はじめに
大学の書店で物理学書(工学書も含めて)のセクションをのぞくと,熱力学の教科書は多い.成 熟した分野であるから良書も多いので,その中にまた1つを加える以上,それなりの意図がないと 意味がない. 本書は著者の苦い経験から生まれたものである.著者は大学教養時代(現在では共通教育などの 名称になっている)の初年度,熱力学の授業をとった.成績はまあまあであった.多少なりとも数 学に強かったので,偏微分が出てくる式の変形の問題などで点数を稼いだことが効いたのだろう. それで自分を熱力学のオーソリティと勘違いしてしまった.実際,現場に出てショックだったのは, ほとんどの現実的な問題に対して答えられなかったことだ.それは何もいきなり熱プラントの設計 という専門性の高い問題に対してではない.500 の鉄はエネルギー資源としてどれくらい活用で きるか? といった原理的なことに答えられないのである.また,この過程はどれくらい不可逆であ るか? ということが答えられない.「不可逆過程の物理」は熱力学では教わらなかったという言い訳 が通じるとしたら,現実の問題で熱力学が答えられる問題は皆無となってしまう.現場では決して この式を導けとは問われない.大学で教える熱力学がこういうことでいいのかというのが本書を著 した第1の問題意識である.教室では英語を学んだが,英語ができないというのと同じである. 大学を出て約30年を経たいま,今度は教壇に立つ身になって,状況はあまり変わっていないこと に気付いた.この間にも新たな熱力学の教科書は増えているが,上述した問題点は30年前の状況と それほど変わっていない.試験の結果などをみる限り,著者が侵した失敗をいまの学生はそのまま 再生産している.それを放置しているのは我々現場の教員のせいではなかろうか? この問題点を分析してみると,教える側である物理学者の,自分の偏狭な分野に閉じこもろうと する姿勢のように思える.著者が学んだ熱力学の教科書は,典型的な物理学者の書いたもので,抽 象的な概念の説明に終始したものだった.マックスウェルの関係式についてはページを割いても, 実際にどう使うかといった観点はまったくない.これで実際の問題に対してエントロピーなど計算 できるようになるであろうか? 現代的な統計力学の方こそ真剣に学ぶに値する学問であり,熱力学 はそこへ行くための橋渡し程度にしか考えていないのではないだろうか.工学的応用は自分の教え ることではない,とでも思っているのか見向きもしない.そのような姿勢をもっとも端的に示すも のが,当の物理学者自身の意見の不一致が放置されていることである.熱力学のいくつかの教科書 を読むと,「不可逆性」などの基本的概念においてさえ著者ごとに違った見解があるのをみつけるこ とがある.それぞれの著者は,自分の論理のなかでは首尾一貫していると主張するだろうが,それ では学生は困るのである.彼らは,実社会でいろいろな問題の解決を求められる.今日,熱力学は 物理学者の想像を超え,実に広範な領域でその基礎知識が要されているのである.そのような現代 的な課題に応えられない「熱力学」であっては,物理学は時代に取り残されてしまうだろう.状況 が変わってきているのに気付かなければならない.iv はじめに この点,洋書で評価が高いもの(工学書に多い)は,実に丁寧に書かれていて感心する.そうであ ればそれらを教科書として使えばよいということになるが,若干の問題がある.1つには,著者が 良書と感じる本はほとんどが工学書あるいは著者が工学者であるが(工学書であってちっとも悪い とは思わないが),物理学の方からこのような時代の要請にあった本が書けないというのは誠に残念 なので,そういう意地からも,物理は現実の問題に対してちゃんと答えられますよ,ということを 示したいのである.より積極的な理由は,逆に,工学向けの熱力学の問題点も補いたいということ である.今日,熱力学のカバーする領域は非常に広くなっているが,熱現象を理解しようとすると ほとんどの場合,物質の性質の問題に行きあたる.もちろん,本書は物質の性質の教科書ではない けれど,ある程度それに踏み込まない限り,なぜかという知的好奇心を満足させることはできない. そのために有用であれば,超伝導体の例など躊躇なく取り入れた.もちろん,持ち出した例は微視 的な理論は必要としないもの,たとえば,鉄の比熱を測定するのと同じレベルの問題に限っている. 化学ポテンシャルのところも統計力学を使わず,熱力学の議論の枠内で議論している.このように, 本書は,工学・物理の両方の分野へ進もうとする人に,現代的な立場からの入門書を目指している. 本書を著すのに,全体を通して意識したことは,常に具体例を挙げることである.ある概念を説明 するのに,その具体例を挙げられなければ,それは理解したことにはならないという信念からであ る.例題もあまり抽象的な式の変形などではなく,現実の問題を中心に編んだ.したがって,数値 問題を重点的に扱っている.これにより単位に関する専門家独特の感覚というものが鍛えられるこ とを期待する.とはいえ,これはリスクをともなうものである.数は雄弁であるが,同時に災いの 元ともなる.いったん数字を出すと説明が求められる.現実は限りなく複雑であるから完全にぴっ たりあうということはない.どんどん議論が深みにはまり込む怖れがあるが,それだからといって 躊躇はしなかった.また,問題によっては必ずしも答えが1つとは限らないものも含まれている. 近年の環境に対する関心から,そのような分野からの例題をできるだけ取り入れてある.それらは 同時に,オーダーに対する計算感覚を養うためにも有用と考える.環境問題は,利便性には必ず代 価が発生するという第二法則の格言を反映したものである.今日のエネルギー大量消費生活は,そ れを制御することなしに持続できると考えることは幻想にすぎない. 論理展開についても一言述べておかなければならない.物事には順序というものがあることはわ きまえているつもりである.さりとて,それが常に最優先させるべきこととも思わない.通常,物 理学を論理的に教えようとすると,Aを教えようとするときまだ教わっていないBの考えを使って はいけない.この原則を貫徹させようとすると,特に物事の最初は矛盾に突きあたる.著者の信じ るところ,熱力学は経験科学である.熱力学を学ぶには用例が不可欠で,特に最初のところでこの 禁じ手の原則に拘泥していると,まったく無味乾燥したものとなる.本書では,物事の順番に慎重 になるより,問題を解決するために手っ取り早くすむやり方を優先させた.ある場合は高校までの 物理・化学の知識を前提としたところもあるが,これはそれほど不自然な要請ではないだろう. 題材の選択においても同じことがいえる.本書ではしばしば輸送過程も例題として登場している. 通常の熱力学の教科書では,熱伝導のような輸送現象は上級コースあるいは応用分野に属するもの として扱われない.しかし,熱に関する現象としては熱伝導はむしろ最もありふれた現象である. 熱というものは境界を行き来することが本質であるから,熱伝導とは切っても切れない関係である. こういうものを扱えないというのでは熱力学を修めたとはいえないだろう.高度の非平衡熱力学を
はじめに v 学ばなければ熱伝導を理解できないとは思わないし,また,工学書にあるような高度な微分方程式 が駆使できないと歯が立たないとも思わない.熱伝導は現象論であるという批判もあたらない.熱 力学自体が現象論である.「熱力学は現実の問題を解決するために学ぶ」という本書の立場では,積 極的に取り入れている. 最後にもう1つ本書の試みを.いろんな意味でリスクはあるが,物理の最新の成果で読者の興味 を刺激したことである.もちろん,本書は大学初年度程度の学生を対象とした教科書なので,先端 科学を展開することは適切ではない.1冊の教科書のなかで欲張ってあれやこれや詰め込むことは よくないことは承知している.しかし,「古典熱力学」という名前から連想される「もうすでに陳腐 な分野」というイメージを払拭したいという気持ちには抗うことができなかった.統計力学や量子 力学だけが最先端ではない.最先端の技術は,熱力学の原理に常に新鮮な見方を提供している.本 書が研究者にも興味をもって読んでもらえるよう工夫したつもりである.もちろん,題材は極めて 任意であるし,きちんとした理解は本書のレベルを超えたものである. 本書を授業で使う場合,本書の題材が多すぎることも承知している.目次でマーク(*)のあると ころを飛ばし,なおかつ内容的に例題を省いて重要事項を中心に説明するだけで半期分の授業に相 当するだろう.そのやり方で結構である.黒板に書かれることをコピーしたものが教科書ではない. 重要なことは,授業でいくら要点だけ学んでも現実の問題と対面すると必ず困難に遭遇する.その とき問題を解決できるよう具体的な例題を与えることがどれほど重要か.それが本書の役目である. このように,本書はいわゆる「熱力学の教科書」とは随分違った,著者の独自のアプローチに貫か れている.とはいっても,著者がまったく勝手に考えついたものではない.というより,ネタ本は ちゃんとある.その証拠として.本書を著すにあたって大変参考にした教科書については,リスト して巻末にまとめてある.読者がさらなる上級教程を学ぶときの道しるべにするとともに,これら の著者たちへの感謝の意に代えたい.本書を著すうえで実にいろいろな人から熱力学の面白さ,む ずかしさを教わった.紙面の都合上,名前を挙げることはできないが,ここに感謝の気持ちを表し たい.また,本書の準備過程で,大阪大学共通教育センターの「新型授業開発プロジェクト」の支 援を戴いた. ビジネスの世界は物理とは無関係である.しかし,ともかくも本書が日の目をみるためには,ど んなに最低のスキルであろうが営業部員を務めなければならない.そこに大きな壁があった.簡潔 さを旨とする我が国の教科書業界にあって,300ページを超える本書は,形式,内容とも異例であ るのかもしれない.加えて,昨今の「若者の活字離れ」で分厚い本は売れない,という絶好の断り 文句があるので,草稿を持って出版社をあたったとき,厚みを見ただけで門前払い,あるいは「200 ページ以下に圧縮して」と条件を突きつけられることもしばしばであった.そのような状況のなか で,本書企画の「異例さ」を受け入れてくださった共立出版・取締役の信沢孝一氏には深く感謝する 次第である.また,編集にあたっては共立出版の高橋純子氏には入念な校正を戴いた.なお,それ にもかかわらず,思わぬ誤りや不備な点がないとも限らない.それについては著者の責任である. 2011年2月 白井光雲