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小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

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(1)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

倉 田 稔

目 次 は じめに

1 小樽高等商業学校の成立

2

渡辺龍聖校長

3

小林多喜二の高商入学 の ころ

4

教師たち

5

商品学 6 学生生活

7

筆禍事件

一8 開校十年 祭

9

渡辺校長 の退任

10

伴校長

11

大西猪之介

1 2 当時の高商 ( 伊藤 整 による)

はじめに

これは, 小樽高等商業学校の, 特 に, 初代校長渡辺龍聖の時代の記述である。

それに, これは小林多喜二伝の一部で もあるので,彼が入学 した年が,少 し余 計 に措かれている。多喜二の伝記 は,第

1

章前半を 『 人文研究』第

86

韓,第

1

章後半 と第 2章初めを,同第87 韓,に載せた。それはなお続 くはずである。本 稿 は,その伝記第

2

部の冒頭 にあたる。つまり伝訳

(4)

である。

69〕

(2)

1

小樽高等商業学校 の成立

小樽高等商業学校の,その創立の歴史を語 っておこう

明治35 年 ( 19 02 年)に,東京 にあった高等商業学校が東京高等商業学校 と 改称 され,同年,神戸高等商業学校が設立 され,明治37 年 ( 1 904 年)に,大 阪市立高等商業学校が高商に昇格 し,明治38 年 ( 1 905 年)には,山口高等商 業学校および長崎高等商業学校が設立 された。大阪のそれは国立でないので, 次に設立 される国立の高等商業学校 は,いわゆる第五高等商業学校 とされた。

日露戦争 ( 1 90 4‑0 5 )後,政府 は,国際貿易振興上, さらにもう一校新設の 構想を持 っていた。 これを察知 して,全国の有力都市が誘致運動を激 しく始め た。それに, これ ら既存の

4

つの国立高商は東京より西にあった。そこで東京 以北にも高商を設置 しようという機運が盛 り上が った。

明治30 年,平田法制局長官が来樽 した折 り,商業会議所主催歓迎会の席上, 主催者の 1人,小町谷純が,北海道の外国貿易振興上,小樽に高等商業学校を 設置す る必要がある, と一席ぶ った。 これが第一声だった。1 )

小樽,当時は小樽区では,北の貿易港 として,特に日清戦争では著 しく発展 し,明治32 年 ( 1 89 9 年) に,小樽区会常設委員会で,政府 に高等商業学校設 置の希望を述べていた。明治39 年 ( 1 906 年)に,文部省で高商増設が内定 し た。そこで高商誘致の運動が始まった。初めは函館が有力 となった。仙台 も名 乗 りをあげていた。

小樽区では,高商の敷地 として 1万坪,建設費の うち

5

万円を寄付すると区 議会で決定 し,椿区長 と金子元三郎代議士 によ り政府への働 きかけがなされ た。金子元三郎代議士を上京 させて,猛運動を開始 した。金子 は, 「 小樽 に高 商を持 って来 るな らば,学校の敷地 はもとより,先生の官舎,学生の寄宿舎等 を,全部地元で寄付す る ・・・」 と政府に申 し出た, と言 う

。2)

政府 は,地元が建設費37 万円の うち 20 万円を負担するな らば,小樽に高商を

1)

小町谷純先生の 小樽の思い出』

2)大野純一 「わが母校のルーツと将来への原飢1」(緑丘』52号)

(3)

小樽 高等商 業学 校 と渡 辺龍 聖 71

設置 して もよいと返事を した。金子代議士か ら,椿秦一郎区長は電報で連絡を 受けた。椿区長か ら渡辺兵四郎

3)

への手紙 は, こうである

。4)

ご使者を くださり, ご高情感謝。今朝出発のはずのところ,咋夜半,金子代 議士より急電があり,文部次官より高等商業学校は敷地はか五ケ年賦で二十万 円寄付で きれば,設置の運びがなるか もしれぬ。三 日までに返事を要すると申 して来ま した。よって今 日常設委員協議会を開き, ご相談す る必要を認め,小 生 は今夕出発の ことに変更 しま したので, ご承知 ください。

なお,お繰合わせで きれば,なるべ く委員会‑ ご出席 くだされ た く,時刻 は

午前十時で ございます。 敬 具

二 日朝 渡辺様

5)

椿

椿 は,地元有力者である渡辺兵四郎,寺田省帰,小町谷純氏を緊急召集 し, 協議の結果,区会へ諮 ったのではとて も早々にはまとまるまいと懸念 し,区会 には事後に諮 るという腹芸をや って,賛成の返電を打ち,その後,区会で可決 された。 敷地 は

8

カ所候補があって,それぞれの地主が寄付の申 し出を したが, 文部省係官が派遣 され,敷地 ( 当時は稲穂町,現在の縁町)が決定 した。 この 土地は,木村円吉 ・金子元三郎 ・河原直孝 ・青木乙松 ・白鳥永作各氏の土地

1

2

千坪であった。

こうして明治

40

(1907

年)に,第五高等商業学校が小樽 に設置 され るこ とが決定 した。

当時小樽区の年間予算 は,約30 万円であ り,20 万円の負担は垂す ぎるので, 北海道庁が

5

万円を集め,残 りの

15

万円を小樽の資産家か ら寄付を募ろうとし

3)渡辺兵 四郎 は,明治41年 に衆議院議員 とな り,明治45年,第5代小樽区長 に就任。

4)原文 は候文 なので,現代語 に翻訳す る。

5)越崎宗一 『郷土史的 自叙伝』昭和53 37

ペ ー ジ

(4)

た。 各町内に割 り当てたが実現せず, 結局,区債を発行 して消化す ることになっ

た 。

明治

41

(1908

年)

5

月 に,敷地 ( の整地)を し始め,校舎建築が始 ま り, 同4

3

(1910

年)

2

月に竣工 し,同年

3

月,小樽高等商業学校の設置が公布

された。翌

44

(191

1 年)

4

月か ら授業が開始 され ることが公示 された。尤 も,後述するように,開始 は 5 月であった。現在の小樽商科大学の前身校であ る。

この高商は, 3 年制で, 1 年が 3 学期に別れ, 目的は 「 実業学校令及び専門 学校令に依 り商業上必要なる高等の教育を施す」 ことであった。高商の学科内 容は,他の高商で もそうであったが,東京高商を模範 として定め られ,実用英 語,商業実践に重点が置かれた。入学者は,満

17

才以上の男子で,中学校や甲 種商業学校を卒業 した者,などである。

学校職員の定員は,校長

1

人,教授

2

人,助教授

2

人,書記

2

人 とされ,開 校時は,教授 6 名,助教授 3 名,書記 3 名 となり,その後徐 々に定員は増大す

るのであった。

さて初代校長には,東京高等師範学校教授渡辺龍聖が任 じられた。渡辺 は,

2

月に来樽 したが,教師 ・設備が充分準備 されていないので,予定の

4

月でな く,結局

5

月に開校 した。小樽高商の教育方針は,つまり渡辺の教育方針 は, 商業学の原理を研究す る学者を養成す るのではな く,卒業 してす ぐ実務にあた り何等不便を感 じない,いわゆる実際家を教養 しよう,というものであった

。6)

この ころ,東大にも京大にも経済学部がな く,それ らがで きたのは大正

8

年 であった し,他の国立学校にも経済学部 ・商学部はなか った。

2 渡辺龍聖校長

小樽高商初代校長 となった渡辺龍聖先生に触れてお こう

6) 小樽商科大学史』財界評論新社 1976

(5)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖 73

彼 は,開校の年,明治

44

(191

1 年) に校長 とな り,大正

10

(1921

年)

1 1

月 に退任 した。だか ら

1

1 年半勤 めたのであ る。小林多喜二 は,彼が退任 した 年 に入学 したので,校長の時代の最後の半年が重 なっている。

渡辺 は,慶応元年

(1865

年)生 まれ,新潟県 出身 であ る

渡辺 は,信州 山 奥のお寺の小僧であったが,檀家の人 々に見込まれて,東京専門学校 ( 早稲田 大学 の前身) に修行 にや られ,明治

20

(1887

年) にその英文科 を卒業 し, アメ リカに留学 した。 ヒル スデ ール大学 か らバ チ ュラー ・オ ブ ・フィ ロソ フィーを とり, コ‑ネル大学か ら倫理学を専攻 して ドク トル ・オ ブ ・フィロソ フィーの学位 を得て,帰国 した。彼 は明治

28

(1895

年) ,東京高等師範学校 講師 とな り,ついで教授 とな る

明治

32

(1897

年)に高等師範か ら東京音 楽学校が独立 した。そ して渡辺がその初代校長 になった。明治

35

(1902

年)

には,校長時代が終わ り,清国総督蓑世凱の教育顧問として招かれ, 7年間そ の職 にあ り,同

42

(1909

年)に帰国 した。

そ してす ぐ文部省留学生 として

3

年欧米 に遊学す ることにな り,ベル リン大 学に学んだ。その途中,小樽高商の校長をや らないか とい う手紙を,彼 は文部 省か ら受 け取 った。彼の専門は商業学ではな く,倫理学であった。そ こで,商 業教育 とはどれだけの意義があるのか研究 してみようと考えて, フランス, ド イツ,オ‑ス トリア,ベルギーなどの商業教育を視察 し研究 し,その結果,商 業教育が非常 に重要 な国家的任務を持つ ものであると確信 したので,小樽‑の 赴任を承知 した。

彼 は留学期 間を切 り上 げて,同

44

(191

1 年)

1

3

日に帰国 した。 そ し て 2月,小樽 に赴任 したのである。彼は官僚的臭味を もたぬ教育家であ った。

それ は彼の長 いアメ リカ留学のせ いで もある

。7)1

1 年半の校長勤務の後,渡辺 は小樽を去 って,新設の名古屋高等商業学校校長 として赴任す ることにな る。

彼 は当時の模様を述べた。「 外観のみ完成 された校舎が山腹 に唯一つ立 って いるが,道 は意外 に も長 く,二月 と言 うに流汗淋滴 として拭ひもあえぬ。漸 く

7)中村の稿(縁丘』13

号)

11

ペ ー ジ

(6)

に して校舎 に辿 りつ けば,休息すべ く椅子一つ無 く,全 く山間の一軒屋 よ りも ひどい。観れば校舎 は不完全であ り,床 は持 ちあが って,扉 は開かず,黒板 は 勿論,肝腎の机がないので ある, と言 って誰 に愚痴を言 う術 もない

」( 筆者 は 点を

2

つ補 った)

1

年 は

,150

人の応募で

72

人を とった。 ただ し卒業時 に

50

人 とな った。入 学者 は道内出身が

4

分の

1

であった

。 8)

渡辺校長の教育方針 は,実務教育 中心主義であ った。つ いで,単 なる実務教 育 に終 らせず,時代の要請 にこたえ る実業人の倫理 を作 ることであ った。最後 に実践 を重ん じた。

彼 は,従来 日本 は,士農工商の時代であ ったが,現在 は時勢が一変 し,商 は 国家の存立上最 も肝要 な職業である, と考え る。 また,今 までの商人の町人根 性 とい うよ うな品性では,今 日の社会の存立 さえ危 うくす る恐れがある,今 日 の商人 は,知識技能 は もちろん,品格で も国民の上位を 占めねばな らない,そ

して学校で は生徒を少年紳士 として遇す る, と言 った。

学生であ った越崎宗一 は書 く

渡辺 は演説の際 は常 に 「 我輩 は」を連発 し, 学生 に対 し「 我輩 は諸君 を遇す るに紳士を もってす」とおだてあげ,学生 は 「う

ちの親父」 とい った親近感を寄せていた。渡辺先生 は実に人心をっかむ ことが うま く,その教育方針 は,実務教育 と実業人の人格養成 とに力を入れ られた。

この方針 は長 く小樽高商 ・・・の伝統的特色をっ くり出 した

。9)

校長 は,学科編成の さいに実践科 目を取 り入れた。例えば,商業実践,企業 実践,商品実験の科 目であ った。渡辺 は,授業科 目を設定 し,全国か ら若 い教 師を呼んだ。 は じめは学生のための寄宿舎 もろ くになか った。 しか し,人的 ・ 制度的 に序 々に整備がなされた。渡辺 は,スキー も取 り入れた。彼 は,激 しい 情熱で小樽高商に打 ち込んだ。風采を飾 らず,気やす く教職員 ・学生 に接 し, 親身 にな って世話 を した, と言われている

渡辺 は,教授陣の充実に努 めた。 まず教頭 として,当時京都帝大の法学部助

8) 『 小樽 』8 6 ペ ー ジ

9)

越崎書

38

ペ ー ジ

(7)

小樽 高等商業学校 と渡辺龍聖

7 5 教授伴房次郎をっれてきた。次に東京高商を卒業 と同時の大西猪之介を連れて

きた。東京外語か ら苫米地英俊を採用 した。苫米地の専門は英語であったが, 商業英語をやれ と渡辺に命 じられ,す ぐその専門家になった。東京高商か らは 数名の教授に小樽高商の併任講師になって もらい,毎年出張講義があった。三 浦新七教授は,はじめか ら併任講師でな く,小樽の教授 も兼務 していた。東大 か ら,英語の八木,倫理の木村善太郎をとった。

10)

越崎は書 く。渡辺校長の最 も大 きな苦心 は,中央か ら遠 く離れた北辺の高商 へ,いかに して優秀な教官を引っ張 って くるかにあった。 しか し敏腕な校長の 努力の甲斐あって,商業,経済,商品,外国語に優秀な人材を招 くことが出来 た。 とくに英,独,莱,仏,支か ら外人講師を招 くことが出来たことは,国際 貿易上の有意な実業人を養成す るという高商の特色か らいって,最 も強みを加 えた。

ll)

特に外国人教員の獲得はむずか しか った。渡辺は,在外 日本大使館や,在 日 外国公使館の大使や外交官に,人選を頼んだ。

各教授は一週間に数時間だけの授業で在宅の時間が多か ったので,渡辺は各 教授に著書を書 くよう勧めた.一冊分の原稿がまとまると,渡辺はその原稿を 雑誌 『 伝記』の主幹である東京神田の実弟に送 るのだった。実弟はそれぞれの 原稿にむいた,同文館,冨山房,宝文館などに廻 した。

12)

中村貿二郎は言 う

中村は,私立神戸関西学院の出身で,滞米1 0 年,米国の 大学の学位を 2つ持っ。渡辺校長は,帰国 して宮崎中学外国人代用教授 となっ た中村を,高商教授 として採用するという断行を した。初めか ら教授 にするこ と,私立大出をそうす ることは,珍 しか った。小樽に着いた中村に,校長は自 分の席か らでてきて,満面笑みをたたえて手をさしのべ,握手を求めた。中村

はエライナーと思 った. こうい う平民的態度 は当時は しなか った。

13)

1 0 )

大野 (緑丘

』5 2 号)

ll)越崎書 38

ペ ー ジ

12)神部の稿 (緑丘』73,1993年)26

ペ ー ジ

13)中村 (緑丘』13号)1

1ペ ー ジ

(8)

「 渡辺校長 は実務教育中心主義を うち出 し,十周年記念式典で も商業実践, 企業実践,商品実践の三つを他校 にない独得の学科であるといわれた。 しか し 単なる実務教育ではな く,実業人の倫理養成 とった方面 に力点を置 き,三年の 在学 中は帳簿や ソロバ ン術

14)

をマスターす ることではな く,商業の基本 を教 えるべ きだ としいていた。だか ら,商業学校には不用のようにみ られ る哲学 も あ り,最 も重点をおた英語 も実用商業英語 よ り帝大英文科卒の文学士が多か っ

た 。

」 15)

渡辺 は小樽高商の基礎を作 り上 げた。そ して彼を中心 として, 教職員の努力, 小樽 の人 々の協力 によって, この学校 は,順調 に育 ってい った。

16)

渡辺 は, 今で言 う単身赴任であった。伴 は書 く。教師に 「 退屈 させまい,小樽の土地を 厭 とは恩はせまい,此の二つ は渡辺氏 も随分苦心せ られた。小樽を悪 く言 う事 は氏の前では禁物である。渡辺校長の家族 は氏の在任中満十年間一度 も上京 し なか ったの も東京 に憧れる様子を人 に,見せまい為であ った。1 7 )

名古屋高商開校五周年の際の校長式辞で,渡辺 は言 った。「‑‑‑本校 に於て は,出来 るだけ規則を制定 しないという方針であ ります。・ ‑‑教育 は個性の特 異を尊重せねばな らぬなぬ ものであるのに,共通的規則で束縛す ることは好 ま

しか らぬ と思いま して,出来 るだけ規則を制定 しない訳であ ります。 」いかに 彼が学園の 自由を望んでいたかが察知で きる。

18)

3

小林多喜二の高商入学のころ

小林多喜二 は,

1921

年 ( 大正十年)

3

月 に,北海道庁立小樽商業学校 ( 庁

1 4 )当時の時代,しかしソロバンは必修だった。大正 8 年卒業生の言。

1 5 ) 越崎 「 小樽高商 」 ( 『 北海道新聞 』1 9 6 4・3・ ll )

1 6 ) 緑丘五十年史』小樽商科大学 1 9 61 年

17)

伴の稿, 『 縁丘

』83

号,

4

ペ ー ジ

1 8 )

田中藤一郎

( 『 縁丘 』No. 1 4 ) 2 ペ ー ジ

(9)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

77 商)を卒業 し

,19)

同年

3

28

日に高商の入学試験を受 けた。庁商の

2

名以外 に

も,少 しだが推薦入学 もあった。受験の時,雪解けの悪路で,靴を泥にとられ た人 もいた。高商への坂の沿道 は畑だった。小樽築港のあた りで も港いっぱい を船が埋めっ くしていた。小樽 と札幌では,小樽の方が賑わい,人口も少 し多 か っ

大正

8

年には,

6

人に

1

人 という合格率だった。大正

9

年っまり前年は,受 験者

3

千余名で入学が

1

‑ 80 名だった, と言 う人 もいる。 さて多喜二の時は,そ の受験者

722

名車

, 189

名が入学を許可 された。多喜二 は,同年五月 に小樽高 商に入学 した。それは第十一回生 としての入学であった。宣誓式‑入学式は, 同年

5

5

日に行われた。 この五月は,ちょうど学校の創立十周年であった。

その式典 はこの年十月に行われることになる。

小樽高商に入学することによって,ほとん ど将来の生活 は安定す ることが約 束 された。なぜな らこの学校は,北海道でエ リー ト校であって,卒業生は銀行

・商社などで活躍 し始めていたか らである

多喜二の一年後輩になる伊藤整は,小樽高商について面白いことを書いてい る。「 小樽に二流の学校があった」 と。実 はある意味で,そ うであった。学歴 と修業年限で, 3年の高商は, 6年制の大学 ・帝国大学 と較べて,三年短い。

ただ し,興味深いことに,北海道では北海道帝国大学 は理科系であり,文科系 の学校は小樽が代表 していた。

また高商の図書館 は当時,和書

7100

冊,洋書

4100

冊を蔵 していた。立派な 図書館だ ったとされる。閲覧室の一隅に内外の推誌がいっ も並べてあって, 自 由に読む ことがで きた。当時の図書館長であった中村貿二郎先生の好みで文学 書が多か ったと,伊藤整が 『 若い詩人の肖像』で述べたが,大西猪之介のお蔭 だ という説が正 しい。

小樽高商では,一年生 は

4

クラスに分れた。その

1

クラスは商業学校卒業生 の クラス ( D クラス)であった。他の

3

クラスは中学校出のそれである。

19)現在の小樽商業高校。多喜二が この学校を出たことを,在学 ・卒業生で も知 らない 人がかな りいるらしい。

(10)

多喜二が高商に入った頃は,映画では粟島すみ子が売 り出しの最中であった。

この頃の小樽は,舗装されている道路が全然な くて,色内町あた りは,雨が 降れば深い泥沼 と化 した。石川啄木が嘆き,高商の英語教師マ ッキ ンノンが, リヴァ一 ・オヴ ・マ ッ ド[ 泥の川]と名付けた状態である。ことに雪解 けの頃, 泥 と馬ふんの混 じった悪路 は言語 に絶 し,それが乾 くと風のまにまに舞 い上 が った。俗に言 う馬ふん風である。 こんな状況で,唯一の交通手段 は夏は幌馬 車,冬 は馬そ りであった

。20)

寒い夜などは鈴の音が,街か ら街‑伝わ った。

高商生が好んで行 った肉屋 は,米久, ときわ,であり,対北大 [ 予科]戦で 勝 って も負けて もメー トルをあげるの場所 は,高橋 ビアホールであった

。2

1 )こ れは公園通 りの角にあって,高橋バーと云 う人 もいる。

1

15

銭の生 ビールを 高商生 はよ く飲んだ。学生は,寿司では蛇の目寿司などによ く行 った。左文字 書店があった。公園の上に桃太郎だん ごが売 られていた。水天宮の鳥居は大正

9 年 5月22日にできた。社殿の前の高麗犬や燈篭 も大正 9年 2月である。

高商石鹸が小樽の名物で,学校の誇 りであった。高商では石鹸を作 っていた のだ。

学生の中には相当の年輩者 も交わ り,すでに結婚 している学生 もあった。本 州か ら来た学生は,い くつかの学生寮に入 った。多喜二はもちろん地元小樽だ か ら,寮には入 らない。

学生の出席率は非常によか った。講義は謹聴 し,質問 もよくした。ちなみに 質問をよく出す学生 は優秀な ことが多い。

当時の教官 と学生 ( 当時は 「 生徒」 と言 う場合が多か った) とは,あたか も 親子のように,兄弟のように,親 しみが深 く,先生方の私宅をよ く訪れて夕食

の予定を狂わ した無遠慮者 も少な くはなか った

先生方のなかには,生徒 と同 じ年かあるいは生徒 よりも年少の先生 もお り,よ く生徒 と相撲を とった り,チ ニスを した り,走 りくらを した人 もいた

。22)

20)

明治から大正末まで小樽に約

40

台の客馬車があった。冬にはソリとなり,馬ソリに なった。大正

9

年に小樽でバスが走った。

21)

寿原 ( 『 緑丘五十年史』 )

22)相沢

(11)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖 79

高商のスローガ ンは,

CaptainofIndustry

( 産業の総帥)であった。そ う 言われて,学生 は自負心を持ち,勉強 した。 もっともこれは全国的なスローガ

ンであった。高商を出ると,商社や銀行 に入 るのが本筋だ と思われた。

小樽高商は,外国語 に力を入れた。そこで小樽外国語学校 と異名を とった。

一方, この学校では文学が盛んであった。その例 として,俳句を挙げること がで きる

虚子の息子 ・高浜年尾 ( 大正

8

年入学

〜13

年率) ,蛇忽の弟 ・飯 田 武 臣 ( 大正

13

年率),比良暮雪 ( 大正

9

年卒)などが有名であ る。特 に多喜二 が在学 していた頃は,非常 に盛んであった。

小野寺 は書 く

多喜二 と伊藤整の学んだ当時の小樽高商は,俳句,短歌,文 芸,洋画,音楽,映画,新聞,カ トリック研究など,学生の文化活動が一斉 に 花を開いた。そ して後 に 「 学園のルネ ッサ ンス」時代 と呼ばれた。

卒業論文のテーマ も社会問題 を扱 った ものや,哲学的な傾向を持つ ものが多 くな った。

23)

多喜二 らの在学時代 には,革新思想が 日本の思想界 に激 しく芽 生えて きた時で,京都 には河上肇,東京 には福 田徳三‑ ただ し彼 は,マル ク ス派ではない‑ ,大山郁夫,佐野学教授などがいて,マル クス理論の研究が 学内にもようや く盛ん となって きた時代であった。

高商の学 内で は, 自由主義思想の研究が相 当に盛んであった。

24)

学園内の 革新思想の指導的立場 にあったのは,高松勤教授であった。高松 は,商業学 ・ 商業実践を受持 ち,大正

8

(1919

年)か ら昭和

2

(1927

年)まで在職 し ていた。彼 は後 に高商を追われて,巣鴨高商へゆ く

この高商について,卒業生で もある伊藤整が書いている。それは彼の入学の 頃,多喜二の入学の 1年後である。 その学校 は,落葉松 に蔽われた山の 中腹を切 り崩 して,かな り広い敷地を取 って建て られてあった。校舎 は薄い緑 色 に塗 った木造の二階建で,遠 く海に面 していた。校舎の主屋の中央 は三階の 塔 になっていた。その真下の玄関を入 った所のホールには,並行 した二本の階 段があって,それを登 ると,更 に二階か ら,三階の塔 に登 るラセ ン形の鉄製階

23)

小野寺 「小林多喜二 と伊藤整

」 ( 『 縁丘

)

24)西野 ( 『 緑丘五十年史

)

(12)

段が,半ば装飾の役を して,ハ リガネ細工のように取 りつけられてあった。 ・

・・玄関の左右 に広が る主屋か ら後方の崖下 まで延びた三つの棟は,階下が小 教室や事務室になっていて,合併教室 と呼ばれる大 きな教室がそれぞれの棟の 二階にあった。

25)

多喜二 も,高商の地理的状況を書 いている。高商は,「 上が るに余程困難 な 坂によって距て られた山の中腹にあった。‑ その山というのは,市 と他の町 とを区切 っている即ち一番町はずれの山であったのである。そ して全 く市の雑 踏か ら離えた静 けさは学校の住所 として最 も適 した所であった。後 はす ぐ落葉 松の林が覆 っていて春になると林の中でな く鴬の調子のい ゝ声が始終静かに勉 強 している教室‑流れて くるのであった。前 はす ぐ眼の下 に市全体の屋根が

‑ それに続いてある時はキラ/\ とあるときは冷色 になる海が一眼に見える のであった。市の中央か ら少 し奥に引込んで運動場のある公園がそのこん もり した縁の しげ りを見せている‑ 雨のあとの緑などは素敵によか った。だんだ ん夏が近づ くと運動会がよくこのグラン ドで開かれた。それで授業が終わると す ぐ校庭へ出て遥か山か ら見下すのであった。

」 26)

多喜二が小樽高商 に入 った大正

10

(1921

年)には,高商では次の行事が あった。

三月二八 日 第‑‑回入学試験。( 七二二名中一八九名が入学を許可 された。 ) 五月 五 日 新入生の宣誓式。

六月一一 日 修学旅行団, 釧路, 網走方面‑向か う。引率 は中村 ・小尾教官。

六月一三 日 浜林教官引率の修学旅行団,室蘭,洞爺湖方面 に向か う

九月二四 日 開校十周年記念行事の一つ として区内中等学校庭球競技会を開

催 した。

九月二七 日 臨時商業師範研究科を設置。

〇月 六 日か ら九 日まで 開校十周年記念行事。

25)

伊藤整

26) 小林多喜二全集』新 日本出版 6 519

ペ ー ジ

(13)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖 81

一一月二八 日 渡辺校長,名古屋高商校長になる。後任,伴房次郎。

一二月一二 日 渡辺前校長,名誉教授になる。

入学の時,坂道 は雪が消えていた。坂の両側にある溝には雪解 け水が勢いよ く音を立てて流れていた。前方 には緑色の校舎が春 の陽光 に照 り映えて見え

た 。

新入生の宣誓式は,入学式にあたる。 これが図書館ホールで行われた。渡辺 校長 は, 「 知識技能 はもちろんその品格の上において も,国民の上位を占むべ き資格を備えざるべか らず。知識徳望共に紳士中の紳士な らざるべか らず。 こ の故 に本校生徒 は少年紳士を もって遇す るを主義 とせ るな り ・・・」 と説 い た。

2

7 ) 渡辺の言葉,「 我輩 は諸君を過す るに,青年紳士を以てす る」 とい う言 葉が, この年 も,多 くの学生にとって感動的だった。

宣誓式が終わ って,寮では歓迎会が行われた。ただ し多喜二 は寮 に入 らな かったか ら,それには出ていない。樽詰めの ビールを飲んだ り,歓迎ス トーム があった。

高商は, うす緑色の校舎だった。校舎は,冬には粉雪が吹き込むか ら,二重 窓になっていて,中はスチームが通 って暖かか った。夏 は窓の外にカ ッコ‑の 鳴き声 も聞 こえた。

高商の正門には小 さな門柱があった。教室 は リノ リウムが敷 き詰 めてあっ て,美 しか った。建物は必ず毎年ペ ンキでライ トグリー ンで塗 り直 した。学生 は上草履に履 き替えて教室に通 った。合併教室が

2

つあった。

教室では成績順に着席 していた。だがそ うでない教室 もあったようだ。また 髪を伸ば してはいけないことになっていた, という人 もいる。だが上級生 は髪

を伸ば した。

多喜二 と同 じ年の卒業生, 伊部 は, 八幡商業出なので

D

組だった。 彼 は云 う

この教室がまた大変で,蒸気暖房がっいていたが,配管設備が古 くなってい たせいか,絶えずガタガタと物凄い昔をたて,勉強の妨げになることおびただ

27)小樽高等商業学校大正十三年卒業 『五十周年記念文集』,徳橋 7

ペ ー ジ

(14)

しか った。蒸気暖房に初めてお目にかかった吾々は,暖房 とはこういう騒 々し い ものだ と観念 して,半月 もたっ と,騒音が耳 につかな くな った, と。

28)

た だ し北海道での教室は暖房のため本州より暖かい。

新入生 は,全国か ら集まり,南は九州 ・関西 ・関東 ・北陸 ・東北の各地方, 遠 くは満州,樺太か らも来ていて多種多様

29)

,それぞれのお国なま りで話 し 合い, 昼の休憩時間は騒 々 しい くらいにぎやかであった。‑‑その うちに姓名,

出身較,性格等がわか ってきて,新 しい友人 もできるようになった。‑‑・ 同期 の うちには

25

30)

の人や,中には妻帯者 もいた。その人たちは,学習生活の 外に実社会の経験 も豊富で,珍 しい体験談を神聖なるべ き教室において も披露

し た 。

31)

高商は自由な雰囲気であった。特に,丁度下にある庁商か ら来た学生は,そ れを感 じた。庁商では,上級生 ・下級生の関係がやかま しく,下級生が上級生 に会 うと必ずお辞儀を しなければな らなか った。ただ し少な くとも,初代黒沼 校長の時代は, この関係が余 りやかま しくなか った, という証言 もある。また 庁商には天皇陛下の御虞影が校門のそばにあって,登下校には必ず帽子をとっ て深々とお礼を しなければな らなかった。それを しないと,教練の先生などが どこか らか見ていて,必ず叱 られた。高商ではそ うい うことはなか った。だか ら高商の校門に入 ると安ん じる気持になったと,大津氏 ( 庁商昭和1 4 年卒業, 高商昭和 1 8 年卒業)は言 う

もちろん ここで,庁商 と言 っているが,中等学校

は全国的に共通 しているはずである。

六月には,恒例の修学旅行があった。修学旅行 は学生の楽 しみの‑つであ っ た。開校三年 目か ら三年生が海外旅行を試みた。その後‑ル ピンまで行 くよう になった。多喜二の学年,一年生 は,浜林生之助先生が引率 して,洞爺湖 ・室 蘭‑の修学旅行を行なった。

28)

同文集。

29) 1年生193

名の うち,北海道が

59

名 にす ぎなか った。 『 学校一覧』

30 ) 『 学校一覧』

3

1 )小樽高等商業学校大正十三年卒業 『 五十周年記念文集』

(15)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖 83

4

教師たち

多喜二が第‑学年 の時つ ま り 1 921 年 ( 大正 1 0 年)の, 5 月 に在任 して いた 小樽高商の先生 は,次の教官であ る。

渡 辺 龍 聖 ( 校長) 西 尾 広 ( 商業実践) 石 橋 哲 爾 ( 清語) 寺 田 貞 次 ( 商業地理)

井 浦 仙太郎 ( 経済学 ・商業学,取引所論,兼任) 大 西 猪之介 ( 後述)

中 村 和之雄 ( 英語)

苫米地 英 俊 ( 英語 ・商業英語) 小 原 亀太郎 ( 商品実験)

伴 房次郎 ( 法学通論 1 年 ・民法 2 年 ・商法 3 年)

三 浦 新 七 ( 商業史,あ るいは文明史。東京高商か らの兼任。 プラ トンの イデア論 などを論 じた。講義 は難 しか った。 )当時の学生 は書 く 。 三浦新七 博士 の文明史の出張講義 これ丈 はどうに も頂 けなか った。・ ‑我 々に対す る 講義 だか ら御 自身 で は精一杯低 い処迄 降 りて解説 して居 られ るのであ らう が,我 々と先生で は余 りに距離が開 き過 ぎて居て どうに も付 いてゆけない。

或 る若 い教授 に話 た処 「あの話が分か った ら大変 だ。あれは大西 さんの授業 同様,本当は君達 に話すべ きでな く,我 々に話 して貰 うべ き話なんだ。‑」

と云 った。

32)

管 安右衛門 ( 体育。大尉。 日露戟争で鬼大尉の勇名 をはせた)

高岡 熊雄 ( 非常勤講 師 ( 以下,非 と略)北大か ら来た講 師で,立派な講義を した。学生 は書 く。大西先生 と 「 全 く対称的だ ったのは北大高岡熊雄博士の

3 2 )

菅野祐治 (大正

1 2

年卒)

『 緑丘 』5 6 1 6 ペ ー ジ

(16)

二週間にわたる殖民政策の講義だ った。多分あれが大学教授の講義の見本 と で も云ふのであろう。‑何の変哲 もない平易な内容を淡 々とした口調で講 じ られてゆ く,只それ丈の事 に何 とも云えない渋味があふれて居た。正に名人 の至芸 と云ふべ き名講義であった。

」 33)

ルイス ・フ‑ゴー ・フランク ( 商品理化)

34)

根 来 簡 二 ( 罪)

関 恩 福 ( 講師,支那 ( ‑中国)語)

武 田 英 一 ( 簿記 ・商業学。財政学や倉庫論を教えた。大正1 2 年,東京商 大専門部教授 となる)

槙 溝 直 哉 ( 講師) 高島 佐一郎 ( 経済学) T . ジョー ンズ ( 英語)

橋 詰 益 哉 ( 法律学,法学通論) 加 藤 政 秀 ( 体操,嘱託)

ダニエル ・ブル ック ・マ ッキ ンノン ( 英語)( 別稿で扱 う) 西 田 彰 三 ( 商品学,商品理化,企業実践)

大 平 頼 母 ( 英語。アメ リカ帰 り,英会話。ニ ューヨークの コ‑ネル大 卒。大 正 7 年 5 月高商講師,大正 9 年 6 月教授,大正 1 2 年 7 月までいた。

その流暢な英会話は生徒の ドギモを抜 くに充分なものがあった。

大 室 良 輔 ( 助手) 小 瀬 伊 俊 ( 商品学)

小 尾 範 治 ( 倫理学,修身 ・ドイツ語) 伊 藤 伊之吉 ( 商業実践)

卜 部 岩太郎 ( 国語,修身 ・国語漢文) 大 森 恵 吉

33)

34) (1886‑1973)

。参考,保延誠編

TheCentenaryBookofDr.HugoFrank」

( 邦文 ・手稿)199

3

5

(17)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

8 5 手 塚 寿 郎 ( 経宿学,留学中,初の高商出)小樽高商在学中,英語の辞書

を暗記 し,覚えて しまった頁 は,片 っ端か ら食 って しまっ声 という

.

一ツ橋 専攻部‑行 き,福田徳三門下 となった。大正

8

年に小樽高商に着任 した。小 樽高商出の初めての教員である。風采を構わない,至 って地味な人だった。

数理経済学界の先駆者だった。大正 9年在外研究で渡欧 し,主にフランスで 勉学 し,大正1 5 年に帰国 した。 したが って多喜二 とは会 っていない。高商ア カデ ミズムの代表的人物であった。昭和

6

年に山内フ ミと結婚 した。太平洋 戦争たけなわの昭和

17

年,東亜同文書院大学 に転出 し,病気で帰省 し,昭和 1 8 年 5 月, 48 才で死去 した。ワルラス『 純粋経済学要論』などの訳書がある。

彼は近代経済学者であるが,教養の範囲が広 く,また自由主義者であったと いわれ る。

高 松 勤 ( 商業学,商業実践。 この人は注 目に値す る。高商の学生社会科 学研究会を指導 した。)

N. A.ネフスキー (ロシア語)( 別稿で扱 う)

村 瀬 玄 ( 簿記,商業実践。簿記 ・会計学の教授 として,大正

12

年 ころ 外遊か ら帰 った。「 簿記 は丁稚小僧の学問ではな く王侯の学問です ゾ」 と, 授業の初めに語 った。

中 村 賢二郎 ( 英語,商業英語 ‑コレポン

アメ リカ仕立ての洋服を ピック リ身につけた長身だ った。あだ名はナカケ ンだった。一生独身だった。

大島 養市 ( 助手)

浜林 生之助 ( 英語。津師範か ら広島高師に学ぶ。福島中学に勤める。苫米 地が浜林を小樽に呼んだ。 とて も英語ができるので有名であった。ある学生 は書 く。英語では浜林教授が トーマス ・‑‑ディの短編物を講 じて下さった

・ ‑講師 とテキス トと完全に ミー トして一分のす さもない名講義であ り,名舞 台であった。

鈴 木 為 吉 ( 罪) 内 田 権之助 ( 助手)

目 黒 三 郎 (フランス語)東京外国語学校卒

(18)

小 林 象 三 ( 英語)小樽中学卒

大正

9

年か ら昭和

25

年 まで勤めた。その 後京都大学へ行 く。

佐 原 貴 臣 ( 商業実践,経済学,商工経営)

椎 名 幾三郎 ( 商業学,商業実践)藤本幸太郎の弟子。海上保険が専門。一 橋専攻部卒で,「 我が国の海運 は,英米を除けば世界第

1

位」の名文句をはい た。スポーツ万能だった。

河 合 逸 治 ( 英語)

根 岸 正 一 ( 商業学,会計学,簿記,企業実践)

ジョオ ・アルベ‑ル ・デ‑ゲ ン ( フランス語, ドイツ語,雇) 松 坂 将 々 ( 罪)

小 幡 孫 二 ( 数学,商業算術)

大 熊 信 行 ( 経宿学)東京高商の卒業,福田徳三門下であった。大正1 0 年 に高商に赴任 し,まず原書購読をや った。ゼ ミナールで,マルクスの唯物史 観を教え もした。放課後や夜,自宅へ学生を集め,得意のジョン ・ラスキ ン やウィリアム ・モ リスの話, ドス トエフスキーの小説論,短歌の話などを和 かに話 したので, 学生 には大熊 ファンが多か った。( 越崎)大正10 年 4 月 に, 武田先生が学生 に言 った。「 今度新 しい先生が二人来 られ る。一人 は福 田博 士の俊英で大熊君 といい、 もう一人 は,左右田門下の逸材で宮崎君 という, 共に大西教授の後継者 として恥 じぬ立派な方である

この二人には原書購読 をや って貰 う予定だか ら君達 はそのいずれを選ぶかを前以 って決めておき給 え」とい う紹介があった。 大熊は,たまたま大西の急逝 によ りブランクになっ た経済史の講義を引き受けて,中世か ら近世への経済史を講 じることになっ た。学生は書 く。正直いって名に し負 う大西 さんの後 とあって,講義がや り ず らそうに見えた。彼は路上で相撲を始めて,ある下宿のお婆 さんの目を丸

くさせ,「 高商の先生で も相撲なんか とる事があるのか」 と驚かせ る茶 目っ けがあった。椎名 と一橋が同期,専攻部で椎名が

1

年先輩だ った。

35)

( 筆

35)

菅野

(19)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

βア 者 は,別稿でまた扱 うつ もりである。 )

宮 崎 力 蔵 ( 罪) 。記録では ( 非常勤) とあるが,筆者 は非常勤 とは思え ない。東京高商の左右田の弟子である。大正

10

年に小樽に来た。原書購読を まずキャナン

36)

の 「ウエルス」でやった。

37)

高商では,校長,助手,非常勤を除いて

,40

名 も教師がお り,大変な陣容 になっている。

7 月以後採用 されたのは,桜井 義祐 ( 罪) ,である。手塚寿郎 は,大正

9

年か ら

15

年 まで フラ ンス留学を したので,在校 中の多喜二 とは面識 はな い。また以上の人 々の中でまだ小樽 に実際いなか った人 もいるか もしれな

い。

文行寮舎監は中村和之雄だった。デモ クラシーを強調 し,間 もな く生まれ る子には,男子な ら 「 改造」,女子であれば 「デモ子」 と命名す ると言 って いた。生徒 は, もし女子が生まれて 「 で も子」 となった らどうなるか と心配

していたが,生まれたのは男子で,「 改造」 と命名 された。

室谷賢次郎 は,大正

12

4

月 に赴任 し,

marketing

そ して経済史 も担当 した。「 商業実践の仕事 は初めは椎名先生が主管で したが,後 には,糸魚川 先生

38)

が担当され」た

。 39)

5

商品学

小樽高商では創立当時か ら,商品実験 といって

,50

名ほどの特殊の机を備え た教室があった。その机にはそれぞれガス ・水道の栓がひいてあった。約

50

台 の顕微鏡 と十数台の天秤を備えた部屋 もあった。商品学の時間にはそこで学生 各 自が色々の実験テス トと行 った。指導には日本人の他に, ドクター ・フラン

36)イギ リスの経済学者。ス ミス 『国富論』のキ ャナ ン版を作 ったことで有名。

37) 緑丘五十年史』

38)松商学園で学ぶ。高商では銀行論,銀行簿記を担当。キ リス ト教 による自由主義者 だったと言 う。英国留学で洗礼を受けた。その後和歌山大学長。

39)服部の稿,

『南亮三郎先生追悼号

』74

ペ ー ジ

(20)

クがいた。わざわざ商品学のために ドイツか ら招へい した。フランク先生の俸 給 は渡辺 さんより高いとい う噂があった。実際は450円であった。

40)

多分渡辺 よりも高いだろう

赤 レンガの立派な商品館があった。そ こには色々の商品の見本,世界の主な 貿易国の本物の通貨が陳列 してあった。

大正の中ごろには,石鹸工場を造 り, これは商品学の実験工場で,そこで出 来た商品は,「 高商石鹸」 といって,休暇中に学生が全道 に売 りに回 った。そ して学費の足 しにす る学生 もいた。香 りと品質が良かったので,当時はよく売 れた。工場 は今の高尚湯の左を上が った左側 にあ って,教授や学生が実習で 作 った。( 越崎)

高商石鹸は,公園通 りで,中劇 の前 あた りで

41)

,高商生が,お祭 りの時期 に売 った。他の屋台 と並んで売 った。評判 はよか った。よ く落ちるとい うもの だった。 洗濯石鹸であって, 洗顔石鹸ではなか った。 生産 と販売を高商生がや っ た。小樽の人たちがそこに買いにきた。

大野 は渡辺 に質問 した。「うちは高商なのに何故物理科学の講義や実験 に力 を入れ るのですか

す ると渡辺 は, 話 した。 「 我輩が靴下を買 うのために百貨店‑行 ったとす る, 店員は一足一三銭,同一五銭,同一七銭の三種類の ものを出 して見せ る。そこ で,『この三種類の靴下 はどう云 う点 に品質の相違があるのか』 と質問 して も 満足に説明できる人には仲々逢えない。それではいけない。商人の使命は或品 物を甲か ら乙なる人へ,又は A 国か ら B 国へ移転するだけではない。買手や輸 入国に喜ばれ るもの, ヨリ多 くの満足を与えるものを,掘 り出 した り,作 らせ たりしなければな らない。 これ も商人の重要な務めである。そのためには一応 商品学を身につけていなければな らない。」

またある時大野 は聞いた。「 石鹸工場 は赤字ばか り出 しているというのにま だ続 けるのですか

渡辺 はそれに対 して,「その赤字のよって来 るところは

40)当時一流 サラ リーマ ンが100円であ る。

41)棟先生 に聞 く。

(21)

小樽高等 商業学校 と渡辺龍 聖 89

どこにあるかを,検討す るの も貴重な会計学の問題である」 と,笑いなが ら答 えた。

42)

高商の教育の特色 として, こう言えた。

1 ,語学教育を重視 した。外国人の先生が多 く,英語で教え られた

北の外国 語学校 と異名を とるほどだった。

2

,科学教育を併せ行 った。

3 ,商業実践の科 目があった。大 きな教室全体が,銀行,倉庫,船会社,保険 会社の店舗があ り,各種証券の実習がで きた。

高商卒業者 は,英語, とくにコレポンに堪能であるという評判が高か った。

6 学生生活

高商は,本館校舎全体が,渡 り廊下で商品館,また渡 り廊下で図書館 とつな が っていた。階段付 き渡 り廊下で学生の登下校口を含む小室内運動場,そ して 正面側に守衛室 ( 別棟)があった。

大正 7 年 1 月10 日に,新築商品実験室ができた。翌年,暖房施設がっ き,渡 り廊下 もで きた。大正 9 年 2 月20 日,企業実践科実習工場が落成 した。のちの 高商石鹸工場である。そ して この ころ, 図書館書庫 と新講堂教室が増設 された。

大正1 0 年 3 月 9 日,新校長官舎 1 棟 と職員宿舎 6 棟ができた。大正 1 3 年 3 月, 判任官宿舎 2 棟が,そ して多喜二卒業後,1 1 月に柔剣道道場が落成 した。

43)

「 玉の井 クラブ」 という職員生徒の集会所が地獄坂の中ほどに設けられ,和 洋酒,喫茶,食事,娯楽の設備を整え,「 脂粉な く」清浄 さを保 ちっっ,地獄 坂の名所 となった。大正元年12 月 7日に出来た。また 「 高商 クラブ」が大正1 4 年1 2 月にで きた。だが多喜二卒業後である。

高商には,第 1 寮 ‑北斗寮 ( 大正 2 年1 2 月 1 日開含,1 35 坪) ,第 2 寮 ‑正気 秦 ( 大正 4 年 1 月25 日開合,154 坪) ,第三寮 ( 正式名称)‑文行寮 ( またの名)

42)大野,緑丘』52 43)大津博士氏の調べ。

(22)

( 大正

8

1

24

日開含,91 坪) ,第四寮 ‑玉の井寮 ( 大正 5 年1 1 月 4 日開合, 11 7 坪)があった。それぞれ木造 2 階建てである。

44)

それぞれ舎監がいて,敬 師が担当 していた。 日本人教官宿舎は初めはなかった らしい。多喜二の入学の 年 にはこの

4

つは出来ていた。

44)一部,大津 さんの調べを利用 した。

(23)

小樽 高等 商業 学校 と渡辺龍 聖

9 1 例えば, 第

3

寮には

,5‑60

名であ った。「 朝 は,味噌汁 と納豆,昼 はカ レーラ イスの類の一品,そ して夜はさすがに少 しばか り手を加えた ものといって も葉 書のように薄 く聞った豚肉の味噌漬 といった按配になる 。

」 45)

「けれ どもなに しろ,なにもか もひっくるめて一カ月わずかに十三円程度の寮費

」46)

だ った。

「 寮の運営の形式 は,・ ‑それで も完全なる自治制の もとで行われていた 」 「そ れ こそきわめて規律性の豊かな,それでいて格別に厳 しす ぎるという感 じなど 全 くない,いかに もこれあるかなと思わせ られ る頗 る立派な雰囲気の もので

あった。

」 47)

寮は, 1 室 8 畳に 3 人が生活 した。寮生活では友人ができた。 4 つの寮がそ れぞれ違 った雰囲気を持 っていた。多喜二 は寮生活を していない。

高商では学生の「 人数が少なか ったか ら教授 と学生, 学生同士がよ く知合い, 親和感にみちていた 。

」 48)

柔道 ・テニス ・野球など,北大 との定期戟があった。スキー競技はまだ一般 的ではなか った。例えば,野球部,庭球部 は,年予算

2‑300

円だった。大正

10

年秋,小樽花園グラウン ドで,北大予科 と高商の野球の定期戦があった。高 商での恒例 は,学園祭 と外語劇,北大 との庭球 ・野球の定期戦,応援団の対面 式であった。

対北大庭球戦乱闘事件 も起 きた。小樽高商 と北大予科 との定期対抗戦は,前 年度の敗者が敵方のグラウン ドに出かける規約 になっていたので,大正

10

年春 の庭球試合に,高商側は,近辺で鐘や太鼓を借 り集め,‑列車借 り切 りで,顔 氏の赤旗を押 し立てて,北大に遠征 した。

高商の金岡 ・小泉組 は,北大副将組まで総なめにして,応援団の大歓声の中 で,敵方の大将組 と決戦 した。 ジュース ・アゲ ンを繰 り返 しているうち,ボー ルが 「イ ン」か 「アウ ト」かで,審判が もめ,結局北大側が棄権 した。

45)久城毒右衛門編 『ある情熱 の記録 手嶋恒二郎伝』保険研究所 昭和56 52

ペ ー ジ

46)

52‑53

ペ ー ジ

47) 53

ペ ー ジ

48)徳橋 (小樽高等商業学校大正十三年卒業 『五十周年記念文集』)

(24)

高商側が 「 大勝」のムシロ旗を押 し立てて,札幌駅に向か う途中,敵の応援 団に襲われて乱闘 となり,高商学生交野 はか,多数の負傷者を出した。

49)

7

筆禍事件

小樽高商生南亮三郎の「 社会主義者を検挙す る前 に」の一文が,『 小樽毎夕』

に掲載 され, これが問題 になって,大正 7年 ころ,南が罰を くった。( 越崎) いわゆる筆禍事件である。

南亮三郎 は,京都府で,

1896

年 に生 まれ,京都市立第

2

商業か ら,大正

5

年 に小樽高商へ入学 した。

南の親友で,同 じ下宿だった湯川 は,書 く。「 大正

7

年の

6

,

7

月頃だ った か と思いますが・ ・ ・ 大変な事になったのです」,小樽の新聞社に南が小論文を出 した。その記事内容が筆禍に問われ,刑事問題 となり,裁判にかけられたので ある.南 は小樽高商 も一時退学 とな り,数カ月の裁判で,罰金

40

円となった.

「 記事の内容は,当時米価が暴騰 し,富山県の主婦達の反対運動が全国に拡大 した事件に,関連 したものであった・ ・ ・

」 50)

湯川は,それが小樽新聞であったか,北海タイムスであったか, と記憶が定 かではない。越崎は,小樽毎夕だと断言する。越崎の大正

6

,

7

年 ころとい う の は間違 いで あろ う

内容 が このよ うに米騒動 に関連 してい るとすれば,

1918

年 ( 大正

7

年)なのだか ら,湯川のい う大正

7

年が正 しいだろ う

彼が 高商

3

年生の時の事件であった。

南 自身 はこう書 く。三年のときの卒論 は [ 大西]先生か ら指導を受 けた。私 の選んだ題 目は「 社会主義研究」とい うとてつ もない奴で, 先生か ら

Bernstein

5

1 )を借 りて読み出 した。その とき先生 は私 に,「 君,社会主義をやるの もよい

49)野介,同文集。

50)湯川励 「南君 と私

(南亮三郎先生追悼集 わが人生 は ̀̀人 口''の学 に明け暮れ て』雄松堂 出版 1986

年) .

,45

ペ ー ジ

51)エ ドゥアル ト・ベル ンシュタイ ン (1850‑1932),修正派マル クス主義者。

(25)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

9 3 が,一生涯,め Lが食えな くなるのを覚悟 してかか り給え」 といわれた。まっ

た く世の中は,そんな時代であった。

Bernstein

をや っていた大正七年 に 「 米騒動」がお こり, 日本の社会 は大 きな動揺を経験 した。その張本人 として続 々検挙 されだ したのは「 社会主義者」

であった。多感な青春が この暴挙に義憤を感 じたのは自然で,私は一文を草 し て地方新聞に投 じた。「 社会主義者を検挙す る前 に」 というのが,その新聞に 掲げ られた一文の題名であった。

この一文 は破門をお こした。いわゆる筆禍事件で; 地方裁判所で起訴 された.

「め Lが食えな くなる」 という大西先生の警告が早 くも適中 したのである。卒 論 も,講義 [ ‑受講] も, もうお しまいであった

。 ・‑

‑‑

三年が終わってか ら私 は 「 実践助手」 とかいう名儀で学校に残 った。当時の 校長 さんたちの特別な計 らいにちがいなか ったが,‑‑・

」 52)

渡辺校長は,南の将来を惜 しみ,彼 は復学 とな り,一年遅れて大正 9 年に卒 業 した。南はその後,小樽高商教授になるのだった。

8

開校十年祭

この年の 5 月 に,小樽高等商業学校が開校 して1 0 年 とな った。 この1 921 年 の1 0 月に十年祭が行われることになった。

一〇月一 日には記念講演会が催 された。七 日は,図書館を会場に式典 ( 記念 式)を行い,校内が公開された。正午 に立食の宴があった。午後か らは剣道 ・ 柔道 ・相撲 ・庭球 ・弓術の各部の大会が開かれた。八 日には,小樽公園‑花園 公園に大アーチを作 り,競技大会が行われ,ち ょうちん行列,職員および生徒 祝賀会が行われた。九 日は,野球大会 ( 小樽公園) ,企業実践工場の公開,同 窓会大会,懇親会,そ して職員表彰がなされた。

記念行事 はこれ以外 に,あ るいは同 じか も知れないが,次のような ものが

52)

『 縁丘』65

,大西猪之介教授特集号,1

1ペ ー ジ

(26)

あった。展覧会,外語劇大会,花園公園での陸上競技大会であった。それまで 運動会は,学生が夢中になって勉強を怠 るとい う理由もあって,禁止 されてい たのであった。その名称が陸上競技会 とされ,記念行事だか らという理由で特 に許可された。運動会 には教授や外人教師も喜 々として色々のゲームに参加 し た。上記の野球大会 は, この陸上競技大会の一部であろう また校庭 にかが り 火を炊いて四斗樽の鏡を抜いて,教職員一同,夜の更けるのを忘れて歓を尽 く

した。

53)

十周年記念式典で,渡辺校長 は回顧 している。

彼は小樽高商の校長を引き受 けるにあたって,広い視野か ら日本の高等専門 の商業教育のあ り方を再検討 し,その上で手を染めようと七 た。そのため,教 育的見地か ら,世界の最 もす ぐれたこの種の大学をっぶさに視察 し,その長所 を小樽高商に導入 して,独特の学校経営を した。

そのための第一 は,実業教育の軽視 という社会風潮を是正す るため,高度の 産業人育成を考えた。つまり, 日本が国際的に大飛躍をするため不可欠な,語 学を身につけさせること,また,国際貿易に熟達す る知識技能 と,道義的責任 感の培養を,カ リキュラムの上で配慮 した。語学教授陣を豊富 にし,多 くの外 人教師を招いた。取 り扱 う商品の科学技術を理解するために,商品学,商品理 化を取 り入れた。諸学科の総まとめとして,商業実践,企業実践のために石鹸 工場を作 った,などなどである。

また 「 我輩 はわが緑丘学園には日本一の教官を採用 している」 と自負 した。

54)

た しかに彼 は,優秀な新進気鋭の教授陣を集 めた。

55)

教官を採用す る際に は,首席廃用主義のようであった。

56)

だが実 はこの ころ,渡辺校長の退任の話が出ていた。留任運動をや った学生 もいた。そのため十周年記念は,華やかなうちにも,教職員 ・学生 は沈んだ気 持 ちで もあった。十周年記念祭 は,いわば渡辺校長 にたいす るはなむけで も

53)相沢 「思い出を辿 って」(『縁丘五十年史』161ペー ジ) 54)閑,同

55)苫米地 『緑丘五十年史』

56)木村,同

(27)

小樽高等商業学校 と渡辺龍聖

あった。

95

9 渡辺校長の退任

1

1 月

1

1日,図書館で渡辺の送別会 ( 離別式)が行われた。渡辺は,伊藤整に よれば傑物, 苫米地 によれば名校長で, 高い人格 とす ぐれた識見を持 っていた, と言われる。渡辺は,倫理学者 として 日本有数であった。その上,政治手腕が 卓越 していた。それに高商の校長は権力があった。授業科 目の設定,誰に何を 担当させ るか,人事権つまり誰を採用するか,ボーナスをどれだけ与えるか, 海外留学を誰にさせ るか,などである。現在では考え られないほど権力があっ た。

渡辺 は

,

「 我輩 は諸君を遇す るに, 青年紳士を以 ってする」と学生 に言 った。

彼 は,商業立国によって農業工業を一層盛んに しようとした。商業 こそは農 業工業の上位にたち,かつ農業工業を指導 し刺激すべ きものだ, という信念が あった。

57)

渡辺 は,高商在任中に,名古屋高商創立委員長 となった。そこで校長が退任 す るという噂がたった。 しか し彼 は,「 我輩が名古屋高商創設の委員長を して いるのは,小樽か ら教官を引き抜かれないようにす るためであり,断 じて動 く ことはない」 と,答えていた。だが実際は,名古屋高商に転出することになっ た。それに教師を小樽か ら名古屋に引き抜いたのだった。

渡辺 は,退任の式当 日の話で言 った。「 老齢,地獄坂登 るに堪えず」 ,だが次 の校長伴先生の人格,識見を讃え,「 安心 して本校を離れることが出来 る」 。あ るいは , 「 老齢地獄坂を登 るに堪えず,二代校長 として,人格識見共に優れた, 伴先生が二代校長になるので」 と訓辞を残 してい った。ついでに,「 今 こそ伴 先生のお頭が薄いが,十年前,京都帝大か ら本校へ着任 された頃は漆黒の髪で あった。」 と笑わせなが ら言 った。離別式で彼は

,

「 小樽高商の基礎は十分でき

57 )

富樫

,

緑丘五十年史』

参照

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