印僑問題に関する研究覚書
須 山
卓1 緒 言
華僑を知らずして東南アジアは論じられぬといわれるが、同時に、この同じ地域に居住 している海外インド人の存在も、それに劣らない重要な意味をもっている。それは風刺的 によく言われていることであるが、華僑の歴史的地理的散布の状況を指称して、、海水到る ところに華僑あり、とか、、1本のヤシの木の下には3人の華僑が住んでいる、などとい われているのに対して、インド人の場合は、カラスの飛ばざるところに印僑あり、(where the crows cannot fly you will find a Singh)といわれて華僑同様に、彼らの海外での (註1)
移住生活が歴史的にも、社会経済的にもきわめて根強い実情を表現したものである。ここに 言うシーク族とは、印僑の先駆的商人として、馬具や鞭などの取引きに従事し、多くの金 持ちを輩出しているばかりでなく、社会活動の面でも活発な性格をもっている点でインド 人共通のものとして、ひとまず代表的だということができる。
これら印僑は周知のように、東南アジア諸地域においては、原住民以外にかなりの数に のぼるアジア人の少数グループとして、つまりビルマ、タイ、マレーシア、インドネシ ア、フィリピン、セイロンなどの国々において、中国人とともに彼らの移民が、それぞれの 国のなかに、類似した社会的・政治的問題をかもし出しながら一種の異質的社会を形成し ていることに気付かれるであろう。こうした社会の構成的特質について、東南アジアの研究 者、なかでもオランダの研究者は、しばしば「複合社会Plural Society」または「複合経 (註2)
済Plural Economy」という言葉を用いているが、ここに意味しているアジア人少数グ ループの社会的特質はヨーロッパ人社会と原住民社会との中間に位置することによって、
一方ヨーロッパ人社会に対しては「媒介者」であると同時に、「競争者」として社会経済
的役割を演じ、他方には経済意識薄弱にして、事業的才能に乏しい原住民社会を蚕食し
て、完全に地方経済(10cal economy)を掌握し、原住民から近代世界を遮断してしまう
ような「緩衝器」的な機能がそこに存在していることを示している。事実上、こうした考察と
形態のものに把握される複合社会にあっては、そこでの華僑および印僑の存在が、他との社
会関係において、彼らの果しつつある役割および地位についての評価が、かなり公正さを歪
曲せしめる或る種の要素の介在によって、どうかすると或る問題に火がつけられるような
状況さえ暗示させる場合がある。ここでは、差当ってこうした問題形成の性格と歴史的内容
について、もう少し立ち入った状況について考察してみよう。先づ近代に視点をおく東南ア
ジアのほとんどすべての国の場合は、共通的に植民地或いは従属地域としての地位におか れていたのであり、そしてその時;期に東南アジアは、かってないほど外部の世界、それ自身 急速に変りつつある世界の影響にさらされてきたのであるが、それにもかかわらず、原住 民社会一般がこの大胆で新しい世界の差し出す賞品を争おうとする欲望をほとんど示さな かったところに二重社会の問題が複雑化する根源があるように思われる。つまり、彼らは間 接的に、それぞれ異った程度においてではあるが、物質的繁栄の一般的な増進に参与した
にもかかわらず、彼らはその大部分を自給農民という伝統的役割のほんとに限ぎられた範 囲の世界に自己を規定してしまう結果を招来したのである。ところがその反面、外来要素 のアジア人移民の場合には、母国での体験によってきびしい生存競争に耐え、貨幣経済の なかで遥かによくことを処理する能力をもった、いわゆる華僑や印僑たちであるから、原 住民の周辺に残されている商・工業部門を容易に掌握する幸せ者になってしまったのであ る。こうして、原住民の伝統的な自給経済部門(Subsistence economic sector)と、ヨ ーロッパ植民者によって持ち込まれた近代的経済部門が際立ったコントラストを示しなが ら複合経済を並存せしめる基礎が形成されたのである。
しかしながら、これまでの発展過程においてはそうした歴史的背景と理由とがあったの であるが、そこに現実化されているアジア人(華僑、印僑)のこのヨーロッパ植民地体制 への浸透は、実際においてその性格の上からみて独自の生命を維持しながら自己の存立を 理由づけるだけの独自性をもつことができなかった。つまり、逆説的にいってみると、彼 らの非独自的な意義は、移民的活動のほか、商業を金融部門に集中しながらも、依然とし て彼らは西欧経済に依存しつ\け、植民地経済組織の補助者的存在に終始したのである。
つまり、その社会構造的位置づけにおいては、ヨーロッパ植民地体制と植民地化に関連す る経済活動の総体のなかで、華僑や印僑の一部の権益はそれに消極的浸透の形態において しか存立しなかったことを意味している。こうした事情のもとで、ヨーロッパ植民地経済 体制のなかに一つの強い傾向として政治経済的に現実化してくるのが原住民社会と移民社 会からなる重層的な社会構造を前提として、それにどう対応し、どのように対処していく かという現実の問題がナショナリズムとの関連においていろいろな問題をはらんでくるこ とになる。これは今なお依然として政治・経済的な問題として残されている。印僑問題は そうした意味での問題局面として、きわめて重要な課題を含んだものといわざるをえない のである。それ故にここでは、それに関連する一例として東南アジア地域以外に生起して いるナショナリズムの問題について先づそれから検討することにしよう。
すなわち、従来のナショナリズムの風潮から印僑社会の運命がもっとも不安定な状況に
さらされているといわれるのは「アフリカ人のためのアフリカ」というスローガンのもと
に運動が強力に推進されているアフリカ地域にこれを求めることができる。つまり、イギ
リス植民地の経済的諸条件に依存しながら裕福な成功者となった印僑は、現地でのアフリ
カ・ナショナリズムとは必らずしも両立しがたい利益を得ているという変則的な状態によ
って、根本的な対立関係が生じる状況になっている。たとえば、タンザニア(Tanzania)
においては、政府が輸入取引き、とくに繊維製品や消費物資に対して国内の民族業者を保 護する建前から、それの統制を試みた結果、印僑の輸入業者は手ひどい打撃を受けた。イ
ンド人の卸売商人あるいは小売商の多くはタンザニア国籍を取得しているにもかかわら ず、この状況下では長年のうちに彼らの占める地位は壊滅するのではないかとさえ心配さ れている。現在、ケニア(Kenya)およびタンザニアにおいて18万人の印僑が1億ポンド
(2億2780万米ドル)の事業投資を行なっている。
(註3)
こうした事態の発生は、さらに比較的に豊かなアジア人社会に対して向けられているこ の強力なスローガンを一層有利に利用しようとするアフリカの政治家によってさらに拍車 される結果となった。結局は、多数の印僑のうち公務員や職工、さらには輸入業者の割当貿 易の影響でその基盤を失った。そしてその結果彼らは本国のインド政府にその援助を依頼 せざるをえない立場になったが、それは却ってアフリカ人の間に憤慨といろんな疑惑を生 ぜしめることになった。東部アフリカでは行政や経済発展においては彼らの役割はきわめ て重要な機能をもっているにもかかわらず、アフリカのナショナリズムは、独立によって解 放された熱狂的な民族感情を調和させることができなかったわけである。かくて植民地経 済においてその存立を可能ならしあた印僑経済の特殊な繁栄をしめす局面は今や終りを告 げようとしているのである。印僑実業家とアフリカ人の利益との協同によって生れた産業 経済開発の可能性は、現実的に広く無限大に存在しているとはいえ、ナショナリズム的変 革の対象になってきた印僑社会の経済的活動への制限は、すべての歴史が変わるときに (註4)
は、こうした現象は外来要素である多くのアジア人が必然的に蒙むらなければならない運 命的な、同時に必然的な被害であるといえるかも知れない。このような類似的な現象の 発生は、直接には印僑の場合とは限ぎらないけれども、これと同格的なインドネシアの華僑 の場合でみると、1968年12月ジャカルタおよびスラバヤ、ついでジヤンビーにおいて反華僑 暴動が勃発したがそのときのロンドン・タイムズはインドネシアの華僑はつねにインドネ
シアの超民族主義者の犠牲にされてきていると論じ、今回の暴動による華僑の犠牲および
損失はかって過去には見られない程の大きなものであったと報じている。要するに、こう
した点から観察するとアフリカおよびアジアのナショナリズムによってどのような事態が
発生しようとも、経済的地位、人種構成、慣習、言語が異なり、極端に強い自立意識をもって
いるアジア人の少数移住者と大多数の原住民社会との関係は、あらゆる側面の条件が配慮
された場合でも、簡単に融合関係が生れるとは思われない。かりにその諸条件が配慮された
場合でも、開拓心に燃えた企業活動と不当な搾取との間に一線を引いて区別することは
必ずしも容易なことではないけれども、すでに植民地経済という諸条件のもとで長年に及
ぶ海外移住生活を通じて、原住民社会に与える歴史的、体験的印象は、いろいろなニュアン
スを内に含んだ要素となって表面化してくる可能性が考えられる。たとえば、東南アジア
における印僑に対するイメージといったものが、実際以上に「悪徳高利貸商人」であると
か、また、華僑の場合の例では、華僑は「抜け目のない」「けち臭い」そしてまた「どん
膳・
欲」であるとかいったよう印象が一般大衆に与える心理的影響がどんなものであるかは軽 轟 ・
視さるべきでない。こうした場合の印象的な言葉の意味する作用は相手側に対する一種の 軽蔑的な意味をもって受取られがちであることは注意する必要があろう。戦前われわれ日 本人が中国人に対し「チヤンコロ」もしくは「シナ入」などと呼んだ蔑称がどんなもので あったかを想像してみても解かることであろう。
つぎに、ここで一言しておきたいことは、「印僑」なる用語に関してであるが、この用 語は昭和30年10月神戸外大において開催されたアジア政経学会第5回年次大会において、
金田近二教授(現名古屋学院大)によりインド人の海外移住に関する研究発表において初 めて造語され、使用されたものである。それ以降Overseas Indiansを表わす用語とし (註5)
て広く使用されるに至っている。わたくしも、それに従いこの用語を借用していくつか の研究調査を発表しているが、本稿においても、その用語をそのまま借用することにい (註6)
たしたい。なお、ここでインド人海外移住者(印僑)の数を参考まで示しておきたいと思 うが、実際のところこれに関する正確な統計資料が欠如しているため、つねに推計の域を 脱することができない。その含みでもって概況を創めせば、マレーシアとシンガポールに は約1,156,000人、セイロンに975,000人、ホンコンに3,000人、ジャマイカに30,000人、
ケニアにユ76,000人、ギアナに289,000人、ビルマに300,000人、南アフリカに500,000人そ して実際に世界のどの国にも数寄人位つつが居住していることになる。
(註7)
(註1)N.J. Nanporia;The Overseas Indians 1967, November 5.19. December 3.17issues of The Asia Magazine. p.g
(註2)J.S.Furniva[1;Netherlands India,ユg5g. p.15 (註3)N.J.Nanporia;Ibid.,P.16
(註4)N.J. Nanporia;Ibid.,P.ユ6
(註5)金田二二「印僑概説」神戸外大論叢第7巻1〜3合併号 昭和31年6月刊および「ビルマ の印僑とその変貌」神戸大学経済経営研究所、アジア経済研究叢書第7冊、1968 (註6)拙稿「マラヤの印僑社会と経済」アジア経済研究所、調査研究報告双書第8集「マラヤの i華僑と印僑」第7章
(註7)N.J. Nanporia;oP. cit.,P.7
2 マラヤの印僑社会の場合
すでに触れたように、東南アジア諸国は、世界の従属地域のうちで、注目すべき地位を
占めている。地理的にも経済的にも、また文化的にいっても、東南アジアは極東の一部で
ある。そのおもな領域は、マレー群島、マレー半島、ビルマ、タイ、インドシナ、および
フィリピンであるが、あとの2つは支那海に面している地域である。太古以来、文明の中
心地であり、陸続たる移民の波にとって古くから戦場となったのもこの広大な地域である が、そこには今日1億7000万の民衆が住んでいる、とE.H.ジャコビー(Jacoby)はそ の著の冒頭の部分に述べている。そして事実、マラヤの場合、インド人およびインド文化
(註1)
との交渉はすでに古く、キリスト紀元のはじあ以来のことであるとせられる。もっともこ の初期の時代には、インドはマラヤに貿易を求め植民地を設けるために商業的・文化的使 節が派遣された記録的文献が発表されているのでも明らかである(註2)。紀元前6世紀 以降になると、インド東海岸の船乗りたちの間では、下ビルマとマレー半島が「黄金の 土地」として知られ、インド商人たちは黄金と錫を求め、これらの土地へ向けて航海し、
また島々の問をぬって南下していた(註3)。そして紀元後最初の2世紀間には、アジア の海路全域に沿って、全般的な通商の拡大がみられ、これにともなって地理に関する知識 も増加していった。
かくして、東南アジアにおけるインド人の通商活動は、紀元1ないし3世紀の間にひじ ょうに活発化した。そして、通商活動の便のよい中心地に以前から建設されていた商人の 居留地が次第に富を築き、団結力を強めていくに従って、ついに紀元4、5世紀にはそれ
らの居留地は、ほかから独立した、インド人が支配するインドの文化的、宗教的、美術的 影響の中心地を形成していたのである。東南アジアでの影響というものは一とB.ハリ ソンは続けてこう指摘する一本来が、後の時代のアラブ人、インド人、イスラム教 徒、ヨーロッパ人の影響がそうであったように、商業的なものであった。インド文化は、
インドの商人たちがもっている、相対的にみて高い財力と威信のおかげで、この地域内の さまざまな地方に根を下ろしたのであった。(註4)
時代は少し下るけれども、インドとマラヤとの交流は、地理的に隣…接していること、ま た1867年頃まではインド政庁の管轄下にあったことなどから、とくにペナンなどには、古 くからマドラスのキュダロー、カリカ、ナゴアー、ネガパタンあたりから、8〜9月のモ ンスーンに乗って6〜7日がかりでインド人が渡来し、彼らはそこで1〜2年働くとまた 本国へ帰えていった(註5)。
また、南部インドのチエティアーも、マレー半島を中心に古くから貿易を行なったが、
一部はマラッカに定着し、そこにヒンヅー文化をつくり、現在のマラッカ・チエティー
(Malaca Chetties)の源となった(註6)。
ところでイギリスが1786年ペナン島を、1819年シンガポール島を領有してマラッカを含
むマラヤ唯一の英国直轄植民地が成立すると、貿易と商業の基礎が築かれ、インド移入民
の交流は増大化の傾向をたどるようになる。だが当初の移入民の形態は、その後の正常な
移出入民と異なり、刑罰者の流刑セツルメントおよび刑務所への送局の形で開始されてい
る。当時、ペナン、マラッカおよびシンガポールは、「インドのシドニー」の称があっ
て、はじめは東インド会社により、のちにはインド政府の管理のもとに流刑囚人の留置所
が設けられたが、それ以前の1787年頃のインドの既決囚の送局は、スマトラのベンクーレ
ンに初めて設けられた流刑囚植民地(Penal Settlement)に送られていた(註7)。とこ ろが1825年以降、スマトラのベンクーレンがマラッカと交換にオランダへ移譲されると、
それまでベンクーレンに送られていたインドからの既決囚はペナン、マラッカ、シンガポ ールの海峡植民地へ送られることになった。1857年シンガポールの刑務所には、インド、
セイロン、ビルマからきた囚人2,139人がはいっていた(註8)。
ペナンに送られた囚人は、虎や毒蛇の横行する恐怖と危険のなかで、ペナン島やその対 岸のウエレスリ一州の道路建設や土地の開墾と埋立の仕事に雇用され、決定的な役割を果 した。マラッカに送られた囚人も、ペナンの場合と同じくおもに土木事業や町の開発に大 きく貢献した。しかし、シンガポールの場合これら2つの町よりインド人囚人に依存した 割合は大きかった(註9)。シンガポール土木事業の歴史はインド人囚人の歴史であると いわれるように、彼らは道路、港湾、公共建設に大きく寄与した。聖アンドリュース教 会、政庁、さらにブキテマ道路など、すべてがベンガル、マドラス、ボンベイから送られ たインド人囚人によるものである。(註10)
1861年聖アンドリュース教会を目撃した刑務所視察官は「聖アンドリュース教会は、わ たくしが東洋で実際に見た最初の教会であり、わたくしを感動させた。そして囚人を産業 のために訓練することに成功した素晴らしい例は他のどこの国にもないと思う。」と報告
している(註11)。
また、当時のインド人囚人に対する取扱いについて、スタンフォード・ラッフルズ
(Stanford Raffles l781〜1826年)が個人的に興味をいだいていた刑罰制度改正のもと では、インドの囚人は世界の他の地域では今日に至っても改革者たちが手に入れることの できない多くの便宜が与えられていたことを指摘しておかなければならない。つまり、そ の時期においてはインド人熱人たちは、自分らの看守を選んだり、町へ行ったり、暇なと きには一般家庭の召使いとして働くことさえ許されていた。さらに、冒険心に富んだ幾人 かは相当な財産を作ることに成功し、都市で不動産を入手することさえできた(註12)の である、と述べられている。
しかしながら、19世紀中頃以後になると、プランテーション農業の勃興と政府による野 心的な経済開発計画の設定は、いよいよ益々労働力の必要性を感ぜさせ、囚人労働の導入
とははっきりしたギャップの生ずるような状況となった。
イギリスにおける産業革命と大規模生産の発達は、生産の原料供給源として、また工業 製品の消費市場として植民地開発を必然たらしめた。事業開発と生産方式の一つにはプラ
ンテーション農業の開発があったが、その手初にあっては、機械設備はすくなく、まして
科学的農耕はほとんど行なわれず、かつ土地は通例自由に獲得できたので、投下資本を代
表するものは多量の労働力であった。開発の最大の問題は、錫の鉱山を採掘し、ジャング
ルを開拓し、ゴムを栽培する労働力を確保することであった。この要請は経済開発のペー
スが早まれば早まるほど増大したのであるが、従来の囚人労働の導入方法をもってして
は、到底これに答えることのできない余りも大きな問題であった。しかし、実際の事情は マレー人住民は依然として自給農業を続け、ゴム産業や錫産業に対する労働の供給をこば んできたので、マラヤの場合には、最初から中国人およびインド人労働者の移入が必要で あったのである。
(イ)イギリスのマラヤ支配と印僑
イギリス重商主義の植民地経営にとっては、それが本国の産業資本に必要な原料、補助 材料および商業資本に必要な再輸出商品の供給地であり、イギリス本国の工業生産物の市 場であり、その収奪がイギリスの資本の本源的蓄積に役立つかぎりにおいて重要な意義を もったのである(註13)。この意味において、当初のイギリスの東インド会社の重商主義 政策は、マラヤ初期のイギリス植民兄たちの熱狂的な支持をえた(註14)。 したがって、
ペナン、マラッカおよびシンガポールがマラヤ最初の戦略上の拠点となったばかりでな く、これを起点にしてマラヤ国全体を保護と支配下におくことが緊要な課題であった。イ ギリスはインドの支配の場合と同じように、沿岸の数カ所から侵略を始あ、漸次その空間 を埋め全体を植民地化する方法をとった。このような政策は、とくに1867年、海峡植民地 が本国の直轄植民地になるにおよんで急速にすすめられ、他の植民地でもとられたよう に、部族の対立、混乱につけこんで、秩序維持という名目で介入し、これを支配し、つづ いて土木事業、とりわけ鉄道開発と一次産品の開発促進という順序を踏んだ(註15)。 こ のようにして、イギリスの政治的理由と通商路および港湾獲得の関係から、先づ1874年か
ら1888年までに西海岸のペラ、セランゴール、ネグリ・スンビランと東海岸にあるパハン の4ケ国がイギリスの保護国となり、ユ895年にマレイ連邦州を組織した。ついでユ909年に は、西海岸のケダー、ペルリス、東海岸のケランタン、トレンガヌの4ケ国に対してタイ 国が有していた宗主権を条約により買収し、1914年にはジョホールもイギリスの統治下に 入った。かくてマラヤ全州をその政治的支配下におき、本国の経済構造のなかの従属的部分 として位置づけることは、巨大な超過利潤を獲得するうえで不可欠の重要な地域であっ た。イギリス資本の活動は、その手段を通じてこの利潤獲得の直接対象となる輸出向け熱 帯生産物および鉱山資源を掌握した。イギリスの下級貴族の多くの植民者の中には、そう した実情に照応した土地の、管理、および、改良、とか、農業地理学、といった言葉で呼 ばれる事柄について熟知しているものが多く、輸出向け作物の開発には、マラヤ地域はも っとも有望な将来性を蔵していることを確信していた(註16)。
ペナンがイギリスの掌中に帰したのち、短い期間ではあったが、輸出用作物として香料
の栽培が最初に開始され、重商主義者の実験はまもなく1840年代に砂糖栽培へ、1870年に
はコーヒへ、そして、最後には1890年にゴム栽培へと拡大されていった。他方、政府は国
内の経済開発を進めるため道路と鉄道建設に野心的なプログラムを発足させ、事実鉄道に
ついては、1899年50万ポンドの帝国公債によって着手された(註17)。 ところが、労働者
の供給は、一般にはこれら開発の需要を満たすのに十分以上にあったにもかかわらず、そ
れは東南アジアどこでも原住民大衆から供給されるのではなく(その次はかなり増加した にもかかわらず)、ほとんどの場合、この地域以外の中国、インドからのアジア人移民によ って維持されることになった。その移入の量は輸出向け生産の発展に正比例して増大した。
1890年まで輸出向け作物、つまり商業農業の主要作物は、砂糖、タピオカ(Tapioca)
(註18)、ガンビール(Gm扇er)(註19)、および胡淑であったが、蒔きに述べたよう に、マラヤにおいてエステートもしくはプランテーション栽培として開発されたのは、:最 初に・コーヒであり、最後にゴムであったが、そこには既に農業労働として強力な切実な労 働需要があり、とりわけ、ヨーロッパ人によってタミール人が雇傭されていた。(註20)
このように、主要労働者は南部インドの移民労働に依存したのであるが、これら需要労働 が本格的に増大したのは、マラヤの広大な地域にヘビア・ゴム(Hevea Braziliensis)
(註21)のプランテーション開発がはじめられたのに伴ってであった。しかし、この当時 のインド入労働者の供給については、3つの点で欠陥があったといわれている。すなわ ち、その1つは量的不足であり、その2は質的の欠陥であり、そしてその3は招致費が高 かすぎるということであった。量的不足の原因については、いろいろな理由が指摘されて いるが、当時の根本的な原因としては、マラヤと他国との労働者の招致競争がおもなもの であった。とくに、ビルマへのインド移民は海峡植民地よりも旅費が安く、しかも労賃の 面においてもそれを凌駕していたので、ビルマへの移民の希望が労働契約を無効たらしめ るケースが多く、事実上、招致競争に勝つことができなかった。また、労働者の質的欠陥 については、当時の労働の形式には自由移民労働と契約移民労働の2種類があったが、契 約労働者の場合は、とくに選択された部類の移出民で、砂糖プランテーションのような重 労働を必要とする労働分野に適応し、他方、自由移民労働者の場合は、体質的水準におい て前者と同格には取扱われえなかったけれども、ココナット・エステートや軽労働者を必 要とする部門においては十分に強力さを発揮した(註22)。 ゴム・プランテーションの出 現によって強健な労働力をもった労働者を供給することは労働管理上の重要な課題の一つ であったが、マレー半島の労働不足はその質的欠陥をカバーすることができなかった。さ
らに労働者招致費の高価の原因については、労働者募集にさいしてのプロカーの独占的役
割が大きな関係をもっていた。たとえば、インドのネガパタムからペナンに上陸させる労
働者については、1人当りの費用は約20ドルを要する高額のものであったが、その費用
のうちには、インドの収容所での食費、船賃、衣類、現金前貸し、およびペナン到着後の
収容所での食費を含めて約8ドルの計算になるほか、代理機関の計費またはプロカー手数
料を加算すればどうしても1人平均20ドル見当にならざるをえなかった。したがって、各
プランターの意図としては、高価で量的に不足がちな契約労働に依存するとしてもそれに
はプロカーなどの中間的に加算される諸費用を節約したのちの価格で大体1人当り12ドル
程度におさえたいとする希望があった(註23)。また、このほかプランターの募集する労
働者の費用のなかにはプランター自身が負担しなければならない費用のほか、全然法律で
決められていない他のエステートのために労働者の損失を負わされるという欠点があっ た(註24)。 この制度は他のところでも同様に弊害を生じたので、プランターと労働者の 間にしばしば起こりがちであった利害の違いを調和させるため、インド政庁の指導による 政府管理のインド移民基金(lndian Immigration:Fund)が1907年に設置された。この 新しい移民基金制度は、インド人労働者の医療の世話や貧窮労働者の引揚げを含むインド 人労働者の移出入に関するすべての費用を、労働者の雇用主に対して、労働者の割に応じ で出資金を割り当てる制度であった。したがって、この基金から支払いがなされるのは、
移出民の場合は、移出労働者の住居からネガパタン港やマドラス港までの汽車賃、移民収 容所での食費、現地までの船賃、ペナン港、ポートスウエテンハム港、シンガポール港で の検疫費、雇用先までの汽車賃、労働者募集代理業を営むエステート主への手数料の支払 いなどに向けられた。これによって、従来の契約移民制度一契約期間は概ね2、3年、募 集の費用および渡航費は賃銀より差引かれ、契約期間不履行者に対しては体刑が課せられ るなど、多くの問題を引き起こしていた一は漸次それ自体の存立性を失なってきたので、
1910年6月この制度は廃止された(註25)。そして、それに代って政府の与える免許によ って特に雇用労働者を集める「カンガニー」(Kangany)と呼ばれる、自由労働者の募 集制度が普及する条件が生れてきた。それはカンガニーによって集められた労働はカンガ ニーに支払われるコミションも低廉であり、職業的に募集されるので、労働者の体力も優 れでいるという特徴をもっていた(註26)。当時の記録によれば、インド人契約労働者は おもにウエレスリー州とペラーの砂糖およびタピオカのプランテーションに需要があった が、ペラー、セランゴール、ネグリスンビランのコーヒおよびゴムのエステートにおいて ばカンガニーの募集した自由労働者が多数に雇用されていた。契約労働と非契約労働との メリットを比較すれば、後者の自由労働の方が遥かに利益があった(註27)。 このカンガ ニー制度の有利な特徴については、つぎのように概観することができる。
(1)プランテーション労働者のうちの親方株のものをカンガニーと呼び、この制度の名 称もそれに由来するのであるが、カンガニーは農園主からの委嘱を受けて自分の郷里 に帰えり、親類縁者等と語らい短期の約束で連れてくるので、多勢の家族や親類など が一団となってやってくる場合が多い。
(2)往復の旅費等はすべてカンガニーが配慮するので、カンガニーは雇用主と労働者と の間にあって、雇用主のために一種の金融的職能を営むことにもなる。同時に彼は自 分の連れてきた労働者は親権者的態度で監督し、あらゆる面倒をみてやることにな る。
(3)カンガニーは雇用主から一定の俸給をもらうほか、労働者誘致の手数料ならびに頭 ・金(H:ead Money)と称し、毎日出縛した配下の労働者1人につき1〜2・セント程度 一の一種の割増し監督賃をもらう。
(4)彼ら1の掌握している労働者の数は、一般に20〜30人程度で あるが、それよりも少数
のグループの場合は、カンガニー自身も共に働いている。それと逆に大きなグループ になると、シララカンガニー(Silara Kangany)と呼ぶ一種の副手的な助監督を使 って現場の監督に当らせることがある。この助監督は一定の日給をもらっているほ か、労働者1人当り1日3〜4セント程度の監督料一これをPence Moneyという 一をもらっている。
㈲ この制度のもとでは、労働契約期聞がきわめて短期であることが特色であり、農繁 期などの一時的な労働補充に適している。セイロンの茶園などでは、1ケ月ぐらいの 契約をなし、必要に応じてそれを更新継続しているという。契約は多くは口約によっ てなされる。
(6)招致された労働者は通常2年以内に前借金を支払うことになっているが、ごの制度 ではそれの返済が強制さ.れないようになっており、また、30日前に通告を出せば現在 の仕事から離れることも自由とされている。しかしながら、そのような状況を繰りか えすことは、必然的に雇用の機会を失なう結果になるので、彼ら自身かなり自重した 態度で行動しているといわれる。
(7)この制度のもとでは、自然に同一村落のものたちが一団となって、いわゆる ℃verseas Village という形で移住するケースが多いので、移住後の定着率も比較 的に高く、成功者も多く輩串している(註28)。
移住後の成功者の一例としては、シンガポールの開発に寄与した最初の印僑の請負人そ して商人になった人の実話がある。それによると、ナラヤナ・ピライ(N3rayana Pillai)
という一人のインド人は、シンガポールで就業した行政的職務に不満を感じて職を辞した が、 大工やレンガ職の移民仲間の助けを借りてレンガ焼きのかまを造った。まもなく、彼 は、レンガの需要が必然的に増大する、急速に発展していく都市において景気のいい事業 に従事しながら富を蓄積レた。彼は、今日では印僑の伝統の学部にさえなっている基本的 な成功の方式を打ち立てたのち、シンガポールにおける一流の指導的インド商人としての 評判を土台にして、市場にピライ繊維商店を創設した(註29)。その他、マラヤにおいて は、法律および医療関係の職業、ジャーナリズム、銀行業の歴史の中には、多くのすぐれ たインド人の名前が存在している。チエティアー人は金融業を一般化したり、商業取引の 急速な発展のための財源を提供したり、するのに特に活動的であった。学者であるフグー・
テンカー(耳μgh Tinker)によると,「インド人の労働力、専門技術、信用、商業活動、
投資がなかったならば、マラヤの発展は最もゆるやかであり、かつ最も出費を要する過程 を通ったであろう(註30)、 と述べている。
要するに、カンガニー制壌がマラヤの印僑社会の形成と人口数のうえにもたらした歴史 的役割は看過されないであろう。もちろん、あらゆるタイプの労働移民と職業上および商 業上の移民の活動の間には明らかに区別がなされなければならないことは当然であるが、
多数の移住民のなかから輩出した成功者の影響が、マラヤの政治的、経済的および社会的
側面において大きな貢献をなしていることは高く評価されてよいのでないだろうか。
ところで、再び後に引返えして論ずるならば、カンガニーという言葉は本来タミール語 の「取り締る者」(Overseer)あるいは「監督者」 (Foreman)という意味であり、タ
ミール聖典においては監督(Bishop)ζして使用されている。マラヤとセイ旦ンにおいて は、むしろ監督(Foreman)というセンスでもって使用されている。こうして、この言葉 は広義的に監督という意味から、さらにエステート労働者の募集人(recruiter)という意 味に転化し、現在マラヤではエステート労働者の小集団を管理している職域に従って「マ
ンドル」 (Mandor)あるいは「チンダル」 (Tinda1)と呼ぶ傾向に変化している(註31)。
ともかく、カンガニー制度は形式のうえでは1938年6月15日マドラス州庁のマラヤへの移 民を禁止した法令の発効に伴って終了したことになっているが、この制度はマラヤの労働 供給の広汎な改善において寄与したにもかかわらず、それが濫用された点で多くの非難を あびた制度となったことも事実である。こうして、1920年代の最後まで公正に取扱われて いたこの制度も、ついに1938年に終止符を打たざるをえない運命となったのである。
こうして、マラヤのインド人移住(印僑)の歴史は1830年代から1890年前後までの砂糖 プランテーションを中心とする年;期契約制・1890年頃かち1910年前までの年;期契約制とカ
ンガニ一丁の併用、1910年から1934年頃までのインド入移民基金制度を背景にしたカンガ ニー制、さらに1938年前後のカンガニ一三濫扇による非合法募集時代の段階的区分を通じ て、マラヤにおける印僑社会の歴史的形成過程をたどることができる。しかし、R.エマ
ソン(Rupert Emerson)に言わしめれば、これら移住のインド人はイギリス統治の初期か 労働者として移入され、数年ならずして帰国する出稼人であるが故に、その最大多数はマ
ラヤめ事態に無関係で労働者以上にのぼらない、下層階級以外のなにものでもないと述 べ(註31)、マラヤの印僑社会がその機構および状態において華僑社会とは大いに異って いることを指摘している。
(ロ)印僑社会と華僑社会
ここで先づマラヤにおける印僑社会の種族構成についてみておくと、次表(表1)の通 りである。
第1表 1921〜1957年マラヤの印僑社会の種族構成
種族別グループ 1921 ・93・i・947i 1957
(A)南インドグループ
タミール (Tamils)
テルグ (Telugus)
マラヤリ (Malayali)
その他南インド
小
計387,509
39,986 17,190
2,000x514,778 32,536 34,898 4,000×
446,685 586,212
460,985
24,093 44,339 15,968
545,385
634,681
26,67072,971 20,000×
755,322
(B}北インドグループ
シーク
パンジヤビイ
パサン
ベンガリ
グジエラテイ
マハラタ シレデイ ラジユプトおよびマルワリ パーシー
(Sikhs)
(Panjabis)
(Pathans)
(Bengalis)
(GuJaratis)
(Maharatts)
(Sindhis)
囎朧,)
(Parsis)
小
計◎ その他
イ ン ド 合 計
9・307 6,144 1
804i
5,072(?){
403
29
_ }
「
_l
l
18,149
1,827
21,759
1,736
34,156
1,479
470,180
621,847
10,132 20,460
3,ユ661
3,834i
l,301
556
728(?)i1,834
98
42,109
12,122
599,616 820,270
(註) x推定 一不詳
(出所)INTISARI,The Reseach Journal of Wider Malaysia, VOL.皿』No.4. P.44
マラヤの印僑社会の人口比率は1957年の人口調査報告によると、マラヤ(現在の西マレ ーシア)の総人口約630万のうち、Uユ%を占めているが、その種族構成のうち南インド の大部分は、インドのマドラス州から移住したものであり、残りがケララ(トランバンコ ール)とアンドラ・プラデッシ(中央州)およびセイロンのジャフナ(Jaffna)地方から 移住したものである。また、北インド(主としてシーク)の移住者は比較的に少ないが、
なかでもパンジャブが中心になっている。その他のインド人についてはシンズーボンベイ
(Sind−Bonbay)とウタラ・プラデッシ(Uttar Pradesh)(United Provinces)、つ まりベンガル地域からの移住者がおもなものである。
一般的に言えることは、インド人のマラヤへの移住は1786〜1957年の間に多く行なわれ ているが、しかし、短期間のうちに大部分のものが帰国している。これは、そのときどき のマラヤの経済状態に左右されるとか、あるいは彼我の移民立法の実施などの影響を反映 したものである。
こうした事情のなかでの顕著な例は、インド人移民がピークに達したのは1920年代とみ
られるが、それ以降の時期においては、インドとマラヤ間の移出入制限の立法が増えてき
たこと、さらには地方への労働供給が増えて、ナショナリズムの声が高くなってきたなど
の諸条件が重なり合って、マラヤへのインド入移住は事実上、漸減の方向をたどってい
る。現在でも、インド移出入民のうちで、ほとんど全部といってよい位にそのマラヤへの
定住は制限を受けており、わずかな数の新規の移民であっても、ほとんどがそれの見込み
はない(註33)。
これら制限の理由については、これ以外にいくつかの要因があげられるが、その一つと して、ここでは先きに触れておいた印僑社会の性格の問題について言及してみたい。
R・エマソンも華僑社会との比較において指摘したように、印僑社会では第一にインド 人労働者については政府が細かい点まで監督するが、中国人労働者に対しては政治関係以 外の活動は自由に放任してきたという、マラヤ政府の取扱いにおいても歴史的に両者の関 係は異っている。このように労働者取締りの面からみて、インド人と中国人との間に寛厳 があたつのは、その間に不公平や差別を設ける意図があったわけでは決してなく、そこに は中国人の場合は、インド人よりも万事を自分たちで処理する能力があり、政府の取締り を歓迎せず、放任しておくほうが好結果が得られる(註34)と考えられたからである。こ のことは、インド人および中国人の聞に処理能力の差異があるかどうかをみるのは別とし て、インド移民は、中国人労働者の移民とは対照的に当初からほとんど規則的であり、政 府の保護に依存しながら発展してきた移民の性格上の差異をそのまま反映した実情をいっ
たものとして理解されるであろう。
それにまた、両者の社会の機構上からみても、主要な差異点は、出身地、言語、マラヤ 在住期間などがいかに違っていても、中国人社会(華僑社会)は或る意味において等質的 に融合し、資本主義社会の上層にいるものも、炎天下に半裸体で労働しているものも、ど こか一脈相通ずるところがあるが、印僑社会の場合はそれがみられない。これはインドは 周知のように、社会階級の観念がもっとも強い国柄であるだけに、マラヤ出稼ぎで最大多 数を占めるタミール:族(57年統計約64万人)その甲南インド人はもっとも卑まれている賎 民種族であり、それだけにマラヤにおいて相当な地位にあるインド人は彼らを相手にしな いという階級的差別観が強く支配している。この出稼ぎ以外のインド人は〔第1表〕に示
したようにはなはだ少数で、マラヤの社会生活のうえでは重きをなしていないが、最も目 立った存在はシーク族(47年統計約1万人)で、警官または番人(door−Keeper)のよう な仕事につき、内職として小金を高利で:貸付け、取立てが非道なので芳しくない名声を馳 せているが、その模様をN.J. Nanporiaは実感をこめて記述しているので、長文をい
とわず次に引用してみよう。但し、これはタイ居住のシーク族の例である。
「バンコックにはシーク族の大部分の牛乳配達夫や守衛がいるが、なかにはパンジャブ 出身の比較的豊かな貿易商人や紡績業者もいる。相当な程度の世渡りのうまさがある一 方、金儲けという唯一の野望のために残忍に奉仕する見えざる精神がある。……しかし、
一般に認められている性格は彼らの誠実さである。彼らは信じ難いほど朝早く起きて牛乳 を鳴り、その後2時間ほど紙売りの行商人として働く。その後、門番またはセポイSepOy
(兵士)として現われ、仕事の合間の休憩時間には金を貸すのに忙がしい。もし彼がとき
た熱心ならば夜警もやる。そして次の夜明けとともに、疲れも知らずにまた牛乳配達を始
める。この厳しい試練が何昼夜、何週間、何ケ月、何年も続いたのち、彼はついに富を得
る。しかし、彼はこの全過程を通じて、まわりにいる他のインド人やタイ人に譲歩したり
はしない。タイ人の妻を持ち、日常タイ語を十分に話すこともできるであろうが、自分が 最底必要だと考える勝利者としての役割を果すのに精一杯である。……もう一人のプラン テーション労働者は、他にいろいろなごとをしながら門番をして、インド人特有のやり方 でもって、自分の息子を弁護士にするためイギリスへ留学させることに成功した6……ま た、門番や守衛をしている彼らは、自分の仕事がタイ人を含あすべての社会の人々によっ て最も信頼されるものだと信じている。彼はしばしば相当な価値のある商品のはいってい る倉庫の鍵の責任をもつが、彼の信用や正直さが;期待以下に下がることはめつたになかっ た。……だがどんな金貸しも決して人気のあるものではないめで、印僑社会のシrクは良
くても煙たがられ、最悪の場合には浅はかな嫌悪感を懐かれている」(註35)。
また、同じインドでもチェティアーと呼ばれる種族も高利貸専門である。本来、チェティ アーは南インドのマドラスのMarakkayar共同体出身の回教徒であるが、世襲的金融 業者として成功しているのはNattukottaiチェティーである。したがって、同じマドラ反 から渡来した労働者のグループとはまったく異なる階級に属している。彼らは近代的銀 行業成長の初期からイギリス人に接触を保ち、イギリス銀行制度およびインドにおけるイ ギリス銀行家を知悉していて、必要とする資金の借入をこれら銀行に仰ぐことができた。
しかし、彼らの資金の大部分はこれを同族聞の出資に仰ぐという方式によっている。彼らほ 多年シンガポール、ペナン、ビルマのラングーンその他の各地に移住して高利貸的金融業 を主業としたので、現在にいたってチェティニなる名称はそンド人高利貸を表わす代名詞 となっている。このチェティーはマラヤにおいては中心地に事業所をもち、中国人やマレ ー人の小商人を相手とし、あるいは一流どころの華僑商人にも貸付を行なっているが、そ の営業範囲は金貸業のみならず、外国為替の売買、両替をも兼業し、個人i経営から組合組 織の経営までわたっている(註36)。
そのほか、・セイロンのJaffna地方からの移住者がいるが、これは英語教育を受けたセ イロン・タミール族で、マラヤ政府、とり・わけ鉄道関係の吏員として移入されたたあ、そ の人数に比較して勢力をもっていたけれども、近来では英語教育を受けたマレー人に代え
られているから新規の採用はむつかしい。
要するに、華僑は自己の力でマラヤ社会において、独立して尊敬される地位を築きあげ たが、印僑は軽蔑され、しかも中国人のように自ら責任をとる気持がなく、本国における カスト意識に今なお支配されて他人を顧みる態度が欠如していることは、華僑社会とは、
きわめて対照的な異質的な存在である。こうした性格の印僑社会であるかぎりζ印僑社会 め特徴を指称して、「彼らはインド人であるというはつきりした身元を証明できる共通し た外見、同一の背景或いは同一の心理作用をもった心々の単純な集団ではない。」 (註37)
といわれる理由がそこにあることが首肯される。
(註1)Frich H.Jacoby;Agraian Unrest in Southeast Asia,1949. P.41
井上・滝川訳「東南アジアの農業不安」東洋経済新報社4ページ
(註2)ウインステッド著、野口冠位「マレーの歴史・自然・文化」、有光社 昭和18年171〜
172ページー
(註3)Brian Harrison;South−East Asia、 A Short History,1955, p.IO。竹村正子訳 「東南アジア史」みすず叢書19、16ページ
(註4)Brian Harrison;Ibid.,pp.ll〜12竹村正子訳「前掲書」17〜18ページ
(註5)岩城剛「印僑研究序説」愛知学院大学論叢、商学研究第16巻3号、63ページ
(註6)岩城剛「前掲書」63ページ
(註7)Georye Netto, Indians in Maraya. Historical Facts and Figures,1961, p.15
(註8)Sir Frank Swettenharn;British Malaya,1948,pp.102〜103.阿部真琴訳「英領マ ライ史」北海出版社、昭和18年、124ページ脚註
(註9)岩城剛「前掲書」63ページ
(註10)岩城剛「前掲書」63〜64ページ
(註11)N.J. NanpQria;The Overseas Indians,1967, P.6
(註12)N.J. Nanporia;工bid.,p.6
(註13)宇治田富造「資本主義成三期の植民地問題」青木書店18ページ
(註14)Kerniar singh sandhu;Some Preliminary observations of the origins and characteristics of Indian migration to Ma工aya 1786−1957.INTISARI,VOL.
1江 N〔L4. p.25
(註15)L.C.A.ノールス「イギリス植民地経済史第2巻」前橋正二訳、栗田書店、昭和19年、
303ページ。岩城剛「前掲書」61ページ
(註16)Kernia[singh sandhu;op, cit.,p25
(註17)Kerniaユsingh sandhu;Ibid.,p。25
(註18)タピオカ(Tapioca):カッサバ(Cassava)あるいはマニオク(Manioc)、タピオカ の木(Tapioca Shrub)と呼ばれる植物の大きな肉質の塊根から採った粒状澱粉である。
タピオカは高さ6〜7フィートに達する多年生植物で茎は直立し、長い葉柄をもった常状 葉が着く。塊根は澱粉原料にするのが大部分で、この粉でパン、菓子をつくり、あるいは 織物の糊付けをしたり、切手、封筒につける無味無臭の糊に使用し、また、家畜の飼料と して特に豚の肥育に適するとされている。
(註19)ガンビール(Gambier):ヤシ科Areca Catechu椰子の実でBetel−Nlltともいう。
実の大きさ直経約1フィートで非常に堅い種子をとりまく繊維質の皮殻がある。びんろう 膏を作り、収敏性の薬剤に使用されるが、おもに咀噛用嗜好品として用いられるほか、皮 革のなめし、染料にも用いられる。
(註20)R.N. Jackson;Immigrant Labollr and ThσDevelopment of Malaya,
1786−1920.1961,p.96
(註21)マラヤのゴム栽培の歴史ではアマゾン流域の原産地である種子が1876年サーヘンリー・ウ
ィッカム(Sir H:. Wickam)によってイギリスのキュー(Kew)植物園に送られ、そ
の年直ちにマラヤではそれを受取って植栽してみたが枯死してしまった。1877年さらに別 の種子が送られ、これは無事シンガポールの植物園で育生することができた。19世紀末ま では、ヘビア種のゴム樹は試験的に植栽されただけで、同時に植えられたFicus E【ast−
ica種や、マラヤ種のWillugbbeiaなどと共にどれがプランテーション農業に最も適 するかをテストされた時代であった。しかし1895年までに、成長期の早いこと、どの樹よ りもラテックスを多量に出すことなどで、ヘビア種の優秀なことがわかってきた。また、
1895年は世界で最初のゴムタイヤがっくれた年とも一致する。世界の自動車工業の急速な 発展はゴムの需要をふやし、その価格の上昇はゴム栽培が高度に利益のある産業であるこ とを立証したのである(別枝篤彦「プランテーション」古今書院、グローバル・シリー ズ、80ページ)。
マラヤにおける最初のゴムの商業的栽培は、1898年にマラッカの北東部で一華僑によっ てなされたが、彼の成功はすぐ他のプランテーションたちの追随するところとなり、多く のヨーロッパ人がマラヤ西岸の各地で小さなエステートをつくり始め、まもなくマラヤの 重要な収入源となるにいたった。ヘビア種の成功は、これまでマレー半島に何か有利な熱 帯植物をさがして栽培しようとしたいろいろな試みに終止符をうった(別技篤彦「前掲 書」80ページ)
(註22)C.Wilson;Anual Report of the Labour Department, Malaya, far year
l938. P.9(註23)The Report of the Labour Commission;Indian rmrnigration, port III,
chapter XIV. p.63
(註24)G.C. Alren and Audery G. Donnithorne;Western Enterprise in Indonesia and Ma正aya, A stlldy in Economic Development,1957. p。116
(註25)C,wi正son;op.cit.,p.10
(註26)K.S, Sandhu;op.cit.,P.31
(註27)R.N. Jackson;oP. cit.,P.110
(註28)金田近二「印僑概観」神戸外大論叢i第7巻第1〜3号、昭和32年6,月、32ページ
(註29)K.S. Sandhu;oP. cit.,P。6
(註30)K.S. Sandhu;Ibid.,P.7
(註31)C.Wirson;op.cit.,pp.12〜13
(註32)Rupert Emerson;Maraysia, A study in Direct and工ndirect R111e,1937. P31
(註33)K.S. Sandhu;oP. cit.,P.40
(註34)Rupert Emerson;oP. cit.,P.33
(註35)N.J. Nanporia;op.cit., p.8
(註36)拙稿「マラヤの印僑社会と経済」316〜317ページ
(註37)N.J. Nanporia, op. cit.,p.8 .