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自 然 法 論   あ る い は 永 遠 の シ ジ フ ォ ス     南     利   明

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(1)

自然法論 あるいは永遠のシジフォス  南  利 明

(2)

序 ﹁のりこえ不可能な哲学﹂としての自然法論 一戦後自然法論 メビウスの環 テクスト

︶l︵

2

3

4

5

自然法概念の相対化 − 歴史的自然法 法原理 導きの星 批判の鏡 錬金術的変成 − 自然法 あるいはメビウスの環 我らが図書館の自然法論の磨大なテクストの山は一つの﹁巨大なトートロギー﹂である 自然法を読む テクストとしての戦後自然法思想

二 新たな自然法論 − その理念と根拠

Ⅲ 自然法論 あるいは永遠のシジフォス

榔 新たな自然法論の根拠 Ⅰ

㈱ 歴史の罠 あるいは自然法論の不可能性

㈲ 新たな自然法論の根拠 Ⅰ

むすび あるいは新たな始まり

神々はシジフォスに︑休みなく岩を山の抜上まで転がして運び上げる刑罰を課した︒山の頂上に達す

ると石はそれ自身の重さで再び落ちて来るのであった︒無益で希望のない労働以上に恐ろしい刑罰はな

いと神々が考えたのは理由のあることであった︒⁝⁝神々に対する彼の軽蔑︑死に対する彼の憎悪︑生

命への彼の情熱が︑決して成就されることのない仕事のために全存在をあげて働かねはならぬというこ

の言語に絶した刑罰を彼に招いたのだ︒⁝⁝到りつく天をもたぬ空間と終るべき時をもたぬ時間との中

で行われるこの長い努力の黒に︑目的が達せられる︒すると早くも石が忽ちの中に下界へと転がり落ち

てゆくのをyジフォスほ見るのだ︒彼はその下界から再びその石を頂上へと持ち上げなければならない

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

−_______三

_   三

(3)

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

四 のである︒彼は再び野に降って行く︒⁝⁝神々のプロレタリアであり︑無力でしかも反抗するシジフォ

スほ︑自分の悲惨な条件の全貌を知っている︒そして山を降りる間中彼が考えるのはこの悲惨な条件な

のである︒彼を苦しめたに違いない明視が同時に彼の勝利を完きものとするのだ︒侮蔑することによっ

て克服されない運命はないのである︒⁝⁝岩へと立帰ったシジフォスほ軽やかに岩をめぐって再び山の

方に向き変りながら︑繋ぐもののないこの行為の連続を凝視する︒この行為の連続が彼の運命となるの

であり︑この運命は彼によって創り出され︑彼の記憶の眼差の下に一つとなり︑やがて彼の死によって

封印されるものである︒このようにして人間のものはすべて人間に淵源するのだということを確信して

居り︑見ることを欲しながらしかも夜には終りがないことを知っているこの盲目の人間︑彼は絶えず歩

み続ける︒岩はなお転がり続ける︒⁝⁝シジフォスほ神々を否定し︑岩を持ち上げる高い誠実さを教え

るのだ︒⁝⁝もはや主人をもたないこの宇宙は︑彼には不毛だとも空しいものとも思われない︒この石

の一粒一粒︑深い夜に満たされたこの山の金属的な輝きの一つ一つは︑ただ一人の彼に対して︑一つの

世界を形づくる︒頂上に向かう闘争そのものが人間の心を充分満たすのだ︒幸福なシジフォスを思い描

か ね は な ら ぬ

A .

C a

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︵ 窪

田 ︑

矢 内

原 訳

序 ﹁のりこえ不可能な哲学﹂としての自然法論

秩序と正義がかつてないほど法それ自体によって引き裂かれた精神の焦土に︑ひとり自然法が任命される︒むろんその

任務は︑法ニヒリズムの回帰に対する防止ということだ︒以来︑既に三〇年という歳月の経過をみた︒その間︑自然法が

法に対する希望を失った人々の未来であったのは︑ほんのつかのまのことであり︑すぐさま︑彼女のもとに一通の解任通

知が届けられ1その理由は秩序と平安を乱すというわけだ

︑かつて︑自らの存在のあかしのために彼女について争

(4)

って語った多くの人々が︑逆に彼女に対する無関心を﹁知﹂をとりあつかうものの誠実さのあらわれであるとさえみなし

ている︑そのような時代にあって︑仙人はいかなる動機にもとづいて︑改めて﹁自然法﹂との対話を試みようとするのか︒

彼は︑文献学者の眼差をもって︑おびただしい自然法論のテクストの山の中で窒息状態にある人々のために︑便利な一覧

表をつくろうとするのか︒あるいは︑社会心理学者の眼差をもって︑大戦直後の異常とも思える自然法への熱狂と︑その

後の急速な無関心に分析のメスを入れようとするのか︒あるいは︑歴史学者として︑それ以前の自然法思想との比較を試

みようとするのか︒それとも︑今やゆきづまったと人がいう︑息もたえだえの自然法思想に︑最後の一撃を打ちおろそう

とでもするのか︒

そうではなくて︑私が以下で試みようとすることは︑多様な︑場合によっては相矛盾するような戦後の自然法論のテク

ストの手前に立ち戻り︑それらの表面的なディスクールの下にあって︑自然法論というものを貫いて通底し︑たとえ言葉

の消え去った後もなおテクストの内部に残存する﹁沈黙のロゴス﹂の読解を手がかりとして︑原初の生彩と輝きを失い︑

もはや自分が何であり︑どこからきてどこへゆくのかもわからず︑いわば無根拠の状態であてのない彷径を余儀なくされ

ているにもかかわらず︑今日においてもなおかつ﹁のりこえ不可能な哲学﹂としての自然法論に﹁新たな光﹂を与えるこ

と な

の だ

むろん多くの人々にとっては︑自然法論は既にのりこえられてしまった哲学であるかもしれない︒しかし︑我々の社会

の実定法が常に正しいものであるとは限らず︑あるいはたとえ不正でないにせよ︑今ある実定法が完全でない限りにおい

て︑実定法を批判し︑それを指導してゆく尺度となり理念となりうる自然法についての探究が不可欠であるがゆえに︑そ

してまた︑常に正しいとは限らず︑それゆえ人々を取りかえしのつかない不幸に導きかねない実定法をその対象とする限

りにおいて︑法律学は自らの対象を批判する学をもつ必要があるがゆえに︑それは今日なおかつのりこえ不可能なのであ

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

(5)

自然法論 あるいは永遠のyジフォス      六

る︒榔こうした自然法論に︑戦後自然法論の即日的な﹁内具的実理﹂の対日化をひとつの手がかりとして︑新たな光を与

えること︑それはもはや戦後自然法論の単なる否定でもなければ肯定でもない︒そしてまた︑もちろん自然法論が通常そ

うであるように︑実定法の根拠たる自然法の存在︵E軋steロN︶の基礎づけとして︑ひとつの存在者学であろうとするので

もない︒そうではなくて︑一方において︑理論的たろうとするまさにそのことのゆえに︑自然法が純粋知の対象と化し︑

他方において︑無関心の闇の中に沈潜してゆく空虚なるものの名辞と化した現今の自然法論をめぐる閉塞状況を引き裂き︑

自然法論にその原初の生ける相貌を返し与え︑その新たな再生のために﹁自然法論の批判﹂を企てること︑即ち今日なお

我々にとって﹁のりこえ不可能な哲学﹂である自然法論が自らに負わされた課題1−いうまでもなくそれは法ニヒリズム

の克服ということだ1に対して︑果たしていかなる寄与をなしうるのか︑そしてまたそのためにはそれは何であり︑何

であるべきかを︑さらにその可能性の条件としていかなる根拠が必要とされるかを確定し︑明らかにすることなのだ︒つ

まり︑多様な戦後自然法論の展開に一種の方向づけを与えている内的ロゴスの開示を通して︑来たるべき自然法論の理念︑

並びにその根拠と限界を確定しようというわけである︒

﹁我々が生きているヨーロッパの法本質の危険にみちた状況の中で︑自然法理念に帰属するこの世界史的意義を眼の前にして︑自然

法 的 思 考 に 今 日 も ま た く り か え し 投 げ か け ら れ る 批 判 は 色 あ せ て し ま う の だ

﹂  

︵ G

・ B 紆 F m e r ︐ G r u n d l a g e   d e r b 腎 g e ユ i c h e n R 角 F t s O r d n u n g . N w e i 訂 B u c h . E r s 訂 A b t e i F n g

. ︻ 誤 ︸

. S

● N N ↓

︶ と 書 く こ と が で き た 自 然 法 の 黄 金 時 代 な ど

︑ と っ く の 昔 に 過 ぎ 去 っ た 幻 な の だ ︒

②   F . W i e a c k e r

. N u m b e u t i g e n   S t a n d d e r 冨 t u r r 釆 F 監 i s k u 乳 O n L 蛮 声 ∽

・ ロ   ﹁ 高 度 に 合 理 化 さ れ た 現 代 社 会 で は ︑ 公 生 活 の 萬 権 力 や 諸 利 害 は た い て い 制 定 法 規 を 利 用 す る が ゆ え に

︑ 法 律 実 証 主 義 と の 対 決 が 実 際 に 重 要 と な っ て く る ︒

﹂ ⁝ E ・ W O

− f

︑ D a s P r O b

− e m d e r 2 F t u r r 釆 h 廷 臣 r e L

. A u f

− .

∴ 冒 澄 . S .

︸ 芦   ﹁ 政 治 的 社 会 的 権 力 は ︑ 制 定 法 の 形 を と っ た 不 法 を 強 制 す る こ と が で き た し ︑ そ し て

いつでもそうすることができるがゆえに︑超実定法の不在と普遍的に人々を義務づける秩序の必要とが至るところで感ぜられている︒﹂

﹁ 我 々 の 時 代 は 自 然 法 論 を 必 要 と し て い る ﹂ と い う ハ イ テ の 言 葉 ︵ F ・ 召 n d e

→ H e y d ︻ e − E 已 S 訂 n t i a

− p h i

− O

S O

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(6)

i 巨

⁚ N a t 弓 r R E O d 巧 R R F 訂 p O S i t i ま s m 仁 ∽

〜  

︵ H e r a u s g

. く

〇 日 W . M a i h O 訂 r ︶

︸ 岩 か . S .

㌫ ︻

︶   あ る い は

﹁ 自 然 法 へ と 戻 り 熟 考 す る

ことをナチスの支配体制の倒錯秩序への反動としてのみみなし︑それゆえ短命な流行としてすまそうとするならば︑それは不幸な自己

欺 瞞 と な ろ う

﹂ と い う シ ュ ダ ッ ト ミ ュ ー ラ ー の 言 葉 令

. S t a d ︷ m E

− 巧

. D a s   N a t u r r 只 ぎ i m   L i c F t e d e r   g 訪 C E c F t − i c F e n   E r f a F r

仁ngL澄∞.S.↓f︶は︑三〇年近くたった今日でもなお有効性を失っていない︒シュトラウスは︑自然法問題の超歴史性についてかた

っ て い る

︵ し

. S t r a 仁 も . N a t u r r 釆 F t u n d   G 訪 C E c F t e .

︸ 誤 か . S . 望 ︶

一戦後自然法論 メビウスの環 テクスト

しかしながら︑客観的な前実定法の存在を主張する自然法論のテクストをどんなに積み重ねたところでいっこうに自然

法の内容は収欽せず︑逆に自らその出発点と前提を否定してしまうに至るほど︑いたるところで相互にその意味内容を相

反させ︑場合によっては矛盾させさえするような多様な概念がまとまりもなく我々のまわりで乱舞し拡散してゆくという

事態を眼の前にして︑戦後自然法論の流れを一言堅言いつくそうとする勇気など誰ももてはしまい︒仙それはいわばごた

まぜの状態にある︒一方の極には伝統的なトミズムの自然法論やプロテスタンティズムの自然法論が︑他方の極にはヤス

パースやハイデッガーにもとづく実存主義的自然法論︵この概念自体従来の自然法思想の枠内にあっては了解しえない奇

妙なシーニユだ︶が︑そして新カント主義や実質的価値倫理学︑あるいは諸々の人間学に立脚する自然法論がそれらの中

間領域を形づくっている︒しかしそれら多様な自然法論が何について語っているかは明白である︒いうまでもなく︑それ

は﹁自然法﹂である︒ギリシャ以来︑西洋の法思想の歴史を彩っているさまざまな自然法思想と同様︑戦後の再生自然法

思想においてもなお﹁自然法﹂が彼らの唯一固有のテーマであったということに変わりはない︒自然法の意味内容を主観

化し︑従来のそれから一八〇度回転させてしまうフェヒナーの場合でも︑やはり彼のテーマは﹁自然法﹂なのだ︒仏

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

(7)

自然法論 あるいは永遠のシジフォス       八

それでは︑戦後自然法論が二〇〇〇年にわたる西洋法形而上学の系譜につらなるかたちで唯一固有のテーマとみなして

いる﹁自然法﹂とは︑ナチスに対する反省から出発し︑法ニヒリズムの回帰の防止という実践的動機に支えられ︑それを

課題として担った彼らにとって一体果たして何であり︑何であったのか︒そしてまた︑法ニヒリズムの拒否という目的を

今日においてもなおかつ彼らと共有しようとする我々にとって︑何であり何であろうとするのか︒むろんその際︑我々は︑

その問いでもって︑あれこれの自然法の内容について問うているのではない︒そうではなくて︑法ニヒリズムの回帰の防

止という課題を立て渡された戦後の再生自然法論をめぐる状況の中での﹁自然法﹂の意味作用なのだ︒戦後自然法論の内

具的実理の対日化にあたって︑我々はまずそこから出発してみよう︒

ところで︑法実証主義をくつがえすこと︑そのことの中に自己の課題と目的を兄い出さなかった自然法論というような

ものを我々は決して想像しえない︒しかし︑そのことは︑戦後の自然法論が︑しばしば戯画的に描かれる︑法実証主義

との抜きさしならない対立状態に立っているということを意味しはしない︒なるほど︑それに照らせば実定法の不正が白

日のもとにさらされる自然法の権利回復によって法実証主義をくつがえすこと︑それが戦後の自然法論に固有の日的であ

るにせよ︑そのために彼らは︑もはやかつて実証主義と歴史主義によって抑圧された﹁自然法﹂に向かって鳴りもの入り

で進んでいきはしない︒㈱我々は︑彼らのテクストの中に次のような自然法の像︑すなわち﹁実定法から独立し︑それと

対立して細部にわたるまでの規範をともなった︑立法者に由来しないそれ自体で妥当する不変・普遍的自然法体系﹂を接

し求めてもむだであろう︒むしろ逆に︑近代の自然法論によって生み落とされ︑一九世紀の法実証主義の批判の餌食とさ

れ︑以来自然法論の不可能性の意識を人々にいだかしめてきたかかる絶対的自然法観を打破し︑経験主義的な雰囲気の支

配している今日の時代の中でも失われることのない自然法の観念を確立することに︑再生自然法論の努力の多くは向けら

れてきたのである︒㈲事実︑何よりもまず我々が戦後の自然法論のテクストを眼にしたとき︑そこで気づく顕著な現象は︑

(8)

それぞれの論者においてニュアンスの差はあるとはいえ︑ほほそれらに共通してみられる︑自然法概念の意味作用の相対

化と稀薄化という現象である︒㈲

仙 自然法概念の相対化−歴史的自然法 法原理 導きの星 批判の鏡

周知のように︑かつ.て︑法の歴史的制約性︑状況拘束性を指摘することによって︑また自然法と実定法体系の並存の不

可能性を明らかにすることによって︑自然法論の不可能性を根拠づけようとする批判が存在していたが︑再生自然法論を

一貫してつらぬく︑絶対的に妥当する自然法体系の構築への賢明な諦念のゆえに︑今日もはやかかる批判は︑自然法論に

対する反駁としてはそれほど有効な機能を営みえなくなってしまっている︒現に︑近代の自然法論にみられたような︑抽

象的法原理から幾何学的方法を用いて一個の不変・普遍的法体系全体を演繹しようとする企ては︑戦後の自然法論の囲い

の中において︑市民権を失ってしまったといってもよいであろう︒㈲

それでは自然法の相対化が︑戦後の自然法論において︑歴史的・状況的制約性に関していかにして展開されてきたかを︑

次に少しく概観しておこう︒

Ⅰ カトリック自然法論

歴史的変化にあっても︑なお変わることのない人間存在の恒常的本性の存在を承認し︑前提とする伝統的なカトリック

自然法論においては︑そうした本性に対応し︑それに由来する不変・普遍的自然法の存在が承認されているのである冊が︑

しかしそれらはごく少数の法原理に限定されているのが通常である︒㈲それぞれの論者によって﹁絶対的自然法﹂﹁第一

次自然法﹂あるいは﹁自然法則﹂という名で呼ばれるこうした自然法は︑無内容︑といって悪けれは︑形式的︑一般的︑

抽象的なものにしかすぎず︑㈱それゆえ社会の中で現実形成カをもちうるためには︑より具体的に敷紆される必要がある

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

(9)

自然法論 あるいは永遠のyジフォス       一〇

といえよう︒㈹しかし︑人間存在が抽象的な時間・空間の中にあるのではなく︑一定の歴史的刻印を帯びた具体的な社会

の内にあるということがさらに主張される必要もないほど我々の常識となっている今日︑ここでもまた︑絶対的自然法の

具体化は︑抽象的思惟のレベルでの演繹的換作によってではなく︑むしろ︑そのつどの変化する具体的な歴史的状況への

適合によっておこなわれなければならないということについてはは意見の一致がみられるといえよう︒仙

①   ハ イ ン リ ッ ヒ

・ ロ ン メ ソ

﹁自然法の永劫回帰﹂という象徴的な題名をもった著作を一九三六年に︑その第二版を一九四七年に発表したロンメソは︑そこで次の

ように語っている︑すなわち﹁久遠の哲学の自然法論と︑あらゆる法領域を細目に至るまで演繹的に規律しょうとした一七・八世紀の磨

大 な 諸 論 文 と の 間 に は

︑ 深 淵 が 存 在 す る

﹂  

︵ S

. N N N

︵ 二 二 四 貢 ︶

︶ と

︒ 彼 は 自 然 法 の 自 明 の 原 理 と し て ほ 本 来 た だ 二 つ の 規 範 ︑ す な わ ち

﹁正をなし︑不正をさくべし﹂﹁各人に彼のものを﹂しか属さないという︵S.NN∽f ︵二二七貢︶︶︒これら二つの原理と︑そこから導出 される﹁父母を尊うべし﹂ ﹁汝殺すなかれ﹂ ﹁汝姦淫するなかれ﹂ ﹁盗むなかれ﹂ ﹁偽証するなかれ﹂ ﹁虚言するなかれ﹂ ﹁誹誘するな かれ﹂という﹁禁止的自然法﹂のみが︑いついかなるところでも妥当するにすぎない︵S.NNの︵二二八貢︶︶︒これらの原理からさらなる 推 論 に よ っ て え ら れ る 帰 結 は ︑ も は や そ う し た 不 変 ・ 普 遍 的 性 格 を も ち え な い の で あ り ︵ S . N u O ︵ 二 三 二 頁

︶ ︶

︑ し た が っ て

﹁ よ り 偶 然 的

な諸状況に︑この推論の帰結を正しく適用するためには︑あらゆる事情をもっと立ち入って考慮することが要求されてくる︒﹂ ︵S.㌍○

︵二三二頁︶︶︒たとえば︑﹁私所有権は尊重さるべし﹂は﹁汝盗むなかれ﹂から導出されてくるが︑それはいついかなるところでも妥当

するというわけではない︒というのも︑極度の困窮の状態にある者は︑この緊急状態に対処するために︑他人の所有物を利用しうるのだ

から︒たとえば︑フラシク時代のドイツ古法においてほ︑旅人は︑その事の修理のために︑他人の森で木を伐り︑他人の草刈場でその家

畜に草を喰わせることを許されていた︑という︵S.NN¢︵二三一貫︶︶︒自力救済の許されるこうした場合は︑社会的状況の相異や︑その

変化と共に当然変わってゆくものであろう︒それゆえ﹁社会状態の変化と共に︑その効力において変わることのない自然法規範もその適

用 に

お い

て 変

化 す

る ﹂

︵ S

. N

N や

︵ 二

三 一

貫 ︶

︶ ︒

㊥   ヨ セ フ

・ フ ッ ク ス

フ ッ ク ス に よ れ ば

﹁ 人 間 の 本 性 は 本 質 的 に 不 変 ﹂ で あ り ︵ P e M   n a t u r a e . S . 0 0 ー ︶

︑ そ

こ か

ら し

て 常

に 至

る と

こ ろ

で 妥

当 す

る 絶

対 的

自 然

(10)

法 − た と え は

﹁ 善 を 行 な え

﹂  

﹁ 各 人 に 彼 の も の を ﹂   ﹁ 良 心 の 自 由 ﹂   −   が 存 在 す る と い わ れ る 甘

・ a

・ 〇

・ S

・ 笠

︶ ︒ し か し ︑ 彼 は ま た 他 方︑人間存在の歴史性を明確に承認し前提している︒すなわち﹁人間は時間的に生きているのであり︑歴史の中で生きている﹂︵a・a・〇・

S.讐︶︒つまり﹁人間なき歴史的状況というものが存在しないのと同様︑具体的な歴史的状況の外にある人間というものも存在しない

の で

あ る

﹂  

︵ O

r i

e n

︷ i

e r

u n

g .

N O

B d

. こ

蛮 声

∽ .

− 言

︒ そ

れ ゆ

え ︑

抽 象

的 な

絶 対

的 自

然 法

の 具

体 化

に あ

た っ

て は

︑ 人

間 社

会 の

か か

る ﹁

歴 史

的状況の固有性﹂が掛酌されなければならないのであり︑かかる具体化によってそのつどの状況に適った︑そして状況の変化に応じたと

こ ろ の 可 変 的 な 相 対 的 自 然 法 が 生 ま れ る の で あ る

︵ L e M n 已 u r a e 読 . 父 r 爪 芯 f ︻

○ ∽ L O

↓ ︶

︒ ㈹ な る ほ ど

︑ 絶 対 的 自 然 法 の 原 理 は ︑ 人 間 社

会の歴史的変化の中で形式的に変わらないにせよ︑人間本性の存在様態の偶有的変化に応じて︑マテリアルに変わってゆかなければなら

ないのである︒かくて﹁自然法とは︑二つのエレメン\すなわち︹不変的本性を有する︺人間存在と︑彼がその中で生きている歴史的

状 況 に も と づ い て

︑ 人 間 に 帰 属 す る と こ ろ の 法 ﹂ の こ と で あ り

︑ そ れ は た え ず ﹁ 存 在 拘 束 的 で あ り

︑ 歴 史 的 で あ る ﹂   ︵ O r i e n t i e r u n g

● N O

B d

. こ

誤 P

  S

. E

S ︒

㊥   ア ル フ レ ッ ド

・ フ ェ ア ド ロ ス

フェアドロスにおいても︑人間存在は﹁一定の不変の基本構造﹂を有すると共に︑他方では一定の時代と文化における一定の民族のメ

ン バ ー と し て

﹁ 歴 史 的

・ 社 会 的 存 在

﹂ で も あ る と さ れ る ︵ R R F t s p h i

− O S O p h i e

︐ N A u f −

・ ㌫

・ N 言 ︒ こ の よ う な 人 間 存 在 の 在 り 方 に 応 じ て ︑ 自然法は不変の第一次自然法と可変の第二次自然法の組みあわせとして提示されるのである︵a・a・〇・S・N讃︶︒すなわち︑人間存在の

﹁ 核 た る 本 質

﹂ に 対 応 す る 第 一 次 自 然 法 は ︑ な る ほ ど あ ら ゆ る 時 代

︑ 民 族 に と っ て 妥 当 す る 不 変 の 自 然 法 で あ る

︵ a

・ a

・ 〇

・ S

・ N 詔 ︶ と い

われるが︑それらは開かれた抽象的原理にすぎず︑したがってたえざる歴史的な変化の中で﹁場所と時と文化状態に応じた具体化﹂が必

要 と さ れ る ︵ a . a . 0 . S . N 謡 f ︶

︒ そ の さ い 具 体 化 は ︑ 通 常

︑ 第 一 次 自 然 法 に よ っ て 措 定 さ れ て い る 目 的 が ︑ 一 定 の 所 与 の 状 況 の も と で

いかなる仕方で達成されうるのかと問うことによっておこなわれる︵a・a・〇・S・N遥︶︒たとえば﹁国家権力は一般の福祉に配慮しなけ

ればならない﹂という第一次自然法から︑﹁必要な食糧品を獲得する可能性をすべての市民に与えることを国家は義務づけられている﹂

という規範を引き出すことができようが︑この原則の適用は︑異なった事情の下では異なった解決を要求するに至る︒﹁食糧品が豊富に

ある場合︑市民が食糧品を自由な市場で手に入れる可能性を保障すれば︑国家権力は通例自らの義務を果たしたことになろう︒しかし︑

食 糧 品 が 不 足 の 場 合 に は ︑ 第 二 次 自 然 法 は 食 糧 品 の 統 制 配 給 を 要 求 す る こ と に な ろ う

﹂  

︵ a

・ a

・ 〇

・ S

・ N 謡 f

︶ ︒ か く し て

︑ 自 然 法 の 第 二 次

規範は常に可変的︑状況拘束的であり︑それゆえ﹁第一次自然法が恒常的であるにせよ︑歴史の流れの中で獲得される第二次自然法は必

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

(11)

自然法論 あるいは永遠のシジフkス       一二 然 的 に 動 的 で あ る

﹂  

︵ S t a t i s c h 訪 u n d   d i g m i 切 C F 銀 N a ︻ 仁 r r 鍔 h ︷

− S

● ヒ 基 ︵ 原 他 訳 ﹁ 自 然 法 ﹂ 一 七 五 頁

︶ と い わ れ る

Ⅰ プロテスタント自然法論

ヘ ー ル は モ N u r   F r a g e   n a c h d e m   N a t 弓 r e C h t i m   d e u t s c h e ロ P r O t e S t a ロ t i s m u s   d e r   g g e ロ W a r t

● モ に お い て

︑ 今 日

のドイツにおけるプロテスタントの自然法論を概観したあとで︑統一的な像をそこに求めることはできないとことわりな

がらも︑プロテスタンティズムの自然法概念においては︑歴史性及び状況拘束性がその本質的エレメントとして考慮され

ねばならないという︒㈹むろん︑一方で﹁倫理的価値の不変化性﹂という理念が堅持されている㈱ことにかわりはないが︑

ここでもまた﹁自然法は︑人間の歴史とならんで︑あるいはその上にあるのではなく︑むしろその中にあるもの﹂として

とらえられている︒㈹

スイスのプロテスタントの神学者であり︑哲学者であるエミル・ブルンナーによれば︑正義には二種類あるという︒すなわち︑一つは

神によってつくられた人間の本性にもとづくところの﹁絶対的正義﹂であり︑他は﹁もはや神の創造に即していない︑現実に関しての正

し さ

﹂ と し て の ﹁ 相 対 的 正 義 ﹂ で あ る ︵ D i e G e r 釆 h t i g k e i t . S . ロ の

︵ 酒 枝 訳

﹁ 正 義 ﹂ 一 四 一 貫

︶ ︶

︒ と こ ろ で ﹁ 国 家 的 − 実 定 法 的 領 域 で は︑神の創造秩序をかんたんに法律として立てることは出来ない﹂ ︵a.a●○●S●↑︸00 ︵一四二︑一四四頁︶︶︒それというのも︑人間が

本来の創造秩序から離れている以上︑抽象的な熱狂的正義論をふりかざせば︑それは事態を改善するよりも︑むしろかえって悪化せしめ

る こ と と な る か ら で あ る  

︵ a

. a

. 0

. S

. ︻

︸ ↓

︵ 一 四 二 頁 ︶

︶ ︒ そ れ ゆ え

︑ 正 義 の 秩 序 も ま た 現 実 に 即 し て 変 更 さ れ ざ る を え な い の で あ る ︵ a . a ● 0 . S .

︻ ︸

↓ ︵ 一 四 三 頁

︶ ︶

︒ こ う し た 絶 対 的 正 義 の 変 更 を ブ ル ン ナ 1 は

﹁ 事 実 的 な る も の へ の 制 限 的 順 応 ﹂ と 呼 ん で い る

︵ a

. a

. 0

. S

. u 0 0

︵ 一 四 三 頁 ︶

︶ ︒ 現 実 的 な 正 義 の 秩 序 は

︑ ﹁ 絶 対 的 正 義 ﹂ と ﹁ 現 実 的 な る も の ﹂ と の 間 の 折 衷 に 他 な ら な い の で あ り

︵ a

. a

. 0

. S

. ︸ 誓 ︵ 一

四五頁︶︶︑かくて我々は︑一方で絶対的正義を把持しっつ︑他方で﹁歴史的に与えられている諸事情を︑賢明にかつ良心的に顧慮する

こ と に よ っ て の み

︑ あ る 具 体 的 な 状 況 の 下 に お け る 最 も 正 し い 秩 序 を 見 出 し う る の で あ る

﹂  

︵ a

. a

. 0

. S

. ︸ N ︻

︵ 一 四 六 貢 以 下 ︶

︶ ︒

Ⅱ 世俗的自然法論

(12)

おそらく後世の法思想史家が︑戦後の自然法論の一つの大きな特徴としてとりあげることになろう︑実質的価値論︑現

象学︑実存哲学等の影響下に展開された多様な世俗の存在論的・人間学的自然法論にあっては︑自然法の歴史性︑状況拘

束性の承認が︑彼らの自然法論存立の条件とさえなっているように思われる︒

① ゲオルク・ダーム

ダームはモDeu訂ch窃R釆htモの中で︑歴史的・文化的自然法の構想を展開している︒彼によれは︑自然法は﹁あらゆる時代・民族に 妥当する不変的妥当性をもった法体系﹂といったものでは決してない ︵S.N¢.∽P会︶︒むしろそれは﹁一定の文化連関の中におかれた 歴史的存在としての人間﹂に適合し︑由来するところの文化法・歴史的自然法である ︵S.N貿f︶︒こうした自然法は︑人間存在の特定の 文化連関・生活諸関係の中に︑つまり事物の本性・人間の本性の中に︑そしてまた︑人間の歴史的・文化的現存在の中に含まれ︑さらに は個人及び社会の法意識・法感情・慣習の中に反映されるところの実定法から独立した前法秩序に他ならない︵S●∽∽ff︶︒それゆえ︑自

然法は﹁静的な法ではなく︑むしろ既にそれ自身個別的かつ具体的であり︑我々にとって我々の内に生きている法であり︑あらゆる民族︑

歴史のあらゆる発展段階において共通の法ではなく︑むしろ歴史的に生成し︑我々の本質に対応し︑たえず変化する法である﹂といわれ

る  

︵ ︵

S .

会 ︶

㊥   ヘ ル ム ー ト

・ コ ー イ ン グ 戦 後 い ち 早 く モ D i e O b e r s t e n   G r u ロ d s 賢 N e d 灰 R 只 h 訂 モ d r u n d 邑 g e d e r   R R F 訂 p h i

− O S O p h i e モ と い う 二 つ の 大 部 の 著 作 を ひ っ さ げ

て登場したコーイングの実質的価値論にもとづく自然法論もまた︑法の状況拘束性についての明確な認識と︑抽象的な体系思考に対する

明白な拒否をその前提としてもっている︒彼はまずはじめに︑あらゆる法秩序がその実現に奉仕すべき法理念の中心的なるものとして︑

﹁ 正

義 ﹂

と ﹁

人 間

の 尊

厳 ﹂

を 挙

げ て

い る

︵ G

r u

n d

註 g

e d

e r

R e

c h

t s

p h

i −

O S

O p

h i

e −

S ●

亡 石

︶ ︒

し か

し ︑

そ れ

ら 法

理 念

は ︑

抽 象

的 な

開 か

れ た

原則にすぎない︒たとえは﹁等しきものは等しく取りあつかえ﹂という正義の公式は︑﹁いつあるものが等しく︑また︑いつ異なって取

り あ っ か わ れ る べ き か

﹂ に つ い て は 何 も 答 え な い

︵ a

. a

. 0

. S

. ト ト 巴

︶ ︒ 彼 は こ の 原 則 の 具 体 化 に あ た っ て ︑ 具 体 的 な 人 間 存 在 の 状 況 そ の

ものに帰ることを要求する︒たとえは︑正義が要求する﹁異なった取りあっかい﹂は︑ただ事物に即して基礎づけられるべきなのであり︑

﹁社会生活の一定の繰返される基本的状況・事態﹂としての﹁事物の本性﹂が︑開かれた法理念に欠けている具体的内容を与えるのだと

自然法論 あるいは永遠のシジフォス 一三

(13)

自 然 法 論   あ る い は 永 遠 の シ ジ フ ォ ス                                             一 四 い わ

れ る

︵ a

・ a

・ 〇

・ S

・ ロ ブ E N ︶

︒ そ し て

︑ こ う し た 事 物 の 本 性 を 考 慮 し て 法 理 念 か ら 導 き 出 さ れ る 原 則 が ﹁ 自 然 法 ﹂ に 他 な ら ず ︑ そ れ ゆえ︑自然法はアプリオリな法理念と経験的に知られうる事物の本性とのアマルガムなのである︵a.a.0.S.︸雷︶︒すなわち﹁自然法

は︑その倫理的基礎においてほアプリオリではあるが︑それが一定の状況へ関係づけられ︑人間の本性あるいは事物の本性の一定の所与

か ら

発 す

る 限

り に

お い

て ︑

経 験

的 な

要 素

を 含

ん で

い る

﹂  

︵ a

. a

. 0

. S

. ︻

票 ︶

︒ ㈹

㊥   エ ド ゥ ア ル ト

・ シ ュ プ ラ ン ガ ー コ ー イ ン グ の 自 然 法 論 へ の 批 判 と し て 書 か れ た モ z u r F r a g e d e r E r n e u e r u 点 d 袋 N a t u r r 釆 h 訂 ㍉

︵ i n ⁚ 冨 t u r r 釆 h t O d e r R R E s

. p O S i t i ま s m u s 〜 S ・ 禦 丁 亡 忘

︶ に お い て ︑ シ ュ プ ラ ン ガ ー は

︑ ﹁ 歴 史 的 弾 力 的 自 然 法 ﹂ の 構 想 を 展 開 し て い る

︒ 彼 は ︑ 一 方 に お い て

︑ 人 間 の生活構造の類型の存在︑また超時間的な価値原理の妥当︑さらには自然法命題の一定の存在を承認しながらも︵S.芝︑他方で︑﹁ひ

とが内容をもった永遠の正しい規範の体系を構築するにあたって︑そのよりどころとしうるような歴史をこえる絶対的な哲学的立場とい

ぅものは存在しない﹂︵S・革との観点から︑これらの命題が適用可能となるのは︑ただ﹁歴史的−具体的なるもの﹂が顧慮される場合

に限られるという︵S・富︒つまり﹁真正でかつ正しい法の問題は︑ただ現在の状況からとらえうるにすぎないのであり﹂︑﹁そのつど

の正しい法についての反省は︑所与の歴史的状況の解釈なくしてほ決しておこなわれない﹂のである︵S.登︒かくて﹁自然法はいかな

る不変の内容をもつものではない﹂︵S・¢N︶観念的な法の規範図式を展開しようとする古典的自然法論に対しても︑また︑人間の秩序の

中に︑尺度となるような永遠の規範を求めようとするコーイングに対しても疑問を投げかけ︑もし人がそれでもなお自然法の存在を主張

しょぅとするならば︑人はせいぜい﹁歴史的−弾力的自然法﹂について語りうるにすぎないと結論する︵S.諾︶︒

④   ウ ェ ル ナ ー

・ マ イ ホ ー フ ァ ー

ハイデッガーの存在論に依拠しっつ︑自然法論を展開するマイホーファーの場合︑その初期の著作においてほ︑自然法論は事物の本性

論として展開されている︒﹁事物の本性からの超越的法命題の導出は次のような試みである﹂と彼はいう︑すなわち﹁実定法の当為命題

を実定法規の外部にあるものから導き出そうとする試み︑そのさい至高の法原則からの抽象的な自然法の演繹の仕方においてではなく︑

む し ろ 法 素 材 の 中 に 存 在 し て い る 法 的 事 態 か ら ︑ そ れ ぞ れ の 時 代 の 具 体 的 自 然 法 を 導 き 出 す 試 み で あ る

﹂  

︵ D i e N a t u r d e r S a c F e L n ⁚ D i e 呂 t 0

− O g i s c 訂 B 惑 r g d u n g   d 灰 R 釆 F t s ︐ S ● 票 ︶

︒ こ こ で 法 的 事 態 と は

︑ ラ イ ナ ハ の い う

﹁ 特 殊 に 法 的 な 基 本 概 念 ﹂ と い っ た も の が

考えられているのではなく︑生活事態︑つまり文化世界における人間存在の共存の態様である文化事態−売買︑黄貸借︑窃盗⁝⁝−

が考えられている︵a︐a●〇°S●票f︶︒日常的世界の内で他者と共存して生活している我々は︑﹁すべての文化的事態において︑売手と買

(14)

手 ︑ 医 者 と 患 者 ︑ 教 師 と 生 徒 ︑ 父 親

・ 母 親 ⁝

⁝ と い っ た 一 定 の

﹃ 特 性 ﹄ を も っ た 人 間

︹ A

− s s e i n

︺   に 出 会 う

﹂ ︵ a ● a . 0 . S .

↓ 〇   の で あ り ︑ そ の 際 ︑ た と え ば 売 手 と 買 手 の 間 に は ︑ 一 方 か ら 他 方 へ の 指 示   ︵ く e r 焉 i s G n g ︶   と

︑ そ れ に 対 応 す る 応 答   ︵ E n 訂 p r 釆 F u n g

︶   が 存 在 し て いる︵a・a・〇・S・↓璧︶︒このようにしてA−玖ein相互の間に︑あるものが他の也るもののために差し向けられているという状態︑つまり 事 情

︵ B e w a P d t n i s ︶ が 生 み 出 さ れ る の で あ り ︵ a . a . 0 . S .

↓ 含

︑ そ れ が

︑ 互 い に 差 し 向 け ら れ 応 答 し あ っ て い る A − 訟 e i n に ︑ あ る も の は 他 の あ る も の に と っ て の あ る も の で あ る と い う 有 意 義 性

︵ B 乳 e u 訂 a m k e i t

︶ を 与 え る こ と に な る   ︵ a ● a ● 0 ︐ S ● 謡 ︶

︒ こ の 有 意 義 性 か ら ︑ A − s s e i n が 互 い に 他 の も の に 対 し て も つ 期 待 ︵ E r w a r t u n g ︶ が 基 礎 づ け ら れ る こ と と な る ︵ a . a ● 0 ︐ S ● 謡 ︶

︒ さ ら に こ の 期 待 か ら

︑ そ れ に 対 応 す る 行 動 を と る よ う に と い う 他 者 へ の 要 求

︵ F O r d e r u ロ g

︶ が 生 ま れ て く る

︵ a

. a

. 0

. S

. 謡 f ︶

︒ そ し て こ の 要 求 こ そ が ︑ 自 然 的 ・ 合

理 的

義 務

︵ P

f c

F t

︶ ︑

当 為

︵ S

O e

n ︶

  の

存 在

論 的

根 拠

に 他

な ら

な い

の で

あ る

︵ a

. a

. 〇

. S

. ヨ

︶ ︒

具 体

的 状

況 の

下 で

︑ か

か る

事 物

の 本

性 か

ら生じる当為が何であるかを知ろうと思えば︑我々は︑自分自身を他者の役割におき入れて︑他者となった自分自身から何を期待し︑何

を要求しうるかと問えばよい︵a.a.〇.S.遥︶︒こうして発見された当為が︑そうした役割・状況にあるすべてのA−玖einにとっての普

遍的な行動規則として妥当せしめられるとき︑我々は先の期待を﹁正当﹂な要求へ︑またそれに対応する義務を﹁正当﹂な義務にまで高

めることができるのである︵a.a.0.S.遥︶︒このようにして︑文化的な生活事態としての事物の本性から具体的自然法が獲得されるに

至るのであるが︑かかる自然法は︑A−S給inが本来的に歴史的存在であり︑一定の役割と状況のもとにおけるあるものの他者への期待・

義務が時代の変化と共に変わる以上︵a.a.0.S.謡︶︑歴史的に変化する自然法であり︑いつどこででもすべての人に対して妥当すると い う の で は な い が

︑ 今 こ こ で ︑ こ の 役 割 と 状 況 の 内 に あ る 人 々 に 対 し て 妥 当 す る と こ ろ の も の で あ る ︵ a ● a ・

〇 ・ S ・ 0 0 N f

︶ ︒

㊥   エ ー リ ッ ヒ

・ フ ェ ヒ ナ 1

﹁ 不 変 で か つ 静 的 な 絶 対 的 秩 序 に つ い て の あ ら ゆ る 観 念 を

︑ 我 々 は 拒 否 し な け れ ば な ら な い ﹂   ︵ R 釆 g s p h i − O S O p h i e − S ・

︸ 笠

︶ ︒ 世 界 の

内での人間の自由な創造的投企を説く実存哲学に立脚するフェヒナーにとって︑予め与えられた絶対的自然法という観念ほど無縁なもの

は他にない︒しかし︑法規定のすべてが今ここでの自由な決断に委ねられているのではない︑と彼はいう︒というのも﹁法は︑自由な秩

序に属するより以上に︑レアルなものに拘束された秩序に属しているということを我々は疑いえないのだから﹂ ︵a・a・〇・S・NG︶︒数多 く の 法 規 は ザ ッ ハ リ ッ ヒ な 所 与 に よ っ て 明 白 に 決 定 さ れ る の で あ る

︵ a

. a

. 0

. S

. N

∽ ○

︶ ︒ 事 物 論 理 に よ っ て 明 白 な 解 決 が え ら れ な い 場 合 に

はじめて︑人はいくつかの可能性を選択する必然性の前に立たされる︒その場合でもこの決断は︑たいていは無前提になされるのではな

い ︒ そ れ は 先 行 す る 世 代 に よ っ て 獲 得 さ れ ︑ そ の 正 し さ が 確 証 さ れ て い る ﹁ 前 決 断 ﹂ に も と づ い て 行 な わ れ る ︵ a ・ a ・

〇 ・ S ・ N 芦 N ∽ 豊 ︒

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

(15)

自然法論 あるいは永遠のyジフォス       一六

たとえば︑西ヨーロッパでは︑私的所有権の制度は先行世代によって獲得された前決断であり︑政治関係が不変である限り︑所有権に関

する法規定の問題の解決はそれを前提として企てられることになる︒しかし︑前決断がもはや役に立たない場合や︑あるいはまったく新

たな状況のゆえにはじめから新たに決断しなければならない場合には︑いかなる具体的規準もなしに決断が要求される︵a.a.0.S.N芦

N芦的∽○︒実存的決断が不可避とされるこのような限界状況は︑通俗的見解に反して非常に限られた範囲にすぎないのであり︑さらに

その場合でも︑決断の無前提性は直ちにその盗意性を意味するものではない︒フェヒナーほ︑その客観性の保障を﹁決断の未来に対する

被 拘

束 性

﹂  

︵ a

・ a

● 〇

・ S

● N

∽ ∽

︶ や

﹁ 決

断 の

主 体

は 同

時 に

客 観

的 な

も の

の 生

起 の

た め

の 舞

台 で

あ る

﹂ ︵

a .

a .

0 .

S .

N ∽

A ︶

﹁ 投

企 に

お い

て 投

げ る

ものは人間ではなく存在体である﹂︵a︐a︐○●S●N∽∽︶というサルトルやヤスパース︑ハイデッガーのテーゼに求めている︒もっとも︑未

来に対する﹁責任﹂といい﹁存在﹂ ﹁舞台﹂というも︑それらは具体的規準ではありえず︑限界状況における人間の決断はつねに失敗の

危険性にさらされている︒いかなる尺度にも導かれない創造的決断︑未来へ向かっての成功するかも失敗するかもしれない敢行によって

自然法が生成する︵a●a●○●S●N告f︶︒かくて︑フェヒナ1によれば︑自然法とは︑過去と未来の間に宙吊りにされつつ︑今ここでその

っど生成してゆく自然法なのだ︒それは何と静的で無時間的な絶対的自然法から遠くへだたっていることか︒

カトリックの自然法論においてであれ︑あるいはプロテスタントの自然法論︑世俗の自然法論においてであれ︑こうし

て︑具体的・歴史的なるものとしてとらえられた自然法は︑決して実定法にとって代わろうとするものではない︒自然法

はなおそれ自体で現実形成力をもちうるほど具体的でもなければ適用可能でもないのだから︑それは実定法を︑そしてま

た立法者を不要とするものでは決してなく︑むしろ逆に積極的に要請するのであると考えられている︒

吊 まず第一に︑もっとも自明と思われるような自然法規範︑たとえは﹁殺人の禁止﹂については︑ズユスクーヘン等

によってそれ自体で妥当する﹁法﹂とさえみなされているが︑㈲こうした自明の自然法規範でさえも︑その有効性の見地

からして︑立法者による法律への書きかえが必要であると考えられている︒というのも︑社会のすべての人々がそれに従

うとは限らないのであり︑それゆえ実効性確保のためには︑刑罰の執行権限とその能力をもった立法者による裁可が要請

されるというわけである︒㈹

(16)

㈲ 今挙げたような﹁単純な実定化﹂の場合をのぞいては︑歴史的・文化的に条件づけられた複雑な社会・経済・政治

的諸関係の下において︑今ここで果たしていかなる規範が自然法によって要請されるかはきわめて困難な問題であるとい

えよう︒たとえば︑先のフェアドロスの例において︑﹁食糧品が不足の場合には︑第二次自然法は統制配給を要求する﹂

としても︑今ここで統制配給が要請されるほどに食糧が不足しているか否かは︑究極的な確実さでもって認識しうるとは

限らないであろう︒それゆえ︑統制配給がなされるべきか否かは︑最終的には︑立法者の決定に委ねられざるをえないの

である︒ここでは単なる裁可をこえて︑具体的な決定が要求されているといえよう︒㈹

㈲ このような立法者による決定の必要は実は︑人間の認識能力の不完全さに由来するものといえようが︑さらに︑そ

の他に︑自然法自体が原理的に立法者に広い裁量の余地を与えている場合が存在している︒たとえは︑私的所有権が自然

法に属するということは︑多くの自然法論者の主張するところであるが︑同時にまた︑無制限の権利が認められるもので

はない︑ということについても一致がみられる︒ところで︑私的所有権が或る事情の下において何らかの制限に服すると

して︑いついかなる条件の下で︑どの程度の制限が可能であるかについては︑自然法は︑せいぜい所有権者の利益を不当

に侵害するような制限は許されないという程度のことしかいえないであろう︒あるいはまた︑他人の所有権への侵害が可

部的であるとして︑その刑罰はどの程度のものでなければならないか︑についても確定的な答を自然法に期待することは

できない︒榊こうした場合︑立法者には多様な解決の可能性が与えられているのであり︑彼はそのつどの社会・経済・政

治的状況を掛酌して︑複数の選択肢のうちから︑今ここでもっとも妥当と思われる一つを選択決定しなければならないの

である︒㈲ ﹁自然法は︑人間の法秩序による任意ではないが︑しかし多くの異なった解決を許している﹂鋤のであり︑こ

うした場合︑自然法は︑そのときどきの状況︑あるいはそれに対応した立法者の選択・決定によって多様な屈折変更をこ

うむらざるをえなくなる︒幽かくて﹁実定法は純粋な定立でもなければ︑単純な自然法の実定化でもなく︑むしろ両者の

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

(17)

自然法論 あるいは永遠のyジフォス

混合したものになる︒﹂餌

伽 以上の吊㈲価の領域の外側︑つまり自明の自然法原理から遠くへだてられたところには︑自然法とは関係のない法

領域が広がっている︒㈲たとえは︑フェアドロスは︑食糧不足の場合統制配給が実施されるべきだとして︑その際﹁配給

がいかなる仕方でおこなわれるべきかは︑ただ実定法によってのみ規定されうる﹂という︒幽あるいは︑シュダットミュ

ーラーは︑技術的規則を多く含んだ﹁交通法﹂をかかる例として挙げている︒研このような自然法の沈黙領域においては︑

﹁自然法は︑立法者に法原理を前もって与えることなしに︑彼が決定することを正当化する﹂榊のであるといわれる︒

かくて以上から明らかなごとく︑自然法はいかなる場合においてであれ︑実定法と同じ意味における法でもなければ鋤

ましてや実定法にとって代わりうるほど充実した法体系でもない︒榊自然法は多くの場合その指示をより正確に実現する

ようにという指図を含んでいるだけであり︑その細目は開かれたまま︑立法者に自由な活動の余地が与えられている︒糾

っ ま

り ︑

自 然

法 は

︑ 立

法 作

業 に

出 発

点 を

与 え

る も

の 鋤

と し

て 法

体 系

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  ︵

R a

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  形

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理 ︵

G e

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・ SprロZip︶ にすぎないのであり︑㈱そしてまた︑法定立にあたって立法者が配慮し︑その実現をめざすべき導きの星・理

念に他ならないのである︒糾導きの星をめざしつつ︑宣言︑決定︑裁量︑補充といった作業を通して︑今ここでの社会的

状況に適合するように︑与えられた骨組みを具体化し︑肉付けし︑一つの現実形成力をもった法体系にまで仕上げること

は︑究極的には立法者に与えられ委ねられた課題であり仕事なのである︒鰯それゆえ︑自然法の存在は立法者をおはらい

箱には決してしないのだ︒餉

こうした法の骨組み︑あるいは導きの星として︑自然法は立法者による実定法化を通して︑実定法の中にとり入れられ

具体化されることによってはじめて法としての現実的な生命とカを獲得するのであり︑抑逆にまた︑他方実定法体系は法

の理念としての自然法に与りそのつどの具体的状況にあわせてそれを自らのうちにとり入れることによってはじめて︑単

(18)

なる裸の強制秩序としてではなく︑倫理的︑内的に義務づける妥当せる法規範の体系となるのである︒餉この意味におい

て︑導きの星として自然法は︑それ自体では法ではないにせよ︑実定法をして法たらしめるものとして︑実定法の根拠で

あるといわれる︒的それゆえ︑自然法は実定法と対立し︑その外に並存してあるのではない︒むしろ自然法が実定法に内

存し︑㈹両者が相互に相即しあうことによってはじめて今ここで妥当する法が生まれてくるのである︒舶かくして今日︑

自然法論者たちは﹁自然法か実定法か﹂という法実証主義者によって仕掛けられた二者択一を無効にし︑﹁自然法と実定

法の統二についてかたるのである︒的

しかし︑﹁と﹂は結合のしるしであると同時に︑分裂・対立のしるしでもある︒幽すなわち︑実定法に法たる妥当性を

与える自然法は︑他方それから妥当性を奪いとるものでもある︒﹁導きの星﹂は実定法がそれにもとづいてはかられ批判

される﹁批判の鏡﹂なのだ︒㈲実定法はこの尺度にかなっている限りにおいて法たりうるが︑しかしそれにはかって理念

実現への努力がいささかもなされていない場合には︑法たる本質を欠くこととなる︒個それは︑もはや義務づけるカをも

たない﹁みせかけの法﹂にすぎない︒㈹立法者に与えられた活動領域は︑もともと当然のこととして︑・自然法によって枠

づけられ制限されたものでしかありえない︒法定立にあたって出発点を与える法体系の骨組み ︵Rahmenr釆ht︶ として

の 自

然 法

は ︑

同 時

に ま

た ︑

立 法

者 の

自 由

を 枠

づ け

る 法

︵ R

a h

m e

n 蒜

C h

t ︶

  で

も あ

る ︒

㈹ そ

れ は

法 の

理 念

  ︵

H d

e a

− r

e c

F t

︶ と

して実定法の根拠であると同時に︑他方において︑批判の鏡として︑それをこえたところから確実に不法がはじまる法的

なるものの空間を限定するもの ︵ScFank鎗reCだ︶ でもある︒㈹法理念をめざしての立法者による時代にかなった法形 成は︑自然法によって予示されたこうした限界の中でのみはじめて可能とされる︒−deaFechtとして自然法は︑単に相

対的性格をもっているにすぎない1−というのも︑それは多様な仕方で実現されるがゆえに1−のに対して︑Schrank?

srechtとしては︑絶対的な性格をもっている︒細もし︑自然法によってひかれた限界が無視され侵害されるそのときに

自然法論 あるいは永遠のyジフォス

(19)

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

は︑確実に﹁自然法は実定法を破る﹂榊のだ︒軌 物 錬金術的変成 − 自然法 ある・いはメビウスの環

このように戦後の再生自然法論は先の課題に対して︑実定法体系と対立する不変の自然法体系を主張することによって

ではなく︑自然法を歴史化し﹂しかもごく限られた法原則に限定し︑それを一方では︑実定法の骨組み︑あるいは理念︑

導きの星として︑したがってまた実定法の根拠として︑他方では︑立法者のこえてはならない限界︑したがってまた実定

潜がそれにもとづいてはかられ批判される尺度︑批判の鏡として相対化してとらえることによって答えようとしたといえ

よう0

しかしながら︑自然法はアプリオリに導きの星であり︑批判の鏡であるわけでは決してない︒自然法がそうした機能を

営心ことができるのは︑人が︑自然法を自らに引きうけ実現されるべき目標として未来に立て︑ひるがえってそれによっ

て現在の状況を照らすことによってでしかない︒それは元来ニュートラルなものであり︑それ自体としては﹁批判的でも

なければその道でもない︒﹂輯それに庵かかわらず︑戦後の自然法論においては常になによりもまず自然法は︑批判的な

機能を営むものとしてとらえられてきたのだ︒すなわち︑﹁自然法は実定法の理念である﹂ ﹁自然法は実定法の制限であ

る﹂ ﹁自然法に合致しえない実定法は法たりえず拘束力をもたない﹂というわけだ︒我々が戦後の自然法論のテクストを

読むとき︑至るところで眼にするかかる自然法と実定法との関係をめぐって展開されるテーゼが︑果たして客観的な真理

値をもつか否かはともかくとして︑それらはロラン・バルトのいう這critureモ個として︑戦後の法世界における批判的

な状況の全体をさし示していたということだけはたしかであろう︒餌

超越的な法命題の存在の論証をめざしてつづられるディスクールは︑戦後の自然法論に固有のこれら三つのテーゼによ

って形成される批判的三角錐の中でかたられるがゆえに︑それらディスクールのテーマとしての自然法は︑﹁批判的でも

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なければその道でもないニュー土フルな超越的法命題﹂としてではなく︑ましていわんや保守的な現状肯定の機能を営む

ものとしてでもなく︑まさに立法者を導き実定法を制限し︑批判し︑場合によれはその妥当性を打ち破り︑その拘束力を

奪いとるものとして観念されるに至るのである︒自然法は︑あの批判的三角錐の中でいわば錬金術的変成をこうむり︑一

定の観念形態=イデオロギーを獲得するのだといえよう︒

ところでこのような変成をこうむった自然法は︑いまだこの段階では法命題としての実体を失っているというわけでは

ない︒自然法というコトバの形而上学的輯痕跡を︑それはまだ保蔵している︒それはやはり一つの﹁もの﹂である梱こと

に変わりはない︒それは立法者の自由を枠づけ︑制限するという機能を営むようになった超越的法命題なのだ︒しかしア

タノールの中での変成は︑自然法をただ単に実定法の理念︑批判の鏡へと変えるだけではなく︑最終的には︑それがなお

保蔵していた﹁もの﹂としての実体を奪いとり︑自然法をある原的事態のシンボルにまで昇華し︑稀薄化させてゆく︒す

なわち︑自然法というコトバは︑超越的な法命題︵=もの︶の名辞であることにとどまらず︑さらにそれをこえて︑﹁法

はあらゆる価値判断を免れている独立かつ抽象的な実在とみなされえない﹂印というイマージュを我々の内に喚起し︑

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﹁今ある法をのりこえて︑いまだあらざるより良き法へ向けての人々のたえざる企て﹂のしるしと化すのである︒幽

あの批判的三角錐の高熱のアクノールの中で︑元々は批判的でもなければその逆でもない法命題としての自然法が︑ま

ずはじめに︑記昌〜recbt.好守§野呂eChtへと︑さらには﹁もの﹂としての実体を失って︑ついには実定法に対する我

々の批判的な関わり方のシンボルへと変成されてゆく︒働ここに至って︑アクノールの中での変成は完成するのだ︑とい

えよう︒㈱その際次のことに注意されるべきである︒

なるほど第一の変成によって︑自然法はニュートラルな法原理という性格を完全に失ってしまうに至るのであるが︑第

二の変成の場合︑それによって自然法は﹁もの﹂としての実体を失ってしまうというわけでは決してないのである︒ここ

自然法論 あるいは永遠のシジフォス

参照

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