および資料からの考察
著者 関本 紀子
雑誌名 コミュニケーション文化論集
巻 18
ページ 45‑64
発行年 2020‑03‑19
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00006938/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
仏領インドシナのアヘン
―東亜同文会関係刊行物および資料からの考察―
The Opium in French Indochina: Analysis from Toa Dobun Kai’s publications and documents
関 本 紀 子
1.はじめに
仏領インドシナ政府にとって、アヘンは塩、酒とならぶ専売制の下、財政 収入の多くを占める重要商品であった。仏領インドシナのアヘンを扱った研 究は、代表的なものとしてフランス極東学院のルファイエフィリップによ る『アジアにおけるアヘンと植民地政権 独占から禁止まで:1897-1940』
[Fhilippe2000]がある。また、少数民族研究の視点からアヘン問題にアプ ローチしたものとして『ケシをつくる人々』[菊地 1979]が、植民地権力 とベトナムの自律的な地域権力との関係の中でアヘン問題を整理した武内
[2006]などがある。しかしながら、資料の制約などから、アヘン取引、輸 送、使用の詳細については未だ十分に検討されていない。本稿は、東亜同文 会および東亜同文書院(次項で後述)関係の資料にみえる仏領インドシナの アヘン記事に依拠し、その実態に迫ろうとするものである
1。
東亜同文会関係資料によるアヘン研究は、谷光隆編による『東亜同文会東 亜同文書院阿片資料集成(CD-ROM 版)』[谷編 2005]、および『東亜同文 書院 阿片調査報告書』[谷編 2007]が挙げられる。これらは①東亜同文 会および東亜同文書院が著録、編纂もしくは刊行した刊行物、②東亜同文書 院の手書き稿本である「調査報告書」、以上①②の膨大な量に及ぶ資料の中 からアヘン関係の記事を収集し、まとめたもので、その記事の多くは中国に 関するものである。本稿は、上記 2 つの研究の中から仏領インドシナに関す
1
東亜同文会資料を用いた仏領インドシナ研究としては、日本人社会に関する研究と
して湯山[2006]、加納[2017、2019]が、「土人」として記述される仏領インドシ
ナや中国の現地の人々のイメージについての研究として岩田[2019]がある。
る記事を抽出し、仏領インドシナのアヘンの周辺を再構築する
2。
仏領インドシナに限らず、アヘン研究がテーマの重要性と比較してどの 国・地域においても十分に行われていない現状に対して、谷は「これが“負 の歴史”であり、決して心地よい歴史ではないことと共に、事柄の性格上、
問題が多く隠蔽され、依拠すべき確実な情報・資料に乏しいこと」[谷編 2005:1]であると述べている。こうした研究状況に対して、新たな進展を 期待させる作業が、東亜同文会が残した多くが未考究の資料群の分析であ る。同時代資料として貴重な価値を有するこれら資料は、政府刊行物や行政 文書中に断片的にみられるアヘン関係資料とは異なる視点で、アヘン問題に アプローチすることが可能となろう。
さらに本稿では、東亜同文会関係のアヘン記事について分析していくだけ でなく、これら資料が何を、どこまで明らかにすることを可能としたのか、
という資料的価値についても検討する。そのため、先行研究やその他資料に よる補足はできるだけ注の中で行い、本文中では東亜同文会関係による記事 に基づいて分析する。
2.東亜同文会と東亜同文書院およびその関係文献資料
(1)東亜同文会と東亜同文書院
東亜同文会は、日清戦争後の東亜問題に取り組んでいた二つの民間団体、
東亜会(陸
くがかつ羯南
なん)と同文会(近衛篤麿)が合体し成立した組織である[谷編 2005:2、藤田 2000:5]
3。東亜同文会は、日中提携のための調査研究機関、
人材養成組織として 1901 年上海に東亜同文書院を開設した[藤田 2000:
5]。これは実地で中国語や商慣行の習得を目指した、先駆的かつユニークな ビジネス・スクールであり、1939 年には大学へと昇格する。しかし 1945 年 東亜同文会会長近衛文麿の自殺など、戦後の混乱の中、東亜同文会は解散、
2
谷編[2005]で挙げられているアヘン記事は刊行物からの収集であるため、すべて 原典にあたり、前後の内容なども確認した。谷編[2007]は手稿からの抜粋であ り、これらは筆者未見であるため、谷編[2007]によった。
3
その前身は、上海の日清貿易研究所(中国における商業慣習の実態把握、現地での 教育を目指したビジネス・スクール)であった。その創立者である荒井精に多大な る影響を与えたのは、上海で先駆的にビジネスを成功させていた岸田吟香(岸田劉 生の父)である。日清貿易研究所や東亜同文会、東亜同文書院設立の経緯は藤田
[2000、1999]に詳しい。
大学も閉校となった[藤田 2000:21、26]。
この東亜同文会、および東亜同文書院は、一大中国研究拠点としての役割 も担うことになる。東亜同文書院が 5 期生から卒業時に中国国内の調査旅行 を制度として開始[藤田 1999:iii]したことは、非常に特徴的であろう。
この調査旅行は、ルートの決定から 3-5 か月にもわたる現地調査を学生の みで行うという画期的なもので、20 世紀前半の半世紀に日本人学生約 5000 人が実行、世界地域調査旅行誌の中でも最大級の偉業[藤田 2000:i]と いえるものである。
第 20 期生代で中国国内はほぼ踏査され、第 24 期生以降、台湾、東南ア ジア各国、北方ではサハリンなどへとコースが拡大していく[藤田 1999:
viii]。東南アジア方面への調査旅行は全体の 8%であるが、その内 76.4%が 仏領インドシナを経由しており、1910 年から 1939 年の約 30 年間、仏領イン ドシナに関する定点観察記録を残してきたことになる[加納 2019:23]
4。
仏領インドシナが志向された要因として、1910 年に滇越鉄道が開通し、
雲南まで合理的に移動できるようになったこと、経済的に重要である無煙炭 がベトナム北部のホンガイで産出されること、が挙げられる[加納 2019:
24]。
(2)仏領インドシナにおけるアヘン関係記事
谷らのアヘン記事集成([谷編 2005]および[谷編 2007])の中から、
仏領インドシナにおけるアヘン記事が掲載されていた刊行物、資料は表 1 の 通りである。
アヘン関係記事の具体的な内容に入る前に、各記事の性格、特徴、位置づ けなどを明確にするため、それらが掲載されていた資料について、概要を提 示する
5。
『東亜同文会報告』および『支那』は東亜同文会の機関紙であり、それぞ れ 128 冊、487 冊を数える。『支那年鑑』は中国のいわば百科事典的な出版 物であり、1942 年に刊行された。『支那経済全書』は清末の複雑な経済事情 を部門別に解説したもので、同文書院初期学生(第 1 期~第 4 期)約 300 名 による現地調査報告の集大成といえるものである。『支那省別全誌』は東亜
4
書院生の仏領インドシナ渡航、主な訪問地は湯山[2006]、加納[2017]に詳しい。
5
ここでの掲載資料概要については、谷編[2005:25-64]の収録文献解題による。
同文会刊行物の中で最も代表的なものであり、明治 40 年(第 5 期生)から 大正 7 年(第 16 期生)まで毎年行った学生による中国内地実地調査を基に、
編纂主任以下の各員が長年中国において研究した成果を加えたものである。
『支那経済全書』の刊行が、『支那省別全誌』の刊行へと展開したことは、そ れまでの商取引慣行に主力をおいた研究が、それを核としながらも広く地域 研究へと発展していったことを表わしている[藤田 1999:iv]。この『支 那省別全誌』の改訂版として刊行されたのが、『新修支那省別全誌』である。
『支那研究』は中国研究の深化のため大正 7 年 10 月に開設された支那研究 部による研究雑誌であり、研究部のメンバーは教授、准教授、講師という研 究者で構成された。『乗雲騎月』『大旅行記』の 2 点は、書院生が調査報告書 の他に見聞・体験記を綴った「大旅行記念誌」に位置づけられるもので、卒 業年次ごとに独自のタイトルがつけられている。
上記の通り、仏領インドシナのアヘンに関する記事は、書院生の調査報告 のみならず、東亜同文会による専門家チームの研究成果も盛り込まれた各刊
表 1 仏領インドシナのアヘンに関する記事の掲載資料および数 刊行物
資料名 発行・編纂・著者 アヘン資料数
『東亜同文会報告』 東亜同文会 1
『支那』 東亜同文会調査編纂部 2
『支那年鑑』 東亜同文会調査編纂部
(研究編纂部) 1
『支那経済全書』 東亜同文会編纂 1
『支那省別全誌第 2 巻雲南省』 東亜同文会編纂 1
『新修支那省別全誌第 3 巻雲南省』 支那省別全誌刊行会 1
『支那論』 井上雅二 1
『支那研究』 東亜同文書院支那研究部 1
『乗雲騎月』 東亜同文書院第 22 期生 1
『大旅行記』 東亜同文書院第 36 期生 1
手稿「調査報告書」
大正 14 年調査 2
昭和 2 年調査 1
昭和 4 年調査 1
(出所)谷光隆編[2005、2007]より筆者抽出、作成。
行物にもみられることがわかる。これらの記事の内容を相互に、また他の資 料も含めて照らし合わせることで、それぞれの記事の整合性・正確さなどを 検証することも可能となる。
以下、仏領インドシナにおけるアヘンの種類、貿易・輸送、小売り、消費 それぞれのテーマごとに記事を分類し、検討する。
3.仏領インドシナにおけるアヘン:その種類と貿易・輸送
(1)仏領インドシナに関わるアヘン:インド産と雲南産
仏領インドシナへ輸入されるアヘンは、インド産と雲南産アヘンが資料の 中に言及されている。仏領インドシナ領内で生産されるアヘンについては、
依拠できる調査、表などもなく、その輸出入の総額もハイフォン税関貿易統 計に品目、数量ともに計上されず、政府当局者もまた秘密にふせているた め、概要を知ることもできないと報告されている[谷編 2007:12]。さら に同記事に、「ラオス地方においては多少栽培せられ、相当の算出ありとい う。されどその数はこれまた不明なり」との記述から、仏印産アヘンの存在 は確認しているものの、詳細についてはなかなか知り得ない情報であること がうかがい知れる
6。
インド産アヘンは主に海路で輸入されると考えられ、農商務省実業練習 生、和田富雄による「仏領交趾支那地方視察報告」に附録として掲載されて る 1912 年度インドシナ輸出入統計の中にも「インド産アヘン」の項目がみ られる
7[和田 1914:29、32]。
雲南産アヘンは、今回対象とした資料の中に多くの言及が見られるアヘン である。仏領インドシナにおいて、この雲南産アヘンは貿易品としても、政 府収入の財源
8としても重要な生産品であるため、ここで東亜同文会資料中
6
ラオスのアヘンについて、主にメオ族によりラオスで栽培され、その年産額は 4000 キロに及んだ [台湾拓殖東京支店印度支那調査室 1941:2]との資料もある。
また、菊池はラオスのアヘン年産量について、メオ族の人口から割り出した
M.フリードマンによる推計値として 1935 年に約 20 トン、1942 年に約 25 トン、1944 年 に約 30 トンという数値を挙げている[菊池 1979:101]。
7
価格については、雲南産の生アヘンは、インド産アヘンよりも安価であった[武内 2006:287]。
8
仏領インドシナの国家予算に占める専売制アヘン税収は 1910 年代で 20-40% [Hồ
Tuấn Dung 2003:82]、1942 年では 9% [Lê Thành Khôi 2014:516]となっており、その内多くが雲南産アヘンと考えられる。
の記述・報告を基にその概要を示す。
①雲南のアヘン
雲南省の農民は米作その他の農作物を生産するよりもアヘン栽培を志向 し、雲南省、貴州省の飢饉を招くほどであった[谷編 2007:5]。雲南政府 にとっても、雲南アヘンは財源のほとんどすべてを占めるほどであり、産業 上も財政上も極めて重要な生産品であったことは周知の事実である。書院生 による報告にも、「毎年トンキン政府と雲南政府との密約による輸出巨額に 上り、雲南省の重要な収入の一つになる」[谷編 2007:8]と報告されてい る。民国 13、14 年(1924-1925 年)頃、雲南政府収入中アヘンによる収入 は第 2 位を占め、その額は年額 300 万元に上った[東亜同文会支那省別全誌 刊行会編 1942:864]。
中国においては、宣統 2 年(1909 年)禁煙令公布、つまりアヘンが禁止 される。その後の具体的な動向について、雲南における経過が『新修支那省 別全誌第 3 巻雲南省』に詳しく記載されている。仏領インドシナのアヘン分 析においても、法令上の禁令交付の時期や内容だけではなく、実際の動向を 捉えることは必要不可欠な事項であるため、以下に概要を示す([東亜同文 会支那省別全誌刊行会編 1942:861-862]による)。
雲南でも、1909 年のアヘン禁令以降はケシ栽培も漸減し、1917 年の段階 ではほとんど見られなくなった。その影響を受け、ケシ栽培により生計を立 てていた省民はもとより、主要財源を絶たれた雲南政府も非常な困窮状態へ と陥った。政府はケシに替えて、綿花、とうもろこし、大豆、麦の栽培を 奨励したものの、損失補填には至らず、また省内アヘン吸煙者の需要も依然 として高いままであった。そのため、英領ビルマから片馬地方を経てアヘン が大量に密輸入され、その額は 1917 年(民国 6 年)においては、密輸入額 200 万両、5600 万元にのぼった。これにより、省内銀貨がビルマへ大量に流 出する事態となり、一時金融界も動揺するほどであった。こうした状況を踏 まえ、1917 年以降 ケシ栽培の禁止政策が緩められ、徐々にケシ栽培が復 活、禁令公布以前の盛況を呈するまでに至った。その後のアヘン禁令は、民 国 24 年(1935 年)に公布され、以降地域的に期限を分け、順次アヘン禁止 の方向へと向かうこととなる(これ以降の動向には触れられていない)。
②雲南アヘン輸送ルート
輸送に関しては、複数のルートが確認できた。雲南産アヘンはトンキン内
での消費分と、海外へ輸出するものとがあるが、そのほとんどはトンキン を経由し広東など中国各所へと送られる再輸出であったようである。以下、
(a)陸路と(b)鉄道における輸送ルートを示す。
(a)陸路:広西省の政情が安定している場合は、広西省経由で陸路、各 地の駐屯軍隊の保護下で広東省へ輸送される[谷編 2007:349]。陸路の 場合、多くは馬によって運ばれ、アヘン商人は武装して 4-5 人、あるいは 12-13 名の隊商を編成していた[谷編 2007:7]。その詳しい輸送ルート は、「特に阿片道とて秘密の道を行くと聞けどもこれを目撃すること得ざり き」[谷編 2007:8]とあり、陸路におけるアヘン輸送も情報の漏洩がない よう、慎重に行われていた一端が垣間見える。
(b)鉄道:広西省の政治が紛糾し、陸路での輸送が危険な場合は、フラ ンス官憲と密約を結び、滇越鉄道によって仏領トンキンを経由し、ハイフォ ン港から海路広東へ輸送される。あるいは、広東省向けのアヘンを仏領内で 取引販売し、地場で捌いてしまう場合も多かった。トンキンでの取引でも大 きな利益を上げられることから、中国人商人と結んで、自らアヘン取引に参 加するフランス人商人も急増した。こうしたトンキン内での取引に関して は、雲南政府も仏印政府も課税することで黙認していた[谷編 2007:350]
(後述)。
1921 年末のジュネーブ・アヘン会議以降、世界各国のアヘン密輸出入に 対する監視が厳重になったため、秘密の漏洩をおそれ、雲南省と仏領トンキ ンの間を紅河を利用してラオカイに輸送、あるいは陸路でラオカイ付近の国 境を経て密貿易を行うルートに変更された
9。雲南、河口における税関検査を 免れるためである[谷編 2007:486]。
昭和 2 年の調査報告書の中では、アヘン密売ルートについて、英国領事の 談話を紹介している。英国領事によれば、雲南アヘンは従来滇越線の河口の 隣駅である南渓より陸路国境を越えてラオカイに密輸されていたが、その後 は陸路広西省に入り、同省と仏領の近接地点である東興より海路北海(広東
9
昭和 4 年度の調査報告書には、紅河を利用し、河川に積載して仏領ラオスに輸送し
ていた[谷編 2007:486]とある。ここで表記されている「仏領ラオス」である
が、ラオスは通過貿易の利を得るほど大きな貿易港は有しておらず、ラオスからト
ンキンのハイフォン港を目指すには山岳地帯を超える必要があり、現実的ではな
い。トンキン領内の「ラオカイ」あるいは「ランソン」の誤記である可能性もあ
る。
省の港)を経由し広東へ移出していた[谷編 2007:350]。
(2)中国・トンキン間のアヘン貿易
①通過貿易
中国とトンキン間の貿易では、文字通り中国とトンキンの間の取引の他、
雲南省発着のトンキン経由輸出入があり、こうした貿易形態を「通過貿易」
と呼ぶ。その税率は、トンキンへの輸入税率の 2 割である[東亜同文会編 1917:329]
10。雲南産のアヘンが、トンキンの消費分として輸出される場合 と、トンキン経由で広東省などに再度輸出されるケースがあることは、上記 で見た通りである。この通過貿易のルートは、主に滇越鉄道や紅河による河 川輸送によりハイフォンの港まで運び、海外市場へ輸出、同じく広西省から 西江による河川輸送、あるいはトンキン領ランソンから鉄道によりハイフォ ンまで運び、輸出するものであった[東亜同文会編 1917:315]
11。
紅河、および滇越鉄道によってトンキンを通過した通過商業(通過貿易)
の概算によると、1911 年のハイフォン港における輸出入総額のうち、トン キン向け物資は 14%のみで、残りの 85%以上が通過貿易の貨物となってお り[東亜同文会編 1917:316]
12、トンキンにおいてこの通過貿易がいかに 重要な貿易形態であったかがわかる。
②アヘン貿易
東亜同文会関係資料中の記述において、アヘン貿易の最も古いデータが確 認できるのは明治 42 年発行の『東亜同文会報告』[東亜同文書院 1909(第 114 回):47]である。その中で、中国、トンキン間の通商として、「錫は
10
輸入税の税率は①一般税率(無条約国、互恵条約を締結していない各国)、②最低 税率(互恵条約国:中国、イタリアなど)、③特別税率の 3 種類に分けられていた
[東亜同文会編 1917:330]。
11
雲南省の省都、省城から四川省の揚子江を経由し、輸出港である上海へ輸送する ルートは 2800 キロメートルであるのに対し、省城からトンキンを経由した場合は 780 キロメートルで貿易港、ハイフォンへ達する[東亜同文会編 1917:315]。そ のため、中国南部の地域ではトンキン経由での貿易が盛んに行われていた。
12
紅河及び雲南鉄道(滇越鉄道)による通過貿易の各年における概算は以下の通 り。1893 年:8753 フラン、1897 年:1 万 1260 フラン、1900 年:2080 万フラン、
1903 年:2414 万 2 千フラン、1905 年:3060 万フラン、1906 年:2830 万フラン、
1910 年:4712 万 9 千フラン、1911 年:4468 万 6 千フラン[東亜同文会編 1917:
316]。
年々 3000 乃至 4000 噸、茶は 1500 担、鴉片は 1906 年までは 4000 担、1907 年は禁令に依り 600 担、皮角は殆ど 1000 担を輸出せりと」ある。1906 年と 1907 年を比較すると、その量はわずか 1 年で 6 分の 1 以下に急激に減少し ており、先に見た 1907 年のアヘン禁令の影響が非常に大きかったことがわ かる。
それ以降の雲南省とトンキン間のアヘン取引については、書院生による大 正 14 年および昭和 2 年の調査報告書の中に記載が見られ、それとほぼ同じ 内容が『新修支那省別全誌第 3 巻雲南省』に掲載されている。
雲南省からインドシナに対するアヘンの輸出は毎年 3 月頃であり[谷編 2007:350]、輸出量は以下の通りである。
雲南からのアヘンの輸出量は年により増減が激しく、参照できる年数が 少ないため、傾向を読み取ることは難しい。しかし、1921 年の 700 噸とい う数字には、「数量制限がなかったため」と補足されており、それ以外の年 には数量制限がかかっていた可能性もある。また、課税額の提示において も、トンキン政府に関しては「輸入税を課して国境通過を許可する」「アヘ ン 100 両の価格に対し 30/100 を徴取し仏領トンキンの通過を承認」と併記 されており、対象となっているアヘンは主に通過貿易のアヘンであり、トン キン内で消費されるアヘンではないことも読み取れる。課税額は、トンキン 政府は 1920、21 年では 90/150つまり 60%の課税をしていたが、1922 年以 降、その税率を 30%にまで引き下げている。一方雲南政府は 1920、21 年は 価格ベースでの徴税と、輸出税として単一に課税する 2 本立てで徴収してい たのに対し、1922 年以降はトンキン政府と同様、従価税に一元化している。
トンキン領を経て広東へ輸出、あるいは仏領内で取引販売する利益は非常 表 2 雲南発・トンキンへのアヘン貿易
輸出量 単位:噸
課税額
トンキン政府 雲南政府
1920 年 500 輸入税:毎 100 両に 90/150
アヘン税(罰金名義):毎 100 両に 20 元 輸出税(海関土貨)12 元
1921 年 700 1922 年 130
毎 100 両に 30/100 毎 100 両に 40 元 1923 年 500
(出所) [谷編 2007:8、350、486]および[東亜同文会支那省別全誌刊行会編 1942:
861-866]より筆者作成。※輸出量の単位:一噸= 1600 斤、1 斤= 16 両
に大きく、フランス人商人も中国人商人と手を結んでアヘン取引に参加する ものが続出し、雲南政府と仏領インドシナ政府もこれに課税することで黙認 していた、と報告がみられる[谷編 2007:350]。昭和 4 年の調査では、滇 越鉄道による密輸入の多くはフランス人商人であり、官憲と密約して莫大 の利益を得ているとした後、「仏領インドシナも雲南省と同じく、阿片売買 による政府の収入は行政上頗る重要(阿片専売により 1 千万ピアストル)、
双方政府ともに密輸出は黙許のあり様、課税による収入を得るに汲々たり」
[谷編 2007:486]と記述している。
表 2 の中で興味深いのは、アヘン税を「罰金名義」と書かれていること である。中国における罰金のあり方を説明する好例が、『新修支那省別全誌 第 3 巻雲南省』に記述されている。アヘン禁令後のアヘン吸煙者に対する 対応として、「それら処罰も、主として徴税を目的として行はれ、禁煙励行 の手段としてあぐべきものは少ない」[東亜同文会支那省別全誌刊行会編 1942:864]。とある。つまり、アヘンの罰金は徴税行為と同じであり、「金 を払えばよい」という意識が、官民ともに広く蔓延しているといえるだろ う。
昭和 2 年の調査報告書では、さらに注意すべき内容の記載が見られる。
「アヘン商人は、これに土貨名を付けて鉄道によって輸出」[谷編 2007:
350]との一文である。「土貨」とは地方の特産品のことを意味する。つま り、アヘンは各地の特産品の名前を付けられ、アヘンであることを隠匿した 状態で輸出されたことがわかる。このアヘンに関する「土貨名」について は、『新修支那省別全誌第 3 巻雲南省』の中にも 2 か所、以下のような言及 が見られる。
これ等の釐金局はアヘン収入税を徴収した事実を隠蔽するため、生阿片 に各地産物の名義を附し、帳簿上は表面土貨に対して課したこととし記 帳整理していた。而して阿片に冠する土貨名は各地方により異なり総計 二百餘種に達していたといわれる[東亜同文会支那省別全誌刊行会編 1942:864]。
民国 19 年(1930 年)以前の課税方法は、多く前清代の旧制を援用した
もので、その方法も乱雑で、課税名目も多種多様に行われ、あらゆるも
のに課税し、またアヘンのごときは、他の物産名目下に課税していた
[東亜同文会支那省別全誌刊行会編 1942:1189]。
上記の報告から読み取れることは、アヘン商人側だけでなく、釐金税(国 内通行の貨物にかけられる従価税)を徴収する機関、つまり政府側も帳簿に アヘンとは記載していなかったこと、さらにアヘンの別称として用いられて いた特産品名は 200 種類以上に上るということ
13、である。貿易統計に雲南 産のアヘンが記載されていない理由の一つが、ここに明らかとなった。アヘ ンとして記載されない代わりに、付けられた土貨として計上されている可能 性が示唆される事例を、以下表 3 の箇所で検討する。
(3)鉄道によるアヘン輸送
鉄道によってどれほどのアヘンが運ばれているか、その量を示すデータは ほとんど明らかにされておらず、詳細は不明のままである
14。東亜同文会関 係資料の中には、アヘンの鉄道輸送に関する非常に貴重なデータが残されて いる。
鉄道によるアヘン輸送について言及が見られるのは、1910・1911 年の滇 越鉄道に関して『支那省別全誌第 3 巻雲南省』が、1925 年のインドシナ鉄 道に関しては山本治が研究雑誌である『支那研究』の中でまとめている。ま た、アヘンに関して直接言及されていないが、『支那省別全誌第 3 巻雲南省』
13
品目名を偽って取引する他の事例は、『支那省別全誌』に日本製品の輸入に関して 報告されている。先の述べたように、ハイフォンから雲南に輸入される製品にかけ られる税率は、トンキンへの輸入税率の 2 割であり、その輸入税率は①一般税率、
②最低税率、③特別税率の 3 種類あった(注 10 参照)。日仏条約は植民地に適用さ れないため、日本製品は最も高い税率である①の一般税率が適用されていたが、日 本製品の輸入増加に伴い、香港の中国人商人はラベルを張り替え、中国製品として 輸入していたことが報告されている[東亜同文会編 1917:330]。
14
ベトナム国家第一文書館トンキン理事長官府コレクション(Fonds de la Résidence
Supérieure au Tonkin)に収蔵されている鉄道統計各年版(Statistiques des Chemins de fer de l’Indochine)においても、専売制が採られていた酒、塩の輸送量のデータは記載されている一方、アヘンに関してはその項目も設けられていない。(No.
77499:1916 年版、No.77500:1917 年版、No.77501:1918 年版、No.77503:1938 年版、
No.34036:1927-1929 年版、No.34037:1930-1931 年版)。特に、1916-1918 年の各統計
には、「管理輸送:税関・専売局」の項目が設けられており、酒と塩は記載がある
がアヘンは記載がみられない。
の中で 1909・1910 年の鉄道による重要輸出品の興味深い統計が掲載されて いる。ここでは、これら 3 つの記事に着目し、以下、時系列に沿って内容を 整理する。
① 1909・1910 年における滇越鉄道重要輸出品
滇越鉄道が雲南省の蒙自、阿迷州までの全線が開通した後、6 か月間の蒙 自税関における雲南からの重要輸出品について示したのが、表 3 である。
表 3 には品目名としてアヘンが挙げられていないが、その数値の変化から アヘンに関して推測できる事例がある。表 3 の中でもっとも注目されるの は、豆類輸送の急激な増加である。その背景を、アヘン輸送も含めて考えて みたい。1909、1910 年は 1907 年のアヘン禁令後にあたり、アヘン輸出の数 値が統計上現れることは表向きないはずであり、上記の統計にアヘンが計上 されないのは当然のことといえる。アヘン禁令後、ケシに替えて綿花、と うもろこし、大豆、麦の栽培が奨励されたことは先に見た通りであるが、統 計上も特に豆類の輸送量が大幅に伸びており、政府の転作政策の結果が鉄道 の輸出品にも大きく反映されているようにみえる。しかしながら、この豆類 の輸送量の増加率は、不自然にまで急激である。ここで滇越鉄道による輸送 費について考えてみると、滇越鉄道は、運賃が中国領域内でも最高運賃であ り、輸入品でも綿糸、布、石油などの破損の恐れのないものは馬背によって 省城に運搬されるものも多く、輸出品も蒙自より雲南府まで鉄道を使わず陸 路で運ばれていた[東亜同文会編 1917:328-329]
15。つまり、高付加価値で 利益率の高い商品でなければ、鉄道による輸送は選択されないことになる。
実際、表 3 の中で上位を占める麝香や錫板は、農産品と比較すると高価な生 産品であるといえる。
さらに、アヘン輸送の際横行していた、「土貨名」についても考え合わせ
15
満鉄会社の一等貨物と比較しても 4 倍の高さであった[東亜同文会編 1917:
329]。
表 3 1909 年及び 1910 年蒙自税関における重要輸出品(単位:擔)
豆類 麝香 牛皮 薬種 茶擔 錫板
1909 年 41 4080 653 2052 502 12680 1910 年 5891 15186 1155 4256 771 34095 増加率(1909 年を 100) 14368.3 372.2 176.9 207.4 153.6 268.9
(出所)[東亜同文会編 1917:324-325]より筆者作成。
ると、アヘン禁令からわずか 3 年、なおかつ前年比較においても急激な伸び を見せた豆類の輸送量の増加は、アヘンの土貨名(つまり「豆類」)による 輸送が増えたことも一因ではないかと考えられる。
このように、表 3 の資料は統計に表向き記載されないアヘンの存在が、輸 送費、土貨名といった周辺の状況から示唆される、大変興味深いデータであ るといえる。
② 1910・1911 年の滇越鉄道によるアヘン輸送
アヘンは、急行便貨物
16の 2 つ目のカテゴリーに属しており、同カテゴ リー内には現金、貴重品、美術品などが分類されている。その運賃率は、価 格 500 フラン各 1 個に対し、25 フランを徴収する、というものであった[東 亜同文会編 1917:337]。こうした高価な商品の輸送に関して、その量、金 額を示すデータが示したのが表 4 である。
『支那省別全誌』のなかで、この表について「明示せる貨幣」の大部分は インドシナ政府の会計課から輸送されたものであり、「価額を示せるアヘン」
とは、インドシナ政府専売局のために輸送されたもの、「携帯アヘン」は蒙 自から雲南省官憲の許可を得て、インドシナ政府専売局に輸送されたもの、
とある[東亜同文会編 1917:379-380]。つまり、表 4 に記載されているア ヘンは、すべて仏領インドシナ領内で消費される目的のものであり、通過貿 易の対象ではないことがわかる。「携帯アヘン」とはいかなるものか、詳細
16
「インドシナ関税税務官庁のために官営鉄道の行うアヘンの運送に関する規定」に よると、アヘンの輸送は急行便のみが許可されていた[印度支那総督府編 1943:
349]。
表 4 滇越鉄道による現貨幣および高価物の輸送
明示せる貨幣 価額を示せるアヘン 携帯アヘン
東京 雲南 東京 雲南 東京 雲南
1910 42.450 噸 0.778 噸 3.638 噸 - - - 収入:148562.23 弗 23561.09 弗 108387.98 弗 - - - 1911 29.863 噸 0.788 噸 2.085 噸 - - 14.833 噸
収入:1121405.3 弗 27949.3 弗 77550.82 弗 - - -
(出所)[東亜同文会編 1917:379]より筆者転記・作成。
※弗:ピアストル、東京:トンキン。
は不明であるが、おそらく商人が手荷物としてアヘンを雲南から持ちこみ、
雲南で課税されたため、表中のデータが雲南の欄の中で示されているものと 考えられる。「価額を示せるアヘン」の雲南の欄が「データなし」であるの は、すべて雲南からトンキンへ輸送されたアヘンであり、課税されたのはト ンキンであることを示唆している。
「明示せる貨幣」と「価額を示せるアヘン」を比較すると、アヘンがその 輸送量に対してかなり高額な金額を示していることから、インドシナ鉄道に とってもアヘンの輸送は、非常の効率のよい収入源であったことがわかる。
③ 1925 年インドシナ鉄道におけるアヘン輸送
研究者による中国研究組織、支那研究部の研究雑誌である『支那研究』第 17 号の中に、山本による詳細な仏領インドシナの鉄道研究がある。その中 で、アヘン輸送に関しても貴重なデータが掲載されている。1925 年におけ るインドシナ鉄道の急行列車貨物収入のデータ中に、アヘンの輸送量が価格 で示されている。急行列車の貨物輸送は、鉄道貨物(小包郵便、小荷物)、
生産品、動物および車両(車、動物、葬儀運送など)に分かれているが、表 5 は、その中の生産品データのみ抽出し、示したものである。
(a)から(c)はベトナム北部、(d)および(e)は南部、(f)は中部の区 間を走る路線である。まず北部に属する 3 つの路線から見ていく。(a)は いわゆる滇越鉄道であり、(b)はランソン側から中国へつながる鉄道路線、
(c)はハノイから南へ 300 キロほど伸びる路線である。滇越鉄道はアヘンが 繭と同じ項目に入れられているため、アヘン単独での輸送収入は不明だが、
全体に占める割合は 14%弱と高くはない。同じくハノイーナーチャム線も、
ハノイーベントゥイ線も、最も輸送収入が大きいのは工場製品とされている 商品であり、アヘンの占める割合は全体から見て 4 番目である。
一方で、中南部路線においては、サイゴンからさらに南部へと延びるサイ ゴンーミトー線でのアヘン輸送は少ないが、サイゴンから中部方面へ伸びる サイゴン―カインホア線、中部を走るツーラン(ダナン)-ドンハ線は、ア ヘン輸送による収入が非常に高い。
これらの地域差の背景について考えてみたい。第一に時期の問題である。
先に述べたように、1921 年ジュネーブのアヘン会議以降、密貿易の発覚を
恐れアヘン輸送は鉄道より陸路、水路が志向されるようになった。北部の鉄
道によるアヘン輸送は、その大半がトンキン消費用、あるいは広東などへ再 輸出される雲南アヘンであるため、この時期の統計では輸送量・輸送収入が 少ないのではないか。中南部に関しては、サイゴンより南はメコン川支流に よる水路が網の目のように発達しており、輸送は水運が中心であるため、サ イゴンーミトー線による輸送は少ない。反対に、サイゴンから北へ向かう ルートは、鉄道の利便性が高く、鉄道によるアヘン輸送が活発に行われてい ることが推測される。つまり、北部は世界的なアヘン禁煙への趨勢を受け、
中南部は合理的な輸送ルートの選択の結果として、アヘン輸送量の地域差の 背景が推測できる。
(4)アヘン取引会社
雲南におけるアヘン取引会社については、昭和 2 年度の調査報告書の中 で、広雲公司と隆興公司の 2 社について、言及が見られる[谷編 2007:
350]。
表 5 1925 年急行列車貨物収入の詳細 生産品 (a)ハイフォン-雲南間 (b)ハノイ-
ナーチャム間
(c)ハノイ-
ベントゥイ間
ピアストル % ピアストル % ピアストル %
氷 30676.01 86.1 1806.45 16.8 3034.97 9.49
高価品 1354.75 12.6 1718.34 5.37
鴉片 4967.12 13.9 971.45 9.0 2450.34 7.66
繭 293.28 2.7 2368.05 7.41
雑貨 n/a n/a 538.72 5.0 3147.48 9.84 工場製品 n/a n/a 5793.47 53.9 19258.98 60.2
生産品
(d)サイゴン-
ミトー間
(e)サイゴン-
カインホア間
(f)ツーラン-
ドンハ間
ピアストル % ピアストル % ピアストル %
氷 435.06 19.2 4477.99 13.3 403.77 11.3 高価品 582.68 25.8 3953.71 11.7 314.07 8.77 鴉片 109.19 4.8 17387.21 51.6 1261.92 35.2
繭 n/a n/a n/a n/a 4.25 0.12
雑貨 1046.35 46.3 7718.1 22.9 1596.74 44.6
工場製品 87.85 3.9 161.1 0.5 n/a n/a
(出所)[山本 1928:229-237]より筆者作成。
広雲公司は、雲南政府とアヘン商人の会合により、1922 年に成立した会 社である。資本金は 120 万元であり、内政府が 50 万元出資したことになっ ているが、実際は唐継堯が出資した、とある。唐継堯は雲南地域の有力軍閥 である。この会社によるアヘンは、主に広東、トンキンに輸出された。
隆興公司は、成立年は明らかではないが、資本金 100 万元と、広雲公司と ほぼおなじ規模の会社であるといえる。表面上は雑貨輸出商として活動して おり、その経営は富滇銀行副総理の劉若遺によるものであり、「当地一流の 官、商投資す」とある。富滇銀行は雲南の主要地方銀行である
17。
これら 2 社の共通点は、官民合同の一大企業であり、それぞれ地方の有力 軍閥や金融機関の長と呼べる人物が経営に深くかかわっている点である。ア ヘン・ビジネスが、いかに雲南省にとって主要なものであったかを物語る。
4.仏領インドシナにおけるアヘン売買・消費
(1)華僑とアヘン
仏領インドシナに限らず、アヘンの徴税請負人として華僑、華人が広く活 躍したことは時期、地域を問わず様々な文献資料により語られている
18。東 亜同文会資料の中では、華僑とアヘンの関係について記述してものとして、
外務政務官も務めた松本忠雄による「南洋における華僑の役割」[1942a:
73]および「仏領印度の華僑」[1942b:1118]の 2 つの記事がある。
前者では、仏印においても華僑が徴税請負人としてアヘンに関わるあらゆ る利権を手中におさめていたこと、その弊害を認め、1883 年フランス政府 が専売制に移行した後も、華僑が官庁の名においてアヘンの製造、販売、徴 税の権利を依然として持ち続けたことを指摘している。後者では、華僑が従 来の習慣による権利およびフランス法の適用を受けないことによって生じる 特権として、アヘン吸飲所営業を挙げ、富裕階級に属する華僑は市民権の賦 与が許されている、と述べている。
1883 年の専売制移行後も、アヘンに関わる華僑が変わらず利権を持ち続
17
富滇銀行については、『新修支那省別全誌第 3 巻雲南省』の第 5 編経済第三章金融
「三 為替」および「四 金融機関」の中に詳しく記載が見られる[東亜同文会支 那省別全誌刊行会編 1942:1199-1202]。
18
アヘンに関わる華僑については、『仏領印度支那に於ける華僑』[満鉄東亜経済調査
局編:1939]に詳しい。
け、さらには市民権まで得られていた状況を個人的見聞、あるいは東亜同文 会による研究・資料に基づいて報告しているとすれば、同時代資料として貴 重な証言となる。
(2)アヘン窟
アヘン窟については、大正 14 年度調査報告書の中に記述がみられる[谷 編 2007:12]。同報告書によると、吸煙所は中国の烟館と同様のもので小 規模であり、公認された烟館はハイフォン市内のみでも 30 軒あまり、領内 各地に多数散在しているが数は不明である。該烟館は標識として門口に小型 のフランス国旗、もしくは赤白 2 色に塗り分けた小型の円盤を掲げていた。
ハイフォンの公認煙館では吸煙時間を定めており、午後 6 時に開館し、アヘ ン価格は「茶さじ一杯= 40 仙で販売」していたとある。また、この他、鴉 片公司なるものがあり、ここではアヘン、アヘン煙膏のみ販売するところで
(官憲の許可必要)、標識は、赤白二色に塗り分けた布製の小さな旗を掲げ、
その中央に「鴉片公司」と墨書したものであった。
(3)アヘンを吸う人々
アヘンを吸う人々を記録したものとして、『支那』に 1 か所、写真 1 件、
『乗雲騎月』と『大旅行記』の中にそれぞれ1か所みられる
19。紙幅の関係上、
ここでは仏印最大の華人街、ショロン(現チョロン)の様子を描写した、
『大旅行記』中の記述から一部引用する。
昼も 12 時を過ぎれば、2 時まで全市水を打ったように昼寝する町、そ れが西貢である。…午後から三井の本地氏の好意で、昼下がりの強烈な 日差しをヘルメットに受けて、華僑の家元ショロンを動く。電車に乗 る、切符をかう、表に蟹の絵が書いてある。尚よく見ると、驛にも猿だ の馬だの動物の絵が書かれた看板が瞳に映ずる。民度の低い無教育な人 の便宜の為だとか、外来者もこれじゃ至極便利だ。この時吾々が口にす る大亜細亜主義が脳裏を去来する。怪しげな音を立てて電車はショロン
19
エチエンヌ・デヌリイ[1933:75-76]、「安南婦人の阿片烟」の写真(『支那』第 4 巻第 3 号口絵)、印度支那調査班[1926:284-285]、大久保・岡田・坂東[1940:
351]。
へ向けて疾走する。やがて兎驛を過ぎ蟹驛に到着、一足街に踏み入ると 支那人ばかり。ビンローと阿片の臭とが相変わらず真っ先に鼻を衝く。
仏領インドシナにおいて、中国人の中でのアヘン吸煙者は 50-70%とも言 われており
20、華人街当時の雰囲気がよく伝わってくる見聞録である。こう した記録も、同時代資料として貴重な証言となろう。
5.おわりに
本稿は、東亜同文会資料におけるアヘン記事から、仏領インドシナのアヘ ンの周辺を再構築すること、そのプロセスにおいて東亜同文会資料の資料的 価値について検討すること、の 2 つを目的とした。
第一に、仏領インドシナのアヘンに関しては、東亜同文会資料に基づき、
アヘンの生産、輸送、流通、アヘン企業から小売り・消費の現場までを概観 することができた。さらにこれまで見えてこなかった、隠されたアヘン貿易
(土貨名や税関を通さない輸送ルートの詳細など)、鉄道によるアヘン輸送の 概要および地域差の一端を明らかにすることができた。しかしながら、今回 対象とした記事はそれぞれ十分にその内容を精査できたとはいえず、また、
記事にみえる通貨単位、度量衡単位は国・地域や時期によってその換算率が 異なり、相互に比較可能なデータに換算することは慎重を要する作業であ る。これらの課題には、引き続きその他文献資料と照らし合わせていくとと もに、新たな資料発掘を行うことで取り組んでいく必要がある。
第二に、東亜同文会資料の資料的価値については、歴史研究資料として十 分に有効であることが、今回改めて実証できた。本稿で取り上げた記事の内 容は非常に多岐にわたっていたことに加えて、相互に補完できる内容がそれ ぞれの刊行物・資料に豊富に残されていることが確認できた。これらは同じ ディシプリンを有する書院生の高い調査・研究能力と、東亜同文会組織内の 研究水準の高さを物語るものである。東亜同文会資料中には未だ多くのアヘ ン関係記事があり、情報が少ないアヘン研究分野に対して、これら資料の果 たす貢献は大きい。今後は、仏印に近接する雲南省、広西省、さらには雲 南アヘンの再輸出先であった広東省、国際的なアヘン・マーケットがあった
20
外務省記録
E.4.0.0.13.2「佛領印度支那資源調査団派遣関係一件」羽鳥重郎調査『佛領印度支那ノ衛生事情報告(其一)』(1940?)。
上海、香港におけるアヘン、およびアヘン周辺の記事、報告を使用すること で、仏領インドシナのアヘン研究がより深められ、全体像が明らかとなって いくことが期待される。
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