• 検索結果がありません。

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ベトナム問題前史としての東南アジア植民史"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

21「

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史

重  藤  威  夫

目 次

一 ポルトガルとスペインの植民史 ニ オランダの拾頭

三 オランダと英国との争覇・航海条例 四 英国の海外発展への基礎

五 英国の東インド会社とインド支配の過程 六 英仏の争覇戦と英国の勝因

七 植民地占領の方式における17・18世紀型と19世紀二 八 19世紀型一英国とインド

九 19世紀三一フランス.とベトナム

一 ポルトガルとスペイン

 古代および中世初期までは東洋と西洋とは,各々別個に独立した世界であり,殆んどお 互の運命にはかかわりのない世界であった。わずかにラクダの背によって交通困難なシル ク・ロードを通じて,貿易其他の交渉をもつにすぎなかった。ベネツィア生れのマルコ・

ボーロMar60 Polo(1254−1324)は,1271年にペルシアから中央アジアを経て今の北京 に達し,元朝に21年間仕えた。元からペルシアに入嫁する王女に従って,海路同国にいた

り,使命を果して故郷に帰った。その後面は東洋での滞在中の経験を記した「東方見聞録

」を1299年に著した。これが東洋が西洋によく知られるよう になった最初の出来事であろ

う。

 しかしマルコ・ボーロ時代までの東洋は,西洋人にとって,香料,染料用樹木,こしよ うなどの香辛料その他の東洋の珍奇な物晶を産する夢の国にすぎなかった。羅針盤の発明 とその航海における応用とは大型帆前船による遠洋航海を可能なちしめ,いわゆる「地理 上の大発見」の時代が始つた。それ以後は東洋と西洋との関係にいちじるしい変化が生ず

ることになった。もはや二つ.の世界は各々別の運命をたどることは許されなくなった。と くに東洋諸国にとっていちじるしい運命の変化が生じた。

 1486年にはアフリカの南端の喜望峰(cape of good hope)が発見され,ポルトガル人 のヴアスコ。ダ・ガマVasco da Gama(1469頃一1524)によるインド航路の発見は,東 洋の運命に大変化をひき起す第一歩であったと言ってよい。彼は1497年7月9日にリスボ

ン港を4隻の帆船隊をひきいて出帆し,喜望峰を迂回して,アフリカ東海岸に達した。そ

(2)

こからさらにインド洋を;構断して翌年の1498年5月20日にインドのアラバル海岸のカリカ ットに到着した。彼の航海の目的は,ポルトガル王エマヌエルー世およびエンリケの遺志 をついで,インドにいたる航路発見にあった。また同じくポルトガル人のフエルジナンド

・マゼランFerdinahd Magellan(1480頃一1521)による世界一周の完成は単に地球が 円形であることを実証したのみならず,東方から太平洋横断によるアジア大陸への航海の 可能性を実証したものである。マゼランは,西洋からモルッカ諸島に到達する計画をたて,

スペインのカルロス一世の援助をうけ,5隻の帆船と270人の隊員をびきいて,1519年9 月20日に,スペインのサンルカル港を出帆した。彼は南米大陸の南端の後で彼の名をとっ てマゼラン海峡と呼ばれるようになった海峡を超え,さちに進路を北西に.とうて太平洋を 横断し,翌年の1520年の3月にブイリピン群島に到達した。その群島中のセブ島に4月7 日に上陸したが,マクタン島で土民と戦って,おしくも戦死しだ。・従って彼自らが人類最 初の世界一周の壮挙を完成することはできなかったが,残りの隊員によってその壮挙は完 成された。最初の航海の目的であったモルッカ群島を経て,残りの隊員が出発港のサンル カル港に帰着したのは,1522年9月であった。帰港できだのは5隻中わずかに1隻で,隊 員18名であった。これは地球が球形であることを実証しだだけでなぐ,ブメリカ大陸がア

ジアとは別個の独立した大陸であることをヨーロッパ全体に知らしめた。

 さらにクリストファー・コロンブスChristpher Colufnbus【(1446頃一1506)は1492年 にダ大西洋を横断してサン。サルパ ドル島に到達し新大陸を発見した。これは直接には東 洋とば関係がないようであるが,後代に謁いて西洋人による北米合衆国の建設ダ同国によ

る東洋侵略の基礎をなレたものと言いうる。

以上の出来事は単に地肩学上の発見だけでなく・・世界史9上からは東洋に対する西洋の 優越の第一歩を意味した・これらを契機として西洋人による東洋諸国の侵略・その植民地 化が始づた。.1498年忌ヴアス『。ダ・ガマが喜望峰迂回によるインド航路を発見してから わずかに12年後の1510年には・ポルトガル人はイ.ンドのプアを占領し・アジア侵略ρ根拠 地にした。その後間もなく香料の原産地であるモルッカ諸島を手に入れた。さらに中国の 南方海岸にも侵略の手をのばし,1557年にはマカオを占領した。1543年(天文12)にポル トガル船が種子島に漂着した。ポルトガル船が定期的に長崎に入港するようになったのは 1570年(元亀元)からである。本国は東洋貿易を独占して富強をきわめた。新大陸ではブ ラジルを領有した。首都のリスボンは東洋特産物の集散地として繁栄した。

 スペインに先づアメリカ大陸の方向に侵略の手をのばし,コルテスCortes(1485−1547)

は1521年にメキシコのマーヤ,アズテックを征服した。,ピサロPizaro (1470頃一1541)

は1533年にペルーのインカ帝国を征服し,それを滅亡させた。新大陸では鉱山を開発し多 量の銀を手に入れて富強を極めた。アジアでは1571年にフィリピン諸島を占領し,マニラ

を建設,そこを貿易・布教の根拠地にした。

 アジア侵略に先鞭をつけその繁栄を誇っていたポルトガル。スペイン両国は,略奪,搾

(3)

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史 23

取と主とする植民地経営の失敗により,やがてその地位を後進のオランダ,英,仏に譲ら ねばならなかった。スペインの衰退の第一歩はオランダの独立であった。ブイリップご世 の専制政治に対して不満であったスペイン領ネーデルランドは,オレンジ公ウイリア呑を 首領として1568年に反乱を起した。南部10州は途中でスペインに帰順したが,北部7州は ユトレヒト同盟を結んで抗戦し,1581年に独立を宣言し,ネーデルランド連邦共和国脅建 設した。英国などの新教諸国家の援助があったので,その独立宣言は成功し,1609年に休 戦条約が結ばれ,1648年にスペインもついに独立を承認せぎるをえなかった。第二のつま づきは1588年に「無敵艦隊」 (Armaδa)が英海軍のために撃破されたことである。この ためにスペインはその後制海権を失った。逆に英海軍はそれ以後海上を支配することにな

り,その世界制覇の基礎をつくった。

 ポルトガルはその繁栄を専らアジア植民地の搾取と東洋貿易による独占的利益に依存し ていた。そして国民全体ヵ遡れらの基礎の薄弱な繁栄に酔い,堅実な経済其他の国家の発 展に必要な各種の建設を放任して全く顧みなかった。従って,一度アジアの植民地を失い,

東洋貿易の独占的地位を奪われると共に急速に衰退の運命に陥った。

  ニ オランダの擁頭

 ポルトガルに代って,次にオランダがアジアの舞台に登場してきた。・オランダは1602年 に株式会社組織の東インド会社を創立しアジアに進出する第ゴ歩を固めた。その後間もな く1605年にオランダは,アンボイナを占領しアジア侵略に着手した。次いで,1619年には バダヴイアを占領し,総督をおいた。そこを根拠地としてポルトガルに代って東洋貿易の 独占を企てた。さらにその中継地として,アフリカ大陸の南端にケープ植民地を建設した。

アジアのみならず新大陸の支配にも着手し,北米東海岸にニューネーデルランド植民地を 開きニュー・アムステルダム市(後のニュー・ヨーク)を建設した。

 オランダがアジアだけでなく,新大陸にまで進出した大要は以上の通りであるが,長崎 について見るも先づ第一に我国の外国貿易を独占したのは,他のアジア地方におけると同 様にポルトガル人であった。ついでポルトガル人に代ってオランダ人が登場して来た。元 亀元年(1570)にポルトガル人が定期船を長崎に入港させるように定められた。それ以来,

長崎の貿易は毎年盛んになり,居留民の数も増加した。しかしその頃は貿易について多く の設備や制度がきわめて不完全であった。船の入港中は,彼等は船内に居住し或は上陸し て市中の民家に散宿していた。その当時,貿易品の取引媒介者は,手数料として取引価格 の3分の1を取得する慣行があったから,市民は争ってポルトガル人を自宅に宿泊させて,

その利益に与ろうとした。そのために天主教は盛んになったが,他面において混血児の増

加となって種々厄介な問題が生じた。ポルトガル人の中には資力が不充分で,我国の富裕

な商人達から,外国商晶の仕入の委託をうけ,その聞に利益を収めた者も多かった。しか

し中には仕入用の前渡金を費消したために,やむをえず,乙の委託金で甲の註文品を仕入

(4)

れ,さらに丙の委託金で乙に対する契約を果すようなやりくりで,一時を糊塗する者がで きた。それが暴露して,我商人等は前渡金の返還を要求した。もとより資力のない者であ るから,返済の目途は立たず,彼我の聞に紛争が生ずることが多かった。

 右のような弊害を除くには,ポルトガル人と邦人との交際を絶つ必要があるので,幕府 は1634年(寛永1Dに長崎奉行に命じて,内外人の同居を禁じ,同時に人家をはなれたと ころを選定して,館を建て,ここにポルトガル人を集団的に居住するようにした。この時,

長崎の町人のうち25人は右の趣旨に従って,奉行の許可をえて,自費で江戸町向側の海面 を埋立て,扇形の地形を築立てたρ総坪数は3,969坪である。1636年(寛永13)に完成し たので,船住い並に市中に散宿していたポルトガル人を全部ここに移住させた。これを出 島と、称した。海面に突出した人工の島である。しかし1638年(寛永15)2月に島原の乱が 平定された後は幕府はキリシタン宗を厳禁し,翌1639年(寛永16)7月には,ポルトガル 船の来航を厳禁し,出島居住のポルトガル人はすべて帰国させた。かくて出島は空家とな

り1長崎の市況は次第に淋れて行ったので,幕府は市民の請願を入れ,1641年(寛永18)

に平戸のオランダ商館を出島に移した。それ以後,幕末にいたるまで,オランダは清国と 共に我国の対外貿易の独占的地位をえた。オランダは新教国であって,キリシタン宗を布 教しないというのほ表面的な理由にすぎないのであって,ポルトガルの地位を奪おうとす るオランダの執ような陰謀が根底に伏在していたことを認めねばならない。長崎の出島蘭 館の商館長は甲比丹(:Kapitein)と呼ばれていた。征はオランダのアルステルダムに本店 を有する連合オランダ東印度会社 (Vereenigde:Nederlandsche OsMndische Compa gnie)の長崎支店長にほかならないが,同時に彼は外交上重要な立場にあって・駐日オラ

ンダ大使の役目をもかねていた。

 オランダの東インド会社が設立されたのは1602年(慶長7)であるが,それより以前に オランダ船はすでにアジアに進出していた。1600年(慶長5年3月)4月に,蘭船一隻が 豊後の海岸に漂着した。航海長のウィリアム・アダムスは・大阪で家康に拝謁した・これ が蘭船が我国に到達した最初9出来事であるが・平戸にオランダ商館が開設されたのは・

それから9年後の1609年(慶長14)である。初代の商館長はヤック・スペックスであった。

幕府によってポルトガル人が長崎の出島から退去させられた後にオランダ人が平戸から出 島に移ったことは,さきに述べた通りである。

三 オランダと英国との争覇・航海条例

 以上は長崎を一例として,オランダ人のアジア進出の過程をかえりみたのである。アジ アと欧州との伸介貿易の利潤と毛織物の輸出によって・アムステルダムは繁栄し・17世紀 の前半を通じて,世界商業の中心になった。しかし・次のような事情によって英国にその 地位を譲らねばならなくなった。国内的には大商人階級の勢力が強く,都市貴族(patriz−

iat)が地方分権を主張したために,強力な中央集権国家が成立しなかった。そのために重

(5)

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史

塗5

商主義(mercantilism)時代に富国強兵策が充分行われず,列強に伍して立ちおくれた。

国内の毛織物工業その他諸工業の育成,保護政策が不充分であった。対外的には,富国強 兵策が弱かった結果として,強力な海軍力をもたず,英国との海上の覇権争いに敗北した。

クロムウェルCromwell(1599−1658)とチャールズ2世 (英王1660−85)の航海条例

(1650,51,60,63)は,主としてオランダ人を国際貿易かち締め出すことによって,オラ ンダの海外貿易に打撃を与えることを目的として出されたものである。

 それらの各種の航海条例の内容は,次のように要約できる。

 e 英本国と英領植民地の輸出入に関する海運は,英国船又は植民地船に限る。

 口 植民地の輸出入は,すべて本国の工業発展と本国海運に有利なように統制すること を規定。その一として列挙晶(enumerated commodities)の制度がある。植民地特産 或は重要産物である砂糖,たばこ,棉花,染料用樹木,タール,ピッチ,マスト,帆桁等 の船舶用品,米,銅,毛皮,銑鉄,木材など即ちこれらの列挙品は,英本国へのみ輸出を 許される。

 この航海条例の要点は,英国および英国の植民地に輸入される商品は,英国船か英国の 植民地船に限って輸入することを許されるというのである。但し欧洲大陸の各国で生産さ幽 れた商品の英国への輸入は,英国船か或はその的弓の産出国の船に限るとされた。オラン ダの貿易は仲介貿易を主としていたもので,自国の産物を輸出するのが目的ではなからた。

従って,英国船か産出国の船に限ることになれば,広大な植民地をアジア,アフリカ及び アメリカの各地に有する英国に対するオランダの貿易は全く中止されて了うことになる。

また英領植民地間の仲介貿易についてもオランダ船は全く介入できないことになる。オラ ンダの外国貿易にとっては全く死活問題であった。逆に英国船の通商には非常に有利にな る。この条例発布の結果,オランダと英国との聞に長年にわたる戦争がひき起されたのは,

やむをえない成行であった。即ち,この航海条例は1652年から1674年にわたってのオラシ ダ・イギリス戦争の原因になった。この戦争は右の期間内に三回にわたって行われた。

1672年には第三回目の戦争が始まった。戦争は英国の優勢のうちに進んだが,議会の反戦 策と財政困難のために,1674年にオランダと和睦した。しかしオランダはこの戦争の結果,

制海権を失った。そして,従来保持していた海運。貿易における世界的覇権は,英国によ

って打破された。次の世紀の1799年にいたって,オランダ東インド会社は破産して,解散

するのやむなきにいたった。それ以後,オランダに代って,アジアのみならず世界におけ

る英国の植民地支配の覇権が確立した。この戦争の結果の一として,オランダ領ニューア

ムステルダムは英領となり,ニューヨークと改称された。

(6)

四 英国の海外発展ぺの基礎

 オランダについで,東亜の天:地に登場してきたのは英国であるが,それまでの道は英国 にとって平坦ではなかった。英国は14世紀までは,安政6年(1859)に開国した当時の我 国と同様に,英国の北方諸都市とスカンジナビア諸国との間の貿易を除けば,外国貿易は 殆んどすべて外国人によって行われて来た。その頃までは英国の商人は輸出入貿易につい て,欧州大陸の諸都市にまで進出するだけの企業心や資本をもっていなかった。フランダ ース,フランス,ドイツ,イタリー及びスペインの諸都市から,商人達が貿易のために英 国に渡来して来た。それらの中でとくに有力であったのは,イタリー商人(tbe Lombar−

ds)とドイツの北方海岸のリューベックを盟主とするハンザ同盟の商人(the:Hansards)

であった。

 彼等は14・15世紀の英国の外国貿易の大部分を支配していた。ハンザ同盟の商人達は,.

英国王から,彼等に居留地として与えられたSteel Yardに住んでいた。彼等のロンド ンにおける居留地は,右のSteel Yardのほか, Gildhall of the Dutぬ, Easterlings・

耳ouseの名称で知られていた。彼等がそこに住むようになったのは,1320年以来であるが その居留地の実際の所有者になったのは,1475年に市会(the city counci1)が,それを 彼らに譲渡してからである。このスチール,ヤードはロンドンに限らず,ボストン・リ.一 ンにも設けられた。このスチール、・ヤードの開設によって,英国では居留地貿易時代が始 まったということができる。

 しかし英国商人もその間に無為であったわけではなく,次第に海外進出の準備をすすめ つつあった。 1313年以来のステープル商人 (merchant of the Staple, the mer曲ant Staplers)や冒険商人(merchant adve郎urers)の制度などによって,積極的に外国貿 易に進出するようになった。冒険商人の起源は,ロンドンの呉服商人のギルドで搾St. Th−

omas of Canterburyという団体であった。それはすでに13世紀にまだ加工しない毛織 物をフランダース地方に輸出する特権をもっていた。その後ドイツ地方やスカンジナビア 地方を輸出先とするものが参加し,それぞれ国王から特許をえて公然たる団体になった。

その間ハンザ同盟やステープル商人のはげしい反対をうけたが,冒険商人は益々発展した。

1505年にはヘンリー七二から1人の総裁(90vemor)1と24人の理事(assistants)をもつ 自治的会社であることを認可された。その後冒険商人は規制会社(regulate company)

としての組織をもつようになった。16世紀の後半に入ってからは,次のような各種の会社 が活躍しはじめた。1554年設立のRussia Co。又は1577年にスペインとポルトガルとの貿 易を目的として設立されたSpanish Co。1579年にパルテック沿岸諸国との貿易を目的と するEastland Co。1581年にトルコ,シリア,アジア地方との貿易を目的とするLeva−

nt Co・などが活躍しはじめた。

 以上の会社はRussia Co。を除いては,すべて規制会社であった。 これらの規制会社

(7)

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史

馨喚

は,『merchant adventuresの会社と同様に,すべての加入者の利益を目的とする一般 的規約の下に結合され, しかも各誌自己の計算において共通の貿易に従事する商人の団体

をいうのであって,株式会社の前身ともいうべき会社であった。この規制会社の活動範囲 は大体ヨーロッパに限られていたが,16・17世紀に入ってからは,英国の商人はその活動 範囲を欧州以外の諸大陸にひろげた。この段階の貿易では,一そう大なる資本を必要とす るので,広く株式を募集し,且つ共同の計算において行われねばならなかった。最初の聞 は,一航海毎に株式を公募し,航海を終った後,直ちに出資額を返済し,,出来高に応じて 利益を分配する方法によった。かかる方法で貿易を行った最初の例は1553年のRussia Co・

及び同年のAfrica Co。である。 Russia Co.はインドに達する北東航路或は北部イ・ンド の発見を目的として設立されたもので,1553年にロン、ドン商人の出資をえて,三隻の探険 船を派遣した。その中2隻は北氷洋で遭難して行方不囲となり,残の一隻がモスコウ北方 の海岸に漂着した。その乗組員達が陸路モスコウに達し, ロシアどの通商の約をえて,英 国に帰還した。1555年にはこの会社は対露貿易の独占を認可された。アフリカ会社は最初 は個人的のものであったが,1553年にロンドン商人の出資で,アフリカのギニア(Guinea)

に貿易船を送ってから後は,しばしば株式組織による航海を行い,エリザベス女王もその 出資者の一人になった。・その後アフリカ貿易は一且衰えたが,1588年には,その貿易の独 占を許された一会社が成立され,17世紀に入うてからは,各種のアフリカ会社が設立され た。17世紀の前半には,アフリカは金,象牙,染料用樹木などの供給地として重要であっ たが,それ以後はむじろ西インド諸島やアメリカ合衆国への奴隷の供給地として重要にな った。奴隷貿易に活躍したアフリカ会社には次の二つがある。The Govemor and Coln・

paHy of the Royal Adventurers of Englanδtradiny into Africa:(1662−1672)

The Royal Africa∬Co.of Engla凱d(1672−182D

五 英国の東インド会社とインド支配の過程

 英国は大体において,以上の過程をへて世界征覇への地歩をきついたのであるが,東南 アジア侵略の最も重要な役割を演じたのが,1600年に設立された東インド会社(The Ea st India Co.)である。またこの会社は株式組織による貿易会社として重要な意味をもっ ている。この会社は喜望峰をまわってインドに達する通商路を開かんがために創立され,

1599年9月の創立総会の当日には,第一回の航海のために101人が30,000ポンド余を出資 した。 翌1600年12月31日にエリザベス女王によってThe Governor and Company of Merchants of London trading into the East lndiesとして設立を許可された。その 時の株主は212名であり,1601年の第一回航海の時の公称資本金は,68,373ポンドであっ た。1604年には第2回の航海が行われ,引つづき1613年までに12回の個別的資本による個 々独立の航海が行われた。即ち,一航海毎に新しく資本金を募集し,その航海が終る度に,

解散して,利益金を出資高に応じて分配した。

(8)

 1613年以後は,各航海を区別することなく,継続的な事業,即ち数回の航海のために株 式を募集し,これから得られる利益を定期的に株主に配当することにした。ここに大体に おいて近世的株式会社組織の形式を備えるようになった。即ち,1613年に募集された資本 は1618年までの4航海に共通のものであり,『これをThe:First Joint Stock 1613と称し

た。

ワた1617年に募集されたものは,1633年までの7航海に共通のものであり,これを

The Second Joint Stock 1617と称した。なおしばらくこの形式がっついた。この会社 が全く永続的な性質をもつようになったのは,1657年以後である。それ以後1709年までの 分をThe New General Stock,1657−1709と称した。 このほか株式会社として有名な のは1670年に設立されたハドソン湾会社(The Hudson s Bay Co.)がある。 Pilgrims

:Fathers即ち,英国の清教徒の一団,102人が最初に北米のプリマスに植民したのは1620 年であるが,その後50年を経て,カナダにも英国人が植民するようになった。

 英国の東インド会社は,株式会社組織として発達し,株式会社発展史上に重要な意味を もっているが,『その最も重要な歴史的意義は英国の東南アジア侵略の最大の拠点となった ごとである。オランダが英国との競争に敗れた後,オランダ東インド会社は次第に勢力を 失い,1799年(寛政11)には破産して解散した。それに代って英国の東インド会社が東亜

アジアで大きな支配的勢力を振う、ようになった。1600年にエリザベス女王によって設立を 認可きれた後め発展過程の大要はbさきに述べた通りであるが,その発展と共に次第にイ

ンドの支配を強化した。

 東インド会社によるインド支配については,クライブR・Clive(1725−74)が最も決定 的な活動をした。彼の活躍によって,英国はインドからフランスの勢力を駆逐し,その支 配権,統治権を確立した。彼は1744年に東インド会社の書記としてインドにおもむいた。

その当時英,仏両国はインドで覇を争っていたが,フランスから派遺されているインド総督 デュプレクスDupleix(1697−1763)の活躍によってイギリス側は圧迫され,英国が領有 していたマドラスを奪われた。デユプレクスはインド生まれの婦人を妻としてインドの事 情に精通し,夫妻協力してフランスのインド領有の確保に努力し,土着酋長間の事件に干 渉してフランス勢力の拡大を図った。1639年以来英国が領有していたマドラスを1746年に 英国から奪った後は,非凡の手腕を振って,英国人の勢力を掃蕩し,一時インドはフラン スの勢力下に帰そうとした・そこで英国政府はこれに対抗するために・クライブにインド の経営を委ねた。クライブは1746年にマドラス陥落の際,他所へ敗走した。48年には傭 兵隊の将校になり,50余日にわたるアルコット籠城に耐えて武勇をあらわし,逆にフラン ス軍に大打撃を与えた。53年に一旦帰国したが翌々年に再びインドに渡航し,St。 David 要塞総督になった。1756年にカルカッタに有名な暗穴事件が起ったので,磨懲軍司令官に なり,57年にカルカッタ,フーグリ,シヤンデルナゴルを占領した。ついでその融く1757)

にプラッシー(Plassey) (カルカッタの北方)の会戦で,英国軍隊1,000人,原住民軍

2,000人をひきいて,ベルガル副王およびフランスの連合軍68,000人を撃破した。この戦

(9)

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史 29

勝によってインドにおける英国の支配権は確立し,インドにおける英国の帝国主義的侵略 の基礎がつくられた。クライブは1758−60年間初代ベンガル知事になり,その後帰国し てBaron(男爵)をジョージ三世かち授けられた。

 このプラッシーの戦のときには,デユプレクスは1754年にフランス政府か、ら召還さ.れて 帰国していた。彼が不在であったことは,フランス軍にとって極めて不利でありダフラン ス.の植民地経営にとってはなはだ不運であったというべぎである。デユ・プレクスの遠大な インド植民地経営政策はこの敗戦以後,水泡に帰し,フランスのインド植民地領有政策は 全く挫折した。フランスめ東インド会社は1796年に解散した。

六 英仏の争覇戦と英国の勝因

 フランスは英国の東インド会社とほぼ同じ時期の1604年に東インド会社を設立した。フ ランスは1泄紀の前半にはカナダ大陸の方に進出していたが,インド方面に這ったのは,

1664年即ち,ルイ14世(1643−1715在位)時代に,宰相コルベ・一ルColbert(1619−83)「

が,東インド会社を再組織してから後である。コルベールの重商主義政策により,積極的 に植民地獲得に進出し,インドでは1672年にボンデイシエリーを,その翌年にシャンデル ナゴルを領有した。また北米大陸ではセント・ローレンス川をさかのぼり・,1608年にケベ ック市を建設した。また1642年にはモントリオール市を建設した。その後ルイ14世時代に はミシシッピ川流域を踏査し,1682年にはこの広大な地域を手に入れ,王の名にちなんで ルイジアナ(:Louisiana)と名づけた。

 英,仏両国はそれぞれほぼ同じ時;期にインドと北米大陸での植民地領有に進出していた が,そこに両国間にはげしい覇権獲i得のための争斗が起るのは,避けられない運命にあっ た。インドの場合はさきに述べた事情により,英軍と戦って敗退したがかナダ大陸におい ても,フレンチ。インディアン戦争(1755−63)のときに,英軍のために1759年にケベッ クを占領され,、↑760年にはモントリオールも英軍に降服した。,ついに仏領カナダを失った。

要するに英仏ご国の植民地争奪戦ば,インドにおいても,アメリカ大陸においても英国の 勝利に帰した。フレンチ。インディアン戦争というのは,北米における英仏聞の植民地7 年戦争の別名である。

 英,仏間の植民地争奪戦の結末は,1763年締結のパリ条約によって,英国の圧倒的な勝 利が確認された。この条約によってフランスは植民地の大部分を失った。それは次の3に 要約できる。

 (1)フランスのインド植民地は英国領となる。

 (2)英国は,北米大陸のカナダ,ルイジアナ(ミシシッピ川以東),その他のフランス   植民地を獲i得。

 (3)英国はスペイン領フロリダを獲得,その代償としてミシシッピ川以西の仏領ルイジ

  アナをスペインに与える。

(10)

 英仏間の抗争は1763年のパリ条約で終ったわけではなく,その後もアメリカ独立戦争(

1775−83)フランス革命(1789−99)ナポレオン戦争(1799−1815)までつついた。

 英仏間の植民帝国建設の争覇戦において,英国が勝利を収めた根本原因は,英国は常に 一貫した植民帝国建設政策を堅持し,それに徹底して居たことである。フランスはその政 策に徹底した態度を欠いていた。英国のクライヴと争って,インドにおける覇権の帰属を 決定しようという重大な時局に,それまでインド征服に大功のあったデユプレクスを本国 に召還していたことなど,フランスの植民地政策に徹底した態度を欠いていた1事例であ る。また欧州の7年戦役などにまきこまれて,それと同時に起ったカナダでの植民:地戦争 を充分にかえりみる余裕がなかったことが考えられる。その争覇はすでに18世紀初頭のス ペイン継承戦役G701−14)に始まっていた。スペイン継承戦役は,スペイン王位の継承 周題について,ルイ14世がドイツ皇帝であるパプスブルグ家と権利を争ったことに始まる。

1700年にスペイン王チャールズ2世が没し,遺言によってルイ14世の孫ブイリッフ.5世が 即位したが,独帝レオポルド1世は,かねてその子チャールズをスペイン王になそうとの

・野心があったために,英国・オーストリア・オランダ諸国と連祝してフランスに抗議し,

・ごこでフランス対列国同盟の戦争が開かれた。戦争は↑0余年にわたり多く三軍の不利に帰 したが, 独話の子チャールズはその間にドイツ皇帝となり,また独帝の勢力増大をおそれ る意見も行われて,連合側の結束も乱れ,ついに1713年にユトレヒトUtrecht和約が成 立した。その結果,ルイ14世の孫ブイリップは,島西を合併しない条件の下にスペイン王 たることが承認された。・

 この戦役の原因は,ルイ14世の帝国主義的活動が盛になって,当時欧州第一の国威と国 力とを備えつつあったことに対して,勢力均衡をはかろうとする当時のヨーロッパ列国が,

殆んど全欧をあげて連合してルイコ4世に敵対したことにある。しかし連盟の指導的立場を とったのはゴ ドイツやスペインのハプスブルク家ではなくて,・英国王ウィリアム3世であ

.つた。それはこの戦役のもっと深い原因として,層英国の帝国主義的発展の覇権を把握しよ

.うとする野心があったことを意味している。彼は欧州においてルイ14世の勢力を打破する ことによって,植民地争奪戦においてもフランスの勢力を打破しようと考えたからである。

この戦役は欧州で戦われると同時にその一環として北米の植民地でも英。仏との間で戦わ れた。これはアン女王戦争(在位1702−13)と言われる。フランス側にスペインが参加し たが英軍の勝利に帰した。ユトレヒト条約(1713)の結果,英国は(1)フランスから,カナ ダ植民地の一部 (ハドソン湾地方,ニューファウンドランド,アカデイア)と(2)スペイン からジブラルタルとミノルカ島を獲i得した。

 英国の植民帝国制覇政策は,・その後7年戦役(1756−63)を通じてもおしすすめられた。

この戦役は,オーストリア継承戦役(1740−48)によって,プロシアから武力で強引に領

土(シレジア)を奪取されたオーストリアのプロシアに対する報復戦である。プロシアの

7レデリγク大手(フリードリζ2堆)はオーストリアの君主継承問題が紛糾レて,戦煙

(11)

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史

31

がまさに動かんとするのを見て,1740年にオースタリー領のシレジアに侵入して,これを 占領した。これが発端となってオーストリア継承戦役が起った。その後いろいろのいきさ つがあったが,結局1748年に継承戦役は終り,アーヘン講和の結果,プロシアのシレジア 領有が確定した。そのためにプロシアは・その領土の3分の1・人口の2分の1を増加し た。他方,オーストリアの方から見れば,まさに大なる屈辱であって,他日報復の機をね

らうのは当然である。

 7年戦役(1756−63)においては,オーストリアのマリア。テレジアはロシア,フラン ス,スエーデンの援助を受けて,プロシアのフレデリック大王と戦った。英国はプμシア に軍資金を送って援助しただけで,欧州の動乱には傍観的態度をとり, もっぱらその主力 を新大陸とインドにおけるフランス軍との戦に注いだ。フランスが欧州の動乱にまきこま れている間に,植民帝国争覇戦において決定的な勝利を収めようとする作戦であった。こ の政策は図にあたり,さきにのべたように,インドにおいては,1757年のプラッシーの戦 で,英国軍はフランスとベンガル二王の連合軍を撃破して,英国のインドにおけ「 髞e権を 確立した。またカナダでは1755年から63年忌わたる英,仏間の植民:地7年戦争(フレンチ

・インディアン戦争)で,英国軍の勝利となり,北米及びカナダ大陸における英国の優位 を決定した。

 7年戦役においては,プロシャは独力でオーストリヤ,フランス,ロシア,スエーデン の強国と戦った。あたかもスペイン継承戦役でルイ14世が,全欧を相手にして勝ったのと 似ている。何れも強大国の出現を阻止しようとする欧州の伝統的な勢力均衡策のあらわれ である。フ。ロシアはフレデリック大王の抜群の戦略によって,7年間その戦斗を支えた。

しかしロシアにペートル3世が立って急にプロシアに加担し,またフランスと英国と停戦 して撤兵したために,ついに1763年にフベルツスブルク条約がプロシアと二目スタリアと の間に成立した。その条約では次のように定められた。

 (1)フ。ロシヤのシレジアの領有を再確認する。

 (2)マリア。テセジアの子ヨゼフ2世を神聖ローマ皇帝とする。

 この7年戦役によって,プロシャは単にシレジアを獲i得することができただけで,領土 を拡大することはできなかったが,その後プロシャは欧州の一流国としてその国際的地位 を高め,ドイツ連邦に対するプロシャの威望を大にした。

 英国の東南アジア侵略史上,逸することができないのは,ラッフルズSir T.S.Raffles

(1781−1826)の名である。彼は東インド会社の見習書記となり1805年にペナンに派遺さ

れた。勤務のかたわら同地方の言語,民族,社会,歴史を研究した。オランダがフランス

とオースタリーとの間に締結された1797年のカンポ・フオルミオ条約によって,ナポレオ

ン1世の手中に帰した間隙に乗じ,英領インド総督ミントを動かして,旧領ジヤヴアを占

領し,1811年に副総督になった。1816年までの在任中庶政の改革を行った。また彼は我国

まで進出をはかり,出島蘭館の奪取を企てたが成功しなかったことは有名である。1817年

(12)

か.ら23年まで,スマトラのベンクレンの知事になった。その聞シンガポールの重要性を認 めて,東インド会社を説いて,1819年にそこを占領した。これは東南アジアにおける交通 上の重要地点であって,英国はここを根拠地として,東南アジア侵略にさかんに活躍した。

シンガポール市は彼の力によって建設され,英領海峡植民地の首府となってから急速な発 展をとげた。彼は東南アジアに在任中,東南アジア全般にわたる歴史,風俗,動植物の標 本人種,土俗学などの資料の巨大な蒐集に努めた。シンガポールには現在彼の名を冠し お博物館があって,その方面の世界的なコレクションとして有名である。

・七 19世紀における植民地占領の方式における17・18世紀型と1・9世紀型

 18世紀までの欧州列強の東南アジア植民地占領の方式は,大体において以上に述べた通 りであるが,19世紀に入るとその方式は一変した。19世紀の初頭以後,蒸気船の発明によ って交通機関の大革命がもたらされた。フルトンR.Fu4tonが,ハドソン川にはじめて,

外輪蒸気船Clermont号を走らせたのは1807年であるが,それ以後,蒸気船は欧米の先 進諸国家の間に急速に普及した。1838年には汽船で,大西洋を15日間で航海できるように

なった。また1869年にスエズ運河の開通以後は,欧州と東南アジアの距離をいちじるしく 短縮した。それまでは,欧州から東亜アジアに達するには,海路,喜望峰迂回による方法

.だ1勉咬通路であったと評して過言ではない・シルク。ロードによる交通はその道路の性 質上,微々たるものにすぎなかった。帆前船による喜望峰迂回の場合には,季節風を利用 一しなければならないので,年に一往復に限られていた。帆船隊によって,数隻或は10数隻 の船団を組んで往復するのであるが,海難の危険も多かった。ポルトガル船が往復してい た頃は,毎航海10〜20パーセントの船が難破していたといわれる。1513年にフィレンツェ の一商人が,ポルトガル国王の特許をえて,4隻の船をインドに送り,そのうち3隻を失

って,わずかに一隻のみがリスボンに帰着したというような,はなはだしい例もあった。

かかる海難にもかかわらず,その当時東方との貿易は利益多く・響巨大な富を欧州にもたら

した。

 帆前船時代は,船の大きさ,速度,航海度数等に重要な制限があり,海難の危険も大であ

.つた。またスエズ運河開通前は地理的にはなはだしい距離を往復しなければならなかった。

かかる時代にあっては,東南アジア:地方は,欧州諸国にとって,「極東」Far Eastにす

ぎなかった。東南亜への航海は一つの冒険であり,植民地の占領は冒険家の幸運な冒険事

業の成功であったといわねばならない。従って18世紀の虚血までは,国家が大艦隊と多数

の兵員を送って,広大な地域を一挙に占領し,直接に領土として支配することはできなか

った。各国共,東インド会社という一貿易商社に,政府から貿易独占権と各種の補助を与

えて,東亜アジアの各地に進出させ,海岸地方の一拠点を先づ占領させ,それを拠点とし

て次第に侵略の歩を進めて行くという万式をζるほかはなかった9占領地:域が点と線を主

体とレていた?

(13)

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史 33

 蒸気船の利用によって,季節風に関係なく,何時でも欲する時に,何処にでも航海でき るようになった。18世紀の末葉以来,製鉄業における各種の画期的発明は,鉄鋼の生産を 飛躍的に増大し,鋼鉄船の建造が可能となり,木造船を駆逐するようになった。そこで海 難の危険がほとんど全くなくなった上に,船型も大形化し,大量の物資,軍需品と莫大な 数の兵員の輸送が可能になった。また各種の火器の進歩と兵員の増加によって一挙に巨大 な地域を占領することを可能ならしめた。

 19世紀に入ると,東南アジアは,もはや欧州諸国にとって極東ではなくなった。容易に 手のとどく「近東」Near Eastになった。したがって,東亜アジアの植民地の運命は直 接に本国の運命を直接に左右するものになった。ここにおいてはもはや植民地の経営を一 会社企業に委ねることはできなくなった。各国の東インド会社は,その歴史的役割を果す とともに,解散され,植民地は本国から直接に派遺された総督の統治によって支配される ようになった。もはや東インド会社時代の点と線の占領ではなくて,本国政府と被占領地 域の国王との間の領土割譲条約によって譲渡された巨大な地域を占める直接の領土になっ た。かってのフランスとカンボジヤとの間のように形式上は保護国条約であっても実質は,

領土割譲と大差のないものもあった。ここにおいて,もはや植民地統治の質的変化がとげ られたということができるであろう。この間の事情を英国のインド統治およびフランスの ベトナム支配について見る。

八19世紀型一英国とインド

 英国の東インド会社は,オランダやフランスの東インド会社と同様に,本来は貿易を目 的として設立されたが,1757年のプラッシーでの戦勝の後は積極的にインドの経営に進出 した。ベンガル地方の徴税権,行政権を獲得するなど政治的性格を強くしたので,1773年 に本国政府は,東インド会社の統治行政をその監督下においた。がくて東インド会社は統 治機関に変化した。東インド会社の行政については,ヘースチングスHastings(1732−

1818)の事績を没することはできない。彼は1750年に東インド会社の書記としてインドに 赴任した。インドではクライブの指導を受けた。1761年から64年までカルカッタ参事会員 となり,一一旦帰国した。しかし再びインドに戻り,1772年にはベンガル州知事になり,税 制と法制に大改革を加えた。即ち1773年以後はベンガル州知事はベンガル総督と改称され

たので,彼は初代総督になり,インド統治に関する服i務条例を制定して,三斜集権の強化 をはかった。ベンガル総督の名称は,19世紀に入ってから,即ち1833年には領土がいちじ るしく拡大されたので,インド総督と改称された。彼は1785年まで総督として在任したが,

その間,素干した東インド会社の財政を整理したのみならず,第一次マラータ(Maratha)

戦争(1775−82)及び第一次マイソール(Mysor)戦争(1780−85)によって,南インド まで領土を拡大し,11年問の統治の間に,英領インドの基礎を築いた。

 19世紀に入ると・英国のインド征服は着々拡大されて行った9ヘースチングスのあとを

(14)

ついで,第2次(1803−5),第3次(1817−19)マラータ戦争で当時全インドに覇をと なえていたマラータ族を敗り,さらにネパール戦争(1815−16)で,ネパーールの一部を獲 得して,19世紀の中頃までには,インドの大部分を領有した。マラータ族はインドのデッ ヵン西部,西ガッツ山系を中心とする種族である。性質は勇敢でマラータ語を用い,ヒン ヅー教を信仰する。18世紀からムガール(Mug無a1)帝国の衰勢に乗じて,ほとんど全イ ンドを支配していた。

 全インドの大半を支配し,統治するようになると,もはや東インド会社という一企業の 独占的経営に委ねることができなくなったのは当然である。広大なインド大陸の大部分に わたっての統治は,もはや一会社の手にあまることは明白である。従って,19世紀に入る と全インドに対して,本国政府の直接的統治の下に,総督政治を施行するという統治の方 式を決定した。

 インドの民族もかかる統治に黙従したわけではない。1857年にインド最初の反英独立戦 争であるセポイ(Sep◎y)の反乱が勃発した。セポイとは東インド会社のインド人傭兵の 意味である。同年5月にセポイが武装反乱を起して,デリーを占領し,ムガール帝国の復 活を唱えた。反乱は各地に拡大し,農民も合流して,その勢は盛んであった。しかし9月 には英軍はデリーを反乱軍の手からとりもどし,ムガール皇帝を捕えて退位させた。ここ にムガール帝国は滅亡した。これを好機として,英国はその翌年の1858年には東インド会 社を解散させ,インドを直接支配下においた。

 1899年にはインド帝国を建てて,本国の直轄とし,ヴ・fクトリァVictoria女王(在位 1837−1901)が,インド皇帝を兼ね,またインド事務大臣 (Secretary for India)は本 国政府の一員として内閣に列した。インドには総督を派遣して統治の任にあたらせた。

九19世紀型一.フランスとベトナム

 フランスはインドおよび北米大陸における英国との植民帝国争覇戦において,苦杯をな めさせられたことは,以上に記述した通りであるが,フランスの植民帝国建設の野望は二 階を中心とするインドシナに向けられた。ここは東南アジアにおいて,その頃まで東南ア ジアでとり残されていた資源豊富な広大な地域をもつ,垂誕おくあたわぎる好餌であらた。

北米大陸とインドで敗退したフランスが最後の拠点として,その征服に主力を傾けたのは 必然的な成行であった。

 フランスの安南征服の過程も19世紀以前と以後とでは,かなり異った様相を示している。

 デユフ.レタス(1697−1763)は,彼がインド侵略に着手以前にすでに18世紀の初野から

安南に着目して,そこに侵略の歩をすすめようと計画したが,その頃フランスの東インド

会社は安南に対して積極的でなかった。そのために,彼の計画は実現しなかった。そこで

彼はインドに渡ってインドで活躍した。しかし彼の野心は,アドランAdran大司教の名

によって知られるピニヨ。ド・ベエヌPigneau de Behaine (1741−79)によって,

(15)

ベトナム問題前史としての東南アジア植民史 35

ひきつがれ成功した。

 アドラン大司教のやり方は,その頃滅亡に瀕していた南部安南王朝ニユエン(院)家の 若い王子ニユエン・アン(玩福野)を助けて,碧南王朝を復活し,それに恩をきせること によって,フランスの将来の進出に有利な地歩を築こうとするにあった。彼はニユエン。

アンと仏王ルイ16世との間をあっせんして,1787年に第1回の仏安条約を締結させた。こ の条約は攻守同盟であって,フランスはニユエン』アンが野南の国土と主権とを回復する ために,最も有効な方法で援助する代償に,安寧国王はプロ・コンドール島,ツーラン港 およびこれを形成する島々を譲渡し,フランスの交趾支那全体における貿易,商業独占権 を認めることを内容とするものであっπ。

 しかしフランスでは間もなく大革命が勃発したために,フランス政府はこの約束を実行 できないようになった。そこでアドラン大司教は独力で,商人を糾合し,資金を集め,フ ランス義勇兵を募集し,艦船を購入して,義勇艦隊と軍隊とを編成してインド・シナに帰 り,ニユエン。アン王を助けて,安野の王権を回復した。彼はキノン城を攻略中,1779年 に病没した。彼の死後,その義勇兵はさらにインド。シナの南北を統一して,1802年にニ ユエン・アン王を安南の王位に即かせた。これがユエ(1転化)を王都とする現代の安南王 国の始祖ジヤ・ロン(嘉隆)皇帝である。

 19世紀以前におけるフランスのインドシナにおける植民地経略の方式は,現地の既存の 政権を援助して,統治権を確保させ,先づ恩恵を与えておいて,次第に侵略の地歩を拡大 して行こうという方式であった。アドラン大司教が編成した義勇艦隊といってもまだ帆船 艦隊の時代であり,船の大きさに制限があり,積載力も少く,従って大砲の装備もまだ貧 弱であった時代である。多数の軍隊で,他の援助を借りずに独力で,広大な地域を一挙に 占領することはできなかった。英国のインド征服の初期も同様であった。1787年の第1回 仏子条約に見られるように,この時代までは海岸の一撃或は島々であって,まだ点と線の

占領にすぎなかった。

 しかし19世紀に入ると様相は一変する。産業革命以後,蒸気機関を備えた鋼鉄艦が出現 した。いわゆる蒸気軍艦として帆船時代に比べてはるかに巨大な船型の艦隊が,堂々と東 南アジアの諸勢を威圧するようになった。積載量が増加したために,当時としては巨砲を 里門或は10勢門備えた軍艦の出現となる。軍需品や兵員の輸送力も増し,多数の軍人をの せた巨艦が入港した。

 幕末当時幕府が蘭,英二国から贈呈されたり或は購入した軍艦は9隻であるが,大よそ 700屯から1,000屯を越す鋼鉄艦である。大門も6門ないし12門位を装備している。これ

らの軍艦の建造国は,右の蘭,英のほか,アメリカ,ドイツである。(1)安寧に襲来したフ ランス艦隊もほぼ同時代であるから,これらと同型或はそれ以上の軍艦であったと考えら れる。1853年(嘉永6)に浦賀に入港したペルリ艦隊(東インド艦隊)は4隻であったが,

かかる黒船の入港1あ幕末当時の我国朝野の人々全体に対レて・無言の弦力な威圧を加え

(16)

たことは,いまさら言うまでもない。これと同様の現象が,その当時未開の域を脱してい なかった東南アジアの各地に起ったことは当然である。

 1862年の第2回仏安条約締結の当時にはフランスとスペイン連合艦隊が,安南のツーラ ンや交趾宰那のサイゴンを占領した。この条約によってフランスは安南から,交趾支那の 主要部分を領土として割譲をうけ,各種の重要な独占権をえた。 この条約は後日安南がフ

ランスの保護国となる前提をなすものであった。

 1874年の第3回仏安条約締結のときにも,フランスの砲艦3隻と運送船2隻とが活躍し,

1884年の第4回仏安条約のときには,フランス東洋艦隊(軍艦7隻,運送船7隻)によっ て,安南に武力功撃を加えている。これらの条約によって,交趾支那はフランスの直接領 土,安南,トンキンは保護国になった。カンボジヤとラオスに対するフランスの保護権は 別種のそれぞれの条約によるものである。 (1967.4.20)

(註) (1)山口和雄,幕末貿易史102ページ

参照

関連したドキュメント

強者と弱者として階級化されるジェンダーと民族問題について論じた。明治20年代の日本はアジア

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

を行っている市民の割合は全体の 11.9%と低いものの、 「以前やっていた(9.5%) 」 「機会があれば

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

都調査において、稲わら等のバイオ燃焼については、検出された元素数が少なか

徳川吉宗が飛鳥山に桜を植 樹する(1720年)。その 後、当時禁止されていた酒 宴や仮装が容認され、庶民