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久邇宮俔子妃筆「三十六歌仙和歌御色紙」について

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(1)

四 五

滋  賀県 東近 江市 の竜 田神 社の 社宝 に、 久邇 宮

俔 子妃

(一 八七 九~

一九 五六

)の 御染 筆に 係る

「三 十六 歌仙 和歌 御色 紙」 があ る。 俔子 妃は 旧薩 摩藩 第十 二代 藩主

・島 津忠 義公 爵( 一八 四〇

~一 八九 七) の第 八女 で、 明治 三二 年( 一八 九九

)に 久邇 宮邦 彦王

(一 八七 三~

一九 二九

)に 嫁さ れた

。香 淳皇 后( 一九

〇三

~二

〇〇

〇) の母 宮で あり

、今 上天 皇の 祖母 宮に 当た られ る。 俔  子妃 筆「 三十 六歌 仙和 歌御 色紙

」は

、久 邇宮 と竜 田神 社と の関 係を 物語 る御 下賜 品の うち の一 つで あ

こ の御 色紙 は、 歌仙 絵の 上部 に押 され て(

=貼 られ て) おり

、書 と画 が相 俟っ て宮 廷文 化の 香気 を放 つ高 雅な 美術 品と して も注 目さ れよ う。 本稿 では

、こ の御 色紙 につ いて 些か 考察 して みた い。 な  お、 敬称

・敬 語に つい ては

、史 家の 仕法 に倣 い、 最小 限度 にと どめ るよ うつ とめ た。 また

、戦 前の 資料 を引 用す る場 合、 仮名 遣い は歴 史的 仮名 遣い のま まと した が、 漢字 に関 して は当 用漢 字に 改め た。 欠字

(空 格) につ いて は、 肉筆 資料 の翻 刻に おい ての み残 し、 それ 以外 は省 略し た。

、「 三 十 六 歌 仙 和 歌 御 色 紙

」 の 基 本 デ ー タ と 現 状 久  邇宮 俔子 妃筆

「三 十六 歌仙 和歌 御色 紙」

(以 下、

「 歌仙 御色 紙」

) は、 現 在、 竜 田 神 社 よ り 近 江 商 人 博 物 館 に 寄 託 さ れ て い る

。こ の

「 歌仙 御色 紙」 に つい ては

、「 竜田 神社 財産 台帳

」( 以下

「 財産 台帳

」) の「 一、 宝物 の部

」に 記載 があ る。 次に

、記 載内 容を 項目 ごと に記 す(

/は 改行 を表 す。 以下 同様

)。

(  財 産区 分)  宝 第二

〇号          昭  和十 三年

/十 二月 十日  

(  名  称 

) 三 十六 歌/ 仙御 色紙

(  員  数 

) 参 拾六 面

(  摘  要 

) 王 朝紙 額  装  御名 御色 紙壱 枚附

/竪 四寸 五分

/横 四 寸          久  邇宮 故邦 彦王 妃/ 俔子 殿下 御染 筆 昭 和拾 弐年 五月 壱日

/御 下賜

/三 十六 歌仙 ノ図

/絹 本 有職 極彩 色/ 竪一 尺九 寸/ 横壱 尺/ 夜久 臥 筆 

安田女子大学紀要 40,319

330(45

56) 2012

.

久 邇 宮 俔 子 妃 筆 「 三 十 六 歌 仙 和 歌 御 色 紙

」 に つ い て

─ 久 邇 宮 と 竜 田 神 社 の 関 係 を 物 語 る 御 下 賜 品 の 考 察

─ 内

    田

    誠

    一

(2)

四 六 こ  の よ う に、

「財 産 台 帳」 で は簡 潔 に 記 載 され て い る が、 この 記 載か ら実 物を 想像 する のは 困難 であ ろう

。よ って

、筆 者が 調査 した 際の メモ をも とに

、説 明を 加え てみ たい

「  歌 仙御 色紙

」は 全三 十七 枚、 紙 本の 色 変り 色紙

。ほ ぼ寸 松庵 色紙 の大 きさ で、 金砂 子が 散ら され てい る。 御色 紙の 法量 は縦 13

・8

×

横 12

・0 糎。 御色 紙に は柿 本人 麻呂

【図 1】 から 中務 まで の三 十六 人の 歌仙 の和 歌が

、各 葉一 首ず つ散 し書 きで 墨書 され てい る。 な お、 散 し方 は 各葉 異 な り、 俔子 妃 の仮 名 の技 量 の高 さ を彷 彿 さ せる

。絹 本 に極 彩 色で 描 かれ た 夜久

臥 嶠 筆 の 三 十 六 枚

の 歌 仙 絵 一 枚 ご と に

、こ の「 歌 仙御 色 紙

」が 一枚 宛 押 され て い る。 歌仙 絵 の、 額 の縁 に 隠れ た 部分

×

を除 いた 法量 は、 縦5 7・ 8 30

・8 糎( 額の 縁を 取り 外し て絵 の実 寸を 計 測で き ない ため

)。 但し 最 後の 中 務の 額だ けは 例外 で、 御 色紙 が二 葉押 され てい る。 中務 の和 歌が 認め られ た御 色紙 の左 に並 べて

、も う 一葉 御色 紙が 押さ れて おり

、「 右三 十六 歌仙 和謌

/竜 田神 社に 納/ 俔子

」と 認め られ てい る。 即ち

、俔 子妃 の識 語と 署名 が記 され た一 葉【 図2

】で ある

。御 色紙 の押 され た歌 仙絵 は、 一枚 ごと

に 女桑 を用 いた 和額

仕 立で 額装 され てい る

。額 の法 量は

、縦

×

6 0・ 3 横3 2・ 8 糎。 なお

、表 面を 保 護す るガ ラス は無 い

。御 色紙 と絵 の保 存 状態 が極 めて 良好 で ある のは

、細 心の 注 意を 払っ て保 存さ れ てき た上 に、 皇族 御染 筆の 社宝 とい う性 質上

、掲 げら れる 機会 が極 めて 少な かっ たた めで ある と推 測さ れる

。 額  は一 面ず つ木 綿の 袋に 入れ られ た上 で、 十二 面ご とに 計三 箱の 桐函

(被 せ函

)の 中に

、立 てて 収納 され てい る。 各桐 函の 蓋( 縦3

×

9・ 7 横 38

・2 糎) の表 には

、久 邇 宮附 別当 の宇 川 済 海軍 中将

の筆 で「 三十 六歌 仙和 歌御 色紙

」と 墨書 され てい る。 その 墨書 の下 方、 即ち 蓋表 の妻 の部 分中 央に は「 雪」

「月

」「 花

」の いず れか の文 字が 行 草書 で墨 書さ れ てい る。

「 雪」 と 書か れ てい る 函に は 人麻 呂か ら小 町、

「月

」と 書か れて いる 函に は兼 輔か ら信 明、

「 花」 と書 かれ てい る 函に は清 正 から 中務 の額 が

、そ れ ぞれ 納 めら れて い る。 一 方、 蓋裏 には

「久 邇宮 附別 当/ 海軍 中将 宇川 済( 花押

)/ 謹識

」と 墨書 され てい る【 図3

】。 な  お、 函書 を保 護す るた めに

、蓋 には それ ぞれ 畳紙 が被 せら れて

内  田  誠  一 329

図 1   俔 子 妃 筆

「 柿 本 人 麻 呂 和 歌 御 色 紙

図 2   俔 子 妃 の 識 語 と 御 署 名

(3)

四 七

い る。 詳し く 記 す と、

「 雪」 と墨 書 さ れ て いる 蓋 に は「 左 右

/一 番 よ り六 番

/ 雪」 と 墨 書さ れ た 畳 紙 が、

「月

」の 蓋 に は「 左 右

/七 番 より 十二 番/ 月」 の畳 紙が

、「 花」 の 蓋に は「 左右

/十 三番 より 十八 番/ 花」 の畳 紙が

、そ れぞ れ付 けら れて いる

。ま た、 函の 身の 方の 内側 には

「三 十六 歌仙 像/ 平安 夜久 臥嶠 画」 と墨 書さ れて いる

。 さ  て、 この

「歌 仙御 色紙

」に 認め られ た和 歌は 以下 の通 り。

( 

) 内は 脱字

。な お、 行末 の左 に添 える よう にし て書 く「 下草

」は

、改 行と 見做 さず

、斜 線(

/) を付 けて いな い。 柿  本人 丸 ほの 柿鈎 とあ かし の/ うら の朝 なき に/ しま かく れゆ く/ 舟を しそ おも ふ 紀  貫之 さく らち る/ この

/し たか せハ

/さ むか ら/ て/ そら に/ しら

/れ ぬ/ ゆき そ/ ふり

/け る

凡  河内 躬恒 わか やと の花 見か

/て らに くる

/ひ と/ は/ ちり

/な む/ のち そ/ こひ しか る/ へき 伊  勢 ちり ちら すき か/ まほ しき をふ るさ との

/は な見 てか へる

/人 もあ はな む 大  伴家 持 さを しか の/ あき たつ

/小 のゝ

/あ き萩 に/ 玉と

/見 る/ まて

/お ける

/し ら/ 露 山  部赤 人 わか のう らに

/し ほみ ち/ くれ は/ かた を/ なみ

/あ し/ へを

/さ して

/た つ/ なき

/わ た/ る 在  原業 平 世の 中に たえ て/ さく らの なか りせ は/ はる のこ ゝろ ハ/ のと けか らま し 遍  照 我や とは ミち も/ なき まて

/あ れに け/ り/ つれ なき

/ひ とを

/ま つと

/せ し/ まに 素  性法 師 いま こむ と/ いひ しは

/か りに

/な か/ 月の

/あ り明 の/ つき を/ まち い( て)

/つ る/ かな 紀  友則 ゆふ され ハさ ほの

/か はら の川 霧に

/と もま とは せる

/ち とり なく なり

久邇宮俔子妃筆「三十六歌仙和歌御色紙」について 328

図 3   桐 函 の 蓋 裏 に あ る 宇 川 済 の 署 名 と 花 押

(4)

四 八 猿  丸大 夫 奥や まに

/も みち

/ふ ミわ け/ なく

/し かの

/こ ゑ/ きく

/と き/ そ/ あき は/ かな

/し

/き 小  野小 町 いろ 見え て/ うつ ろふ

/も のハ 世の

/な かの

/人 のこ ゝろ の/ はな にそ あり ける 藤  原兼 輔 人の おや の/ こゝ ろは やみ

/に あら ねと も/ こを おも ふ道 に/ まよ

/ ひ/ ぬる

/か

/な 藤  原朝 忠 あふ こと のた えて

/し なく は/ なか 柿鈎 に/ 人を も身 をも

/う らみ さら

/ま し 藤  原敦 忠 あひ 見て のの ち/ のこ ゝろ に/ くら ふれ は/ むか しは もの を/ おも ハさ りけ り 藤  原高 光 かく はか りへ かた く/ みゆ る/ 世の 中に

/う らや まし くも

/す める 月か な 源  公忠 ゆき やら て山 路/ くら しつ

/ほ とゝ きす

/い まひ と/ こゑ の/ きか ま/ ほ/ し/ さに 壬  生忠 岑 春た つと いふ

/は かり にや

/み よし のゝ やま も/ かす みて

/今 朝ハ ミゆ

/ら む

斎  宮女 御【 図4

】 こと の音 にみ ねの

/ま つか せ

/か よふ らし いつ れの

/を より しら へ/ そめ けむ 大 

中臣 頼基 ひと ふし に/ 千代 をこ めた る/ 杖な れは

/つ くと もつ きし

/君 かよ は/ ひは 藤  原敏 行 秋き ぬと

/め には

/さ や/ かに

/見 えね

/と も/ かせ の/ おと

/に そ/ おと ろ/ かれ

/ぬ る 源  重之 よ し の や ま

/ み ね の

/ し ら 雪

/ い つ

/ きえ て

/ け さ ハ

/ か す

/ み の/ たち か/ はる

/ら む 源  宗于 とき はな るま つの

/み とり もは るく れは

/い まひ と/ しほ

/の

/い

内  田  誠  一

図 4   御 色 紙 の 押 さ れ た 歌 仙 絵

( 斎 宮 女 御

327

(5)

四 九

ろま

/さ り/ けり 源  信明 こひ しさ はお なし

/心 にあ らす とも

/こ よひ の月 を/ 君見 さら めや 藤  原清 正 子の 日し てし めつ る/ のへ のひ め小 松/ ひか てや 千世

/の かけ を/ また まし 源  順 水の おも にて る/ つき なみ を/ かそ ふれ は/ こ/ よひ

/そ

/秋 の/ もな かな りけ る 藤  原興 風 ちき りけ むこ ゝろ そ/ つら きた な/ 機の

/と しに ひと たひ

/あ ふハ あふ かは 清  原元 輔 秋の 野の はき の/ にし きを わか

/や とに しか

/の ねな から

/う つし てし かな 坂  上是 則 みよ しの ゝ/ やま のし ら/ ゆき つも る/ らし ふる さと

/さ むく

/な り/ まさ る/ なり 藤  原元 真 人な らは まて と/ いは まし ほと ゝき す/ ふた こゑ とた に/ なか てゆ くら む 小  大君 いは ゝし のよ るの

/ち きり もた えぬ へし

/あ くる わひ しき

/か つら きの 神

藤  原仲 文 有明 の/ つき の/ ひか りを

/ま つほ とに

/わ か/ よの

/い たく

/ふ け/ に/ ける

/か

/な 大  中臣 能宣 ちと せま てか きれ る/ まつ もけ ふよ りは

/君 にひ かれ て/ よろ つよ やへ む 壬  生忠 見 さよ ふけ てね さめ

/さ りせ は/ ほと ゝき す/ 人つ てに こそ

/き くへ かり けれ 平  兼盛 みや まい てゝ よは にや

/き つる ほと ゝき す/ あか

/つ き/ かけ て/ こゑ

/の

/き こ/ ゆ/ る 中  務 うく ひす のこ ゑな

/か りせ は雪 き/ えぬ

/山 さと いか て/ はる をし らま し 歌  仙絵 の筆 者・ 夜久 臥嶠

(生 没年 未詳

)は

、京 都福 知山 の人 で、 谷口 香嶠

(一 八六 四~ 一九 一五

)の 門下

。師 の谷 口香 嶠が 歴史 画の 名手 であ った ため

、臥 嶠も 師風 を受 け継 ぎ、 歴史 画を 得意 とし たよ うで ある

。と ころ で、 この 歌仙 絵、 巷間 に出 回っ てい る臥 嶠の 他の 作品 に比 べ ると

、ず ば 抜け て作 行き が 良い

【 図5

】。 皇 族親 筆の 御色 紙が 押さ れる こと にな る歌 仙絵 の制 作を 拝命 した ため

、相 当に 意を 凝ら し、 恐懼 謹画 した もの と思 われ る。

久邇宮俔子妃筆「三十六歌仙和歌御色紙」について 326

(6)

、「 歌 仙 御 色 紙

」 御 下 賜 の 経 緯 1  久  邇宮 と竜 田神 社の 関係 につ いて 竜  田 神 社は 滋 賀 県東 近 江 市五 個 荘 竜 田町 に 鎮 座し て い る。

「龍 田 神社 由緒 記」

(「 龍 田神 社々 務所

」作 成の 一枚 刷の 案内 書、 以下

「由 緒記

」) の 本文 に拠 ると

、御 祭 神は

、天 照大 神・ 誉田 別尊

・伊 邪 那岐 命・ 伊邪 那美 命・ 天児 屋命

・大 国主 命・ 日本 武尊 の七 柱で ある

。ま た、 由緒 につ いて は、 社伝 から

「本 社は 創 立の 年 代を 詳 にせ ざる も

、現 在 氏子 たる 小 杉氏

・松 居 氏等 一族 の遠 祖位 田家 の祖 先が

、霊 夢に 感じ て大 国主 命の 神霊

を、 此の 位田 村字 松田 の地 に勧 請し

、鎮 守の 神と して 奉斎 せし

に 剏 れ りと 云ふ

」( ルビ 内田

とし てい る。 久  邇宮 との 関係 につ いて

「由 緒記

」は

、社 蔵記 録か ら、

「も と、 位 田・ 市田 両村 は 慶応 元年 八月 賀陽 宮( 後に 久邇 宮と 申

す) の御 領に 指定 せら るゝ や、 当社 に対 する 宮の 御崇 敬殊 に篤 く、 神号

・社 号等 御染 筆の 寄進 再三 に及 べり

」( ルビ 内田

) とす る。 ここ で言 う賀 陽宮 とは

、朝 彦親 王( 一八 二四

~一 八九 一)

を指 す。

「財 産台 帳」 には

、「 加 陽御 殿御 年貢 皆済 覚」 や「 加陽 御殿

御用 札」 など

、「 加陽 御殿

」関 係の 遺物 が少 なか らず 見え る。

「 加陽 御殿

」と は賀 陽宮 邸の こと であ ろう

。当 時、 賀陽 宮邸 は、 京都 御所

の南

、恭 礼 門院 の女 院御 所の 旧所 にあ った

。抑 々、

「 賀陽 宮」 と いう 宮号 は、 邸内 にあ った 榧の 老木 に由 来す ると 言わ れて いる

。元 治元

年( 一 八六 四)

、朝 彦 親王 は京 都御 所の 南 に邸 宅を 与え ら れ、 そ れま での 宮号

・中 川宮 から 賀陽 宮に 改め られ た。 位田

・市 田両 村が

「賀 陽宮 の御 領に 指定

」さ れた のが 慶応 元年

(一 八六 五) とな れば

、朝 彦親 王が 賀陽 宮を 称さ れる よう にな った 年( 元治 元年

)の 翌年 のこ とと なる わけ であ る。 佐  藤誠 朗『 近江 商人 幕末

・維 新見 聞録

』( 三 省堂

、一 九 九〇 年) の 第三 章「 店を 切り 回す

─慶 応元 年」 では

、八 月二 六日 に

「『 位 田・ 市田

・簗 瀬・ 町屋

・河 曲の 五か 村が 中川 宮領 にな った

ため

、い ろい ろ張 札な どが あっ て、 村方 は不 穏で ある

。ま たこ のこ とで 蒲生

・神 崎両 郡村 々が 嫉ん で、 大い に混 雑し てい る』 と聞 いて

、た いそ う心 配し た」 とあ り、 また 同月 二八 日早 朝に

内  田  誠  一

図 5   夜 久 臥 嶠 筆   歌 仙 絵

( 小 大 君

) 325

(7)

五 一

「お 呼び 出し があ っ て、 昼時

、下 立 売御 門か ら御 所内 の 嘉陽 御殿 へ参 上し た。 五か 村か ら一 人ず つ、 位田 村か らは 元蔵 が進 み出 た。 宮様 諸太 夫山 下出 羽守 様・ 渡辺 相模 守様

、御 用人 並河 図書 様・ 赤羽 根主 計様 がご 列席 で、 この たび 中川 宮御 家領 にな った と 仰せ 渡 さ れ、 各 村一 両 人 が 二、 三日 逗 留 する よ う 下 知さ れ

た」 とあ るの が、 その 詳し い事 情で あろ う。

「  由緒 記」 で はさ ら に、

「 当社 に対 す る宮 の 御崇 敬殊 に 篤く

、神 号・ 社号 等御 染筆 の寄 進再 三に 及べ り」 とあ るが

、朝 彦親 王の 御染 筆に 係る もの とし て、

「財 産台 帳」 には

、「 祭神 七柱 神号 の書 一  巻」

「社 号の 書  一幅

」の 二点 が見 える

。ま た、 邦彦 王( 一八 七三

~一 九二 朝 融 王

(一 九〇 一~ 一九 五九

)の 御染 筆に 係る 社号 の書 も台

帳に 見え てお り、 朝彦 親王 のみ なら ず、 久邇 宮三 代に 亙っ ての 御崇 敬が 篤か った こと を物 語っ てい る。 な  お、 朝 彦親 王・ 邦 彦王

・朝 融王 の 書に つ いて は

、『 安田 女子 大学 紀要

』第 三十 九号

(二

〇一 一年

)に 発表 した 拙稿

「久 邇宮 三代 の書 につ いて

」を ご参 照い ただ けれ ば幸 いで ある

。 2 

「  歌仙 御色 紙」 御下 賜の 情況 を伝 える 副書

×

「  歌仙 御色 紙」 に は、 久 邇宮 家か らの 副書

(縦 19

・7

横 47

・ 3糎

)が 附 属し てい る【 図6

】。 前 述の 通り

、現 在 では 御色 紙は 近江 商人 博物 館に 寄託 され てお り、 副書 とは 離さ れて いる

。副 書と それ

×

が入 って いた 白封 筒( 縦1 9・ 7 横8

・9 糎) は、 現在

、巻 子に 表具 して 保 存さ れ てい る

。見 返 しか ら 尾紙 ま で広 げ た状 態 の法 量は

九)

×

高さ 27

・6

長 さ1 31 糎。 副書 の内 容は 以下 の通 りで ある

〈  副書

〉    故邦 彦王 妃俔 子殿 下御 染筆    三  十六 歌仙 色紙 参  拾六 枚    御  名色 紙 

      壱  枚    右願 出ニ 依リ 特別 ノ以 思  召    御下 賜相 成候    昭  和十 二年 五月 一日       久邇 宮附 宮内 事務 官濱 田武    竜田 神社 社掌          小杉 與吉 殿    氏子 総代          塚本 源三 郎殿 副  書が 入っ てい た白 封筒 の裏

(印 刷) と表 書は 次の 通り

(封 筒は 広げ て表 具さ れて いる ので

、向 かっ て右 が裏

、左 が表 書と なっ てい る。 この 順 で 翻 刻 す る)

。な お

、封 を 閉 じ た 口折 り 部分 に、

「 封」 と 刻さ れ た封 緘 印( 白 文方 印) が捺 され て いる

久邇宮俔子妃筆「三十六歌仙和歌御色紙」について

図 6   副 書 と 封 筒 324

(8)

五 二

〈  裏( 印刷

)〉    久邇 宮附 宮内 事務 官  濱田 武             東京 市渋 谷区 宮代 町一 番地

〈  表書

〉    竜田 神社 社掌       小杉 與吉 殿    氏子 総代       塚本 源三 郎殿 副  書 は こ の 封 筒 に 入 れ て 封 緘 さ れ た 上 で、 濱 田 事 務 官 ら の 書 簡

××

(縦 1 9

・6

横 4 6・ 9 糎) と とも に 茶 封 筒( 縦 2 2・ 2 横 1 2・ 6糎

)に 入れ られ て、 竜田 神社 に郵 送さ れた

。封 筒表 の左 肩に は、 東郷 平八 郎の 四銭 切手 が二 枚貼 られ てい る。 消印 は押 され てい るも のの

、日 付部 分は 封筒 の上 から 外れ てス タン プさ れて おり

、日 付は 不明 であ る。 さき ほど の副 書と 白封 筒が 合装 され た巻 子と は別 に、 この 書簡 と茶 封筒 も一 巻の 巻子 に仕 立て て保 存さ れて いる

。濱 田事 務官 の書 簡と 茶封 筒の 表書

・裏 書は 以下 の通 りで ある

〈  書 簡〉    拝啓 御  願ニ 依リ

/三 十六 歌仙 副書

/別 紙之 通り 相認

/御 送附 申上 候間

/    御請 取相 成度

/拝 具/ 九月 九日

/濱 田事 務官

/小 杉与 吉殿

/塚 本源 三郎 殿

〈  封 筒表 書

   滋賀 県神 崎郡 五/ 箇荘 村竜 田神 社/ 小杉 與吉 殿

〈  封筒 裏書

〉    東京 渋谷

/久 邇宮

/濱 田事 務官 副  書の 記述 およ び「 財産 台帳

」の 記 載か ら、

「歌 仙御 色紙

」が 御下 賜さ れた のは

、昭 和 十二 年( 一九 三七

)五 月一 日の こと と判 明す る。 仮に

、こ の年 に御 色紙 が御 染筆 され たと すれ ば、 俔子 妃数 え年 五十 九歳 の御 作と なる

。 と  ころ で、 白封 筒入 りの 副書 を送 るた めに 書か れた 濱田 事務 官の 書簡 の日 付は 九月 九日 とな って おり

、御 下賜 から 四箇 月以 上が 経過 して いる

。本 来な らば

、こ のよ うな 副書 は、 御色 紙に 添え られ るべ きも のか もし れな いが

、御 下賜 され た時 には 附属 して いな かっ た。 仮に 御色 紙が 郵送 され てき たの であ れば

、そ の際 の濱 田事 務官 の書 簡 が存 在 す る はず で あ る が、

「財 産 台 帳」 に は見 え な い。 尤 も 当時 の通 念か ら言 って

、皇 族の 御親 筆と いう 貴重 な御 下賜 品を 郵送 する よ うな こ と は 極め て 考 え に くい

。こ の こ と から

、「 歌 仙 御 色紙

」が 御下 賜さ れる に当 たっ ては

、竜 田神 社の 社掌 や総 代が

、東 京渋 谷の 久 邇 宮 邸 な い し は 京 都 の 河 原 町 通 荒 神 口 の 久 邇 宮 邸 に 伺 候 し て、 直々 に拝 戴し た可 能性 が高 いで あろ う。 とす れば

、も とも と御 下賜 品に 副書 の類 が附 属し てい ない のは

、ご く自 然な こと であ ろう

。 想  像を 逞し くす れば

、竜 田神 社側 とし ては

、御 色紙 が御 下賜 され て二 三箇 月は

、喜 悦の 極み で 何も 考え るこ と はな か った の であ ろ う。 しか し、 時間 が経 過す るに 従い

、社 宝と して 代々 襲蔵 して いく もの であ るか ら、 宮家 より いつ

、何 を御 下賜 され たの かと いう 正式 な文

内  田  誠  一 323

(9)

五 三

書を 併せ て拝 受し たい と、 現実 的な 思考 をめ ぐら すよ うに なっ たの で は な い か

。濱 田 事 務 官 の 書 簡 に

「御 願 ニ 依 リ  三 十 六 歌 仙 副 書 別紙 之通 り相 認  御送 附申 上候

」云 々と ある のは

、そ うい う経 緯を 示唆 する もの であ ろう

。恐 らく は昭 和十 二年 の夏 ごろ に、 神社 側か ら久 邇宮 家に

、副 書を 拝受 した い旨 の願 い出 があ り、 それ を聴 許し た宮 家よ り、 九月 に神 社へ 副書 が送 られ てき たと いう こと では ない か。 こう 考え ると

、御 下賜 から 副書 送付 まで の四 箇月 余の 時間 の経 過に

、違 和感 を感 ずる こと もな くな るわ けで ある

。 3 

「  歌仙 御色 紙」 御下 賜の 背景 京  都林 泉協 会の 会報

「林 泉」 第五 五九 号( 二〇

〇〇 年一 月) に、 佐々 木利 三氏 の「 街 道を ゆく

(二 十)

─近 江五 個荘 町の 竜田 神社

」と いう 一文 が掲 載さ れて いる

。該 稿で は、 本稿 が論 じて いる

「歌 仙御 色紙

」が 簡単 に紹 介さ れて い るが

、そ の 末尾 に、

「 何故 竜田 神社 にそ の染 筆三 十六 歌仙 を納 めら れた かの 事に つい ては 後考 を待 つこ とに する

」と ある よう に、 久邇 宮家 と竜 田神 社の 関係 は解 って いて も、

「歌 仙色 紙」 が 御下 賜さ れた 理由 は不 明で ある

。前 掲 の副 書に

「 願出 ニ依 リ特 別ノ 思召 ヲ 以テ 御 下賜 相成 候」

( 解り 易く する ため 一部 表記 を改 めた

)と ある こと から

、竜 田神 社側 から

、御 染筆 を拝 戴し たい 旨の

「願 出」 があ った こと は間 違い ない であ ろう

。 た  だ、 和歌 一首 が御 染筆 され た掛 軸一 幅を 御下 賜す ると いう こと であ れば

、疑 問を 懐く こと もな いが

、小 型の 色紙 とは 言え

、三 十六 枚も の色 紙に 和歌 を認 めら れる のは

、相 当に 時間 と神 経の 要る こと であ り、 この よう な組 物を 御下 賜さ れる とい うの は尋 常の こと とは

思え な い。

「歌 仙御 色紙

」各 葉を 実際 に拝 見す る と、 御 筆致 の調 子に 違い が 見ら れ るの で

、一 度 に御 染 筆さ れた も ので は ない よ うで あ る。   で は、 三 十 七 枚 の 御 色 紙 を 一 括 し て 御 下 賜 に な る 背 景 に は 何 が あ った ので あろ うか

。竜 田史 編纂 委員 会の 事務 局長 であ る市 田正 尚 氏 は、 次の よう に分 析・ 推 測す る。

「副 書の 宛 名の 一 人で ある 塚 本源 三郎 は、 大 字川 並の 人で

、実 は 竜田 神社 の 氏子 でも なけ れば

、正 式に 選出 さ れた 総 代で もな い。 それ にも 拘わ らず 副書 の受 取人 の一 人と して 塚本 の名 があ るの は、 彼が 久邇 宮家 と竜 田神 社と のパ イプ 役で あっ たか らで はな いか

。塚 本は

、東 京 に進 出し てい た塚 本 商店 の経 営者 であ っ た。

御色 紙御 下賜 の裏 には

、塚 本や

、当 時の 竜田 の分 限者 で竜 田神 社の 有力 な氏 子で ある 小杉 家・ 松居 家あ たり が久 邇宮 家に 相当 の寄 進を した から では ない か。 また

、俔 子妃 の御 染筆 を所 望し たの は、 俔子 妃は 良子 皇后

(香 淳皇 后) の母

、即 ち天 皇の 義母 であ り、 その 御染 筆を 拝戴 する こと が、 ステ ータ スで ある と考 えた から であ ろう

」( 市田 氏談

) 御  下賜 の背 景に

、神 社側

(実 際に は土 地の 分限 者) の久 邇宮 に対 する 格別 の功 労を 推測 する こと は、 ごく 自然 なこ とで あろ う。 筆者 は竜 田の 土地 柄や 歴史 に不 案内 であ るの で、 市田 氏の 推測 の詳 細部 分の 当否 を判 断す るよ うな 立場 には ない

。た だ、 三十 七枚 とい う組 物の 御下 賜に は、 それ に値 する 神社 側の 相当 な功 績が あっ たこ とは 間違 いな いで あろ う。

久邇宮俔子妃筆「三十六歌仙和歌御色紙」について 322

(10)

五 四 4  夜  久臥 嶠の 歌仙 絵は 御下 賜品 なり や 本  稿の

「一

、『 三十 六歌 仙和 歌御 色紙

』の 基 本デ ータ と現 状」 にお いて 引用 した

「 財産 台帳

」に は、

「三 十六 歌仙 御色 紙  参拾 六面 王  朝紙 額  装  御名 御色 紙壱 枚附

」と あり

、歌 仙絵 のこ とは 書か れて いな い。 ただ

、摘 要欄 に「 三十 六歌 仙ノ 図  絹本 有職 極彩 色  竪一 尺九 寸  横壱 尺  夜久 臥 筆」 とあ るの みで ある

。ま た、 副書

【図 6】 には

、歌 仙絵 のこ とが 一つ も触 れら れて いな い。 これ は何 を意 味す るの であ ろう か。

「  歌仙 御色 紙」 が 御下 賜さ れ るに 当た って は、 神 社側 の功 績 があ っ たこ とが 予想 され ると 前述 した

。し かし

、い くら 功績 があ った とは 言え

、久 邇宮 家側 が、 俔子 妃の 御染 筆の 御色 紙を 押す ため の歌 仙絵 をわ ざわ ざ夜 久臥 嶠に 依頼 して 描か せ上 で、 御色 紙を 押し て御 下賜 する であ ろう か。 久邇 宮家 側が そこ まで 用意 する とい うこ とは 考え にく いの では ない か。 恐  らく

、竜 田神 社側 は三 十七 枚の 御色 紙を 御下 賜さ れて

、ど のよ うに 装潢 を凝 らし

、ど のよ うに 保存 した らよ いか を考 えた こと であ ろう

。御 色紙 を帖 仕立 にす るこ とも 考え たで あろ うが

、小 型の 色紙 であ るか ら小 さい 帖と なら ざる を得 ない

。そ れで はや やイ ンパ クト に欠 ける

。そ こで 三十 六歌 仙の 絵を 絵師 に描 かせ

、そ の上 に御 色紙 を一 枚宛 押す とい う伝 統的 な手 法を 選ん だの では ない か。 勿論

、そ れは 経師 屋の 慫慂 によ るも のか もし れな い。 そ  う言 えば

、毘 沙門 堂門 跡が 嘗て 所蔵 して いた 後西 天皇 御宸 翰の

×

御色 紙七 葉( うち 最大 の一 葉が 縦3

・0 3 横2

・9 7糎

、最 小の

×

一葉 は縦 1・ 42

横 1・ 36 糎と いう 極小 色紙

)は

、狩 野常 信に

よっ て旭 日と 屏風 の絵 が描 かれ た台 紙の

「屏 風の 絵の 中」 に押 され て軸 装さ れ てい

つま り画 中で

、「 屏 風仕 立て の御 色 紙」 を 拝す る とい う虚 実融 合の 体裁 をと る趣 向で ある

。こ のよ うな 形で 装潢 すれ ば、 切手 のよ うに 小さ い極 小色 紙で あっ ても 存在 感を 増す こと にな るわ けで ある

。話 を「 歌仙 御色 紙」 に戻 すと

、御 下賜 され た御 色紙 を、 絵師 に描 かせ た歌 仙絵 の上 に押 すこ とは

、御 下賜 品に 対す る敬 意を 表 すこ とに な ろう し

、世 俗 的な 意味 では

、社 宝を 豪華 に演 出し

、 展観 する 際に 耳目 をよ り惹 くこ とに もな ろう

。そ う考 える と、 歌仙 絵は 久 邇宮 から 御 下賜 され た もの で はな く

、「 歌仙 御色 紙」 を御 下賜 され てか ら装 潢を 施す 際に

、神 社側

(前 述の 分限 者で ある 三者

?) から 夜久 臥嶠 に作 画を 依頼 した と考 える のが 穏当 であ ろう

。そ して 装潢 し畢 わっ てか ら、 函書 を宇 川済 中将 に頼 んだ とい うこ とで はあ るま いか

。 本  稿で は久 邇宮 俔子 妃の

「三 十六 歌仙 和歌 御色 紙」 につ いて 紹介 する とと もに

、些 か考 察を 加え てみ た。 紙幅 の制 限も あり

、意 の尽 くせ ない 部分 もな いわ けで はな いが

、そ れは 別の 機会 に補 おう と考 えて いる

。ま た、 竜田 神社 は、 他に も久 邇宮 から の御 下賜 品を 宝蔵 して いる

。今 後、 これ らに つい ても 調査 させ てい ただ き、 その 成果 を論 文化 して いき たい

■ 注 注 1   竜 田 神 社 に は

、 他 に も 久 邇 宮 関 係 の 資 料 や 久 邇 宮 か ら 御 下 賜 さ れ た 御 染 筆 が 残 さ れ て い る

。 注 2   他 の 宝 物 で は

、 財 産 区 分 の 次 の 項 目 に は 年 月 日 の 記 載 が な い が

、 こ

内  田  誠  一 321

(11)

五 五

「 歌 仙 御 色 紙

」 で は

、 年 月 日 が 記 さ れ て い る

。 こ の 年 月 日 が 何 を 示 す の か 不 明 で あ る が

、 御 下 賜 品 で あ る 色 紙 を 社 宝 と す る こ と を 神 社 庁 に 報 告 し た 日 で は な い か と 市 田 氏 は 推 測 し て い る

。 注 3   目 録 に は

「 臥

」 と あ る が

、 本 来

「 臥 嶠

」 と す べ き で あ る

。 桐 函 の 身の 方 の 内 側に

、「 三 十 六 歌 仙 像

/ 平 安 夜 久 臥 嶠 画

」と 墨 書さ れ て い る が

、 行 書 で 書 か れ て い る た め

、「 嶠

」 の 字 の 旁 の 下 半 分 が

「 馬

」 の 字 の よ う に 見 え る

。 そ の た め「 臥

」と し て し ま っ た の で あ ろ う

。 な お

、 夜 久 臥 嶠 は

、 画 の 師 匠 で あ る 谷 口 香 嶠 の 号 の 一 字

「 嶠

」 を 貰 い

、 臥 嶠 と 号 し た も の と 思 わ れ る

。 注 4   現 在

、 宮 邸 跡 地 に は

、 梨 本 宮 守 正 王

( 朝 彦 親 王 第 四 皇 子

) の 筆 に な る

「 貽 範 碑

」 な る 石 碑 が 残 る

。「 貽 範

」 と は 手 本 を 遺 す 意 で

、 親 王 の

薨 後 四 十 年 の 昭 和 六 年

( 一 九 三 一

) に 立 碑 さ れ た

。 幕 末 維 新 に 国 事 に 力 を 尽 く し

、 世 に 手 本 を 示 し た 親 王 を 報 恩 景 仰 し た 石 碑 で あ る

。 注 5

「  由 緒 記

」 に は

、「 明 治 の 初

、 宮 は 安 芸 国 に 幽 居 し 給 ひ し に よ り

、 当 時 の 文 書 記 録 散 逸 し 事 蹟 堙 滅 せ ん と せ し が

、 大 正 十 一 年 久 邇 宮 邦 彦 王 殿 下 其 の 由 を 聞 召 さ れ

、 其 の 十 月 近 侍 牧 野 克 次 を し て 調 査 せ し め

、 翌 年 一 月 御 神 前 供 饌 用 の 御 名 札 を 下 附 し 給 ふ

」 と あ り

、 邦 彦 王 の こ と を 記 し て い る

。「 安 芸 国 に 幽 居

」 と い う の は

、 公 武 合 体 派 の 中 心 人 物 で あ っ た 朝 彦 親 王 が

、 孝 明 天 皇 崩 御 の 後 に 尊 皇 攘 夷 派 公 卿 が 復 権 す る 中 で

、 岩 倉 具 視 の 策 謀 に よ り

、 明 治 元 年

( 一 八 六 八

) か ら 三 年

( 一 八 七

) ま で 広 島 に 謫 居 さ せ ら れ た 事 件 を 指 す

。 注 6   東 京 日 本 橋 の 株 式 会 社 塚 本 商 店

( 現 在 の 社 名 は ツ カ モ ト コ ー ポ レ ー シ ョ ン

)の 経 営 者

。 初 代 塚 本 定 右 衛 門 が 文 化 九 年( 一 八 一 二

)、 甲 府 に 小 間 物 問 屋

「 紅 屋

」 を 開 い た こ と に 始 ま る

( 同 社 ホ ー ム ペ ー ジ の

「 会 社 沿 革

」 の 年 表 に 拠 る

)。 注 7

『  宸 筆 集

』( 京 都 府 発 行

、 一 九 一 六 年

) に

、「

( 七 六

) 後 西 院 天 皇   御 色 紙

」と し て 所 載

。「 金 泥 模 様 地 ノ 豆 色 紙 ニシ テ

、肉 眼 ニ テ 拝 見 シ 難 キ 程ノ 御 細 字 ナ ル ニ カ ヽ ハ ラ ズ

、実 ニ 御 筆 法 正 シ ク宸 書 セ ラ レ タ リ

」と

、 猪 熊 信 男 が 解 説 し て い る

。 な お

、 現 在 こ の 御 宸 翰 は 旧 蔵 寺 院 よ り 民 間 に 流 出 し て い る

■ 付 記

「  龍 田

」 と

「 竜 田

」 の 書 き 分 け に つ い て   神 社 名 は

、 元 宮 司

・ 小 杉 利 一 氏 の 拘 り か ら

「 龍 田

」 を 用 い

、 行 政 地 名 は 昔 か ら

「 竜 田

」 の 文 字 を 用 い て い る

、 と の 教 示 を 市 田 氏 よ り 受 け た

。 前 掲 の

「 由 緒 書

」 で

「 龍 田 神 社

」 と な っ て い た の は そ の た め で あ ろ う

。 た だ

、 邦 彦 王 御 染 筆 の 御 神 額

【 図 7

】 や 俔 子 妃 の 識 語

、 濱 田 事 務 官 の 副 書 や 書 簡 な ど に お い て は 全 て

「 竜 田 神 社

」 と な っ て い る

。 市 田 氏 の 推 定 で は

、 五 個 荘 の 竜 田 神 社 の 社 格 は 村 社 で あ り

、 奈 良 県 生 駒 郡 に 鎮 座 す る 龍 田 大 社

( 旧 官 幣 大 社

) と 龍 田 神 社

( 旧 県 社

) の 二 社 よ り も 社 格 が 低 い た め

、 久 邇 宮 家 で は

「 竜

」 の 字 を 使 っ た の で は な い か と す る

。 ま た

、 同 氏 か ら

、 五 個 荘 の 竜 田 神 社 が 或 る 時 期 か ら

「 龍 田 神 社

」 と 表 記 し た の は

、 小 杉 元 宮 司 一 個 人 の 拘 り に よ る も の で

、 竜 田 史 編 纂 委 員 会 と し て は

、 今 後

、 邦 彦 王 の 御 神 額 に あ る 通 り

「 竜 田 神 社

」 と 表 記 し た い と の 意 向 を 伺 っ た

。 よ っ て 本 稿 で は

、 神 社 名

・ 地 名 と も に

「 竜 田

」 と 表 記 し た

。 た だ

、 引 用 資 料 で

「 龍 田

」 と 表 記 さ れ て い る 場 合 は そ の 表 記 に 従 っ て 引 用 し た

。   筆 者 按 ず る に

、 世 間 で は

「 龍

」 を

「 竜

」 の 古 い 形 と み る 誤 解 が あ る が

、楷 書 の「 竜

」は

、隋 代 の

「 美 人 董 氏 墓 誌

」に 既 に 用 い ら れ て い る

。 ま た

、 甲 骨 文 や 金 文 に も

、 の ち の 楷 書 の

「 竜

」 の 字 体 の 原 型 と 思 わ れ る 形 が 見 ら れ る

。 よ っ て

、「 竜

」 は 決 し て 後 世 の 略 字 で は な い

久邇宮俔子妃筆「三十六歌仙和歌御色紙」について 320

図 7   邦 彦 王 御 染 筆 の 御 神 額

( 部 分

(12)

五 六

■ 追 記 1   入 稿 直 前 の 九 月 二 十 三 日 に

、 本 稿 で 考 察 し た

「 歌 仙 御 色 紙

」 が

、 竜 田 神 社 に お い て 一 日 だ け 公 開 展 示 さ れ た

。 こ の 企 画 に つ い て は

、 九 月 二 十 二 日 付 の 京 都 新 聞 が

、「 陛 下 の 祖 母 の 直 筆 公 開

」 と の 見 出 し で

「 小 大 君

」の 色 紙 と 歌 仙 絵 のカ ラ ー 写 真 を 入 れ て

、大 き く 記 事 を 掲 載 し てい る

。記 事 に は

、「 戦 後 数 度し か 公 開 さ れ て おら ず

、主 催 の 住 民 たち は

『 地 域 の 宝 を 見 る 貴 重 な 機 会

』 と 話 し て い る

」 と あ る

■ 追 記 2   本 稿 の 初 校 が 手 許 に 届 い た 十 二 月 一 日

、 奇 し く も 竜 田 史 編 纂 委 員 会 の 市 田 正 尚 氏 よ り メー ル が 届 き

、新 資 料 二 点が 発 見 さ れ たと の こ と で

、 そ の コ ピ ー が 添 付 さ れ て い た

。宇 川 済 中 将 の ペ ン 書 き の「 歌 仙 御 色 紙

」 の 添 状 の コ ピ ー

、 お よ び 御 色 紙 の 額 装 に 関 す る

「 値 積 書

」( 恐 ら く は 経 師 屋 が 竜 田 神 社 に 示 し た も の

) の コ ピ ー が そ れ で あ る

。 最 近

、 塚 本 源 三 郎 の 旧 邸 で あ る 八 年 庵

( 現 在

、 三 輪 國 男 氏 の 所 有

) か ら 発 見 さ れ た も の と い う

。 宇 川 中 将 の 添 状 の 内 容 は 次の 通 り で あ る

「 昭 和 十 二 年 四 月 十 五 日

/ 久 邇 宮 大 妃 俔 子 殿 下 特 召 塚 本 源 三 郎 賜 其 染 毫 三 十 六 歌 仙

/ 和 歌 色 紙 源 感 喜 而 奉 納 之 龍 田 神 社 氏 子 松 居 久 右 衛

/ 門 小 杉 佐 浄 小 杉 五 郎 左 衛 門 胥 謀 製 扁 額 掲 宝 前 以

/ 伝 永 久 唯 冀 神 光 与 皇 威 益 熠 耀 応 嘱 記 由 来 云

/ 久 邇 宮 附 別 当 海 軍 中 将

/ 宇 川 済

( 花 押

/ 謹 識

」   次 に こ の 八 行 の 文 章 を 書 き 下 し て み た い

「 昭 和 十 二 年 四 月 十 五 日

、 久 邇 宮 大 妃 俔 子 殿 下

、 特 に 塚 本 源 三 郎 を 召 し て 其 の 染 毫 三 十 六 歌 仙 和 歌 色 紙 を 賜 ふ

。源

( 源 三 郎 の こ と

) 感 喜 し て 之 を 龍 田 神 社 に 奉 納 す

。 氏 子 の 松 居 久 右 衛 門

・ 小 杉 佐 浄

・ 小 杉 五 郎 左 衛 門

、 胥 な 謀 り て 扁 額 を 製 り

、 宝 前 に 掲 げ

、 以 て

永 久 に 伝 へ

、 唯 だ 神 光 と 皇 威 の 益 ま す

耀 せ ん こ と を 冀 ふ

。 嘱

に 応 じ て 由 来 を 記 す と 云 ふ

。 久 邇 宮 附 別 当 海 軍 中 将 宇 川 済

( 花 押

) 謹 し み て 識 す

」 左 の 辺 欄 の 外 に

「 表 三 十 六 歌 仙 和 歌 御 色 紙

」 と あ る こ と か ら

、 本 来

「 歌 仙 御 色 紙

」を 納 め る桐 箱 の 蓋 裏 に この 文 章 を 記 す予 定 で あ っ た ので

は な い か と 思 わ れ る

。   と こ ろ で

、 注 目 す べ き は

、 宇 川 中 将 の 添 状 の 第 一 行 に

「 昭 和 十 二 年 四 月 十 五 日

」 の 日 付 が 記 さ れ て い る こ と で あ る

。 久 邇 宮 附 宮 内 事 務 官 の 濱 田 武 名 義 の 副 書 や 竜 田 神 社 の

「 財 産 台 帳

」 を 見 る と

、「 歌 仙 御 色 紙

」 は 昭 和 十 二 年 五 月 一 日 に 下 賜 さ れ た こ と に な っ て い る

。 今 回 新 た に 発 見 さ れ た 添 状 の 日 付 と 半 月 の 時 間 の 差 が 生 じ る

。 こ れ は 何 を 意 味 す る の で あ ろ う か

。 筆 者 が 推 測 す る に

、 も と も と

、 塚 本 の 久 邇 宮 家 へ の 功 労 に 対 し て 下 賜 さ れ た

「 歌 仙 御 色 紙

」 を 塚 本 が 竜 田 神 社 に 奉 納 す る は ず で あ っ た が

、 何 ら か の 事 情 に よ り

、 久 邇 宮 家 が 竜 田 神 社 に 下 賜 す る と い う 体 裁 を と る こ と に 変 更 さ れ た の で は な い で あ ろ う か

。   も う 一 つ の 新 資 料 で あ る「 値 積 書

」で あ る が

、こ れ は「 歌 仙 御 色 紙

」 を 押 し た 歌 仙 絵 の 額 装 代 金 の 見 積 書 で あ る

。 本 稿 で

「 歌 仙 絵 は 久 邇 宮 か ら 御 下 賜 さ れ た も の で は な く

、『 歌 仙 御 色 紙

』 を 御 下 賜 さ れ て か ら 装 潢 を 施 す 際 に

( 中 略

… 作 画 を 依 頼 し た と 考 え る の が 穏 当 で あ ろ う

」 と 推 測 し た が

、 宇 川 中 将 の 添 状

( 文 面 に 歌 仙 絵 の 記 述 が 全 く 見 ら れ な い

) と

「 値 積 書

」 の 発 見 は

、 筆 者 の 推 測 が 誤 っ て い な か っ た こ と の 証 左 や 傍 証 と も な り 得 る も の で あ る

■ 鳴 謝   筆 者 が 竜 田 神 社 の 宝 物 を 調 査 す る に 当 た っ て は

、 学 校 法 人 淡 海 文 化 学 園 理 事 長 で 滋 賀 県 神 社 庁 神 崎 支 部 総 代 会 長 の 小 杉 武 志 氏 に 過 分 の ご 厚 意 ご 高 配 を 賜 り

、 併 せ て 種 々 ご 教 示 を い た だ い た

。 小 杉 氏 の ご 高 配 が な け れ ば

、 本 稿 執 筆 の 基 礎 と な る 実 地 調 査 は 成 立 し 得 な か っ た

。 ま た 竜 田 史 編 纂 委 員 会 の 市 田 正 尚 氏 か ら は

、 竜 田 や 竜 田 神 社 の 歴 史 に つ い て 詳 し く ご 教 示 い た だ き

、 本 稿 で も 御 説 を 引 用 さ せ て い た だ い た

。 さ ら に は

、 竜 田 史 編 纂 委 員 会 委 員 長 の 高 野 勝 次 氏

、 松 居 信 勝 氏 に も お 世 話 に な っ た

。 こ れ ら の 方 々 に 厚 く 御 礼 申 し 上 げ る

〔二

〇一 一・ 九・ 二九 受  理〕

内  田  誠  一 319

参照

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