでに同年七月二日に二九 歳の若さで死亡し、うのの最も近しい三人の家族が周りからいなくなったのである。それ は、本家与左衛門家にとっても大きな痛手であった。文成の子供である文政二年︵一八一九︶ 一二月五日生まれの与市︵法名智教︶は翌年一二月入日にわずか二歳で死亡し、文政五年︵一 入二二︶六月二四日生まれの茂兵衛︵弘化二年六月二四冒死去︶は当時一二歳であり、文政八 年目一八二五︶正月九日生まれの与兵衛︵のち一〇代目外村与左衛門応信となる︶はまだ一八 ︵11︶ 歳であった。このような、若年者だけになる本家与左衛門家の危機を救うために、文成の 生前中に期待が寄せられたのが小兵衛であった。﹁文成様御病気中、手代小兵衛本家総支配 申付なされ、御遺言は小兵衛こと新家市郎兵衛方相続致すべきとのこと、則ち小兵衛こと ︵12︶ 改め、市郎兵衛天保十四年卯二月婚礼儀式取計致す﹂とあり、与左衛門家の手代であった 小兵衛がうのと結婚し、市郎兵衛家を相続することとなったのである。 小兵衛の本家外村与左衛門家での活躍ぶりは、﹁文政九年十四才で外与本家へ奉公に出た
が、入店後名古屋店︵支配外村銀兵衛︶へ差し向けられ、九ケ年の間尾州︵木車産地︶の係りとして出向、関東方面へも 度々下向するなど経験をつみ、大阪店仕入、京向仕入も差在しながら帯地の取扱にも務めたが、主人基信より大阪店へ転 出を命ぜられ、関東その他諸国へ仕入に廻り、売場の方も兼務にてずっと大阪店に七ケ年つとめた。天保十三年九月主人 基信往生の以前より、本宅勤めとなり家事向取締と同時に店支配兼務を命ぜられ、本家相続人︵長男死去︶二男︵与兵衛︶ が成人して妻を迎えたが、未だ若年で手広い商売向手が廻らなかったので、後見の役を解かれてからも新宅に引移り、引 ︵13︶ きつ.・いて本家へ通勤店向きを切廻したしとあるように、文政九年に︵]入二六︶一四歳で入店して以来、名古屋店をはじ め大阪店そして本宅勤めとなってからも店支配人として本家外村与左衛門家の事業経営だけでなく、家事向きについても 中心的役割を担っていた。そして、﹁然れども本家商売向総て手広く、誼も行届き兼新家へ移り七二も本家へ通勤し、自分 別に渡世は致さず候、たとえ此後自然渡世向相定め候とも、永く本家大切に守護致すべく候事は勿論、万一本家に差支え の儀候て、一時は本家無為の我身分を捨てるこどは自然の道理にして、心得違いの儀致すまじきこと、身上︵しんしょう︶ ︵14︶ 向歯本家より附別け相成り永く預り守るべき事、適正に相続致すべく古事﹂とあるように、本家の当主である外村与左衛 門文成︵基信︶の亡き後、初代外村市郎兵衛下五は本家の後見役として本家を守り立て、新家に移ってからも引き続き通勤 し、独立して外村市郎兵衛家の事業を行なうことなく、本家に勤めた。 外村市郎兵衛有常が、本家に同居して与左衛門家の後見役として、本家の事業経営に当たっていたことは、たとえば安 政四年︵一八五七︶入月の領主である郡山藩の江戸上屋敷普請への献納金︸○○○両を近江商人である神崎郡金堂村の外村 与左衛門︵三六〇両︶・中村次兵衛二七〇両︶・須田彦次郎︵一七〇両︶・中村四郎兵衛二五〇両︶・川並村の川嶋源左 衛門︵一五〇両︶がそれぞれ分担して納めた際にも、﹁当時市郎兵衛義、与左衛門と同居同様之義二付、此高江市郎兵衛分も ︵15︶ 相こもり申候﹂と付箋による註記があるように、市郎兵衛は当時本家外村与左衛門家に同居し、本家与左衛門家と一体化 近江商人外村市郎兵衛家の経営 七
第2表 外村市郎兵衛家の屋敷田畑 近江商人外村市郎兵衛家の経営 地目 面積 分米 屋敷 290坪 1石 2升5合 上田
9畝6歩
1石4斗7升2合
上田 1反 21歩1石7斗1升2合
上田6畝6歩
8斗8升5合
上田 1反 10歩1石6斗4升5合
上田 1反 5歩1石6斗2升7合
上田7畝1歩
1石 7升 中畑1畝5歩
1斗 5合 中畑 24歩7升2合
中畑 1畝 1斗 2合 畑 1畝10歩8升1合
畑 1畝18歩1斗4升4合
中畑1畝6歩
8升7合
中畑1畝6歩
8升7合
中畑 1畝8升5合
中畑 25歩 8升 屋敷 110坪3斗5升4合
畑屋敷 170坪8斗2升6合
合計11石4斗5升9合
(註)明治5年5月「屋敷田畑調書」(外村市郎兵衛 家文書)より作成。 入 村与左衛門家の大坂店・京都店・名古屋店や江戸・尾州の各出店からいろいろ便宜を与えられ、 どを取り扱い、しだいに関西木綿を江戸へ、関東呉服を大坂・京都へ送り、 ︵17︶ 受けて、事業を展開していったようである。 天保一四年︵一入四三︶に外村市郎兵衛が、本家与左衛門家から分家した際の財産は五〇〇両であり、嘉永五年二月の﹁高 ︵18︶ 目録﹂によれば、合計田畑屋敷︸二二五反八畝一〇歩︵年貢高で八乗五斗二合︶が﹁嘉永五子ノ三月島、本家6御三旗下 ︵19︶ 候目録也﹂とあり、与左衛門家から譲られている。それが、明治五年五月﹁屋敷田畑調書﹂には、第2表のように、合計 一入筆一一石四斗五升九合にまで増加している。田方は上田、元方は中畑が中心であり、屋敷が三筆存在する。 して事業を行なっていたようすがわかる。このように外 村市郎兵衛有常は、本家外村与左衛門家の与兵衛が九代 目与左衛門文成の死後一〇代目の当主となり、嘉永元年 (一 ェ四八︶に二四歳で結婚してからも、本家に同居して 後見役として勤務した。そして、嘉永三年︵一八五〇二 二月には新宅の普請ができたのでそこへ移ったものの、 その後も本家へ通勤して後見役としての機能を果たした ︵16︶ のである。 そして、文久二年︵一入六二︶になり、外村市郎兵衛有 常は、ようやく独立して事業を営むこととなった。まず 布の行商を行なったようであり、仕入や販売において外 最初は近江麻布・紅花な 本家や分家である宇兵衛家の江戸店の庇護を︵1︶天保=二年﹁先祖代々伝来記 巻心﹂︵外村与左衛門家文書︶。﹁先祖代々伝来記﹂の史料的性格については、前掲拙稿﹁近江商人外村与左衛門家と 家業﹂四六頁参照、 ︵2︶前掲﹃創業百十年史﹄六頁。 ︵3︶﹁外村氏家乗資料 天﹂︵外村宇兵衛家文書︶によれば、文化一一年生まれである。﹁外村氏家乗資料﹂の内容と史料的性格については、前掲拙稿﹁近 世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂註9参照。 ︵4︶前掲﹁外村氏家乗資料 天﹂によれば、うのは文政六年一一月生まれであるから、当時二〇歳であった。 ︵5︶前掲天保=二年﹁先祖代々伝来記﹂。 ︵6︶前掲﹃創業百十年史﹄では、﹁分家の初代となった市郎兵衛︵有戸︶は、江州愛知郡虫下村︵現彦根市稲枝︶農業新右衛門の二男として生れ、幼名 熊次郎﹂︵七頁︶とあり、少し異なる。また、前掲﹃近江神崎郡愚稿﹄下巻には、﹁外村市郎兵衛平常、文化十年十二月聖日愛知郡中下村梅本氏に生 れた。幼名熊吉、元服して小兵衛と称した。﹂︵四六二頁︶とある。 ︵7︶﹁外村氏家乗資料 人﹂︵外村宇兵衛家文書︶。 ︵8︶同右。 ︵9︶同右。 ︵10︶前掲﹃創業百十年史﹄六∼七頁。 ︵11︶前掲﹁外村氏家乗資料 天﹂。 ︵12︶前掲﹃創業百十年史﹄七頁。 ︵13︶同書、七∼入頁。 ︵14︶同書、入頁。 ︵15︶前掲天保=二年﹁先祖代々伝来記 巻五﹂。 ︵16︶前掲﹃創業百十年史﹄一一頁。 ︵17︶同書、九頁、 =二頁。 ︵18︶嘉永五年二月﹁高目録﹂︵外村市郎兵衛家文書︶。 ︵19︶明治五年五月﹁屋敷田畑調書﹂︵同右︶。 近江商人外村市郎兵衛家の経営 九
第3表外村市郎兵衛家の歴代当主 近江商人外村市郎兵衛家の経営 代 名 生年月日 家相続(年齢) 死亡年月日(享年) 備考 初代 有常、聞信 文化10・12・30 天保14(31) 明治6・9・15(61) 愛知郡中下村 梅本藤兵衛二 男、小兵衛 2代 有慶、聞慶 天保7・11・2 明治6(38) 明治40・8・4(72) 愛知郡高野村 上田源左衛門 二男、佐一郎 3代 有寿 安政5・12・23 明治29(39) 昭和4・12・8(71) 愛知郡高野村 上田源左衛門 長男、源次郎 4代 有清 明治11・3・2 大正7(41) 愛知郡高野村 谷平右衛門二 男、市三郎 (註)「外村氏家乗資料 より作成。 天」(外村宇兵衛家文書)・『創業百十年史』(外市株式会社、1973年) ︸○ 一一@二代目外村市郎兵衛有慶 初代外村市郎兵衛有態は、子供に恵まれなかったため、後継者として養 子を貰わねばならなかった。そこで、本家の一〇代目外村与左衛門応信の 長女いと︵嘉永二年七月二六日生まれ︶を養女に迎え、かくと改名し、その養 子として有慶が迎えられたのである。有慶は、天保七年︵一八三六︶一一月 二日に近江国愛知郡高野村上田源左衛門の二男として生まれ、幼名は政二 ︵1V 郎といい、外村家へ奉公に入り、店では佐一郎と称した。その精勤ぶりを 外村市郎兵衛有常に見込まれて、養子となったのであろう。 佐一郎が外村市郎兵衛家へ養子に行くに当たっては、次のような二三し および﹁人別送り手形﹂が作成された。
瓦藁
一此者出生者当国愛知郡高野村百姓源左衛門悸佐市郎と申者、市郎兵衛 名跡相続軒付、御相談之上村住入二被成下難有奉存候、然る上ハ当村 百姓二相違無御座候、万一出生の儀二付如何様之儀出来候共、我等罷 出急度聖明少しも御世話相掛申芝敷候、此上神事其外村掟之通、急度 末々岩相守可罰候、為後日侃而如件 慶応二年丙寅正月 本人 佐市郎印世話人外村宇兵衛印 親類 外村与左衛門印 惣若衆中様 ︵3︶ 人別送り手形の事 一 右筆者其御村方市郎兵衛方江養子に遣し申候処実正也、 送り︸紙二相認め差送申候、当直者当卯宗門御改め、 為後目之養子送手形︼札依而如件 慶応三年置三月 彦根様御領分愛知郡高野村源左衛門実子 佐︼郎 年三十二才 尤此者宗旨代々禅宗にて、当村永源寺旦那二相違無御座候、壷草寺 其御村方御帳蟹江御加江可被成候、此方宗門御改め帳面虫除可申候、 愛知郡高野村 庄屋小平印 横目善六印 永源寺印 郡山様御領分神崎郡金堂村御役人衆中 これによって、佐一郎は外村市郎兵衛家の一員として組み込まれることになったのである。二代目外村市郎兵衛有慶に ついては、大正五年に記された次のような簡単な経歴概要が残されているので、紹介しておこう。 一故外村有慶 外村市郎兵衛有慶は天保七年十一月二生る、愛知郡高野村上田源左衛門の二男にして幼名を佐一郎と呼ぶ、少きより宗家 外村家に入り商事に従ふ、先代市郎兵衛その器量を賭て、慶応の初請うて嗣子となし、宗家の女いと子の配とし、後を承 近江商人外村市郎丘ハ衛家の経営 一
近江商人外村市郎兵衛家の経営 一二 けしむ、明治六年養父市郎兵衛残し家名を襲ぐ 市郎兵衛資性温良謹厚能く衆を率ゐ内外の望を博す、明治の初京都に支店を設け明治入園夏之を大阪本町二移し、家業大 二振ふ、明治九年小学校新築の挙あるや、巨貸を出して之を資け、其他公私の義掲等こ・に列記するに逞あらず、明治十 年入目選ばれて村の戸長たり、十一年之を辞せしが、十三年再常職に挙げられ、十四年七月まで任二あり、明治廿一年の 頃より宗家の後見となり、幼・王を書け家政を整理して其方を得たりといふ、一男一女あり、男は漏す、乃甥源次郎を養ひ て長女に配す、・明治二十九年家名を後嗣に譲り、退隠して詳を称す、後嗣市郎兵衛亦父祖の声名を墜さず、家道弥二隆昌 ︹4︶ に趨くといふ、明治四十年八月病して妓す、享年七十二 市郎兵衛有慶が、 べている。 自ら記した ] 家 之_ 記s し には、市郎兵衛家の家訓および商業に関する来歴について次のように簡単に述 払難記 有慶L 訓 一家ヲ保ツノ道ハ勤ト倹トニ有リ、奢二念シ易シ慎ベシ、長ク楽ント欲セバ分テ守レ 一貧モ富モ我一心二有リ、悪心起テバ家ヲ保ツコト能ハズ、家ヲ我子二軍ルマデハ僅三二拾年ナリ、其間ハ謹テ奉公ノ身ト 思ベシ 一信心慈悲ヲ忘ズ、心ヲ常二快ビ、家族一同和合ヲ旨トシテ、上下共営過量スベカラズ、不和合ハ身代ヲ破ルノ本ニシテ、 過眠ハ身躰ヲ傷フノ始ナリ 已上
光陰ハ矢ノ如シ 勉励ハ幸福ノ母ナリ、 忍バザレバ大事ナラズ、玉琢ザレバ器ヲ為サズ、人驕ラサレバ自重ノ祐ヲ得ルモノナリ 右伝聞菰二記ス ︵外村与左衛門家︶ 一当家ハ︿外文成様ノ分家ニシテ、 御不幸ニモ早世、其際相続人幼年二付、市郎兵衛有常後見候事 商業 文久弐壬戌年ヨリ 近江越前越中能登産布類ヲ開業、明治元年廃業 明治弐己巳年ヨり 京都市柳馬場三条上ル油屋叢謹瀟触村安二郎名義ヲ以開店 諸国布類美濃結城金巾裏地商業、後安太郎と改名、明治八年引払大阪へ移転 明治入年大阪市東区本町三丁目田村茂助貸家二戸テ、外村市郎兵衛支店名義ニテ開店、但し十四年吉家買得、関東呉服美濃 結城諸国布類商業 明治三拾弐年京都市蛸薬師烏丸東へ入選松居久左衛門支店ヲ買得、外村市郎兵衛支店名義ヲ以開店、裏地染絹両用石持染太 織等商業 すなわち、家訓としては、家を維持する道は勤勉と倹約にあるとして、富むのも貧しいのも自分の心掛けしだいであり、 家督を譲られている三〇年間は奉公の気持ちでいること、信心慈悲の心を忘れず、家族和合の精神で、過眠をしないよう にとのことを定めている。また、外村市郎兵衛家の商業については、文久二年︵一入六二︶に近江・越前・越中・能登で生 近江商人外村市郎兵衛家の経営 一三
近江商人外村市郎兵衛家の経営 ︼四 産された布類の販売事業を開始し、明治元年︵一入墨入︶にはそれを廃業し、同二年前ら京都市柳馬場三条上ル畑町にある 外村与左衛門家京都店の借家において外村安二郎︵のちに安野︶の名華京都店を開店し・諸国布類書結城金巾裏地商 業をはじめた。明治八年前は、京都店を引き払い、大阪へ移転した。すなわち、大阪市東区本町三丁目の田村茂助の借家 で、外村市郎兵衛支店名義で開店した。営業内容は、関東呉服美濃結城諸国布類商業であり、明治一四年にはその借家を 買い入れた。明治三二年には京都市蛸薬師鳥丸東入ルにある元松居久左衛門の支店を買得し、外村市郎兵衛支店名義で開 店し、裏地染絹両用石持染太織等の商業を行なったという。 明治二年の京都店開業当時の店人数は、店・王安太郎のほか賄を含めて四∼五人に過ぎなかったが、同五年には長浜の小 室勇次郎︵一八歳︶、下郷村の二階堂継蔵︵三〇歳︶、西出村の上林助次郎︵三四歳︶、中下村の中川庄七︵二〇歳︶、竹ケ鼻村 の村川留吉2三歳︶、長浜の宇野万次郎︵=二歳︶、中藪村の出村すえ︵二六歳︶、大山崎村の西村はつ︵二五歳︶の合計八 ︵7︶ 人がいた。 外村市郎兵衛有慶の経営は、西南戦争による諸物資の欠乏と軍需インフレに眼をつけ、九州方面への販売に力を入れて 活動した。大阪への進出以来、国内の交通網もしだいに整備され、中国・九州地方から蒸気船などを利用しての仕入客も ︵8︶ 増加し、持ち下り商いから集散地問屋の出張販売という方式に移っていったとされている。 ︵1︶前掲﹁外村氏家乗資料 天﹂。前掲﹃創業百十年史﹄二↓頁。 ︵2︶前掲﹁外村氏家乗資料 人﹂。 ︵3︶同右。 ︵4︶同学。そこには、﹁大正五年秋、滋賀県教育会長なる滋賀県内務部長堀田義次郎の依託二より、全書十二月神崎郡教育会長神崎郡長平高分四郎の調 査報告せし翁が経歴概要の案文を得たれは、菰二是を採録して脚小伝二充つ、而其中れりや否やを知らず﹂と註記されている。 ︵5︶﹁家之記﹂︵外村市郎兵衛家文書︶。 ︵6︶外村安太郎の名義としたのは、本家大阪支配人として功績のあった安太郎の名義の方が信用があり、その方が営業活動に都合がよく、むしろ外村与
左衛門家の分店としての性格も有していたようである ︵7︶前掲﹃創業百十年史﹄二六頁。 ︵8︶同書、四〇∼四﹁頁。 ︵前掲﹃創業百十年史﹄二一頁︶。 三 外村市郎兵衛有寿と有清 外村市郎兵衛有慶とかくとの間には、長女れい︵慶応三年二月二六日生まれ︶・長男安次郎︵明治四年八月二四日生まれ︶・ 二女あい︵明治入年二月一日生まれVの子供がいたが、長男の安次郎︵のち安太郎に改名︶は明治九年九月七日に六歳で死亡 した。そこで、長女のれいに有寿︵三代目外村市郎兵衛︶を養子として迎えた。二女のあいには、明治元年五月二日生まれ の近江国野洲郡高木村橋本五郎兵衛の三男久一郎を明治二九年に養子として迎え、同三〇年に新宅分家している。後述す るように久一郎は、明治三四年に外村市郎兵衛家の大阪店の経営を支配している。聖寿は、安政五年︵一八五八︶=一月二 三日に近江国愛知郡高野村上田源左衛門の長男として生まれ、幼名を源次郎といい、二代目外村市郎兵衛有慶の甥にあた る。したがって、五代目上田源左衛門は、二代目外村市郎兵衛有慶の兄であり、その子供が三代目外村市郎兵衛有寿とな ︵1︶ つたのである。有寿は、明治入京一二月大.当店創設の際に叔父である外村市郎兵衛有慶にともなわれ、一七歳で外村市郎 兵衛家の大阪店に入店した。外村市郎兵衛家には、明治一入年有馬が二入歳の時に養子として迎えられた。明治二一年に 有慶が五一歳になり金堂の本宅へ引退すると、有寿は大阪店の責任者として活躍することになり、同年には浪華紡績会社 ︵2> の取締役に就任している。 大阪本町を拠点に活動してきた外村市郎兵衛家は、明治二二年には京都に再び支店を設置することとなった。それは、 京都市蛸薬師烏丸東入ルにある松居久左衛門の店舗を譲り受けて行なわれ、最初は京呉服仕入店という性格をもっていた。 近江商人外村市郎兵衛家の経営 一五
近江商人外村市郎兵衛家の経営 ノ、 初代の支配人には、有学の実弟である上田与入︵のちの六代目上田源左衛門︶が就任し、裏地・染絹・石持・小紋友禅などの 染呉服加工販売を事業内容とするものであった。そして明治二七年には、店舗を四条通り鳥丸東入ルに、初田呉服店の廃 業した店舗を借り受け、そこへ移転した。その後、店は明治三九年には初田氏から一万円で譲渡された。このように店舗 を移転したのは、蛸薬師鳥丸東入ルにある京都仕入店が、製造仕入主体からしだいに京染呉服・西陣織物の卸売販売に移 り、地方に多くの販売先を求めて進出し、業績も極めて順調であり、店舗がしだいに手狭になったためであった。これに ︵3︶ より、京都店は三〇〇坪近い地所と倉庫里余をもつ規模に成長し、仕入店から支店に昇格したのである。 一方、大阪店については、前述したように外村市郎兵衛有慶の二女あいに迎えた養子久一郎が活躍する。久一郎は、入 籍後大阪店に勤務し、販売・仕入などの経験を積み、その能力を発揮してきた。そこで、明治三四年に三代目市郎兵衛有 寿が四三歳の時、初めて大阪店に支配人制度を取り入れるに際し、初代支配人に久一郎を登用した。ここに至って、外村 ︵4V 市郎兵衛は、近江の本宅で総指揮をとり、店は支配人に任せることとなり、現場の第一線から退いた。 三代目外村市郎兵衛有寿とれいとの間には、明治一九年九月八日生まれの長男の良三と同二一年一月二九日生まれの長 女いとの二人の子供がいたが、良三は明治二〇年四月五日に二歳で死亡し、いとに養子として有清を迎え、四代目市郎兵 ︵5︶ 衛とした。有清は、明治=年三月二日に近江国愛知郡高野村の谷平右衛門の二男として生まれ、幼名を外治郎といい、 明治二四年に一五歳で外村市郎兵衛家の大阪店へ奉公に入った。そこでその才能を認められて、明治三九年に三〇歳で外 ︵6> 村市郎兵衛家のいとの養子に迎えられた。 明治三九年にはそれまで支配人であった久一郎が、自分家業して独立することになったため、大阪店の支配人として親 族ではなく、たたきあげの最古参の従業員である飯田民三郎を起用し、事実上の支配人制度を取り入れることとなった。 また、京都店は明治四一年に京王古参の松居馬造を支配人に任命した。京都店も前述したように店舗を買収した後に新築
工事を施したが、それもようやく竣工し、大阪店も裏続きの村田長兵衛商店の一部を譲り受け、土蔵を建設するなど拡張 工事を行なった。そして、新たに米沢・越後・能登・尾張・上州・美濃・久留米・伊予・備後など全国各地の織物を取り 扱うようになっていった。販路も、重工業・炭鉱事業の発展にともない中国・四国を中心としたものから九州方面に重点 ︵7︶ を置いたものへと変化していった。さらに、朝鮮半島にまで出張販売を試みたようである。 四代目外村市郎兵衛有清の経営は、﹁株式の所有を通じて、有望な諸企業への投資を積極的に進め、累期の株式配当金を 総べて増資株の払込応募の資金として積立て、時運を見究めてよく運用の妙に徹した蓄財手段は合理的で、文字通りの金 ︵8︶ 字塔を築いてきた商業外利益も、大きく一家の繁栄成長に寄与した﹂といい、大正七年に四一歳で外村市郎兵衛家の家督 を継ぐが、彼の経営実績が示されるようになるのは大正期からであった。 有清と誓いととの間には子供がいなかったので、大正初年に本家外村与左衛門家の勢子を、生後間もなく養女として貰 ︵9︶ い受け養育した。いとは、病死により早世したため、有清はその後言江国石部の谷村家の千鶴と再婚した。 大正二年には、大阪市本町三丁目の本店は、市電施設の拡張工事による一部収用を機に、東区博労町に仮営業所を設け、 大正四年に本町の新店舗へ移った。商品構成も売場の拡大に応じて小巾織物に属する一切のものを網羅した。販路拡大に ︵10︶ 備えて、明治四二年頃からすでに始めた朝鮮半島に加え、大正二年頃から満州への開拓に重点を置くこととなった。 大正七年号は、三代目外村市郎兵衛有寿が隠退したので、有清が、四代目外村市郎兵衛を襲名した。有清は、﹁有寿の経 ︵個︶ 営方針を受けついで堅実な店是を定め、慣習によって自身は五ケ荘本宅に常住し毎月、一度位い京阪両店へ出て、両店の ︵11︶ 店務を総覧した﹂という。当主は主として郷里の本宅に居住して、両店の経営は支配人が運営した。前述したように当時 の大阪店は、外村久一郎が明治三四年から同三入年まで支配し、支配人制度になってから飯田民三郎が任命された。大正 ︵12︶ 期には大阪店・京都店の一貫した経営拡充方針により、両店合わせて一五〇名の従業員を擁するまでに発展した。 近江商人外村市郎兵衛家の経営 一七
近江商人外村市郎兵衛家の経営 一入 昭和期に入ると業界では婦人の服装に著しい変化が起こり、急激な生活様式の欧風化で、家庭における子供嚴などへの 流行の奢修化が見られ、それに対応して昭和六年から大阪店で従来の織物の他に、新たに雑貨部を設けて、婦人子供服や ︵13︶ 綿毛肌着雑貨の取扱いを開始することとなった。さらに、﹁大阪店は関東産地の外市ブロック化を図り、八王子︵三六工場︶ 米沢︵二︶見附︵二︶秩父︵一九︶伊勢崎︵一三︶足利︵一五︶桐生︵二︶尾州︵入︶東京︵二︶全九十九工場の有力機 ︵14︶ 業家を結集してその傘下に収め、外市研織会を結成、製織素材や意匠開発などの指導に努めた﹂という。 小巾織物の分野は、生活欧風化により需要が落ち込み、京都店や大阪店では独自の登録ブランドでイメージアップを図 り、商報によって販売を促進していった。大正末から廃刊となっていた﹁外村市商報﹂を、昭和翌年入月から新たに﹁外 市ニュース﹂としてカラー刷り表紙で一二頁B5判の豪華なパンフレットを月刊配布するようになった。昭和九年には、 京店において回転の早い関東織物と回転の遅い京染呉服を一緒に取り扱うのは不便で、しかもその運用資金を大阪六〇%、 京都四〇%で拠出してきた制度に欠陥があるとして、これを是正した。すなわち、大阪店安村常吉支配人が両店を統一的 に管轄し、高岡与市京店支配人は顧問の資格で露店営業を担当する方針に改めたが、業績は依然として高利潤の京染呉服 ︵15︶ を取り扱う京都店が、上位を占めていたという。 ︵1︶前掲﹁外村氏家乗資料 天﹂。前掲﹃創業百十年置﹄では、長男民治郎、二女わいとなっている︵四一頁︶。 ︵2︶前掲﹃創業百十年史﹄四五頁。 ︵3︶同書、四七∼四九頁。なお、蛸薬師の店はそのまま上田与八が退職して譲り受け、新たに上田与八の嗣子である上田源一郎商店として独立し、外村 市郎兵衛家の別家として京呉服主体の卸売業を行ない、ダイビシ︵大◇︶の商標をもち、上田家の家業としてその後も経営が続けられた︵同、四九 頁︶。京都店の再開については、前述した﹁家之記﹂では、明治三二年となっており、この記述と矛盾する。﹁家之記﹂の明治三二年は、明治二二年 の誤りかも知れない。 ︵4︶同書、五一頁。 ︵5︶旧家については、家祖は武家として佐々木氏に仕え、のち織田氏に従い、安土に残り帰農したという。谷家の九代目平左衛門は、製油、木材販売、
15 14 13 12 11 10 ハ ) ) ) ) ) )
同同同同同前
書書書書書掲
奥州北海道などに呉服太物の小売を営み、酒類の醸造、京都に呉服洋反物店を設けるなど活躍し、この九代目の弟が有清であった︵前掲﹃創業百十 年史﹄五四一五六頁︶。 ︵6︶前掲﹁外村氏家乗資料 天﹂。前掲﹃創業百十年史﹄五四頁。 ︵7︶前掲﹃創業百十年史﹄五入∼五九頁。 ︵8︶同書、五九一六〇頁。 ︵9︶千鶴の兄妹︼族は各界の著名人が多く、長兄の豊太郎は工学博士で旧海軍技術中将として活躍し、戦後畏友藤原銀治郎に乞われて、藤原工科大学の 初代学長になった。次兄の俊治は、家督を継ぎ、文化製品の工場を営み、末弟の博造は、工学博士で松下電器産業副社長になった。従兄弟には、旧 鉄道病院長の和逓増、満州建国の駒井卓三、近江政界の井上敬之助、大丸の井狩弥治郎氏など鉾々たる人々がいた︵前掲﹃創業百十年史﹄六〇 頁︶。 前掲﹃創業百十年史﹄六三頁。 六五頁。 六八頁。 七三頁。 七五頁。 七五∼七七頁。 四 株式会社組織への移行 外村市郎兵衛家の経営は、創業以来外村市郎兵衛家の個人企業として発展してきたのであるが、昭和期に入り、外村市 r ︵1︶ 郎兵衛家の経営が需要構造の変化にともない、しだいに制度を整備し、組織化する必要があった。正式には、昭和一〇年 八月一日から株式会社外地商店として発足するのであるが、その過程で株式会社外村市商店の定款が次のようにまとめら れたようである。轟
︵総則︶ 近江商人外村市郎兵衛家の経営 一九近江商人外村市郎兵衛家の経営 二〇
=
R
三、 四、 五、 当会社ハ株式会社外村市商店ト称ス 当会社ハ左記ノ業務ヲ営ムヲ以テ目的トス 物品販売及之二附随スル︸切ノ業務 当会社ハ本店ヲ大阪市二設置シ、支店ヲ便宜ノ地二設置スルコトヲ得 当会社ハ資本金ヲ総額百五十万円トス 当会社ノ決算ハ毎年一回トシテ、決算公告ハ会社ノ店頭二掲載スルモノトス ︵株式︶ 六、当会社株式ノ総数ヲ一万五千株トシ、一株ノ金額ヲ百円トス 七、当会社ノ株券ハ記名式トシ、拾株五十株百株五百株券ノ四種トス 八、株金払込金額ハ百円金額トス 九、株金払込ヲ怠りタル株主ハ、株式払込期日ノ翌日ヨリ払込完満ノ日迄百円ニツキ一日金四銭ノ割合ニヨル日歩ヲ支払、 且ツ遅延二依リテ生ジタル損害ヲ賠償スルモノトス 十、株主及法定代理人ハ住所氏名及印鑑ヲ本会社二届出ヅヘシ、其変更シタル時亦同ジ 株主ノ法定代理人ハ其代理権ヲ証明スル書面ヲ提出スヘシ、其変更シタル時間同ジ 本条ノ届出ヲ怠りタル為損害ヲ受クルコトアルモ、当会社ハ其責二任セス、株式ハ役貝会ノ承認アルニ非サレバ他人二譲 渡スルコトヲ得ズ 十一、株式ノ譲渡ニョリ名義ノ書換ヲ請求スル者ハ、当会社所定ノ名義書換請求書二譲渡人譲受人記名捺印シテ会社二提出 スヘシ、名義書換ノ手数料ハ株券一枚二付金弐拾銭トス 十二、株券ノ紛失又ハ滅失ノ為新株券交付ヲ請求スルモノハ、当会社所定ノ書式ニヨリ請求書二記名捺印シテ提出スヘシ 当会社ハ請求者ノ費用ヲ以テ三日以上公告シ、三十日ヲ経テ他ヨリ異議ノ申立ナキトキハ、当会鏡筒於テ相当ト認ムルニ 人以上ノ保証人ヲ立シメ新株券ヲ交付ス、此場合二於テ新二交付スル株券一枚二付キ手数料金五拾銭ヲ納付スヘシ 十三、株式名義ノ書換ハ、毎年十二月一日ヨリ定時総会ノ終了迄之ヲ停止スベシ臨時総会ノ場合ハ総会招集通知ノ日ヨリ其総会終了迄株式名義ノ書換ヲ停止スルコトヲ得、此場合二於テハ其旨ヲ公告ス ベシ ︵役員︶ 十四、当会社二取締役五名以内監査役三名以内ヲ置ク 十五、当会社ハ代表取締役弐名ヲ置ク、其壱名ヲ社長トシ、壱名ヲ常務取締役トシ、会社全般ノ業務ヲ統理ス、常務取締役 ハ社長ヲ補佐シ業務ヲ執行ス、社長差支アルトキハ常務取締役其事務ヲ代理ス 但シ、社長及常務取締役ハ取締役会ノ互選トス 十六、取締役ハ弐百株以上ノ株主中ヨリ監査役ハ百株以上ノ株主中ヨリ株主総会二於テ之ヲ選任ス 十七、取締役ノ任期ハ三年監査役ハ弐年トス、任期中ノ最終ノ配当期二関スル定時総会以前二任期満了スル時ハ其総会ノ終 結二至ル迄任期ヲ伸長ス 十八、取締役白煙監査役中欠員ヲ生ジタル時ハ、株主総会ヲ招集スルコトヲ得、補欠選任ヲ為シタル場合二於テ、当選者ノ 任期前任者ノ残期間トス 十九、取締役ハ其在任中各自所有ノ株式弐百株ヲ監査役二供託スル事ヲ要ス 供託株ハ取締役退任量目死亡スルモ其在任中二係ル事項ヲ株主総会二幅テ承諾シタル後、又会社ヨリ其取締役二対シ出訴 中ナルトキハ、其訴訟確定ノ後二非ラサレバ之ヲ返還セス ニ十、役貫会ノ決議ニヨリ相談役及支配入ヲ置クコトヲ得 ︵株主総会︶ 二十一、定時総会ハ毎年十二月之ヲ招集シ、臨時総会ハ必要ノ場合二於テ招集ス ニ十二、当会社総会ハ本店所在地二於テ招集ス 各株主ノ議決権ハ一株付一個トス ニ十三、株主又ハ法定代理人力代理人ヲ以テ議決権ヲ行使セントスルトキハ、当会社ハ株主二限リ代理セシムルコトヲ得 但、代理権ヲ証明スル書面ヲ差出スコトヲ要ス 近江商人外村市郎兵衛家の経営 二一
近江商人外村市郎兵衛家の経営 二二 こ十四、総会ノ決議ハ法令二別段ノ規定アル場合ヲ除ク外、出席シタル株主ノ議決権ノ過半数ヲ以テ之ヲ為ス ニ十五、総会ノ決議シタル事項ハ之ヲ決議録二記載シ、出席シタル取締役監査役出席株主弐導車二記名捺印スベシ ニ十六、総会ノ議長ハ代表取締役事故アルトキワ他ノ取締役之二充ツ ニ十七、当会社ノ営業年度ハ毎年一月一日目リ十二月三十一日迄ヲ一期トシ、毎年白日決算ヲ為ス ニ十八、毎営業年度ノ総収入金ヨリ営業上ノ一切ノ経費及損失ヲ控除シタル残額ヲ利益トシ、之二前期繰越金ヲ加算シ、左 ノ順序ニヨリ之ヲ処分ス必要アルトキワ、特別準備金設クルコトヲ得 一 一、 一、 一、 一、 一、 法定積立金 別途積立金 役員賞与金 株・王配当金 店員退職準備金 後期繰越金 利益金ノ十分ノ一以上 利益金ノニ十分ノ一以上 利益金ノニ十分ノ一以内 利益金ノ十分ノ七以上 若干︵約百分ノ七又入︶ 若干 二十九、別途積立金ハ欠損ノ言損建造物ノ改良費、若シクハ大修繕費、 トス 一 三十、利益配当金ハ毎決算期末日現在ノ株主二之ヲ払渡スモノトス 三十一、本定款二別段定メナキモノハ商法ノ規定二依ルモノトス 煎豆利益金少額ノ場合二於ケル配当金二充ツルモノ これによれば、会社名は株式会社外村市商店であり、物品販売を業務とし、本店を大阪市に置く、資本金一五〇万円の 会社となった。しかし、実際に昭和一〇年八月一日に株式会社となったのは、株式会社外市商店の社名をもつ、資本金一 〇〇万円の会社であり、この定款は、株式会社組織への試行錯誤の過程で作成されたものと思われる。株式会社外市商店 は・袋取締役に外村市郎幕開衛霧取締役に井上仲三解取締役に高岡与市.安村書士。・監査役に山本衛策.外村理八
郎が就任し、本店は大阪市東区本町三丁目二五、京都店は京都市下京区四条通鳥丸東入ル長刀鉾町二七に所在した。ただ し、実質的には従来の個人企業の資産負債や営業権をそのまま継承したもので、株式一万八○○○株のうち一万五六〇〇 ︵4︶ 株を外村市郎兵衛個人が所有する純然とした同族会社として組織替えされたものであったという。 ︵1︶末永國紀]近江商人の近代商業資本への転化過程L︵安岡重明・藤田貞一郎・石川健次郎編﹃近江商人の経営遺産﹄同文舘、]九九二年﹀。末永國紀 氏は、近江商人の近代商業資本への転化過程における転機として、明治一〇年代後半の松方デフレ政策下での多角化対応、明治二〇一三〇年代の商 事関係法の制定による合名・合資会社への移行、第一次大戦後の経済変動下での株式会社組織への改組をあげておられる。また、一二の近江系繊維 商社︵西川、外与、壁土、塚本、稲西、金商又一、丁銀、藤井、小泉、伊藤忠・丸紅、市田、小杉︶のうち、第一次大戦後に株式会社形態をとった ものとして、大正七年の市田商店︵資本金一〇〇万円︶・阿部市商店︵同五〇万円︶・伊藤忠商事︵同一〇〇〇万円︶、同九年の塚本商店︵同一〇〇 万円︶、同一〇年の丸紅商店︵同五〇〇万円︶・丁吟商店︵同一〇〇万円︶、同一四年の藤井商店︵同一〇〇万こ口があり、その他の時期で株式会社 への移行が集中的に見られるのは第二次大戦中であるとして、昭和一六年の小泉︵資本金五〇万円︶・西川、同一八年の小杉︵同一〇〇万円︶、同一 九年の稲西︵一三〇万円︶がそれぞれ合名会社から株式会社へ改組したという。外村市郎兵衛家もこの一連の動きの中で株式会社への組織変更がな されたのである。 ︵2︶﹁定款﹂︵外村市郎兵衛家文書︶。 ︵3︶井上仲三郎は、外村市郎兵衛家の大阪店出身で、入王子産地問屋に転向して成功し、合名会社橋本商店代表社員であったか、その実績により専務取 締役に迎えられたという︵前掲﹃創業百十年史﹄入○頁︶。 ︵4︶前掲﹃創業百十年史﹄八○一入一頁。なお、これ以降の外曲商店株式会社の展開過程については本稿では省略したので、前掲﹃創業百十年史﹄およ び﹃創業百十五年史﹄を参照されたい。 五 外村市郎兵衛家の利益動向 ここでは、外村市郎兵衛家の経営上の利益動向を﹁奥金勘定録﹂を用いて見てみよう。そこで、ここで用いる﹁奥金勘 定録しの内容を具体的に明らかにするために、まず明治一 次に示しておこう。 一旦 ︵1︶ 一月の﹁奥金勘定録﹂によって、明治六年における記載例を 近江商人外村市郎丘ハ衛家の経営 二三
近江商人外村市郎兵衛家の経営 明治六酉年利合記 一金壱万三千五百四拾七両壱分ト 百七拾四銭六厘九三 買正味 一金弐千百九拾壱両 拾五銭弐厘六毛 申ノ年結城高嶋持越 一金六百七拾九両弐分弐朱ヲ 壱銭壱厘六毛取 同 白巾染持越 一金七千八百六拾七両三分壱朱ト 八銭五厘 同 布持越 〆金弐万四千弐百入拾五両弐分三朱ト 百九拾七銭弐厘九毛 外二 一金弐拾入両三朱ト 四銭三厘九毛 一金百五拾五両弐分三朱ト 五銭六厘 一金弐拾両三分三朱ト 五銭七厘 一金千三百六拾四両弐朱ト 入銭三厘九毛 一金五拾三両 百五拾五銭 一金五拾九両三分壱朱ト 拾五銭壱厘 一金弐百七拾三両三分弐朱ト 三拾弐銭弐厘九毛 一弐銭 一金四拾両也 一金六百九拾九両壱分ト 三銭四厘三毛 〆金弐千六百九拾四両三分弐朱ト 弐口合 金弐万六千九百八拾両弐分壱朱ト 正金弐万六千九百八拾四両三分壱朱ト 一金弐万八百五拾五両 八百三拾壱銭三毛 一金三千六百弐拾六両弐分弐朱ト 五銭弐厘 諸掛り 雑用 旅入用 元廻り 布支配弐歩口銭㊥渡 ㊥支配中布引込 尾方引込 札打 家賃 利足〆 弐百三拾壱銭九厘 四百弐拾九銭壱厘九毛 四銭壱厘九毛 売正味 布有 二四
一金千弐百五拾九両三分ト 五銭弐厘 一金千三百壱両 弐拾弐銭三厘七毛 〆金弐万七千四拾弐両壱分弐朱ト 八百六拾三銭八厘 正金弐万七千五拾壱両 壱銭三厘 差引 金六拾六両弐朱ト 三銭三厘六毛 三万千九百四拾三品 仕入数 弐万弐千九百六拾品 売数 八千九百八拾四品 有数 〆 差引 入反過上 七疋不足 〆 結城高嶋有 白巾染有 返上 有物差引 一金五千両 一金弐百六拾壱両 六銭三厘七毛 一金弐分壱朱ト 六銭弐厘三毛 一金千百六拾両弐分三朱ト 拾八銭五厘 此反積戌年ト相加へ元方へ付替二成 一金三拾両弐分ト 壱銭七厘三毛 ↓金拾三両壱分ト 七拾八銭入厘三毛 元方加り元入金改臨時二成 元方加り臨時分 布方差引加り 反積 起差引かし 売差引かし 近江商人外村市郎兵衛家の経営 二五
近江商人外村市郎兵衛家の経営 一金弐百六拾九両壱分ト 五銭五厘 一金三千六百弐拾六両弐分弐朱ト 五銭弐厘 ︼金千弐百五拾九両三分ト 五銭弐厘 一金千三百壱両 弐拾弐銭三厘七毛 一金拾両也 ︼金九拾三両壱分弐朱ト 百四拾四銭三厘 一七銭壱厘 差引 金百八拾壱両弐分ト 弐百三拾九銭壱厘三毛 正金百八拾三両三分弐朱ト 壱銭六厘三毛 刈差引かし 布有 結城高嶋有 白巾染有 臨時貸有 罪払有 年小遣有 全益也 二六 そこには、買正味額、売正味額、持越額、利益額などが掲げられており、これらを表に示したのが、第4表と第5表で ある。第4表は、明治二年に京都店が設置されてから明治八年に大阪へ移転するまでの六年間における京都店の経営状況 を示したものであり、第5表は明治入年の大阪店の設置から昭和]○年に株式会社組織へ変更するまでの期間における大 ︵2︶ 阪店の経営状況を示したものである。これにより、明治二年の京都店の設置から昭和一〇年の株式会社組織への転換にい たる六七年間の外村市郎兵衛家の利益動向が明らかになる。 第4表によれば、売正味は、明治二年目最初の年は八五〇〇両点であったが、三年には一万両を越え、五年忌は二万両 を越えるようになったが、七画面は一万五〇〇〇円心に落ち込んでいる、買正味もほぼ同様の動きを見せる。利益は、明 治二年から四年まで連続して損失を記録し、五年には四〇〇両余の利益を出したが、七年にはまた五二円余とわずかであ るが損失となっており、京都店の経営がこの時期あまり順調でなかったようである。それゆえ、明治八年に京都店を引き
第4表 外村市郎兵衛家の売買高・利益高(京都店) 年 代 売正味 買正味 持越 利益 明治2 8552両2分2朱 12666両1分3朱 5632両1分2朱 △143両3分 41匁7分6厘 70匁5分2厘 5匁7分2厘 538文 3 10950両1分2朱 17191両2分1朱 7045両1分 △437両 1貫262文 109匁4分1厘 39匁5厘・175文 11匁5分8厘 4 18627両 1朱 14856両3分3朱 7152両 △ 24両3分 840匁5分5厘 155匁6分1厘 45匁6分 1匁 9厘 5 24874両1分1朱 24650両 2朱 18605両1分3朱 426両2分 92貫146文 9貫681文 2貫260文 19匁1分9厘 6 20855両 13547両1分 6187両1分2朱 183両3分2朱 831銭3毛 174銭6厘9毛 32銭7厘7毛 1銭6厘3毛 7 14823円55銭46 13379円34銭70 6270円57銭25 △ 52円40銭91 (註〉明治2年2月「奥金勘定録」(外村市郎兵衛家文書〉より作成。 △は損失を示す。 近江商人外村市郎兵衛家の経営 払い、大阪店へ移転したのであろう。 ︵3︶ それでは、﹁明治入明亥ノ九月十九日開店﹂とある大阪店の経営動向を第5表 によって見てみよう。大きな流れとして、売正味・買正味・持越の金額を見る ことによって、経営規模がしだいに拡大していっていることがわかるであろう。 また、これら三者は長期的に見ればほぼ連動して動いていることがわかるであ ろう。そこで、売正味の動向を見ると、明治入漁に二万円弱の売正味で出発し、 一〇年には一〇万円弱となり一四年までは一〇万円台を維持していたのが、一 五年から二一年までは一〇万円台を割り込み、一八年には三万円すら切るとこ ろまで落ち込んだのである。その後二〇年代には一〇万円からしだいに三〇万 円台までゆるやかな成長を示すが、三〇年には五〇万円台に急上昇し、三七年 には三〇万円台に落ち込むものの、五〇万円台を維持し、三八年には六七万円 余、三九年には八四万注冷まで上昇する。四〇年代には八0∼九〇万円台を維 持し、大正二年には一〇〇万円を突破する。大正八年には六二五万円余と突出 するが、七年以降は三〇〇万円台で推移する。昭和期に入ると、昭和三年の三 四一万円余を最後に、一〇〇∼二〇〇万円台で低迷する。 また、月別売上高の動向を、第6表によって見ておこう。明治九年における 月別売上高は、最低一二月の二一〇二円余から最高九月の七四九五円余まであ るが、平均すると毎月四〇〇〇∼五〇〇〇円の売上高を上げており、月による 二七
年 代 売正味 買正味 持越 利益 円 円 円 円 明治40 922064.6250 889010.0740 93800.0000 31013.1370 41 809754.1320 734605.3140 79000.0000 14018.1640 42 800762.0400 715850.2630 61500.0000 19062.5750 43 887596.8100 826586.5100 73500.0000 21908.1310 44 927112.6650 855693.5870 72100.0000 16064.2090 大正元 984599.6400 922202.5130 80500.0000 17381.2370 2 1025848.0050 927182.8860 79400.0000 39031.9070 3 861094.2300 803669.7900 78400.0000 17928.5960 4 884187.6400 758937.4440 56000.0000 43175.6030 5 1188960.3800 1100699.4500 87500.0000 60369.5060 6 1923379.4100 1789928.3320 164000.0000 103694.7420 7 3442903.1900 3257968.3900 282500.0000 155379.8440 8 6251772.3600 5643862.2000 426500.0000 325372.2450 9 3897794.0600 3961495.1860 116000.0000 △587458.8500 10 3657401.4300 3398007.4050 194400.0000 266552.7190 11 3386264.2400 3147030.6600 204500.0000 97327.0320 12 3486425.6500 3219928.4800 196000.0000 122775.4850 13 3311099.8900 3143665.4400 210000.0000 85260.5910 14 3018831.1600 2940121.5100 212000.0000 56307.4420 昭和元 2683023.5500 2591441.0000 194000.0000 41126.9970 2 3162122.7800 3134633.6400 293000.0000 84592.6860 3 3411702.0400 3218551.0200 242000.0000 96326.0520 4 2709602.9500 2602447.2300 165500.0000 14425.0700 5 2088614.3400 1989321.3700 112000.0000 31727.4750 6 1897413.8400 1864623.0100 85000.0000 22339.5060 7 2070792.2000 2043470.9800 103000.0000 46581.6260 8 2208408.4200 2200527.4400 128000.0000 20019.8700 9 2483861.5000 2424828.4100 135000.0000 32370.7500 10 1348761.5300 1375044.0500 196000.0000 6982.7600 (註)明治8年「奥金勘定録」・明治24年「奥金勘定録」・明治36年 1月「奥金勘定録」(外村市郎兵衛家文書)より作成。 △は損失を示す。 「奥金勘定録」・大正6年 近江商人外村市郎兵衛家の経営 八
近江商人外村市郎兵衛家の経営 九 第5表外村市郎兵衛家の売買高・利益高(大阪店) 年 代 売正味 買正味 持越 利益 円 円 円 円 明治8 19595.1260 23429.9720 12179.0620 46.6065 9 50041.4152 52684.9439 18014.8000 10.8575 10 93700.8167 86752.9886 17057.1540 4386.2010 11 106158.0960 99329.6270 19463.5680 2060.7370 12 140131.5500 140272.7878 32267.0640 5837.1630 13 151546.1580 148835.4550 45398.7920 7774.4180 14 114618.8710 88449.5400 30424.5900 2134.5060 15 83102.9870 74677.5840 24515.5210 △4062.4110 16 48239.5090 33380.7710 7198.6810 △13124.5980 17 33504.3310 29185.0180 4766.6850 △1975.7430 18 29798.5660 32974.0580 7817.0080 △3215.4680 19 43760.0210 40411.3610 8838.1340 658.9590 20 72509.6880 75661.6700 17500.0000 1019.9740 21 96302.5450 85833.0940 15400.0000 2635.4950 22 106952.7150 102820.4000 20230.0000 3019.5410 23 102747.5290 91061.8100 17220.0000 2361.0170 24 118801.2960 110428.3840 19250.0000 2393.8820 25 120944.0780 107946.5750 18725.0000 4717.0820 26 164548.2390 153993.6520 21336.0000 4183.5310 27 100327.3990 183423.0190 21350.0000 6484.2200 28 259930.8260 236805.1830 23450.0000 11142.0690 29 388448.6700 162084.4500 25900.0000 18282.8630 30 501605.0850 468642.9160 35700.0000 22722.3670 31 512727.4690 473266.0060 36400.0000 20473.3710 32 530609.4770 498530.0730 51100.0000 21182.7740 33 609653.6890 569330.8520 48300.0000 1616L8700 34 505810.5020 478869.6110 53200.0000 7898.1080 35 520486.9670 482943.8270 53550.0000 11508.3760 36 482102.!890 448277.7380 56000.0000 7463.2160 37 345445.7410 318014.4770 54600.0000 5089.9240 38 671062.9790 630500.4120 86900.0000 39111.6310 39 849872.8270 791435.4120 91000.0000 28558.5260
近江商人外村市郎兵衛家の経営 第6表月別売上高(明治9年)
内訳
622疋、759反、24本 791疋、1365反、135本 500疋、739反、108本 512疋、1133反、112本 530疋、2203反、243本、4束 703疋、2832反、130本、54束 752疋、1895反、284本、30束、23具 517疋、1068反、94本、7束、14具 938疋、1615反、215本 568疋、1258反、125本、 6具 441疋、792反、38本、 4具 859疋、1100反、95本 4具 売正味 円 3773.2490 5135.4242 3517.0330 3326.8945 4313.3260 5027.6430 4364.1765 3550.6550 7495.9110 4590.5000 2844.1490 2102.4540 50041.4152 月123456789101112
計 は三五年を除いて一万円を切って低迷するが、 正三年置では一∼三万円台の利益を維持する。 万三六九円余の利益に上昇し、六年には]○万円台に乗り、 額を獲得するのである。しかし、大戦後の反動恐慌により、 ととなる。その後も大正一〇年には二六万六五五二円余の利益と回復の兆しは見られるものの、 三〇 硯 変動はさほど大きくないことが確認される。 作 ” 一方、利益額の推移により外村市郎兵衛家の経営状況を把握すると、 謝 次のようになろう。まず、明治八年には四六円余、九年には一〇円余と 敷 いうわずかな利益しか上げていないが、大阪店開設直後という事情を考 衛 陳 写すればしかたのないことであろう。一〇年には四三入六円余の利益を臨出﹂享年まで毎年二・・?七⋮円の利益を得て覧しか﹂
桝 一五年から一入年は松方デフレの通論で、四年連続して欠損を計上し、 践特に=月白は一万三三四円余の損失とな・ている﹂九年も六五入円 勘 金 余の利益であり、繊維関係事業に従事していた近江商人の経営に与えた 懊 年 松方デフレによる打撃の大きさがうかがえよう。しかし、外村市郎兵衛 齪 家はその打撃を乗り切り、その呈しだいに利益も回復し、二八年には一 明 曲万円ムロにま重し、三三年まで丁二万円ムロを維持する..﹂の時期が外 村市郎兵衛家の躍進期の一つのようである。三四年から三七年にかけて 三八年には三里九=一円余とこれまでで最大の利益を上げる。その後置 第一次大戦の好況に支えられて、四年には四万三一七五三余、五年には六 入年には三二万五三七二円余の外村市郎兵衛家の最大の利益 大正九年には五八万七四五八円余の最大の損失を計上するこ 昭和期に入っても金融恐慌の影響もあり、長期的には一〇万円以下の利益額しか上げることができず、とりわけ昭和四年以降は五万円以下の利益 しか得られず、外村市郎兵衛家においても何らかの新たな打開策を打ち出さねばならなく、その結果が昭和一〇年におけ る株式会社への移行に結びついたように思われる。 ︵1︶明治二年二月﹁奥金勘定録﹂︵外村市郎兵衛家文書︶。 ︵2︶明治二年二月﹁奥金勘定録﹂︵外村市郎兵衛家文書︶の裏表紙には﹁大外邨﹂とあるのに対し、明治凶年﹁奥金勘定録﹂︵同︶の裏表紙には﹁外村市 郎兵衛大阪店﹂、明治二四年﹁奥金勘定録﹂︵同︶には﹁外村市郎兵衛大阪店﹂とある。また、明治三六年一月﹁曲金勘定録﹂・大正六年一月﹁奥金 勘定録﹂︵同﹀には、大阪店と記載されていないが、裏表紙に﹁外村市郎兵衛大阪店﹂と明記された昭和五年一月﹁勘定帳﹂︵同︶などの売上正味の 金額と一致するので、いずれも大阪店の勘定記録であると考えた。 ︵3︶前掲明治八年﹁奥金勘定録﹂。 ︵4︶前述したように末永國紀氏は、近江系繊維商社が近代的商業資本へ転化する際の一つのハードルとして松方デフレをあげられ、松方デフレが近江系 繊維商社に与えた影響の大きさを重視される︵前掲﹃近江商人の経営遺産﹄︶。 むすび 以上、外村市郎兵衛家の創出から昭和一〇年の株式会社組織に至るまでの経営展開について述べてきたのであるが、要 約すると次のようになるであろう。 第一に、外村市郎兵衛家の創出に当たっては、初代外村市郎兵衛有常による市郎兵衛家の独立以前にすでに本家外村与 左衛門家から分家市郎兵衛家の創出が試みられていた。そこでは、近江国坂田郡長浜町の宇野五郎左衛門家の三男嘉兵衛 を天保=年︵一八三九︶に外村与左衛門家の分家である外村宇兵衛家に一旦貰い受け、外村宗兵衛の仲介で、宇兵衛家 から与左衛門家へ養子として迎え、嘉兵衛を再び宇兵衛家の子供として、九代目外村与左衛門文成の長女うのと同年六月 二三日に結婚させた。それは、外村一族の家結合のもとにおける本家与左衛門家の安泰を考えた縁組みであった。しかし、 近江商人外村市郎丘ハ衛家の経営 一二一