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ベトナム問題前史としての東南アジア植民史
重 藤 威 夫
目 次
一 ポルトガルとスペインの植民史 ニ オランダの拾頭
三 オランダと英国との争覇・航海条例 四 英国の海外発展への基礎
五 英国の東インド会社とインド支配の過程 六 英仏の争覇戦と英国の勝因
七 植民地占領の方式における17・18世紀型と19世紀二 八 19世紀型一英国とインド
九 19世紀三一フランス.とベトナム
一 ポルトガルとスペイン
古代および中世初期までは東洋と西洋とは,各々別個に独立した世界であり,殆んどお 互の運命にはかかわりのない世界であった。わずかにラクダの背によって交通困難なシル ク・ロードを通じて,貿易其他の交渉をもつにすぎなかった。ベネツィア生れのマルコ・
ボーロMar60 Polo(1254−1324)は,1271年にペルシアから中央アジアを経て今の北京 に達し,元朝に21年間仕えた。元からペルシアに入嫁する王女に従って,海路同国にいた
り,使命を果して故郷に帰った。その後面は東洋での滞在中の経験を記した「東方見聞録
」を1299年に著した。これが東洋が西洋によく知られるよう になった最初の出来事であろ
う。
しかしマルコ・ボーロ時代までの東洋は,西洋人にとって,香料,染料用樹木,こしよ うなどの香辛料その他の東洋の珍奇な物晶を産する夢の国にすぎなかった。羅針盤の発明 とその航海における応用とは大型帆前船による遠洋航海を可能なちしめ,いわゆる「地理 上の大発見」の時代が始つた。それ以後は東洋と西洋との関係にいちじるしい変化が生ず
ることになった。もはや二つ.の世界は各々別の運命をたどることは許されなくなった。と くに東洋諸国にとっていちじるしい運命の変化が生じた。
1486年にはアフリカの南端の喜望峰(cape of good hope)が発見され,ポルトガル人 のヴアスコ。ダ・ガマVasco da Gama(1469頃一1524)によるインド航路の発見は,東 洋の運命に大変化をひき起す第一歩であったと言ってよい。彼は1497年7月9日にリスボ
ン港を4隻の帆船隊をひきいて出帆し,喜望峰を迂回して,アフリカ東海岸に達した。そ
こからさらにインド洋を;構断して翌年の1498年5月20日にインドのアラバル海岸のカリカ ットに到着した。彼の航海の目的は,ポルトガル王エマヌエルー世およびエンリケの遺志 をついで,インドにいたる航路発見にあった。また同じくポルトガル人のフエルジナンド
・マゼランFerdinahd Magellan(1480頃一1521)による世界一周の完成は単に地球が 円形であることを実証したのみならず,東方から太平洋横断によるアジア大陸への航海の 可能性を実証したものである。マゼランは,西洋からモルッカ諸島に到達する計画をたて,
スペインのカルロス一世の援助をうけ,5隻の帆船と270人の隊員をびきいて,1519年9 月20日に,スペインのサンルカル港を出帆した。彼は南米大陸の南端の後で彼の名をとっ てマゼラン海峡と呼ばれるようになった海峡を超え,さちに進路を北西に.とうて太平洋を 横断し,翌年の1520年の3月にブイリピン群島に到達した。その群島中のセブ島に4月7 日に上陸したが,マクタン島で土民と戦って,おしくも戦死しだ。・従って彼自らが人類最 初の世界一周の壮挙を完成することはできなかったが,残りの隊員によってその壮挙は完 成された。最初の航海の目的であったモルッカ群島を経て,残りの隊員が出発港のサンル カル港に帰着したのは,1522年9月であった。帰港できだのは5隻中わずかに1隻で,隊 員18名であった。これは地球が球形であることを実証しだだけでなぐ,ブメリカ大陸がア
ジアとは別個の独立した大陸であることをヨーロッパ全体に知らしめた。
さらにクリストファー・コロンブスChristpher Colufnbus【(1446頃一1506)は1492年 にダ大西洋を横断してサン。サルパ ドル島に到達し新大陸を発見した。これは直接には東 洋とば関係がないようであるが,後代に謁いて西洋人による北米合衆国の建設ダ同国によ
る東洋侵略の基礎をなレたものと言いうる。
以上の出来事は単に地肩学上の発見だけでなく・・世界史9上からは東洋に対する西洋の 優越の第一歩を意味した・これらを契機として西洋人による東洋諸国の侵略・その植民地 化が始づた。.1498年忌ヴアス『。ダ・ガマが喜望峰迂回によるインド航路を発見してから わずかに12年後の1510年には・ポルトガル人はイ.ンドのプアを占領し・アジア侵略ρ根拠 地にした。その後間もなく香料の原産地であるモルッカ諸島を手に入れた。さらに中国の 南方海岸にも侵略の手をのばし,1557年にはマカオを占領した。1543年(天文12)にポル トガル船が種子島に漂着した。ポルトガル船が定期的に長崎に入港するようになったのは 1570年(元亀元)からである。本国は東洋貿易を独占して富強をきわめた。新大陸ではブ ラジルを領有した。首都のリスボンは東洋特産物の集散地として繁栄した。
スペインに先づアメリカ大陸の方向に侵略の手をのばし,コルテスCortes(1485−1547)
は1521年にメキシコのマーヤ,アズテックを征服した。,ピサロPizaro (1470頃一1541)
は1533年にペルーのインカ帝国を征服し,それを滅亡させた。新大陸では鉱山を開発し多 量の銀を手に入れて富強を極めた。アジアでは1571年にフィリピン諸島を占領し,マニラ
を建設,そこを貿易・布教の根拠地にした。
アジア侵略に先鞭をつけその繁栄を誇っていたポルトガル。スペイン両国は,略奪,搾
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取と主とする植民地経営の失敗により,やがてその地位を後進のオランダ,英,仏に譲ら ねばならなかった。スペインの衰退の第一歩はオランダの独立であった。ブイリップご世 の専制政治に対して不満であったスペイン領ネーデルランドは,オレンジ公ウイリア呑を 首領として1568年に反乱を起した。南部10州は途中でスペインに帰順したが,北部7州は ユトレヒト同盟を結んで抗戦し,1581年に独立を宣言し,ネーデルランド連邦共和国脅建 設した。英国などの新教諸国家の援助があったので,その独立宣言は成功し,1609年に休 戦条約が結ばれ,1648年にスペインもついに独立を承認せぎるをえなかった。第二のつま づきは1588年に「無敵艦隊」 (Armaδa)が英海軍のために撃破されたことである。この ためにスペインはその後制海権を失った。逆に英海軍はそれ以後海上を支配することにな
り,その世界制覇の基礎をつくった。
ポルトガルはその繁栄を専らアジア植民地の搾取と東洋貿易による独占的利益に依存し ていた。そして国民全体ヵ遡れらの基礎の薄弱な繁栄に酔い,堅実な経済其他の国家の発 展に必要な各種の建設を放任して全く顧みなかった。従って,一度アジアの植民地を失い,
東洋貿易の独占的地位を奪われると共に急速に衰退の運命に陥った。
ニ オランダの擁頭
ポルトガルに代って,次にオランダがアジアの舞台に登場してきた。・オランダは1602年 に株式会社組織の東インド会社を創立しアジアに進出する第ゴ歩を固めた。その後間もな く1605年にオランダは,アンボイナを占領しアジア侵略に着手した。次いで,1619年には バダヴイアを占領し,総督をおいた。そこを根拠地としてポルトガルに代って東洋貿易の 独占を企てた。さらにその中継地として,アフリカ大陸の南端にケープ植民地を建設した。
アジアのみならず新大陸の支配にも着手し,北米東海岸にニューネーデルランド植民地を 開きニュー・アムステルダム市(後のニュー・ヨーク)を建設した。
オランダがアジアだけでなく,新大陸にまで進出した大要は以上の通りであるが,長崎 について見るも先づ第一に我国の外国貿易を独占したのは,他のアジア地方におけると同 様にポルトガル人であった。ついでポルトガル人に代ってオランダ人が登場して来た。元 亀元年(1570)にポルトガル人が定期船を長崎に入港させるように定められた。それ以来,
長崎の貿易は毎年盛んになり,居留民の数も増加した。しかしその頃は貿易について多く の設備や制度がきわめて不完全であった。船の入港中は,彼等は船内に居住し或は上陸し て市中の民家に散宿していた。その当時,貿易品の取引媒介者は,手数料として取引価格 の3分の1を取得する慣行があったから,市民は争ってポルトガル人を自宅に宿泊させて,
その利益に与ろうとした。そのために天主教は盛んになったが,他面において混血児の増
加となって種々厄介な問題が生じた。ポルトガル人の中には資力が不充分で,我国の富裕
な商人達から,外国商晶の仕入の委託をうけ,その聞に利益を収めた者も多かった。しか
し中には仕入用の前渡金を費消したために,やむをえず,乙の委託金で甲の註文品を仕入
れ,さらに丙の委託金で乙に対する契約を果すようなやりくりで,一時を糊塗する者がで きた。それが暴露して,我商人等は前渡金の返還を要求した。もとより資力のない者であ るから,返済の目途は立たず,彼我の聞に紛争が生ずることが多かった。
右のような弊害を除くには,ポルトガル人と邦人との交際を絶つ必要があるので,幕府 は1634年(寛永1Dに長崎奉行に命じて,内外人の同居を禁じ,同時に人家をはなれたと ころを選定して,館を建て,ここにポルトガル人を集団的に居住するようにした。この時,
長崎の町人のうち25人は右の趣旨に従って,奉行の許可をえて,自費で江戸町向側の海面 を埋立て,扇形の地形を築立てたρ総坪数は3,969坪である。1636年(寛永13)に完成し たので,船住い並に市中に散宿していたポルトガル人を全部ここに移住させた。これを出 島と、称した。海面に突出した人工の島である。しかし1638年(寛永15)2月に島原の乱が 平定された後は幕府はキリシタン宗を厳禁し,翌1639年(寛永16)7月には,ポルトガル 船の来航を厳禁し,出島居住のポルトガル人はすべて帰国させた。かくて出島は空家とな
り1長崎の市況は次第に淋れて行ったので,幕府は市民の請願を入れ,1641年(寛永18)
に平戸のオランダ商館を出島に移した。それ以後,幕末にいたるまで,オランダは清国と 共に我国の対外貿易の独占的地位をえた。オランダは新教国であって,キリシタン宗を布 教しないというのほ表面的な理由にすぎないのであって,ポルトガルの地位を奪おうとす るオランダの執ような陰謀が根底に伏在していたことを認めねばならない。長崎の出島蘭 館の商館長は甲比丹(:Kapitein)と呼ばれていた。征はオランダのアルステルダムに本店 を有する連合オランダ東印度会社 (Vereenigde:Nederlandsche OsMndische Compa gnie)の長崎支店長にほかならないが,同時に彼は外交上重要な立場にあって・駐日オラ
ンダ大使の役目をもかねていた。
オランダの東インド会社が設立されたのは1602年(慶長7)であるが,それより以前に オランダ船はすでにアジアに進出していた。1600年(慶長5年3月)4月に,蘭船一隻が 豊後の海岸に漂着した。航海長のウィリアム・アダムスは・大阪で家康に拝謁した・これ が蘭船が我国に到達した最初9出来事であるが・平戸にオランダ商館が開設されたのは・
それから9年後の1609年(慶長14)である。初代の商館長はヤック・スペックスであった。
幕府によってポルトガル人が長崎の出島から退去させられた後にオランダ人が平戸から出 島に移ったことは,さきに述べた通りである。
三 オランダと英国との争覇・航海条例
以上は長崎を一例として,オランダ人のアジア進出の過程をかえりみたのである。アジ アと欧州との伸介貿易の利潤と毛織物の輸出によって・アムステルダムは繁栄し・17世紀 の前半を通じて,世界商業の中心になった。しかし・次のような事情によって英国にその 地位を譲らねばならなくなった。国内的には大商人階級の勢力が強く,都市貴族(patriz−
iat)が地方分権を主張したために,強力な中央集権国家が成立しなかった。そのために重
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塗5商主義(mercantilism)時代に富国強兵策が充分行われず,列強に伍して立ちおくれた。
国内の毛織物工業その他諸工業の育成,保護政策が不充分であった。対外的には,富国強 兵策が弱かった結果として,強力な海軍力をもたず,英国との海上の覇権争いに敗北した。
クロムウェルCromwell(1599−1658)とチャールズ2世 (英王1660−85)の航海条例
(1650,51,60,63)は,主としてオランダ人を国際貿易かち締め出すことによって,オラ ンダの海外貿易に打撃を与えることを目的として出されたものである。
それらの各種の航海条例の内容は,次のように要約できる。
e 英本国と英領植民地の輸出入に関する海運は,英国船又は植民地船に限る。
口 植民地の輸出入は,すべて本国の工業発展と本国海運に有利なように統制すること を規定。その一として列挙晶(enumerated commodities)の制度がある。植民地特産 或は重要産物である砂糖,たばこ,棉花,染料用樹木,タール,ピッチ,マスト,帆桁等 の船舶用品,米,銅,毛皮,銑鉄,木材など即ちこれらの列挙品は,英本国へのみ輸出を 許される。
この航海条例の要点は,英国および英国の植民地に輸入される商品は,英国船か英国の 植民地船に限って輸入することを許されるというのである。但し欧洲大陸の各国で生産さ幽 れた商品の英国への輸入は,英国船か或はその的弓の産出国の船に限るとされた。オラン ダの貿易は仲介貿易を主としていたもので,自国の産物を輸出するのが目的ではなからた。
従って,英国船か産出国の船に限ることになれば,広大な植民地をアジア,アフリカ及び アメリカの各地に有する英国に対するオランダの貿易は全く中止されて了うことになる。
また英領植民地間の仲介貿易についてもオランダ船は全く介入できないことになる。オラ ンダの外国貿易にとっては全く死活問題であった。逆に英国船の通商には非常に有利にな る。この条例発布の結果,オランダと英国との聞に長年にわたる戦争がひき起されたのは,
やむをえない成行であった。即ち,この航海条例は1652年から1674年にわたってのオラシ ダ・イギリス戦争の原因になった。この戦争は右の期間内に三回にわたって行われた。
1672年には第三回目の戦争が始まった。戦争は英国の優勢のうちに進んだが,議会の反戦 策と財政困難のために,1674年にオランダと和睦した。しかしオランダはこの戦争の結果,
制海権を失った。そして,従来保持していた海運。貿易における世界的覇権は,英国によ
って打破された。次の世紀の1799年にいたって,オランダ東インド会社は破産して,解散
するのやむなきにいたった。それ以後,オランダに代って,アジアのみならず世界におけ
る英国の植民地支配の覇権が確立した。この戦争の結果の一として,オランダ領ニューア
ムステルダムは英領となり,ニューヨークと改称された。
四 英国の海外発展ぺの基礎
オランダについで,東亜の天:地に登場してきたのは英国であるが,それまでの道は英国 にとって平坦ではなかった。英国は14世紀までは,安政6年(1859)に開国した当時の我 国と同様に,英国の北方諸都市とスカンジナビア諸国との間の貿易を除けば,外国貿易は 殆んどすべて外国人によって行われて来た。その頃までは英国の商人は輸出入貿易につい て,欧州大陸の諸都市にまで進出するだけの企業心や資本をもっていなかった。フランダ ース,フランス,ドイツ,イタリー及びスペインの諸都市から,商人達が貿易のために英 国に渡来して来た。それらの中でとくに有力であったのは,イタリー商人(tbe Lombar−
ds)とドイツの北方海岸のリューベックを盟主とするハンザ同盟の商人(the:Hansards)
であった。
彼等は14・15世紀の英国の外国貿易の大部分を支配していた。ハンザ同盟の商人達は,.
英国王から,彼等に居留地として与えられたSteel Yardに住んでいた。彼等のロンド ンにおける居留地は,右のSteel Yardのほか, Gildhall of the Dutぬ, Easterlings・
耳ouseの名称で知られていた。彼等がそこに住むようになったのは,1320年以来であるが その居留地の実際の所有者になったのは,1475年に市会(the city counci1)が,それを 彼らに譲渡してからである。このスチール,ヤードはロンドンに限らず,ボストン・リ.一 ンにも設けられた。このスチール、・ヤードの開設によって,英国では居留地貿易時代が始 まったということができる。
しかし英国商人もその間に無為であったわけではなく,次第に海外進出の準備をすすめ つつあった。 1313年以来のステープル商人 (merchant of the Staple, the mer曲ant Staplers)や冒険商人(merchant adve郎urers)の制度などによって,積極的に外国貿 易に進出するようになった。冒険商人の起源は,ロンドンの呉服商人のギルドで搾St. Th−
omas of Canterburyという団体であった。それはすでに13世紀にまだ加工しない毛織 物をフランダース地方に輸出する特権をもっていた。その後ドイツ地方やスカンジナビア 地方を輸出先とするものが参加し,それぞれ国王から特許をえて公然たる団体になった。
その間ハンザ同盟やステープル商人のはげしい反対をうけたが,冒険商人は益々発展した。
1505年にはヘンリー七二から1人の総裁(90vemor)1と24人の理事(assistants)をもつ 自治的会社であることを認可された。その後冒険商人は規制会社(regulate company)
としての組織をもつようになった。16世紀の後半に入ってからは,次のような各種の会社 が活躍しはじめた。1554年設立のRussia Co。又は1577年にスペインとポルトガルとの貿 易を目的として設立されたSpanish Co。1579年にパルテック沿岸諸国との貿易を目的と するEastland Co。1581年にトルコ,シリア,アジア地方との貿易を目的とするLeva−
nt Co・などが活躍しはじめた。
以上の会社はRussia Co。を除いては,すべて規制会社であった。 これらの規制会社
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馨喚は,『merchant adventuresの会社と同様に,すべての加入者の利益を目的とする一般 的規約の下に結合され, しかも各誌自己の計算において共通の貿易に従事する商人の団体
をいうのであって,株式会社の前身ともいうべき会社であった。この規制会社の活動範囲 は大体ヨーロッパに限られていたが,16・17世紀に入ってからは,英国の商人はその活動 範囲を欧州以外の諸大陸にひろげた。この段階の貿易では,一そう大なる資本を必要とす るので,広く株式を募集し,且つ共同の計算において行われねばならなかった。最初の聞 は,一航海毎に株式を公募し,航海を終った後,直ちに出資額を返済し,,出来高に応じて 利益を分配する方法によった。かかる方法で貿易を行った最初の例は1553年のRussia Co・
及び同年のAfrica Co。である。 Russia Co.はインドに達する北東航路或は北部イ・ンド の発見を目的として設立されたもので,1553年にロン、ドン商人の出資をえて,三隻の探険 船を派遣した。その中2隻は北氷洋で遭難して行方不囲となり,残の一隻がモスコウ北方 の海岸に漂着した。その乗組員達が陸路モスコウに達し, ロシアどの通商の約をえて,英 国に帰還した。1555年にはこの会社は対露貿易の独占を認可された。アフリカ会社は最初 は個人的のものであったが,1553年にロンドン商人の出資で,アフリカのギニア(Guinea)
に貿易船を送ってから後は,しばしば株式組織による航海を行い,エリザベス女王もその 出資者の一人になった。・その後アフリカ貿易は一且衰えたが,1588年には,その貿易の独 占を許された一会社が成立され,17世紀に入うてからは,各種のアフリカ会社が設立され た。17世紀の前半には,アフリカは金,象牙,染料用樹木などの供給地として重要であっ たが,それ以後はむじろ西インド諸島やアメリカ合衆国への奴隷の供給地として重要にな った。奴隷貿易に活躍したアフリカ会社には次の二つがある。The Govemor and Coln・
paHy of the Royal Adventurers of Englanδtradiny into Africa:(1662−1672)
The Royal Africa∬Co.of Engla凱d(1672−182D
五 英国の東インド会社とインド支配の過程
英国は大体において,以上の過程をへて世界征覇への地歩をきついたのであるが,東南 アジア侵略の最も重要な役割を演じたのが,1600年に設立された東インド会社(The Ea st India Co.)である。またこの会社は株式組織による貿易会社として重要な意味をもっ ている。この会社は喜望峰をまわってインドに達する通商路を開かんがために創立され,
1599年9月の創立総会の当日には,第一回の航海のために101人が30,000ポンド余を出資 した。 翌1600年12月31日にエリザベス女王によってThe Governor and Company of Merchants of London trading into the East lndiesとして設立を許可された。その 時の株主は212名であり,1601年の第一回航海の時の公称資本金は,68,373ポンドであっ た。1604年には第2回の航海が行われ,引つづき1613年までに12回の個別的資本による個 々独立の航海が行われた。即ち,一航海毎に新しく資本金を募集し,その航海が終る度に,
解散して,利益金を出資高に応じて分配した。
1613年以後は,各航海を区別することなく,継続的な事業,即ち数回の航海のために株 式を募集し,これから得られる利益を定期的に株主に配当することにした。ここに大体に おいて近世的株式会社組織の形式を備えるようになった。即ち,1613年に募集された資本 は1618年までの4航海に共通のものであり,『これをThe:First Joint Stock 1613と称し
た。