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ノーサポート・アンド・ノーコントロール
―教育費についての一見解
友 岡 学
〔1〕
〔2〕
〔3〕
〔4〕
は じ め に 教育の政治からの独立 公私概念の混乱とその整理 国公私立区別解消論 受益者負担の教育費 む す び
は じ め に
わたしの研究室からは,学生会館のほぼ全景が傭轍できる。わたしがこの研究室の住人 になってから約一年半経ったが,この期間は,ほとんど,学生会館をめぐる学生と大学の 攻防戦で埋められた。今は食堂部分を除いて,大学によって閉鎖され,休戦状態である。
学生は,学生会館の自主管理を要求した。これは,つまるところ,サポート・バット・
ノーコントロール,平たく云えば「金出せ,口出すな」である。意地悪く云えば,これは、
虫のよい要求である。争いの過程で,種々複雑な問題が派生し,虫のよい要求もある程度 正当性をもつことになった。これには,大学当局の処置の仕方にも原因があるだろう。し かし,今そのことをここで論ずるわけにはいかない。ただ,歴史というものは,錯誤によ って大きく押し進められるものだということを指摘しておきたい。これは,教育費につい ての人々の一致した錯誤から教育・学校制度が成り立っていることにも通ずる。
学生の要求を虫のよい要求と云ったが,われわれ自身は虫のよさを免れているか?否,
決してそうでないのは,これまで,国立大学をふくめた公立諸学校は,今では私立大学で さえ,口を揃えて,政府に対して「金出せ,口出すな」と要求してきたし,要求している ことに示されている。
南北問題において対外援助の実効性が疑われ,一般に評判がよくないのは,それが,ぴ もつきであるからだ。ひも一売春婦と暴力団のチンピラを結ぶものを思い出す一つきは何 でもよろしくない。本来経済原則にのっとっているはずの融資ですら,時としてひもがっ くのだから,返済不要の金が流れて,全くひもがっかないと思うのは甘過ぎはしないか?
だからこそ,民族独立には経済的自立が先決であると云われるのである。タダより高くつ くものはない。民族の独立,個人人格の独立,大学の自治,教育の政治からの独立,これ からはみんな同じ系列に属する事柄である。
これまでの大学自治論教育権確立論には,国家への財政的依存と国家による統制から
の独立の要求がもつ二律背反性についての自覚がほとんど欠けていたように思われる。国 家を階級的機関であると一方で定義しながら国家を排斥し,他方で国家の公共性を暗黙の
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第17号
うちに認めて国家に依存しようとする革新派の自己矛盾的態度も見逃すことができない。
保守派には勿論のこと,革新派にも,国家主義あるいは国民主義が骨の髄までしみこんで いる。ラジカルをもって鳴る学生諸君においても,それをどれ程克服しているだろうか?
夏休の間,わたしは暑さに閉口しながら,久しぶりの静けさの中の研究室であれこれ想 を馳せるうちに,問題の中心は教育費の理解如何にあるということに気付いた。これまで の錯誤から抜け出し,教育の政治からの独立と機会均等の理念を傷つけることのない教育 費論を,われわれはもつことができるだろうか?わたしはもつことができると思う。この
小論は,いささか常識的見解に挑戦しながら,そのための論点を明らかにすることに向け
られる。
わたしは,教育学に関してはアマチュアだが,農業経済学や工業経済学と同様に,教育 経済学が成り立つとすれば,専門の経済学を役立てる資格はあるだろう。教育学と経済学 の接点がほかならぬ教育費論である。わたしが,今,教育学部にいることによってうける 便宜を利用しな:い手もないであろう。
〔1〕 教育の政治からの独立
大学改革案花盛りのなかで,永井道雄氏の大学公社案(「中央公論」1969.6「実験r大学公 社』案一21世紀への道一」)はひときわユニークである。大学公社案は,氏によって,すでに
7年前「世界」誌上に発表されたそうである。 「現行の文部省,国立大学の制度よりも,
大学公社の方がよさそうだ,という考えは変りません」が,実験と銘うっているのが変っ た所である。 r前の大学公社案は,現行の制度を根こそぎ改造し,文部省その他,大学所 管の官庁事務,国立大学一将来は私立の一部一を大学公社に移管し,そこでまったく新し い計画,運営を行なおうというものでした。」ところが,いまの考えの特色は,従来の制 度には手を加えずに,まったくそれとは別個に,大学公社をつくってみる,という点であ る。氏みずからのひゆを借りると,プロ野球のセ・リーグに対するパ・リーグ,国鉄にお
・ける在来路線に対する新幹線という方式である。(1)
(1)このひゆは妥当でない。その理由を説明するのに紙数を費やすこともあるまい。
公社案提起の第1の理由として,永井氏は,学問と教育ができるだけ政治から独立であ るべき点を指摘している。「教育の政治からの独立」を「学校の政府からの独立」と読み 替えることができるか否かが重大なポイントである。ともすれば, 「教育の政治からの独 立」は「教育の政治的中立性」と読み替えられ,教員の政治活動禁止,政治教育の排除,
という方向にまで歪曲されて来た。(2)それこそが,実は教育の政治への従属にほかなら ないのである。教育の政治からの独立の真意は,特定のイデ=オロギーを具備する政治権 力,その機関としての政府によって教育の諸条件及びその内容の一切が干渉され統制され ない,ということである。個々の学校,個々の教員が,政治活動をし,あるいは政治教育 を行なうことは,教育の政治からの独立に抵触することではなく,むしろ,それを保障す るものである。「政治からの独立」は, 「政治における自由」のことにほかならぬ。何よ
りも,時の政府によって,ある行動が政治活動・政治教育であるか否かが判断されること 珀休が,「政治における自由」と抵触する。その判断は市民によってなされねばならない。
ノーサポート・アンド・ノーコントロールー教育費についての一見解(友岡) 53
く2)このことは,教育と宗教の関係についても妥当する。なお,「政治からの独立」が歪曲され る原困は,ひとえに,教育費が税金で賄なわれているという所にある。これは,「私立」学校 が政治及び宗教においていかに自由であるかということに示されている。
永井氏の公社案は,鉄道,電信電話等における公社の存在に目をとめた所からの発想で
,あろうが,それを過渡的なものとさえ考えることなく,終局的なものと考えていることか らすれば,大学の政府との関係の切断には程遠いと云わざるを得ない。だからこそ,それ
..から独立すべきはずの政府が,永井案に乗気を示すのであるQ(3)永井氏は果して困惑し ているであろうか?
(3)佐藤首相は早速噺幹線大学」を拾い上げた。その後,自民党と政府によって,モデノレ大学
構想がねられている。8月6日,自民党の新構想大学懇談会は座長橋本登美三郎氏の私案を了凝して発表した。「朝日新聞」 (69.8.8)は,それに解説を付しているが,いみじ,くも「大学 自治は無視」されていると指摘している。
公社案は,永井氏の意図とは別に,「国と大学の関係は夫婦のようなもの」(小塚池州郎 東京芸術大学学長の発言,「朝日新聞」1969.6.9)という幻想の温床の役割を果す。夫婦の関係 と云って,さすが親子の関係と云わなかったのに若干の慰めを感ずるが,国と大学が寝物 語りを交わせる程仲むつまじくあって欲しいというロマンティシズムに,わたしは正直の
ところ寒気を覚える。むつみ合う夫婦もあれば,いがみ合う夫婦もある。夫婦の関係は,
たえず切断の可能性のある綱の上の,一時的なバランスでしかないのだ。何も,A男とB 女が夫婦でなければならぬ必然性は一「世界は二人のためにある」と心底から信じている 人には気の毒だが一何もない。小塚氏は,教育勅語の「夫婦相和し」を現在進行形と読み 違えているのだろうが,もしそうなら,夫婦の関係が家父長的な家族制度のもとで親子の,
はては君臣の関係に擬制されたことを思い合わせると,国述夫であり大学は妻であり,大 学の処女性は全く国の手中にあって,大学は国にのみ貞操を奉げるということにならざる を得ないだろう。
政治からの独立一これはひとり大学ばかりでなく,教育機関としてのすべての学校にと っての理念的前提であると同時に,到達しなければならない目標である。独立するには金 しばりと人しばりの両方から,おのれを解き放さなければならない。(4)政治からの独立
の故に公社案を考えながら,永井氏は金と人の両面で,なお政府へつながるひもを断念で きない。氏もまた今日の教育学,経済学の通念に従っているからである。
(4)既成大学自治論は金しばりの面を故意か偶然か看過しているが,少なくとも心しばりの面で
は解放されていると信じこんでいる。すなわち,大学人事権の独立のゆえに大学自治は保障さ
れている,とする通念である。この場合,教員入事権だけが取り上げられる。事務職員入事権
は,不思議に,盲点のなかにおかれる。事務職員入事が政府に掌握されている限り,大学にお
ける事務職員の機能の重要性を思えば,大学の自治は一金しばりの面は別として一穴のあいた
自治,従属国に許可された自治,総督(事務局長)に監視された自治であると云って過言でな
い。その面に関する限り,それぞれの大学は,文部省を本店とする支店に過ぎない。
54 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第17号
公社は,別名公共企業体,あるいは公企業である。永井氏は現行公社の「現業」的なも のとは違った,すなわち現業部門をもたない大学公社を構想している。永井氏は,果して 公社のいずれも全額政府出資であり,長(総裁)が政府に任命され,そして,役員の多く がいわゆる「天下り」であるという事実に気付いているのであろうか? さしずめ,大学 公社では,費用全額政府もちで,学長(社長?)は政府から出向し,評議員(?)も文部 省を中心として各省庁から天下ることになる。
わたしが特に強調したいのは,現業的である公社でさえ,政府の一部局的地位から離脱 できないのだから,永井氏自身気づいているように「業績の成否を判定することが困難」
な非現業的大学公社においおや,ということである。永井氏は,大学を公社に擬すことが できる程に柔軟であるが,大学を非現業だと信じこんで動かない程なお硬直的である。現 業的な公社でさえ,その経営の実権は,市場に(すなわち市民に)開放されずに,事実上政 府与党によって閉鎖されている。ましてや,非現業的公社なるものは,経営の実権が市場 に開放される可能性すらもたないので, 「タックス・ペイヤーである国民に申訳がたたな い」(社会党党首との会談の際の佐藤首相の言,虚日新聞」69.5.10)という大義名分に抗すべ き理由を何ひとつもたないのである。国民の付託に応えることが政府与党の責任であると 居直られたら,国家財政に依存する者は,立ちすくんでしまわざるを得ない。
戦後の一時期,教育は政治から独立したかの如く人々は錯覚した。それが錯覚であり幻 想に過ぎなかったことは,その後の過程が証明している。(5)政府与党が教育を政治に従 属させるためにいかに努めたかは今更論ずるまでもないが,教育者自身,主観的意図とは 逆に,車の後押しをすることはなかったかどうか,疑いなきを得ない。教育費の国庫負担 要求,文教予算の増額要求が果した客観的役割を,静かに反省しなければならない時期が 来ている。公式的には,教育は為政者による恩恵ではない,それが近代教育の絶対主義教.
育と異なる点であると云いながら,政府の懐深くはいり込んで行きはしなかったか?わた しは,対外援助にすがる従属国の支配者たちが,独立のためだという口実によって(ある いはそれを信じこんで)いっそうの援助を要求しながら,援助国の戦略体系の網の中に自 国を投げこんで行く構図を思い出すのである。(6)
㈲ 中内敏夫,為本六花治両氏は,いみじくも「旧教育価値体系の崩壊ではなく亡命であった」
(「日本の教育思想」『教育学全集』第2巻,小学館,1966,2geペー・ジ )と云う。
(6)イギリスにおける教育への国家統制のますます強まる傾向にふれて,伊藤和衛氏は「このよ
うな傾向は,教育における生存的自由を経済発展の高度化に対応せしめて国家が保障しようとする意図のあらわれだと善意に理解しても,それほど危険ではない。何となれば,国家教育 施策の執行者たちは,市民的ヒューマニズムを身につけた人たちであるだろう……」から,と 云う。(r教育の機会均等』世界書院,1965,721ページ 。力点は友岡。)何たる幻想〃これが 教育に国籍が必要であるとする見解から出ることはたやすく理解できよう。
〔2〕 公私概念の混乱とその整理
大学を公社にすれば,大学の自治が確立されるかの如き幻想は, 「公」についての誤ま った通念と無縁ではない。 「公社」であれば,あたかも「公園」がそうであるように,誰 もがお見通しの,開放的雰囲気がかもし出される。そして,それが果して「公」のものな
ノーナポート。アyド●ノ陶コyトロールー教育費についての一見解(友岡) 55
のかという肝心の点は,その雰囲気のなかで霧散する。
教育学は,教育は私教育から公教育へ移って来たという歴史観で統一されている。経済 学にも,同様のパターンが見られる。企業は,歴史的に個人企業から会社企業へ,あるい は私企業から公企業へ,移って来たし,また移るという考え方である。経済学の場合,困 ったことに,個人企業,私企業,民間企業,会社,公企業,公共企業体,公社,等々,実 に不揃いの用語が未整理のまま使用されている。公社と云えば私社があってよいのにそれ はないし, 「体」がっく場合には公共企業体と云われて公企業体と云われない。何ともお 粗末である。この現象は,きっと,公私についての誤まった通念に関連している。
り
公社または公企業という言葉が意味をもつのは,それが国家の会社または企業だと歪曲 される場合だけである。なぜなら,そのように歪曲されるとき,公社,公企業の他方に,
私社・私企業が対置され,私社・私企業に存在理由が与えられるからである。これは全く
同様に,教育の場合にも妥当する。公教育が国家・国民教育だと歪曲されることによっ て,私教育がその他方に対置され,教育のなかに保障された場所を見出すのである。(7)
そこで,ふたつのことが隠蔽される。第1は,会社・企業それ自体,教育(さらに学校)
コ
それ自体がすでに公的であるということである。この点から,公社・公企業・公教育・公 立学校というのが,全く同i義反復的表現であり,私社・私企業,私教育・私立学校という のが,全く自己矛盾的表現であることが明らかになる。(8)第2は,会社・企業,教育・学、
校が,本来国家・政府(通産省,文部省)とは異質であるということである。この点から 産業の公有はあっても,産業の国有が非合理であることが明らかになる。すなわち,公有
と国有,公立と国立とは両立できないのである。
(7)公教育=国家・国民(による)教育という通念に教育学はとりつかれている。堀尾輝久氏は 「公教育の思想」(r現代教育学』第4巻,岩波,1961,247ページ )で,公教育という用語が もつ意味の混乱を指摘し,「公費教育」(公費=租税)と云いかえればよいと云う。周家教育を 国家財政教育と云いかえるだけで公教育=国家教育論が乗り越えられると素朴に信じているの である。依然として,公=国家論である。なお,氏によると,イギリスのゴドウインWilliam Godwinは公教育否定論者であった。(236ページ )ゴドウィソは,公教育が国家教育である からこそ,それを否定したのである。要するに,一方は,国家教育が公教育であるという理由 でそれを肯定するのに対して,他方は,公教育が国家教育であるという理由でそれを否定する ということだろう。
(8)公立公園は同義反復的であり,私立公園は自己矛盾的である。教育基本法第6条に「法律に 定める学校は,公の性質をもつものであって,国又は地方公共団体の外,法律に定める法入の
みが,これを設置することができる」とある。学校教育法第2条に「学校は,国,地方公共団体及び私立学校法第3条に規定する学校法入のみがこれを設置できる」とある。こうして,
「公の性質をもつ私立学校」が生れる。私立学校は,・gardenに対応するのか, parkに対応す
るのか?!私教育・私立学校,私社・私企業というのは,本来公的であるべき教育・学校,会社・企業
が,私的装いをつけたものにほかならぬ。それは,それ自体が公的である park (public
gardenではない)が, Priva七e parkと称されるようなものである。なおイギリスで,日本
流の私立学校をpublic schoolと云うことを指摘しておきたい。永井道雄「現代イギリスの
教育」r現代教育学』第1巻,1960,259ページ参照。
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さて,それでは,何をさして公と云い,あるいは私と云えばよいのか?「公」について は,「公開」 「公然」 「公認」 「公式」等の言葉を,「私」については「私事」 「私見」
の
「私(我)流」「私宅」 「私道」等の言葉を,それぞれ思い出すがよい。誰にとっても,
あるもの(の利用)への参加の機会が,差別的条件なしに,開放されている場合,そのあ るものは「公」のものである。当然,あるもの(の利用)への参加の機会が特定の人(々)
にのみ差別的条件で閉鎖されている場合,そのあるものは「私」のものである。この命題 からすれば,国家は,言葉の意味通りの自治体でないという意味で,公的であるとは云い 難い。その根本の理由は,国民が国境のなかに,非選択的に閉じこめられているからであ・
る。公教育=国家・国民教育論は,国家・国民の閉鎖性について盲目である。 「誰にとっ ても」とは,国籍の如何を問わずのことである。(g)勿論,人種,性別,思想,信条,門 地,等の如何を問わず,ということは当然のことである。
(9)すでに触れたが,伊藤和衛氏にとって,教育は国籍をもたねばならない。前掲「教育の機会 均等』62ページを参照。 3
「国籍の如何を間わず」は,国籍取得・離脱の自由が一般化すれば,おのずから必要な条件で なくなる。日本国憲法第22条②には,国籍離脱の自由が規定されている。他国民の日本国籍取 得と,日本国民の他国籍取得の自由は保障されていない。だから,日本国民は無国籍者になる のを覚悟しなければ,国籍離脱はできないのだ。ともあれ,第9条の戦力放棄とともに,日本 国憲法の革命性を支えることは間違いない。
なお,国家と自治体の根本的相異点は,国家には人々の出入の自由がない(閉鎖的である)
のに,自治体にはそれがある(開放的である)ことである。この点は,教育における学区制を 論ずる場合に,考慮されねばならぬ。
公・私概念を明らかにすれば,公に,教育,生産,学校,会社,企業が,私に,消費,
家計が対応することも明白になる。要するに,一般的に云えば,機能において,生産と消 費の区別が明示的になるのは,機関として,企業と家計が,選択的な関係でバランスする ことができるように,分離することによってである。すでに指摘したように,本来公的で あるべき機能・機関としての生産・企業が,私的生産・私企業としての装いで存在するの は,その分離が完全でなく,したがって非選択的に家計と企業が結びついているからであ る。したがって私的生産とは,消費的生産のことであり,私企業とは,家計企業のことで ある。このことが,公企業・会社と私企業・会社という言葉に隠蔽されている第1の点で
ある。
ところで,政府と企業は本来その性格を異にする。政府は政治(行政)の機関であり,
企業は経済(生産)の機関である。政治機関としての政府は,民主化された極限において さえ,1人1票の投票による政治的評価をうけることは譲れない。これは,経済機関とし ての企業が,貨幣による市場的評価をうけることと根本的に異なる点である。現業的な公 社でさえ,資本調達,.人事,賃金,雇用,仕入,販売,価格,等々の面で,政治的介入は 不可避である。政府と企業の原理的な異質性の故に,歴史的には,政府企業なる木に竹を つないだ存在は,木と竹のそれぞれに,すなわち,政府と企業へ分解して行くのである。
これが隠蔽されていた第2の点である。(10)
ノーサポート・アン ド・ノーコントローールー教育費についての一見解(友岡) 5τ
⑳ 社会主義が誤って採った国有化によって成立した政府企業が,長い間の試行錯誤の後に,問 い直されようとしているのはこのためである。
そこで,次に提起される問題はこうである。教育は生産と行政のいずれに属するか?学 校は企業と政府のいずれに属するのか?これについては,教育学は右往左往して定見をも たない。教育学と経済学の接触領域の研究者伊藤和衛氏は,一方では, 「義務教育の経済 的生産性」 (r生産的教育費論』明治図書,12ページ)という言葉に示されているように,教.
育=生産,学校=企業説に傾きながら,他方では,「教育そのものはState Function」
(r教育の機会均等』721ページ)という言葉に示されているように,教育=行政,学校=政 府説にも膨むいている。中内・為本両氏は,一方で,教育を法の論理で律する傾向を批判 しながら(前掲書,291ページ),他方で,「教育産業」に対しても敵意を示している(同,
307ページ)。教育の行政権との関連におけるExterna, Interna分離論は,苦肉の策以外 のものではない。つまり,Externaには教育行政・学校政府説を, In七ernaには教育生産
・学校企業説を当てるというわけである。ここから,金は貰いたし,口出しはして貰いた くない,という虫のよい要求が出て来る。わたしが知る限り,先に紹介したゴドウインは 別として,国民教育の矛盾・歪曲を指摘しでいるのは五十盤面氏のみである。しかし,そ れでも,理論の深化を断念し「民主教育を要求する国民運動」論に傾斜している。 (北大
教育経済学研究会編『経済と教育』東洋館,1964,218〜219ページ)
問題を触く鍵が教育i費にあることは明らかである。教育費は国家財政(税金)で賄う以.
外にないという先入観が,公教育を国家教育に,自由な市民を不自由な国民に短絡させる
のである。(11)
ω 公教育を語る人は,例外なくコンドルセに触れる。伊藤氏によると,コ:ソドルセは教育財政 面におけるSupPor七withou七Contro1の原則を開いた。 (前掲「教育の機会均等』142ペー ジ)そのコンドルセ案(1792)は「およそ人類に属するものは何人といえども」という言葉で はじまり,市民の平等が語られているが,それが,いつの間にかストレートに国民教育に短絡 して行く。勿論,彼の時代性を無視できないが,そうであれば,なおのこと,わたしは現在の 時代性を考慮せずばなるまい。論理性の面では,さらに昔のコメニウス(1611〜1670)の「普 遍的な思想を普遍的な言語(国際語)により,普遍的な教育を通じて全民衆に教える教育」と いう考えの方が,はるかに新鮮である。コメニウスは,当時のヨ篇ロツパ世界の一人残らずの 子どもたちを頭に入れていた。(海後勝雄「教育ナショナリズムとインターナショナリズム」
r現代教育』第4巻,278ページ)
〔3〕 国公私立区別解消論
中教審が国公私立区別の検討を提起して以来,にわかに,この問題が表面に出てきた。
「日本経済新聞」 (69.7.14)によると,経済同友会はすでに昨68年11月「国公立大と私立一 大の父兄負担の格差是正などの問題」を如意している。また,民主教育協会の大学問題会 議(代表者高坂正顕氏,吉田富三氏)は,今年2月に「大学教育改革のための提案20条」のな かで,やはり,国民の教育費負担のいちじるしい格差に注目し, 「国公私立大学の区別を 廃止するか,またはこれをできるだけ少くする」(第2条)ことを要請している。中教審 の区別再検討論も,やはり,教育費の負担上の差に基づいている。教育の機会均等が,こ
ろ8
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第17号
れらに共通しているテーマである。
まず,使われている言葉を取り上げよう。国・公・私立という用語の非論理性を最初に 摘発せずばなるまい。「公立」は,公教育=国家教育論,公社・公企業=国家会社・企業 論の立場からすれば,当然「国立」と同じものでなくてはならないのに,ここでは「国立」
と区別されて,地方公共団体が立てたものである。中央公共団体が立てたものが「公立」
と呼ばれないのも奇妙である。皮肉なことに,「国立」と「公立」の区別は,国家の非公 一共性を示唆している。さらに,地方公共団体と云っても,空間的に,市町村は県にふくま
れるのに,県立も市(町村)立も公立としていっしょくたにされる。それが正しいなら,
県は,空間的に,国にふくまれるのだから,国立も県立も,全く同様に,公立としていっ しょくたにされてこそ理に適うというものである。先程,「国立」と「公立」の区別は国
家の非公共性を表現すると云ったが,ここでは,むしろ,各種段階の地方公共団体をいっ しょくたにして非個性的に取り扱うのは,逆に,地方公共団体を非自治体として,すなわ
ち,国家の地方機関として見ることを意味している。別言すれば,県立や市(町・村)立 が公立としてひとつにまとめられるなら,当然,国立も公立と云われるべきであり,国立 が,県立や市(町・村)立と区別されるなら,当然,公立という言葉を捨てて,県立,市 (町・村)立が生かされるべきである。「私立」については,その自己矛盾性がすでに説
朔されているので,ここであらためてふれるまでもない。念のために一言すれば,本来公
、的であるべき学校が,「私立」と呼ばれるのは,その私的横領に合法的基礎を与えること になる。日本大学における公金横領事件は,氷山の一角に過ぎない。
全く非学問的用語であるが,しかし,特に公立と国立の区別には, 「公」の意味が示唆 されているのを指摘しておきたい。「公立」の場合,その大学の教員,事務職員及び学生 は,原則として当該自治体の史籍者に限られていない。(12)ところが,国立の場合,その 大学の教員,事務職員及び学生は,原則として当該国の有籍者に限られる。この両者の根 本的な相違点は,いわゆる地方公務員と国家公務員の資格についてもあてはまる。
⑬ もっとも,高校以下の学校では,学区制によって,生徒・児童は当該自治体の有罪者に限ら れる。それだけ,「公立」の公的性質は制限される。
いまひとつ大事な点は,「公立」の開放性といえども,国家の範囲内に,すなわち国籍を有 する者にのみ適用されることである。
ところで,開放的であるべき「公立」を,「国立」なみに閉鎖しようとする試みがなさ
.丸たことがある。周知の高崎経済大学事件である。大学経費が市財政を圧迫するにつれ て,高崎市民以外の者の入学がチエツクされるべきであるという意見が台頭した。その云 7い分にも理がある。市財政は,当該市民によって負担されるのだから,当該市外の人に対
してサービスが提供されるのは,受益者負担の原則に反する。だから,市立を国立や私立
・に移すか,市立のままとどめるとすれば,市町をもって入学者を差別するか,いずれかの 方法が考え出される。注意すべきは,教育費が税金で賄なわれていることが,こうした圧 力を生み出すということである。市当局の考え方に反対する側の云い分にも理がある。私
.立化すれば,経費負担が入学者(の家計)に過重になって,経済的に教育の機会均等が後 退するし,市営で差別するのは,やはり政治的に教育の機会均等を妨げる。われわれは,
ここに,教育の機会均等を考える際に考慮しなければならない種々の問題を見出す。
ノーナポート・アンド・ノーコントロールー教育費についての一見解(友岡)
59中教審答申に立ちかえろう。国公私立制度再検討は,その後どんな方向に動いている か?発想が教育費の父兄負担上の格差是正から来ていることを先に見たが,そこから予想 される如く,私立大学に対する財政援助が日程にのぼってきた。この点に関しては,珍ら しく,挙国一致体制ができ上った。文部省は早速,来年度予算にまず約100億円要求し,最.
終的には私大全体の人件費の半分を援助する方針を立てた。(「朝日新聞」69.8,13)「私立の 国立化」と云うべきだろう。これが「私企業の国有化」と同一のパターンであることに注
意する必要がある。(13)
⑱ だから,社会党がそれを要求するのは,理論的には問題があるとしても,社会党のタテマエ から筋に合うが,政府及び自民党,私立大学自身がそれを要求するのは,タテマエから全く筋 違いであると云わねばならぬ。なぜ教育においては私企業の国有化が許されて,産業において それが許されな:いのか?1ここに幾重へもの誤謬があるが,それを説明するには紙数が足りな
さ過ぎる。わたしには,義務教育費の国庫負担要求が陥ったワナが目に浮んでくる。中教審答申は 云う。 「国立,公立および私立の大学という制度上の区別の意義を再検討し,公費負担に
よる教育費の拡充と高等教育機関の計画的整備に関する公的な調整機能の充実とにより,
高等教育全体の質的水準の向上をはかるとともに,その全体的規模,専門分野別の割合,
地域的配置などの適正化をはかること。」そこで2度使われている「公」の文字は「国家」
で置き換えたがよい。すなわち「公費負担」は国費負担であり, 「公的な調整機能」は国:
家的な調整機能である。そこで語られている内容を醗訳すれば,大学は師団であり,国家 的見地から,あちこちに配置され,その装備,兵種,規模,火力等が決定される。 「朝日 新聞」は正当にも,「国の大学へのコントロールを強める可能性」(69.7.13)を指摘した。
そのコントロールの下に敢て身を奉げようとする私立大学当事者の精神は,もはや,私立 大学創立者の心意気から決定的に遠ざかっていると云わねばならない。
国公私立の区別解消を支える大義名分は,経済的面における教育の機会均等である。こ れが教育に対する国家統制を代償としていることは目に見えている。それが自覚されたわ けでもないだろうが,それで気が晴れるわけでもないので,「私立の国立化」とは別に,
あるいはそれをやや緩和するものとして,学校(特殊)法人論が生じたのであろう。その 家元がどこかは,わたしには分っていない。また,内容も審かでない。r未来大学を考え る」というテーマで永井氏をふくむ5氏の座談会の要約記事(「朝日新聞」69.5.30)には,
次の言葉がある。「強力なスタッフと事務機構を持つ特殊法人 」, 「予算などは委員 会が大蔵省と折衝し,学長会議で配分を決める。」新幹線大学がひとつではなく複数であ る点がはっきりしただけで,公社案と異なるところはなさそうである。 「特殊」を抜かし た「法人」論はいくつかある。経済同友会幹事会がまとめた「高次福祉社会のための高等 教育制度」は「大学をすべて法人とし,理事会制度を導入して,責任体制を確立する」
(「朝日新聞」69.7.20)と云う。『新しい大学像をもとめて』で,その第2章研究を担当し た衛藤藩吉,長尾竜一両氏は,「もはや国・公・私立の差を廃止し,すべて大学は学校法 人たるべき」(87ページ)だと主張している。日本私立大学連盟会長で早稲田大学総長の時 子山常三郎氏は,法人化の構想を語りながら,同時に「少なくとも国立大学の半額分の助 成金が欲しい」(「朝日新聞」69.6.22)とも云う。現行の私立学校がすでに法人であること
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第17告
をよもや忘れているわけ ではないだろう。みんな揃いも揃って,学校法人化と国家財政依 存の矛盾に気づいていないのはどうしてか?
毛色の変ったのが,創価学会長池田大作氏の四二分立制度の提唱(「朝日新聞」69.5.30)
である。三権分立からの発想であろう。教育権が行政権から独立するのは結構だが,第四 権として他の三権とともに国権を構成し,属権の分肢に過ぎないことは旧来と変らない。
行政権が,事実上他の二権を押さている現状のもとでは,国権のなかの一分肢に過ぎない 教育権が行政権から果して独立できるかどうか,はなはだ心もとない。池田氏が,国権の
外に立つ教育権を構想できないのは,国立戒壇の設立を目標とする創価学会の立場から当 然であろう。教育権の次には,宗教権が第五の国権iとして提唱されるかも知れない。
「日本経済新聞」 (69.7.14)は,編集委員黒羽亮一の名で,国公私立問題に焦点をあ て,区別解消には厚い壁があり,「教育費観の確立が先決」だと,問題のキイ・ポイントを 指摘している。紙面の都合からか,「教育費観」の立ちいった説明は,残念ながら,行な
り
われなかった。ただ,「公・私教育費観」という言葉,「国公立を私立に近づけるととも に,私立を国・公立に近づけ,両者を合わせて高等教育政策,つまり公費負担と,受益者 負担の割合を考える」(力点は友岡)という結論から,及その見当はつく。いずれにしても 教育費がキイ・ポイントであり,受益者負担が考慮され,私立の国立化というとうとうた
る流れとは逆の「国立の私立化」が「法人」化と結びつけて考えられる必要がある。
〔4〕 受益者負担の教育費
「教育費の受益者負担」と云うと,人々はぎょっとして,そんな馬鹿なことがあってた まるか一と口を揃えてののしるであろう。人々は,受益者負担を,授業料の値上げによる いっそうの親負担だと,信じ込んでいるからである。だが,果して,子どもの教育で親は 受益するのか?わたしに云わせれば,受益するのは親ではなく,他の何ものかである。だ
から,受益者負担は,親負担のことではなく,他の何ものかの負担のことである。先程左 様に,教育費,受益者負担の概念は錯誤されている。「教育費観の確立」にとっての蹟き の石がそれである。
マックス・ウエーバーは,1904年にアメリカを訪れた折,ヨーロッパの伝統的風景とは 異質の社会にふれ,ひとつの象徴的な出来事として,通念的教育費観を端的に示す例を
『職業としての学問』 (1919,尾高邦雄訳,岩波文庫,1986,58ページ)の中であげている。
「彼等(アメリカの大学生)は彼らの教師をこう考えている。この男は俺に彼の知識や
.方法を,俺の父親の金と交換で売っているのだ。……もちろん,このような形では,我々 はんこな考え方に賛成するわけには行かない。然しこのようにわざと極端に表現した考え
:方の中にも,なお一片の真理が含まれていないかどうか,一考の余地があろうと思う。」
、ウエーバーは驚いたわけだが一それに驚くとすれば,ウエーバーはどんな教育費観をも つていたのだろう?一商業観念が強いはずのアメリカの学生ですら,商業法則に無知であ ることが示されている。いわんや, 「教師が学生に知識を切り売りする」としか云えない 日本の一部学生の観念においておや。教師が知識を学生に(彼の父親の金と引きかえに)
売るという理解は,今ではありふれている。そうだから,それを誰も疑わない。 「知識産 業としての大学」 (前掲r新しい大学像をもとめて』)という発想も,例外ではない。知識の
ノーナポート・アンド・ノーコントロールー教育費についての一見解(友岡)
61生産・販売は,大学の副次的な一機能に過ぎない。その機能の面では,たとえ単なる知識 ではなく「科学的知識」 (同書,39ページ)であるとしても,それは大学の自慢になるもの ではない。第1に,新聞,放送,出版,等のいわゆる情報産業は,通俗的知識ばかりでは なく,科学的知識をも生産・販売している。「科学的知識」は大学の専売であるわけでは
の む
ないし,何よりも何をもって科学的知識と云うかのけじめが必ずしも明確でない以上,大 学は結構通俗的知識を生産・販売することができる。第2に,これが大事な点だが,情報 産業では,情報の受け取り手が,まさしくその代価を支払うのである。すなわち受益者負
担である。
どこが間違っているのか?これこそ通俗的な知識のひとつであるとわたしには思われる 知識販売費に従えば,教師が,代金を支払う当の本人である親にではなく,学生に売る(?)
のだが,明らかにこれは受益者負担ではない。受益者負担とは,読んで字の如く,益を受
ける当の本人がその費用を負担することであって,これは経済の常道である。だから,学
生が受益者であるなら,学生が代価を払わねばならないし,親が代価を負担するなら,親 が受益者だということになる。しかし,恐らく,どちらも正しくはあるまい。と云うの は,ちょっと注意すれば分ることだが,教師が個々的に企業主であるわけではないからで ある。明らかに,教師は学校に属し,教師の労働は,学校の教育の一環に過ぎない。だか らこそ,代金を,直接的に学生からであろうと,間接的に親からであろうと,教師がその まま収入とすることはないのである。もし教師が直接ポケットに納めるなら,学校は一種 の貸店舗ということになる。(14)
⑳ 現実的には,そういう面がないではない。勿論経済原則に反する。いわゆる産学協同の闘題
点がそこにある。その実際は,「長1埼新聞」に連載された「現代大学像」(69.5,9,11,12,13)にくわしく示されている。なお,5月16日の参院決算委員会で,国庫を通さないヤミ研究費が 問題にされた際,石川会計検査院第2局長は「委託研究費を国庫に納入しないのは財政法の趣 旨にそわない」という見解を示した。誰も,恐らく会社員が会社の生産財を使って,勝手に何 かを生産販売して,その代金を会社の会計を通さずにボケツトに入れたら,これをとがめるだ
ろう。どうして,こんな錯誤的観念が生れるのだろうか?教育を神聖視する風潮と無関係では ないと,わたしには思われる。教師を聖職者とみなす根強い観念がある。聖職なるものが この世にあると,中世の人たちは思ったものだ。そういう思潮のもとでは,教育は実は人 的能力,すなわち人材(わたしは,むしろ,界層と云ったがよいと思う)の生産であり,
学校はその産業の企業である,という考え方など,とうてい受け容れられないだろう。し かし,経済学的には,そう考える以外に,教育費を,機会均等と政治からの独立の両要求 を同時に満足させて理論づける方法はない。
聖職観の上に,さらに悪いことには,骨にまでしみ込んだ家族制度の伝統と,国家制度 に対する盲目的な信仰が加わる。人々は,まだ,いわゆる核家族に適つた生活様式を確立 しているとはいえないし,国家の枠からはみ出たインターパーソナルinterpersona1な関 係についての観念を広く共有するまでにいたっていない。家族制度の伝統から,子どもの 教育費は(直接の)親が払うのが当然という観念が発生する。国家制度の伝統から,(直 接の)親が払えなければ,親の親,すなわち間接的な親としての国家が払うのが当然とい
62 長崎大学教育学部教育科究学研報告 第17号
う観念が発生する。子は家の宝であるとともに,国の宝である?!(家と国で国家。)そのど ちらに重心がおかれるにせよ,親負担と国家負担の組み合わせについては,これまで格別 の異論もない。仕末におえないのは,親負担を私費教育と読みかえて,受益者負担をあて はめ,国家負担を公費教育と読みかえて機会均等をあてはめることである。非合理な内容 が合理的な用語によってカモフラージェされる。
一体,なぜ,親が子の教育費を負担せねばならぬのか?それは,子が教育されることに
む り
よって親が受益するからである。なぜ親が受益するのか?子が,開発された能力を親が営 む企業で生かすからである。なぜ親が営む企業で働かねばならぬのか?家族制度のなか に,子は閉じこめられているからである。当然に,親が子の教育費を負担するというパタ ーンにおいては,子は,職業選択及び移動の自由を制限される。その自由が形式的に与え られたとしても,子は少なくとも親が払った教育費分だけの「恩」を感じ, 「孝行」によ
って返さねばならない。そこに親の立場からの教育投資観が成り立つ。
一体,なぜ国家が教育費を負担せねばならないのか?それは小国民(国民学校とともに なつかしい言葉である)または次代の国民が教育されることによって,国家が受益するか
らである。なぜ国家が受益するのか?開発された能力が国家の役に立つからである。なぜ 国家の役に立つのか?小国民は生れながらに国家のなかに閉じこめられているからであ る。当然,国家が教育費を負担するというパターンにおいては,(小)国民は,国家(目的)
の外にある職業選択と居住地選択の自由を奪われる。たとえ,それが形式的に与えられた としても,人は,少なくとも国家が支払った教育費分は,国家への忠誠,愛国という形で 返すことを要請あるいは;期待される。そこに国家の立場からの教育投資観が成り立つ。
いずれにせよ,教育費は前払いされ,その前借金を背負って,子どもはやがて大人とな った後々までも,孝行と忠義を強制される。教育費を投資する以上,親は,親にそむかな い子,孝行する子の育成を教育に期待し,国家は,国家に従順で,愛国心の旺盛な国民の 育成を教育に押しつける。
要するに,教育費の親負担(黒羽氏の云う受益者負担)と国家負担(黒羽氏の云う公費 負担)とは,結局,原理的には同じことである。家:族制度と国家制度の浅からぬ因縁,両 制度に共通する閉鎖性の故である。だから,両者が矛盾するとなれば,それは忠と孝の平 重盛的矛盾に過ぎない。いずれにせよ,教育を受ける者の自由,忠と孝を二者択一的に選 択することを強制されるのではなく,そのいずれにも制約されない自由,すなわち,忠を つくすも孝をつくすも,それこそ個人の選択的意思にまかせられるという自由,その自由 の放棄を代償としてのみ,親と国家の負担による教育が意味をもつのである。(15)
㈲ 「公費」:負担は最:初から国費負担にストレートに直結したのではなく,「地方公共団体」に よる負担を媒介にした。(ただし,大学ば別。)だから,一般的に公費=租税とされるわけであ る。国費による負担につながっていったのは,地方公共団体間の経済的諸条件の差にもとつく 教育の機会不均等を是正するという要求に考えられている。 (地方公共団体を媒介しない,国 家による,教育統制という意図は,勿論看過できない。)それだけに,国家が負担すれば機会 均等が実現すると思い込んでしまったのが残念でならない。なぜなら,地方公共団体間の格差 と全く同じパター:ソで,国家間の格差が存在しているからである。教育が国家・国民のために 行なわれるなら,そこまで考える必要はない。そのときには,入類とか,普遍とか,真理とか
平和とかの言葉を教育から追放したがよかろう。
ノーナポート・アンド・ノーコントロールー教育費についての一見解(友岡)
63それでは,教育費は一体誰によって負担されるのが理論的に合法則的であるのか?親も 国家もいけない。では,当の本人(児童,生徒,学生)か?勿論,当の本人が負担できる はずはない。では?しかも,教育の機会均等と政治からの独立の要求をも満たさねばなら ないし,受益者負担の原則を犯してはならない。また,あの非学問的な国公私立という用 語を捨てねばならない。答えは,教育を経済的活動とみなすことによって得られるだろ
う。その答えが,実情に合うか否か,現実的であるか否かは,さし当りどうでもよい。実 情そのものが矛盾に満ちているではないか。
大学をふくめて,学校の主要な機能は,教育,すなわち人財(あえて人材を捨てて,こ れを選ぶ)生産である。だから,教育産業は,たんに産業のひとつであるだけでなく,物 財産業(これまで教育産業なるものは認められなかったので,これまでの全産業)に対応 するレベルにある。これは,生産が,人的及び物的生産要素,すなわち労働能力と生産財の 結合によって行なわれるという構造に見合っている。学校は,したがって,人財産業の企 業である。企業であれば,市場のうちに存在しなげればならない。そのメカニズムは,物 財産業のそれと全く同様である。ただし,教育される素材としての被教育者が,まさに物 ではなく人であること,すなわち物権ならぬ人権をもつこと,このことが両者を区別する 基本的モメントである。だから,未就学者は入学する学校を選択し,(16)卒業者は入社す
る企業を選択する権利を侵されない。
㈲ これは学区制の廃止を意味する。学区制が基本的に教育費の税金依存に理由づけられている ことは,もう殊更説明するまでもあるまい。大学には,一見,学区制はないかの如くであるが,
すでに論じたことから分るように,特に国・公立において,国籍の有無が問われる程度に応じ て国全体が学区をなしているのである。 ・
メカニズムの詳細を述べるいとまはないので,いくつかの要点をあげよう。
・(1)文部省は存在理由を失なう。仮に存在するとしても,それは,物上産業における通産 省,農林二等と同様な地位におかれる。すなわち,学校は:文部省から人の面でも金の面で
も独立する。教育権は,したがって,行政権から分離するばかりではなく,国権からも分 離し,企業権の一種になる。(16)
・(2>したがって「私立の国立化」によって区別を解消するのではなく,その言葉を使え ば,「国立の私立化」によってである。正しくは,言葉の本来の意味における公立化であ る。(17)ここで,中教審の云う「開かれた大学」の欺瞳が明らかになる。
・(3)親の教育費負担は廃止される。経済的な面における機会均等はそれで実現する。また 教育費を税金に依存させないことで,政治的な面においても機会均等が保障される。
・(4)教育i費は,主として,人財を供給される物財産業の企業によって負担される。(18)こ れこそ受益者負担である。(1g)
く5)学校が情報産業としての副次的機能を果す場合,当然,知識は学校外の需要者に販売 されるのであり,その代価は学校の収入となる。
・(6)教員とともに事務職員も労働市場にさらされるし,未就学者及び卒業者も,一方は学 校の需要市場,他方は供給市場のうちに投入される。
㈲ 当然に,学校教職員の政治的・宗教的活動は,学校がみずから律した規則にのみ制約され
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る。その最:終的判定は,特定の政党や個人によってはなく,市場を形成する市民によって行な
われる。αの 勿論,現在の企業が克服していない閉鎖性の打破が条件になる。その場合,学校は融融産業 の企業と同様に,ゲゼルシャフト,すなわち会社となる。
⑱ 税金による教育費負担は,公平であるように見えて,学区制の也に,課税の転嫁が避けがた い。現状では大学卒業生の多くは大企業に就職する。ところが大学卒をひとりも採用できない 企業でも,税金は負担しているのである。だから,税金による教育費負担は,大企業にとって まことに都合のよい方法であると云える。
⑲ これは,従来の賃金論に対して,ひとつのアンチテーゼを立てることを意味する。すなわち 本義の教育費が賃金形成の要素であるとする見解(それに,学歴主義が基礎づけられている)
に対して,教育費は本人が負担したものでない以上,教育するために真実費用を支出した学校 に対して支払われねばならないので,本人にはただその労働に比例して賃金が払われるという 能力主義を対置することである。教育費が賃金形成と無 関係であることは,例えばプロ野球で 選手の契約金と賃金が区別されていることに示されている。もっとも,契約金が本人または彼 の親に支払われるのが通念的である。本来は出身学校の収入となるべき筋合いのものである。
なお,すでにふれた大学問題会議の「大学教育改革のための提案20条」に,次の言葉が見出 せるのは愉快である。「この財団(高等教育振興財団一友岡)への出資は,政府予算のほか,
卒業生の採用などによって利益を得る企業の寄付金などによる。」 (力点は友岡)よくぞ白状.
してくれた。
む す び
われわれは,余りにも先入観にとらわれている。人々が先入観を捨てるのは,いつも,
につちもさっちも行かなくなってからであろう。わたしの考え方に,大ていの人が抵抗を 感ずるであろうことは,わたしには目に見えている。誰でも,自分の矛盾が指摘されるの は快いものではない。わたしも同様である。しかし,理論が命ずるなら,それをやらねば
ならない。
永井氏のアイデアは,政府・自民党に採り上げられた。わたしは,国費をつかって,自 民党立新幹線大学がつくられるのではないかと懸念している。永井氏にとって,これは名
コ
誉なことだろうか?永井氏において政治から独立するはずであった大学が,政治的につく られようとしているのではないか?わたしは,官製化されつつある永井案よりは,むしろ・
川喜田二郎氏の「移動大学」計画に新鮮な魅力を感ずる。それはまだ骨格も定らぬ軟体動 物の如くであるが,「学校企業」観が秘められていると思われるからである。川喜田氏は
「真の自治を確立するためには,大学は進んで産学協同をやらねばならない」 (「朝日新 聞」69。7.18)と云う。わたしにおいては,学校そのものが企業であり,教育そのものが産 業であるから,むしろ,産学一致である。全共闘の学生諸君が唱える産学協同路線反対は,
むしろ,税金の管理人をもって任ずる政府自民党の云誤である。全共闘の諸君もまた,外 見と相違して,通念に深くとらわれている。
教育によって本当に受益するものがその費用を負担する一そこではじめて,教育の機会 均等も政治からの独立も実現する。誰が本当の受益者か?また,誰が本当の受益者でなく てはならないのか?受益者負担一これまた,特に革新派には,先入観によって,一様に好 まれないし,保守派によっては,都合次第で使われたり使われなかったりする一という経
ノーナポート・アンド・ノーコントロールー教育費についての一見解(友岡)
65済の原則の理解をまさたげているもの,それは,われわれの観念がそれに呪縛:されている 家族・国家制度の神秘性である。それに呪縛された精神に対しては,わたしはショック療
の コ コ の
法として,教育は商品生産であると,あえて云ったがよいと思う。どんな商品か?云うま でもなく,人財(人的能力)である。 「労働力商品」というおきまりの用語をつかっても
よい。労働力が商品化することによって,人が物として取り扱われるという通念に対して は,わたしは,逆に,人的能力がなお不十分にしか商品化されないところにこそ人間の疎 外状況があるのだと,云わねばならない。商品こそが,家族制度を飛び越え,国境を越え る。教育が商品生産である程度に応じて,教育は国籍から(したがって税金から)解放さ れ,普遍性を獲得する。忠孝を説く義務から解放されるとき,孝行と愛国についての真の・
教育が復活するのである。
だから,われわ,れは,サポート・バット・ノーコントロール(Suppor七but No−contro1,
or Support without Con七ro1)という古典的なスローガンを捨てて,ノーサポート・アン ド・ノーコントロールNo−supPort and No−controlというスローガンを採用する方向へ 向かわざるを得ない。(20)