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桧尾 兄弟の ことな ど

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Academic year: 2021

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言語セ ンター広報 La n gu a geSt udz ' e s 第 1 4号 ( 2 0 0 6 .1 ) 小樽商科大学言語センター

桧尾 兄弟の ことな ど

江 口 修

1 960 年代後半、いわゆるベ トナム反戦か ら大学紛争の時代 に高校、大学 を過 ごした世代 に とっ てパ リあるいはフランス とはどのように映 っていたのだ ろうか。 この世代で現在 もっ ともフラン スを描 いて、 フランスを体験 した ものにも、いまだ知 らぬ ものにも、静認 な情景 とその背後 にあ る沈潜 した しか し熱い歴史 との一瞬の交錯 を描 いて 「ああ、 ここだ」 と捻 らせ る作品 を発表 し続 ける作家 に藤田宜永がいる。 その 『 巴里か らの遺言』 ( 文春文庫版)の解説で、 これ もバルザ ック 研究家 に して巴里 の近代化 を深 く探求 してモダニズムの源泉 を活写 し続 ける鹿島茂 は次のように 述べている。

199 8 年現在、大学のフランス文学科 は もっ とも不人気な学科の一つで、第二外国語のフラ ンス語履修者 も激減 している。女性誌 はそれで もパ リ特集 を組 むが、売れ行 きは以前 ほ どで はない とい う。 この世紀末 において、 日本人 に とって、パ リもフランス もかつて もっていた ような魅力 を失 ったかの ように見 える

だが、1 970 年代 はちが った。パ リは、本 当に輝 いていた。男 も女 も、 とりわ け、文学や芸 術 に入れあげた文科系の男たちはパ リに強 く強 く惹 きつけられていたoヌーヴォ一 ・ロマ ン

はまだ元気で、構造主義が時代 の脚光 を浴び、映画で もヌヴェル 。ヴァ‑グが新作 を送 り出 していた。全共闘の大 きなうね りが 1 97 2年の連合赤軍事件で完全 に終蔦 して しまった旦杢 些 くすんだ 日常か ら眺めると、パ リはまぶ しくて目を開 けてい られない くらいの輝 きを放 って 史を。 ( 下線筆者)

た しか に 、7 0 年代 の 「 無 目的なパ リ行 き」の熱病 の ような蔓延 を知 っている同時代人 に とって は悲 しくも懐 か しい回顧で はある。 しか し、鹿島 はパ リ熟の歴史 とい うべ きものを紐解 いてみせ る。昭和 の初頭十年 にわたって見 られた フランス渡航 のブームである。第一次大戦の便乗景気で 思いが けず金持 ちになった 日本か ら多 くのそ して さまざまな種類 の人たちが一月の船旅で次か ら 次へ とパ リを目指 して横浜か ら旅立 ち、そして帰国 して きた。パ リには日本人のネ ッ トワーク と い うべ きものが作 られ、特 に貧乏画家たちが好 んで集 まったダゲール通 りはすでに有名 にな りつ つあった.モ ンパルナスにも近 く、気の置 けない下町であったダゲール通 りはなによ りも魚屋が 多 く日本人 に とってはあ りがたい街であった。鹿島 はこの時期の 「 無 目的なパ リ行 き」 を代表す る人物たち として 「 戦後のラジオ番組、 『とんち教室』やテレビ番組 『 私の秘密』な どで活躍 した 1 900 年前後 に生 まれたモボ ・モガ世代」の石黒敬七、渡辺紳一郎 そして松尾邦之助 を挙 げている が、 この松尾邦之助 こそ実 は、本学で とい うか第二次世界大戦 をはさんで長 く北海道のフランス 語教育 を支 えられた松尾正路先生の実兄 にあた る人物 なのだ。筆者 は生前一度だけ松尾正路先生 か ら 「 私 の兄 で新聞記者 をや っているのがいたんですが‑‑‑」 とお聞 きした ことがあるが、 その ときはさして気 にも留 めずにいた。だが、鹿島茂 の抜文 にその名前が再登場 して きた とき、 また 荷風 の 『フランス物語』、藤村 の 『 ェ トランゼ』そ して横光利一の 『 旅愁』 と戦前の滞仏記 ともい

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うべ き系譜 をた どり読み直 し、改造社版全集第十六巻 『 旅愁』日 に、

丁度云い合わせた ようにその家のす ぐ横 の本屋の店頭高 く、松尾邦之助訳の芭蕉の句集が 積んであった。

「 君、二百年 も経つ と、芭蕉 もこんな所へ出るんだね。」

と東野 はこれには感動 した様子でその句集 を手 にとって眺めていた 。( 3 9 6 頁)

とあるoさっそ くフランス国立図書館の検索 システムで探 して見た。あった 。Hai ' k udeBa s ho ^e t des e sdi s c i pl e s , Tr a d u c t i o nd eKu ni Ma t s uoe tSt e i n i l b e r ‑ Obe r l i n とある。 しか も挿絵 は藤田嗣 治。発行 は 1 9 3 6 年であるか ら、まさに横光が渡欧 した年である。そして この年 6 月にはフランス 人民戦線内閣が成立 し、大資本 と対略 した年である。横光 は短い滞在 なが ら、 ヨーロッパの混乱 を鋭 く感 じ取 ってお り、 『 旅愁』のフランスを舞台 にした部分 は読み応 えがある。 さて、松尾邦之 助が訳 してかの地で評判 をとったその他の日本文学 にはジョルジュ。クレス社 ( さ d i t i o n sG. Cr さ S )

か ら刊行 した 『 其角の俳

』Le sHa乏 ● Ka乏 I deKi k a ko u 、や清少納言の 『 枕の草紙 』Le sNo t e sde l ' o r e i l l e r , St o c k 社 ( 1 9 2 8 ) 、倉田百三の 『 出家 とその弟子 』LePr e ^ t r ee ls e sdi s c i i ) l e s , Ri e d e r 社

( 1 9 3 2 ) などがある

松尾兄弟 についてまとめてお こう。邦之助 は明治 3 2( 1 8 9 9 年)年 1 1月1 5 日静岡県引佐町 ( イ ナサ と読む)金指生 まれ、正路 は明治 3 8 年 ( 1 9 0 5 年) 1 月 7 日同地生 。 6 つ違いである。遠州森 の近 くといった方が分か り易い方 もいらっしゃるだろう。兄邦之助 は大正 1 1年 に東京外国語学校 フランス語部 を卒業、弟正路 も同 じフランス語部 を大正 1 4 年 に卒業 している。東京外語の卒年で は 3 年 しか違わない。邦之助 は卒業 と同時 に逓信省 に入 るが、す ぐに渡仏す る。「 大正十一年の暮 れの日曜 日に諏訪丸の二等船客だった私 は初 めてフランスの土 を踏んだ 」 ( 『フランス放浪記

』)

、 出発 は同年十月十二 日であるか ら、四十 日余 の船旅であった。同室 したのは東京高等師範学校教 授神保格。 この とき、上司の課長のはか らいで逓信省無給嘱託の辞令 を貰 っている。正路 は卒業 後 2 年 して第‑外国語学校仏語講師にな り 、2 年後の昭和 4 年 ( 1 9 2 9 年)小樽高等商業学校仏語 講師 を嘱託 され同年 7 月に助教授 に任ぜ られている。 そして昭和 1 2午 ( 1 9 3 7 年)にフランスへの 出張 を命 じられる。つまり横光の渡欧の‑年後 とい うことになる。翌年の 5 月 2 日帰朝 となって いるので、正路の滞仏 は 1 年強である。正路の随筆集 『 地球の春』 によれば、行 きはシベ リヤ経 由の鉄路、三等客室の旅人 となった。ベル リンを目指 した山田耕符が一等客室 にいた。 フランス 人民戦線内閣、スペイン内乱、 ヒ トラーのナチス 。ドイツと時代 はまさに風雲急 を告げていた。

国境の通関で 「どういうわけかパ リへ行 く日本の学校の先生である私 はほかの人たちより寛大 に 扱われ、ベル リン行 きの日本人 は、山田耕搾氏 をはじめ、みんな厳 しく調べ られ る」 ( 同書、「シ ベ リア通過記」) の もむべなるかな。そして帰 りはマルセイユか らの欧州航路である。ただ し 「 十 二月のナポ リは五月の伊豆だ」 ( 同上、「 パ リ脱 出

」)

は脚色であろう。帰朝 は 1 9 3 8 年 5月2 日で ある。『 旅愁』の主人公の一人矢代の旅程の逆である。 そしてパ リでの滞在先 ははっきりとしない が、兄邦之助 はこの頃はパ リ 1 5 区のラカナル通 り ( r u eLa ka na l )のアパル トマ ンに住んでいた。

また、邦之助の言 う中西頼政 にボンと出資 して もらって作 った雑誌 『日仏評論 』Re v ue f r a n c o ‑ n i p po n n e の事務局兼印刷所が 1 3 区 と 1 4 区の境であるア ミラル。 ムシェ通 り 2 2 番地 ( r u el ' Ami

r a l Mo u c h e ) にあった。歩 くと結構離れているが、モンパルナスをはさんだ この間の どこかに正 路 は住んだ と思われる。

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松 尾兄弟 の こ とな ど

ここまで確かめて 『 地球 の春』中の 「イヴォンヌ パ リの憂馨」 を読み返す と、正路 のパ リ時 代が まざまざ と蘇 って くる。イヴォンヌ とは誰 あろう、武林夢想庵 とその妻文子 との間 にで きた 子供 である。 この夫婦 についてはさらりとしか正路 は触れていないが、邦之助がパ リで もっ とも 関わ りを持 った人間の一人である。東京帝国大学卒で ド‑デの 『 サ フォー』翻訳で一世 を風廃 し、

時代 の寵児 としてパ リにやって きた夢想庵 は、邦之助 に とって 日本式イ ンテ リのいや らしさをこ とごとく備 えた人物 だった ようだ。が結局 は帰国 までいろいろと面倒 を見ている。 その才能 には 一 目置いていたのだろう。妻の文子 は 「 妖婦」 あるいは 「ファム 。プアタル」 としてスキャンダ ル を次々 と引 き起 こし、夢想庵 を 「コキ

」 にし、そのおかげで このフランス語 は日本語 にな り か けた。イヴォンヌにいろいろ振 り回され る正路だが、イヴォンヌ とい う娘 は 「 パ リ」の暗膝 と も見 える。 そ して、誰 あろうこのイヴィンメ嬢 こそ、邦之助が もっ とも影響 を受 けた とも言 える アナーキス ト辻潤 と伊藤野江 との問に生 まれた辻 まことの最初 の妻 となる。「ボクは子供 の時か ら 兄 キにぶんな ぐられて育 った。兄 キに叩かれて も叩 き返す ことがで きなかった」 ( 同上) 正路 はこ のパ リ滞在で、殴 られなが らも後 を追 いか けて きた父や兄か ら自立す るようだ。貧 しいなが らも すんな りとパ リに溶 け込 んでいった邦之助 も、正路渡仏の ころはすでに読売新聞の正記者 になっ てお り、パ リ日本人社会 のフッ トワークのよい幹事役 として活躍 していた。その付 き合 いの よさ、

た とえば藤 田やその他怪物 の ような芸術家たち と夜 のパ リを遊 び まわった武勇伝 は、一部で は琴 感 を買 っている。 そして邦之助 の友 として よき理解者、彼 な くしてはパ リ定住 も叶わなかったか も知れないフランス人、オーベル ラン氏 の こともまた忘れてはな らないだろう。氏 はフランスの 内閣の大臣官房長 まで務 めなが ら、 さっさと政界か ら身 を引 き、資産 をうま く運用 しつつ、東洋 研究 にいそしみ特 に日本 の仏教お よび仏教美術 に深 い造詣 を持 った。

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

スタイニルベル 。オーベル ラン 私 の一生 を通 じての唯一無二の親友であったオーベル ラ ンは、 ささやか乍 ら真剣 につ ゞけた 日本文化紹介の仕事の私の右腕役 を務 めて くれた恩人で ある。彼 はス トラスブール市の名門の出で、 ( 中略)若かった頃前文相 ド。 モ ンデや前南柏 ポ カノフスキーの学友で、一時、有名 なジャン。ジ ョレスの秘書 をした こともあ り、( 中略)ヨー ロッパ第一次世界大戦 のむ ごた らしさを目撃 してか らふ と無常 を観 じた彼 は、キ リス ト教文 明 にあきた らずサ ンスク リッ トの研究 をつ ゞけつ ゝ儒教 に誘惑 され、特 に日本 の思想文芸 に 興味 を感 じた 。 ( 『フランス放浪記』 、p. 2 1 3 ) ( ル ビ原著者)

正路 はなぜか偶然オーベル ランとアン トワープで会 うのだが、それはイヴォンヌの監視役 とし て文子 に頼 まれア ン トワープに同行 しそこの海水浴場 で、例 の ごとくイヴォンヌのむ ら気 に振 り 回され、やむな く遊泳禁止地 区を泳 いで渡 った ときの ことであるoオーベルラン氏 は母 と妹 をア ン トワープに移住 させパ リとの二重生活 を送 っていたのだo正路 も氏 には大いに好意 を抱いてい ることがその描写か らも窺 える。だが正路帰朝後 ヨーロッパ は第二次世界大戦へ と一気 に進 んで ゆ く。 邦之助 も戦争勃発 とともに帰朝す る手 はずであったが、失敗 しその後 トル コのイスタンブー ルやマ ドリッ ドを経て、戦後、昭和 2 1 年 3 月 2 7 日に久里浜着の便船で帰朝 している。

戦後 は読売の論説委員 として活躍。 フランス紹介の著作 を多 く出 している。 しか し戦後 の兄弟 はお互 いに言及す ることほ とん どない。しか し 、1 9 3 7 年 とい う人民戦線内閣下のフランスを知 る 二人 は、世界 のあるいはフランスの転換 を身 をもって体験 した兄弟であった。「日本帝国主義 くた ばれ . /」 と道行 く者か ら罵倒 されつつ も、パ リの息吹 を、われわれの知 らないパ リを知 っていた

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江 口

二人 なのである。鹿島は 「日本人 に とってのパ リ体験 は、臨死体験 に似 ている。向 こうに行 って しまった人 は記録 を残 さず、帰還 した人の証言 は信悪性 に欠 ける。だが、 なかには、 よ くぞ帰還 で きた と思わせ るような迫真の臨死体験 もある」( 同上 、p. 3 2 9 ) と言 うが、われわれは藤村 のベル エポ ック最後の古 き良 きパ リか ら横光の人民戦線登場で死 を予感 させ る混乱 のパ リそして大戦へ と向か うこの時代 について松尾兄弟の特 に邦之助 の残 した証言 を参考 に再構成 して見 るの もよい か も知れない。

さて、 小樽商科大学付属図書館 には松尾邦之助 の著作 は残念 なが ら 4 冊 しか所蔵 されていない、

翻訳が二点 と 『 巴里素描』 と 『 巴屋』の二冊である。 『 巴里素描』は背が壊れていて応急修理 の ま まになっているのだが、 この中には数少 ない弟正路への言及がある 「 小樽でフランス語 の教師 を している弟がいるのだが‑‑・ 」なん とここに誰かが鉛筆で書 き込みをしていている。弟か ら線 を 引っ張 ってその先 に 「 松尾先生 ?」 とある。 もうとっ くに時効 なので、 この文章 を目にした心当 た りのある方 は是非情報提供 していただ きたいのだが、 ご存命 か どうか も危 うい。 そ して『 素描』

の最後 に小説 ともつかない物語があるのだが、その筋 のあ らましは、真知子 とい う日本人女性が パ リで危地 に陥 るのだが、彼女 を慕 う日本人男性が救 い出す とい う話 しである。 さて真知子 とは 横光 『 旅愁』の女主人公の名で はなかったか。

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参照

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