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久 富 木 成 大

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(1)

﹃春秋左氏伝﹄のなかには︑死および死後の霊魂の世界について︑

言及することが多い︒それは︑この古典が︑人間の社会生活の種々

のすがたを︑ことこまかに記述するという形式をとる以上︑それら

の人々の生活の帰結するところとして︑死の叙述をさけて通れない

からばかりではないである︾フ︒というのも︑その記述は︑死そのも

のにとどまることなく︑その後の霊魂の動向などについても︑まこ

とに多彩にえがいているからである︒それは︑そこに登場する人物

たちの︑霊界についての関心の深さに対応しているものであり︑﹁怪

力乱神を語らず﹂︵﹃論語﹄述而︶とか︑あるいはまた﹁鬼神を敬し 得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ はじめに 一運命から死の問題へ 二死と死後の世界 三異常な死をめぐって 四死の二つの相について

おわりに

注 はじめに てこれを遠ざく﹂︵﹃論語﹄雍也︶などといって︑意識して霊界のこ とにはふれなかったといわれる孔子でさえ︑﹃春秋左氏伝﹄のなかで は︑こうした方面のことに口をはさみ︑その社会の︑霊界について のイメージ作りに一役かっているほどである︵文公二年︶︒

小論においては︑﹃春秋左氏伝﹄においてとりあつかわれている死

の問題と︑そこにえがかれ︑展開されている死後の世界が︑どのよ

うなものであったかを示してみたい︒そして︑それらが︑登場人物

たちの︑いかなる精神の構造を反映しているのであるかということ

も︑あわせて考えてみよ︑フと思う︒

一︑運命から死の問題へ

①運命の存在に対する確信をめぐって

人間には︑はたして定まった運命とい︑7ものがあるのである︑フか︒

こ︑フした疑問は︑人間のこれまでの歴史を通じて︑あまねく︑絶え

ることがなかったである︑7︒﹃左伝﹄において展開される世界には︑

このことについての答えを示唆するかのような︑以下のごとき話題 久富木成大

一

九

(2)

が述べられている︒

○宋の武公︑仲子を生む︒仲子生まれて文その手に在ることあり︒

曰く︑魯の夫人と爲︵な︶らん︑と︒故に仲子︑我に歸︵とつ︶

げり︒︵宋武公生仲子︑仲子生而有文在其手︑日︑爲魯夫人︑故

仲子歸干我Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄隠公元年先經傳︶

宋の姓は〃子〃であるが︑その宋国の武公の次女は︑生まれつき︑

手のひらに〃魯の夫人〃︑または〃魯の夫人と爲る〃などと判読でき ① る掌紋があった︒ここに注を加えて︑杜預は︑つぎのようにいう︒

○手の理︵すぢ︶︑自然に字を成して︑天命の若きもの有るを以て︑

故にこれを魯に嫁せしむ︒︵以手理自然成字︑有若天命︑故嫁之

於魯︶ 〃魯夫人″などと読解しうる掌紋を︑天帝の啓示とみて︑そのこ

② とによって必然のこととして︑宋の武公の次女の仲子は︑長じて魯

国の国君に嫁せられたというのである︒このことが︑この女性にとっ

ては︑天帝︑つまり天の神に命じられた運命であり︑避けることの

できない道であると考えられたからである︒これに類似したことは

ほかにもあって︑以下のごとくである︒

○成季の將に生まれんとするや︑桓公︑ト楚丘の父をしてこれを

トせしむ︒曰く︑男なり︒其の名を友と日ふ︒⁝⁝生まるるに

及び︑文の其の手に在る有り︑友と日ふ︒遂に以てこれに命︵な

づ︶けたり︒︵成季之將生也︑桓公使卜楚丘之父ト之︑日男也︑

其名日友︑⁝⁝及生︑有文在其手︑日友︑逢以命之Ⅱ﹃春秋左

氏傳﹄閏公二年︶

また︑以下にあげる例も︑これと同様である︒ 得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

○武王の邑姜の方︵まさ︶に大叔を震︵はら︶めるに當たり︑夢

に帝︑己︵おのれ︶に謂ふ︑余︵われ︶而︵なんぢ︶の子に命

︵なづ︶けて虞と日ふ︒將にこれに唐を與へ︑諸を参に属して︑

其の子孫を蕃育せんとす︑と︒生まるるに及びて︑文その手に

在る有りて虞と日ふ︒遂に以てこれに命︵なづ︶く︒︵當武王邑

姜方震大叔︑夢帝謂己︑余命而子日虞︑將與之唐︑罵諸参︑而

蕃育其子孫︑及生︑有文在其手日虞︑逢以命之Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄

昭公元年︶

ここに︑つづけてあげた二例のうち︑前者は魯の桓公の子孫で︑

〃三桓″といわれた魯の名門の一つ︑季孫氏の祖︑成季のことをい

う︒後者は︑周王朝二代目の成王の弟で︑のちに晉に封じられ︑晉

国の祖となった大叔虞のことである︒成季の場合︑ト︵うらない︶

によって︑大叔は夢の〃お告げ〃により︑命名についての︑天帝の

命令がくだされる︒そして︑彼らが生まれたとき︑掌紋によって︑

〃︑うらない〃や〃お告げ〃の真実性が証拠づけられている︒そこで︑

〃友〃や〃虞〃と名づけられるのは︑天帝の命令であり︑彼らにとっ

ては︑避けられない運命であるとい︑うことになる︒

ここにあげた三つの例は︑いずれも掌紋をめぐって︑それを︑個

人に対する運命のくだったことの証拠としている︒そして︑それを

当然のこととして受け入れている︒ここにのべられた場合のよ﹃7に︑

結婚や命名は︑人間にとっての一生の大事といえよう︒それを︑こ

こでは︑掌紋のさし示す方向に︑易々として従っている︒これによっ

て︑﹃左伝﹄の登場人物達の精神のなかに︑運命という概念と︑それ

についての信仰とが︑形成されていたということがわかるのである︒

二

○

(3)

以下に︑われわれは︑運命と︑当時の人々のかかわり方とを︑も︑フ

すこし巾広く見ておきたい︒

②運命は人間にとって︑いかなるものか

運命とは人間を超えたもの︑例えば天帝とか諸々の神たちの意志

が︑人間の行為の方向を︑方向づけるものとして︑その存在が認め

られていたとい︑うことが︑前項の記述によって明らかになっている︒

では︑当時の人々にとって︑運命の持つ力そのものは︑どのような

ものとして︑とらえられていたのである︑フか︒

○晉の公子重耳⁝⁝鄭に及ぶ︒鄭の文公もまた禮せず︒叔層︵しゆ

くせん︶諌めて曰く︑臣聞く︑天の啓︵ひら︶くところは︑人

およばざるなり︑と︒晉の公子に三あり︒天それ或いは將にこ

れを建てんとするか︒君それ禮せよ︒男女姓を同じくすれば︑

其の生蕃︵しげ︶らず︒晉の公子は姫︵き︶の出なり︒而して

今に至れり︒一なり︒外の患ひに離︵あ︶ひて︑天︑晉國を靖

んぜず︒殆んど將にこれを啓かんとす︒二なり︒三士の以て人

に上︵かみ︶たるに足ることありて︑これに從ふ︒三なり︒晉.

鄭は同傍なり︒その過ぐる子弟も︑固より將に禮せんとす︒況

んや天の啓く所をや︑と︒⁝⁝楚に及ぶ︒:.⁝子玉これを殺さ

んと請ふ︒楚子曰く︑晉の公子は廣にして倹︑文にして禮あり︒

其の從者は粛にして寛︑忠にして能く力︵つと︶む︒晉侯︑親

なく︑外内これを悪む︒吾聞く︑姫姓は唐叔の後︑其れ後に衰

ふる者なりと︒其れ將に晉の公子に由らんとするか︒天まさに

之を興さんとす︒誰か能く之を塵せん︒天に違はば︑必らず大

筈あらん︑と︒乃ちこれを秦に邊る︒︵晉公子重耳⁝⁝及鄭︑鄭

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ 文公亦不禮焉︑叔倉諫日︑臣聞︑天之所啓︑人弗及也︑晉公子 有三焉︑天其或者將建諸︑君其禮焉︑男女同姓︑其生不蕃︑晉 公子姫出也︑而至於今︑一也︑離外之患︑而天不靖晉國︑殆將 啓之︑二也︑有三士足以上人︑而從之︑三也︑晉鄭同櫻︑其過 子弟︑固將禮焉︑況天之所啓乎⁝⁝及楚︑:⁝・子玉請殺之︑楚 子日︑晉公子廣而倹︑文而有禮︑其從者粛而寛︑忠而能力︑晉 侯無親︑外内悪之︑吾聞︑姫姓︑唐叔之後︑其後衰者也︑其將 由晉公子乎︑天將興之︑誰能震之︑違天︑必有大筈︑乃邊諸秦Ⅱ

﹃春秋左氏傳﹄僖公二十三年︶

晉国は献公の晩年︑自分の生んだ子を太子に立てようとする籠妃

の策略のおかげで︑国内が乱れた︒彼女の中傷と︑献公への譜言と

が原因となって︑公子重耳は臣下をひきつれて︑外国へ出奔し︑諸

国を放浪することを余儀なくされた︒こうして︑重耳が通過するこ

とになった国々では︑その取扱いをめぐって︑さまざまな問題がお

こった︒ここに引いた文中にあげられている国々のうち︑まず︑鄭

国においては︑大夫の叔層が重耳のことを︑﹁天の啓くところは︑人

およばざるなり﹂という︒このことについて︑﹃春秋左伝正義﹄は︑

つぎのように解説する︒

○啓は開なり︒凡そ是れ天の道を開く者は︑人の能く及ぶところ

にあらず︒︵啓︑開也︑凡是天開道者︑非人所能及︶

即ち︑大夫叔倉は︑重耳は︑天が彼を助けてその前途を洋々たる

ものにしよ︑フとしていて︑そのため︑人力ではそれを妨げることは

できないのだとい︑フ︒そして︑さきの引用文に見られるように︑天

帝が重耳を助けている証拠は︑三つあるという︒

一一一

(4)

一方︑楚の国では︑重耳を殺すべし︑と主張する臣下の意見を︑

成王はおさえた︒そして︑﹁天まさにこれを興さんとす︒誰かよくこ

れを廃せん︒天に違はば︑必らず大筈あらん﹂といった︒つまり︑

天が助けて︑あることを成させようとしている者に対しては︑人間

は︑それを妨げることはできない︒それどころか︑そのょ︑フなこと

をすれば︑天から禍いを受けることになるという︒

天から助けられているもの︑それはまた︑天によって運命づけら

れているものということができる︒重耳をめぐる︑鄭と楚の︑この

話題は︑運命によって︑あることを実現すべく︑厚く保護されてい

る人間が存在するということを︑まず我々に教えてくれる︒そして

また︑そのような人物の運命は︑他人によって妨げられるものでも

なく︑そのようなことを企図する人間は︑天によって罰せられるの

だということがわかった︒

しかし︑人間と運命とのかかわり方は︑重耳の場合のように︑常

にあるのではない︒以下のような例にも注目しておこ︑フ︒

○盧蒲婆いはく︑彼は君の譽なり︒天あるいは將に彼を棄てんと

す︒彼︑實に家は乱る︒子︑なんぞ病︵うれ︶へん︒崔の薄き

は︑慶の厚きなり︑と︒⁝⁝慶封⁝⁝盧蒲婆をして甲を帥ゐて

以て崔氏を攻めしむ︒⁝⁝國人をしてこれを助けしむ︒遂に崔

氏を滅ぼし⁝⁝其の妻縊る︒婆︑崔氏に復命し︑且つ御してこ

れを歸す︒至れば則ち歸るべきところ無し︒乃ち縊る.︵盧蒲婆

日︑彼君之譽也︑天或者將棄彼美︑彼實家凱︑子何病焉︑崔之

薄︑慶之厚也︑⁝⁝慶封⁝⁝使盧蒲婆帥甲以攻崔氏⁝⁝使國人

助之︑逢滅崔氏︑:.⁝其妻縊︑婆復命於崔子︑且御而歸之︑至 得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

則無歸美︑乃縊Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄襄公二十七年︶

斉の崔杼は︑国内の権力をほしいままにし︑魯の襄公の二十四年

︵西暦紀元前五百四十八年︶には︑その君︑荘公を殺した︒このこ

とによって斉国における彼の専権は︑ゆるぎないものとなった︒し

かし︑彼の家は︑再婚した妻が連れてきた子供と︑先妻の子供との

あいだで相続問題がこじれ︑乱れていた︒慶封の属大夫︑盧蒲婆は

このような崔杼を批判して︑つぎのようにいった︒天帝は崔杼をす

でに見すてている︒今や彼の権力は斉国第一である︒しかし︑主君

殺しの罪を犯しているために︑彼の運命は︑すでに尽きてしまった︒

彼の家が今︑乱れているのは︑その証拠に外ならない︑と︒このこ

とばをうらがきするかのように︑崔杼とその一族の破滅は意外に早

く︑その年の︑うちにやってきた︒九月庚申の日︑崔杼が帰宅してみ

ると︑盧蒲婆にひきいられた國人たちの攻撃を受けて︑家は破壊さ

れ︑一族も殺されていた︒そして妻は縊死して果てていた︒今や︑

帰るべき家もなく︑迎えてくれる一族郎党も妻もないという状況の

もとで︑崔杼自身もまた縊死して︑妻のあとを追ったのである︒崔

杼に課せられた運命は︑このように厳しいものであった︒

個人の運命は︑重耳と崔杼の場合のように︑入ごとに多様である︒

では︑人間に対して︑このように運命をくだす天帝への人々の反応

には︑どのよ︑フなものがあったであろうか︒

○陳の慶虎・慶寅︑公子黄の偶︵せま︶らんことを畏れ︑これを

楚に憩︵うった︶ふ⁝⁝公子黄まさに出奔せんとし︑國に呼び

て曰く︑慶氏無道にして︑陳國を專らにせんことを求めて︑其

の君を暴蔑して︑その親を去︵す︶つ︒五年にして滅びずんば︑

一一一一

(5)

是れ天なきなり︑と︒︵陳慶虎・慶寅畏公子黄之偏︑憩諸楚・⁝:

公子黄將出奔︑呼於國日︑慶氏無道︑求專陳國︑暴蔑其君︑而

去其親︑五年不滅︑是無天也Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄襄公二十年︶

○公子黄︑二慶を楚に憩ふ︒⁝⁝慶氏︑陳を以て叛く︒:⁝・陳人

城︵きづ︶き︑板おちて人を殺す︒役人あひ命じて各々その長

を殺し︑遂に慶虎・慶寅をも殺す︒楚人︑公子黄を納る︒君子

謂ふ︑慶氏の不義は︑蝉︵ほしいまま︶にすべからざるなり︒

故に書に曰く︑惟︵こ︶れ命︑常に子︵おい︶てせず︑と︒︵公

子黄憩二慶於楚︑⁝⁝慶氏以陳叛︑⁝⁝陳人城︑板隊而殺人︑

役人相命也︑各殺其長︑遂殺慶虎・慶寅︑楚人納公子黄︑君子 ③ 謂︑慶氏不義︑不可犀︑故書日︑惟命不干常Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄

襄公二十三年︶

陳の卿である慶虎と慶寅は︑公子黄が自分たちの権力を奪うので

はないかということを恐れた︒そのため︑彼ら二慶は︑公子黄をお

としいれようとして︑楚に訴えた︒公子黄が楚に背いて︑晉につこ

うとしていると︑虚偽の報告をしたのである︒そのため︑公子黄は︑

みずからの潔白を証明しようとして︑進んで晉へ出奔した︒國を去

るにあたって︑彼は︑国民に二慶の悪をばくろし︑かつ五年以内に

慶氏が亡びないなら︑天命などというものには︑信をおき難いと主

張した︒その三年後のこと︑公子黄の言い分をとりあげた楚が︑慶

氏を攻める軍を起こした︒それに対抗するために陳では城壁をきず

いたが︑その工事中の事故をきっかけにして突発した工夫たちの反

乱によって︑慶虎・慶寅の両人は殺害されてしまった︒こうした経

緯をへて︑公子黄の正しさが認められ︑陳に彼は復帰することがで

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ きたのである︒こうした一連の出来ごとと︑彼が国を出るとき国民 に訴えた言葉とを関連させ︑人々は︑天のくだす運命の公平さ︑ひ いては天そのものの正しさを称讃したとい︑フ︒したがって︑人々は︑ 天とその天のくだす運命とい︑フものに︑深い信頼の念を寄せるよう になったのである︒一方また︑つぎのような例もある︒

○嬰︑夢む︑天︑己に謂はしむ︒余を祭れ︒余︑女︵なんぢ︶に

輻せん︑と︒士貞伯に問はしむ︒貞伯曰く︑識らざるなり︑と︒

既にして其の人に告げて曰く︑榊は仁に輻して淫に鯛す︒淫に

して罰なきは幅なり︒祭らばそれ亡︵に︶ぐるを得んか︑と︒

これを祭るの明日にして亡げたり︒︵嬰夢︑天使謂己︑祭余︑余

輻女︑使問士貞伯︑貞伯日︑不識也︑既而告其人日︑榊輻仁而

禍淫︑淫而無罰︑幅也︑祭其得亡乎︑祭之之明日而亡Ⅱ﹃春秋

左氏傳﹄成公五年︶

晉の趙嬰は︑自分の甥の妻︵Ⅱ趙荘姫Ⅱ晉の成公の公女︶と淫ら

な関係におちいっていて︑そのことは広く人々に知れわたっていた︒

その趙嬰の夢の中で︑天帝がある人に対して︑﹁趙嬰が私を祭れば︑

私は趙嬰に幸福を授けるであろう﹂といっていた︒この夢を占った

士文伯は︑本心をかくして︑趙嬰には︑﹁わかりません﹂とのみ答え

た︒しかし︑自分の従者には本心を明かして︑本来なら︑趙嬰は神

罰をこうむるはずであるが︑神を祭れば︑せいぜい亡げおおせるく

らいはできるであろう︑といった︒事実︑趙嬰は︑天帝を祭った翌

日︑無事に斉国へ亡命することができた︒﹃左伝﹄においては︑趙嬰

のその後については︑何も記していない︒一方︑趙嬰の不義を責め︑

その出奔のきっかけを作った二人の兄たちは︑三年ののち︑趙荘姫

一一一一一

(6)

の晉侯への謹言によって討たれ︑死亡した︒一般の人物︑例えば︑

さきの士貞伯のごときは︑﹁神は仁に福して淫に鯛す﹂と思っている︒

しかし︑趙家をめぐるこの一連の事件では︑仁者である二人の兄に

禍いがくだり︑淫者たる趙嬰が亡命しおおせたのである︒人々の︑

天帝と︑そのくだす運命への疑念も︑このような場合には︑当然の

こととして生じたと考えられる︒

以上のべたように︑天帝︑つまり天の神や︑他のもろもろの神々

が︑人間に対してくだす運命への反応は︑﹃左伝﹄の登場人物たちに

とっては︑非常に多様なものでありえたであろうことが明らかに

なった︒この項をおわるにあたって︑運命のことをめぐって派生し

てくる︑ある重要な問題にふれている︑一人物のことばに注目して

おきたい︒

○楚子疾︵や︶む︒大夫に告げて曰く︑不穀不徳にして︑少くし

て祗稜を主︵つかさど︶る︒生まれて十年にして先君を喪ひ︑

未だ師保の教訓を習ふに及ばずして︑多幅を應受せり︒是を以

て︑不徳にして師を鄙に亡ひ︑以て吐穆を辱しめ︑大夫の憂ひ

を爲せしこと︑其れ弘︵おほ︶いに多し︒若し大夫の霊を以て︑

首領を保ちて以て地に没することを獲ば︑唯だこれ春秋竈琴

︵しゅんじゅうちゆんせき︶の事に︑先君に禰廟に從ふ所以の

ものは︑請ふ︑霊もしくは属となさんことを︑と︒︵楚子疾︑告

大夫日︑不穀不徳︑少主吐穆︑生十年而喪先君︑未及習師保之

教訓而應受多輻︑是以︑不徳而亡師子鄙︑以辱祗穫︑爲大夫

憂︑其弘多美︑若以大夫之霊︑獲保首領以没於地︑唯是春秋電

夛之事︑所以從先君於禰廟者︑請爲霊若属Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄襄 得死と将死I﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

公十三年︶

ここに引いた文章は︑楚の共王が死にのぞんで︑大夫にのこした

遺言である︒それによると︑自分は︑国君というよき運命を与えら

れたにもかかわらず︑それにこたえることができなかった︒そして︑

不徳の行為のみが多かったのである︒このような自分ではあるが︑ ④ もし大夫のおかげで︑無事に天寿を全うして死ぬことができたら︑ ⑤ 論︵おくりな︶は︑思いきり悪くしてもよいから︑〃霊″か〃属″ぐ

らいにしておいてほしい︑というものであった︒共王は︑国君とい

う幸福を︑運命として与えられたという自覚があった︒そして︑こ

のよき運命のしめくくり︑もしくは連続として︑〃天寿を全うして死

ぬ〃という観念が出てきたものである︒〃天寿″さえ全うできれば︑

自分は失政もあったことでもあるから︑論などは︑どうでもよいと

い︑7わけである︒このよ︑フに︑この当時の人にとっては︑この世の

よき運命は︑天寿を全うして死ぬという︑よき死と︑死後のよき生

活というようなものと切りはなして考えられないものであったかの

ごとくであることが︑わかるである︑フ︒以下に章を改めて︑運命と

い︑フ観念の彼方にある︑死および死後の世界のことをとり上げてみ

たい︒

二︑死と死後の世界

①死後の世界

﹃左伝﹄においては︑死後の世界や︑あるいはまた︑それに関連

したことが話題として︑たびたびとり上げられている︒ここでは︑

一

■■■■■■■■■ロ■

四

(7)

それらの記述を手がかりにして︑そこに登場する人々のいだいてい

た死後の世界のすがたが︑どのようなものであったかを︑見ておき

たいと思︑フ︒ ㈲殉死をめぐって

○秦伯任好︑卒す︒子車氏の三子︑奄息・仲行・鍼虎を以て殉と

爲す︒皆︑秦の良なり︒國人これを哀しみ︑これがために黄烏

を賦す︒︵秦伯任好卒︑以子車氏之三子奄息・仲行・鋪虎爲殉︑

皆秦之良也︑國人哀之︑爲之賦黄鳥Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄文公六年︶

秦伯任好︑つまり秦の穆公が死亡した︒その死にのぞんで︑穆公

は︑当時︑名臣として名の高かった三人の若者に殉死を命じた︒大

⑥ 夫子車氏の︑その三人の子息が殉死したとき︑秦国の人々は﹁黄烏﹂

という詩を作って︑その死をいたんだ︒このことについて︑国内に︑

つぎのよ︑フな批判があったとい︑フ︒

○先王︑世を違るも︑猶ほこれに法を諾︵のこ︶せり︒而るを況

んやこれが善人を奪ふをや︒⁝⁝而る後に命に即く⁝⁝今︑縦

︵たと︶ひ法の以て後嗣に遣すもの無きも︑又その良を収めて

以て死す︒以て上に在り難し︒︵先王違世︑猶詰之法︑而況奪之

善人乎:⁝・而後即命⁝⁝今︑縦無法以遣後嗣︑而又収其良以死︑

難在上美Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄文公六年︶

昔の偉大な王たちは︑自分が死んだ後︑生きている人々の生活を

まず第一に重視した︒だから︑みずからの死の近いことを覚るとと

もに︑残された人々のために法律制度を確立することに着手し︑そ

れが成ったとき︑運命としての自分の死を受け入れ︑一人静かに死

に就いたという︒これに反して︑穆公は︑現世から良臣を奪いとつ

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ て︑自分の死後の世界での臣下として連れて行った︒これでは︑上 に立つ︑君主としての心がまえに欠けるところがあるとして︑強く 批判されたのである︒この批判のことばのなかにも明らかなよ︑フに︑ 穆公は死後における冥土の存在を確信しており︑そこにおいても現 世の君臣関係が再現され︑永続することを当然のこととして︑死ん でいったのである︒よりすぐった良臣三人に︑殉死を命じたのも︑ そのために外ならない︒

○魏武子に壁妾あり︑子なし︒武子疾︵や︶む︒頚に命じて曰く︑

必らずこれを嫁せよ︑と︒疾病︵やまひへい︶にして則ち曰く︑

必らず以て殉と爲せ︑と︒︵魏武子有壁妾︑無子︑武子疾︑命穎

日︑必嫁是︑疾病則日︑必以爲殉Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄宣公十五年︶

魏武子が病気になったとき︑息子の魏穎に︑自分が亡くなったあ

との愛妾の身の処し方について遺言し︑必らず再婚させるようにと

指示した︒しかし︑いよいよ死が迫ってくると︑魏武子は︑前言を

ひるがえした︒そして︑必らず殉死させるようにといいおいて︑死

亡した︒これは︑いよいよ死そのものに直面したとき︑魏武子には︑

死後の世界はやはり現世からの延長であると確信され︑そのために

は︑そこには愛妾との生活が再現されることが不可欠のことと思わ

れるにいたったからである︒もっとも︑現実には︑息子は父の死後︑

最後の父の命令は正気を欠いていたはずだとして︑それには従わず︑

まだ意識のはっきりとしていた初めの命令に従うべきであると考え

て︑彼女を再婚させた︒

○八月︑宋の文公卒す︒始めて厚葬し︑唇炭を用ゐ︑車馬を盆し︑

始めて殉を用ゐ︑器備を重くす:.⁝︒︵八月︑宋文公卒︑始厚葬︑

■■■■■■■■■■

一

五

(8)

用唇炭︑盆車馬︑始用殉︑重器備:⁝.Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄成公二

年︶

宋の文公が卒したとき︑宋国では︑初めて殉死を行わせた︒この

ときにはまた︑〃車馬″や〃器備″の副葬品も︑かねてより多くした

という︒ただし︑この副葬品のうち︑〃車馬″に関しては︑﹃春秋左

伝正義﹄の︑この条においては︑以下のようにいう︒

○禮の檀弓に記して曰く︑塗車・謁霊は︑いにしへよりこれあり︑

と︒鄭玄曰く︑謁霊は茅を束ねて人馬を爲︵つく︶る⁝⁝と︒

塗車を解せざるも︑當にこれ泥を用ゐて車を爲︵つく︶るべけ

ん︒︵禮檀弓記日︑塗車・謁霊︑自古有之︑鄭玄日︑謁霧束茅︑

爲人馬︑:::也︑不解塗車︑當是用泥爲車也︶

このように︑〃車馬〃は泥を固めて作った車と︑茅を束ねて作られ

た馬であり︑実際の車馬を縮少した模造品である︒〃器備〃について

は︑同じくこの条の﹃春秋左伝正義﹄では︑以下のようにいう︒ ⑦ ○器備といふものは︑士喪禮の下篇に︑明器を陳︵つら︶ぬと云ふ︒

用器は弓矢耒紹敦汗藥匝︑役器は甲冑干窄︑燕器は杖笠翌︒その器︑

共用の器あり︑備禦の器あり︒故に器備といふ︒︵言器備者︑士喪禮

下篇︑陳明器云︑用器︑弓矢耒紹敦汗藥匝︑役器︑甲冑干窄︑燕器︑

杖笠翌︑其器有共用之器︑有備禦之器︑故言器備︶

このように︑あらゆる器物をさすものであるが︑ここに﹃儀礼﹄

を引いて﹁陳明器﹂といっているが︑明器とは︑死者生前の愛用の

品々を模した副葬品のことである︒いずれにしても︑宋の文公の葬

儀には︑殉死者や︑たとえそれが模造品でも︑車馬や生活必需品が︑

すべてととのえられ︑遺体とともに葬られた︒これもまた︑死後の 得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

世界の存在への確信と︑それが現実の生活の延長ないしは再現とい

う考えが︑根底にあってのことである︒

○献公︑筍息をして実齊に傅たらしむ︒公疾む︒これを召して日

く︑この貌たる諸孤を以て辱く大夫に在り︒其れこれを若何︑

と︒稽首して對へて曰く︑臣その股肱の力を喝くし︑これに加

ふるに忠貞を以てせん︒其の濟るは君の霊なり︒濟らざれば則

ち死を以てこれに繼がん︑と︒公曰く︑何をか忠貞と謂ふ︑と︒

對へて曰く︑公家の利︑知りて爲さざる無きは忠なり︒性を邊

り︑居に事へ︑縄︵ふたつ︶ながら倶に猜ひなきは貞なり︑と︒

︵獄公使筍息傅実齊︑公疾︑召之日︑以是読諸孤︑辱在大夫︑

其若之何︑稽首而對日︑臣喝其股肱之力︑加之以忠貞︑其濟君

之霊也︑不濟則以死繼之︑公日何謂忠貞︑對日︑公家之利︑知

無不爲︑忠也︑暹往事居︑綱倶無猜︑貞也Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄僖

公九年︶

晉の大夫の筍息は︑幼い実齊の守り役であるが︑死に瀕した献公

から︑後事を託される︒そして︑もし︑実齊を国君の地位につける

ことが出来なかった場合には︑死ぬ覚悟であると︑献公にこたえた︒

ところで︑この当時の晉の情勢では︑公子が国君に立てないという ⑧ ことは︑殺害されるということを意味する︒したがって︑ここに筍

息の誓う〃死″は︑結局のところ︑殺害された実齊への殉死を意味

する︒一方︑筍息のあげる︑献公父子に仕える精神としての〃忠と

貞″のうち︑貞について考えてみよ︑7︒筍息は︑この貞を﹁亡くな

られた君と︑後つぎの君との両方に仕えて︑疑われることがないよ

うにすることである﹂とこたえている︒だとすれば︑この場合︑殉

一一一ハ

(9)

死そのものが︑この精神の︑行動化されたものということができる

であろう︒こうして︑筍息が殉死することによって︑地上の君臣関

係が︑冥土に移しかえられる︒そうすれば︑地上での︑この君臣関

係を支える君臣道徳も︑当然のこととして︑そこで復活するである

︑︽︐ノ◎

こうしてみると︑殉死こそは︑地上における人間関係を︑冥土の

ものに移しかえる重要な契機ともなるものであるが︑その時︑移動

するものは単なる人間関係にとどまらない︒人間関係を成り立たせ

ているところの︑諸々の道徳もまた︑それとともに冥土へと移動し

ていくのである︒地上の人間関係と︑それを支えている諸道徳とは︑

こうして︑殉死によって冥土へ移しかえられ︑永遠の生命を与えら

れるのであると見ることができよう︒ ㈹神霊の地位をめぐって

神霊の世界にも︑君臣関係はあるのであるということが︑前項で

見てきたところによって明白となった︒では︑君主どうしの場合に

はどうであろうか︒もしあるとすれば︑それはどのよ︑フなものであっ

たのである︑フか︒

○秋︑八月丁卯︑大廟に大事あり︑僖公を踏︵のぼ︶すは︑逆祀

なり︒是に於て︑夏父弗忌︑宗伯たり︒僖公を尊び︑且つ明ら

かに見えたりとして曰く︑吾︑新鬼の大にして︑故鬼の小なる

を見る︒大を先にし︑小を後にするは順なり︒聖賢を踏すは︑

明なり︒明・順は禮なり︑と︒君子以て禮を失ふと爲す︒禮は

順ならざること無し︒祀りは國の大事なり︒而るにこれを逆に

す︒禮と謂ふくけんや︒子は齊聖なりといへども︑父に先だち

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ て食はざること久し・故に禺は鰈に先だたず︑湯は契に先だた ず︑文・武は不宙︵ふちゅっ︶に先だたず︒宋は帝乙を岨とし︑ 鄭は属王を組とす︒猶ほ組を上︵たふと︶ぶなり︒⁝⁝仲尼日 く︑減文仲は︑其の不仁なるもの三︑不知なるもの三あり︒:⁝. 虚器を作り︑逆祀を縦し︑簑居を祀るは三不知なり︑と︒︵秋︑ 八月丁卯︑大事干大廟︑踏僖公︑逆祀也︑於是︑夏公弗忌爲宗 伯︑尊僖公︑且明見日︑吾見新鬼大︑故鬼小︑先大後小︑順也︑ 踏聖賢︑明也︑明順禮也︑君子以爲失禮︑禮無不順︑祀國之大 事也︑而逆之︑可謂禮乎︑子錐齊聖︑不先父食久美︑故禺不先 縣︑湯不先契︑文武不先不宙︑宋岨帝乙︑鄭祀属王︑猶上岨︑ :.⁝仲尼日︑減文仲︑其不仁者三︑不知者三︑⁝⁝作虚器︑縦 逆祀︑祀麦居︑三不知也Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄文公二年︶

魯の国で大祭を挙行した︒そのとき︑先代の僖公を︑先々代の閏

公よりも上位にして祭った︒その理由は︑閏公は乱世に︑幼少にし ⑨ て即位し︑数えるべき治績も無いうちに︑わずかに二年にして殺害

された︒そのあとを嗣いだ僖公は︑閏公の庶兄で年長でもあり︑し

かも︑三十三年もの長期にわたって国君の位にあり︑賢君としての

評判も高かった︒大祭において︑僖公を上位にして祭った理由の大

半も︑ここにあったのである︒しかも︑宗伯︑つまり宗廟を司る長

官の職にある夏父弗忌が︑﹁吾れ︑新鬼︵僖公の霊︶の大にして︑故

鬼︵閏公の霊︶の小なるを見る﹂と︑霊界での二人の地位を︑はっ

きりと見たと証言したのである︒その︑霊の大小を見た方法などに

はふれていないのであるが︑おそらくは夢で見たのかも知れない︒

いずれにしても︑大祭の実際の祭位に関しては︑宗伯のこの言葉も︑

一

一

七

(10)

大きな影響を持ったことは確かである︒

ところが︑この祭りは︑世人から︑礼を乱す〃逆祀″として︑大

きな批判の的とされた︒あとの君主を︑先の君主よりも上位にして

まつることは︑礼の名において︑国の大事としての祭りの︑大きな

位置を占める廟祀では︑絶対に許されることではないという︒こう

して︑霊界における二公の︑実際の上下関係を見たという︑宗伯の

特殊な体験も︑一顧もされずに退けられてしまった︒君主としての

即位の先後関係は︑現実の父子の関係︑祖先と子孫︑あるいはまた

尊属と卑属との関係に擬せられるところの︑人倫の大事であるとい

う考えが支配的であったことが︑魯における逆祀問題の大きな原因

であったのである︒

魯の国での逆祀騒動によって︑同一国内における君主たちの霊魂

の地位は︑あくまで即位順によるもので︑それ以外の要素は︑絶対

に入りこむ余地はないのであるということが明白となった︒した

がって︑生前の世界における礼の規定にもとづく関係そのままが︑

やはりまた︑ここでも︑霊界において︑そのまま再現されることに

なるのである︒

では︑国をことにする君主間においては︑その霊位はどうであっ

たか︒このことについては︑直接の材料は目にすることができない︒

しかし︑先の同一国内における場合からして類推することが的はず

れであるとは︑思われない︒ここでもまた︑現実の礼の秩序による

ものであろう︒それは︑会盟における誓いにおいて︑血をすする順

序が諸侯の間で問題となるのであるが︑霊界においても︑あの争い

が再現されるはずのものである︒この項をおわるにあたって︑次の 得死と将死I﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

例を見ておこう︒

○夫れ諸侯の上卿︑會して不信なれば︑籠名みな奔︵す︶てらる︒ ⑩ 不信の不可なること是の如し︒詩に曰く︑文王捗降して︑帝の

左右に在りとは︑信をこれ謂ふなり︒︵夫諸侯上卿︑會而不信︑

籠名皆奔︑不信不可也如是︑詩日︑文王捗降︑在帝左右︑信之

謂也Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄襄公三十年︶

この文章には︑問題にすべきことが多いのであるが︑ここでは︑

聖君とされる文王が︑死亡して霊界に入れば︑天帝の左右に侍って

いるとい︑うことに︑注目したい︒これまで述べてきたことも合わせ

て考えると︑霊界の権力関係は︑天帝を頂点とし︑その下に諸侯た

ちが侍り仕えている︒諸侯の霊にはまた︑殉死した臣下をはじめ︑

生前のたくさんの臣下たちの霊も仕えている︒また︑それぞれの男

性の霊には︑生前妻妾のあったものは︑やはり霊界でも︑生前と同

様の関係が再現されているわけである︒いずれにしても︑天帝を頂

点として︑現世の礼秩序による権力機構が︑理想的なかたちで︑再

現されているわけである︒ ㈲食生活をめぐって

○子文⁝⁝將に死せんとするに及び︑其の族を聚めて曰く︑椒や

政を知︵つかさど︶らば︑乃ち速に行︵さ︶れ︒難に及ぶこと

無かれ︑と︒且つ泣きて曰く︑鬼なほ食を求めば︑若教氏の鬼︑

それ諺︵︑フ︶ゑざらんや︑と︒︵子文⁝⁝乃將死︑聚其族日︑椒

也知政︑乃速行美︑無及於難︑且泣日︑鬼猶求食︑若教氏之鬼︑

不其饒而Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄宣公四年︶

○衞の宵惠子疾む︒悼子を召して曰く︑吾︑罪を君に得たり︒⁝⁝

二

八

(11)

名は藏して諸侯の策にあり︒曰く⁝⁝宵殖︑其の君を出せり︑

と︒君入らば則ちこれを掩はん︒若し能くこれを掩はば︑則ち

吾が子なり︒若し能はずして︑猶ほ鬼榊あらば︑われ饅うる有

らんのみ︒來りて食はじ︑と︒悼子︑許諾す︒惠子︑遂に卒す︒

︵衞宵惠子疾︑召悼子日︑吾得罪於君︑..⁝・名藏在諸侯之策︑

日⁝⁝奮殖出其君︑君入則掩之︑若能掩之︑則吾子也︑若不能︑

猶有鬼榊︑吾有饅而巳︑不來食美︑悼子許諾︑惠子途卒Ⅱ﹃春

秋左氏傳﹄襄公二十年︶

ここに引いた二つの文章は︑いずれも死に臨んでの遺言であり︑

〃鬼″つまり死後の霊魂の食事のことに︑両者とも言及している︒

前者は︑子孫が絶えて︑子孫に︑祭りを挙行し︑供えものをしても

らえなくなるのではないか︑というようなことを恐れている︒後者

においては︑不名誉がそそがれることがなければ︑子孫の祭りを受

けることがはばかられ︑その結果として︑供えものを受けられず︑

飢えてしま︑フのではないかとい︑うことを︑心配している︒このよう

に︑霊魂にも︑生きた人間と同じように食欲があり︑飢えるという

ことがあるのであると︑考えられていたとい︑うことがわかる︒ 何霊魂の持つ意志について

○筍堰︑潭疽して瘍︵やう︶を頭に生ず︒⁝⁝士勺まみえんこと

を請ふ︒内れず︒後を請ふ︒曰く︑鄭の甥可なり︑と︒二月甲

寅卒す︒而れども硯て含すべからず︒宣子盟︵あら︶ひてこれ

を撫して曰く︑呉に事ふることを敢へて主に事ふるが如くせざ

らん︑と︒猶ほ硯る︒藥懐子曰く︑其の未だ事を齊に卒へざら

んが爲の故ならんか︑と︒乃ち復たこれを撫して曰く︑主もし

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ 終り︑事を齊に嗣がざる所の者あらば︑河の如き有らん︑と︒ 乃ち瞑して含を受く︒︵筍堰痘疽生瘍於頭︑⁝⁝士匂請見︑弗内︑ 請後︑日︑鄭甥可︑二月甲寅卒︑而覗︑不可含︑宣子盟而撫之 日︑事呉敢不如事主︑猶硯︑藥懐子日︑其爲未卒事於齊故也乎︑ 乃復撫之日︑主筍終︑所不嗣事干齊者︑有如河︑乃瞑受含Ⅱ﹃春 秋左氏傳﹄襄公十九年︶

晉の卿︑筍堰は魯を侵略した斉を伐つことを︑黄河の神にかけて

誓った︒しかし︑そのことを果さないままに︑病気で死亡した︒そ

こで︑礼の定めにしたがって︑人々は︑死体の目をつむらせ︑口に

宝玉を含ませよ︑フとした︒しかし︑どうしても︑目を閉じず︑口を

開こうとしなかった︒そこで藥懐子が︑遺志をはたして斉を伐つこ

とを︑黄河の神にかけて誓うということを︑遺体に向かって語りか

けると︑そこで初めて死者の目は閉じられ︑口が開いて玉を受け入

れた︒死霊にも︑生者と同じく︑意志があるのだということを︑﹃左

伝﹄のこの記述は主張しているのである︒

○齊の誌公︑公子たりしとき︑祁敬の父と田をいて勝たず︒位に

即くに及び︑乃ち掘りてこれを別︵あしき︶り⁝⁝︵齊誌公之

爲公子也︑與祁歌之父孚田弗勝︑及即位︑乃掘而別之⁝⁝Ⅱ﹃春

秋左氏傳﹄文公十八年︶

斉の誘公は︑若い時分︑土地の境界を争って負けたことがあった︒

後年︑国君の地位についたとき︑昔の境界争いの相手がすでに死亡

していることがわかった︒すると︑彼はその墓をあばき︑死体を掘

り出して︑その死体に瓢︵あしきりの刑︶〃を加えた︒これは︑死

者の肉体を傷つけることにより︑その霊魂の帰り︑おちつく場所を

一

一

九

(12)

破壊し︑精神的と肉体的の両方から苦痛を与えようとするものであ

る︒これもまた︑霊魂に︑意志や感情のあることを前提として存在

しうる刑罰であるといえよう︒このように︑遺体に対して刑罰を加

えることは︑﹃左伝﹄のなかには︑例が多い︒たとえば︑斉国におけ

る主君殺しの罪を犯した崔杼は︑遺体を市場にさらすという刑を課

せられている︵﹃左伝﹄襄公二十八年︶︒また︑晉では︑まいないに

よって罪を免かれた雍子と︑その賄賂を受領して判決を曲げた叔魚

とが︑有罪とされた邪侯から殺されるという事件が起きた︒このと

きは︑叔向の意見で三人同罪とい︑うことで︑邪侯は死刑となり︑あ 000000.◎000 との二人は︑死体を市場にさらされた︵﹃左伝﹄昭公十四年︶︒

以上︑㈱いけいの四つに項を分けて︑霊魂と霊界とを︑﹃左伝﹄の

登場人物たちが︑どのよ︑フにとらえているかを︑見てきた︒それに

よると︑霊魂は︑生きた人間と同じく︑意志や感情や食欲などの欲

望を持っている︒そして︑その霊魂の住む世界︑つまり冥土には︑

現実の礼秩序にもとづいた︑天帝を頂点としたところの権力機構が︑

整然としたかたちをとって構築されている︒こうしてみると︑霊魂

と霊界とは︑現実の人間と社会とを︑理想化したかたちで再現した

ものであるとい︑7ところがある︒そのため︑あるいみで︑現世と冥

土とは︑人間と霊魂とは︑それぞれ連続しているということも不可

能ではない︒このことを証拠だてるかのように︑かつて︑晉の膏午

が﹁私は死をいといはしない︵吾非愛死也Ⅱ﹃左伝﹄妻公二十三年︶﹂

といい︑陳の芋尹蓋が﹁私は﹃死者に仕えるには︑生者に仕えるの

と同じにするが礼にかなうのである﹄と聞いています︵臣聞之︑日︑

事死如事生︑礼也Ⅱ﹃左伝﹄哀公十五年︶﹂と述べている︒これらの 得死と将死I﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

言葉の持つ意味に︑我々は注目しなければならない︒ ②死について

前章において︑我々は︑生と霊︑社会と霊界とのあいだに横たわ

る連続性について見てきた︒では︑その区別は︑どのようなところ

にあると︑﹃左伝﹄の登場人物たちは考えているのであろうか︒ここ

では︑そのことを︑〃死″について見ておきたい︒

○宋公︑昭子を享して新宮を賦す︒昭子︑車轄を賦す︒明日に宴

し︑酒を飲みて樂しむ︒宋公︑昭子をして右に坐せしむ︒語り

て相泣く︒樂祁たすく︒退きて人に告げて曰く︑今絃︵ことし︶︑

君と叔孫と︑其れ皆死せんか︒吾これを聞く︑樂しみを哀しみ

て︑哀しきを樂しむは︑みな心を喪ふなり︑と︒心の精爽︑是

を魂塊と謂ふ︒魂塊これを去らば︑何を以て能く久しからん︑

と︒︵宋公享昭子︑賦新宮︑昭子賦車轄︑明日宴︑飲酒樂︑宋公

使昭子右坐︑語相泣也︑樂祁佐︑退而告人日︑今舷︑君與叔孫︑

其皆死乎︑吾聞之︑哀樂而樂哀︑皆喪心也︑心之精爽︑是謂魂

晩︑魂塊去之︑何以能久Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄昭公二十五年︶

宋の元公が︑昭子︑つまり叔孫姥をもてなすために宴会を開いた︒

ところが︑楽しかるべき宴会の席で︑主客ともに泣いたのである︒

この様子を見て︑同席していた宋の楽祁が︑二人とも︑きっと死ん

でしま︑うだる︑フといった︒その理由を︑彼はつぎのごとくい︑フ︒つ

まり︑二人はすでに〃心″を失ってしまっている︒人間の生命の中

心をなす〃心〃には︑その〃心″の本質ともいうべき〃魂″と〃塊″

が宿っている︒この〃魂塊〃が失われてしまえば︑〃心〃がその本来

の働きをしなくなる︒そうなると︑楽しかるべきことを哀しんでみ

○

(13)

たり︑哀しかるべきことを楽しく思ったりするようになる︒今日の

宴会の席で︑楽しいはずなのに泣いた公と昭子は︑二人とも︑まさ

しく心から魂槐が失われているのである︒二人とも長いことはない

であろう︒このように︑楽祁は見たのである︒

﹃左伝﹄では︑このときの宴会は︑春のこととして記している︒

ところが︑この年の冬︑十月戊辰の日に昭子が︑ついで︑十一月已

亥の日に宋公が︑ともに死亡したことを記すことも︑﹃左伝﹄は忘れ

ていない・

人の死には︑いろいろな死があるであろう︒しかし︑その本質は︑

ここに﹁吾聞く﹂として楽祁が述べているように︑〃心〃が失われる

こと︑それをさらに微視的にいえば︑〃心〃の本質をなす〃魂〃と〃塊〃

とが︑〃心〃から離れることである︒春の宴会における︑楽祁の予言

が︑冬になって現実のこととしてあらわれる︑この予言と現実との

照応は︑﹃左伝﹄にあっては珍らしいものではない︒しかし︑ここで

は﹃左伝﹄の作者は︑この形式をかりて︑死の本質という︑極めて

重い問題を︑読む人に伝えているのである︒﹃左伝﹄の作者が主張す

るよ竜7に︑人間の死にとって︑決定的な働きをする魂と塊とのこと

について︑以下に章を改めて︑考えてみることにする︒

前章で︑死は︑人間の体から︑〃魂″と〃塊″とが離れることであ

るということがわかった︒ここでは︑まず︑魂塊のことについて︑

以下にのべる事件をとおして︑いろいろと検討してみたい︒

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ 三︑異常な死をめぐって ○鄭人︑相驚かすに伯有を以てして曰く︑伯有至る︑と︒則ち皆

走りて往く所を知らず︒⁝⁝或るひと︑伯有の介して行くを夢

む︒曰く︑壬子︑余將に帯を殺さんとす︒明年壬寅︑余また將

に段を殺さんとす︑と︒壬子に及び︑細帯卒す︒國人盆︵ます

ます︶催る︒⁝⁝壬寅︑公孫段卒す︒國人愈︵いよいよ︶權る︒

其の明月︑子産︑公孫洩と良止とを立てて以て之を撫︵やす︶

んず︒乃ち止む︒子大叔︑其の故を問ふ︒子産曰く︑鬼は歸す

る所あれば︑乃ち属を爲さず︒吾︑これが歸を爲す︑と︒︵鄭人︑

相驚以伯有日︑伯有至美︑則皆走不知所往︑:.⁝或夢伯有介而

行︑日︑壬子︑余將殺帯也︑明年壬寅︑余又將殺段也︑及壬子︑

馳帯卒︑國人盆灌︑:::壬寅︑公孫段卒︑國人愈灌︑其明月︑

子産立公孫洩及良止以撫之︑乃止︑子大叔問其故︑子産日︑鬼

有所歸︑乃不爲属︑吾爲之歸也Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄昭公七年︶

魯の襄公の三十年︵西暦紀元前五百四十三年︶︑鄭の国では︑卿の

伯有が国外に追放された︒酒にふけって︑政治をかえりみなかった

からである︒ところが︑国外に追われたことを恨んで︑伯有は手兵

をひきつれて鄭の都に攻め入ってきた︒そして︑瓢帯や︑公孫殿た

ちのひきいる軍勢と戦い︑ついに殺されてしまった︒その後八年たっ

て︑鄭の都に︑伯有の幽霊が現れるという風説が流れだした︒そし

て︑誰かが︑﹁伯有が来たノ.﹂と叫べば︑皆おそれて逃げまどった︒

そうしたおり︑ある人の夢の中に︑甲冑姿であらわれた伯有が︑馴

帯と公孫段を殺すといい︑その日付けまで明言した︒ところが︑そ

れらの日に︑瓢帯と公孫段が︑相ついで死亡したので︑人々の恐怖

も頂点にまで達した︒このことについての対策を委ねられた子産は︑

一一一一

(14)

伯有にあとつぎを立て︑その霊をまつらせた︒そののちには︑もう

伯有の幽霊は出なくなったのである︒

○子産︑晉に逼くに及び︑趙景子問ひて曰く︑伯有なほ能く鬼を

爲さんか︑と︒子産曰く︑能くせん︒人の生︑始めて化するを

塊と日ふ︒既に塊を生ず︒陽を魂と日ふ︒物を用ひて精多けれ

ば︑則ち魂塊つよし︒是を以て精爽にして榊明に至るあり︒匹

夫匹婦も強死すれば︑其の魂塊︑猶ほ能く人に嬬依して︑以て

淫属を爲す︒況んや良霄は︑我が先君穆公の冑︑子良の孫︑子

耳の子︑敞邑の卿にして︑政に從ふこと三世なり︒⁝⁝三世そ

の政柄を執る︒其の物を用ゐるや弘く︑其の精を取るや多く︑

その族︑また大にして︑鵺るところ厚し︒而して強死せり︒能

く鬼を爲すこと︑また宜ならずや︒︵及子産適晉︑趙景子問焉日︑

伯有猶能爲鬼乎︑子産日︑能︑人生始化日晩︑既生塊︑陽日魂︑

用物精多︑則魂槐強︑是以︑有精爽至於榊明︑匹夫匹婦強死︑

其魂塊猶能鵺依於人︑以爲淫属︑況良霄︑我先君穆公之胄︑子

良之孫︑子耳之子︑敞邑之卿︑從世三世美︑⁝⁝三世執其政柄︑

其用物也弘美︑其取精也多美︑其族又大︑所鵺厚美︑而強死︑

能爲鬼︑不亦宜乎Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄昭公七年︶

鄭の宰相︑子産が晉に行った︒その時︑晉の副宰相︑趙景子が︑

伯有の幽霊は︑まだ出る可能性があるかどうかをたずねた︒これに

対して︑子産はまず魂塊のことから話しはじめる︒それによると︑

人間の初めて形をとることになる︑肉体のすぐれた働きをする︑そ

のもとになるものを〃塊″という︒やがて︑その肉体に宿ることに ⑪ なる精神の︑すぐれた働きのもとになるものを〃魂″という︒とこ 得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

ろが︑この魂槐は︑物質的に豊かな生活をつづけることによって養 ⑫ われ︑その働きが強化される︒そして︑それが非常に大きな働きを

するところまで純化︑拡大されれば︑天地の神にしか成せないよう

な︑大きなことまで︑この魂塊は︑なしとげるのである︒どんなに ⑬ 賎しく︑身分の低い庶民でも︑運命によるのではない︑非業の死を

とげたような場合には︑その魂塊は人にとりついて︑さまざまの害

をなすものである︒ましてや︑伯有の家は︑国君から分かれた血す

じであり︑三代にわたっての︑鄭国の正卿の家柄である︒そのため︑

特別に︑その魂槐は強化されている︒なぜなら︑数代にわたって物

質的にも︑非常に豊かであったからである︒伯有の魂塊は︑こうし

て︑想像以上の大きな働きをするようになっている︒だから︑神の

ごとくに︑馴帯や公孫段の運命を左右し︑死に至らしめることがで

きたのである︒今は︑後嗣を立てて廟を作り︑祭りを行わせて︑伯

有の魂塊の帰り安んずる所を︑確保してある︒しかし︑その祭りが

粗略になされたり︑少しでも絶えるようなことが︑これから先にあ

るならば︑まだまだ伯有の霊は︑諸方面に重く崇るであろう︒伯有

の霊は︑今は休んじられているが︑本質的に危険な要素を持ってい

るのであり︑その危険性は無くはならないのである︒その危険性と

は何か?それはいうまでもなく︑格別によく養われた強力な魂塊で

あるとい︑うことと︑ここにい︽フところの︑〃強死〃によって肉体を離

れた魂塊であることとからくるところの︑人にとりつく力の強さで

主公︾ブ︵︾◎

さきに〃強死〃を︑われわれは︑﹁運命によらない︑災難などによ

る非業の死﹂と解しておいた︒このような場合における魂塊が︑子

一一一一一

(15)

産によれば︑幽霊として人にとりつき︑多くの災いをなすのである

という︒強死をめぐる︑魂塊のこのような一面について︑もうすこ

し視野を広げて︑これに関連した︑類似の現象について見てみよう

と思う︒

○鄭の属公︑櫟より鄭を侵し︑大陵に及び︑傅暇を獲たり︑傅暇

曰く︑筍も我を舍︵ゆる︶さば︑吾請ふ君を納れん︑と︒之と

盟ひて之を赦す︒六月甲子︑傅暇︑鄭子と其の二子とを殺して︑

属公を納る︒初め︑内弛と外蚫と︑鄭の南門の中に闘ひ︑内弛

死せり︒六年にして属公入る︒公これを聞き︑申糯に問ひて日

く︑猶ほ妖あるか︑と︒對へて曰く︑人の忌む所は︑其の氣炎

して以てこれを取る︒妖は人に由りて興るなり︒人萱なくんば︑

妖みずから作らず︒人︑常を棄つれば︑則ち妖興る︒故に妖有

り︑と︒︵鄭属公自櫟侵鄭︑及大陵︑獲傅暇︑傅暇日︑筍舍我︑

吾請納君︑與之盟而赦之︑六月甲子︑傅暇殺鄭子及其二子︑而

納属公︑初︑内岫與外岫︑闘於鄭南門之中︑内岫死︑六年而属

公入︑公聞之︑問於申儒日︑猶有妖乎︑對日︑人之所忌︑其氣

炎以取之︑妖由人興也︑人無覺焉︑妖不自作︑人棄常則妖興︑

故有妖Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄莊公十四年︶

ここでは︑鄭の南門の中で戦った二匹の岫︵へび︶は︑妖怪であっ

たのだとい︑7︒その妖怪は︑ど︑フして生じたのかといえば︑申糯は︑

そのことについて︑以下のよ︑フに説明する︒鄭君が︑属公を恐れて︑

ビクビクしている︑その弱気が燃え上るほど盛んになり︑それが妖

怪︑つまり蝿となったのである︒このように︑妖怪は必らず人間か

⑭ ら起こるものである︒人間が︑常″を守らなければ︑大ていそこか

得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶ ら妖怪がおこってくるのである︑と︒

○天︑時に反すれば災を爲し︑地︑物に反すれば妖を爲し︑民︑

徳に反すれば凱を爲す︒乱なれば則ち妖災生ず︒︵天反時爲災︑

地反物爲妖︑民反徳爲凱︑凱則妖災生Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄宣公十

五年︶

これは︑晉の大夫︑伯宗のことばである︒ここでは︑﹁地︑物に反

すれば妖を爲す﹂という︒これは︑地上のさまざまの物が︑本性を

⑮ 失えば︑妖怪がおこるとい︑うことである︒前の引用文︵莊公十四年︶

では︑人間に限定して︑妖怪の生ずる原因をのべているが︑ここで

は︑その原因を一般化して述べている︒結局︑妖怪というものは︑

人にしろ︑人以外の物にしろ︑それらが︑本性ないしは常道︑ある

いは天命といってもよい︑そ︑フしたものを失ったときに起こるとい

︑フのである︒

ここで話しを︑この章の冒頭に引いた昭公七年の︑伯有の幽霊の

ことにもどそう︒伯有の幽霊は︑〃強死〃というに足る死に方を招い ◎00◎︒︒︒O◎ ︒︒︒︒◎00O◎ た︑常道を失った生き方︑それに加うるに︑天寿を全うしない︑殺

害による〃強死〃︑この二つが原因で生じたものである︒この常道を

失した二つのことによって︑伯有の気︑つまり魂塊は炎の燃えさか

るよ雨フに盛んになり︑荒れ狂って︑それが幽霊としての形をとった

ことになる︒これは又︑ここでの用語にしたがえば︑妖怪となった

のだといいかえてもよい︒

ことは︑ここにのべた伯有ほど極端ではないにしても︑〃常″・〃常

道〃・〃性〃・〃本性″・〃命″などといわれるようなものから外れた生

き方や行動をすることによって︑死をまねく例が﹃左伝﹄には︑非

一一一一一一

(16)

常に多い︒それらのなかから︑例を以下に一つだけ示そう︒

○公︑諸侯と王に朝し︑劉の康公・成の南公に從ひ︑晉侯に會し

て秦を伐つ︒成子︑賑を趾に受く︑不敬なり︒劉子曰く︑吾こ

れを聞く︑民は天地の中を受けて以て生まる︒いはゆる命なり︒

是を以て動作・禮義・威儀の則あり︑以て命を定むるなり︒能

者は養ひて以て幅に之き︑不能者は敗りて以て鯛︵わざわひ︶

を取る︒是の故に君子は禮を勤め︑小人は力を毒す︒禮を勤む

るは敬を致すに如くはなく︑力を蓋すは篤を敦くするに如くは

なし︒敬は紳を養ふにあり︑篤は業を守るにあり︒國の大事は

祀と戎にあり︒祀に旙を執るあり︑戎に賑を受くるあり︒榊の

大節なり︒今︑成子惰︵おこた︶るは︑其の命を奔つるなり︒

其れ反らざらんか︑と︒︵公及諸侯朝王︑從劉康公・成粛公︑會

晉侯伐秦︑成子受賑子祗︑不敬︑劉子日︑吾聞之︑民受天地之

中以生︑所謂命也︑是以有動作・禮義・威儀之則︑以定命也︑

能者養以之幅︑不能者敗以取鯛︑是故君子勤禮︑小人壼力︑勤

禮莫如致敬︑壼力莫如敦篤︑敬在養榊︑篤在守業︑國之大事︑

在祀與戎︑祀有執旙︑戎有受脹︑紳之大節也︑今︑成子惰︑奔

其命美︑其不反乎Ⅱ﹃春秋左氏傳﹄成公十三年︶

○五月丁亥︑晉の師︑諸侯の師を以︵ひき︶ゐて秦の師と麻燧に

戦ふ︒秦の師敗績す︒⁝⁝成の南公︑暇に卒す︒︵五月丁亥︑晉

師以諸侯之師及秦師戦麻燧︑秦師敗績︑.⁝:成粛公卒干暇Ⅱ﹃春

秋左氏傳﹄成公十三年︶

軍隊の出陣のおり︑成の粛公は︑社でおこなわれる出陣の祭りに

おいて︑祭肉を受ける作法が︑〃不敬〃であった︒それを見て劉の康 得死と将死l﹃左伝﹄における死と死後の世界I︵久富木成大︶

公は︑次のよ︑フにいった︒粛公は︑きっと︑生きて帰ることはない

であろう︑と︒はたして︑結果は劉の康公の言葉どおり︑需公は晉

の地の暇で亡くなり︑都へ帰ってくることはできなかった︒ところ

で︑康公がこのように推理し︑予言した︑その過程を︑順をおって

列挙してみよう︒

①人間は︑天地中和の気を受けて︑それによって生育する︒

⑯ ⑪この︑人間が受けている︑天地中和の気を︑〃命″という︒

伽人間の動作・行為が法則にかなえば︑〃命″がそこなわれない︒

そして寿命がのびる︒法則にはずれれば︑〃命″はそこなわれ︑

寿命はちぢまる︒

側君子たるもの︑礼を守ることにはげむのが︑動作・行為が︑法

則にかな︑うことである︒

M礼を守るためには︑〃敬〃という態度を追求し︑日常生活のあら

ゆる場合や場面において︑その態度をつらぬくことが︑一番大

切なことである︒

伽〃敬″は︑神に仕える態度に︑最もよく代表される︒

伽粛公は祭肉をいただく作法が︑いちじるしく礼を欠いていた︒

これは結局のところ︑神を〃敬〃する態度に欠けるものであり︑

礼を犯すことである︒そこで︑当然のこととして︑〃命〃がそこ

なわれる︒南公の死は近いである︑フ︒

ここにいう〃天地中和の気〃︑あるいは〃命〃とは︑結局のところ︑

人間が天から受けている寿命といいかえてもいいであろう︒このよ

⑰ 合うに︑天が定めてくれた生き方の法則︑つまり礼を︑守るか否かに

よって︑この寿命は長くもなり︑短かくもなるというのである︒従っ

三

四

参照

関連したドキュメント

図版出典

(2)特定死因を除去した場合の平均余命の延び

ヨーロッパにおいても、似たような生者と死者との関係ぱみられる。中世農村社会における祭り

(( 3ff.; Gaede, Durchbruch ohne Dammbruch—Rechtssichere Neuvermessung der Grenzen strafloser Sterbehilfe, NJW 20 (0, S?. 292 (ff.; Von der passive Sterbehilfe zum

交通事故死者数の推移

とである。内乱が落ち着き,ひとつの国としての統合がすすんだアメリカ社会

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