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丸 山 珪 一

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(1)

マ ル ク ス = エ ン ゲ

ルス研究所員とな る

『経哲手稿』の衝 撃

ル カ − チ 年 表

(下)

丸 山 珪 一

1930‑31年45−46才

前年末ウィーンを去ったルカーチはソ連のアプリロフカでおこなわれた ハンガリー共産党大会のあとモスクワ入りし,ソ連共産党中央委員会直 属のマルクス=エンケルス研究所の所員となる。同研究所はリャザーノ

フ*の指導のもとでマルクス=エンケルス全集MEGAの刊行をおこ なっていた。ここでルカーチは「予想だにしなかった二つの幸運」にめ く・まれた。ひとつは,すでに解読されているマルクスの『1844年の経済 学・哲学手稿』の完全なタイプ版を出版(1932年)に先立ってリャザーノ

フから見せられたことであり,いまひとつは当時弱冠25才のリフシッツ MichailLifschitz(1905生)と出会い,生涯にわたる交友のはじまりを

もったことである。

ルカーチは『経哲手稿jから受けた印象,とりわけ対象性をあらゆる事 物と関係の本質的に物質的な特性と見なすというマルクスの言葉から受 けた「あの動転するような印象」について語っている。これによって『歴 史と階級意識』の特殊性を構成していたものの理論的基礎が決定的に崩 壊した。同じ時期にレーニンの『哲学ノート』(1929‑30年に刊行),主 としてそのヘーケル哲学批判,を知ったが,これらの素材の研究は,ヘー ケルや主観客観関係についての考え,また認識論や芸術作品と社会的現 実の関連についての見解の変更に大きな寄与をした。29年12月のマル クス主義農業者会議でのスターリンの演説(社会主義建設の課題にたい する理論の立ち遅れ)に続いておこったソ連の哲学論争(いわゆるデポー リン派批判)もこのことに役立った,と彼自身述べているが,一般に<レー ニン的段階の確立>と要約されているこの論争の成果のとらえ方と,〈プ レハーノフ的正統性>からの離反及び根本的に新しいものとしてのマル

本稿は,富山大学教養部紀要第10号(1978年3月)に掲載した「ルカーチ年表(上)」の続篇であり,

ルカーチLukacsGy6rgy(1885‑1971)の生涯の後半,つまり1930年以降の部分を対象としている。前

稿既出の人名には*印が付されている。

(2)

リ フ シ ッ ツ と の 共 働

『ジッキンケン』

論 文

『モスクワ展望」

誌で文芸時評

クスの精神からの出発ととらえるルカーチの見方とのあいだには微妙な 齪館がある。いずれにせよヘーケルヘの新たな視点をひらくこれらの研 究にもとづいて,モスクワとベルリンで『若きヘーケル』の最初の草稿 が書かれた。この草稿はしかし失われてしまった。

前年から所員であったリフシッヅはちょうどマルクス=エンケルスの文 学芸術論集の準備をはじめていたが,ルカーチは彼とマルクス主義の基 礎的諸問題をくり返し論じあい,いくつかの一致点に達した。そのなか で最も重要なものは,「美学的諸問題の適切な体系化はマルクス主義の体 系的位相の一部であり,換言すれば独立の完ぎマルクス主義美学が存在 する」という思想である。これは当時この分野で権威とされていたプレ ハーノフとメーリングにたいするきびしい批判を含んでいる。芸術につ いての以前の思想成果をそのまま前提し,それに「社会学」的補足とイ デオロギー批判をつけ加えたにすぎない,というのがその批判の中心点 であった。

マルクス主義美学についてのこの思想の最初の具体化として生れたのが

『マルクス=エンケルスとラサールのジッキンケン論争』で,1933年に なって発表された。ラサールは彼の戯曲『フランツ・フォン・ジッキン ケン』で,ルカーチがハンガリー革命にとびこんだ時期におかしたと類 似の誤りをしていた。彼もまた「革命的パトス」と「現実政策」を厳格 に区別した。ジッキンケン論争の分析は,したがってルカーチにとって 自己告白,以前の自己の見解の清算でもあった。この自己批判的特徴の ほかに,論文の出発点をなすのは実践的政治的な一つの問題,すなわち ラサールが革命の戦略戦術,とりわけ同盟政策の問題でいかなる立場を とっているかということであり,これは『ブルム・テーゼ』で展開され た政治的見解の適用という観点からいっても重要である。

ドイツ向けのソ連紹介誌として1929年半ばから週刊で発行されていた

『モスクワ展望j〃りs加"eγR""ぬc加勿誌の文芸欄に,30年秋から31年 暮れにかけて,ルカーチは計15篇の時評を書いた。主としてショーロ ホフ,エレンブルク,パンフョロフなど現代ソ連文学を論じている。

1931‑32年46−47才

リャザーノフ追放31年2月,前年その60才の誕生日を盛大に祝われたばかりのリャザー

ノフがメンシェヴィキ庇護のかどで追放になり,マルクス=エンケルス

研究所はレーニン研究所と合併し,アドラツキーを所長にマルクスーエ

(3)

ベルリン移住

BPRS綱領の作 成

ンケルス=レーニン研究所となる。これにともないルカーチは新しい活 動場所を求めねばならなかった。

夏ベルリンに移る。28年末プロレタリア革命作家同盟Bundproleta.

risch‑revolutionarerSchriftstellerDeutschlands(BPRS)が結成され,

資本主義諸国で最大の組織と活動を誇っていたドイツのプロレタリア文 学 運 動 に 加 わ る た め で あ っ た 。 移 住 は 共 産 党 員 作 家 フ ラ ク シ ョ ン ArbeitsgemeinschaftKommunistischerSchriftstellerの委託によるも のとされている。ルカーチは同盟指導部の会議に規則的に参加し,同盟 綱領の作成に尽力し,機関誌『リンクスクルヴェ』〃"お伽 gに一連の 寄稿をおこなった。しかし彼の来た時点,同盟内に強い対立があり,労 働者出身作家たちの指導権を確保する内容の綱領が同盟内「左翼反対派」

のコミャート*とビローBirOKaroly(どちらもプロレットクルト系の 亡命ハンガリー人)の起草で用意されつつあった。この綱領草案は,10 月初旬同盟内の党フラクションの討論で「リトフロント的綱領」とし

リ ト フ ロ ン ト

て否決され(文学戦線は,BPRSに大きな影響力をもっていたロシアプ ロレタリア作家同盟RAPP内の反対派であった),同盟指導部はこれに 代 る 新 た な 綱 領 を 作 成 す る た め の 委 員 会 を 構 成 し , ベ ッ ヒ ャ ー JohannesR.Becher(1891‑1958),カーポルGaborAndor(1884‑1953),

ウィットフォーケルKarlA.Wittfogel(1896生)及びルカーチがこれに 属した。理論的明確化の必要とアジプロに限定されぬ「偉大なプロレタ

リア芸術」の創造をうたう新しい綱領草案は31年未完成(ルカーチの原

案にガーボルが手を加え,ベッヒャーが仕上げた)したが,綱領討議は

進展しなかった。ルカーチは友人であるドイツ共産党の文化問題責任者

フリークLeoFliegを介してコンタクトのあったノイマンHeinz

Neumann(当時テールマン,レンメレとならんで党指導部を構成してい

た)を何度もせつついてこの問題への介入を求めたが,うまくいかなかっ

た。32年春ソ連でRAPPの解体が決議(「文学芸術諸組織の再編成につ

いて」)され,他方ドイツ共産党指導部の改組(当のノイマンが排除され

た)があり,同盟内外に不安定な状態が続いた。6月末BPRS創設以来

も く ろ ま れ て は そ の 度 に く り の べ ら れ て き た 第 一 回 全 国 活 動 会 議

Reichsarbeitskonferenzがおこなわれ,ベッヒャー,ガーボルとともに

ケラーKellerことルカーチが主報告を担当,彼は理論水準について報

告をおこなった。しかしここでも綱領は採択されずじまいであった。な

おルカーチは政治活動はしないという滞在条件のもとで半非合法のベル

(4)

マルクス主義労働 者学校

ゼ ー ガ ー ス と 知 り あう

ブ レ ヒ ト と の 出 会

L,

防衛作家連盟

リン暮しだったので,党の集会やマルクス主義労働者学校Marxistische Arbeiterschule(MASch)など危いところではケラー名を使い分けてい

た 。

MASchは合法的だったが,外国人がここでつかまると罰せられ,国外退 去になった。MASchは勤労人民に「マルクス主義の根本教義とプロレタ

リア的生活及び闘争の全領域にそれを適用することを学ぶ」可能性を与 えるために,20年代半ばベルリンにつくられた。BPRSの同盟員たち は,MASchの開設しているいくつものコースのいずれかに加わること を強く要求されていた。ケオルク・ケラーとケルトルート・ケラーの講 演が何週間にもわたって宣伝された。校長はシュミットJohann Schmidtと名のっていたが,実はルカーチの日曜サークルに顔を出して いたラト.ヴァーニ*だった。

その妻ネティNettyRadvanyi(1900年生)ともこの時代に知りあったが,

彼女は28年小説『聖バルバラの漁民一撲jでクライスト賞をうけ,ゼー ガースAnnaSeghersというペンネームで名高かった。ゼーガースはの ちルカーチの70才記念論集に寄せた文章の中で,当時の彼の「名前にま つわる一種の伝説」について語っている。「彼の言葉が書かれた一枚の紙 は同時に保証書でもあった。〈ここに書いてあることは実力でもって擁護 される>」と。これとある意味で対照的なのは,やはりこのころはじめて 知りあったブレヒトBertoltBrecht(1898‑1956)の彼にたいする態度で ある。ブレヒトとルカーチの議論について,ちょうどその場に局あわせ たアイスラーHannsEisler(1898‑1962)[『共産主義』誌の編集者ケルハ ルト・アイスラー*の弟〕は証言している。「それは相当なものだった。ブ レヒトはひどく荒っぽかったので,私はブレヒトのためにときどき恥し い思いをした。彼は小柄な,知的な,神経質な,それでいてずばぬけた

このルカーチという男を心底から嫌っていた。」

ルカーチはBPRSでの仕事のほかに,ドイツ作家防衛連盟Schutz‑

verbandDeutscherSchriftsteller(SDS)の共産党フラクション代表と なり,やがてSDSベルリン支部の副議長となった。SDSは出版社の恐 意から作家をまもる労働組合的組織として1908年に結成され,この時点 では重要な作家たちのほとんどが加盟していた。ベルリン支部はその最 も重要かつ尖鋭な地区グループとして連盟内の反対派の拠点であった。

党員作家フラクシヨンは支部の民主主義擁護のさまざまな試みにさいし

てイニシアティヴを発揮し,大きな影響力を持っていた。

(5)

文書,講演活動

ヘーケル祭への参 加

ケーテ祭

ルカーチは『リンクスクルヴェ』以外に『絵入り新世界」〃/"sオ池"EN"e Wを",『赤い建設』Ro蛇γA"肋",「夕べの世界jWな〃α籾A6e"α,「労 働者発信人』A7'"娩溶 〃γ,『二つの世界jZz"ejWゼノ彪卯など(また モスクワの『世界革命の文学』〃〃zz/"γ〃γWbJ舵"0伽加〃とその後身

「国際文学」ん彪加α"0"α〃〃た、〃γにも)おびただしい数の雑誌に寄 稿する一方,BPRS,SDS,MASchで「マルクス主義文学論入門」「フラ ンツ・メーリング」「ヘーケル」などアクチュアルな哲学的文学的問題に ついて多くの講演をおこなった。また反ファッショ闘争の一環として講 演旅行をおこなう(デュッセルドルフ「国家社会主義の文学理論」,ケル ン「ファッショ的現代の文学上の危機」,フランクフルト「ヘーゲルの ファッショ的歪曲」など)。

ヘーケル死後百年に当る31年10月,国際ヘーケル連盟によって招集さ れた第二回国際ヘーケル大会がベルリン大学でおこなわれ,ルカーチも ウィットフォーケル(『インプレコール』*『リンクスクルヴェ」などにヘー ケルについて書いていた)等とともにこのヘーケル百年祭に出席した。

彼らと別にコルシュ*も参加していた。「ドイツにおけるヘーケル問題は なかんずくカントの問題である」というグロックナーHermann GIocknerのテーゼに彼らは同意できなかった。11月にはモスクワでも

ヘーケル記念集会がおこなわれたが,ドイツ共産党は不興をこうむって いるルカーチの代りにウィットフォーケルを送った。なおウィット フォーゲルは「リンクスクルヴェ』にマルクス主義美学についての一連 の論稿を連載し,ヘーケル美学の批判的摂取,メー.リング(その文学論 集がタールハイマーの編集で29年刊行された)への批判という点でル カーチに大きな影響を与えたが,かねてからウィットフォーケルの中に ある実証主義的傾向に彼は不満だった。

ケーテ死後百年に当る32年3月,ヘーケル祭の余熱さめやらぬドイツ全 土でケーテ記念祭が祝われた。しかしウィットフォーケルとルカーチを 講師として企画されたマルクス主義労働者学校の講演会「マルクス主義 の鏡に映してみたケーテ』は,社民党員のベルリン警察署長の手で禁止 された。SDSベルリン支部もケーテ祭を催し,ブロッホ*,ミューザーム,

イェーリングらと並んでルカーチもまた「今日我々にとってケーテとは 何か」のテーマで話したが,この催しはSDS主流派の執勘な妨害を受け た。これらの関連でケーテについてのルカーチの三つの小論が書かれた

(「ファッショ化されたケーテ』が「リンクスクルヴェ』ケーテ祭特集号

(6)

<ルポルタージュ 小説>論争

に,『ケーテの世界観」が『新世界』及びハンガリー語でヨージェフ*の『現 実』IMDs鯉に,そして『ケーテと弁証法」が労働者学校の『マルクス 主義者」M"城/に掲載された)。

ベルリンでは「マルクス主義美学についての新たに獲得された見解を,

アクチュアルで実践的な文化問題の領域で試して象ようとした」とル カーチはのちに書いたが,このことは何よりもまず彼の『リンクスクル ヴェ』誌上での活動にあてはまる。彼は31年11号に『ヴィリ・ブレー デルの長篇小説jを書き,同盟内の天分ある労働者作家と見なされてい たブレーデルWilliBredel(1901生)の小説『機械工場N&K』『ローゼ ンホーフ街』を批判し,そこに用いられた小説の方法としてのルポルター ジュ形式の有効性について問題を提起した。この時期はちょうど彼の起 草になる綱領草案の準備過程であり,この論文はその具体的実証という 側面をもっている。ブレーデルはあっさり批判を承認したが,彼ののち の証言によれば,これは「もう二度と小説は書くまい」というひそかな 決意に基づくものだった。そのため彼に代ってゴッチェOttoGotsche がルカーチの批評の「壊滅的方法」を論難し,大衆批評の必要を強調し た。こうしてルポルタージュ小説あるいは事実小説をめく・る一連の論戦 がはじまった。ルカーチは32年夏には同様の批判を,オットヴァルト ErnstOttwaltの小説『なぜなら彼らはなすべきことを知っているから』

にたいしても向けた。ルカーチの批判の主眼点は,小説におけるルポル

タージュ手法への固執,批評の大衆批評への還元の根が事実への自然発

生的拝鮠であって,これによっては社会のトータルな批判はおこないえ

ない,そのためには創作方法の弁証法が肝要だ,というにある。なによ

りも現実の<写真的>反映に基づく自然主義的傾向の批判を通じて反映

論への弁証法の適用が意図された。(これは30年代の研究と論争を経て

リアリズムと自然主義の原理的対立を核とする彼の文学論として形成さ

れた。)ルカーチーオットヴァルト論争の重要性にかんがゑ,同盟で討論

の夕べが計画された。しかし同盟員の多くは抽象度の高いルカーチの論

議について行けず,ほとんどルカーチのモノローグに終ったと出席者の

一人はのちに伝えている。ルカーチがオットヴァルトの反批判に答えて

論争に一応のしめくくりをおいた論文『禍を転じて福となせ』を掲載し

た『リンクスクルヴェ』のあと,翌月号はもはや出なかった。ルカー

チの寄与もその一部をなしていたプロレタリア文学の自己了解過程は強

制的に中断された。ヒトラーが権力を握ったのである。

(7)

モ ス ク ワ に 戻 る

共 産 主 義 ア カ デ ミーの研究員とな る

「文学批評家』の 創刊とラップ批判

1933年48才

ナチスの家宅捜索をうけたが,幸運にも彼の留守中だった。3月彼はド イツを脱出し,チェコスロヴァキアを経てモスクワへ戻った。おそらく 国 際 革 命 作 家 連 盟 I n t e r n a t i o n a l e V e r e i n i g u n g R e v o l u t i o n a r e r S c h r i f t ‑ steller(IVRS)‑BPRSはそのドイツセクションでもあった−

の招きがあった。ルカーチと家族のモスクワ定住はクン*の支持者たちの 妨害を受けたと言われているが,ルカーチはコミンテルンの建物の階段 で坐りこみを開始し,彼をよく知る外国人たちが頻繁に出入りするこの 場所での挑戦はすみやかに望ましい終結を見た。

共産主義アカデミーの言語文学研究所(LIJA)の研究員となる。共産主 義アカデミーは,歴史家ポクロフスキーをリーダーとし,「どの学問分野 にもマルクス主義的方法を形成し,マルクス主義の助けで科学的研究を 営む」ことをその課題とした。科学アカデミーがまだボルシェヴィキ化 されていなかったので,36年2月の合同まで両アカデミーは並んで存続

した。

夏リフシッツやウシイェヴィッチJelenaUssijewitschとともに『文学 批評家一文学理論,文学批評及び文学史のための月刊雑誌』〃花γα‐

〃a"〕ヅK河雌の創刊に関与する。前年にRAPPが解体し,新たな統一 作家団体の結成準備のための組織委員会がつくられた時期で,このため RAPPから排除されていたゴーリキなどにもかなりの批評の自由が認 められていた。ルカーチは社会主義文学のためのより巾広いイデオロ ギー的組織的基盤の要求という観点から,ラップのセクト主義(「敵か味 方か」)に対する批判においてもスターリンを支持した。当時彼は「真の イデオロギー的な,少くともスターリンによって黙認された転換」を確 信していた(ラップの解体が,主としてトロッキー的傾向のあるその旧 指導部を排除するための口実にすぎなかった,とルカーチが見なすよう になったのはのちのことである)。『文学批評家jグループの標的はラッ プ解体後のラップ路線(ファジェーエフ,エルミーロフ等)のプロパカ ンダ文学主義であった。古典作品をもその作家の階級的状態の証言とし て恋意的に解釈しなおすぐ俗流社会学>を批判し,世界観と芸術方法の 相互関係の問題を解明しつつマルクス主義文学理論を発展させることが 目ざされた。ルカーチはこの雑誌が40年に廃刊になるまで,その指導的 理論家のひとりであり,彼の論文の多く,とりわけリアリズムの本質に

かかわる理論的論文は,まずここでロシア語であらわれた。

(8)
(9)

ニーチェ批判

マルクス主義美学 の 仕 事

にたいする批判のなかでは,ルカーチがいろんな点でその源泉の一つと してひきあいに出されている。「ルカーチは最新の形態の一連の他の修正 主義者と同様にマルクス主義のなかにただ方法のみを見る」(マニコフス キー『メンシエヴィキ化しつつある観念論の哲学的源泉に関する問題に よせて』)など。しかしまた共産主義アカデミー哲学研究所のメンバーに よって書かれたミーチンーラズモフスキー共同監修の『弁証法的唯物論 及び史的唯物論』(1932)では,新ヘーケル主義的立場からの「左翼」社会民 主主義的修正主義としてマルク*やコルシュとともにルカーチの名をあ げつつも,彼に関してはすでに「今日では部分的にその誤謬を承認して いる」と述べられている。いずれにせよふたたびモスクワに姿を現わし,

その去就を注目されていたルカーチの自己批判は,彼自身『歴史と階級 意識』を本当に誤った,乗りこえられたものと見なしていたにせよ,他 方で−のちの証言にもとづくと−「文学理論上の反対派活動」を続 けるための戦術的必要から「支配的な言い方に従った」ものでもあった。

このことはルカーチが同意していなかった社会ファシズムという語が,

ここではさかんに用いられていることにも伺える。ルカーチはこの文章

をほかのどこにも収録していない。

この年半ばの共産主義アカデミーの改組で言語文学研究所が解消し,哲 学研究所文学部となった。共産主義アカデミー編の「文学百科辞典』

L伽、〃γ噸"zE"c〃ひ 〃zは30年に第一巻が刊行され,ルカーチはす でに第六巻(32年)に「ラサール」の項を執筆していたが(同じ巻にルナチヤ ルスキーが「レーニン」を,32年からアカデミーに加わったリフシッツ が「マルクス」を担当して書いている),この年出た第八巻の「ニーチェ」

の項目をも担当した。これは辞典に先立って『文学新聞」〃虎、〃"〃α Gzze"(1月16日付)に「第三の〈ルネサンス>,ファッショ美学の先駆 者としてのニーチェ」として発表され,拡大されて『文学批評家』誌に 載り,さらに翌年『国際文学』各国語版に訳載された。

リフシッツと協働してマルクスの文学遺産ととりくみク体系的マルクス 主義美学のアウトラインを形成する仕事は,まず前年リフシッツとシ ラーFranzP.Schillerの編さんした「マルクス=エンケルス芸術論』

(37年に二倍の分量の改訂版が出た)となってあらわれていたが,ルカー チはこの年『カール・マルクスとF、T.フィッシャー』を『文学遺産」

〃た、〃〃峡Ms彪曲〃0に,「マルクス=エンケルスのドラマトゥル

ギー論』を『国際劇場』〃たγ"α伽"αJT〃α彫γに,翌年には「文学理論

(10)
(11)

コ ミ ン テ ル ン 第 七 回大会

『国際文学』編集 委員となる

反ファシズムのイ デオロギー闘争

〈新しい潮流>派 の形成

いて徹底的に手を入れられ,この年刊行された第九巻に『ブルジョア叙 事詩としての長篇小説jと題して収められた。

7月25日から8月20日までモスクワでコミンテルン第七回大会(43年 5月の解散までの最後の大会)が開かれ,反ファッショ人民戦線戦術が うち出された。この画期的な政策転換の大会を,ルカーチは大きな感激 をこめて迎えた。文化の分野では,これに先立ち,6月21日−25日パリ で「戦争とファシズムに反対する文化擁護のための第一回国際作家会議」

が開催され,37ケ国の作家が参加した。(第二回は37年内戦のざなかの スペインで,第三回はふたたびパリで38年におこなわれた。)コミンテ ルン大会をうけてドイツ共産党は10月にブリュッセル大会(実際はモス クワか?)を開いたが,結語でピークWilhelmPieckは人民戦線文学の 必要に言及している。しかしハンガリー共産党が党内論争とクンら古い 方針に固執する指導者のリコールを経て「民主主義共和国のために」と いうスローガンをうち出すのは,ようやく翌夏のことである。それによっ てルカーチにも再びハンガリー共産党の門戸が開かれた。

パリ会議では「文化擁護のための国際作家連盟」がつくられ,IVRSはこ のより巾広い組織に席を譲って12月解消した。『国際文学』はIVRSの 機関誌であったが,5月号からもはやそのように明記されず,人民戦線 的性格を強めた。ルカーチはこの年から同誌の編集委員となった。彼は 1931年‑45年の同誌の全期間にわたって実に50篇を越す論文を掲載し

た。

ルカーチのファシズムに対するイデオロギー闘争は三つの側面一(1) ファシズムの代弁者たちの直接的批判(ローゼンベルク),(2)ファシズム のイデオロギー的先駆者たちの役割の暴露(ニーチェ),(3)ファシストに よって歪曲されて利用された進歩的伝統の再検討(ヘルダーリン,ビュ ヒナー)−から成っているが,その根本思想は,ファシズムがイデオ ロギーの分野において何ら根本的に新しいものでなく,これまでのさま ざまの反動的要素(不可知論,非合理主義,生の哲学,ロマン主義の更 新,生物主義,神話,間接弁護論等)を大衆的デマゴギーに適合させて 結合したものだというところにある。

当時ソ連の文芸学に大きく二つの方向があった。一方のVoprekist

(vopreki=にもかかわらず)は,バルザックについてエンケルスが述べ

たくリアリズムの勝利>という考えから出発して,リアリスチックな形

象化は作家の保守的ないし反動的世界観にもかかわらず可能であると主

(12)

〈偉大なリアリズ ム > 構 想 と バ ル ザック研究

ヴ ァ ン ヶ ン ハ ィ ム 論

マ ン 論

張した。かたやBlagodarist(blagodarja=のゆえに)たちは芸術方法に たいする世界観の優位を主張した。この対立から新しい潮流nowoje tetschenijeと自称する一つのグループが生れたが,これはルカーチ,リ

フシッツ及びいく人かのvoprekistに指導されており,『文学批評家』誌 は事実上その機関誌となった。これらの論議のなかでルカーチの「偉大 なリアリズム」構想(論敵たちの命名による)が形成された。彼はリア リズムを特定の時代(ないし階級)の様式としてでなく,現実のトータ ルな反映をめざす全文学史(「ホメロスからゴーリキにいたる」)を通ず る方法概念として把握した。この構想の基礎づけのために,ルカーチは バルザックの詳細な研究をおこない,翌年にかけて三つのバルザック 論一『農民』,『幻滅』,『スタンダールの批評家としてのバルザック』

を発表した。

『文学批評家』誌に『劇作家ヴァンケンハイム」を書く。ルカーチはヴァ ンケンハイムGustavvonWangenheim(1895生)とモスクワではじめ て知りあったが,「かなり徹底的に研究してからでなければ,私はある作 家について判断することはしない」と自ら述べるルカーチは,この論文 をヴァンケンハイムと話しあった後で書いた。ヴァンケンハイムは亡命 した劇作家たちのための援助を求めていた。ヴァンケンハイムは自己の 作品をかつて「弁証法的モンタージュ」と呼んだが,ルカーチはまさに 弁証法とモンタージュの間に根本的対立を設定し,その角度からヴァン

ケンハイムの長短を論じている。

この年トーマス・マン*がベルリンで出した『巨匠たちの苦悩と偉大さ』

を論じ,「文学的遺産にかんするトーマス・マンの見解』(『文学批評家』

誌に掲載。翌年『国際文学jにドイツ語で掲載。)を発表。卜ゞイツ文学の

ナチス神話において中心的役割を演じているケーテとワーグナーにたい

するマンの評価にヒューマニズム擁護の努力,明瞭な反ファッショ的傾

向を見出し,政治的決断をうながしている。33年以来ワーグナー死後50

年記念の講演を携えて,ヨーロッパ各国をまわっていたマンは,友人た

ち,子供たちの忠告を容れて,そのまま亡命した。ルカーチによれば「飛

躍しないで有機的な成長の形で自分の発展をおこなったことは,トーマ

ス・マンの重要な個人的特色であって,彼のすぐれたリアリズムの達成

はこの特性のおかげである。」彼はマンをふたたび身近に見出し,これ以

降,現代におけるリアリズムを探究する過程でますます深くマンの作品

のなかに入りこむ。

(13)

作 家 同 盟 ド イ ツ セ クションの形成

ノ連新憲法

1936年51才

IVRSとまたその支部BPRSの解消にともない,それ以後モスクワ在住 のドイツ人作家批評家グループは,あらたにソヴィエト作家同盟外国委 員会(コリツォフ,トレチャコフ,のちアプレティンが中心)の下で,

作家同盟ドイツセクションとして構成された。ルカーチ,ハーイ*,ガー ボルなどドイツ語を話すハンガリー人グループもここに加わった。エル ペンベックFritzErpenbeck(1897生)はのちの回想のなかで,いつも 作家同盟の建物のなかで行われたその研究会の様子をありありと描写し ている−芸術創造の問題が真剣に議論され,白熱した討論がときどき ときほく・しようのない糸玉のようになってしまう,そんなとぎいつもル カーチが賢明に,慎重に,辛抱強く,あるいは辛辣なイロニーや機智に とんだユーモアで混乱を糺した。「ケオルク・ルカーチは彼の〈ほうき>

(ひどく虐待された葉巻の吸いさし)を口もとにくわえて,がまん強く 沈黙しつつ注意深く耳を傾けていた。彼は悪しぎ話し手の不明瞭で出き そこないの定式化からさえ,彼らが実際のところ何を言わんとしたいの かを聞きとってくるたく・い稀な見事な天分をもっていた。」「最後にき まって議長はめったに自分からは口を開かないルカーチをうながした。

ねえジュリ,きみは一体どう考えてるんだい,と。すると彼は落着きは らって<ほうき>の残りを灰Ⅲにおしつけて,めんどくざいことに新し いのに火をつけ,これはすぐ・あとまたぐほうき>になってしまうのだっ たが,それから話しはじめるのだった。彼の総括的で明瞭な話のあとで は,どんな結語ももう不要だった。ちょうど彼の論文と同じように何も かもが賢明に区分され,本質的な視点にしたがってととのえられ,見 通しのきくように組立てられていた。個々の<章>は,〈ほうき>に火を つけなおすしく・ざではっきり我々にとって区分された。話していると彼 は葉巻を吸うのをすっかり忘れてしまったが,ジュリが何か忘れたもの があるとすれば,これがその唯一のものだろう。」

第一次五ケ年計画(1928‑32)で国の重工業化の基礎を固め,農業集団化 を導入したあと,ソ連では33年から技術革新を中心とする第二次五ケ年 計画に入り,いよいよ新しい社会秩序の確立が明らかになってきた。こ の36年春には,これにもとづいて新しい憲法の草案が発表されて,大衆 討議にかけられ,12月正式に採択された。ルカーチがおこなった講演「ソ 連新憲法と人格の問題」もこの討議の一環であり,このあと『国際文学』

誌に掲載された。

(14)

『物語りか記述か』

で〈自然主義と形 式主義をめく・る論 争 > に 参 加

ス タ ー リ ン に た い す る 態 度

社会主義的人間像の形成の問題とかかわって,1月『プラウダ』丹""

紙は,芸術の各領域にあらわれた形式主義,自然主義にたいする辛辣な 批判をおこなったが,リアリズム理論の確立を課題とした『文学批評家』

誌は 3月『芸術に関するプラウダ論文とその意義』と題する編集局論 文を公表し,論争は文学界に拡大した。ルカーチの名高い論文『物語か 記述か』(『文学批評家』8月号,及びドイツ語で『国際文学』に)は,

この〈自然主義と形式主義をめく・る論争>に参加して書かれたものであ る。この論文でルカーチは,5年前の〈ルポルタージュか形象化か>以 来のモチーフをさらに深く基礎づけようとしている。リアリスチックに 形象化する<物語り>と現象をはいずりまわる自然主義的なく記述>(形式 主義をその必然的な補完物とする)とが対比させられた。ソヴィエト文 学の一般的状態への批判的問題提起として意図されたこの論文は,事実 社会主義文学のなかにしばしば見られる自然主義プラス政治的プロパガ ンダにあきたりない思いをしていた人びとに新鮮な感銘を与えたが,彼 がソヴィエト文学における自然主義的傾向を資本主義的残津として説明 していたため,この傾向の例として挙げられていたトレチャコフ等(ル カーチは自らに対立する傾向においてもすぐれた才能の者のゑを例とし てあげるのがふつうだった)がやがて大粛清の犠牲となるに及んで,政 治的に奇妙なコンテキストのなかにおかれることになった。34年暮の キーロフ暗殺に端を発した粛清は,この年すでに文学の分野にも波及し ており,ドイツ=ハンガリー人グループからはオットヴァルトが最初の 逮捕者となった('1月上旬)。翌年3月スターリンは全ソ共産党中執総会 で「党活動の欠陥とトロツキストその他の面従服背者の絶滅の措置につ いて」と題する報告をおこない,搾取階級が最終的に一掃されたという 新憲法の状況認識と真向から対立して,階級闘争激化論を定式化し,「大 量弾圧と社会主義的法秩序の乱暴きわまりない侵害」(ソ党史第二版)を

基礎づけた。

ルカーチの『文学批評家』誌に拠る活動は,彼自身〈パルチザン闘争>

と名づけているように,事柄上スターリン体制の公的見解との対立をは

らむものであったが,これが全面的な軋礫にまで発展することはなかっ

た。一つには彼の亡命者としてのモラルのためであったが,いま一つに

は粛清裁判が時期的にコミンテルン第七回大会の喜ばしい転換と一致し

たためでもあった。裁判のやり方の疑わしさも彼の信念を揺がすことに

ならなかった。スターリンが「トロツキズムを根こそぎにしろ」という

(15)

モットーで巾広い大衆にまでそのやり方を押しひろげはじめたとぎ,よ うやく疑念が生れたが,そのとぎには何よりもファシズムとの闘いを優 先させないわけにはいかなかった。

『言葉』誌発刊待望の亡命文学雑誌『言葉』Wo〃がモスクワでこの7月から月刊で刊行 された。『ザムルング』Sz加加/""g(アムステルタ、ム)と『ノイエ・ドイ チェ・ブレッター』Ne"e助"たc〃B/伽Eγ(プラハ)が資金難で廃刊に なったあと,パリ会議で新しい雑誌への要望が強かった。党員のブレー デル,非党員左翼のブレヒト,ブルジョアリベラリストのフォイヒトヴァ ンカ、−LionFeuchtwangerの三人を編集者としたこの雑誌は,まさに

〈人民戦線の子>であった。実質上雑誌の編集に当っていたブレーデル が,スペイン戦争の国際旅団に加わるため,モスクワを離れることにな り,12月その後任候補としてマルクーゼLudwigMarcuseがフォイヒト ヴァンガーとともにモスクワ入りし,ルカーチ.たちと顔合わせした。雑 誌をよりリベラルなものにしようというフォイヒトヴァンガーの発案にな るこの人選は,マルクーゼの無遠慮なふるまいにたいする懸念から,モ スクワのドイツ人セクションの反対に出会い実現しなかった。「私の先 生」ルカーチがこのとき「首切り役人の顔に見えた」とマルクーゼは彼 の回想録に書いている。編集はエルペンベックがおこなうことになった。

『作中人物の知的ルカーチの重要な論文『作中人物の知的相貌」が『言葉』誌4号と6号

相貌』 に分載(ロシア語で『文学批評家』に,フランス語で『国際文学』に掲

載)。ルカーチのリアリズム論の中心概念としてのく典型>の問題を具体 化するにあたって,知的相貌の問題と筋立ての問題がもっとも重要であ

る 。

『文学展望』に書『文学批評家』編集部によって『文学展望j〃た、〃〃峡O6oz""たが

評 発刊され,41年までに15篇の書評,紹介を害く。そのうち11篇は36‑37 年にあらわれ,マン兄弟,フォイヒトヴァンガー等反ファッショ作家を あつかっている。のちほとんど再録されていない。

ゴーリキ論6月ゴーリキが亡くなった。ゴーリキの生涯かけた仕事を検討しようと

したルカーチのいくつかの論文は,その死をきっかけに書かれた。『革命

前ロシアの<人間喜劇>』(『文学批評家』9号,翌年『国際文学』にドイ

ツ語で掲載),『母(M.ゴーリキの小説)』(『文学展望』),『解放者(ゴー

リキ)』(『国際文学』9号,ゴーリキ特集号であった),『偉大なプロレタ

リアヒューマニスト(ゴーリキ)j(『国際文学」英語版8号)。

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『歴史小説論』

19世紀文学の探 究

『ドイツ中央新聞』

への寄稿

『若きヘーゲル』

完成

1937年52才

36‑37年の冬に成立した『歴史小説論」を『文学批評家』誌に分載。ソ 連及び反ファシズム作家において歴史小説が担っている大きな役割をふ

まえ,そのもっとも重要な理論的問題を論じている。ルカーチはジャン ルとしての歴史小説を否定して,現代の前史を再現した小説と規定し,

スコットに始まるその発展を彪大な素材を駆使し考察している。「歴史的 な精神と歴史の全体性を描いた偉大な文学との間の相互作用」の解明を モチーフとした同書は,山村房次の手でただちに和訳され,プロレタリ ア文学敗退後の暗き日々に抵抗の糧として多くの人々に迎えられた。

19世紀ドイツ文学の研究を深める。『シラーとケーテの往復書簡」(アカ デミー版への序文,ドイツ語では翌年『国際文学」に掲載),『ファッショ 化されたケオルク・ビュヒナーと本当のビュヒナー』(『言葉』及び『文 学批評家」),『ハインリヒ・フォン・クライストの悲劇』(『文学批評家』

及び「国際文学』),「シラーの近代文学論」(『国際文学』),『国民詩人とし てのハイネ」(『国際文学』)などを発表。ルカーチのまなざしは「過渡期 の危機」(ビュヒナー論)にたいする思想的人間的対応に注がれている。

またモスクワの芸術文学出版社から『19世紀の文学理論とマルクス主 義』と題する論文集を刊行。既発表のフィッシャー,ジッキンケン論争,

メーリングに関する論文のほか,『ルードヴィヒ・フォイアバッハとドイ ツ文学jが収められている。

モスクワに住むすべてのドイツ人(約二千名)を組織した「エルンスト・

テールマン」クラブの行事の一環として,3月24日ビュヒナーとベルネ について,10月28日にはソヴィエト文学の発展について講演をおこな

う 。

ソ連在住のドイツ人のために1926年からモスクワで発行されていた日 刊新聞『ドイツ中央新聞j此"たc勉励"伽z卜娩伽昭に,この年から翌年 にかけて,エンケルスの反デューリング論,フォイアバッハ,10月革命 の20周年記念,ベッヒャー,ハーイ,トルストイなどについて書く。

晩秋に,この三,四年ふたたびとりくんでいた『若きヘーケルjを完成

〔1938年説もある〕・ドクター論文として提出し,ソヴィエト科学アカデ

ミー(36年2月共産主義アカデミーが合同して以来38年までルカーチ

は科学アカデミー会員だった)によって認められ,哲学博士となる。し

かし出版は遅れた。とりわけ大戦中にはヘーケルはフランス革命にたい

する封建的反動のイデオローグだと主張されさえした(『ソヴィエト百科

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『新しい声』創刊

ド イ ツ ・ セ ク シ ョ ンの指導

表現主義論争

事典」「小哲学辞典」にもこの定式が採用された)。ルカーチは党のこの 規定をばかげたものと見なしたが,ヘーケルの正しい解釈のためにたた かうよりは,ファシズムにたいする戦争を一致して勝ちぬくことのほう が重要だと判断せざるをえなかった。出版はやっと十年後におこなわれ た 。

1938年53才

1月,人民戦線的な性格をもつ新い、ハンガリー語雑誌「新い、声jあ

MMgがモスクワで発行される。編集陣は,バラージ*,バルタBarta Sandor(創刊号の編集長),ベレニBOlOniGyOrgy,ファーブリFAbry Zoltan,フォルバートForbathlmre,ガーボル(第二号以降編集長),ゲ ルケイGergelySandor,ルカーチ,マジャールMadzsarJ6zsef,そし てヴァッシVassLAszl6であった。ルカーチはレーヴァイ*と並んで,こ の雑誌の一般的な方向づけを決定するにさいして重要な役割を果した。

この雑誌はハンガリーの国境の外にいる数百の者をのぞけば何ら見るべ き影響を与えなかったが,41年6月に停刊になるまでのわずかな期間 に,解放後のハンガリー知識人を導くことになる原理を用意することが できた。ルカーチはここに30余のー既にロシア語とドイツ語で発表さ れたものを含め一論文を載せたが,そこではとりわけホルティ*体制に 対するハンガリー統一人民レジスタンスに焦点があてられている。この ことはハンガリー国内で書かれたものをマルクス主義にあうかどうかで ふりわけるやり口と決裂することであった。

3月,ソヴィエト作家同盟ドイツセクションの指導部の再組織がおこな われ,ルカーチもビューローのメンバーに選出された。議長のベッヒャー のほかに,シャラーAdamScharrer,エルペンベック,ガーポル,秘書 としてハルペルンOlgaHalpern‑Gaborが加わった◎ルカーチはこの 年ドイツセクションの催したく文学の夕べ>で,「歴史小説の古典的形式」

及び「文化遺産へのマルクス=レーニン主義的アプローチ」の二つの講 演をおこなった。またセクションの活動の一環として大学や職場にも講 演に出かけた。

6月,ルカーチは『リアリズムが問題だ」を『言葉』誌に発表し,この 雑誌を主要な舞台としておこなわれていたいわゆる表現主義論争に参 加,さまざまな「前衛的」諸潮流に自らのリアリズム構想を対置した。

同じくこの年に発表された『トルストイとリアリズムの発展』(『国際文

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ブレヒトの批判

学』),『ブルジョア美学における調和的人間の理想』(『言葉』),『マルク スとイデオロギー的頽廃の諸問題』(『国際文学』)は互いに補いあいつつ,

彼のリアリズム論の歴史的美学的基礎づけを試みている。表現主義論争 は,前年9月のクラウス・マンKlausMannとツィーグラーBernhard Ziegler(AlfredKurellaの筆名)の論文ではじまった。ベンGottfried Bennのナチスへの加担がそのきっかけで,今や遺産の洗い直しが始 まった。かって何らかのかたちで表現主義とかかわってきた体験を多く のものがもつだけに,論争はきわめて熾烈であった。一年間にわたる論 争に『言葉』誌だけでもレシュニッツァーFranzLeschnitzer,ヴァルデ ンHerwalthWalden,ヴァンケンハイム,バラージ,ケメーニAlfred Durus(Kem6nyi),フォーゲラーHeinrichVogeler,レオンハルト RudolfLeonhard,ブロッホなど15人の作家,批評家が加わった。なか でもしかし,最も明瞭に対立しあう戦線を形成したのはブロッホとル カーチだった。彼ら・の対立において議論は本来の表現主義の範囲をもは や越え出てしまった。ルカーチは「人民戦線と文学の民衆性と真のリア

リズムとのあいだの緊密で多面的で何重にも媒介された関連」を指摘す ることによって,討論全体をリアリズムの問題へ向けようとしたが,論 争の拡大が統一戦線の基盤をほり崩すのを恐れた編集部によって論争そ のものが次号で打ち切られ,ツィーグラーが『結語』を書いた。その同 じ号に,この雑誌の事実上の編集者として論争の本来の推進役を果して いたエルペンベックが,「民衆性」についての討論を代って呼びかけた。

この標語が36年のソヴィエトの形式主義と自然主義をめく・る論争のな かで自己批判として生み出されてきたものであるように,表現主義論争

もソヴィエトのこの論争のドイツ版的一一面をも持っていたと言える。

この時代デンマークに亡命していたブレヒトは論争を注意深く追ってい たが,とりわけルカーチの理論に自己と異質な文学構想を見出し,批判 的な評言を書きつけていた。しかし編集部の一翼を担うものとして,彼 はこれを公表せず(1966年すなわちブレヒト死後10年たってようやく 公表され,その以後「ブレヒトールカーチ論争」としてさまざまな面か

ら解明された),むしろ論争の打切りを提案していた。彼にとってルカー

チの理論は−彼はそこから多くを学んだことを認めていたが−バル

ザックやトルストイなど19世紀の長篇小説の書き方に一面的に依拠す

る「批評の形式主義」であった。しばしばデンマークで一緒に過したベ

ンヤミンWalterBenjaminはブレヒトの辛辣な言葉を伝えている。「ド

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ゼーガースとの往 復書簡

ベ ッ ヒ ャ ー に よ る 讃辞

『リアリズムの歴 史によせて』刊行

イツ人というのはまったく糞野郎だよ。ヒトラーからドイツ人全般を推 しはかってはいけないなんていうのは嘘っぱちだ。ぼく自身を反省して みても,卜‐イツ的なところは全部悪質だ。ドイツ人の我慢のならない点 は,むやみにひとり立ちしたがる了見の狭さだ。……ルカーチは自分か ら選んでドイツ人になった男Wahldeutscherだ。おかげで彼はへとへ とになり,今や息も絶えだえのありさまだ。」

ルカーチのリアリズム論文の出た6月の末,/くりにいたゼーガースはた だちに彼に手紙を書いた。亡命の日々,ゼーガースはルカーチに学び つつ,バルザックやトルストイの小説の構成を研究した。しかし表現主 義をめく・る評価対立をもリアリズムの創作方法へ集約しようとしたこの 論文に接して,方法以前に「言われざる」問題がまだ残っているのでは ないかという疑問が彼女の手紙の出発点であった。危機の時代が芸術家 に及ぼす克服しがたい「直接的印象」を核心にすえて,ルカーチのリア リズム構想の狭さ,反ファッショ闘争とデカダンス批判の同一視に異論 を唱えている。翌年3月までそれぞれ二通の手紙のやりとりがあり,そ の後『国際文学』に掲載された。〔やはり翌年の『国際文学』に発表され たルカーチの『作家と批評家』は,おそらくこの往復書簡を契機として 書かれたものと考えられる。〕

1939年54才

年頭,表現主義論争を受けて『ドイツ中央新聞』にヴィーデンPeter WiedenことフィッシャーErnstFischer(1899生)がルカーチのリアリ ズム概念に疑問を提出。ただリアリスティックというだけでよいか,社 会主義リアリズムは他の国にも適用しうるかを論ずる。ルカーチは同新 聞に『リアリズムの限界?jを書いてこれに答える。卜 イヅセクション の〈文学の夕べ>で「フランツ・メーリング」について話すなど,前年 にひき続きセクションの内外で講演活動をおこなう。

31年に知りあって以来,ベッヒャーはルカーチの最も強い理論的影響F にあったが,4月に刊行した詩集『勝利の確信と偉大な日々の展望jに 収めた詩『G・L』で「われらはなんじの教えのなかではじめて大人に なった」とルカーチを讃え,ついで作家同盟機関紙『文学新聞』(5月26

日付)にエッセイ『亡命の中で』を寄せて,反ファシズム文学における ルカーチの役割を「メーリングの後継者」として特徴づけた。

芸術文学出版社から『リアリズムの歴史によせて』を刊行。34−38年に

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独 ソ 協 定

『文学批評家」誌 にたいする批判と くリアリズムの勝 利>をめく・る論争

書かれたヘルダーリン,クライスト,ビュヒナー,ハイネ,バルザック,

トルストイ及びゴーリキについての論文のほかに,この年『国際文学j に発表した『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』と初出の『ウェル テル』論を集めている。これらの作家や作品に即してルカーチは世界観

と創作方法の矛盾と関連についてさまざまの形で論じている。

同じねらいに基づいて,しかしまたドイツとハンガリーの民主主義問題 の反省に立って,『アディ,ハンガリー悲劇の偉大な歌い手』(『新しい声」)

及び『ケラー』論(『国際文学』に連載。翌年少数諸民族出版社から独立 の冊子として刊行)が書かれた。

ドイツファシズムに対抗する集団安全保障体制を形成しようとするソ連 の試永は挫折し,8月23日ドイツとの間に不可侵条約が締結された。ス ターリンのこの政策は少なからぬ人たちに大きなショックを与えたが,

ルカーチはこれを基本的に正しい政策と見な,した。ルカーチによれば,

この点でのスターリンの誤りは,ヒトラーの西欧諸国への攻撃を第一次 世界大戦同様の帝国主義戦争との承見なし,コミンテルンの名において 真の敵をヒトラーではなく,母国政府と見ることを西欧(とりわけ英仏)

の共産党に義務づけたところにある。

193$40年54‑55才

悪化する政治情勢のなかで古い対立がむしかえされ,ファジェーエフ,

エルミーロフらのグループが党上層の支持を背景に作家同盟の統制をお こなう。『文学批評家』誌はすでに前年作家同盟の指導の官僚主義を批判 していたが,9月『文学新聞」は「「文学批評家』誌の有害な見解につい て」と題するエルミーロフの長大な論文を載せ,ルカーチ,リフシッシ らによる同誌の私物化を論難「ルカーチ,リフシッツー派は卑俗社会学 派的な単純化と闘うという口実のもとで,文学史や芸術史は階級闘争の 外に立つという自身の理論をかつぎまわり……ロシアの歴史過程にたい する非マルクス主義的非レーニン的見解をもちこんで読者を迷わせた。」

と批判した。これに先立って『文学批評家』に載ったウシイェヴィッチ の政治詩に関する論文(当時の政治詩の水準をマヤコフスキーに比べて はるかに劣ると批判していた)が攻撃されていたが,これ以後批判の主 要な対象は,リフシッツの諸論文のほか,『19世紀の文学理論とマルクス 主義』『リアリズムの歴史によせて』,そしてまたこの年「文学批評家』

に掲載された『芸術家の二つのタイプについて』『芸術家と批評家』など

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官僚主義批判

ド イ ツ セ ク シ ョ ン

ルカーチの諸論文に移った。論争は主に『文学新聞』と「文学批評家』

を舞台に,しかしまた『ソヴィエト芸術』や「国際文学」などの誌上で もおこなわれ,ほぼ一年続いた。論争の一方にはルカーチ(「文学新聞』

に『ロンドンの霧」「進歩の擁護者の光にてらしてゑたリアリズムの勝利』

を発表)のほかリフシッツ,ウシイェヴィッチ,アレクサンドロフW.

Alexandrow,アリトマンJ・Altmann,グリープ,フラートキンI.

Fradkinら,他方にクニーポヴィッチJ.F.Knipowitsch,キルポーチン W.Kirpotin,エルミーロフらが関与した。議論は『文学批評家j誌のプロ フィルとその寄稿者たちによって主張されていた文学理論的,文学史的,

方法論的根本命題に関わるものであり,精神的生産と物質的生産の関係 における不均等発展,方法と世界観の関係(現実と芸術的生産のあいだ のイデオロギー的世界観的媒介の役割)が,対決の中心問題として,遺 産獲得及び作家の党派性との関連で論じられた。とりわけルカーチの「意 志に反してのリアリズムの勝利」のテーゼは激しい論議を呼びおこした。

批判者たちは「新しい潮流」派の,社会主義リアリズムの作家と作品に たいする態度に照準を合わせ,ついには「「文学批評家』誌の方針はソヴィ エト芸術の抹殺であり,その活動は勝利した社会主義の現実への敵対的 見方に根ざしている」とまで断言するにいたった。『文学批評家」誌は,

「引用文の意識的な歪曲の上に組承立てられた」これらの非難に反論し たものの,党中央は40年末「文学批評と書誌について』の決議で,「作 家と文学から遊離した」として同誌の刊行を停止した。(ルカーチの発表 されなかった論文『リアリズムの勝利についての混乱』『基本命題なぎ論 争についての根本問題』「進歩の諸矛盾と文学』は,この論争にたいして,

あるいはそのレジュメの試みとして生れたものと考えられている。)同誌 廃刊のあと,ロシアの文学ジャーナリズムへの扉はルカーチにたいして 事実上閉され,以後彼の論文はもっぱらドイツ語で「国際文学」に,ハ

ンガリー語で『新しい声』に載せられることになる。

1940年55才

『国際文学』に『護民官か官僚か』を連載。レーニンの『何をなすべき か」に学びながら,社会主義文学の問題に適用して考察している。コフ ラーLeoKoflerはこの論文を,スターリン時代にソ連で公刊された最 も鋭い官僚主義批判と評価している。

3月26日,ドイツセクションの会議がおこなわれ,ビューローが再選挙

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ハ ン ガ リ ー 反 フ ァ シズム運動め分析

『ファウスト』論

逮 捕 と 投 獄

された。ルカーチは満票を得る。議長はベッヒャーが継続した。ルカー チの絶えず進められているドイツ文学の研究の中から,この年『アイヒェ

ンドルフ」と『ラーベ』が『国際文学」誌に発表された。

ハンガリーでは,37年3月「人民派」nepiesと呼ばれる農民文学運動の 作家たちを中心に,反ファシズムの三月戦線MarciusiFrontが結成さ れたが,その綱領には進歩的な要素と並んで,民族主義的非合理的要素 が混在し,そのため運動は前年の39年には左右に両極化した。他方「都 市派」urbanosの作家たちは,人民派のあいまいなイデオロギーに対す る不信と自身の反ファシズムの不徹底さのため,孤立し,やはり前年危 機に陥っていた。ルカーチは人民派の左右対立を論じて『プロローグか エピローグか」(『東方の人民jKな〃M"誌に掲載)を書き,また都市 派の雑誌『美しい言葉」"""dの諸論文を分析し,その危機を論じて

『闘争か降伏か」(『新しい声』掲載)を書く。

1941年56才

「国際文学」とこの年停刊になる『新しい声』に,ひき続きハンガリー 文学とドイツ文学について多数の論文を書く。なかでも『ファウスト研 究」は卓抜している。「人類の歩む途は悲劇的なものではないが,そのゑ ちの通るところ,そこには無数の個人の悲劇があり,それは客観的には 必然的であった」というファウスト理解のモチーフには,重要な意味と

思いがこめられている。

〔4月頃?〕突然ルカーチは逮捕され,一,二ケ月投獄される。彼は

NKWDによって,政治的自伝(尋問の基礎として役立つ)を書くよう命

じられた。〔ルカーチアルヒーフには41年春までの共産主義運動家とし

ての彼の経歴を書いた三ページのドイツ語の文章が保管されている。〕尋

問者は,彼が20年代初期以来「トロツキストの代理人」だったという自

白をひき出そうとしたが,成功しなかった。ハーイは伝えている。「ケオ

ルク・ルカーチの逮捕について私はもちろんすぐ・に知らされた。私は妻

のミッキーといっしょにケルトルートのところへ行ったが,彼女の態度

には感心した。私はラーコシ*のところへ行き,彼に−ガーボルやバ

ラージたちと同じように−介入してくれるよう頼んだ。ラーコシは自

分の力にできることなら何でもしようと約束した。そしてたしかにその

通り彼は約束をまもった。勝利したあとルカーチぬきでハンガリーへ帰

るのは,彼にとって苦痛以上のことだったにちがいない。……ルカーチ

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ブレヒトと再会

『別離』論

開戦とタシケント 疎開

捕虜に講義をおこ なう

の件は幸運にも釈放されてけりがついた。どうしてまた逮捕されたりし たのだろうと彼にたずねると,彼は〈第五列さ>と答えた。しかし私は そうは思わない。」ディミトロフもまたドイツやオーストリアやフランス などの知識人たちから,またもちろんハンガリー人たちから,ルカーチ のことで多くの抗議を受けとり,個人的に介入した。

5月モスクワに来たブレヒトと再会する。ブレヒトはナチスの侵攻を避 けてアメリカへ向う途中だった。ルカーチはそのとぎのことを後に回想 している,「我々はそのとぎ文学の状況についてたちいった話しあいをし た。ブレヒトの言いまわしは今日でもありありと思い浮かべられる。い ろいろな側から彼にけしかけようとするものがいると彼は言った。たし かにこのことは私のほうでもそうだった。しかし我々両名ともこうした 試みにはあらんかぎり抵抗しようということになった。」と。

この年5月22日,50才の誕生日を迎えたベッヒャーのために,その長篇 小説『別離』の書評を書く(『国際文学』に掲載)。表現主義的時期の描 写が主要な位置を占めているこの自伝的小説をベッヒャーは表現主義論 争のざなかにモスクワで完成した。ルカーチは「別な風になること」と いうこの小説のモチーフがどのように主人公の道徳的葛藤のダイナミズ ムに集約されているか,またそのために体験の流れの技法がどのように ジョイスとちがった用い方をされているか,を解明している。

6月22日,ヒトラート.イツによるソ連攻撃がはじまり,続いてファシス トハンカ.リー政府もソ連に宣戦を布告した。戦況の悪化にともない,10 月14日,ソ連作家同盟のメンバーといっしょに,ドイツセクションのメ ンハーールカーチ,ベッヒャー,力.一ポル,レシュニッツァー,ヴァ ンケンハイム,ヴァイナートErichWeinertら−も家族ともどもタシ ケントヘ疎開。映画関係のヴォルフFriedrichWolf,ハーイ,バラージら は途中で別れ,アルマアタヘむかった。タシケントでは何もすることが なかった。モスクワ帰還は翌年6月だった。

1942‑44年57−59才

ヒトラーの攻撃のあと,亡命者たちの活動の政治的側面が前面に出てき

た。多くの作家たちがラジオや兵士むけのビラの仕事をし,その中でファ

シズムの背景を明らかにし,そのデマゴギーの仮面をあばいた。ルカー

チもドイツとハンガリーの戦争捕虜,とりわけ高級将校たちにモスクワ

郊外の反ファッショ学校で講義をおこなう。

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ヨージェフ論

ドイツ文学史

せなかった共産党は17%しかとれなかった(農民票を獲得した小地主党 が52%とった)。ルカーチは党の中央日刊新聞『自由な人民」SzabadN6p 紙上で,民主主義の問題を中心に論陣をはり,また同党の代議士として 臨時議会のメンバーであったが,党内では重要な地位につかず,主とし て文化の新たな民主的方向づけのために尽力した。

とりわけペテーフィーアディーヨージェフのラインの確立を基軸にお き,党の出版社シクラから「文筆家の責任』の第二版に加えて,「アッティ ラ・ヨージェフの詩』を出版。後者は12月2日おこなった二つの講演を 収めている。ルカーチはまた死後八年たったこの年ようやく党によって 名誉回復されたこの詩人の人格と詩をめく・るアクチュアルな対決から出 発して『党の文学」を書き(公刊は二年後),その中で党の詩人は指導者 でもなければ兵卒でもなく,むしろパルチザンであって,なるほど党の 世界史的課題とは深く結びついているが,すべての具体的問題において は「絶望の権利」にいたるまでの実践的自由をもたねばならぬと主張し

た。

この年から刊行をはじめた新聞『新い、言葉」吻如に協力し,翌年に かけてプーシキン,シチェドリンなどロシア文学関係の論文を発表。雑 誌『ハンガリーの人々』ルfg)"z"たに,前年ソ連で書いた『トルストイと 西洋文学」を掲載する。またフンガーリア出版社から『バルザック,ス タンダール,ゾラ』を刊行。これらを通じてハンガリー文学に偉大なリ

アリズムの指針を与えようと志ざす。

44/45年の冬モスクワで書いた二つの論文「ドイツ文学における進歩と 反動』及び『帝国主義時代におけるドイツ文学」を『国際文学』に発表。

ついでベルリンのアウフバウ社から独立の冊子として刊行(翌年のハン ガリー語版は『近代ドイツ文学史スケッチ」として一冊本になる)。彼の 戦後最初のドイツ語の著書であった。30年代の個別研究にもとづき,

ファシズムとの精神的対決を軸としてドイツ文学史を再検討するために

書かれた同書は,さしあたりこの分野で言わばマルクス主義そのものと

して迎えられ,その理論水準の高さと知識の該博さにより,またその民

主的統一戦線の観点によって戦後のマルクス主義ケルマニステイクのた

めの基礎をおき,続く十数年のそのコースを決定することになった。47

年には部数はすでに五万部に達したと言われている。カスパール

GUntherCasparやツヴォイドラクGtintherCwojdrakらが証言して

いるように,ファシズムの夜に生い立った若い文学者批評家の世代に一

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共産党第三回大会 で 演 説

『フォールム』誌 創刊

ル カ ー チ の / 、 ン ガ

リー文学への寄与

ジュネーヴ国際会 議でヤスパースと 論 戦

(都市派一人民派)の仲裁裁判官たらんとするものである。

9月末から共産党は第三回大会を開催。内乱なしに人民民主主義から社 会主義へ移行する可能性を前面に押し出した。この45‑48年の時期は,

ルカーチにとって,彼がかつてブルムテーゼで主張した労働者農民の民 主主義独裁の具体的実現であった。大会に出席したルカーチは,「知識人 のマルクス主義との出会い」について演説した。

9月にヴェールテシVGrtesGyOrgyを編集長として月刊文化雑誌

『フォールム』剛〃"が創刊される。ルカーチは編集委員会のメンハー であるだけでなく,一貫して同誌の精神的指導者であった。創刊号に掲 載した『ハンガリー文学の統一」を皮切りに,同誌が50年に廃刊になる までに,主としてハンガリー文学と文化政策をめく・って約30の論文を発

表する。

『近代ドイツ文学史」「偉大なロシアのリアリストたち』「ケーテとその 時代』『ニーチェとファシズム』など亡命時代の諸論文を集めてハンガ リー語で出版したほか,さまざまの新聞,雑誌で熱病的なまでの活動を 展開する。ルカーチがハンガリー文学に与えた主要なものは,(1)自己満 足的な文学理論をうち砕き,著述の社会的責任ということを広く受け入 れさせたこと,(2)リアリズムを正面に押し出したこと,(3)帝国主義時代 の文化の矛盾に光をあてたこと,(4)人民派と都市派の両陣営を和解させ たこと,等である。「ハンガリーの文化生活は,彼の姿によって,そのか しこい説明によって,その果しない詳論によって,そのやさしい忍耐強 さによって,その威厳ある距離によって,そして−その葉巻によって 支配されていた」とアツェールAczelTamasはく共産主義文学政策の法

王〉ルカーチのことを書いている。

9月9日,ジュネーヴでおこなわれた「ヨーロッパ精神」をテーマとす る第一回国際会議に出席。「貴族的世界観と民主主義的世界観について」

の講演をおこない,ファシズムの思想的根源の清算とそのために社会主 義と民主主義のイデオロギー的同盟の必要性を主張した。ほかにヤス パース*,パンダJulienBenda,スペンダーStephanSpender,ベルナノ スGeorgesBernanosなどが講演をおこなったが,とりわけルカーチと ヤスパースの間に激しい論議の応酬があった。『理性の破壊」を書く構想 はすでに彼の講演のモチーフのなかに肝胎しており,その一部をなす『第 一次世界大戦前のドイツ社会学」及び『両大戦間のドイツ社会学』が『ア

ウフバウ」誌に掲載された。

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