経 営 の 本 質
坂 口 幹 生
一l
一つの学問にとってその認識対象をいかに規定するかは︑やがてその学問の方法論や理論構成︑さてはその学問の性
格そのものまでもを決定してゆくほどの重要な問題である︒かくして生誕後なおその日の浅い経営学においては︑この
学問の認識対象が何であるか︑認識の方法如何︑またこの学問の性格をいかに確立すべきであるかの諸問題について︑
これまで多くの学者によって幾多の論争が繰返されてきたのであるが︑しかしこれらの諸問題に対する解答は︑今日と
いえどもなお完全に一致したものはないと云わねばならない︒現にわが国の経営学界においても︑故近経営学は経済学
として性格ずけるよりも︑より広い意味での組織学として確立さる︑べきものであるとの一部の主張を契機として大きな
論争を引起しているほどである︒結論的に云ってわれわれは経営学はなお依然として経済学︑すなわち国民経済学と並
んで広義の経済学に属するものとして性格ずけられなければならないと云う考方を持するものであるが︑しかしその際
意味するところの経済学とは︑アモン以来大きな主流をなしてきた価値関係︑価格関係的な研究に二甑倒する態度をと
らず︑同時に技術関係や社会関係をも包摂して認識する経済学を考えている︒しかし本稿においてはわれわれはこうし
た方法論上の問題をそのものとして道接とりあげるのではなく︑なぜそうでなければならないかを明らかにするため︑その前提として経営学の認識対象たる経営そのもの︑ことに近代経営そのものの具体的︑現実的実体を把握してゆきた
一とおもう︒
︷見によれば︑近代経営の本質は︑およそ次のごとき四つの属性においてとらえられ︑経営にまつわる商会の問題
経 営 の 本 質
1−
経 営 と 経 街 は︑この四つの属性をとらえることによって自ら掬いあげられてくるように考えられる
o
一︑経営は例体経済の一種である
二︑経営は生産の組織体である
三︑経営は分配の組織体である
四︑経営は経済性を指導原理とする組織体である︒
一︑例体経済としての経営の特殊性まず第一の属性から考察しよう︒経営学の認識対象たる経営が仰体経済の一極であることを明らかにするためには︑
とりあえず仰体経済とは何であるかと云う問題から説明してゆかなければならないが︑しかしそのためにはさらに︑経
済とは一体どう一五うことであるかと一五うことから規定してかからなければならない︒単的に一去ってわれわれは経済とは
物的な欲求と充足の持続的調和をはかることを目的として営まれている人間生活の一態様であると考えている︒人間が
その生存︑存立を維持し発展せしめてゆくために生ずる一切の物的欲求を充足してゆくには︑常に外国作に依存しなけれ
ばならないものであるが︑この場合外界に存在するものは︑必ずしも人間の欲求するままの状怒にあるのではなく︑き
わめて強い間発性にみちみちているものであるから︑欲求と充足の調和については︑たえず持続的な計ほと努力とが払
われてゆかなければならないからである︒これが経済本来の姿なのである︒尤も従来の常識的な概念に従うならば︑経
済とは円以少の犠牲を以て最大の成果を達成すること︑あるいは同じことなのであるが︑一定の戎果を達成するためには最少の犠牲を以てし︑一定の犠牲を以てするならば︑それによって達成せられる成果を故大ならしめることであると珂
解されてきた︒しかしながらかくのごときいわゆる﹁経済原則﹂は︑それ自体何等経済の特質を示すものではなく︑た
とえばわれわれが勉強したり︑行楽したりする場合にもひとしく仰いてくる一砲の合理性︑正しくは﹁技術的合迎性と
称すべきものであることは︑すでに学者によってお扮せられているところである︒しかるに今かくのごとき人間経済生活が営まがる形態には基本的に云って二つのものがありうる︒一つは例体経済で
あり︑二つは国民経済ないしは社会経済と呼ばれるものがすなわちそれである︒
J
しからばこの勾介︑この両者はいかなる点においてその根本を呉にしているかと云えば︑それは例体経済にあっては︑それ自体の中に一つの統一意志があっ
て︑その支配の下に秩序的︑計画的に経済が営まれているのに対し︑国民経済にあっては今日までのところ一般的には
.何等その中に中秘的な統一定広は存在せず︑むしろその中に営まれている無数の似体経済が相交渉し流通する関係の総
体が国民経済であるとされているのである︒これまでしばしば国民経済は無政府経済なりと云われてきたのもこれがた.
めである︒勿論かつてわれわれが経験したように︑いわゆる統制経済の時代にあっては︑国民経済には政府︑国家と云
う強力な支配者が出現したかにみえた︒しかしそれにもかかわらず︑統制経済的な国民経済の根本は︑なお依然とじて
仙人の創立と工夫と努力とに湿済発民の原劫力をおく何人主義経済であり︑ただ何人の自由なる経済活動が国家目的に
そわない場合にのみそれに税制を加えるにすぎない︒また他国社会主義経済制度の進展は国民経済そのものが今や大き
な一つの似体経済に化することを芯わしめるに充分なものがあるが︑しかし今日までのところ︑それはなお不完全なも
のであり︑かつまた一般的なものではありえない︒かくて国民経済に対する似体経済の特質は︑あきらかにその中に統
一立志の︑五体が存主し︑その経済活劫の一切が︑この立士山の支配︑管四の下に秩序的︑計画的に営まれていると云う点
に存するものと云わなければならない︒
しかるに今日︑かぐのごとき似体経済に長するものの中には︑きわめて極々様々なるものがある︒家庭経済︑国家経
済︑会社経済︑分似刈令経済︑学校経済︑十院経済などがすべてそれである︒しからば経営学はその研究対象としで︑
これらすべての例体経済をとりあげるのであるかと云えば︑それは決してそうではない︒これらの中特に生産とその生
産成川市の分配とを主たる佼能としてそれ自体の経済を営んでいる例体経済︑すなわち学者のいわゆる﹁経済的経営﹂の
みに限定して研究するのである︒勿論かつて独乙経営経済学の発達混在一においては︑いわゆる例体経済学なるものの戒
立が主張され︑これらすべての何体経済を研究するのがこの学問の任務とされたこともある︒しかしながらわれわれは
かかる
H A M
には同調しがたいものである︒何故ならば︑かくのごとき似体経済一般を研究対象とするとき︑経営学の一認識はあまりにも広犯にすぎ︑強いてその川の共通点を求めんとするならば︑それはただ統一意志の主体とか︑その支配
仔刊とか︑組以すなわち絞能︑経限︑五任の分化︑委設とか︑協仰とか一五ったような抽象的な形式論のみに陥らざるを
(,‑又
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色 の 本 質
経 営 と 経 潰
四
えない︒かくしては具体的︑実践的な学問としての性格を喪失せしめてしまうおそれがあるからである︒しかも第二に
経営学は勿論学問としてはできるだけその普通的な性格を確立しなければならないことは云うまでもないが︑しかしこ
のことは直ちに経営学に対して︑全く性格を具にする例体経済をも同時に認識しなければならないことを強いるもので
はない︒何故ならば前述せる各種例体経済の中でも︑たとえば家庭経済や国家経済︑あるいは学校経済や寺院経済など
のごときは︑その経済することの内容が︑専ら消究経済に存するに対し︑会社経済のごときはその経済することの内芥
が︑むしろ生産と八刀配とを中心とする経済に存するからである︒
また家庭経済では家族の生活一般︑国家経済は国民の生活一般︑学校教育では教育的な価値︑寺院経済では宗教的な
価値そのものの実現もしくは維持︑発展が︑この程組織体の究極目的であり︑経済的な側商はただこれに随伴している
にすぎないものであるに反し︑
k A R社経済にあっては︑財貨もしくは加役の生産とその生産成果の分配と云うそれ本来が
経済的な機能を中心として組織体としてのそれ自体の欲求と充足との持続的調和をはかつてゆくこと︑すなわち経済す
ることそのことを究極目的としていると云う点において︑これら両極の例体経済の問には著しき性格の相遣を見出しう
るからである︒すでにしてこの性格の相違ありとすれば︑家庭経済や閏家経済︑学校経済や寺院経済を貫くものは必ず
しも絶対的に経済の論理のみではありえない︒これに反し会社経済を貫くものは常に佼定的に経済の論却であり︑経済
的合理性でなければならないといえるであろう︒かくしてわれわれは経営学の研究対象としては︑かくのごとき生産主
分配と云うそれ本来が経済的な機能を中心として組織体それ自らの経済の維持発展を究館目的として存立ずる仰体経済
のみを経営学の研究対象として措定することが必要であり︑またかくすることによってのみ初めて経営学を経済学とし
て性格ずけてゆくことができるものと考えるのである︒
二︑それ自体の統一意志
さて以上のごとく経営学の研究対象とする経営とは︑それ白体の統一立志の支配︑川口四の下に.生産と八刀配と云うそれ
自体経済的な淡路を中心として日勤し︑判倣体それ自らの欲求と古川止との持続的調和をはかつてゆくことを究位目的と
する似体経済を一五うのであるが︑しからばこの場合︑云うところの﹁それ自体の統一意志﹂とは︑より具体的には一体
何を意味するのであるうか︒それはこれまで繰返しのべきたりたるがごとく︑いわゆる資本と経営の分離を前提として
成立してきた専門経営者の出現に外ならない︒すなわち企業経済の段階にあっては︑その統一意芯の︑王体は︑ひたすら
私的利潤追求のみを究極目的とする企業者︑所有経営者であり︑経営はただこれに従属し︑企業者よりの支配︑命令を
叉取る子段的場にすぎなかったのであるが︑しかし資本主義的企業の自己発展とともに︑歴史的な必然性を以て出現し
てきた資本と経営の分離は︑今やこの生産と分配の組織体としての経営それ自らの中に︑最早必ずしも資本の所有者で
はなく︑従つてはまた必ずしも資本利潤の追求のみを究極目的としない専門経営者を出現せしめたのである︒けだし資
本主義的企業の自己発展は︑一方資本の側においては株式の八刀敢により︑ますます出資者を犬家株主化するとともに︑
他方では生産と分配の組織体とじての経営を︑いよいよ大規模︑復雑︑高度化せ七め︑それに応じて出資者は︑ますま
すかかる経営についての管理︑運営の能力を欠除するに至り︑むしろこれを専門的な経営者に一任した方が︑かえって
その資本利益さえもを︑より有利に確保しうる所以を白賞し︑自らは経営管理の宍践面より次第に後退し︑経営管理の
統一志士山としての主体性を次第に専門経営者に委譲しつつあるからである︒
しかもかくして出現したる専門経営者はゴードンも指摘するごとく形式的な法律上の権限はともかく︑事実上配当の
決定︑取締役の選任までもをその実権の中に収め︑単に資本利益の代表者もしくは擁護者たる性格においてではなく︑
同時に労働者の利溢‑︑一般社会公共の利益をも実現してゆくと云う自主自律的な統一意志の主体となりつつあるのであ
る︒勿論資本と経営の分離論をめぐって︑論者の中には︑かくのごとき専門経営者は単に仮装にすぎないものであり︑
その法衣の綻び白からは巧智なる資本利益代表者としての鎧がその本性をあらわしていると説くものもないではない
が︑しかし近代径営におけるかかる専門経営者が︑いまだなお単に資本利益のみの代表者であるとすれば︑ゴードンが
指摘するごとく取締佼などの事実上の選任において︑専門経営者が株主以外のものよりこれを定めることの少くない理
由は︑説明できないであろう︒否︑組織体としての近代経営の内外にわたってのその大規模︑複雑︑・高度化こそが︑かく
のごとき専門経営の出現を要詰しておるのであり︑さればこそ彼等がその重大なる地位において資本の利益のみなら
ず︑労働者の福利を思い︑一般社会公宍の利益を配ほするのは︑ひとえに組織体としての経営それ自体の存立︑すなわ
経 首 の・ 本 質
五
経 営 と 経 治
‑ ‑ ' ‑
ノ
、
ちその維持と発展とを究極的な目的と考えているからである︒はたしてしかりふとするならば︑かかる専門経営者こそは
正に経営それ自体の中に吠立した統一定芯の主体とみなければならないであろう︒
さて以上のごとく経営学の研究対象たる経営とは具体的には専門経営者によって現わされているそれ自体の統一意志
によって︑山市にまたすべてその活動や椛造を支配され管刊されているところの初織体である︒換言するならば経営活動
や経営椛造の一切は︑平に容視的に事実として現象しているものではなく︑すべてが経営における統一意志の怠欲にも
とずき︑その怠広によってつくられたものである︒怒営が管淵経済であると云われるのもこれがためである︒従ってか
くのごとき意味の特に強い経営を研究対象としてその認識にたちむかうところの経営学は︑この経営統一意志のつく
り︑つくりかえてゆく経営活動や経営権造を︑その主体的な立欲にそって了解してゆくと云う珂命的な態度をとらなけ
ればならないことは当然である︒経営的な諸事実を単にそこにあるものとして︑それらとの間に一定の距離をおき︑ひ
たすら対象的な存在として外から批判的に認識してゆこうとするがごときは︑経営前勤や経営椛造の持つ内面的な立味
関聯を十分に把促することができず︑従ってそれは学問的な一つの浬論ではありえでも︑決して経営学の理論であると♂
一五うことはできないであろう︒
たとえば従来の経営学において︑カルテルとかトラスト・コンツェルンと一五うがごとき︑いわゆる企業の集中をとり
あつかった四九州は決して少くなかった︒しかしそのとりあげ方は︑こうした事実を︑資本主義経済制度を前提として生
起している一つの社会経済現象と
b
て視察すると一五う態度が濃厚であって︑必ずしもそのままが也ちに経営学の現論とはなりえないものがあったのではないか︒こうした問題をとりあげたにしても︑それはもっと主体的な経営が︑その存
立を維持︑発展せしめるため︑経営外的なものに働きかけ︑そこに自己を実現してゆく経営外的な管四活動ないしは管
理情造の問題として珂解してゆかなければならないのではないかと考えられる︒
また労使関係の問題の沼識にしても︑これと同じことが一五えるのではないか︒この問題を一方的に労働者の立場より
認識し︑あるいは労使いずれにも侃せざる第三者の立場より認識して︑それをあくまで闘争的なものとして理論ずけて
ゆくことは︑もとより可能であり︑.一つの学問的な即一論としては成立しうるであろう︒たしかに労使関係において︑少
くとも生産成果の分配について労使双方の凶に利害が対立している事実︑ならびに今日ではそれが結局は力で解決して
ゆかなければならない余地を残している事宍は︑何人もこれを否定しえないところであろう︒しかしそれだからと云っ
て労使関係のすべてをただ闘争と妥協によって加五削ずけてゆくことは︑少くとも経営学の理論としては戎立しがたいも
のと一五わねばならない︒何故ならば経営関係としての労使関係は︑単に八刀配関係のみならず︑他方には協働原理を絶対
不可欠とする生産関係をも合むものであるから︑経営がその存立上︑このこ面的な関係を綜合的︑↓全体的.にいかに解決
し︑そのために管川町一忠考的にいかに労使関係を待造ずけ︑活動ずけているか︑この問題の内面的な意味関櫛を問うてゆ
くところにこそ︑経営学として.の珂論がはじめて戎立するものと考えられるからである︒労使関係を常にそしてすべて
闘争とみ︑その帰結をことごとく安易︑無定見な妥協とみるのではなく︑そうした帰結に至らしめた経営存立のための
論川川三経営の入細川崎をこそ︑われわれは追求してゆかなければならないのである︒労使関係の現象的なもののみに目をう
ばわれることなく︑われわれは経営にとって︑もっと本質的なものを理解してゆくにあらざれば︑側体経済としての経
営の迎論とはなりえないものと考えるのである︒
三
︑ そ れ 自 体 の 経 済 しからば次に似体経済としての経営が経済する︑すなわち欲求と充足の持続的調和をはかると云う場合︑それは一体
何者の欲求を持続的に五込せんとして活動しているのであろうか︒今この点に萌し︑われわれはおよそ次のごとき問つ
の場合を考えることができる︒
一︑企業者の欲求
一一︑一般社会の欲求
一二︑経営構戒員の欲求
川︑刈織体としての経営それ白らの欲求
すなわちまず第一に考えられるものは︑経営は企業者の欲求︑すなわち利潤獲得欲求の持続的な充足のために︑たえず
経済しているのであるとする考え方である︒この考え方は︑もともと経営は企栄者の利潤獲得のための手段的︑技術的
経 蛍 の 本 質
七
経 蛍 と 経 済
八
場であるとする根本思想から出発しているものであるが︑しかし経営が単に企業者の手段的︑技術的判切であるとするな
らば︑それ自体が主体的に経済していると云うことは論理上の矛盾であり︑かかる場合経済しているのは︑むしろ企業
者そのものであると云わなければならない︒かつまた経営それ自体と云う全体的︑綜合的立場に立つものからすれ
ば︑経営が企業者のみの欲求と充足の持続的調和に活動していると一五うことは︑あまりにも私的︑例人的な割方である
とされねばならない︒
かくして第二に考えられるものは︑前者と全く対極的な立場において︑経営は一般社会ないしは国民経済的な欲求と
充足との持続的調和をはかることをその究極的な目的として経済しているのであると一五う考え方である︒シェアーがそ
の﹁商業経営学﹂において説いたところの経営観がその典型的なものである︒また一般的に経営は社合公共のためにその
欲するところの財貨もしくは刷役を生産し供給することがその第一目的である︒(デイヴィス﹀とする考え方がすべて
この部類に属するものといえよう︒しかしながら︑われわれは︑かかる考え方にも利することはできない︒何故ならば
今日の社会経済は仰人主義経済制度として営まれているのであり︑かかる制度の下においては例体経済は何等社会経済
的な欲求と宏足の持続的調和をその古接かっ究極の目的としているものとみることはできないからである︒かかる制度
の下においては社会経済的な欲求と克足の持続的調和は︑ただ各加仰体経済の主観的な目的治勤を通じて︑一五わば間接
的︑客観的に実現されているにすぎないのである︒勿論今日例体経済としての経営も︑それが社会経済椛成の一単位と
して存在している以上︑社会経済的な利益や厚生を全く無視して活動することは詐されず︑きわめて高い程度において
それを常に配慮の中に入れておらなければならないことは云うまでもない︒しかしながらそのことは経営にとっては︑
あくまでも与件的な倍︑侃であるにすぎないのであって︑決してそのこと自体が経営究極の目的であるとみることはでき
ない︒経営学においてこのことをあまりに強調することは︑かえって経営学をして倫理学化せしめる危険さえあるもの
と一五わねばならない︒また経営のかかる社会的機能をとくことは︑国民経済学者や一部の経営学者の叩にも︑しばしば
みられるところであるが︑しかしそれはあくまでも国民経済学的な珂以仰であって例体経済的な立場をとる経営学の四論
は混合されてはならないのである︒
かくて第三に考えられるのは︑経営は経営構成員すなわち出資者︑経営者︑労働者全体の欲求と兎足との持続的調和
をはかることをその究極目的として経済しているのであるとする考え方である︒投一一目するならば社会経済的な利益に対
して︑経営経済的な利益を考えるのである︒ニツクリツシユの構想はむしろこれに近いものがあった︒しかして今日の
ごとき似人主義経済制度の下においては︑似体経済としての経営の究極的な目的の重点は︑むしろこのように例体経済
的なものにおかれなければならないことは云うまでもないが︑しかしさればとて経営究極の目的をかくのごとき経営構
戎員会員の欲求充足におくと云うことは︑たとえそれが単に企業者︑資本家と云う私的︑個人的なものを考えないと云
うな味において︑はるかに客観性を持っているとは云え︑なおかかる考え方においては︑.経営それ自体の欲求と一五う主
体的な立場にまで昇進することが忘れられているのであって︑われわれは必ずしもそれを全面的に肯定することができ
ないものである︒けだしかかる考え方においては︑経営を企業者︑資本家の私的利潤獲得のための手段的場に解消する
代︑りに︑それを経営椛成長全員の利益のための手段的場に転化せしめたにすぎないものであり︑そこでは経営はなお依
然として手段性においてとらえられ︑それ自体の主体性は考えられていないからである︒
かくてわれわれは今日の自主︑・自律化せる経営は︑すでにして組織体それ自体として自らの欲求と充足の持続的調和
をはかり︑それ自体の存立︑すなわち維持と発展のために経済し℃いるものと考えざるをえない︒すなわち経営は紺E織
体としてそれ自らが存立してゆくためには︑その中心機能たる財貨もしくは用役の生産を行ってゆかなければならず︑
財貨︑用役を生産するためには資本︑設備︑機械︑資材︑蛍倒を準備し︑かっこれを経営にまで構成しなければならな
い︒またかくして構成せられた︑経営労働(広義)をして︑最大限にその機能を発揮せしめるためには︑たえず経営
椛成員全体のみちみちた満足感と意欲とを維持してゆくことを希求しなければならないし︑またこの希求︑欲求を充た
してゆくためには︑経営収益をできるだけ最大に獲得し︑やがてそれが公平かつ充分なる分配とを実現してゆかなけれ
ばならない︒かくしてこれら各種の欲求を常に自らの欲求となし︑自らの力を以てそれが持続的な克足をはかつてゆこ
うとするところに︑経営は経済しているものと併さねばならない︒従ってかくのごとき経営経済観をとるものにとって
は︑経営構成長全員の生活欲求を山一接充足することそのことが︑経営究極の目的であると考えられているのではなく︑
経 蛍
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本 質
九
経 営 と 経 済
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止することが︑やがて組織体としての経営それ自らの生活力︑存立性を維持し発展せしめる所以であるからこそ︑その自覚において彼等侍戒員の欲求を経営自らの欲求としてとりあげているものと考えているのである︒換
一一一目するならば経営椛成員の例人欲求は︑一皮経営目的に止揚されることによってのみ初めて経営的欲求となるのであ
り︑従ってかかる止坊の週間において必ずしも経営的欲求にとりあげられな・いものも生じてくることは云うまでもな
い︒かかる意味において︑経営がその経済することにおいて持続的に充足をはかりつつある欲求とは︑例人的なもので
はなく︑ひとえに組織体としてのそれ自らの欲求であることを知らねばならない︒逆に云うならば︑すでにしてその欲
求が初織体としての経営それ自らの欲求であるとするならば︑かかる欲求と充足との持続的調和をはかりつつある経営
は︑それ自らのために経済しているものと云えるであろう︒
'勾論かくのごとき経営視は︑あまりにも資本主義的な企業経営観になれすぎた者に左つては︑むしろ奇異に感ぜられ
るかもしれない︒何故ならばこうした常識観においては︑企業経営は︑ひたすら利潤の追求を究極目的として経済して
いると云う考え方が決定的であるからである︒事実︑こうした企業者の利潤追求のために経済している企業経営は︑統
計的な数字よりしても︑現実的にはかえってその数の多いのが産業経済社会の現状であろう︒しかしながらこうした資
本主義的企業経営が次第に発展し︑資本と経営の分離を来した後の近代経営の婆をみれば︑かかる経営では最早自主自
律的に組織体としてのそれ且らの存立を維持︑発展せしめるために︑自らの経済を営んでいるものとみなければならな
い︒しかして勿論かくのごとき経営観においても︑経営が収益の獲得を欲求しているととを決して否定しているもので
はない︒否︑それどころか今日のごとき貨幣経済制皮の下に存立している経営にあっては︑その生産戒岡市は収荏一と云う
貨幣価値形態において獲得しなければ︑その存立を維持し︑発展せしめてゆくことができないことを強調せねばならな
い︒しかしとこではかかる収益の獲得そのものが経営究極の目的ではなく︑かかる収益はやがて分配を通じて直接的︑
間接的に経営の生産力︑したがってはその存立性を確保してゆくものであるが故にこそ︑その獲得が欲求せられるので
あると考えるのである︒
さで以上のごとく経営学の研究対象たる経営とは︑知'織体としてのそれ自らの欲求と古川止の持続的調和をはかると一五
うな味において経済し︑以てそれ自体の存立を実現している組織体を云うのである︒けだし元来組織ないしは組織体な
るものは︑それがひとり経済上の初織体のみにかぎらず︑政治上の組織体でも︑宗教上の組織体でも︑少くともそれが
創設された当初においては︑何ト八かのための︑何人かによる組織であり︑創設者の意図や目的は︑そのままが組織体の
な図︑日的でありうるのであるが︑しかしその後かかる組織体が次第に大規様︑復雑︑高度化してゆくと︑次第にそれ
が制度化し︑制皮の自己発展によって︑たとえこの組織体が創設者の意図し目的としたところのもかより︑可成り違っ
た方向に発展して行っても︑容易にこれを改変することを許さず︑ついには利減休それ自体としての存立を主張するよ
うになるものである︒経営もすでにして︑それが一つの初級体である以上︑何等右の例外をなしうるものではありえ
ない︒経営もその発達也陀の当初においては︑たしかにそれは資本家︑企業者の私的利潤追求のための組織体であった
と云えるであろう︒しかしむ併と経営の分離を前提として考えられる近代経営はん
7
や也接的には何人もの為にではな
く︑組織体それ自体の存立のために経済しているものと考えざるをえない︒
一
・ ・ ・ 闘 .
すでに前節において述べたるがごとく︑われわれは経営学の認識対象たる経営とは︑あくまでも生産と分・配と云うそ
れ本来が経済的な機能を中心として生活する似体経済のみに限定するものであるが︑しからばこの場合経営が生産機能
を中心とする経済的な利織休︑すなわち生産の初級体であると一五うことは︑より詳細にはいかなることを意味するので
あろうか︒まずここで生産と云う場合︑それはとりあえず技術的な生産を意味することは中すまでもない︒すなわち今
日経営は財貨もしくは別役を技術的に生産するために︑それぞれの設備を持ち前動を営んでいる︒しかし第こにはかく
のごとき技術的生産のみを以てしてはなお経営が経済的な生産の組織体であるとは云えないのであって︑そこにはこれ
と夫裂をなして︑かならず価似的生産が行われていなければならない︒けだし︑今日の経営はすべて貨幣経済制度の中
に存立しているものであるから︑経営的生産の戎川市は︑ことごとく収益と云う貨幣価値︑価額の形において把握計算さ
経 蛍 の 本 質
経 営 と 経 治
わねばならず︑従って経営的生産は結局価値生産でなければならないからである︒
経営とはかくのごとき意味での生産を︑資本と労働と経営ハ官理)とを有機的に結合し︑これを運用することによっ
て実現し︑以てそれ自体の存立を確保している組織体なのである︒しかしてこの点にこそ経営が︑ひとしく例体経済で
ありながら他の側体経済たとえば家庭経済や国家経済とその本質を具にするところが存するのである︒何故ならばすで
にさきに触れたるがごとく︑家庭経済にしても国家経済にしてもこれらが経済することの内容はむしろ消究であり︑し
かもこの消究経済は家庭生活目的︑国家生活目的からみれば単に随伴的なものにすぎないからである︒
しからば次に経営は︑その中心機能たる生産をいかなる様式をとって営み︑かつそれをいかなる方式に基いて行って
いるのであろうかむ経営的生産様式のまず第一の特質は︑それが単に一回切りのものとしてではなく︑繰返される作業
工程として持続的︑反覆的に行われている主云うことである︒いまこのことはわれわれがたとえぽ工業経営や交通経営
などの現実を観察するとき︑直ちに看取できるところであって︑そこではたえず規則正しく同一作業工程が繰返し行わ
れているのである︒勿論経済学上生産とは‑新しい価似を創り出すことであるならば︑かかる意味での生産は家庭経済門に
あってもそれが行われていることは事実である︒たとえば家庭の主婦が反物から消史目的的にそれよりもより価値の高
い衣服を作りあげる場合がすなわちそれである︒しかしながら︑かくのごとき生産は家庭の必要に応じて臨時的︑隅発
的に行われる生産であって︑一五わば一回切りのものであり︑それは﹁経営として﹂あるいは勺経営的に営まれている﹂
生産ではない︒これとは逆にたとえ家庭経済内にあっても︑主婦がそうすることによってたえず裁縫貨を稼いだり︑あ
るいは需要者にたえず販売する目的を以て︑繰返し裁縫を行っているような場合には︑それがいかにプリミチヴなもの
であっても本質的にはやはり経営的生産の様式をとっているものとみなければならない︒まことに︑経営的生産の経営
的生産たる所以は︑かかる生産が持続的︑反一俊的に営まれていると云う点に存するのであり︑かかる生産活動の持続
的︑反覆的統一体こそ︑まさに経営であると理解されなければならないものである︒経営学上しばしば
C o E 問
︒
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としての経営と一五うことが云われるのであるが︑その意味するところはまた前述のことと同じ内容のものである︒
経営的生産様式の第二の特質としてわれわれが指摘せねばならないことは︑それが生産のためのみに専属同定化さ
れ︑しかもきわめて合理的に秩序ずけられ︑体系化された人的物的諸要素の上に営まれていると云うことである︒すで
にして家族経済より家業経済が発展成立した際︑それまで家族経済内で混然たる一体をなしていた生産経済と消費経済
とが分離したことは何人もが指摘するところであるが︑しかしこの場合生産経済が分離独立したと云うことは︑単にそ
れまで直接消史目的に迫っていた生産が︑今度は営利目的に迫るものえと発展したと一五うことのみを意味するものでは
なかった︒そこにはさらにこの生産のために必要なる人的︑物的諸要素が家庭生活用のものと区別され︑ひたすら生産
加のためのみに専烏固定化されたと云う経営学にとっては重要な新事態が出現していたのである︒しかるに近代経営に
おいてはかかる生産諸要采は今や経営的生産のみのために完全に専属固定化されているのみならず︑その物的要素たる
設備︑機械は科学的な基礎ずけの上に一つの巨大な﹁絞械体系﹂を形成せしめられ︑また人的要素は綿密なる経営機能
分化の下に組織的に一大﹁戯能体系﹂を椛成せしめられ︑ますます大規模︑復雑︑高度化することによって経営的生産
の持続性と反震性と統一性とを可能ならしめ︑ひいては経営そのものの持続的な存立を保障しているのである︒かくの
ごとき合迎的かつ巨大な生産椛造は︑他のいかなる似体経済にもこれをみないところである︒
否︑近代的経営生産がかくのごとぐ専属固定化せる人的︑物的諸要素の上に立って行われていると云うことは︑なお
さらに重要なる意味を有する︒それはかかる生産諸一票誌の専烏固定化が︑生産量との相対関係においてではあるが︑結
局単位当りコストをはるかに低下せしめる意味を持っていると云うことである︒何故ならば︑元来生産を行うためには
必ず人的︑物的諸要一一一糸を準備することが必要であるが︑しかしかかる諸要素がその生産作栄の一回切りの完了とともに
解消されてしまうような場合があるならば︑再び同一生産を繰返すためには︑前と同じような生産諸要素を二度と準備
︐しなければならない︒かくては厳密なる窓味において前と同一の製品を技術的に生産することは不可能でないまでも︑
きわめて困難な場合があるのみならず︑かく生産の皮毎にそれに必要なる同一生産要素を準備すると一五うことは費用の
点から云っても辺だ不経済である︒しかるに今かくのごとき生産諸要素を専伝回定的に一度だけ準備し︑爾後その上に
伺一生産作栄が幾固となく繰返し行われうるようにするならば︑厳密なる立味での同一生産が可能となるのみならず︑
かくして実現された大主生産によって︑かえって製品単位当りのコストは切下げられることとなる︒ゴツトルはこれを
経 信 の 本 質
径 蛍 と 怪 演
四
﹁一皮切り準備のぼ刈﹂なる誌の下に指摘しているのであるが︑近代経営における生産こそはまさにかくのごとき合理
性に基づいて行われているのである︒
勿論かかる合理性はひたすら生産主従つてはまた版完全との相対潟係においてのみ実現が可能となりうるものである
ことは一五うまでもない︒従ってかかる大宝生産を‑火入れるべき市場がいまだ十分に閃拓雌保されていないか︑あるいは
不景気に迫過してにわかに大主A一川市裂を喪犬したような場合には︑膨大なる生産諸要素の専お同定化は︑かえって同定費
の巨制のために生産コストを引上げる結果となることは勿論である︒一近代経営が一小呆気に敏感なのはかかる事情による
ものである︒
さて以上は生産の組織体としての経営が今日いかなる様式の下にその生産を営みつつあるかについてであるが︑次に
はかかる生産機能を中心に経済を営む場合︑経営はいかなる方式に基づいてそれを実践しているのであるか︑生産の組織
体としての経営の経済万式が明らかにされねばならない︒しかして今この点を明らかにするためには︑われわれはこれ を消究経済を営む家括経済や国家経済などとの対比において問題を考察することが故も便利であるように忠われる︒そ
の時まず第一われわれに明らかなことは︑とのこつの経済においては︑経済することの方式そのものが著しく臭ってい
ると云うことである︒すなわち家挺経済や国家経済のごとく︑消党を主たる内容とするものにあっては︑支出は常に収
入を限皮として決定されると云う︑一五わば消極的な必然性を負わされているに対し︑生産を主たる内容とする経営経済
にあっては︑収益徒つてはまた生産を合四的に増大しうる限り︑ふえ出はこれに応じて政極的に出されると云う発展性を
持っていることである︒勿論法営経済的支出も︑決して匁際限︑匁秩序にこれを行いうるものではなく︑そこにはいわ ゆる収益逓はの法刈が厳然として支配しているものであるから︑この法則の命ずる限界をこえて匁際限に支出を増大す
ることは︑結局経営の破滅を招くに五らしめることは当然であるう︒しかしながらかかる法則の命ずる限界内にあって
は︑常に消極的な節約のみに主点をおいて経済すると一五うがごときことは︑経営経済的にはとられない方式であって︑
収益ひいては生産との机品関係において︑崎市有‑とあればどしどしと支出が杭極的に行われるのが経営経済の方式であ
る ︒
,
第二に消交を主たる内容とする家庭経済や国家経済にあっては︑消特(の結果たる生活効果と云うものは客観的にこれ
を測定することは困難であり︑従ってこれを消交の原凶たる支出と比較商量し︑その問の合理性を判断すると云うこと
が図賂である︒しかるに生産を︑王たる内容とする経営経済にあっては︑生産ひいては収益は物量的にも貨幣価値量的に
もそれを把握計算することが可能であり︑従ってかかる経営成果とそれがために要したる支出とを比較商量して︑その
為の合理性を測定することが可成り精確に行いうるのである︒
勿論︑家庭経済においても国家経済においても︑われわれは屡々その合理化が論ぜられていることを知っている︒し
・かしこの均人口論ぜられている人口班化とは︑たとえば家庭経済にあっては収支の均衡であるとか︑浪費の排除であると
か︑消沈の人口川一化と一五うことであり︑また閏家経済にあっては同じく収支の均衡とか︑和税体系の合理化とか︑歳出の
適合性などと云うことである
G
それはあくまでも収入と支出との計算面的合理化であ勺︑決してかかる支出を行った結果たる家庭生活効果︑国山誕生活効来との比較前全的な合却化ではない︒
さて以上のごとく生産の組織体としての経営は︑その経済することの内容においても︑様式においても︑またその方
式においても︑その他の似体経済とは著しく性格を具にするものであり︑それは一般的な似体経済の現論や︑抽象的
な削・紋四論のみを以てしては︑到底これを十分に把握説明することはできないものであると云わねばならない︒
しからば次に近代経営の木氏は︑ただそれが生産の組織体たる面のみを明かにすることによって完全に把握されうる
か︒われわれはさらに近代経営が生産の如・総体たると同一時にまた分配の組織体たる性格を次第に具えつつある事実を明
らかにせねばならない︒
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目 白 1
や ι ニ i
の 本
一 五 質