外国貿易の捨象と再生産論
高倉泰夫
マルクスは『経済学批判要綱』では外国貿易捨象の必要性を言っていない。
1861年以降はそれを言うようになったのであるが,それは再生産論の形成と 時期的に一致していた。つまり,国民経済全体を使用価値および価値の二側 面からとらえる視角が明確になる中で,外国貿易の捨象を言いうるに至った のである。
1.『経済学批判要綱』
マルクスが『要綱』で理論上の問題として世界市場についてふれているの は,「生成しつつある資本」および「生成した資本」においてである。まず
「生成しつつある資本」では直接的生産過程の分析が終って,次にW'‑G′
を分析する部分で次のように述べている。 「資本の単純な概念のうちには, 即日的に,その文明化をおこなう傾向などがふくまれていなければならない。
これまでの経済学でのように,たんに外的な結果としてだけ現れてはならな い。同様に,あとになって明るみに出されてくる諸矛盾も,すでにこの単純 な概念のうちにひそんでいることが証明されなければならない」 ( Gr. S.
326)。このように「資本一般」には「資本の文明化作用」などが即日的に含 まれなければならないとしている。
そして生産力水準が一定かまたは上昇するかの二つの場合によって,世界 市場に与える資本の作用を二通りに区分する。まず剰余生産物と剰余生産物
との交換をとりあげ,交換のための領城の外延的拡大を絶対的剰余価値の視
点から規定されるとする。 「資本を通じての絶対的剰余価値‑対象化され
2 4 経 営 と 経 i 汽
た剰余労働ーーの創造は,流通の図域が拡大し, しかもたえず拡大すること を条件としている。ある場所で創造された剰余価値は,それが交換されるた めの他の場所での剰余価値の創造を必要とする。…・・・したがって資本を基礎 とする生産の一条件は,不断に拡大される流通圏域の生産である。…・・・世界 市場を創造しようとする傾向は,直接に資本の概念のうちにあたえられてい
る J ( G r . S . 320) 。
これに対して生産力上昇の場合に生ずる内包的発展を相対的剰余価値から のものであるとする。「他方では,相対的剰余価値の生産,すなわち生産力 の増大と発展のうえにうちたてられた剰余価値の生産は,新しい j 古賀の生産 を必要とする。すなわち,さきに生産の固域が拡大されたのと同じように,
流通の内部で消費の困域が拡大されることを必要とする J ( G r . S . 32 1 )
0r こ れはたんに分業や,新しい生産部門の創造,すなわち質的に新しい剰余時間 の創造であるばかりでなく,一定の生産が,新しい使用価値の労働として自 己自身から分裂することであり,労働の種類と生産の種類がたえず拡大して 包括的となっていく体系の全展でもあって,一一これらの労働と生産の種類 には,たえず拡大し豊かになっていく欲望の体系が対応している J (Gr. S .
( 1 )
322) 。マルクスはこれを「資本の偉大な文明化作用 J ( i b i d . ) とよんでいる。
以上のように,ここで資本の世界市場の創出傾向と文明化作用にふれたの は , W'‑G' の完了の可能性とともに,過剰生産恐慌をのちにとくための準備 でもあった。「すなわち,資本は生産の特殊な制限作用一一これは生産のあ らゆる制限をのりこえて前進する資本の一般的な傾向と矛盾する一ーをふく
( 2 )
んでいるということである J ( G r . S . 327) 。ここでは「略角平図 ( d i eA n l a g e ) J と同じく恐慌論へつなぐ意図をもって,一方で、世界市場にふれているのであ る。しかし,マルクスは「生成しつつある資本」において G . . . G ' を完了きせ,
次の「領有法則の転回」を説く途上でこの世界市場および「略解図」に言及 しているのであり,主眼は G…G 'の反復の条件を明らかにすることにあった。
この世界市場に言及している場合では,生産力一定の場合に剰余生産物と
剰余生産物との交換を問題とし,生産力が上井する場合には生産と欲望の増
大を考えるという区分がなされている。
ここでマルクスはなぜこつの区分をしたのかを考える必要がある。これか ら後の著作ではこのような区分をしていない マルクスがここでこの二つの 区分をしたのは,一方で剰余生産物の交換のみを問題とする視点と,他方で のちに恐慌論を展開するための出発点としての視点とをここでは区別したた めと思われる。前者の視点は「対象化された剰余労働 J =r絶対的剰余価値」
として剰余生産物の交換を問題としており,その交換を説くことができれば G … G 'は完了し,再度G … G 'を開始することができて次に「領有法則の転回」
へとつづくことができる。「したがって生産物はいまや,ふたたび貨幣に転 化されるものとして措定される J ( G r . S . 3 5 7 ) 。後者の視点はそれとは相違
して世界市場恐慌へとつながっている。
ここで,世界市場における剰余生産物と剰余生産物との交換は国民経済外 部の問題であることから,マルクスはそれを「生成しつつある資本」におけ るG … G 'の反復の要因とするのではなし「略解図」につながる分析によっ てG … G 'の完了を言っていると考えられる。つまり,再度「資本は,生産物の して生産過程からあゆみでたあと,ふたたび貨幣に転化されなければならな い J ( G r . S . 3 4 5 ) とした部分で行っているのが「略解図」につながる分析で あるが,その分析の中では世界市場にはふれていないのである。
マルクスは以上のように「生成しつつある資本」での G … G 'の完了を言 うために,世界市場,そして「諸資本」の契機を導入した場合の W'‑G' と いうこ通りの方法を述べている ここではこの二つの方法の論理上の差異は 明確にはされていない。ここでは国民経済と世界市場とを区分する基準は与 えられていない。つぎに「諸資本」の契機を導入して資本家群と労働者との 交換関係を分析したのであるが,それは W'‑ G'の完了のためであった。つま り国民経済全体を価値および使用価値の二側面より分析する再生産論の視点 につながり得るここでの叙述は W'‑G' の完了を分析するために必要最小限の
( 3 )
ものにとどめられた。ここには貨幣流通と商品流通とのからみ合いを総体と
して分析しうる視点はなかった。以上のように,ここでのこ様の分析はいずれ
も「資本一般」ニ「一つの資本」という枠を厳守する中で生じた, W'‑G' を
完了させ再度G … G 'を開始するための論理上のはみ出した部分であった。
26 経 営 と 経 済
1861 年以降マルクスは,再生産論の構想、を持つことにより世界市場と国民
( 4 )
経済とを区別する基準を獲得していくことになる。
次に「生成した資本」でも「資本の文明化作用」にふれているが,ここで は個別資本視角に立っていることから,国民経済全体を問題とするという課
( 5 )
題からは自由である。この流通時間論における「文明化作用」は『資本論』
( 6 ) ( 7 ) 第 2 部の「流通時間」に継承される。
註( 1 ) この二つの区分を積極的に採用している文献として次のものが挙げられる。本山美 彦『世界経済論』同文館, 1976 年,第 2 章。同『貿易論序説』有斐│詳し 1982 年,第 2 章。木下悦二編『貿易論入門」有斐閣, 1970 年,第 3 章 。
な お , 用 語 上 の 問 題 と し て は 要 綱 』 で 国 民 経 済 内 部 で の 剰 余 価 値 の 生 産 方 法 の 区分における用語法を世界市場の問題に直接にあてはめて使用しているのは不正確だ
と考えられる。
( 2 ) ここに恐慌への言及があり,その展開は生産力上昇の場合を北本としているが,そ の叙述の
)11員序は生産力一定の場合→生産力上昇の場合, というようになっている。
まず資本家対資本家,および資本家と労働者の交換をとりあげそのもとでの生産の
過剰を言うが,その場合は生産力水準は一定である。次に生産力水却ニが上封ーする場合
に消費に対する過剰生産能力が倍加することを言う。「資本が一方で,剰余労働およ
び剰余労働の剰余労働との交換を,必要労働の条件,したがって交換の中心としての
労働力能の措定の条件にするならば,……必要労働を表わしている価値を,労働力能
の価値増殖, したがって労働者の交換能力の制限にすること,そしてこの必要労働の
剰余労働にたいする関係割合を最小限に切下げようとつとめることもまた,同様に資
本にとって本質的なことである J ( G r . S . 334‑5) 。つぎに「生産力についても同様
である
o一方で、は,相対的剰余時間を柏加させるために必然的に生産力を極限まで高
めようとする資本の傾向。他方では,そのために必要労働時間, し た が っ て 労 働 者
の交換能力が減少する J (G r . S . 3 3 5 ) とのべる。「この生産自体によって生みだされる
需要は,労働者との関連でおこなわれる生産の基i V ; とならなければならぬはずの釣合
いをのりこえて生産をかりたてる J (G r . S . 3 3 3 ) 。以上の分析のあとで「略解図」の
分析に入るのであるが,そこでの結論は「一般的過剰生産 J (G r . S . 3 5 3 ) である。
な お 略 解 図 」 で の 恐 慌 論 に つ い て は 高 木 彰 『 再 生 産 表 式 論 の 研 究 」 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房. 1 9 7 3 年,第 1 章を参照されたい。
( 3 ) 川 本 勝 美 氏 は 要 綱 』 の 「 生 成 し つ つ あ る 資 本 」 で の W'‑G'で 世 界 市 場 に ふ れ て い る の は 「 資 本 一 般 社 会 全 体 の 資 本 」 ニ 「 一 つ の 資 本 」 と い う 方 法 を と っ た ことによるのであり,そこには「論理的な飛躍」があり「根本的な問題が存在する」
と言われる (r~ 経済学批判要綱』における資本一般一一剰余価値実現過程との関連を
中心に一一 J 1 1 経済学雑誌.Jl (大阪市大) 8 0 巻 4 号. 1 9 7 9 年. 6 6 ページ)。たしかに世界 市場を「資本一般」のここで言っているのは「論理的飛躍」であるにしても,マルク ス自身にとってはここでは「飛躍」であることの論理的な基準がなかったのである。
マルクスは「生成しつつある資本」のこのあとの部分で,単一資本としての「資本一 般」では不十分で、あって「諸資本」の契機を導入しないと G … G ' は完結しないと述べ ている(小稿 r r 資本一般」の展開過程(1 857‑62)J 1 1 経済学研究.0(九州大) 44 巻 2 ・
3 号. 1 9 7 9 年. 37 ペ ー ジ ) 。 川 本 氏 の 言 わ れ る よ う に 「 一 つ の 資 本 資 本 一 般 」 の 限定を外して資本家相互および資本家と労働者の交換を示す「略解図」を考えれば世 界市場にふれる必要はなかったとも考えられよう。しかしここでの「略解図」にみら れる分析では世界市場と国民経済を区分する基準としては不十分で、あった。ここでの
「略解図」の分析は 1 8 5 9 年プランにも再現していないのであり,直接に再生産論の視 点を自覚したものとして叙述されていたとはいえないのであり. 1 8 6 1 年以降にみられ るような再生産論としての独立性をもつものではなかった。つまり国民経済における 部門間・内転態を価値および使用価値の視点から分析しえた場合には,外国貿易を拾 象 す べ き 必 要 性 が 明 ら か と な る 。 し か し , マ ル ク ス が 「 資 本 一 般 一 つ の 資 本 」
という条件下で分析しているここでは部門分割や貨幣流通の重要性は明らかでない。
マルクスが世界市場とは別に「略解図」につながる分析でもって G …G'の反復を説
〈方法を示しているのは,それ自体としては世界市場と国民経済との次元の差を反映
しているといえようが,他方では両者の次元の差を明らかにする基準をもっていなか
ったのである。つまりこの時点のマルクスには「飛躍」をそれ自体として判定する基準
が な か っ た の で あ る 。 と す れ ば 略 解 図 」 に 示 さ れ る よ う な 叙 述 を も っ て , こ こ で
世界市場にふれることを「論理的飛躍」であると判断することは,その叙述をのちの
再生産論にあまりにひきょせて理解していることになる。
28 経 営 と 経 済
なお世界市場への言及を積極的に評価する研究として次のものがある。山田鋭夫 r l r 経済学批判要綱」における資本一般一一経済学批判体系と「経済学批判要綱.! ( 3 ) 一一JIr彦根論叢.! (滋賀大) 1 9 1 号 , 1 9 7 8 年。同 r l r 経済学批判要綱」における生産力 と価値増殖( 2 ) J Ir経済学雑誌.! 83 巻 2 号 , 1 9 8 2 年。平田清明『経済学と歴史認識』岩 波書庖, 1 9 7 1 年,第 1 部。森田桐郎 r l r 経済学批判要綱」における世界市場論JI T ' 経 済 論集.! (関西大) 2 6 巻 2 号 , 1 9 7 6 年。森沢恵子「資本の世界化傾向と本源的蓄柏JI T ' 経 済学雑誌.! 72 巻 3 号 , 1 9 7 7 年 。
( 4 ) 1 8 5 9 年プランには「資本の布教的傾向」および「資本の文明化傾向」という項目が
r n 資本の流通過程」のはじめの部分にあり,その素材として「生成しつつある資 本」のページが指示されている。「生成した資本」での「資本の文明化傾向」に関す る部分は5 9 年プラン中にはとり入れられていない (MEGA , I I ー 2 ,S . 2 6 0 ‑ 6 2を 参照)。
( 5 ) そこでは流通時間の止拐と関連して次のように述べられている。「したがって流通 時間は,労働の生産性の制限=必要労働時間の減少=剰余価値の減少=資本の自己増 殖の抑止,制限として現れる。したがって資本は一方では,交通すなわち交換のあら ゆる場所的制限をとりはらい,全地球を資本の市場として征服しようとつとめなけれ ばならないが,他方では,資本は時間によって空間を絶滅しようと,すなわちある場 所から他の場所への運動についやされる時間を.最低限に減少させようとつとめる」
( G r . S . 437 ‑8 )。これをここでも「資本の普遍的傾向J ( G r . S . 438) , r こ の 布 教 的(文明化的)傾向J (G r . S . 440) とよんでいる。ここでは生産力水準の上昇を前 提とした議論であるので,世界市場の創出傾向をそれ自体として取り出しての分析は 行われていない。
( 6 ) 第 3 篇 果実をもたらすものとしての資本」には「私自身のノートへの心党え」
( 1 8 6 1 年 6‑ 7月 執 筆 と い わ れ る ) の 表 現 を か り れ ば 二 つ の 国 民 は 利 潤 の 法 則 に したがって交換し,両者とも利得を得るが,しかし一方はつねにだまされている」
(MEGA , I I ‑ 2 , S . 286) と要約された部分 (G r . S . 732) があるが, これは挿 入部分であって本論との関連をもっていない。
また,同じく「果実をもたらすものとしての資本」に同じく本論との関連をもって
いない註記的部分で次のように述べている。 r (ラムジーと他の経済学者たちは正当に
も,生産力が固定資本を形成する産業部門,そしてまた当然ながら賃金を形成する産 業部門で増大するのか,それとも他の産業,たとえば、著{多品産業で増大するのか,を 区別している。後者は必要労働時間を減らすことはできない。しかしながら外国の諸 国民の農業生産物との交換を通じてならば,それをすることができる。そのばあいは,
あたかもくその国の〉農業の内部で生産性が増大したのと同じことである。それだか ら産業資本家にとって自由な穀物貿易は重要なのである) J (G r . S . 626) 。ここには部 門分割につながりうる視点があるがそれ以上の展開はない。
( i ) MEGA の 編 集 者 が 1 8 6 0 年 1‑ 2 月執筆と推定している「引用ノートへの索iJ l J の 中の rr ) 資 本 の 苔 椋 」 と 題 さ れ た 項 目 中 に 外 国 貿 易 , つ ま り 固 定 資 本 へ の 転 化 と同様に,剰余労働を喰い尽す等々の諸方法 ( 2 7 )( 2 8 ) ( 2 9 ) J という文章がある。この内容 については引用ノートの 25‑28 ページがなくなっているので不明である (MEGA , I I ‑ 2 , S . 2 7 1,および、 Apparat , S . 437 を参照)
2 . 2 3 冊のノート(1 861‑63) に おける外国貿易の拾象について
( i) I 蓄積論 J (ノート 1 3 冊)
マルクスは 2 3 冊のノートの 1 3 冊でのリカードゥ批判としての「蓄積論」で 外国貿易の拾象に言及している。「一国がその国の資本蓄積に必要な機械の 量を自分で供給できない場合には,その国はそれを外国で買い入れる。生活 手段 o 't金のための)や原料の必要量を自分で供給できない場合も,同様で、
ある。この場合,国際貿易が介在するようになれば,一国の剰余生産物の一
部は一一それが苔私‑に予定されているかぎりにおいて一一労賃・にではなく直
接に不変資本に転化するといつことも,向こう側の外国ではこうして投ぜら
れた貨幣は全額労釘に支出されるのだ, という考えは残る。われわれがすで
に見たように,外国貿易を拾象した場合にさえ,このようなことは起こらな
いし,また起こりえないのである J ( K r . S . 1 1 1 3 ) 。すなわちマルクスは資本
苔積における v+m のドク、、マ批判を行っている部分で外国貿易の拾象を言
っている。
3 0 経 営 と 経 i 斉
ここで「すでにのべた」としている部分については草稿中に指示はないが,
ノート 6‑7 冊のスミスのドクーマ批判を展開している部分がそれに該当する と考えられる。ただし,そこでは外国貿易の捨象をまず考える必要があると いうような記述はない。ノート 6‑7 冊ではスミスのドク、、マ批判の問題は再 生産論の問題であると述べられている。「不変資本の再生産に関する問題は,
明らかに,資本の再生産過程または流通過程についての篇に属するが, しか し,それはここで主要な事柄を片づけておくことを妨げるものではない」
( K r . S . 4 0 2 ) 。このような「資本の再生産過程」の構成の上に立つ V 十 m の ドグマ批判を背景としてノート 1 3 冊で外国貿易の拾象を述べているのであり,
それはそれ自体としての叙述はなされていないものの,再生産論の存在を前 提とした上での叙述であるといえる。つまり 1 8 5 9 年までとは違って再生産論 が形成されていく中て 1 外国貿易の拾象がはじめて言われるようになってい る。ここでは蓄積分についての v 十 m のド夕、、マ批判を行なうには外国貿易 の捨象が必要であることが言われているのである。
( i i ) i エピソード。資本制再生産における貨幣の還流運動 J (ノート 1 7
‑18 冊)
( 8 )
つぎに「第 3 章 資本と利潤」の「資本制再生産における貨幣の還流運動」
では,単純再生産の分析を行う中で外国貿易捨象の必要性が明確に言われて いる。
まず「いかにして剰余は貨幣において実現されるか? J (K r . S . 1 7 1 7 ) , つまり資本は流通に投じた以上の貨幣をどのようにして入手しうるのかとい う問題をたて,その中で金銀生産を国内に想定することから外国貿易の拾象 が言われる。「我々は金生産国や銀生産国の金や銀の生産を国内そのものに おきかえるので,外国貿易の導入は無用の出来事をはじめからっくり出さな い J ( K r . S . 1 7 1 8 ) 。そのあと金銀が工芸用,通貨または単なる蓄蔵貨幣とし て用いられる場合を挙げたあと[""われわれの前提によれば,金生産は国内で ある J ( K r . S . 1 7 2 0 ) と述べている。この部分では金生産者を想定すること で,剰余価値実現の困難を一応解決した形になっている。
以上のところまでは 2 部門分割の視点はないが,これ以降はそれを用いて
分析している。マルクスは部門聞の交換を考察する中で,流通に必要な貨幣 量が十分に存在するかどうかということから金生産者についてふれている。
そして
( I ) l ‑ c + … 叩 6 ル 2 …
I I ) 3 , 0 5 5 , 555c+1 , 1 1 1 , 112v+833 , 333m
ニ5 0 , 0 0 0 , 0 0 0
と表示されうる関係の部門間・内転態を分析したあと次のようにのべている。
「それゆえ金生産者が,労賃に支出された資本の 1/6 を銀貨幣化( v e r s i b e r n ) するか金貨幣化 ( v e r g o l d e n りするために,ただそんなに多く供給するか,
または同じことであるが,商品に対して鉱業諸国等の金を入手するために,
商品がそんなに多くの金と引き換えに輸出されるならば,そのことは全ての 通貨を供給するためには充分で、ある。そして金が一度輸入されるなら,生産 様式が同じままであるかぎり,金は(貨幣の摩滅を控除して)充分で、あろう。
/資本家が投入するよりも多くの貨幣を流通から引き出すために一般的に必
要なことは,流通している商品価値を貨幣へ転化するために,貨幣が充分に
流通しているといつことだけである J (K r . S . 1 7 2 8 ~ 2 9 )。また「毎年 1 1 0 ポ
ンドの商品で流通している資本を仮定する。そして資本を貨幣に転化するた
めに 1/10 ,それゆえ 1 0 ポンドが必要で、ある。そのとき 1 0 ポンドの商品が輸
出され金と交換されるなら,その 1 0 ポンドは 1 1 0 ポンドの商品を生産した全
階級の間に配分されるであろう。/消費手段の生産者が可変資本と,全ての
階級の収益.( P r o d u k t i o n )の収入として支出される部分とを補充するのと
全 く 同 様 に , 社 会 ( Community) のこの金輸入者は(金生産部門と全く同様
に),全資本の流通に必要な貨幣を補充する J ( K r . S . 1 7 2 9 ) 。このように流
通貨幣の供給者としての金生産部門の国内想定と金の輸入とは同一事態の別
の表現であるとしている。まずここでは閏内での金生産が想定されているとす
るのが,行論の展開上,自然であろっ。ここでは,外国貿易の拾象そのものに
ついては言及していない。このように金生産部門を位置づけたあと,資本と収
入との交換,収入と収入との交換における貨幣還流の分析,そしてその部分
は現実には貨幣流通の必要最はセ、、ロにひとしいとする資本と資本との交換の
分析を行っている。
3 2 経 営 と 経 済
つづいて蓄積と蓄蔵貨幣の問題に移る。そこでは次のように述べている。
「われわれは単純化のために,貨幣材料の生産者としての金生産についての み言及する。われわれは金生産者を,単純化のために(独自なものは貴金属 を生産している諸国にふさわしいので,そのようなことはこの一般的な考察 には属さない。)資本制生産それ自身の国の真ん中に置き換える。/そのほか にわれわれは同じ理由で外国貿易を拾象する。輸出者と輸入者はそれ自身,
卸売商人の単なる部類( C a t e g o r i e ) である。輸出者はでき上っていて消費 に入る生活手段を輸出する。この場合彼は,再生産過程では小売商人に対し ての生産物の移転者としては仲介をしない卸売商人に属しており,生産物は そこから直接に消費部面に流れ出るのである。または彼は原材料,半製品,
用 具 材 ( I n s t r u m e n t m a t e r i a l ) ,機械,労働用具を輸出する。この場合,彼 は生産者それ自身の間での交換を仲介する。……しかし輸入者は輸出者がそ うであるものと同じである ある国の輸出者は他の国にとっての輸入者であ り,ある国の輸入者は他の固にとっての輸出者である。もちろん同じ国内,
たとえばイギリス国内にも輸出者と輸入者がいる。しかし輸出者は他の国の 中に輸入し,輸入者は他の国の外へ輸出する。/金は原料と用具材として一 連の者修品生産に入る 金生産者がこの品物の生産者に金を売る限り,彼は 不変資本の諸要素を売りそして生産する第 I I 部門に属する J ( K r . S . 1 7 5 2 ) 。
ここでは金生産の国内想定と同時に1"同じ理由」としてはいるが実際には それとは別の論理となる輸出と輸入の均衡も含んだの視点から外国貿易を拾 象することを言明している点でこれまでの叙述と違っている。
このあと国内に想定された金生産部門と他の部門との交換を分析している。
そして行論の途中て¥金の国内生産を想定していないリカードゥに対して寸 評を行っている ( K r .S . 1 7 5 4 ) 。ついで「しかし,剰余価値の一部がここで直 接に貨幣材料に転化される限り,そしてそれでもって単純な再生産過程は,
商品の価値増殖が直接に金蓄積として,それゆえ潜勢的な貨幣資本の蓄積と
して現れる契機をもつ J ( K r . S . 1 7 5 8 ) として,単純再生産の中での金生産
部門と他の生産部門との交換において,他の部門の剰余生産物が金へ転化す
ることで拡大再生産の契機をもっと指摘している。この部分に入るところで
「外国貿易はここでは意図的に関係させられない J (K r . S . 1 7 5 7)とのべて し 、 る 。
しかし,他方で金生産と蓄積との関連を否定するような叙述もみられる。
「それゆえ,これまで単に次のこと[が言われていた一一引用者]。つまり 貨幣蓄積一一新しい金生産と一致するものとしてのーーは,国の剰余労働の 一部が金の生産に投じられること必要とする J ( i b i d . ) としたあと,次のよ うに言う。「しかし,今われわれは新しい金の生産を完全に度外視する,別 の意味をもっ問題に到達している。かなり長い期間,たとえば1808‑1830 年 の問,新たに供給された金と銀は,まさに摩損 (Abrasion) そ の 他 を 補 充 するのに,すなわちヨーロッパの貨幣資本の摩損を補充するのに充分で、あっ たということが知られている。資本制的蓄積過程はそれ自体なお一一まさに 貨幣との関連で一一金銀生産の全くの導入なしに考察されなければならない」
( K r . S . 1 7 5 8 ) としている。ここでは資本蓄積と金生産との関連は裁ち切
pられたかのようであるが,このあともマルクスは資本蓄積と金蓄積との関連 にふれながら,最後に「この点のいっそうの解明は先にのばすべきである」
( K r . S . 1 7 6 0 ) として「還流運動」の叙述を終らせている。結局,資本蓄 積と金生産との関連については明確な結論を出していないが,ここでも外国 貿易の拾象と金生産の国内想定の前提は保持されている。
以上のように「還流運動」では,剰余価値の実現,貨幣還流そして資本蓄 積について,金生産を国内に想定しながら分析が行われた。外国貿易の拾象 についてもふれられたが,金生産を国内に前提するということが最重要の前 提とされた。外国貿易の拾象については,第 2 番目の項目,すなわち 2 部門 分割の視点に立つ貨幣還流を考察する際にもっとも詳しく述べられた。そこ では輸出と輸入の均衡も含んで外国貿易の拾象が言われたのであるが,その ことと金を輸入するための輸出部門の存在が金生産の国内想定におきかえら れることとは,再生産論次元に限つてならばともかし現実には同等には扱 えない。そこでは金生産部門として,輸出部門はとらえられることになるが,
金と一般の商品との性格の相違により,後者の場合,金が貨幣材料として輸
入されるときには金はまず世界貨幣として輸入されるのであり,一般の商品
34 経 営 と 経 i 庁
の輸出入とは,つまり経常収支にあらわれるものとは理 l i 6 u ̲ l : の立味を具にして
( 9 )
いる。つまり,ここではまだ再生産論次元であるから同等に扱いうるのであり,
マルクスはこの時点ではその相違を明確にする信用論を巧‑慮しない再生産 l i i d 次元の問題としてのみ金生産を国内に想定しているのである。いずれにして
も,ここでも両生産論の立場から,外国貿易の拾象の必要性を言っている
O( i i i ) I 再生産 J (ノート 22 冊)
マルクスはノート 22 冊の I 4 )剰余価値の資本への再転化」で Iα) 剰余 価値の資本への再転化」を考察している部分のあとに I 再 生 産 J と題した 考察をつけ加えている。ここでも基本的に 2 部門分割の立場に立っている。
「再生産。より詳細な規定性における再生産は,次の i l i ではじめて展開さ
( ] O )
れる。ここでは,さしあたって次のことだけが必要である。つまり,たえざ る自己更新的行為として考察された生産,すなわちたえざる更新と関述して 考察された生産は,再生産であるということである。全体としての生産過程 は,……つねに再生産過位である J ( K r . S . 2243) 。このように述べたあと,
「総生産物」がのちの記号を使えば C 十 v+m に分れることをのべ「これ以 上のより詳細な考察は次のねに属する J ( i b i d . ) としている。
「再生産ー
lでは,すでに「還流運動」で単純再生産の考察を行っているこ とと I 剰余価値の資本への再転化」と同じ位置で叙述されていることも寄 与して,単純再生産にもふれるが叙述の重点は蓄積つまり拡大再生産にある。
ここでは「事柄はまず貨幣を顧慮することなしに,次に貨幣を顧慮してのべ られるべきである J ( K r . S . 2258) としているが,実際にはほぼ貨幣を顧慮、
することなしに分析がすすめられている。そのため,ここでの外国貿易の拾 象は金生産部門の国内想定とは全く関連してない。その点で「還流運動」で の考察とは相違している。
まず第 1に「剰余生産物」が直接に消費されるか,間接に消費されるかと
いう問題をたてて考察をすすめる。前者の場合消費手段であれは直接に消費
されるが,後者の場合には「剰余生産物」が生産手段であることから交換に
よって間接的に消費することになる。つまり消費手段を生産している資本家
との交換が必要となる。ただし,ここでは消費手段を mv 部分として蓄積の
ために買い入れる資本家については分析は行われない。ただ消費と生産との 照応についてのみ言及されている。この生産手段と消費手段との交換におい ては必らずしも均衡がとれるとは言えない。つまり生産手段の側か, または 消費手段の側に「過剰生産 J (K r . S . 2 2 5 5 ) の可能性が生じることになる。
ついで生産手段と消費手段の交換を規定する「この比率はある孤立した国の 中で正確に規定されるであろう。しかし,外国貿易によって,ある国で,原 材料,半製品,補助材料そして機械の形態で構成する剰余生産物の一部は,
そこでは消費可能な諸対象の形で存在する,他の国の剰余生産物の形態に転 化されうる。外国貿易はそのようにしてこの限界を突破する。そのために外 国貿易は,一定の与えられた需要を顧慮することなしに,その生産手段の尺 皮に従って活動している資本制生産にとって必要で、ある J (K r . S . 2255‑56) 。
「それでもって,再生産過程は同じ国内での相互に対応する等価物の生産か らは独立しており,外国の市場でのこの等価物の生産,つまり世界市場の吸 収力と拡張に依存する。それによって不一致のより拡大された可能性があり,
それゆえ恐慌の可能性がある。/一国が孤立しているならば,その剰余生産 物はこの剰余生産物の所与の現物形態でのみ消費されるだろう。剰余生産物 の交換可能性の範囲は,同じ国の異った生産部門の多様性によって制限され るであろう。外国貿易によってこの制限は取り払われる。……そのように,
外国貿易は一国の剰余生産物が転化し消費されうる諸形態を拡げる。しかし この外国製の( a u s w a r t i g )形態にもかかわらず,依然として剰余生産物は 剰余価値,つまり国内の労働者の剰余労働をあらわすにすぎない J ( K r . S . 2 2 5 6 ) とのべる。そして「ところで,剰余生産物が剰余資本に転化しないで その持ち主によって消費される限り,我々が剰余生産物について語るならば,
我々は内固または外国貿易によってであれ,仲介については度外視すること ができる J ( K r . S . 2256‑5 7)としている。ここに言われていることは,外 国貿易を拾象して国内の均衡条件を検出できるということと,恐慌の可能性 に関しては,外国貿易を導入した上で均衡条件を考えうるとともに,外国貿 易は恐慌の可能性をより一層激化しうるものとなるという二つの点である。
ここでは再生産の均衡条件そのものに即して外国貿易の拾象が言われている
3 6 経 営 と 経 済
点,および、恐慌の可能性にふれている点で「還流運動」での外国貿易の拾象
( ] j )
の叙述とは異っている。
次にとりあげる第 2 のケースは r 剰余生産物」が消費に入るのではなし
「剰余資本」に転化する場合,つまり生産手段の生産者も消費手段の生産者 も資本蓄積のために,その生産物の交換を行う場合を想定している。ここで も第 lの場合と同様に不均衡が生じうるのであり,ここでも再び「恐慌の可 能性 J ( K r . S . 225 7)について述べている。次いで今度は拡大再生産ではな くて,単純再生産の均衡条件が保持されない場合も r この限界は,先にみた ように,外国貿易によって打ち破られる。生産者は生産物の一部を,外国の 市場で,可変資本と収入の消費対象に置き換えることができる。/しかし,
われわれは外国貿易を度外視する J ( K r . S . 2258) として,拡大再生産の分 析に戻る。
そして,資本蓄積において C 部分が相対的に増え v 部分が減るとき,消 費手段の生産量が増大していくためには不生産的消費が増えなければならな いとしたあと,次のように言う。「一部は外国貿易によって,一部は剰余生 産物の剰余資本への相互の転化によって,総資本が二つの部門に分れる。す なわち,生産物の異った構成部分が一定の位置で再生産過程に入って行く,一 定の比率が解決する時には,ここに新たな不適当 ( i n a d e q u a c y ) の 可 能 性 が,それゆえ恐慌の可能性が生じる J ( K r . S . 2 2 6 0 ) 。しかし「そのケースは のちに貨幣を入れて考察すべきである J ( i b i d . ) としている。この「再生産」
にはそのような考察はない。
次いで「現在の目的のためには,剰余生産物の剰余資本への転化はもっと
も簡単にまず理解される J ( K r . S . 2 2 6 1 ) として「剰余資本 J の分析,すな
わち剰余価値がのちの記号を使えば mk+mc+mv に分れる過程の分析を
行なう。そこでも「外国貿易によって,この部分も使用価値のどの任意の形
態でも表現されうるが,ここでは外国貿易については完全に拾象されるべき
である J ( i b i d . ) としている。このあと「剰余資本」の分析をしばらく続け
たあとに,マルクスの「経済表」が位置している。その次には「 β) いわゆ
る本源的蓄積」がつづいており r 再生産」として叙述された部分はその手
前で終ることになる。「経済表」の前には「本源的蓄積」へつながる叙述が なされており,また「経済表」の分析は諸収入をふくむ単純再生産であるこ とから r 再生産」の本文と「経済表」とは直接につながってはいない。
以上「再生産 J における分析は r 還流運動 J におけるそれとは違って貨 幣材料生産部門ぬきの実物視点からのものであり,外国貿易の捨象もその文 脈の中でのべられていた。そして再生産の均衡条件を検出するためには外国 貿易を捨象すべきこと,および恐慌の可能性を激化させるものとして外国貿
( J2 )
易がとらえられている点では「再生産」での叙述は一貫している。
註 ( 8 ) r 還流運動」の研究として次のものがある。小林賢腎 r r 単 純 再 生 産 表 式 」 成 立 過 程 の一的一一「エピソード。貨幣の還流運動」についての覚え書一一一 J r 武蔵大学論集』
2 9 巻 3 ・ 4 号 , 1 9 8 1 年。大友敏明「資本の流通過程と貨幣の還流運動一一手稿「資本 主義的生産における貨幣の還流運動」を中心として一一 J i"三田学会雑誌.J (慶曜大) 7 6 巻 1 号 , 1 9 8 3 年 。
( 9 ) なお,木下悦二「国際経済の理論ーーその発展と体系化のために一一』有斐閣, 1 9 7 9 年 , 66‑72 ページも参照されたい。
(
1 0 ) この「次の篇」というのは「資本の流通過程」のことであり,ここには 1 8 5 9 年ブラ ンとは異って再生産論を含む構成であることが明瞭に言われている。同様の留保文言 は他にもみられる ( K r .S . 2 2 4 5 , S . 2 2 5 4 , S . 2 2 6 3 ) 。なお第 2 篇に関する留保文言は
「 α) 剰余価値の資本への再転化」にもみられる ( K r .S . 2 2 1 5 , S . 2 2 1 6 , S . 2 2 1 8 , S . 2 2 3 9 ) 。たとえば「いかにして今や剰余価値は資本に転化するのか?この過程のよ
り詳細な条件は次の簡で考察されるべきである。ここではただ純粋に形式的なことが 確定される J (K r . S . 2 2 1 6 ) 。
( 1 1 ) この「再生産」において,拡大再生産の記述と関連して恐慌の可能性についてふれ ているのは, 2 3 冊のノートの「蓄積論 J ( 1 3 冊)における次の叙述と対応している。
「すなわち,われわれは,完成した資本一一資本と利潤一ーを説明するよりも前に,
流通過程すなわち再生産過程を説明しなければならない。……だから,再生産過程と,
この再生産過程のなかでさらに発展した恐慌の基礎とは,この項目そのもののもとで
は,ただ,不完全にしか説明されないのであって資本と利潤」の:r;iでその補足を
必要とする J ( K r . S . 1 1 3 4 ) 。もっとも 2 3 冊のノートの「資本と利潤」ではその補足は
38 時~ 't~・と主主 i舟
な さ れ て い な し 、 。 ま た 第 3 日」プランをみても明らかではない (K r .S . 1861) 。 なお,部 2 部 ~r~ 3 h;~i の直接の原引といえる「再生産」での恐慌の可能性への砧極的
言及は,マルクスの叙述自体に即した形での恐慌の可能性の論議について一定の示唆 を与える。
第 2 部第 1 稿の拡大再生産の分析の中には恐慌への言及がみられるが,その故後に
「 第 9 昂i 再生産過程の f 党首し」という項目だけの部分がある。そのあとには r 6 再 生産過紅の撹乱」を含むプランがある。これはマルクス杭拡大再生産で、恐慌の可能 性を説く立図をもっていたことを示している。但し,拡大再生産の民間の不卜分さが,
恐慌の可能性の展開を不可能としたと忠われる。第 2 部第 2 柏でも第 3 L : i てー恐慌の可 能性を論じる意図をもっていたマルクスにとって,その展開がされなかった紅:拠は何 であったかを考える必要がある。それは l i . i 年 度 の 不 均 衡 の 問 題 と し て で は な し 述 年 の再生産表式において,均衡条件を明碓に検出した上で表式を展開する中で考えられ るものであったと忠われる。第 8 柏の拡大再生産においても,単年度の部門間・内転 態における W ‑ G と G ‑ W の不一致という形での恐慌の可能性にはふれてはいる がそれは産業循環を説明しうるものとはなっていない。そこには年々の表式の展開に 即した形での恐慌の可能性についての言及はない。つまり 1 8 8 0 年の時点て。も,景気循 環を説明するところまで表式の I~J~琢が進んでいなかったと言える。
(
1 ) 2 マルクスは 2 3 冊のノートの他のいくつかの箇所で外国貿易にふれている (K r . S . 1 2 9 6 , S . 1 3 8 4 など)。しかし,それは本稿のー主題で、ある外国貿易の拾象とは関連していない。
3 . 1 8 6 3 年 以 降 ( i) u 資本論』第 2 部第 1 稿
『資本論』第 2 部第 l 稿では,その執筆時点では第 3 部に「還流運動」を置 く構想、を依然としてもっていたために,貨幣流通を基本的に拾象することを述べ ている。「それゆえわれわれは,この考察においては貨幣流通(および貨幣資 本としての形態にある資本)を捨象する。われわれは,それを,せいぜい,現 実的再生産過程を考察することによって,貨幣流通にとっての特殊的規定がこ の過程の契機として生じてくる場合に, とさおり考慮に入れるだけである」
( 13 )
( K . 2 0 1 ぺージ)。この点では「再生産」の方法を継承しているといえる。
行論の展開においては,実際には貨幣流通を考慮、して述べられている箇所も あるが,その場合の貨幣流通は商品流通の単なる裏面をなすものとしてとら えられている。つまり貨幣は部門間・内転態を媒介とする流通手段としての みとらえられており,単純再生産の場合にも生じうる蓄蔵貨幣の問題は考え られていない。また剰余価値実現のための貨幣についても問題とはされてい ない。また拡大再生産の場合も貨幣流通は実際には考えられていない。ここ での外国貿易の拾象は金生産とは関連し得ない。ここでの外国貿易の拾象は 拡大再生産における剰余生産物の交換可能性と関連させて言われている。そ の点で 2 3 冊の Y ートの「再生産」における展開を継承しているといえる。第 3 章「第 5 節 すなわち,拡大された規模での再生産」で次のように言って いる。「次に,剰余価値のうち追加不変資本に転化されるべき部分について 言えば,次の一般的法則が妥当する。すなわち,この転化が可能で、あるため には,剰余生産物は追加的生産手段の形態で,すなわち,それが不変資本と
して機能することができるような形態で,つまり道具,機械,あらゆる形態 での固定資本,原料,補助材料といった形態で,再生産されていなければな らない。あるいは同じことに帰着するが,それが直接的にこの形態で再生産 されないのであれば,それは外国の諸国民のそうした財貨と交換されなけれ ばならない。だからこそわれわれは,ここではそれを考慮外におくことがで きるのである。もちろんそれは,一方で、は,それがない場合に再生産の諸要 素のあいだにあったのであろう厳密な釣り合いを破る。したがって,それは,
他方では,再生産の内在的な限度をなくしてしまう。/外国貿易を拾象すれ ば,…… J ( K . 2 6 8 ページ)。ここでも 2 3 冊のノートの「再生産」でのように拡!
大再生産の均衡条件を示すためには外国貿易を拾象すべきこと,そして恐慌 の可能性をより拡げる可能性を外国貿易がもつことが言われている。
つぎに「第 6 節 蓄積を媒介する貨幣流通」では,その冒頭で「蓄積を媒 介する貨幣流通が,さらに特別に論じられるべきなんらかの問題を提出する かどうかには問題がある J (K. 2 7 3 ページ)とのべており内容は簡単である。
拡大再生産の場合に,まず「純粋金属流通」を前提とすれば I 再 生 産 規 模
が拡大されるさい,より 2 2 かな再生産〔の場合には],追加的な金銀を調達
4 0 経 営 と 経 i 斉
する困難は,豊かさの劣る再生産の場合および年々の国民的生産物量がより 小さい場合における困難とくらべて,より小さいに違いない, ということは
自明である J ( K . 2 7 4 ページ)としている。この困難さの問題はこれ以上 追求されず,金生産の国内想定の問題にも至っていない。つぎに貨幣形態で の資本蓄積つまり「貨幣蓄積そのもの」については「利子生み資本のところ で(第 3 部第 4 章 ) J述べるべきである (K , 2 7 5 ページ)として,これも金 生産の問題をはずしている。
つぎに「第 8 節 必要労働と剰余労働(剰余生産物 ) J で[""さて,われわ れは第 2 に , もう 1 つの極端(上述したように必需品は度外視して)全剰余 生産物が生産資本の形態で再生産される(あるいは同じことだが,外国貿易 で生産資本と交換される)場合, したがって者修的消費 = 0 と仮定した場合 を考察しよう J (K , 2 9 3 ページ)といっている。ここでも再生産の均衡条件 の検出のために外国貿易の拾象を言っている。以上のように第 2 部第 1 稿 で は貨幣流通の問題をどう扱うべきかが処理されていないので 1 外国貿易の拾 象も再生産の均衡条件と関連してのみ言われている。
( i i ) IT'資本論」第 2部第 8稿
( 1 4 )
第 8 稿では貨幣流通を前提として分析がなされている。第 3 篇の単純再生産 における「第1 2 節 貨幣材料の再生産」では次のように言っている。「しかし,
われわれは金鉱山をわれわれが今その年間再生産を分析している資本制生産 の国に移してみることにする。そして,それは次の理由からである。/資本 制生産はおよそ外国貿易なしには存在しない。しかし,ある一定の規模での 正常な年間再生産が想定されるならば,それと同時に次のことも想定される ことに・なる。すなわち,外国貿易はただ国内生産物を使用価値や現物形態の 違う物品と取り換えるだけで,価値の割合には影響を及ぼさないということ,
したがってまた生産手段と消費手段という二つの部類が相互に取り換えられ
る価値の割合にも,またこれらの部類のそれぞれの生産物の価値が分解でき
る不変資本と可変資本と剰余価値の割合にも,影響を及ぼさないということ
がそれである。だから 1 年間に再生産される生産物価値を分析するときに
外国貿易を引き入れることは,ただ混乱を招くおそれがあるだけで,問題や
その解決のなんらかの新たな契機を提供するものではないのである。だから,
外国貿易はまったく拾象されなければならないのであって,ここでは金も年 間再生産の直接的要素として取り扱われるべきで,交換において外から輸入 される商品要素として取り扱われるべきではないのである J (K I I , S . 4 6 6 。 ) ここでも 2 3 冊のノートの「還流運動」と同様に,外国貿易の捨象と金生産の 国内想定とが同時に述べられている。ただし,ここでは再生産の均衡を述べ るために外国貿易が捨象されるべきであるというのが主であり r 還流運動」
のそれとは逆転している。それは 2 3 冊のノートの「再生産」を継承する中に 貨幣流通を導入しつつ分析を行っているために生じたことであろう。ただし,
「再生産」とは違ってここでやは単純再生産で、言われている。
また「第 1 1 節 固定資本の補填」では固定資本の摩損と更新との聞に不一 致が生じた場合について「外国貿易はどちらの場合も助けになることができ るであろう。……しかし,外国貿易は,それがただ諸要素を(価値から見て も)補填するだけでないかぎり,ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾 のためにいっそう大きな活動範囲を聞くだけである J (K I I , S . 4 6 4 ) 。 こ れ も「再生産」を継承する文言である。ここでも恐慌の可能性の分析には外国 貿易の捨象が必要だとしていると読むことができる。拡大再生産の箇所には そのような言及はないが,単純再生産と同様の前提がおかれていると考える べきであろう。
その拡大再生産には「ここで前提されているただ一つのことは,国内に存 在する貨幣量だけで(流通速度などは変わらないものとして)現実の流通の ためにふ準備蓄蔵貨幣のためにも充分だということ J (K I I , S . 4 9 5 ) とし ている。拡大再生産の分析のためには金生産の量を制約条件として入れる必 要はないとしているわけである。単純再生産の場合札第 1 2 節をのぞ、けば現 存の貨幣量で充分で、あるとして分析がすすめられていた。つまり基本的には 貨幣商品としての金の量を制約条件とせずに,単純再生産および拡大再生産の
( 15 )
均衡条件が検出されているのである。ただ単純再生産の場合は金貨幣の磨損を
考える(流通速度を一定として)ことが,金生産部門を単純再生産の均衡条件
の中に特殊な部門として位置づけることになる。マルクスは,剰余価値のー
42 経営と経I1守
部が蓄蔵貨幣として積み立てられる場合[""ここでわかることは・・…・,単純 再生産の場合にも,そこでは言葉の本来の意味での蓄積すなわち拡大された 規模て切再生産は排除されているとはいえ,貨幣の干責立てまたは貨幣蓄蔵は 必然的に含まれているといつことである J (K I I , S . 4 6 9 ) とのべている。
単純再生産で貨幣蓄蔵を論じることの当否は別として,そのことと本来の拡 大再生産とは峻別されている。つまり基本的には現存貨幣量で充分であると
しての分析が第 2 部第 3 篇の第 8 稿では行われているといえる。他にも拡大 再生産の最後の「補遺」などて、、金生産に少しふれた部分があるが,論理とし ては上記のように考えられる。このような貨幣量を制約条件としないで再生 産の均衡条件を考える方法の崩芽は,実際にはスミスのドグマ批判以来の再・
生産の均衡条件を考える中にすでにあったものである。
他方で第 8 稿では空費節約を基礎とした信用制度との関連を明確に言って いる (KII , S 4 9 4 1 ? つまり貨幣流通を導入して再生産の均衡条件を分析す る第 8 稿では,金生産部門の重要性は依然として認識しているものの,既に 信用論との関連を念頭におきながら,現存貨幣量の充分さを前提とした再生 産の均衡条件を検出することに重点を置いたと考えられる。つまりすでに行 なわれた第 3 部における信用論の導入と対応させつつ,再生産の均衡条件が,
とくに拡大再生産の均衡条件の分析が行われたといえる。それは経常収支と 対応するものとなっている。
註 ( 1 3 ) もっとも,少し後で「最終的な叙述では,この第 1 筒 i を , (1)総再生産過紅における 商品資本の現実的素材変換, ( 2 ) この素材変換を媒介する i 判官流通, という 2 つの部分 に分離したほうがよいであろう J (K , 2 1 3 ページ)とのべている。そこでは 1 1 r l W 流通 の導入が幾分積極的に考えられている。このように素材変換と 1 1 幣流通を二分する叙述 方法は第 2 稿まで継 ; j ' くされている
ιそこでは単純再生産だけでなく,拡大肖生産でも
r ( a) 貨幣流通なしの叙述」と r (b) 貨幣流通による媒介を入れた叙述」という二
分した方法がとられている。もっとも,拡大再生産は内容が書かれていないのである
が(水谷謙治・名和隆央 rIT"資本論』第 2 部第 2 平杭(第三章)の未公開部分につい
てーーその概要と解説一一 J IT"立教経済学研究~ 3 3 巻 l 号 , 1 9 7 9 年を参!l百)。
(
1 4 ) 草稿の区分については,水谷・名和前持論文. 1 4 9 ページを参照した。
( J
日 フランス語版「資本論』第 1 部第 7筒第2 4 章「剰余価値の資本への転化」すなわち 拡大再生産でも誌の中で外国貿易の拾象をのべている。それは 2 3 冊のノートの「再生 産」からの継承である。「一国が者{多品を生産手段または生活必需品に変換すること
を可能にしまたこれと逆のことを可能にする外国貿易は,ここでは度外視する。一般 的な分析ーから無用な付 l 砲事を取り除くためには,商業世界を唯一の固と見なさなけれ ばならないし,また,資本制生産がどこでも確立されていですべての産業部門を支配
していると前提しなければならな ~'J ( L e C a p i t a l , p a r F a r E a s t e r n B o o k ‑ S e l I e r s , 1 9 7 9 . p . 2 5 5 . 江夏美千穂・上杉聴彦訳 rフランス語版資本論,J] (下),法政大学出 版局. 1979 年. 234 ページ)。この註は第 3 版以降にも継承されている( D a s Kap 均 1 , B d . 1 . M E W , B d . 2 3 , S . 607) 。ただし,初版,第 2 版にはない。
(
1 6 ) 小稿「再生産と蓄蔵貨幣一一信用制度との関連において一一 J Ii経済論究,J] (九大院) 37 号. 1976 年を参照されたい。
む す ぴ
以上のように再生産論の形成の中で言われてきた外国貿易の拾象の必要性は,
再生産の均衡条件の検出のために生じた。金生産の国内想定の必要性も堅持 されたものの,分析の主眼である再生産論の均衡条件の中から出てくるのは 経常収支へつながるものであった。マルクスは貨幣商品金の流入については 信用論で考えるに至ったと思われる。すなわち「立金属と為替相場」の分析
と対応するものとしての再生産の均衡条件の分析があったといえる。
次に,再生産論の形成は世界市場と国民経済を区別する理論上の基盤を与 えた。『要綱』とは違って 1 8 6 1 年以降はその区別の論理をもつことになった のであるが,同時にそのことは後半体系の出発点とは何であるかも明らかに なったといえる。すなわち再生産論がまた後半体系をとく場合の基礎である
一(1