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家族の再編成 ―『砂の城』における自己認識の獲 得と社会化の過程―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

家族の再編成 ―『砂の城』における自己認識の獲 得と社会化の過程―

著者 門田 守

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 36

ページ 23‑33

発行年 2000‑03‑01

その他のタイトル The Reorganization of a Family: The

Acquisition of Self‑awareness and the Process of Socialization in The Sandcastle

URL http://hdl.handle.net/10105/7034

(2)

        家族の再編成

一『砂の城』における自己認識の獲得と社会化の過程  ‡

 門田  守.

(英米文学研究室)

要旨:『砂の城』は平凡な中年夫婦と若い女流画家がそれぞれの自己認識 を獲得し、社会化の過程を遂げるまでの小説である。モア夫妻はいわば倦 怠期に陥った夫婦であり・彼らの家庭を崩壊寸前にまで追い込む画家のレ インは最愛の父親を失ったばかりの状態で登場する。彼女は己の芸術的支 えを失っているのだ。彼らに加え、モア夫妻の息子ドナルドと娘のフェ■j

シティはそれぞれがパブリック・スクールと義務教育の終了年次にあり・

両者とも進路に対して展望が開けていない。彼ら全員がそれぞれに己のア イデンティティを掴みきれず、自閉塞的環境において岬吟している。彼ら が己の自閉塞状態から脱却するメイン・プロットは、『砂の城』がイギリ ス伝統の、登場人物の自己教育力に関わる教養小説に樟ざしていることを 表している。主要登場人物のアイデンティティの獲得と社会化の過程につ いて追ってみたい。

キーワード:マードック、アイデンティティ、社会化

1、崩壊していく家庭

 マードック(Iris Murdoch,1919−99)の『砂の城』(肋e Sαηdcαs此,1957)は、平凡なイ ギリス人夫妻の家庭が崩壊していくさまと、その再構築を扱っている。その家庭は夫のウィリア ム(Wi11iam)、妻のナン(Nan)、息子のドナルド(Dona1d)、娘のフェリシティ(Fe1icity)

のモア家(the Mores)である。彼ら家族の関係はかつての親密さを失った、もはや崩壊の寸前 の状態にある。いわばこの家庭は乾ききった、崩れつつある「砂の城」なのだ。

 この家族はそれぞれに自己認識を獲得していき、盤石とはいえないまでも安定した相互関係を 築き上げていく。そのいわば自己回復能力の称揚という面を考えてみれば、この小説がイギリス 伝統の教養小説(B〃α昭sro肌㎝)に樟さしていると言えるだろう。『オックスフォード英文学 案内」(肋e0ガ。rd Co肌ρα兀{㎝士。肋8脆ん〃θrα炊e)の編者トラブル(Margaret Drabb1e)

は、教養小説を定義して [the]nove1s of education川(100)と言う。教育が自己の成長に関 わるアイデンティティの獲得を促すものであれば、『砂の城』は主要登場人物の人間的成長を扱 いつつ・まさに教養小説の側面を露わにしていると言えるだろう。

 まず、モアはこの家庭から逃避したかったのである。彼はセント・ブライス校(theStBride s

‡The Reorganization of a Fami1y:The Acquisition of Se1f−awareness and the Process of  Socia1ization inク狗e Sαηdcα8〃e

lamoru KADOTA(D即αr舳e航。プ励g挑んαπゴλ肌θrゴ。αηL加rα肋re,Nαrαση{リers伽

。!珊 cαれ㎝)

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schoo1)というパブリック・スクールに勤める中年教師である。妻のナンは四六時中彼に小言を 言う。先頃亡くなったカーター画伯(SidneyCarter)を父にもつレイン(Rain)という若い女 流画家が、セント・ブライス校の先代校長デモイト(Demoyte)の肖像画を描くためにイタリ

アから招かれたときもそうであっれナンは美術教師のブレッドヤード(B1edyard)に描かせ れば、そんな絵はただですむと文句を言う。学校の投光照明がっけられたことにも、ナンは無駄 だと文句を言う。モアにはそんなことはどうでもいいのだ。彼女は娘のフェリシティが帰宅すれ ばいっも不機嫌そうで食事も嫌がると言う。さらに彼女は息子のドナルドがいつも山登りの話ば かりしていることにも文句を言う。小説の冒頭からして、息の詰まるようなモア家の様子がわかっ てくる。彼はこうした家庭に戻ることを嫌がり、夜な夜ななぜか馬の合うデモイト前校長の住む フレイリング邸(Bray1ing s C1ose)に足繁く通っているのである。

 この家族の問題の中核にあるのは・個々の成員のアイデンティティの不在である。たとえば、

モアは父親としての自己と教師としての自己を使い分けることができない。彼の勤めるセント・

ブライス校にはドナルドが最終学年に在学している。モアは学校においてはもちろんドナルドの 教師である。しかしモアは教師としても、父親としても息子に心を開いて接することができない のだ。モアは息子に会うとき、妙に気まずく挨拶も満足にできない。実際、職場で息子に会わず にすむことを彼はほっとして受けとめる始末である。教師対生徒の関係は彼らの間では希薄であ る。事態はこれだけではすまない。モアは父親としてもアイデンティティが確立していないのだ。

彼は息子がケンブリッジ大学に進学するものと決めてかかり、息子の心が欝屈として将来に対し て閉ざされていることを知らないのだ。ほっておけば、自然に息子は進学の道を選ぶだろうとモ アはただ何となく考えているにすぎない。モアは意識的に己が父親であることを捉えようとしな いのである。なにごとも意識化することを避け、ただなんとなく生きること、それがこの中年教 師の人生態度なのだ。

 モアと他の家族との関係にしても同様である。フェリシティはアカデミックな学校ではなく、

タイピストの養成学校へでも進みたいと考えている。彼女が本当にタイピストになりたいのかど うかは不明である。それは捨て鉢な将来への決定態度保留の一所作にすぎないのかもしれない。

問題は、モアがこうしたフェリシティの内心の悩みにまったく心を開いていないことである。彼 は荘漢として娘にも進学してもらいたいと思っている。しかしどういう分野に娘が優れ、どうい う関心を彼女が抱いているのか、彼にはわからない。ここでも彼には親娘関係の意識化は見られ ない。こうした彼にナンは興味深い示唆を行っている。彼女は夫にこう言う。

  You1ive in a dream wor1d,Bi1ユ, said Nan. Neither of your children are c1ever,and you ve  a1ready caused them both enough unhappiness by pretending that they are. (12)

 モアが夢の世界に生きているとするならば、ナンはあまりにも現実に密着しすぎて生きている

と言えよう。ただなんとなく、主題も決まらず、彼は政治学の著書をものにしたいと思いつつ暮

らしている。あまりにも無口で、夜な夜な逃げるようにデモイトの屋敷に出かける夫は、ナンに

は疎ましくてしようがない存在なのだ。モアはほとんど妻に愛情を感じていない。彼は宝石細工

商のティム・バーク(Tim Burke)に近郊のマーシントン(Marsington)の選挙区で労働党の

国会議員候補として立候補するよう勧められている。これは労働党には当選確実な安全な選挙区

だとされている。モアがこのことを妻に話したとき、彼女は馬鹿馬鹿しいとしてとりつく島がな

い。モアにとって、国会議貴として立候補すること、そしてロンドンの新しい環境でオフィスを

もらって暮らすことは現状から逃避することに等しい。教師、父親、夫としてまったくアイデン

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ティティを確立できない彼には、国会議員になることはあくまで逃げ場にすぎないのだ。

 ナンにしても、妻そして母親としてのアイデンティティが希薄である。その原因は彼女の視線 の及ぶ世界は家という狭い空間に限られていることである。いわば生活の現実的側面に彼女の意 識は密着しすぎ、そのため他者の未来に向けた可能性に彼女の想像力は閉じられているのだ。モ アがなぜ家を夜間留守にするのか、その原因は彼女には皆目見当がつかない。彼がなぜ政治学の 著書の執筆に憧れているのか、その未来に向けた情熱に彼女は完全に無知である。人は夢の世界 に生きてはいけないかもしれないが、未来への可能性に開かれていない生き方は悲惨かもしれな い。ドナルドがケンブリッジ大学へ行こうが行くまいが、彼女には大して関心がない。フェリシ ティがタイピストにでもなりたいと言うとき、彼女は大いにけっこうだと満足して娘のあやふや な決心を受け容れるのである。ナンの関心は壁紙を汚さないこと、部屋の小結麗な飾り付け、ガー デイニングといった家の世界に属することに限られている。人間は日々変わりつつあり、常に未 来へ向かって模索していることには、彼女は完全に無知蒙昧なのである。

 このナンには、夫への罪意識があった。ティムとの関係であ乱不倫と呼ぶほどのものではな い。もともとナンには不倫を犯すほどの勇気もエネルギーもなかった。夫と結婚して以来10年ほ どナンはティムに好意を寄せ、ティムは彼女に何度となく関係を迫ったのである。ティムに抱か れてキスをされても、彼女は彼とのそれ以上の肉体関係は拒み続けた。ただ家族とともにティム の宝石店を訪れたとき、ナンはこのアイルランド人宝石デザイナーと比べて、夫の鈍重さにあき れかえってしまうのであった。彼女の慎み深い恋愛願望はずっとティムに向けられていたのであ る。このティムがモアに国会議員選挙にうって出ろと勧めるとき、小説中なんの言及もないが、

彼にはモアとナンの間を引き裂いてやろうという意図があったのだと思う。モアの生活の場がロ ンドンに移れば、ナンと会う機会は彼にはずっと多くなるはずなのだから。モアの立候補に一貫 して反対であったナンは、生活に変化が起こるのを嫌う態度もさることながら、ティムの誘惑へ の恐怖心を抱いていたのではなかろうか。

 さて、モア家の息子と娘のアイデンティティの欠乏を見てみよう。ドナルドは大学に進学する つもりはない。さりとて、就職するっもりもない。関心の大半は山登りである。両親への信頼も ない。彼の逃避的性向は明らかであろう。コレッジで化学の試験を受けることになっているが、

彼には自信も関心もない。これが大学進学には非常に重要な試験であるにもかかわらずであ乱 誰かに押しつけられた人生の旅路を歩むことは、彼には耐え難い苦痛なのである。ただし自分の 望むことはわからないが、彼には何かをやり遂げたいというエネルギーはあった。そのエネルギー

は小説の後半部で炸裂する。ストーリー展開に大波乱をもたらす彼のセント・ブライス校の塔登 りは、アイデンティティの不在とエネルギーの不完全燃焼のもたらす自殺的な男子の動を求めた 行為であった。

 エリクスン(E.H.Erickson)は就学年齢後半期の若者の特徴として、こんなことを言ってい

る。

  .in the1ater schoo1years young peop1e,beset with the physiologica1revo1ution of their  genita1maturation and the uncertainty of the adu1t ro1es ahead,seem much concemed  with faddish attempts a七estab1ishing an ado1escent subcu1ture with what1ooks1ike a fina1  rather than a transitory or,in fact,initiaI identity formation.(128)

 ドナルドが力一ド(Carde)というコレッジの親友と偏執症的に山登りにこだわっていること

を思い出そう。エリクスンの言う若者の faddishattempts at estabhshi㎎an adoユescent

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subculture とは、ドナルドが親友と二人で山登りに固執する狂信的行為と重なってこないだろ うか。最終的に学校の塔の断崖絶壁のごとき壁をよじ登ることになる彼らは、己のアイデンティ ティをその行為によって周囲に知らしめているのかもしれない。日本語で自己同一性あるいは自 我同一性というアイデンティティの獲得は、周囲に己の立場を知らしめるというきわめて社会的 な行為である。つまり、自分が社会においてどういう立場にあり、何をしており、何を目指して いるのかをはっきりと胸を張って言えること、それがアイデンティティの獲得なのである。これ はまさしく教育の過程なのだ。ドナルドが将来学生になるか社会人になるかわからず、かっ両親 を親として誇りにも思ってもいないことは、まさしく彼のアイデンティティの欠如を物語ってい

る。

 フェリシティの場合は、ある意味でドナルドよりも深刻な状態にある。フェリシティの語源は

「幸福」を表す μ三κ である。だが皮肉なことに、彼女はまったく幸福ではない。私は彼女は 精神的障害にかかっているのだと思う。たとえ、マートックー流の象徴主義が彼女のキャラクタ リゼーションに関わっているとしても、小説の流れに従えば、彼女の精神障害は明瞭であると思 う。彼女は亡霊を見ることができる。ライフィー(Liffey)という、かつてモア家で飼われてい た犬の亡霊である。透明な身体をもつライフィーの亡霊を、彼女は家族の思い出のいっぱい詰まっ た庭や野原で見ることができる。たかが、犬と思ってはいけない。この犬はかってモア家の人々 が幸せに暮らしていた頃の、家族の絆となっていたのだ。イギリス人の大好きを差し引いても、

ライフィーは家族にとって特別の存在だった。この犬をただ一人「見える」と言い張るフェリシ ティは、その精神の根底では失われた家族愛を取り戻したいと願っているはずである。もう一つ、

フェリシティが見えると主張するものに、アンガス(Angus)という大人の男性がいる。このア ンガスは亡霊ではない。まったく普通の生きた男性である。フェリシティが言うには、アンガス はいろんな男性に姿を変えて現れ、彼女に目配せをしたり、軽く会釈をしたり、何らかの好意的 行いをしてくれ、かっ啓示を与えてくれる存在である。私が注目したいのは、アンガスがその場 によって姿を変えうること、そして彼が中年男性であることである。私はアンガスとはフェリシ ティにとって父親の代理的人物であると思う。父のように人生で困ったときに現れ、お告げや示 唆を与えてくれる自身の守り主たるアンガスは、フェリシティには父の果たすべき行為を行って くれるのだ。また誰がアンガスであり、誰がアンガスでないかは、まったく彼女自身の恣意的判 断に任されている。彼女は主観的にアンガスを決定できるのだ。主観的に己の守護者を決められ

るということは、彼女が常日頃父親的人物を求め、守護されたい、愛されたいという願いに満ち 満ちていることを表してはいないだろうか。ちょっとした好意を示しただけで、この人はアンガ

スだと決めてかかることは、彼女の愛に飢えた心を表していると思う。

 このフェリシティも将来には開かれていない。タイピストになるっもりは、はっきりいって彼 女にはない。小説の最後にぽろりと学校に残ることをほのめかす彼女の態度に、それは明快だろ

う。彼女にとって重要なことは、アンガスを実際の父親とだぶらせて見ることである。彼女はア ンガスを見てはならないのだ。それはどこにもいない、夢の中に描いた父親像なのだから。

2.父の影の下に

 レインにとって、「砂の城」とはどういう意味をもつのだろうか。私は「砂の城」とは、この 作品中二様の意味をもっと思う。一っ目は比倫的レベルでしか語りえない。「砂の城」は比喩的

にモアの家庭そのものを表している。乾ききった、互いに分裂した家族関係しかないこの家庭は

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まさに「砂の城」てあろ㌔これは一目瞭然である。そして・雨を表すレインが「砂の城」に降っ たとき、何が起こるかは読者に明瞭であろう。「砂の城」は崩れ落ちるしカ、ないのだ。もう一つ、

ここで問題にしたいのは、「砂の城」はレインの思い描く、父親との二人だけの家庭であるとい う点であ乱彼女はセント・ブライス校訪問時に、モアにこう語ったことがある。

 I reca11,as a chi1d,seeing Pictures in Eng1ish chi1dren s books of boys and gir1s p1aying on  the sand and making sandcast1es−and I tried to play on my sand.But a Mediterranean  beach is not a p1ace for p1aying on.It is dirty and very dry.The tides never wash the  sand or make it firm.When I tried to make a sandcast1e,the sand wouユd just run away  between my fingers.It was too dry to ho1d together.And even if I poured sea waterover  it,the sun wou1d dry it up at once.(72)

 この具体的に言語化される「砂の城」は、レインにとって父親との家庭を表していると思う。

イギリスの子供たちの遊びを真似ることは、彼女が家庭の団簗へ愛着を抱いていたことを物語っ ているであろう。彼女がイギリスから遠く離れていることを思い起こせばよかろう。しかし、彼 女は現実には存在しない家族愛に憧れているのではなかろうか。指の間からサラサラと落ちてい く、乾いた砂は決して城にはならない。子供時代の彼女の徒労な試みは、現実にはない家庭をも ちたいという願いに発しているのだと思㌔実際、父親は厳しい孤高の芸術家であっ㍍その父 親によって、彼女は毎日絵画の指導を受けるのである。彼女が地中海を a me1ancho1y sea

(72)とか a tide1ess sea (72)と呼ぶとき、変化に乏しい父親との陰欝な生活の陰影が彼女 の心に射し込んでいるのであろう。毎日彼女は海を眺め、父親と暮らしたはずなのだから。だか ら・二つ目の「砂の城」はレインの記憶にあった過去の城であ乱ただし・話はこれだけではす まない。「砂の城」は彼女の心の中に、モアとの関係の中で回帰する現在の城でもあるはずだ。

モアは彼女とのロンドンでの逢い引きの直前にこんな思いにとらわれたことがある。

 Perhaps he was no more to her than an ephemera1father figure,endowed by the pain of  her recent bereavement with a size1arger thanユife? (231)

 モアは自らがピエロ的に彼女の父親願望を満たしているだけではないかという疑念をもつ。こ の疑念について、彼らは実際長々と話しこんできたのである。彼らの関係の最初から、レインが モアに父親をだぶらせて見ていることが二人の間で疑われてきたのだ。つまり、「砂の城」はレ インがモアともちたいと願っている家庭という意味も含むのである。それは未来に属する城でも あるのだ。レインがこうして一貫して父親の影響力の下にあり続けてきたのは明らかだろう。

 レインの問題は父親の影を振りきれるかどうかということである。それに重要な示唆を与えて くれるのが、デモイトの肖像画である。私は最初彼女は父親の目を通してデモイトを描こうとし ていたのだと思う。われわれはこうした一節に注意を向けるべきである。

 Rain a1so fo11owed Sidney Carter s system of painting the background first and1etting  the main subject grow out of the background and dominate it and if necessary encroach  upon itl..In particu1ar,she reca1}ed her father,s dictum: A1itt1e piece of serious paint  upon the canvas wi11te11you a1ot about the rest.Put it on and s1eep on it.  (105)

 レインの芸術には父親の技法が染みついていた。父親の教えは彼女にとって遵守すべき金科玉

条であった。ただし、問題は技芸上のことにとどまらない。真の問題は、芸術作品を創造する上

で父親ならこの対象をどう見るかという視点にこだわり、己自身の視点を見失ってしまうという

ことなのである。これはある種の迷妄の世界への入り口がもしれない。ともあれ、問題は認識上

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のことなのだ。彼女は父親の教えに従い、 Every portrait is a se1f−portrait,...In portrayi㎎

you I portray myse1f (106)と言う。これに対し、デモイトは端的に Your father...taught youmanythings,butyouareyourse1fadifferentbeingandmust!iveso (107)とやり返 す。彼女は自分にとって最も大事な芸術的スタンスを既に理解している。それは対象を己の目で 見て理解し、内面に取り込み、そして描出することである。しかし己自身の目で見ているっもり でも、それが父親の視点ではないという保証はどこにもないのである。自分自身の視点を求めつ つ、彼女は幾ら描いても満足のいく肖像画ができない。しかし後に述べるように、この状況から レインはモアという父親代理的人物との恋を諦めることによって、己自身で生き抜くという生の 局面に開かれ、救われるのだと思う。

 次に、モアとの会話から見て取れる彼女の芸術観を検討してみよう。彼女にとって肖像画を描 くことは、絵の対象人物の内面を理解することを意味していた。彼女がモアに言う次の言葉は意 味深い。

 As you wi11rea1ize,Painting a portrait is not just a matter of sitting down and paint1ng  what you see.Where the humaηface is concemed,we interpret what we see morθimmθ一  diately and more profound1y than with any other object.(45)

 目に見えるものを描写するのではなく、理解したものごとあるいは人間性を描出することが肖 像画の場合には肝要なのだということらしい。ある種、ロマン的な描出的芸術観がここにはある。

とは言っても、レインは言葉を継ぎ Iam a professiona1painter,、..I am empユ。yed to paint ツ。αrMr Demoyte,not肌ツMr Demoyte (46)と断言する。ここに矛盾を感じ取るのは私だけ だろうか。人間性の本質までえぐり取るように描いてこそ肖像画であるという彼女と・プロとし てお望みのデモイトを描ききるのが与えられた仕事だと割り切る彼女の間には大きな懸隔がある のではないか。後者のプロ意識へと戻る姿勢は、芸術家としての自己意識からの逃避であろう。

彼女は自分が理解したデモイトを、そして皆を感動させうるデモイトを描かねばならない。だが、

どうしても彼女はデモイトが理解できないの札彼女が四苦八苦して描いた絵は・まことに見事 な写し絵であった。美術教師のブレッドヤード流に言えば・細やかなる線の集まりであるが・色 彩や光のマッスとして人に感銘を与えるものではなかった。微に入り、細を穿ったデッサンでは あるが、その線はか細く、とうていデモイトの威厳を表したものではなかった。ほとんどの人が その絵は完成品だと思い、誉め称えるが、レインには幾ら描き足しても描き足しきれないほど絶 望的に不完全な絵であった。ブレッドヤードはこの絵には死すべき運命の人間が描かれていない と喝破する。それは失敗作であった。とりわけ父親の肖像画にはあった額を中心とした質量感や 威厳が、まったく彼女の絵には欠如していたのである。矛盾するようであるが、額を中心として 質量感を出すことは父親の手法に戻るようでいて、彼女自身の作風を確立することでもある。人 間性の威信、その人の歴史を捉えることは芸術家としても一個の人間としても成熟しなければで きないことなのだ。彼女が目指すべき方向は父親の作風を我がものとして受容し、自分の人間理 解カを発揮し、対象者の人間性を描出することである。それは父親の芸術観を取り入れつつ、同 時にそれを己のものとして発展させることであった。

 父親の影の下にレインがいることを如実に表したのが、ロンドンの親娘絵画展に出品された彼 女の奇妙な作品である。その中では親娘が向かい合って登場し、レインはキャンパスに向かい、

その絵画と同じ絵画を描いている。もちろん、遠近法に従って絵の中の絵は随分縮小されている

のではあるが。また父親は手を鏡にかけ、その鏡には娘の顔が写っている。互いの顔がすぐ近く

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に並んでいるわけだ。ベラスケス(DiegoVe1azquez)の『侍女たち』(ムαsMeη三ηα8,c.1656)

よろしく、絵画の中に絵画を描く己を登場させる手法は、何やら錯綜した視線の力学を感じさせ る。ただ、われわれが捉えそこなってはいけないのは、父親の影響の下にレインが閉じ込められ ているというこの絵画のモチーフである。父親とともに同じ空間を共有し、視線の力学で緊密に 父親に結びつけられたレインは、繭のような父親の影響圏に幽閉されているように思える。親娘 絵画展において、レインはモアにこのように語った。

 My father was such a powerfu1painter,and such a str㎝g pers㎝a1ity,I was practica11y  made in his image.It wi11be a1ong time before I know what I have in myse1f.(237−38)

 自分という存在は父親のイメージの中でつくられたのならば、自分の視点と父親の視点の判別 は難しかろう。この父親の影響圏からの離脱は、実に意外な仕方で小説の最終部分で起こる。

3.現実への帰還

 『砂の城』の主要登場人物は、夢の世界あるいは囚われの世界から現実の世界に戻ってくるこ とにより、自己成長を遂げ孔それはアイデンティティの獲得という学習の過程でもあ孔言い 換えれば自分自身で痛い目に遭い、自己と回りの世界をより鋭く意識化して捉えるという過程を 経て、彼らは己の生き方を自ら選び取るようになるのだ。ここには何人も代わりになってくれな

い経験主義による自己成長のドラマがあるのだ。

 ナンという女はどのように自己変革を遂げるのであろうか。彼女は徹頭徹尾日常の女である。

その堅牢な日常性の中に、蜘蛛の巣よろしく、彼女は夫を完全に捕まえていると思っていた。夫 自身がその妻の強力な引力圏をこのように恐れてい糺

 In her presence,in the overwhe1ming atmosphere of her persona1ity,his arguments simp1y  did not begin to exist.Mor was astonished yet again at the tremendous strength of his  wife.(145)

 しかしながら、ナンの日常性への信頼はあっけなく裏切られてしまう。夫のレインとの浮気が 原因であった。ナンの日常性の鎧はずたずたに裂かれ、彼女の自我は素っ裸にされてしまう。彼 女は年中行事のドーセット(Dorset)への夏季旅行にフェリシティと一緒に行っている最中に、

娘とドナルドとの電話を盗み聞きして、夫の浮気を知るのである。それ以前にモアがレインと一 緒に車で近郊の森に出かけ、事故を起こした事件は、ティムの隠蔽工作も手伝ってナンには危険 な兆候とは思われなかった。ナンはフェリシティを残し、慌ただしく帰宅する。折悪く、モアは レインを呼び寄せ、自宅で抱き合っていた。レインは泊まることを断るっもりであったが、土砂 降りの雨のため、彼の家に泊まらざるをえなかったのである。彼らの同会している姿を目撃した ナンは電気に打たれたようなショックを受ける。ナンは凍りっいたように二人と目を合わせた。

決してありえない光景であった。今まで完全にその動きを掌握していたはずの夫が自分を裏切る などとは、彼女には思いも寄らなかった。慌てて彼女はその場を去り、ティムの宝石店へとバス で向かう。猛烈な雨の中を歩き、彼女はびしょ濡れであった。ティムは優しく彼女のコートを脱 がせ、慰めの言葉をかけ、酒を勧める。ティムは大胆に彼女を抱きしめるが、その最中にナンは 一つの覚醒に至る。それは彼もまた慰められたがっているということである。彼は誘惑者ではあ るが、支配者ではないのだ。彼が子供時代の話を始めるのを制止し、ナンは現実に立ち向かう。

 夫の浮気がナンに及ぼしたことは、生きる上でもっと意識的になるということである。今まで

夫と交わしてきた話は、眠っていてもできるような決まりきったものであった。彼女の意識は不

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活発かっ鈍重であった。しかし、彼女はこのように夫婦の世界は変わってくると直感する。

 But from now on aユ1speech between them wouユd have to be invented.The words spoken  wouユd be new things,composing new wor1d.(196)

 意識化の方向性は明瞭であるが、ナンには意識的生き方は苦痛であった。帰宅してからのナン を描くマードックの筆はリアリズムに徹している。ドアが閉まっていたのがわかったナンは、夫 を避け一人で窓から居間に入ろうとする。意固地にスカートのまま大股を広げ、足を窓の桟にか けてよじ登る主婦の姿は哀れである。それを庭の方から眺め、危険だからやめろとおどおどして 叫ぶモアとの対比はユーモラスであり、見事な風俗小説の相貌をこの作品に与えている。ナンは 彼女の靴を壁で叩いて泥を落とそうとする夫を壁紙が汚れるからよせと怒鳴りつける。すぐにぺ一

スはナンのものとなる。徐々に日常の空気が二人の間に流れ始める。しかし、夫は最後の一線は 譲らなかった。モアはレインとの関係を絶つことを妻に面と向かって拒絶するのだ。ナンには予 想もできない夫の反抗であった。本気で自分に抵抗する夫を、彼女は生活の中で意識化せざるを えないのだ。夫は現実に生き、自分の娘ほどの年しかない娘を抱いたのだ。ナンは肉体として夫 を意識し、夫を愛おしく思い、欲情さえ抱き始める。自分自身を肉体のある女として意識化する のだ。この意識化の圧力は、小説の最後で彼女に一世一代の大芝居をうたせるのである。

 モアもまた同様に意識を現実へと向かわせる。その契機となったのは、ドナルドの塔登りであ る。ブレッドヤードの講演会のため、教師と生徒の全員が体育館に人っている。レインも来てい る。スライドを写すために照明を落とした中、モアとレインは悦惚感に満ち、暗闇の中で手を握 り合い、愛の言葉を交わ九そこにドナルドとカードが学校の塔に登っているという報告が入っ てくるのだ。モアは恐怖の戦傑にうたれる。ここには、ブレッドヤードの講演を台無しにしよう

とする生徒たちの悪戯を喜ぶモアヘの罰の意味が込められている。というのは、この講演会の前 にブレッドヤードはモアに重要な警告を行っているからだ。その警告はこうである。

  There is such a thing as respect for rea1ity.You are1iving on dreams now,dreams of  happiness,dreams of freedom.But in a11this youconsideron1yyourseユf.Youdonot truIy  apprehend the distinct being of either your wife or Miss Carter.1(213)

 この美術教師はマードックのマウスピース的人物であろうが、夢から現実へという小説の流れ を的確に表現している。モアは実体としての妻とレインを捉えておらず、自己の幸福にのみ執着

している。このモアはドナルドの無謀な行動によって、激しく現実の世界に叩きつけられるのだ。

セント・ブライス校では塔に登った生徒は、放校されるという規則がある。大学進学など望まぬ ドナルドの一か八かの賭がこの塔登りであっ㍍しかし哀れにもこれら二人の生徒は塔の先端に 登りきる前に既に体力が尽き、落下する寸前であった。カードはほどなく生徒たちの用意した毛 布の山の上に落ちてしまう。より高いところにいるドナルドも疲労困懲し、今にも塔の斜面から 落下しそうだ。消防自動車が到着するまで、彼はとてももちこたえられそうにない。息子を助け たい一心で、モアは必死で奮闘する。同僚や教え子たちの助けを得て、彼は梯子を図書館の最上 階の書庫室から本館の屋根にかけることができた。力尽きたドナルドはその梯子の上に落下し、

彼は九死に一生を得る。こうした一連の動きの中で、モアは真の父親としての心の在り方を学習 するのである。息子への愛において、彼の心には何のとまどいもなかった。ひたすらに息子の無 事を願い、彼は as if with the very force of his wi1ユhe cou1d keep his son form fa1hng

(259)というように純粋な父親の気持ちを得るのである。こうしてモアは息子には息子の意志が

あり、息子はただの生徒の一員ではなく、肉体をもちかつ苦悩する存在であると身に受けとめて

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理解するのである。

 こうしたショックにもかかわらず、最も現実に目覚めるのが遅いのはモアである。ドナルドは 目覚めた後、その場から全力で逃げ出し、行方をくらましてしまう。モアはレインヘの思いを断 ち切れない。ナンの不安は頂点に達する。そうしたモアにもう一撃が加えられる。思いもかけな いナンの復讐であった。デモイトの肖像画の完成記念披露宴が、セント・ブライス校で開かれる ことになっていた。その披露宴の最後にはナンの挨拶が予定されていたのである。披露宴に現れ たナンは妖艶であった。入念に化粧を施し、大胆に胸部が開いたドレスを着ていた。女として、

最大限の努力をしたのであろう。平凡な中年主婦が見事に変身し、好色な貴族の関心を釘付けに していた。そのナンがとんでもない裏切りをしたのである。彼女は挨拶の中で、緊張しつつも、

はっきりとした口調でこのように発言したのであ乱

 After aユ。ng period of patient work,my husband has now the great happiness of being  ab1e to rea1ize his1ife−1ong ambition.The nearby borough of Marsi㎎ton have decided to  adopt him as their Labour candidate−and as we know,Marsington,with a11respect to  those present who are of the other party,is a safe Labour seat.(293)

 おそらく、何度も練習したのである㌔彼女の話しぶりは完壁で、何の沈みもなかった。披露 宴の出席者は皆一様に驚いたが、いちばん驚いたのはモアであっれこの復讐は完全に彼を打ち のめしてしまう。もはや、彼はレインと逃げ出すことはできなくなった。彼はマーシントンとロ ンドンの事務所に釘付けとなり、ナンの元からは離れても、レインと会う自由はなくなってしま うのだ。ナンは夫が国会議員になることには反対であった。彼女は肉を切らせて骨を断つの道理 で・夫を手放しても、レインの元にやることだけは拒んだのであ孔完壁な復讐であっれデモ イトはモアの勝手な決定に激怒し、レインはその場から走り去ってしまった。しかし、モアには これは彼をよりいっそう現実へと連れ戻す体験であったはずである。ナンという地味な妻にも女 としての意地があり、女としての血が息づいていたのである。彼女にも守られるべき地位があり、

それはけっして疎かにしてはいけないものなのであった。

 しかし、モアはまだ完全には現実に向かい合うことができない。マードックの筆は残酷なほど この中年高校教師の愚鈍ぶりを描ききる。彼はレインを探し求め、彼女の車のライリー(Ri1ey)

を手がかりにして彼女が再び披露宴会場に戻ったことを知る。誰もいない披露宴会場で、彼女は 真っ白なドレスを絵の具でべとべとに汚しながらデモイトの肖像画の修整に取り組んでいたので ある。レインは涙を流しながらも、黙々と何かに取り懸かれたように絵筆をふるっている。モア は彼女の登った脚立に綻りっきながら、必死で誤解を解いてくれと懇願する。モアとレインの対 比は鮮やかである。レインははっきりと二人の関係を断つべきだと言いきる。このようにである。

 You are a growing tree.I am on1y a bird.You cannot break your roots and f1y away  with me.Where cou1d we go where you wou1dn t a1ways be wanting the deep things that  be1ong to you,your chi1dren,and this work which you know is your work? (300)

 彼女はモアが帰属すべき場所を知っているのだ。それは彼の家庭である。また、彼女はモアの 生涯の仕事を知っている。それは政治学の著書の執筆であり、政治家として活躍することでもあ

る。彼女はモアの向かうべき方向を示唆し、お互いに自己実現を目指すべきだと言うのだ。モア

がどんなに説得しても、彼女の意志は固かった。モアはどうしようもなく引き下がるが、まだ迷

妄から現実に目覚めていない。情けないことに、彼は翌日早朝にフレイリング邸を訪れ、もう一

度レインに会いに行㍍しかし、もうレインは旅立った後だっれ文字通り小鳥のように。

(11)

 私は前にレインは芸術的達成に対して、父親の視点にこだわり、己自身の視点を見失っている と言った。それは偉大な父親による精神的拘束であった。レインはモアを通じてこの父の影響力 から逃れたのではないだろうか。モアという父の霊のいわば依代を捨て去り、彼女はぎこちなく はあるが勇気をもって己の捉えたデモイトを描くことができた。最終的にできあがった肖像画で は、繊細な線が消え失せ、何層もの小さな色彩の点が取って代わっていた。モアの印象では、デ モイトの顔つきはこのようであった。

 The head stood out now so1dier,ugユier,the expression no1onger conveyed by the detaiユs,

 but seeming to emerge from the deep structure of the face.(309)

 モアには以前のレインらしさがなくなり、陰欝さの増したデモイトの表情が好きではなかった。

しかし、それは紛れもなくレインが己自身の目で捉えたデモイトであった。たとえ手法が父親の それに似ているとしても、それは結果的にそうなったまでのことである。ふりかえってみれば、

ブレッドヤードはレインに偉大な画家の定義として、吃りながらこのように言ったことがある。

 The great painter the great painter is he who is humbユe enough in the presence of the  object to attempt肌ereZツto show what the object is1ike.But this肌ereZツ,in painting,is

everythi㎎.(76)

 レインは無心に対象に向かい、己を虚しくして、それを描出するという画法に近づきつつある。

もしもモアから別れた後にデモイトをモデルにする機会があったなら、彼女はひたすら謙遜的姿 勢に徹し、この前校長の人間性をキャンバスに浮かび上がらせたことだろう。確かに、彼女は一 流の画家に向かって進歩しつつあるのだ。

 『砂の城』は錯綜する人間関係と象徴的場面を重ね合わせ、全体として幻想に懸かれた状態か ら現実へと目覚める人間たちのありさまを提示してくれる。象徴的場面としては、モアの前に三 回現れるジプシーが挙げられねばならない。彼はモアとレインの関係の推移を追って登場する。

すなわちモアとレインの森へのドライブ中、レインがモアの家に泊まった翌朝、モアが最後にレ インに会うためフレイリング邸を訪れる朝の三回である。こうして見ると、ジプシーはモアの罪 意識を暗示しているようである。ただしジプシーは近隣をうろっいているだけであり、無理に登 場させられたという印象を読者に抱かせることはないだろう。フェリシティのオカルト趣味にし ても、彼女の家庭での疎外感から発したものと考えれば納得のいくことである。つまりリアリズ ムが無理なく象徴的場面と結ひっき、人問心理に関わる独特の深みを作品に与えているのである。

 主要登場人物たちは、それぞれ夢の世界あるいは精神の麻痺的状態に捕らえこまれている。た とえばモアは子どもたちの意志には無感覚的であり、政治学の著作には漠然と憧れているだけで ある。ナンは日常性のヴェールの中に安住し、夫の政治的意志にも、ティムの誘惑の本質にも無 関心である。レインは父親の芸術的影響力の下で坤吟し、気がつけば父親の手法を追い求めてい る自分と闘っている。ドナルドとフェリシティはモア家の家族の一員としての意識が希薄で、そ れぞれ漫然と登山とオカルティズムに逃げ場を見出している。こうした彼らは次第に己のアイデ ンティティを獲得し、社会化への過程をたどる。モアは駆け出しの政治家として、ナンは国会議 員の妻として、レインは独自の視点をもった画家として、それぞれ社会における自己実現に向かっ て船出する。ドナルドとフェリシティも家族の一員であることを確認し、進路問題について積極 的に取り組もうとする。この一連の過程は己と己を取り巻く人間的環境をより鮮明に意識化し、

己のアイデンティティを社会に定着させていく動きだと言ってよい。マードックが訴えたかった

のは、そうした人間の成長に関わる因子が自己教育力として、各人物たちにあたかも種子のよう

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に備わっていることなのである。自己認識を獲得し、社会化を遂げる学びの過程は己を教育する 発達臨床の過程でもある。迷妄から覚醒へという軌跡を描く人間成長の動きは教養小説における 特徴でもあるし、マードックのもつヒューマニズムの現れでもあろう。この小説では、自己形成 に関わる人間の遇しさと意志の強さのドラマが展開されているのである。

参考文献

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