特別論文
場 概念の意味論的考察
場の都市計画に向けて
岩 見 良太郎
は じ め に
本論文は, 筆者が構想する 場の都市計画の キーワードである 場の概念について, 意味論 的考察をおこなうことをめざしたものである。
場の都市計画の全体構成は以下のとおりで ある。
序 章
第1章 くらしと場 第2章 場と意味
第3章 意味場 活動が創発する意味空間 第4章 都市と場
第5章 反 「場」 の都市計画 近代都市計画 批判
第6章 場の都市計画へ 第7章 場の都市計画
本稿は, 上記の第1, 2章に対応する。
今日課題としての近代都市計画批判
場の都市計画は, 非人間的な都市をもたら した近代都市計画のオールタナティブとして, 筆 者が提案するものである。
近代都市計画は20世紀の初め頃に創始された が, 近代都市計画を確立していく上で主導的役割 を果たしたのがL.コルビュジェであった。 彼は, 1927年に, CIAM (近代建築国際会議) を結成 し, 近代都市計画の理論の発展とその普及をめざ し, 活動を続けていった。 CIAMの理論はその
後, 世界の都市計画制度に影響を与え, 都市の形 成にインパクトを与えていくのである。
しかし, CIAMの理論がその支配的地位を確 立した, まさにその頃, 近代都市計画は行き詰ま りを見せ, ジェイコブスをはじめとする様々な論 者から批判を浴びるようになる。 コルビュジェの 教義に従った現代の都市計画が人間味を欠いた, 殺伐とした都市空間を現出させていったからであ る。
ちなみに, C. ジンクスは近代都市計画の破綻 を1972年7月15日午後3時32分という日時を もって指定した。 これは近代建築の粋をあつめて つくられたある共同住宅が, ダイナマイトで爆破 された日時を示すものである。 住人たちによる, 建物の暴力的破壊が進み, 莫大な金を投じて修理 しても回復できなくなったため, 爆破以外になく なったのである (Jencks, 1977;23)。
しかし, その後も, 近代都市計画はポスト・モ ダンという新たな装いのもとに, あるいは新自由 主義的都市計画の規制緩和と結びつきながら, む しろ影響力とその破壊力を増していった。 今世紀 初頭から開始された, 新自由主義的施策が凝縮さ れた都市再生事業は, その象徴である。 近代都市 計画の思考と実践は, いまなお強力に存続し続け ているのである。
しかし, 今や, これ以上, 近代都市計画の存続・
強化を許すことのできない, まったく新しい時代 に入った。 少子化による人口減・高齢化社会に象 徴される, 縮減ち ぢ み社会ともいうべき, 新たな社 会の到来である。 人口はこの世紀末には半減し, 高齢化率は現在の20%強から30%強に達する。
もはや経済成長は望めず, くらしと地域の衰退が 全国的に進行しつつある。 これらの問題への施策 が緊急の課題となっているが, 財政危機の中で財 政出動は困難という状況だ。 公共投資も, メンテ ナンスに追われ, 新規投資は2020年にはゼロに なるという試算も公表されている。 他方, 地球規 模での環境危機, 資源・エネルギー制約は厳しさ を増している。 カネ・資源・エネルギーの集約投 資と結びついた近代都市計画の存続基盤そのもの が崩れようとしているのだ。 近代都市計画から決 別し, こうした時代条件に即応した, あらたな都 市計画のパラダイムの確立が, 差し迫った課題と なっているのである。 近代都市計画からの転換は, いまや焦眉の課題である。 場の都市計画は, そうした, 都市計画の新たなパラダイム構築に向 けての一つの試みに他ならない。
日常生活の延長としてのまちづくり
場の都市計画は何よりも, 豊かなくらしの 創造をめざすものである。 L. マンフォードは, 都市の歴史を壮大なスケールで論じた 都市の文 化 を閉じるにあたって, その末尾に 「 人びと は生きるために都市に集まり, 立派な生活をする ためにそこに定住する とアリストテレスは述べ た。 このような目標の断片しか現代世界では実現 されなかった」 (Mumford, 1938;訳485) と記し た。 マンフォードは, このアリストテレスのこと ばに共感し, 「りっぱな生活」 という, 単純素朴 な表現の中に, 「生きることの意味」 のすべてを 託し, それが実現される場所こそが都市に他なら ないと考えたのだ。
では生活とは何か。 マンフォードの答えは明快 だ。 すなわち, 「生活ということばはけっして漠 然としたものではない。 それは出産と育児, 健康 と充実した生活の維持, 人格の育成, これらすべ ての活動の舞台としての自然と都市の環境の充実 などを意味する」 (Mumford, 1938;訳456)。 私 は, マンフォードの生活の意味をふまえつつ, そ の根源的定義を, マルクスの生命活動に求めたい。
生活はさまざまな活動の連鎖としてある。 したがっ て, 「りっぱな生活」 ができる, 「ゆたかなくらし」
ができる都市とは, すべての市民が, それぞれ, 活き活きと活動に参加できる都市, そうした多様 な活動を育む都市に他ならない。 これは, 都市の 本質を活気あるアクティビティに見たJ. ジェイ コブスの洞察とも重なる。
豊かな活動を実現するためには, それを可能に する条件が確保されねばならない。 まず, その活 動にふさわしい空間的条件, すなわち 場所が 不可欠である。 しかし, それだけでは不十分であ る。 たとえば, 子供が遊ぶために, たとえりっぱ な公園が用意されても, 友だちがいなければ, 子 供は楽しく遊ぶことができない。 すなわち, 活動 のためには, 活動を共にする, 人のつながりとい う社会的条件を欠かすことができない。 本書では この人と人とのつながりを表現する用語として, 縁ということばを採用した。 活動は 場所 と 縁という, 二つの条件が同時に満たされて はじめて成立する。 そこで, 活動条件を端的にあ らわすため, 場所と 縁という二つの契機 を包含した 場という概念を導入した。 ちなみ に, 場所と縁の一体的な把握は本稿における独自 の試みである。 多くの場所論は 縁を無視し, ネットワーク理論は 場所を無視してきたので ある。
以上をふまえ, ここで, 「りっぱな生活」 を営 める都市を再定義すれば, 「すべての市民が, 自 らの欲求にしたがって, 多様で豊かな活動を繰り 広げることを可能にする, 豊かな 場が備わっ た都市」 ということになろう。 こうした都市の創 造をめざすのが 場の都市計画に他ならない。
マンフォードは, 都市計画について, 「計画さ れるのは単に位置や場所だけではない。 計画され るのは, ある場所のなかの活動 ないしは あ る 活 動 を と お し た 場 所 で あ る 」 (Mumford, 1938;訳377) と述べているが, まさに, 場の都 市計画は, 何よりも活動から発想し, 活動を主 眼に置き, それを保証する条件として 場の創 造をめざすものである。
以上, 場の都市計画を構成するキーワード として, 場所, 縁および 場の簡単な説 明を与えたが, それは半ば不正確である。 次項で
触れる意味論が踏まえられていなからである。
すなわち, 先に示した 場, 場所, 縁の 定義では, それらは, 何か客観的に存在するもの であるかのような表現になっている。 しかし, 場所は単なる空間ではなく, 意味づけられた 空間であり, 縁は単なる社会的つながりやネッ トワークではなく, 意味づけられたそれである。
たとえば, 場所としての公園は, 単に立派な 遊具が備わった公園ではない。 そこで遊んでいて 楽しく感じられる公園なのである。 縁として のご近所は, 単なる地縁的な関係ではなく, 気心 がしれた, 困ったときには助け合える, そうした 意味合いが込められた近隣関係なのである。 つま り, 場所, 縁は客観的な存在であるととと もに, 主観的な構成物なのである。 もちろん, 場所や 縁を彩る意味は, 個々人の主観が 恣意的につくりだすものではない。 意味は, 活動 を通して, その体験としてかたちづくられるが, そうした意味生成は, 場所の空間特性や縁の社会 的特性といった客観的条件によって規定されるか らである。
したがって, こうした意味論的次元を考慮すれ ば, 場は, 活動の条件であるとともに, その 成果といえよう。 活動と 場は相互規定的な関 係にあるのだ。 豊かな場が豊かな活動を生み出し, 豊かな活動が, 場をさらに豊かなものにしていく。
このように, 両者の好循環を生み出していくこと が, 場の都市計画の精髄なのである。 さらに いえば, すぐれた 場は, 決して一度限りのデ ザイン, 一度限りの建設によって創造されるので はない。 長い年月にわたる活動の積み重ねによっ て, はじめて, それはかたちづくられるのである。
端的にいえば, 場の都市計画は, 日常生活と いう, 永続するプロセスとしてのまちづくり, 日 常生活の延長としてのまちづくりに他ならない。
かつて柳田国男は, 生活環境をどのように認識 し, 記億し, かかわりあうかを, 衣食住とならぶ
「第四の生活技術」 (柳田, 1931, 143) と, その 重要性を指摘したが, 場の都市計画とは, く らしと一体となった, くらしの一部としての 「生 活技術」 なのである。
都市計画の意味論的転回
以上確認した, 場の都市計画の理念を実現 していくためには, まず, 都市計画への意味論の 導入という課題が追求されねばならない。 場の 都市計画がめざす, 「豊かなくらしの創造」 に おける 「豊かさ」 とは, 意味の豊かさに他な らないからである。 いかに, りっぱな施設であっ たとしても, そこから, 個々人が, 豊かな 意 味を感じ取ることができなければ, その施設建 設は豊かなくらしをもたらすものではない。 しか も, 意味は先に述べたように, 活動を通し て, はじめて創造される。 近代都市計画に欠落し ていたのは, まさに, この 活動―意味な のであり, その回復, すなわち, 都市計画の意味 論的転回がなされなければならないのである。
都市計画への意味論の導入ということを考えた とき, まず想起されるのはK.リンチの 都市の イメージ である。 彼は, 人々が描き出す認知地 図をてがかりに, イメージという, 都市の内面的・
主観的側面の分析に初めて挑んだのである。 しか し, 都市のイメージがアイデンティティ, ストラ クチャー, ミーニングの三つで構成されるとしな がら, 用心深く最後のミーニングを分析から排除 した。 ミーニングは複雑で, 一貫性に乏しく, 個 人によってばらばらであることから, 分析の最初 の段階では, これを分析から除外するのが賢明で あると判断したためである (Lynch, 1960;訳10 11)。 そして, イメージアビリティの向上という 限定された目的で, 多くの人々が共有する都市の グループ・イメージの分析をおこない, それが, 道 路path, 目 印landmark, 縁edge, 接 合 点 node, そして地域districtという5つの要素から 組み立てられていることを明らかにしたのである。
しかし, それは安易に近代都市計画の中に取り 入れられ, いわばその非人間化を中和する方便と して普及した。 たとえば, 現在, 住民によって訴 訟が争われている二子玉川東地区再開発では, 超 高層マンション, ビル群の建設による景観破壊, 環境破壊を無視し, それを正当化するための単な る口実として, 「ランドマーク」 が使われている。
「超高層住宅3棟を含む計8棟の住宅棟が集合す
るⅢ街区は, 二子玉川の新たなランドマークとな る」 ( 事業計画書 ) といった具合に, である。
こうした事態を見据えると, もはや, 都市計画 において, 意味をカッコにいれたままにしておく ことはできない。 都市計画への意味論の導入なく して, 都市計画の人間化はありえないのだ。 ここ で, 意味とは, もちろん, くらしの視点からとら えた意味にほかならない。 近代都市計画の誤りは, こうした, くらしの 「意味論」 を欠落させた点に ある。 その結果, 非人間的な, 「場所なき都市王 国」 (Relph, 1976; 訳137) を作り上げてしまっ たのである。
ただし, ここで, 注意すべきは, 近代都市計画 がいまなお意味空間としての場所を黙殺し続けて いるととらえるならば, それは誤りであろう。 D.
ハーベイも, つとに指摘しているように, 「時間―
空間の圧縮」 にともなう空間の均一化の中で, 場 所的差異化の絶えざる創造がいまや資本主義的再 生産の不可欠の条件となっており, 都市計画も, ポスト・モダンという新たな装いの下で, そうし た場所創造に動員されているからである (Har- vey, 1990; 294296) 。 現 在 , 注 目 さ れ て い る 創造都市論もそうした流れに位置づけられよ う。 しかし, それは資本・都市間競争に係わる限 りでの場所創造であり, もしくは, その直接的な 販売によって利潤の源泉となるような商品として のそれである。 たとえば, R.フロリダはその著, クリエイティブ資本論 において, 「場所とコミュ ニティは, 以前にも増して重要な要因となってい る」 (Richard, 2003; 訳282) として, ニューエ コノミーによる 「場所の終焉」 説に対峙し, 場所 やコミュニティを重視, 擁護しているが, それは クリエイティブクラスという経済的エリートを確 保する上で, 戦略上, 場所が重要になるという判 断からなされているにすぎない。
したがって, 真に場所性豊かな都市を再構築し ていくためには, 場所の概念をめぐる理論的対決 が不可避である。 そして, その対決点の中心軸は, 生活概念を意味の中心に置くか, 否かにとどまら ず, 生活概念のとらえかた, そのものとなろう。
場の都市計画全体をつらぬく課題意識である。
なお, 本論は都市の意味に焦点を当てた点で, 70年代以降, ブームとなった観のある都市の記 号論をはじめとする都市論の視座と通底する。 こ れは都市を 「読まれるべきテクスト」 として捉え,
「有用性の機軸行政・生産・交通・交換を中心に, 都市を構成している個々の要素を分割し, 統合し ていく, それまでの分析手法に対して, むしろ有 用性のネットワークからはみだす部分, そこに生 きる人間の気分や欲望の感光板としてあらわれる 都市の深層的な部分を記号論的に解読する方法を 提起した」 (吉見, 1996, 7) ものである。 ただし, 本論は当然ながら, 単なるこうにも読める式の記 号論的解釈とは一線を画している。 都市の意味を 生活視点から読み解くとともに, さらに, それが 空間―社会構造によってどのように規定されてい るかを分析し, 意味を能動的に生み出す都市計画 行為につなげていく, これが本論文の意図すると ころだからである。
他方, 場のもう一つの契機である 縁は, これまで, 客観的存在としての社会的ネットワー クとして研究されてきた。 本論は, これに対し, 縁は, これを主観的意味と一体的に把握しよ うとするものである。 人と人を結びつける関係性 を, それに関わる個人の意味付けの側面から理解 するのである。 したがって, 同じネットワークに 属していても, それに対する個人の評価はそれぞ れ異なるので, 縁としては, 個々人にとって 違った様相で立ち現れるのである。 同じ空間が, 場所としては, 個々人にとって別様のものと して現れるのと相同である。
昨今, 無縁社会, 縁ビジネス, あるいは居場所 の喪失といったかたちで, 縁の不在が深刻な 社会問題となっている。 しかし, これは, 単なる 社会的ネットワークの希薄化という点にとどまら ず, 意味的次元のそれにまで, 問題は及んでいる と理解すべきである。 したがって, こうした問題 を分析するには, 意味論を内包したネットワーク 概念の導入が不可欠である。 縁はそうした試 みに他ならないが, 最近, 様々な政策分野で注目 を集めている, ソーシャル・キャピタル (社会関 係資本) も, 同様の位置づけが与えられる。 これ
は, 社会関係, ネットワークそれ自身を意義ある ものとしてとらえ, それに, なんらかの社会的価 値を付与しようとするスタンスから概念構成され たものであるからだ。 しかし, 「3. 縁と意味」 で 詳しく論じるように, 社会関係を 「資本」 と等値 している点に, 理論的弱点が集約的に表現されて いる。 「価値」 を創造する 活動が, 概念構成 に含まれず, いわば, ネットワーク・フェティシ ズムに陥っているからである。
以下, 場の概念について, 次のような順序で考 察を進めたい。
まず, 「1. 日常生活と場」 では, 日常生活およ びそれを構成する活動の概念について検討すると ともに, 後者から場の概念を導く。 続く 「2. 場 所と意味」 「3. 縁と意味」 では, 場の二つの構成 要素である場所と縁の概念について, それぞれ, 意味論の視点から考察する。
1. 日常生活と場
生活・活動の概念
日常生活については, 「はじめに」 で, マンフォー ドによりながら, その意義を述べた。 ここでは, 生活及び活動概念についてマルクスの言説を参照 することで, 論を進めていきたい。 なかでも,
経哲草稿 (Marx, K.,1844 以下, 本項では 本書からの引用はページ数のみ示す) 参照してい くことになるが, それは, 資本論へ結実していく,
「労働」, あるいは 「生産的生活」 という 「生活を つくりだす生活」 (95) を中心にすえつつも, 本 論で対象とするような幅広い活動にも適用可能な 論理が示されているからである。
日常生活の可能性
朝, 目が覚めると顔を洗い, 朝食をとりながら, 新聞に目を通し, 出勤前になるとあわただしく着 替え, 家を出て, 駅まで歩き, 途中で, いつもの 犬にあいさつし, 電車にのり, 職場について同僚 と共に仕事をし, 仕事が終わると逆のコースをた どって帰宅する。 家族と団らんし, 就寝する。 私
たちの日常生活とは, たとえば, このような, ルー ティン化された活動の連続であろう。 こうした平々 凡々たる日常生活は, 感動を呼び起こすようなド ラマもなく, 大きな内面的葛藤, たたかいもなく, 世の中の発展に貢献するところもない。 ここから, 日常生活を 「惰性体」 (ハイデガー) としてさげ すみ, それを超越したところにこそ人間的な価値 があるという見方も引き出されよう。
しかし, 日常生活は決して, 非主体的に, 時間 に流されながら生きられているのではない。 人は それぞれ, 何かしら, 自らの生の証としての生き 甲斐をもとめ, 日々, ある種の緊張感をもって自 らの生活を律しながら生きているのである。 それ ゆえ, もし, そうした生き甲斐を奪われることに なれば, 日常生活は崩壊する。 たとえば, 独房で 絵を描く喜びだけで生きていた囚人が絵筆を取り 上げられたとき死を選んだように, である。 「生 き甲斐」 を奪われたら, 人はもはや 「生きていく」
ことはできない。 このような, ささやかな生きる 喜びに包まれた日常生活を守り, 前進させていく ことは無条件に価値がある, と筆者は考えている。
非日常の営みと見られる高度な精神や文化・科 学技術も, 決して日常生活とは別次元の世界で生 まれるのではない。 よりよいくらしへの希求から 生まれるのであり, くらしの中で生まれ, くらし の中に表現されるのである。 くらしの中で享受し えない文化に何の意味があるだろうか。
だからマンフォードは, 冒頭で紹介した 都市 と文化 の中で, たとえば, 一九世紀以前から普 及しはじめた石鹸の使用に注目し, それは, 「子 供に授乳する母親の乳頭を用心して洗浄すること」
から始まり, それがさらに子供自身へ, そしてつ いには 「お手本として女性から社会の半分を占め る男性にまでひろがった」 という解釈を示して見 せたのである。
人間の能力は未だ十全な発展をみていない。 し かし, それは, ドイツ・イデオロギー の中の 言葉を借りれば, 「人々の現実的な生活過程」
(Werke, Bd. 3, S.26; 訳22) をよりよいものに していくことを通してしか実現しえないのである。
「人間は, 自分の生活を日々新しくつくる」
(ibid., 訳24) のであり, そうした地平の上で, 芸術, 科学, 技術, 文化, スポーツ等々における, より高度な人間の能力と創造力が開花するのであ る。
活動とは
生活とは様々な活動の連鎖に他ならない。 若き マルクスは活動を, 「生命活動」(1) (98), 「生命発 現」 (144) といった用語で表現し, 人間の活動と 他の生物とのそれの相違点を次の二点に求めてい る。 一つは, 「人間は自己の生命活動そのものを, 自分の意欲や自分の意識の対象」 (95) にするこ とができるがゆえに, 人間の 「活動は自由」 (96) であるという点である。 もう一つは, 活動の社会 性である。 この点についてマルクスは, たとえば,
「個人は社会的存在である。 だから彼の生命の発・・・・・・・・
現は たとえそれが共同体的な, すなわち他人・・・・・
とともに同時に遂行された生命の発現という直接 的形態で現われないとしても 社会的生命の発・・・・・
現であり, 確認なのである」 (134・・・ ・・・ 5) と述べてい る。
しかし, 私有財産制度の下では, こうした人間 の活動の特性はその反対物に転化される。 すなわ ち, 「人間は彼の生命活動, 彼の本質を, たんに・・
彼の生存のための一手段とならせるというふうに, 逆転させるのである」 (96)。 マルクスは, この逆 転を次のように, さらに具体的に語る。 「すなわ ち, 人間 (労働者) は, ただわずかに彼の動物的 な諸機能, 食うこと, 飲むこと, 産むこと, さら にせいぜい, 住むことや着ることなどにおいての み, 自発的に行動していると感ずるにすぎず, そ してその人間的な諸機能においては, ただもう動 物としてのみ自分を感ずるということである。 動 物的なものが人間的なものとなり, 人間的なもの が動物的なものとなるのだ」 (92)。 したがって,
「人間的な本質と生命, 対象的な人間, 人間的な 制作物を, 人間のために人間によって感性的に自
・・・ ・・・・
分のものとする」 (136) ためには, 「私有財産の 積極的止揚」 (136) が不可欠の課題となるという のが, マルクスがここで確認している命題だ。 し かし, 彼の思考の深さは, 粗野な共産主義思想を
超えて, 次の点を洞察している点にある。 「人間 的な本質と生命, 対象的な人間, 人間的な制作物・・・
を, 人間のために人間によって感性的に自分のも・・・・
のにする獲得は, たんに直接的な一面的な享受と・・・・ ・・
いう意味でだけとらえられてはならない。 すなわ ち, たんに占有する・・・・ Besitzen という意味, 所・
有する Haven という意味でだけとらえられ
・・・
てはならないのである。 人間は彼の全面的な本質 を, 全面的な仕方で, したがって一個の全体的人 間 ein totaler Mensch として自分のものとす る。 世界にたいする人間的諸関係のどれもみな,・・・
すなわち, 見る, 聞く, 嗅ぐ, 味わう, 感ずる, 思惟する, 直観する, 感じとる, 意欲する, 活動 する, 愛すること, 要するに人間の個性のすべて の諸器官は, その形態の上で直接に共同体的諸器 官として存在する諸器官と同様に, それらの対象・・
的な態度において, あるいは対象にたいするそれ
・・
らの態度において, 対象 をわがものとする 獲 得なのである。 人間的現実性の獲得, 対象にたい・・・
するそれらの諸器官の態度は, 人間的現実性の確・・・・・・・・
証行為である」 (136)。
・・・
ルフェーブルは, マルクスの 所有概念を次 のように解説してくれている。
「人間と対象の関係は, マルクス主義によれ ば, 所有関係とは異なる。 それは比較にならな いほど, もっと広いものである。 重要なのは, 私が対象を所有 (資本主義的もしくは平等主義 的に) していることではなく, 私がそれを言葉 の全体的人間的意味において享受していること である。 それは私が対象 物でも生き物 でも人でも社会的現実でもあり得るが との 間に, この上もなく複雑で, 喜びと幸福におい てこの上もなく豊かであるような関係を持つこ とである。 更にまた, この対象を通して, この 対象において, この対象によって, 私が人間的 諸関係の錯綜した網の目の中に入ることである」
(Lefebvre, 1958;訳9899)。
上記, 私有財産の止揚にかかわるマルクスとル フェーブルの考察をふまえれば, 活動の本質は,
対象にはたらきかけ, 対象と関係をもつことによっ て, 対象を全人間的意味においてわがものにする こと, つまり, それは人間の全面的な本質をわが ものにすることにほかならないということである。
マルクスの未来社会のビジョンは壮大である。
「私有財産の積極的止揚」 とは共産主義の実現に 他ならないが, その究極の地平として 自由の王 国 (領域)を描く。 自由の王国は, 「事実上, 窮迫と外的合目的性とによって規定される労働が なくなるところではじめて始まる。 だからそれは, 事態の本性上, 本来的な物質的生産の部面の彼岸 に横たわる。 ……必然の領域の彼岸において, み ずからを自己目的とみなす人間の力の発展が, 真 の自由の領域が といっても, かの必然の領域 を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が 始 まる。 労働日の短縮は根本条件である」 (Werke, Bd.25b, S.828;訳1051)。
「自由の王国」 においては, 富の概念は根本的 な転換を遂げる。 すなわち, 「余暇時間であると ともにより高度な活動のための時間でもある」
(Grundrisse, S.599; 訳Ⅲ660) 自由時間が最大 の富となる。 「富とは, 普遍的な交換において生 みだされる諸個人の欲求, 能力, 楽しみ, 生産力 などの普遍性」 (ibid., 訳421) にほかならない が, 自由時間が, こうした富をもたらす 「自由な 活動」 を保障するからである。 ここに, 「自由な 活動」 とは 「労働とは違って, それが自然必然性 の実現であろうと人が欲する社会的義務の実現で あろうと, 実現されねばならないある外的な目的 の強制によっては規定されない」 (Werke, Bd.26 3, S.253;訳337338) 活動である。
他方, マルクスは, 「 私有財産の積極的に止揚 された段階では 国民経済的な富と貧困とにかわっ・ ・・
て, ゆたかな人間とゆたかな人間的欲求とが現わ・・・・・・ ・・・
れることをわれわれは見いだす。 ゆたかな人間は, 同時に人間的な生命発現の総体を必要としている・・・・・・・
人間である。 すなわち, 自分自身の実現というこ とが内的必然性として, 必須のもの・・・・・ Not とし て彼のうちに存する人間である。 人間の富だけで・ なく, 欠乏もまた・・ 社会主義を前提するなら ば 人間的な, それゆえ社会的な意義をひとし・・・・
く獲得するのである。 欠乏は, 人間にとって最大 の富である他の人間を, 欲求として感じさせる受・・
動的な紐帯である」 (144) として, 「人間」 その ものが最大の富であるとも述べている。
こうした新たな富概念は, 同じことの異なる角 度からの表現といえる。 つまり, 富=自由な活動 (活動目的)=自由時間 (活動条件)=人間 (活動 対象), である。
しかし, 自由な活動の本質としての人間的活動 は, 自由の王国の到来によってはじめて実現され るわけではない。 自由の王国を思想的に先取りし, その実現をめざしている活動は, すでに人間的活 動を示唆しているのである。 マルクスは, たとえ ば, 労働運動をたたかう労働者に未来の人間の輝 きを見ている。
「共産主義的な職工たち・・・・ Handwerker が 団結するとき, 彼らにとってさしあたり目的と なるのは, 教説, 宣伝, 等々である。 しかし同 時に彼らは, それを通じて一つの新しい欲求を, 社会的結合の欲求を我がものとする。 手段とし て現われているものがいまや目的となったので あ る 。 社 会 主 義 的 な フ ラ ン ス の 労 働 者 た ち (Ouvriers) の集会しているのをみるならば, こうした実践的運動がそのもっとも輝かしい成 果において観察できるのである。 喫煙, 飲酒, 食事等々は, そこではもはや結合の手段あるい は結合させる手段としてあるのではない。 社会 的結合, 団結, また社会的結合を目的とする楽 しい懇談が, 彼らには十分にある。 人間の兄弟 のような愛は彼らにあっては空文句ではなく, 真実であり, そして人間性の気高さが労働によっ て頑丈になった人々のうちから, われわれにむ かって光をはなっている」 (162)。
このマルクスの洞察は, 地域におけるより豊か な人間的なくらしの実現をもとめてとりくまれて いるまちづくり運動にもあてはまるであろう。
現在, 自由時間がマルクスの時代と比較になら ないほど豊かになっている。 一部の恵まれた人々 は, すでに 「自由の王国」 に一歩, 足を踏み入れ
ているのかもしれない。 しかし, 「自由時間」 「自 由な活動」 は, 多くの場合, 私生活の肥大化とし て実現され, 人間的本質からは遠ざかり, 「最高 の富である他の人間」 の犠牲の上に, 獲得されて いる。 一部の者の豊かさと引き替えに, 多くの人々 が過労死に追いやられ, 地球的規模で餓死と環境 破壊が生じている。 実現されつつあるのは, 歪ん だ, 虚構の 「自由の王国」 にほかならない。
まちづくり運動は, 地域における日常生活と真 正面から向き合い, それをより豊かなものにして いくことによって, 「自由の王国」 を真実のもの としようとする運動である。 日常生活をより豊か なものにするために, 力を合わせ, 文化・スポー ツ・教育・レクレーション等, さまざまなイベン トを企画し, あるいは地域問題を解決するために, 話し合い, 学習し, 行政と渡り合って政治意識と, 社会認識をたかめ, より豊かな高度な人間に成長 していく。 まさに, まちづくり運動をたたかう人々 は 「自由の王国」 を一部, 先取りしているのであ る。
活動と場
前項ではくらしの単位としての活動の概念につ いて検討した。 ここでは, 活動概念から場の概念 を導く。 場は, 活動がそこで行われる 「活動の場」
と, 活動の中で, 刻々生み出される意味が創り出 す 「意味場」 の二つがあるが, 本稿では前者の場 を考察する。
エンゲストロームの活動モデル
場の概念を導くために, まず, 活動モデルを設 定する。 活動は共有された共通の目的のために行 う共同活動と個人的目的のためにおこなう個人活 動に区分される。 共同活動には対面的な相互行為 のみでなく, 個人が単独でおこなう単独行為も含 まれる。 たとえば, ささやかなパーティも, 会場 の予約, 参加者への連絡等, 世話役による事前準 備という単独行為をともなって初めて実現するこ とができる。 反対に宇宙遊泳という単独行為を支 えているのは膨大なスタッフから構成される共同 チームである。
他方, 個人活動も単独行為だけで成り立つ場合 はきわめてまれで, 相互行為が不可欠である。 た とえば, 買い物という個人活動には, 商店の従業 員との相互行為を伴うし, 道中で知人と挨拶をか わすかもしれないのだ。
マルクスが, 先の引用で, 強調していたように,
「たとえそれが共同体的な, すなわち他人ととも・・・・・
に同時に遂行された生命の発現という直接的形態 で現われないとしても」, 活動は社会的である。
たとえば, 「私が科学的等々の活動をする・・・ こ れは私がめったに他人との直接的共同のもとに遂 行できない活動なのであるが その場合でも, 私は人間として活動しているがゆえに, 社会的で・・ ・・・
ある」。 なぜなら, 「私の活動の素材が私に 思 想家の活動がそこでおこなわれる言語でさえそう であるように 社会的産物として与えられてい るばかりでなく, 私自身の現存が社会的活動なの・・
である。 だから, 私が自分からなにかをつくるに しても, それを私は社会のために自分からつくる のであり, しかも社会的存在としての私の意識を もってつくるのである」 (・・・ Marx, K., 1844;訳134)。
また, ヴェンガーのように, 活動の社会性を次 のように把握することも可能であろう。
「実践の概念は行為の意味を伴うが, それは 単にそれ自身でおこなわれる行為を意味するの ではない。 それは行為に構造と意味を与える歴 史的, 社会的文脈においてなされる行為である。
この意味において実践は常に社会的である」
(Wenger, 1998, 51)。
以上のように, 活動は, おしなべて社会的性格 を持つのである。 活動のモデル化にあたっては, この点が明示的に表現されねばならない。
エンゲストロームが 拡張による学習 (En- gestrom, 1987;訳1999) で示した活動モデルは, そうした試みとして, まず参照されるべきであろ う。 彼は, 活動の共同性・社会性をクローズアッ プし, それをもっとも包括的に表現する図1のよ うなモデルを提示した。 これは, 「活動は, もっ とも単純で, 発生的にも原初的な構造の形式によっ
て つまり, どんな複雑な活動の背後にもある 本質的な統一性と質を保持した最小の単位とし て 描かれねばならない」 (ibid., 訳25) とい う考え方にもとづいて提示されたものである。 同 図は, 社会全体の活動構造を示すと共に, 各小三 角形自体, 「潜在的にそれ自身活動」 (ibid., 訳 81) である, すなわち, 「より複雑で分化した社 会では, すべての小三角形についてそれを具体化 するような, 相対的に独立した活動が多数存在す る。 しかし, そのような相対的に独立した活動シ ステムの内部にも」, 図1に 「描かれているのと 同一の内的構造が見いだされる……全体的な社会 的活動のなかでたとえば交換を表している活動 (たとえば, 余暇に行われる趣味の活動)も, その 内部に, 生産, 分配, 交換, 消費の小三角形を含 んでいる」 (ibid., 訳82) ことを意味しているの である。
この活動モデルは, 活動と, それに関わる社会 的契機を一貫した方法で抽出し, 可視的に, 明解 に示している点で, 一つの魅力的なモデルとなっ ている。 しかし, このモデルには理論的な欠陥が 内包されている。
さしあたり, 次の3点を指摘しておこう。
1. 第一点は, 「人間活動の内的矛盾」 (ibid.,
訳84) のとらえかたに関わる問題である。
エンゲストロームは, 「資本主義の社会経済体 制における活動の第一の矛盾は, 活動の三角形の 各頂点内の交換価値と使用価値の内的葛藤である」
(ibid., 訳91) とし, さらに, 活動の矛盾として, 各頂点間の矛盾, より進んだ活動を現在の活動に
持ち込む際に現れる矛盾, 隣接活動が各頂点にも たらす矛盾を付け加える。
しかし, こうした, エンゲストロームの活動の 矛盾の整理には, 以下のような3つの問題点が指 摘できる。
まず指摘されるべき問題点は, 交換価値と使用 価値の矛盾の意味は, 活動主体が資本か生活者と しての個人かによって異なるという点である。 資 本にとっては, その活動目的である利潤獲得にか かわるかぎりでの矛盾であり, それは競争を通じ て, 資本主義システム内で解消可能な矛盾である。
しかし, 使用価値の獲得・享受が活動目的である 生活者にとっては, 交換価値による使用価値の制 約は活動そのものをゆがめる根源的矛盾である。
さらに, 生活者に即していえば, 矛盾は, 交換 価値と使用価値との矛盾のみでなく, さらには, 使用価値間のそれにもある。 ボードリヤールが洞 察しているように, 使用価値は, それ自身によっ て正当化されるのではない。 たとえば, 高級食材 の缶詰という使用価値を選択するのか, それとも 旬の, 新鮮な, 地野菜という使用価値を選択する か, ディズニーランドで遊ぶか, それともピクニッ クを楽しむかは, 日常生活の豊かさに関わる重要 な問題であり, その選択は単に価格との関係での み規定されるのではない。 それは, 価値観, イデ オロギーの問題であり, 矛盾はその根底において 規定されるのである。
交換価値と使用価値との矛盾に関わって, さら に付言すれば, 手段あるいは対象として, 使用価 値は同じであっても, 活動主体がそれに対し, ど のような, どれだけの意味付けをするかというこ とも, 活動の意義, 豊かさにかかわる根源的な問 題である。 エンゲストロームの図式およびその説 明から, 以上のような矛盾をみてとることはでき ない。
問題の第二は, 活動間の矛盾を, 頂点間の矛盾 に矮小化していることである。 資本主義システム の下では, 分業は無政府的に編成され, 生産・分 配・交換・消費の活動は, 活動三角形に統一され るのではなく, 絶えざる不整合の下にあり, 活動 三角形を構成する小三角形は, ばらばらに解体さ 図1 エンゲストロームの活動モデル
出所:Engestrom,1987;訳79.
れているのである。 また, 同じ, 生産・分配・交 換活動においても, 各経済主体による, 不断の無 政府的競争がおこなわれ, 市場によってのみ 「調 整」 される構造になっている。 エンゲストローム の活動モデルではこうした矛盾は, 隠蔽されてし まう。
しかし, 活動間における矛盾として, 決定的な それは, 活動原理が異なる資本と生活者の活動間 の対立・矛盾である。 現在, 生活の真の豊かさを 求めて, 様々な新たな活動の誕生がみられる。 こ うした活動の拡大・深化は, 資本原理にもとづく 活動とのせめぎ合いをとおして実現されていく。
エンゲストロームの活動モデルからは, こうした ダイナミズムを表現するモデルへの拡張を導くモ メントを見出すことはできないのだ。
2. 第二の問題は, 彼の意図に反して, 活動分 析はスタティックなレヴェルにとどまり, ダイナ ミズムが欠落しているという点である。 それは端 的にいえば, 主体―活動諸契機におけるダイナミ ズムの不在である。
彼の図式では, 主体は, 活動三角形をかたちづ くる活動諸契機の一つに過ぎない。 しかし, いう までもなく, 主体は活動における特別な契機であ る。 主体によって, 対象は設定され, 他の諸契機 は活動媒介として編成され, 対象への働きかけが なされる。 それによって, 対象は変容を被るが, 同時にその反作用として 多くの場合, きわめ て微々たるものにすぎないかもしれないが 活 動諸契機および主体の変容が導かれる。 しかし, 活動がもたらす, こうした内的ダイナミズム, と りわけ主体のそれをエンゲストロームは説明して いない。 もっとも, 彼の分析対象は学習活動であ り, したがって, 主体形成の問題が抜け落ちるこ とはあり得ないと思われるかもしれない。 実際,
拡張による学習 では, 学習活動―主体変革の ドラマが語られている。 しかし, 活動が飛躍する 局面に分析の焦点が絞られ, それまでの活動の蓄 積によってもたらされた主体の内面的成熟, それ との連続性は不問にされているのである。
3. 先の2の問題と重なるが, エンゲストロー
ムの活動モデルには主体―社会構造のダイナミズ
ムが見られない。 ここで, 社会構造とは相互作用 の下にある, 経済, 社会・政治, 文化・イデオロ ギーの諸層の総体である。 人は社会構造に規定さ れながら, それに働きかけ, その変革を通じて主 体を変革していく。
こうした主体と社会構造の弁証法, いわゆるミ クロ―マクロ・リンク問題への課題認識が抜け落 ちているのである。 このため, 彼の活動モデルは, その社会的連関を強く謳いながら, 社会構造から 切り離されたかたちになっている。 社会構造を与 件として, 活動の矛盾が説明されるという体裁に なっている。 したがって, たとえば, スプリング ボード, モデル, ミクロコスモスといった概念も, 社会構造の変革までつながる, つまり, ミクロと マクロをつなぐ, 重要なミッシングリンクとして の役割を果たす可能性を内在させながらも, 活動 における矛盾打開のたんなる道具でのように描か れてしまっているのである。
場所・縁の導出と活動モデルの設定 一般的活動モデル
以上の検討をふまえ, ここでは, 場所と 縁の概念を導き出すため, 図2のような一般 的活動モデルを設定する。 見るように主体, 対象, 媒介の三項関係からなるきわめてシンプルなモデ ルである。 エンゲストロームの活動モデルは, 具 体的活動について, ある具体的視点から分析しよ うとする場合には, あまりにも包括的にすぎる。
具体的活動の分析ツールとしてモデル化を試みる には, 分析目的にとって距離のある要因は捨象し て, 背景に追いやり, 他方では, モデルに組み込 む要素も, 分析目的に照らして焦点化し, 取捨選 択する, といった戦略をとることが賢明と判断し
図2 一般的活動モデル
たのである。
したがって, このモデルでは, エンゲストロー ムの活動図式について, 先に指摘した問題点のす べてが克服されているわけではない。 その試みは, 活動の具体性レヴェルの進展にしたがって, モデ ルの具体化をはかっていく中で, 徐々になされて いくはずである。
さて, 以下, 各項について簡単にコメントする。
まず, 第一項の活動主体は生活者としての個人 であるが, 当該モデルでは, 重視されるべき個人 の特性として, 次の二点を付与している。
まず, 個人は, 「思惟」 的存在であるばかりで なく, 「人間的感覚」, すなわち, 「たんに五感だ けではなく, いわゆる精神的諸感覚, 実践的諸感 覚 (意志, 愛など)」 (Marx, 1844;訳140) をそ なえた存在という特性である。
次に, その社会性である。 これについては, す でに前項でふれたところである。
第二項の活動対象は, 人 (身体やその精神, 能 力) や物, 自然や建造環境, あるいは精神的構築 物 (芸術, 理論), 制度や組織でありうる。 なお, 対象としての人は, 共同活動の場合, 活動パート ナーとしての他者 (たとえばボランティア活動の 仲間) と, 共同活動の対象 (支援対象者としての 一人暮らしの高齢者) としての他者, の二つが含 まれる。 共同活動の中で, パートナーに働きかけ ながら, その協働によって, 他者にはたらきかけ るのである。
第三項の活動媒介は大きく二つに区分される。
一つは活動手段 (道具) であり, もう一つは社会 的諸関係 (組織, ネットワーク, ルール, 分業等) である。 前者はさらに, 技術的ツールと心理的 ツール (言語や記号) に区分される。 両者の媒介 のしかたは異なり, 「心理的ツールのみが, 反省 的媒介, つまり自分の (あるいは他者の) 手続き についての意識を含意し, また必要としている」
(Engestrom, 1987;訳53)。
場所・縁の導出とモデルの修正
以上, 一般的活動モデルの概要を示したが, こ こで場の概念を導くために, 活動モデルに修正 を加える。 その対象となるのは活動媒介項である。
まず技術的ツールに, 空間 (建築・施設やオー プンスペース・自然) を明示的に含める必要があ る。 活動のためには, 一定領域をもつ具体的な空 間 場所と名付ける が不可欠であるか らである。
また, 活動を媒介する社会関係要素は多様であ るが, ここでは, 具体的な社会的つながりとして の 縁を前面に出したい。 縁は客観的存在とし ての社会的ネットワークの一部分であるが, それ ぞれの個人が動員できる, あるいは参加できる, 個人的ネットワークのそれである。 活動目的に応 じて, その都度, 縁を通して共同活動の主体が構 成され, 縁に規定されながら活動が営まれるので ある。
以上, 活動媒介項に, 新たに 場所, 縁の 概念を明示的に導入した。 場は両者の統一概 念として設定される。 場所と 縁は活動に おいて重ねられ, 活動の基盤としての 場を成 立させるのである。 場は空間の次元と社会の次元 からなりたつ。 場はその意味で, 全社会構造に関 わる一つの包括的な概念である。
図4は先の活動モデルに 場所と 縁を明 示的に組み込んだ修正モデルである。
さらに, このモデルを, よりわかりやすくする ため, ビジュアルに表現したものが図5である。
この図は, それぞれの活動主体は, 場所において, 縁に媒介されながら, 相互行為をおこない, いわ
図3 縁
注:黒丸は自己, 白丸は他者, 線は社会的ネットワークを 表す。 太い実線, メッシュのかかったネットワーク部 分が縁である。
ば共同活動主体として, 対象へのはたらきをおこ なっている様をあらわしているのである。
なお, 同図では, 共同活動を一つの場所でおこ なわれる相互行為の連続として描いているが, 現 実の共同活動では必ずしもそうしたかたちをとら ない。 たとえば, 共同活動は時間的に継起する, いくつかの副次的活動からなり, それぞれに対応 して場所の移動もなされることがある。 また, 共 同活動は必ずしも全員が面前する相互行為によっ てのみ構成されるわけではなく, 相互には面前し ない, いくつかの相互行為, 単独行為で組み立て られている場合もある。 しかも, それは, 同時的 でなく, 時間軸に沿って変化していく場合もある ことを付言しておきたい。
活動の自由と場
人は日常行動圏と交際圏から, 目的に合致した
場所と, 縁を分節・抽出し, その他の活動手段を 媒介に活動をおこなう。 日常行動圏は活動によっ て, はたらく場所, 遊ぶ場所, 学ぶ場所, おしゃ べりする場所等々, 様々な場所によって分節され ていくのである。 日常交際圏も, 活動によって, その目的に合致する縁が分節されていく。 分節さ れた場所と縁は活動のための基盤として一つに統 一され, 場として設定される。
活動の自由は, どれだけ自由に, 活動主体の欲 求に即した場所と縁を分節・抽出し, 活動の場を 設定しうるかに依存する。 ただし, 分節というの は単に, 目的に応じて空間やネットワークを細か く分けていくことだけではない。 さまざまな空間 やネットワークをつなぎ, 組み合わせ, 新たな単 位をつくることも分節である。 たとえば, 場所の ネットワーク化は一つの分節である。
分節は必ずしも, その都度なされるのではない。
一般的には, 過去の活動を通じて, すでに分節さ れた場所や縁のストックから取り出される。 日常 活動は基本的に活動の反復だからである。 ただ, 天候, 気分等の状況の違いによって, ストックさ れた場所や縁に, 微妙な組み替えをほどこし, 活 動に備えるのである。 たとえば, 夏の日差しの強 い昼下がりは, A公園の大きな銀杏の木陰のベ ンチでくつろぎ, 雨の日は仲間が集まるB喫茶 店でおしゃべりする。 気持ちが落ち込んだ時は, 優しい心遣いをしてくれる職場仲間のCさんと Dさんに会い, カラオケを楽しみたいときは, E 図4 場所&縁の導出モデル
図5 活動と 場所縁