離島の後進性と日本資本主義
−対馬島・五島列島の実態調査を中心として−
河
地
貫
一
目 次
はしがき
1 離島の隔離性
2 雄鳥社会の孤立的関係
3 離島の後進性
4 日本資本主義と離島
は し が き
じがに﹁離島﹂という用語は︑特に第2次的な関係で︑地方 ︵或は本土︶ に結びついている島について用いることがあ
る︒例えば︑五島列島の福江島の西方にある嵯峨ノ島が︑福江島との従属関係が第一次的であるから︑九州本島に対
離島の後進性と日本資本主義六九
経 営 と 経 済
七O
して︑嵯峨ノ島は離島であると考えるのである︒
しか
し︑
一般には﹁島﹂と﹁離島﹂とは殆んど同意義に用いられている︒乙﹀でも︑乙の立場を取っているから︑
乙の
テ lマも︑単に﹁島の後進性と日本資本主義﹂としてもよいわけである︒
尚乙の報告は︑昭和三四︑三五両年度の文部省科学研究費による実態調査の結果の一部をまとめたものである︒長
崎県の五島列島と対馬島とが主な調査の対象であった︒調査に当って御援助下さった関係各位に深い謝意を表する︒
1 離 島 の隔
離 性
日本の島だけでも︑二千数百に及び︑そこには︑面積の大小に多くの差があり︑無人島から壱岐のように人口密度
の高い島がある︒また佐渡の島のように統一的な平野をもった島や︑海岸の小浦しか低地をもたないものもある︒ま
た︑五島列島のように進んだ島に対して︑対馬のようにおくれた島もある︒極端な自給農を営む対馬に対して︑瀬戸
内の一部の島の如くに︑商業農業の島あり︑近代工業の発達した広島県の因ノ島や︑軍鑑島とよばれるような︑近代
建築の充填した長崎の炭鉱島等があり︑島興の普遍的性格を︑最大公約数的に表現する乙とは極めて困難のようであ
る ︒
1) しかし一応︑島の自然的性格として︑
水圏によって︑主島または大陸
次の
3点をあげることが出来ると思う︒
じ 色 に ほ ん
2(これは島の社会から﹁地万﹂または﹁本土﹂とよばれている)
から
分離
し︑
(3) (2)
本、絶隔
土、し ( た 或 陸 は 地 土也で
方 あ) る
よ、乙り、と
面積が相対的に狭小であること︒
日本の島の地形的な特色として︑貌志の倭人伝があげている﹁倭人在帯万東南大海之中依山崎為国﹂の﹁山島
﹁山島﹂という言葉は︑環太平洋造山帯の洗降地塁である日本列島の地形的特色を一
︒ 白
QU言にして見事に表現している︒長崎県に属する五島列島にしても︑対馬島にしても︑この山島的なものの例外で ﹂をあげることが出来る︒
はな
い︒
対 馬 の 低 地
久:対馬の地形
(対馬の自然と文化31頁)
による。
第 1図
佐 藤
離島は溺れ谷の多い山島的地形によって︑各小さな浦が孤立して点在し︑統一的な大平野をもたない︒これは︑日
本の主島にも五島︑対馬の場合にも同様である︒このために︑人口の調密な日本列島にあって︑海岸に点存する小低
地に人家が密集して︑耕地皮が低く﹁耕して天に至る﹂耕作景は︑まさに山島的島興のシンボ川である︒
ヮ
しかし平野の大小といっても相対的なもので︑関東平野も小低地であり︑福江島の山内盆地は孤立した小さな浦か
らみれば大平野である︒或は対応には全くみられないが︑壱岐や五島列島の火山島のように統一的な大低地をもつも
間島の後進性と日本資本主義 乙︑でいう山島的概念に入らない︒
七
のも存在する︒これらの火山島は︑耕地皮も高く(第一表)︑
ヨ覧要勢村町市県崎長 発 品 一 度
U
一 ノ 一 年 前 一 わ 一 市 町 町 町 町 一 町 町 町 村 一 ぉ 岩 シ 一 江 江 操 誼 久 一 唱 本 辺 国 一 関 熔 達 一 福 宮 古 宇 一 肌 勝 芦 石 一 何
五島列島、壱岐島、対馬島の耕地度
経 営 と 経 済
8%
13 山 県 有 川 町 奈良尾町
島的
8%
15 11 9 17
4%
4
上 県 町 上対馬町
4%
3 6 4
厳 原 町 美津島町 豊 玉 村 峰 村 文
す 馬
島
七 第2の本土より相対的に面積が小さい点であるが︑本土(或は主
島的地位にある陸地)が︑必ずしも常に相対的に大面積を占めると
は限らない︒インドネシアの諸島やハワイ群島などを考えれば了解
されるところである︒更に面積の相対的狭小性といっても︑地球上
の大小無数の島々を考えた場合極めてあいまいな概念である︒
結局︑離島の自然的な基本的性格は︑水圏にかこまれて︑本土か
ら隔離しているという点である︒そして離島の性格は︑常に本土と
の関係から考えられている︒もし︑離島の﹁後進性﹂が︑
一般
的に
島山
玉 ノ 浦 町 岐 宿 町 奈 尚 町 上五島町 新魚目町
41%
31 40 43
でゴ"'
~
肢
島 考えられているように︑その人文的性格と仮定するならば(との点
第1表
五 島 列 島
充分考究されなければならないが)︑これも本土と比較して相対的
により後進的であることを意味しているから︑やはり本土との関係
から考えられている︒
本土から水圏によって隔離されているということは︑人文的にい
えば︑航空機を除くと︑船によって本土と結ばれなければならず︑
同一の交通機関で相互の陸地を結ぶことが出来ないことを意味する
ものである︒従って︑離島では︑人あるいは物資(特に物資)が︑ある程度の数量に達しないと︑島外へ輸送するこ
とが︑経済的に極めて不利になってくるわけである︒島外へは︑本土におけるように小型の輸送機関で行うような︑
小きざみ輸送が出来ない︒そして︑本土と離島とを結ぷ航路の数と量を決定するのは︑主として離島の経済的ポリウ
(観光資源をもふくめて)である︒離島の経済的ポリウムは︑必ずしも島の面積の大小によるものではないむ他の
決定要因に︑介在する水圏の大小がある︒博多から対馬への定期航路がしばしば欠航するのは︑必ずしもこの航路の
A唖自然的な危険性にのみよるものではない︒
従って本土との聞に介在する水圏が大きいほど︑また経済的ボリウムが小さい離島ほど︑本土に対して孤立的傾向 ム
を強くすることは否定出来ない︒経済的ボリウムの小さい孤島は︑その故に︑本土から﹁忘れられた小島﹂として︑
本土の交通不利な山村よりも一回孤立的性格を強くする︒
本土から水圏によって隔離されているということが︑必らずしも離島の孤立性を意味するものではないが︑そのよ
うな離島にあって︑自ら求めて孤立社会を形成しようとする場合には︑本土における交通の不利な山村よりも一層好
都合な自然条件を提供する︒
か﹀る傾向もまた相対的なものであって︑本土の山村にも︑隠田集落は多く︑また禁教時代から長崎のキリシタン
信徒が︑必らずしも五島列島や生月︑平戸などの離島にのみ多く分布しているのではなく︑西彼杵半島などにも︑そ
の分布がみられる(第二図)︒五島列島に特に多いのは︑彼等を受け入れる社会的条件が提供されたからである︒
只U外来者に対して極めて閉鎖的性格の強かった対馬には︑一人の信徒の移住もなかったことからでも了解されるところ
ロUである︒極めて開放的であった五島の社会は後にもふれるが︑近世に入ってからも︑漁業者や︑農民を多数移住せし
めた︒キリシタン信徒の移住もその一つなのである︒従って︑禁教時代にあってこれら信徒の多い分布をもって離島
円iの孤立性を結論するのはむしろ逆である︒
しか
し︑
これらキリシタンの移民が禁教下にあって︑よくその信仰を維持したのは︑自ら他の社会との孤立状態を
求めたこと︑それを可能ならしめたのは︑島内の具った地域の社会相互の︑或は異った島と島との孤立的な関係なの
路島の後進性と日本資本主義
七
組犯人j組組平田
b
色
‑a
長崎県におけるカトリック信徒の分布 第二図
大浦天主堂資料1960年による。従って所属教会に工る分布を示している口またとの分布は、HかくれキリシタンHをふくまなし、。田北耕也の「昭和時代の潜伏キリシタン」によると、現在生月、平戸に約14,000人、西彼杵に約4,000入、五島には約10,000人のかくれキリシタンの分布をみると述ベ℃いるOカトリツグ社会の孤立性と固定性を考えると、乙の分布は明治初期と大差ないと思われるQ
である︒従って問題は︑島における社会相互間の孤立性なのであって︑離島そのものの孤立性の問題ではない︒
筆者がこ﹀で︑離島の﹁完全環水性﹂或は﹁本土よりの隠離性﹂という自然的性格に関して︑一見極めて自明のこ とを強調した理由は︑本土からの隔離的位置←孤立性←後進性といった直線的理論構造を立て︑離島の人文的性格と
して後進性を結論づける誤りが︑あまりにもしばしば行われているからである︒
離島は多くの場合たしかにおくれている︒しかしそれを︑離島の隔離的位置から説明しようとするのは︑東南アヅ
アの後進性を︑
それらの国々のうけてきた植民地支配の結果であることを無視して︑その風土と相対的人口過剰から
宿命論的に説明しようとする誤りと挨を一にするものである︒
更に︑島の後進性を︑島内交通の未発達に帰するに至っては︑
これは逆立ちした説明である︒交通の未開発は︑島
の後進性の基本的な内容であって︑その要因でないことはもちろんである︒
次に︑島内における社会相互の関係︑或は島と島相互における社会の関係について論及しなければならない︒
註 川
山階芳正︑五島の人文地理こ九五二)l
五島
列島
l九十九島1平戸島学術調査書i
に︑
離島
の環
境特
性と
して
︑
﹁完
全環
(2)
水性﹂と﹁相対的狭小性﹂とをあげている︒
五島列島は構造的にもと九州の京支那海に突出せる一大半島であったものが︑沈降︑断層︑傾動の地盤運動によって︑今日
の溺れ谷や瀬戸の多い︑平坦地の少い山島的な島峨群となった︒沈降運動と前後して︑火山活動が盛んとなり︑北の宇久︑
小値賀その他の火山島や︑南の福江島の三つの半島︑嵯峨︑黄︑赤兵口島の侭平な玄武岩台地が形成された︒また福江島では
岐宿熔岩流の噴出によって︑旧山内の墨堰湖が形成されて︑わが国の離島にはめずらしい山内盆地の水田地帯を成立せしめ
た︒(佐藤久︑五島列島の地形並に地質l
五島
列島
1九十九島l平戸島学術調査書)
対馬島は︑隆起と枕降をくりかえした地塁である︒分水嶺が著るしく京に偏しているので︑西側河川は長大で︑谷底地も大
(3)
離島の後進性と日本資本主義
七 五
経 蛍 と 経 済
きい︒しかし島全体が下刻状態にあり水害が頻発する(第三図
) D
埋
積谷は河口附近の三角州的小平野以外には殆んどないD河川の曲流部
においてさえ︑側蝕平野にも乏しく︑乙の大きい離島にあって︑内陸
盆地は︑花嗣岩の発達する内山盈地以外にない︒
海岸は沈降に基づくリアス海岸玄武し︑急崖︑急斜面が海に迫り︑
乙れを横断して大小の溺れ谷が入りこみ︑砂浜の発達が貧弱である︒
岬湾の出入や起伏の大小等は︑海岸につづく陸上の山地形と同様で︑
地質︑地盤運動︑河の侵蝕によってきまる︒(佐藤久︑対馬の地形│
(4)
対馬の自然と文化(一九五三))
博多ーを岐l対馬の定期航路は︑しばしば'欠航するが︑これは玄海灘
や対馬海峡の自然的条件よりは︑経蛍上の理由の方がむしろ大きいと
いわ
れて
いる
︒ 同附対馬の封鎖性︑豆島の開放性については︑後にくわしく述べるom菱谷武平の﹁カソリツグ部落の伝統と現状﹂
七六
納 屋 対 馬 の
7Jc害をさけて、対馬の納屋はすべてこの高床形式
を取っている口単に農具或は漁具のみでなく、家 財道具をも納占うている石井助教授撮影)
(五島列島綜合学術調査報告書)によれば﹁大きくいえば︑五島自体が隔絶し
た僻遠の地として逃避行の潜伏者の楽天地の現象を生じた﹂とするのは誤解である︒
2 離島社会の孤立的関係
山 島 的 な 地 形 上 の 性 格 か ら
︑ 島 に は 小 さ な 浦 が
︑ 海 岸 に 点 在 し
︑ こ れ ら の 小 浦 が
︑ 島 の 重 要 な 生 活 の 舞 台 と な っ て い る
︒ 直 接 山 が 背 後 に せ ま っ て 孤 立 し
︑ 小 浦 に あ る 海 浜 の 小 部 落 は
︑ 時 に は 相 互 の 陸 上 の 交 通 路 を も た な い ほ ど 交 通
上の制約をうけている場合が多い︒南対馬の西海岸や北対馬の東海
岸には︑海上の小述絡船以外には︑陸上の相互の交通手段をもたな
い︒これでは五島列島の如く小さな島々に分裂しているのと変りが
ない︒南対局の東海岸では旧軍事道路が比較的建設の容易である山
腹の中肢に閃かれ︑各小浦に点在する部落は︑この道路に連絡する
ためには吋数十メートルの急傾斜を上下しなければならない︒この
道路が南対応における唯一の南北縦断道路なのである(第四図)︒
大村が︑島と品︑同一島内での部落相互の関係を﹁絶対的孤立﹂
とよんでいる吋たしかにこの傾向が強い︒伊勢湾の入口にある答
志向の二つの部落︑桃取と答志との相互の交渉はなく︑島内の交通
路さ加え持たずに︑別々に直接土本の鳥羽に結ぼれていた(昭和二十
六年︑筆者の調査当時)︒また山崎︑きにもふれた五島におけるキリシ
; じ げ 位
タン信徒の庇付部落と地下部落との孤立関係など︑その例は多い︒
南対馬の旧軍用路
第4図
山の中腹を走っている道路が南北縦貫道 路(旧軍用道路)である。乙の道以外に 厳原と豆酸とを結ぶ道路は全くない。
こうした居付︑地下の部落問ばかりでなく︑五島の各村落についてみても︑一部の指導者層を除くと︑住民の生活
圏は極くせまく︑村境を超えるのは︑牛の市等の特殊な場合に限られている︒
島と島との関係でも︑嵯峨ノ島と福江島とのように︑主島l属品関係にある場合は別として︑やはり孤立的関係が
強い︒長崎︑佐世保からの五島航路の数百トンの船舶が︑列品の各島を結ぶからといって︑必らずしも島相互の密接
な関係を示すものではない︒山階によると五
' μ
の各島問の乗客は︑福江︑有川および奈良尾の三地点に集中する傾向
離島の後進性と日本資本主義
七 七
n a
にあり︑他の地域相互の人の交流は極めて稀である
04
叶川
馬航
路が
︑博
多 l壱岐l対馬と結んでいることから︑壱岐と
経 営 と 経 済
‑‑G
J¥、
対馬との関係の密接さを結論することは出来ない︒
こうした島相互︑或は島内社会相互における孤立的関係が︑離島の共通の利害に立つ統一的な連繋を弱めてきた︒
そのために︑離島の開発を要請する大きい力に成長し得なかった︒この意味で︑たとえ時限法であっても︑離島振興
法の成立は︑たしかに劃期的なことであったといってよい︒中央集権の強い日本に︑離島の問題が︑中央で取り上げ
られた最初のものである︒
きて
︑ こうした島相互︑同一島内の社会相互の孤立的関係の理由を︑しばしば山島的地形からくる交通上の制的に 帰せしめる︒交通上の自然的制約にたしかに一端の責があることを︑敢えて否定するものではないが︑しかし少くと
も道路の未開発は︑孤立関係の理由ではなく︑孤立社会であることのために生じた結果と考えるべきである︒
四面海にかこまれているが︑必らずしも海の資源に依存する漁業生活を意味する'ものではなく︑むし4 ろ﹁海に背をむけた﹂農業部落が多い︒福江島東方の小火山島黄島や黒島︑三井楽沖の姫島は農業島である︒福江島
島の
生活
は︑
自体農業島で︑漁村の多いのは三井楽である︒富江は︑小島と黒瀬に漁家が八一必集中し(第2表)︑他の海浜の部
落はすべて農業を行っている︒溺れ谷の発達した岐宿の海岸集落も殆んど農業部落である︒五島藩では︑百姓を官︑
EU 地万および浜方に分類したことや︑古くから専業漁民の移住を多く受け入れて︑比較的早く農漁分離の傾向を取り︑
農業部落と漁業部落との地域的分化が進んでいる︒
円 ︒
に対する公領地の﹁地分ケ﹂には田畑はもちろん木庭がふくまれ︑更に村
ヴd磯の専有権を認め︑海藻魚介類の採取を許した︒彼らの共同作業に支障のない限りにおいて︑ 対馬藩の場合は︑公役人(百姓のこと)
﹁請
浦﹂
制に
よっ
て︑
外来者の入漁を許したが︑村方との交渉は許さなかった︒かっ外来漁民の移住には極めて封鎖的であったから︑今日
第2表
一 一 人 一 員 一 業 員 一 旬 引 竹 也 川 町 出 目 何 日 刊 一 一 浦 一 帯 一 一 期 一 漁 世 一 一
漁
﹁
│
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I l l i
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一 一 人
1 6 6 7 6
一 初 け お 一 員 一 引
m m
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引 位
5 5 6 6 1
ごリ お(一帯一
2 3 4 5
之
A 2 A 2 1
一 引 に 一 世 一
2 2 1
一節
落 一 総 一 一 集 一 一
│Illi‑‑lili‑‑ 一
岸 寸
│ 寸
1 1 1 1 J
一
明 一 名 一 島 田 石 子 瀬 下 山 亀 保 一 河 一 落 一 一 範 一 部 一 黒 太 琴 丸 黒 山 坪 崎 女 天 一
第3表
6 6
(註)本戸の農業以外の職業はすべて兼業である。
本
が り つ つ く ね
でも海岸の小浦に位置する集落は︑多く農漁未分化のものが多いベ寄留の専業漁民は厳原の曲と豆敵浜︑久根浜を除叫けば刊すべて藩政末期以降である
oJ 敗原郊外の純農村久田の本部落をみると︑本一戸の二︑三男で漁業に従事するもの
が六戸あった︒これは分家寄留によって専業漁家の造成される過渡的な姿であろう(第三表)︒移住寄留のみの部落
は︑すべて地域的に﹁棲み分け﹂ているが対馬の封鎖的な本戸制度によって排除された分家寄留と合して︑部落を形
成している例に久田の白子部落︑三根の大久保部落などがある︒
離島の後進性と日本資本主義
七 九
経 営 と 経 済 対馬の漁業は︑いかの一本釣が中心であるから︑土地をもたない寄留の専業漁家は︑
J¥、 O
な底焼︑喝さにも薪炭を購入しなければならない︒対馬は外来資本に対して︑極めて封鎖的であったために︑大きい地場 いかの乾燥や︑漁船の定期的
の漁業資本は育たなかったし︑漁民の階層分化も殆んどなく︑大資本の漁業基地もない︒零細な漁業企業は︑外部の
商人︑問屋資本の支配をうけている︒本一戸総有であった漁場権は︑漁協によって︑大資本に︑ぷり定置網経営などに
に貸与され︑その借料に寄生するものが多い︒漁協は︑多く生産の組合というよりは︑共有権の管理組合的な性格を
もっている︒このような漁業社会において地域を異にした社会相互の関係が︑孤立的であることは当然であって︑乙
の点五島列島の漁業社会と全く趣を異にするものである︒
奈良尾に集ます出稼者
第5図
i
,0" 恒 悶畏E日(竹内助教授の調査資料に工る)
上五島は︑日本における近代漁業の.一中心であり︑列島内
相互の人の交流も多い
(第
四表
)︒
奈良尾には︑多くの漁民
の季節的出稼者の出身地が︑上五島を中心にして全列島に及
五島の婦女子の職場である
ぴ
奈良尾の健詰業は︑
(第
五
図 ) ︒
南五島では︑玉ノ捕に近代資本の漁業基地があり︑三
井楽の沖には︑地場資本のぷり定置網が大きい︒少くとも五
島では漁業社会相互の孤立性を指摘する乙とは出来ない︒島
の漁業社会は︑少くとも大村のいうような︑機能の重複によ
る﹁絶対的孤立性﹂ではなく︑島の漁業の近代化いかんによ
るものと思われる︒
離島
の農
業は
︑
一般的にいって︑本土より一層自給的であ
る︒上五島でも︑対馬でもそうである︒下五島の福江島は︑
換金作物として甘藷を栽培しているが︑高率の小作料を枚奪
した寄生地主の支配した社会では︑農民は︑商品作物の生産
者とはいえなかった︒五島は︑多くの農民の移住者を受入れ
ことに甘藷の開拓に大きく貢献したが︑何れも自給農民で︑
たキ日ノシタン移住者も例外ではない︒
封鎖性の強かった対馬は︑農業移民を受け入れることは殆
離島の後進性と日本資本主義
稼
出
x l z ! ? 出 l i l I l i !
刊1 2 1 5 l i U
計富 江 町
玉ノ漉町 39 1 6 1 x 1 2 i 7 1 6 1 1 2 i 1 1 17 1 7 1 601 10! 1!:8
岐 宿 町 78 1 3: 11 1 x I 5 1 2 1 5 1 1 0 1 19 1 9 1 1161 66 1 315
三井楽町 75 1 8 1 22 1 17 1 x 1 3 1 17 一 一 61 16 1 1801 31 1 375
奈首会町 20 1 4 1 ‑! 1ー x1 12 15 1 2 1 10 1 21 1 651 55 1 205
│ 若 松 町 5413414621 ×
上五島町 x 1 24 1 12 1156 1 2931 442 1 1039
新魚目町 914 一 一 ‑1 12 1 12 39 1 x 1 52 1283 1 1221 222 1 755
有 川 町 19 1 49 1 16 1 ‑ 1 1 1 3 i 15
奈良尾町 5 一 一 一 一 31 2 一 一 一 × ー 341 44
言十 お~I~I~I~ 初 l 日 114 83 I 48 11山町旬~I 叫
島 内 出 チ
リ
第4表
Y¥
(竹内助教授調査資料)
経 営 と 経 済
yに
んどなかったし︑また分家に対しても︑耕地の所有を認めなかったので︑さきの久田部落の例の如く︑明治に入って
からも︑農業は本戸の独占的な産業であり︑農業技術も進まなかった︒木庭と零細な耕地に︑自給用の多種類の作物
が栽培される生産性のひくいおくれた農業が営まれている︒
漁業をもたない農家は林産物の薪と日雇稼ぎとが唯一の現
金政入源であり︑本土の出張所的な中心地である厳原の市街
地に近く︑近郊農業圏にあるはづの久田でさえ農家一人当り
の現金生活費は︑家族一人当り
い︒この外時折︑薪炭林の売却が貴重な枚入源であるが︑炭
一︑
五
00
円前後にすぎな
焼︑きは漂泊的な朝鮮人焼子の移住者によって︑専的業に行わ
れ︑農民の生産は殆んど行われない(第六図)︒
このような前近代的な漁業社会や︑自給的な農業社会では
漁業社会相互および農業社会相互︑或は漁業社会と農業社会
問との関係は当然︑極めて孤立的なのである︒これが離島に
なると︑交通上の自然的制約も加わって︑一層孤立性を示す
こと
にな
る︒
朝鮮人焼子のかま(左側) と居住家屋(右側)
所定区域を焼き終ると、次の場所に移動し、住居をも
移す。乙 Lから木炭を自動草道路か、或は船のつきう
る海岸(必らずしも港であることを要しない)にまで 運搬するのは農民の駄馬である。
従って先住者よりおくれて移住し︑交通その他の条件の不利な地域に居付いて︑そこに自給農業を開き︑自ら孤立
第6図
性を求めた場合には︑長くその社会の孤立性が維持出来ることになる︒五島や平戸島に居付いたキリシタン移住者は
はげしい禁教下にあって︑自らの信仰を維持するために自給農を開いたのである︒従って食糧ことに甘藷の栽培が可
仇 山首
能な地域ならば︑他の悪条件を無視して移住した︒
このように︑自給社会相互の孤立的関係は︑離島の場合︑その交通上の制約から一層強まるが︑離島に限らず本土 の自給的な農山村でも︑当然みられる現象である︒平家の落人達が開いたと伝えられる隠回集落が長く近村の社会と 孤立してきたことや︑長崎県の西彼杵半島のキリシタンの分布は︑そのことを示している︒
かくして白相互︑島内社会相互の孤立的関係は︑
るものであり︑離島では︑交通上の自然的制約が︑そのことを一層強くすることによるものであった︒
こうした向社会の孤立的関係から︑当然考えられる品の後進性の問題と︑更には︑そのような自給性︑孤立性が︑
﹁絶対的孤立性﹂ではなく︑実は島社会の前近代的な自給性によ 何故に︑長く離品社会に存続してきたかという問題とについて︑更に考察が進めらるべきである︒
1ム大村車︑島の地理二一入瓦) (2)
安谷武平︑ヵトリッグ部誌の伝統と信仰(五島列島綜合学術調査報告吉付︑昭和三十四年)によると︑居付部落の五島開拓者
としての本来の性格から︑古い移住者である地下部落に対する卑目的名称への推移︑変化についてキリシタンとの関係から述
べ︑イツキの名郡が固定化したのは︑明治初年の﹁信仰の自由﹂が認められてからであって︑移住の当初からのものでないと
しているD岳災イツキといL︑地下というも︑隊密にいえば︑目グソ︑鼻グソを笑うの類である︒
(3)
山陪芳正︑五島の人文地理(前掲)
(4)
二神弘︑問品社会の経済桔造(地理学評論三二ノ三)によると︑福江島東方の火山岳の赤島が漁業島であるのに対して︑責島
(6) (5)
が山氏誌を主にした品であることを述べている︒
沢方百姓はぬ誌を主とし︑地方百姓は良誌を︑そして屯百姓は︑製盟︑山林に主として従諒した︒
一昨政則には︑対日山では山林という呼称はなく︑すべて木隆とよばれていたD
木一
回は
冗文
検地
以佐
︑一
日同
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上々
木庭
︑上
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D
M品の佐進性と日本資本主義
Y¥
経 告 と 経 済
上々木庭は上々回の一間面積一町︑蒔種料一石に対して︑十三町三反三畝十歩︑十石である︒下木庭は三三町三反三畝十歩︑
J¥. 四
主十石である︒
古島敏雄によると︑木庭が内地で百姓持高に入れられたのは江戸時代中期(延享︑究廷の噴)としている︒従って対馬の場
れ 戸 は を 良 数
漁 えの 、
分 そ化 の
と う い ち
う に
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は 存 業
民 とぬ し
来 て 業 漁 者 業 の を
外 蛍に む
専 も 門 の 漁 < b 家 増
カミ 力日
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れ るfこ D
も 乙 の で
外 居舟志某家、牧入表
書 附25年)
と 「一一一一一一一
分 (1,000円)
零l漁業牧人 198・5
7)、l
五
三 l い か(ス ル メ) 103・5 で! ワ カ メ 37.8
守Z、 │
~I その他磁漁 8.8
o I 網 漁 39.7
31 その他 8・6
長│良牧その他 46・5
本 主 義 的
合︑かりに検地帳によって明らかな寛文四年としても︑入O年程平いことになる︒
(7)
その開場の利用は︑肥料としての海藻や︑食料としてのワカメ︑ヒジキ等
を取ることに始まった︒現在でも︑乙のワカメ︑ヒジキは農民の重要な現
金牧入源となっている(下表)︒
後には︑浦々に入るマグロ︑イルカ等を立切網で取るようになるが︑要
ずるに地先漁業であったD
(8)
発展に伴う内部構造の階層分化ではない︒
245.0
計
曲部落は筑前鈍崎の海士の出身で︑近海の網漁業を独占していた︒鐙崎漁民は宗氏の対馬入島を助けたといわれていて︑その
(9)
対馬近海ヘの出漁は古い︒しかし︑必ずしも対馬に定住したのではなく︑漁期をすぎると︑鈴崎に帰ったようである︒後︑そ
の漁莱権が縮少し︑曲に定住した時(宝永から手保にかけて)には︑その宅地さえも与えられなかったD中世において︑平く
朝鮮近海に出漁していた豆殴浜︑久根浜などの漁民は早く定住して︑寛文の検地の時以後公役人となって百姓株を与えられて
いたのに対して︑曲では専業漁民としての地位しか与えられなかった︒鐙崎漁民の比較的早い定住を除いては︑その後の藷の
移住禁止政資によって︑殆んど外来者の定住がなかった口
文化年問︑宗氏と広島浅野氏との婚姻が成立して︑始めて広島漁民の移住が許された口鴨居瀬の赤島は︑その移住者部落で︑
もちろん漁業を専業にし︑陸上には土地をもっていないD
3離島の後進性の註則参照のこと︒
久田部落の部落校員一O名の一致した意見であった︒
大正十年頃以降から︑木炭市場が朝鮮半島に開かれ︑焼子的な朝鮮人の移住をみ
(10)
︑ ︑ a ' '
削山戸
。 (13) 司
るようになった︒薪炭林の伐採と製炭は極端な低賃金労働力を提供するこれらの
移住民の手で行われた︒彼等は︑薪伏林地に季節的に移動する一種の漂泊労働者
であった︒戦前約四OO人前後︑二0
キロ 俵一
01二O万俵を生産した︒対馬島
内の消費は極めて少く岳民の自給的生産も極めて少なかった︒島民の収入は︑製
品の駄馬貨のみであった︒戦後一時的に︑労働力と市場とを失って︑生産が激減
したが︑現在では︑戦前をしのいで約四六万俵に及んでいる︒労働力の中心は︑
) A U
4E3
E ム
( 依然として朝鮮人で︑﹁外国人登録名'緯﹂によれば︑時原在籍朝鮮人二ニO世帯
中︑四O戸が製炭に従事している(下表
) D
田北耕也︑昭和時代の潜伏キリシタシ︑九頁口
(1961.10) 対馬在住朝鮮人数
総人員 厳 原 町
美津島町 豊 玉 村 峰 村 上対馬町 上 県 町
2,209 3
昨μ
﹂ド
払卜
の
465人
305 387 210 677
165
帯
130戸 69 67
49
152
31
498
計 離
島 で は
︑ 本 土 に あ っ て 早 く 消 滅 し た よ う な 諸 々 の 社 会 事 象 が
︑ 多 く 残 存 し
︑ 民 俗 学 な ど の 好 資 料 を 提 供 し て い る
島
f麦
進
性
し︑多くの島興に関する古物が︑
このことを強調している︒
部品の後進性と日本資本主義
世 町 名
入王
これらの古い事象の温存については︑大村も既に明かにしているように︑孤立性の強さのために︑却って消滅する
経 営 と 経 済
八六
ものに︑伝播の比較的容易な風俗や民芸品の如︑きものがある︒対応に民謡や民芸品が全く存在しないし︑豆股の女子
の特異な服装は︑今日全くみられないのは︑かえって対応の孤立性を物語るものであろう︒古く栄えた対馬焼さえ今
はない︒もしこの地が観光地として注目されていたら︑例えば大島アンコの服装のように保子に注意がはらわれてい
たであろうし︑対馬焼にしても同様である︒国立公園五島のチャンココ踊りは︑あまりにも有名である︒
古い言語や信仰のような︑経済生活と直接のか﹀わりのない事象の温容は別として︑本土において既に過去の乙と
であり︑或は少くとも生命と社会的意義とを失ってしまっているような古い社会的経済的諸事象が︑島では︑
にいって︑たしかに多く温荏されている︒しかも単に形骸的にではなく︑今日の社会経済生活と結びついて庄命をも
一般
的 っている乙とが多い︒すなわち︑そのような古い事象に︑今日的な意義をもたしめている離島の後進性にこそ︑われ
われの問題があるはずである︒
り‑
対馬の社会は︑宮本も強調しているように︑たしかにおくれている︒その農業︑漁業︑林業︑交通︑社会構造等に
乙の島の後進性を示す例は枚挙にいとまがない︒対馬の農業は︑既述したように︑完全な自給農業であっ
て︑生産の技術も極端におくれており︑役牛の利用すら極めて少い︒厳原の連坦地域のそきいが︑壱岐島や福岡から
送られてきている︒それにもか﹀わらず︑その近郊地にある旧久田村さえも︑完全な自給農業を営んでいる︒上五島 わ
たっ
て︑
ゃ︑他の多くの離島にみられる﹁耕して天に至る﹂耕作景は︑対局では全く発見出来ず︑焼畑耕作的な﹁木庭作り﹂
が︑落政期以降残存して︑今日︑もっとも普通的な傾斜地の農業的利用景観である(第七図)︒既述したように藩政期
q u
には山林は木庭耕地として貢租の対象であり︑水田よりも石高が多く︑畑地の六二%に対して一七%を占めていた︒
( 於 佐 謹 )
このような山頂、急傾斜にも木庭作が行われ
ている口 (下は石井助教授撮影)
Aせ乙の木庭作りが︑第二次大戦前まで︑
ひき
つ
Yき行われてき︑今日も残存し昭和三十一
離島の後進性と日本資本主義 年に旧佐須村で︑木庭の耕地が全耕地の八%を占めている(第五表)︒木炭市場が開かれて自給作物の栽培が第一義的であった木庭が︑薪炭林伐採跡の副次的な土地利用として︑また︑戦後生じた木材パルプブlムによって︑その伐採跡に︑やはり木庭作りが行われ
り
庭 作
木 第7図
た︒最近の植林熱のもとにあっても︑植林資沫の欠如のために︑零細な個人所有林や共有
回 ︒
林において︑農民の木庭作りはあとをた﹀ない︒
(昭和31年)
面 積
付 {乍 須 の 佐
木陸作り面積
第5表
Y¥
七
417.9
土也
(月川雅夫:佐須の農業一昭和32年より作成)
耕丹 、 よ 包
経 蛍 と 経 済
外、 久、
対馬は藩政期のみならず︑明治以降も極めて外部に対して封鎖的であった︒これは後述する五島と著るしい対販を
なしている︒対馬の漁業社会の後進性は︑前節でも若干ふれたが︑その最大の原因は︑古くから取られて来た宗藩の
封鎖的政策にあるようである︒例えば早くから鰯網漁業が︑泉州佐野の漁民によって行われたが︑定住は許さなかっ
たし︑大敷網や建網漁業も︑単に﹁語浦﹂して操業したのみであった︒鯨網の技術が伝えられて︑厳原の商業資本の
手で操業されたが︑羽差︑双海船乗りは︑五島その他から迎えられたが︑移住はもちろん︑島民との交渉すら許され
EU なかった︒今日対馬漁業の中心をなす一本釣は文化年間以降の長州・芸州からの移民のもたらしたものであった︒
密貿易の取締りから︑資本の移入に対しても極めて封鎖的であり︑問屋と島内漁民との直接交渉は許さず︑問屋の
地方在住は認めなかった︒島内で問屋の経営を許されたのは︑厳原の町人と︑六十人士(少弐氏の旧家臣といわれる
﹃t)のみであった︒
対馬において︑馬の背交通の利用が︑今日依然として残存しているのは︑散在した耕地をもっ農漁林未分化の社会
と︑林産物搬出のための林道未開発に問題があることはもちろんである︒
国境的な位置にあった対馬では︑国土の防衛のために︑耕作を行う下級武士の各村落に配置された兵農未分化の中
世的社会構造を︑中世から支配者の変ることのなかった宗藩においては︑藩政期にも解体されずに持続されてきた︒
︒ ︒
そして︑次に述べる本一戸制度によって︑現在の社会構造に中世的なニュアンスを残してきた︒
nw
u
対馬の社会的後進性を強く示すものに本戸制跡がある︒乙の村落共同体的な社会構造は︑落政期からの共有財産権
の継承を経済的基盤として︑今日まで存続してきた︒ムラの総代は︑その共有財産権の代表者でもあ
(磯
場・
山林
)
る︒藩政期のムラの百姓笥が︑そのま﹀本戸数として今日まで持続され︑加志部落の如く︑今日も︑本戸数のみで成
り立っているものもある口対馬のムラの構成単位は分家や寄留でなく︑乙の共有権をもっ本戸であるといえる︒貨幣