マ ル ク ス = エ ン ゲ
ルス研究所員とな る
『経哲手稿』の衝 撃
ル カ − チ 年 表
(下)
丸 山 珪 一
1930‑31年45−46才
前年末ウィーンを去ったルカーチはソ連のアプリロフカでおこなわれた ハンガリー共産党大会のあとモスクワ入りし,ソ連共産党中央委員会直 属のマルクス=エンケルス研究所の所員となる。同研究所はリャザーノ
フ*の指導のもとでマルクス=エンケルス全集MEGAの刊行をおこ なっていた。ここでルカーチは「予想だにしなかった二つの幸運」にめ く・まれた。ひとつは,すでに解読されているマルクスの『1844年の経済 学・哲学手稿』の完全なタイプ版を出版(1932年)に先立ってリャザーノ
フから見せられたことであり,いまひとつは当時弱冠25才のリフシッツ MichailLifschitz(1905生)と出会い,生涯にわたる交友のはじまりを
もったことである。
ルカーチは『経哲手稿jから受けた印象,とりわけ対象性をあらゆる事 物と関係の本質的に物質的な特性と見なすというマルクスの言葉から受 けた「あの動転するような印象」について語っている。これによって『歴 史と階級意識』の特殊性を構成していたものの理論的基礎が決定的に崩 壊した。同じ時期にレーニンの『哲学ノート』(1929‑30年に刊行),主 としてそのヘーケル哲学批判,を知ったが,これらの素材の研究は,ヘー ケルや主観客観関係についての考え,また認識論や芸術作品と社会的現 実の関連についての見解の変更に大きな寄与をした。29年12月のマル クス主義農業者会議でのスターリンの演説(社会主義建設の課題にたい する理論の立ち遅れ)に続いておこったソ連の哲学論争(いわゆるデポー リン派批判)もこのことに役立った,と彼自身述べているが,一般に<レー ニン的段階の確立>と要約されているこの論争の成果のとらえ方と,〈プ レハーノフ的正統性>からの離反及び根本的に新しいものとしてのマル
本稿は,富山大学教養部紀要第10号(1978年3月)に掲載した「ルカーチ年表(上)」の続篇であり,
ルカーチLukacsGy6rgy(1885‑1971)の生涯の後半,つまり1930年以降の部分を対象としている。前
稿既出の人名には*印が付されている。
リ フ シ ッ ツ と の 共 働
『ジッキンケン』
論 文
『モスクワ展望」
誌で文芸時評
クスの精神からの出発ととらえるルカーチの見方とのあいだには微妙な 齪館がある。いずれにせよヘーケルヘの新たな視点をひらくこれらの研 究にもとづいて,モスクワとベルリンで『若きヘーケル』の最初の草稿 が書かれた。この草稿はしかし失われてしまった。
前年から所員であったリフシッヅはちょうどマルクス=エンケルスの文 学芸術論集の準備をはじめていたが,ルカーチは彼とマルクス主義の基 礎的諸問題をくり返し論じあい,いくつかの一致点に達した。そのなか で最も重要なものは,「美学的諸問題の適切な体系化はマルクス主義の体 系的位相の一部であり,換言すれば独立の完ぎマルクス主義美学が存在 する」という思想である。これは当時この分野で権威とされていたプレ ハーノフとメーリングにたいするきびしい批判を含んでいる。芸術につ いての以前の思想成果をそのまま前提し,それに「社会学」的補足とイ デオロギー批判をつけ加えたにすぎない,というのがその批判の中心点 であった。
マルクス主義美学についてのこの思想の最初の具体化として生れたのが
『マルクス=エンケルスとラサールのジッキンケン論争』で,1933年に なって発表された。ラサールは彼の戯曲『フランツ・フォン・ジッキン ケン』で,ルカーチがハンガリー革命にとびこんだ時期におかしたと類 似の誤りをしていた。彼もまた「革命的パトス」と「現実政策」を厳格 に区別した。ジッキンケン論争の分析は,したがってルカーチにとって 自己告白,以前の自己の見解の清算でもあった。この自己批判的特徴の ほかに,論文の出発点をなすのは実践的政治的な一つの問題,すなわち ラサールが革命の戦略戦術,とりわけ同盟政策の問題でいかなる立場を とっているかということであり,これは『ブルム・テーゼ』で展開され た政治的見解の適用という観点からいっても重要である。
ドイツ向けのソ連紹介誌として1929年半ばから週刊で発行されていた
『モスクワ展望j〃りs加"eγR""ぬc加勿誌の文芸欄に,30年秋から31年 暮れにかけて,ルカーチは計15篇の時評を書いた。主としてショーロ ホフ,エレンブルク,パンフョロフなど現代ソ連文学を論じている。
1931‑32年46−47才
リャザーノフ追放31年2月,前年その60才の誕生日を盛大に祝われたばかりのリャザー
ノフがメンシェヴィキ庇護のかどで追放になり,マルクス=エンケルス
研究所はレーニン研究所と合併し,アドラツキーを所長にマルクスーエ
ベルリン移住
BPRS綱領の作 成
ンケルス=レーニン研究所となる。これにともないルカーチは新しい活 動場所を求めねばならなかった。
夏ベルリンに移る。28年末プロレタリア革命作家同盟Bundproleta.
risch‑revolutionarerSchriftstellerDeutschlands(BPRS)が結成され,
資本主義諸国で最大の組織と活動を誇っていたドイツのプロレタリア文 学 運 動 に 加 わ る た め で あ っ た 。 移 住 は 共 産 党 員 作 家 フ ラ ク シ ョ ン ArbeitsgemeinschaftKommunistischerSchriftstellerの委託によるも のとされている。ルカーチは同盟指導部の会議に規則的に参加し,同盟 綱領の作成に尽力し,機関誌『リンクスクルヴェ』〃"お伽 gに一連の 寄稿をおこなった。しかし彼の来た時点,同盟内に強い対立があり,労 働者出身作家たちの指導権を確保する内容の綱領が同盟内「左翼反対派」
のコミャート*とビローBirOKaroly(どちらもプロレットクルト系の 亡命ハンガリー人)の起草で用意されつつあった。この綱領草案は,10 月初旬同盟内の党フラクションの討論で「リトフロント的綱領」とし
リ ト フ ロ ン ト
て否決され(文学戦線は,BPRSに大きな影響力をもっていたロシアプ ロレタリア作家同盟RAPP内の反対派であった),同盟指導部はこれに 代 る 新 た な 綱 領 を 作 成 す る た め の 委 員 会 を 構 成 し , ベ ッ ヒ ャ ー JohannesR.Becher(1891‑1958),カーポルGaborAndor(1884‑1953),
ウィットフォーケルKarlA.Wittfogel(1896生)及びルカーチがこれに 属した。理論的明確化の必要とアジプロに限定されぬ「偉大なプロレタ
リア芸術」の創造をうたう新しい綱領草案は31年未完成(ルカーチの原
案にガーボルが手を加え,ベッヒャーが仕上げた)したが,綱領討議は
進展しなかった。ルカーチは友人であるドイツ共産党の文化問題責任者
フリークLeoFliegを介してコンタクトのあったノイマンHeinz
Neumann(当時テールマン,レンメレとならんで党指導部を構成してい
た)を何度もせつついてこの問題への介入を求めたが,うまくいかなかっ
た。32年春ソ連でRAPPの解体が決議(「文学芸術諸組織の再編成につ
いて」)され,他方ドイツ共産党指導部の改組(当のノイマンが排除され
た)があり,同盟内外に不安定な状態が続いた。6月末BPRS創設以来
も く ろ ま れ て は そ の 度 に く り の べ ら れ て き た 第 一 回 全 国 活 動 会 議
Reichsarbeitskonferenzがおこなわれ,ベッヒャー,ガーボルとともに
ケラーKellerことルカーチが主報告を担当,彼は理論水準について報
告をおこなった。しかしここでも綱領は採択されずじまいであった。な
おルカーチは政治活動はしないという滞在条件のもとで半非合法のベル
マルクス主義労働 者学校
ゼ ー ガ ー ス と 知 り あう
ブ レ ヒ ト と の 出 会
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