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原度正原度正原度正

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27

フリードリッヒ・ヘッベル笥凰風國島露呂胃一︾屋屋19︶

の戯曲﹁アグネス・ベルナウエル﹂S曾$罵目呂閏︶は︑

悲劇は個人と世界との伽突から生れ︑しかも個人はその怠志

の方伽にかかわりなく︑単に存在することによって世界の秩

序を乱し︑その紬果滅亡しなければならない︑という彼の悲

劇理紬を典休的に示す典型的な作品である︒すなわち︑彼に

あっては︑悲劇的罪過は︑﹁キリスト教の服罪のごとく︑人

間の噸志の方向からはじめて生ずるものではなく︑泣接︑通

志そのものから︑自我の独怖で弧ままな膨扱から生ずる︒従

ってその際主人公がすぐれた努力によって挫折しようと︑非

難すべき努力によって挫折しようと︑劇的には全く問勉では

ない﹂のである︒︵雷号冨一壱言の言言◎再号閏含画厚働目画︶

そして﹁アグネス・ペルナウエル﹂の場合︑この罪過は﹁美

貌﹂という形をとって現われる︒一八五一年九月三十Ⅱその

第一幕を密き終ったとき︑彼は日記に次のように宙いた︒ P︑

ミシ四︺吊国①冒︽昌胃亀

における個人と国家の問題

﹁ずっと以前から私は︑美というものをも︑それ自身が滅亡

の脱因となるような側から描こうという意図を持っていた︒

アグネス・ベルナウエリンはそれに打ってつけだ﹂

ただ美貌に生れついたばかりに︑周鮒に思わざる波測を捲

き起し︑その緒果河中に投ぜられて悲惨な般期を遂げるアグ

ネスの巡命は︑ヘプペルの州わゆる﹁無罪過の悲劇﹂なる観

念を蚊も端的に︑純粋に典体化したものとしてそれ自叫興味

をひくけれども︑それでは一体ヘッベルはこの観念をいかに

肉付けして︑悲劇を櫛成したであろうか︒

この﹁アウグスプルクの天使﹂と呼ばれる理髪師の娘は︑

絶世の美人であるために︑たまたまこの町で佃された武術仕

合で︑ミュンヒエン・・ハイエルン公跡家の嗣子アルプレヒト

の眼に止り︑彼の激しい慨然にほだされて︑秘密の紡僻をす

るに至った︒父エルンスト公は︑予てから︑当時ミュンヒェ

ン︑インゴルシュタプト︑ランッフートの三公聞に分裂して

いた・ハイエルンを再び統一しようという意図を持っていた

し︑アルプレヒトの非合法的な結嬬が他日内乱の因となるこ

原度正

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ウ︑ザた︒さればヘッペルの酷評家をもって知られているプルトハ

ウプトですら︑了−1しかしルードヴイプヒはテーリング伯

のあの退屈なアグネス劇を激賞しているけれども︑一方また

ヘヅペルに対する反感を克服して︑彼に当然帰すべき名答を

保留すべきではなかったであろう︒彼自らこの材料と絶えず

取り組み︑これを処理することの困難さを思い知らされたの

だから︑尚更のことである﹂︵国昌昏呂胃︾ロ国目色冨旦の号印

牌言扁凰の房.目.里.い弓ごとへヅペルの扇を持っているく

らいである︒

なるほどオブトー・ルードヴイッヒも言うように︑ヘッペ

ルの特質である冥想癖がここでも顔を出し︑用語がとかく塁ピダヲマダイプシュー格言詩的になって︑感傭よりも陪性に訴える要素の多いこ

とは︑ヘッベルの作品に共通の弊であるけれども︑この作品

は問鼬となる最後の場而を除いては︑ヘッペルの円熟期の作

品として︑他の作品に見られないような数多くの美点を持っ

ている︒例えばプルトハウプトの言を借りて言えば︑﹁この

戯曲の中で︑ドイツ中世都市の生活が何と鮮やかに気持よく

描かれていることであろう︒また若い騎士たちの行動の何と

血気さかんで冒険的なことであろうIまるでヘッペルが彼

のアルプレヒト公の中に︑彼自身のあらゆる青春時代の熱狂を取り戻したかのようであるIそれ程アルプレヒトはわれ

われを彼の冒険と恋愛の渦巻の中へ引きずり込んで終うの

だ︒そして彼と対照的に︑血肉をそなえた国家理性そのもの 凸.︽

でありながら︑純粋な好意と︑息子︑人民︑国土に対する私

心のない愛怖をあわせ持った︑賢明にして理解に常んだ父

親︒散文はこれ以上詩的に︑生真面目はこれ以上気持よく︑

惨酷はこれ以上おだやかには描かれることはできないである.

うlこれ以上慎重に考慰された︑あらゆる接ぎ目がこれ以

上固い︑これ以上成熟した人間の創作は全く考えられない﹂

︵国昌昏幽色目蓮鈎︒釣.○.印弓e

プルトハウプトはこの賞讃のあとで︑﹁しかし﹂と言葉を↑

継いで︑爆弾的な疑問を提出する︒﹁ことアウグスプルクの

天使の悲しむべき破滅が問題となるとき︑この人間の政治の

真髄なるものは︑一体われわれにとって何の意味があるので

あるか?﹂たとえエルンスト公やその側近の宰相や裁判官た

ちの処瞳が︑公爵家の血統を保持し︑国家を戦禍から守ろう

とする立場から一応尤もであるとしても︑若い愛人達を引き.

離し︑美しい罪のない生命を胸家のために犠牲にすることが

果して正しいことであろうか︒

一一一

われわれは先ずヘヅペル自身が﹁アグネス・ペルナウエル堤

を杏いたとき︑岡家なるものをどんな風に考えていたかを検

討して見よう.彼は一八五一年十二月二十四日この作品を書

き終ったとき︑日記に番いた︒﹁この作品の執飛中私は限り

なく愉快であった︒そして又もや︑芸術では子供が父親に︑

F f

I︲AI1l︲l︲︲1︑

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﹄毎動噌︶ のであると附爵している︒︵臼︼宍且言の目の﹃︾具冨.評胃. 何らの噛州を期待しない﹂そしてこの見解は全歴史を面くも 見解であって︑私はそれによって今日の空虚な民主主溌から が現われているに過ぎないからである︒これは典剣なにがい の中には余人麺が生きており︑個人にはただ人類の個々の而 ている︒その択は︑社会とその必然的形式的表現である側家 ても︑社会に屈伏しなければならないことが具体的に示され も︑いかに商貴で美しくあっても︑如何なる邪冊の下におい 二人の人物によって︑個人はいかにすばらしく伸大であって そして峨尚の階屑から出たのと︑最低の階肘から出たのと︑ 中︶全く間単に︑個人の国家に対する関係が示されている︒ 釈を与えている︒﹁この中では︵アグネス・ベルナウェルの であったかは︑カール・ヴエルネルに宛てた手紙が詳しい註 を示すものであるが︑さてその国家観なるものがどんなもの 国家観がこの頃まではっきりした形を取っていなかったこと は大きな収穫だ﹂このことは︑あとでも触れるように︑彼の 持つ関係を︑今ほどはっきり認識したことはなかった︒これ したことが実証された︒これまで私は︑個人が国家に対して 作品が作家に教えるものだという︑もちろん私自ら屡々体験

ヘッペルの剛家に対する考は︑はじめから一定の形をとっ

ていた訳ではない︒彼は﹁何らかの政党の型にはまるには︑

あまりにわが侭であった﹂︵○.言堅且.吋臥①萱島国g胃一

︽q4 巨己嵐愚口冨目目.窪︶はじめの頃彼の思想は︑十八世紀の個人主義に近かったから︑国家をもってむしろ個性の天才的方向と発展を︑萠芽のうちに圧殺して終うものとして呪っていた︒また芸術的偲人主義の立場から︑芸術活動をただ個人の仕事としてのみ可能と考えていたから︑共産主義を州んだ︒例えば︑一八四七年四月四日の記に︑次のような記事が見える︒﹁純粋な共産主養の理念は︑あらゆる所有︑従って緋神的所有をも排除する︒共産主義が実行されると︑ただ人顛なるものが描き︑詩作し︑作曲するであろう︒詩人︑画家作曲家なるものはもはや存在しなくなるであろう︒何となれば︑誰も名乗を上げることが許されず︑それをするものは犯罪者であるからである﹂彼が後に至っても︑専制主義の擁渡若でなかったことは︑一八四八年六月二十五日の﹁ヴイーン通偲﹂の中に﹁私のように立葱君主制に心から好意を持つ﹂︵留日二房言毒角冨.×・恩.い忠︶という冨莱があることによっても分る︒

ヘッペルが個人に対する岡家の優越をはっきり蝿めるに至

った契擬は︑一八四八年の蛾命の休職であった︒彼は恥珊の

混乱と無秩序を目のあたり見て︑急進的民主主義迎動に対し

て懐疑的になった︒彼はこの迎勤に加担することは︑かつて

新しい恢界がその巾から生れた混沌を︑全文明の椛牲におい

て︑再び呼び川すことになるという硴傭に途した︒そしてこ

の兇解は︑﹁アグネス・・ヘルナウエル﹂を瀞いたときに︑一

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層はっきりとした形をとったのである︒

ヘソベルが最後に到達したこの国家観は︑世界観の場合と

同様に︑ヘーゲルのそれと全く符合する︒ヘーゲルは︑﹁国

家を以て人倫的イデーの実現︑肉となりたる民族理性︑個体

があらゆるその理性活動を挙げてその中に吸収せらるるの巡

命を布する所の完全生活と兇倣した﹂︵安倍能成氏﹁西洋近

代街学史﹂第三一二頁︶ヘーゲルの湖わゆる﹁理性の施計﹂

︵匡鼻包胃く⑦目匡冒津︶なる歴史哲学上の概念もまたヘッペル

の思想と一致する︒すなわち︑理性︵国家︶は︑特殊︵個人︶

を激怖のままに振鮮わせ︑お互の斗争のうちに滅亡させるこ

とによって︑自己自身はより高次の発展階段へ進んで行く︒

ヘッベルの﹁アグネス・ベルナウエル﹂を批評する賜合︑

大抵彼のN家観を韮恥として二つの仰営に分れるようであ

る︒これはもちろん芸術上の間魎以外の範囲に属するようで

あるけれども︑この作を鑑批する場合︑その根抵にある観念

を紫肛に受け入れるか︑または抵抗を感ずるかによって︑お

のおの押価を異にするのは止むを得ないことである︒多くの

批押家は︑プルトハウプトの例が示すように︑節四幕までの

劇の進鵬については淑辞を僻しまないけれども︑最後の解決

に至って︑その世界観において︑岡家を絶対の実在として個

人をその分子に過ぎざるものと観るか︑又は個人を独立の存

在として国家をその集合体と観るかによって︑アグネスの犠

牲を止むを得ざる必然として容認するか︑或は許しがたい残

忍な行為として全踊の大きな欠点と兇倣すかに分れるようで

ある︒

ヘッベルの伝記を背いたエミール・クウは︑ヘッベルが︑

﹁アグネス・ベルナウエル﹂においてドイツ国の描写に成功

したことは認めながら︑彼はこの材料に附溶する自然的欠陥

を除くことができなかったのみならず︑﹁この自然的欠陥か

ら︑劇の決定的効果を引き出そうとする過誤さえも犯した︒

すなわち︑彼は国家に︑簡批にして人間的なものがその目的

の邪蝿になる場合︑それを踏み越えて行く通徳的椛利を附与

した﹂急昌一宍呂ゞ里員国吾蔚淳一&吋一各国のg鳥.目・国昌

切念昌ごと非難している︒たとえ政治的立場からアグネス

の椴牲を理解し抑るとじても︑永遠の法則はその中に衣われ

ていない︒純粋な人側性の感附︑神型なる自然の感俄はこれ

を杵さない︒この感怖こそ文学において蛾初にして且つ股後

の淵を語るべきものなのに︑というのである︒

プルトハウプトもほぼこれと同意兄であって︑翼にこれを

倣術している︒彼に依れば︑この世には政治よりも奥に商い

ものがある︒芸術は自然の蔵以外のものに耳を傾けてはなら

ない︒アグネスが頂家という一肘強力な︑たしかに一人の美

しい人間の花に比べて一附永く存続する椛利を布する力の犠︑︑︑︑︑牲になったとすれば︑ヘソペルはこの比收的永い存続の上に 1口

J

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︑︑︑更に永遠の存続の世界があることを忘れている︒すなわち︑

自然︑愛︑正義︑人間性の世界が︒ヘッペルも公爵アルプレ

ヒトもこの世界に与すべきであった︒しかるにアルプレヒト

はこれを回避して︑父と和解したために︑われわれの心に点火された愛情の火に冷水を浴せられて︑それからわれわれは

再び立ち直ることができない︒プルトハウプトは︑アルプレ

ヒトが妻の殺害者に対する復讐戦において戦死することだけ

が︑この作が持たねばならぬ唯一の結末である︒かくしてこ

ヘルプそ︑政治と感情と両つながらを満足させることができる︑と

結論している︒︵画匡弄言巨9画.ロ.○.い一割患●︶

もちろんヘッペルの態度を全面的に是認しないまでも︑止

むを得ざるものとして容認する論者もたくさんいる︒例えば

ツインケルナーゲルは︑ゲルヴイヌス︵︒⑦2言5色国頭g言一︾

具麗.口目.冨罵︶が︑芸術には歴史におけるとは別個の法

則があって︑芸術作品においては自然の秩序が人間の秩序の

犠牲になってはならない︒強いてこれを正当化しようとする

と必らず無節度なことが起らざるを得ない︑と難じたのに対

し︑﹁われわれはヘッベルが籾材の中にある問題を︑このよ

うにしか形成し解決し得なかった必然性を理解することで満

足しなければならないだろう︒ゲルヴイヌスはヘッペルの芸

術が発生する根源を知らなかった︒彼はヘプペルの作品と世

界観がいかに直接関連しているかを知らなかった﹂︵凶昌§︲

貝債堅︾貝の○目昌一潰冒号﹃霞号言一︑闇言回弓昌恩島⑦・い﹄畠

︹︐ゴ 露.︶と言っている︒しかしツインヶルナーゲル自身も︑最後の場面において︑われわれの健全なる感情が抵抗することを認め︑結局︑﹁それかと言って︑われわれはこの作品に死刑の宣告を下す訳には行かない︒むしろ慨るところなくその中に融け込むように試みるだろう︒かくしてのみこの作はその親しみ深い魅力を示すであろう︒⁝⁝一体どこにこの和解しがたい対立を︑これ以上調和的全休に結び合せる詩人がいるだろう?﹂ツィンヶルナーゲルの弁護は︑やや身びいきの感がしないでもないが︑これはほんとうにヘッペルを愛するも.のの言葉であろう︒

バルテルス︵シ号露国画痢旦︺○言厨蝕自司骨骨胃写題3房一

﹈S宝・︶は︑ヘッペルは決してエミール・クウの言うよう

に︑国家の観念に︑恋愛の備熱以上の椛利を与えてはいな

い︒ただ同等の椛利を持つものとして対立させ︑そこから悲

劇的葛藤を導き出している︒クウの如き評者は概ね︑国家を

何か抽象的なもののように考えている︒事実は︑国家は生れ

ながらの君主に代表される極めて実在的なものであって︑数

百万の人間の存在の恭礎として︑たしかに一の道徳的な力で

ある︑と言うのである︒

ヨアーヒム・ミュラーやデヅケルマンは災にバルテルスの

諭行に説明と理由を与えようと試みる︒先ずミュラiに依れ

ば︑ヘッベルは決して刷家を美化も絶対化もしなかった︒国

家は錨雑な人間の歩みの中で︑これを整理する法廷︵旨い菌凰︶

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である︒これがなければ︑人間は無政府に陥る︒﹁エルンス

ト公は決して専制君主的利益政策の冷たい国家理性に導かれ

ずして︑むしろ数千の人間が生きんがために︑惨酷な犠牲を

要求する︑人間性の命令を実行するように︑神から召されて

いると信じている﹂国家そのものは推牲を要求しない︒ただ

人間の稲祉に対する顧慰のみがそれを要求する︒ここで人々

は︑エルンスト公が︑その時代に通用したあらゆる法律の形

式を参酌し︑すべての個人的偏見から解放され︑性急のそし

りを受ける恐れがなくなったときにはじめて︑決裁を下した

事実を想起すべきである︒彼は流血の解決を見ないために︑

あらゆる方簸を雛じたことを︑神および己の良心の前ではっ

きり告白し得るようになってはじめて行動する︒Qg呂冒

冨呈g口笛言竺ご筐卑亘臥呂罵与:.塑念P電.︶

デッケルマンもまた次のように述べている︒

﹁ヘッベルの作と注意深く読んだ人は︑国家なる抽象的な怪

物も︑実は︑盛なる生命と道徳的な力に充ちた︑生命ある布

擬休であることを知ったであろう︒伸大なる人間や社会の集

団は︑その最上の力を国家のために役立て︑巨大な犠牲を擁

げる︒かような適徳的︑精神的な力を呼び起す有機体は︑単

なるこけおどしの案山子ではなく︑商い生命価値を持ってい

る︒ただ個々の成員において傑出した仕事を成就するかよう

な国家のみがl大きくても小さくてもl自らエルンスト

公やアルプレヒトのように︑全体の福祉のために穣牲を払う

一F

支配者のみが︑彼らの方でも犠牲を要求することができる︒

なぜならかような国家は永久的価値があり︑それに対して個

人は何らの意義を持っていない﹂e月弄堅昌画目︼貝の匡甫︲

圃鼻目号唖冒︒匡罵の冒厨ロ当呂忌匡且胃厨.い急の震︶

以上列挙した諸家の批評を概観すれば︑やや中間的なツィ

ンヶルナーゲルやミュラーを除き︑すべて一定の世界観の上

に立って︑国家を至上のものと考えるか︑或は個人を至上の

ものと考えるかのいずれかに分れる︒バルテルスやデッケル

マンの如く︑国家をもってそのために個人を犠牲にすること

が当然の︑道徳的権利を持つ有機的︑現実的なものと観るも

のは︑ヘッペルの国家観を弁護するのは当然であろう︒しか

しながら︑近代の個人主義︑民主主饗の洗礼を受けて︑人格

を人生の中心価値とし︑国家は個人の椛利を守り︑個人の素

質︑能力を最大限に発揮することを保障すべきものであると

考えるものにとっては︑アグネスの犠牲は燃えがたい不正で

あろう︒﹁アグネス・ペルナウエル﹂はここにおいて充分な

る説得力を欠くものと言わなければならない︒

もし︑ヘッベルの取扱に過憾の点があるとすれば︑その第

一歩は︑クウが指摘したように︑﹁材料に附蒋した自然的欠

陥を除き得なかったのみならず︑この自然的欠陥から劇の決

定的効果を引き出そうとした﹂︲事にあるのではなかろうか︒︐ ひ1..●

0

11︲︲︲p︲︑l︲!ⅡⅡlⅡillll

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することにしたら︑観客の気持も和らぎ︑より多くの悲劇的 ヒトが愛人の破滅の責任を自らも感じて︑戦場において戦死 かしら物足らぬ感じを与えることは否めない︒もしアルプレ プレヒトがそのまま生き残って公爵家を継ぐという結末は何 知れない︒エルンスト公は最後に責任をとるけれども︑アル にしても歴史的なものがもう少し後退した方がよかったかも 公があのように強く前面に出ることなく︑たとえ史実に背く の努力は認めてもいいであろう︒それにしても︑エルンスト して︑敢てこの難問を回避することなく克服しようとした彼 ようにしかなし得なかったのであって︑その成否は兎も角と うように︑彼の世界観︑悲劇観上の固い信念から︑彼のした いことはない︒しかしヘッペルは︑ツイングルナーグルの言 を︑恋愛劇乃至は陰謀劇にしようとしたのは︑一応点頭けな ルードヴイッヒが︑このまじり物を除去して彼のアグネス劇 この場合︑だから︑散文的なlまじり物がある﹂かくして しては典型的要素が欠けている︒あまりに多くの歴史的l 歴史的には充分な重要さを持っていない︒純粋に恋愛悲劇と には︑この材料は世界歴史からあまりに隔りがある︒それは 要素と激情的要素とがまじっている︒純粋に歴史的に取扱う 持つ難点は次の点にあるとしている︒﹁この材料には歴史的 Q国帝国旬冑旨巴の章で︑アグネス物語が戯曲の粗材として グ伯のアグネス・ベルナウエル﹂︵豆の診唱$国︑昌呂胃号 オブトー・ルードヴイッヒは﹁戯曲研究﹂の中の﹁テーリン

︵﹄ 効果を挙げ得たであろうと思われる︒

︷︿ヘッペルはディングルシュテットに宛てた手紙︵目ロ旨︲

鳴冒①身︾具麗.冒冒.岳罵︶の中で︑アグネス・ペルナゥェ

ルのことを︑﹁現代のアンティゴネ﹂︵シ昌置◎国⑦号尉目◎号﹃︲

冒目際ごと呼んでいるところから見ると︑彼が﹁アグネス・

ベルナウエル﹂を番いたときソポクレスの﹁アンティゴネ﹂

を念頭に浮べていたことは疑を容れないから︑ここに簡単に

両者の比較を試みてこの小稿を終ることにしよう︒両者の関

連は︑もちろん国家対佃人の問題である︒

ソポクレスの﹁アンティゴネ﹂に依れば︑テバィの王女ア

ンティゴネは叔父クレオンの許に身を寄せているうちに︑隣

国アルゴスへ逃れていた兄ポリュヶネスが軍隊を引きつれて

攻めよせ︑長兄エテオクレスと一騎討をして二人とも戦死す

る︒クレオンはエテオクレスの死骸は丁寧に弊むるが︑ポリ

ュケネスの埋葬は死刑をもって禁止する︒しかしアンティゴ

ネは兄の死骸を遺粟するに忍びず︑暁の薄明に乗じてひそか

に死骸に土をかけて埋葬する︒これを知った頑で激し易いク

レオンは怒って︑アンティゴネの弁解に耳を借さず︑死刑の

宣告を与えて洞窟に幽閉させる︒間もなく予言者ティレシァ

スの蒋告にようやく悪行から眼の覚めたクレオンが︑ポリュ

ネケスの埋葬を終って︑洞臓へ行くと︑アティゴネはすでに

(9)

85

1

自ら縊れて死んでいた︒その傍に死骸に取りすがって働突し

ていた︑かねてアンティゴネと婚約の仲であった息子ハィモ

ンは︑一旦劒を抜いて父に打ってかかるが︑父の逃れるのを

見て︑その釘をわれとわが胸に突き刺し︑愛人の側へ倒れ

る︒悲喚のあまり誰然自失しているクレオンのところへ︑使

者が奥に弟二の不幸を知らせる︒すなわち王妃エウリュディ

ヶが自殺したというのである︒

@以上の筋書は︑アンティゴネが自ら縊れ︑ハイモンが自殺

するほかは︑アンティゴネが国法に触れたために命を失い︑

クレオンもまた悲劇的没落から免れなかったという外形は︑

﹁アグネス・ペルナウエル﹂と酷似している︒ヘッベルはこ

の劇を﹁悲劇作家中の最も偉大なるものが刺った傑作中の傑

作である﹂今庁与堅管冨①旨ゑざ再与閏9m︑口恩目僅・︶と激賞

しているが︑彼のアグネスと比鮫するとき︑内容的にどんな

相遮があるであろうか︒

先ずアンティゴネの罪過についてであるが︑これについて

は︑新関良三博士の﹁ギリシア・ローマ演劇史﹂に依れば︑

諸説紛々としてあるけれども︑蹄するところ︑祖国に叛いた

ポリュネヶスの埋葬という問題であり︑﹁これを禁止するク

レオンの命令が正しいか︑正しくないか.によって︑彼の行為

が罪過でなくなり︑又︑罪過となる︒この禁止に反抗しても

骨肉の情を尽すアンティゴネの行為が正しいか︑正しくない

かによって彼女は罪過なき人となり又罪過ある人となる﹂へ |で

r △ .

Iゲルに従えば︑クレオンは国家の生活としての原理を代表

するに対して︑アンティゴネは家族の生活としての原理を代

表する︒ただ各々が一方だけを貫徹しようとして︑他方を一

概に排斥するところに双方ともに罪過を犯している︒つまり

二人ともはげしい我執に捉われて︑人間の権利を踏み越えて

激情的努力に走ったために没落する︒l他方またアンティ

ゴネには罪過がないとする説もあって︑これが近頃優勢を占

めるに至った︒すなわち︑古い風習が要求し︑骨肉の椿が要

求するところに従って︑死者の躯を安息せしめることは︑人

間の作る捉以上に高い神々の永遠なる徒に従う事であって︑

肉体の没落は問題でない︒クレオンに対する反抗でさえ︑個

人的なものではなく︑ただ彼女の道義的思慮から逝ったもの

にほかならない︒彼女はなるほど自分の死については責任は

あるが︑しかし道義上の罪過も︑又は悲劇的罪過も︑何一つ

の罪過をも︑自分の上へ招いてはいない︒︵新関博士︑﹁ギ

リシア︑ローマ演劇史︑第二巻︑アィスキュロス・ソポクレ

ス﹂第六七六頁以下︶

ここにも自然が優越するか︑法律が優越するかの問題があ

る︒ただ﹁アンティゴネ﹂においては︑彼女は戦死して死骸

を打ち棄ておかれた兄に対する骨肉の情から︑敢て国法に背

く行動に出る決心をし︑捕えられて絶望の極自ら死に就い

た︒同じ無罪過といっても︑彼女は自らの意志に基ずいて行

動し︑その結果破滅する︒これに反して︑アグネスはアルプ

β

4

ー = 一

(10)

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郷撫拭謹Text制‐]IJ型′Fr・Hebbel;SimtliCheWerke・HistOrisch=KritisCheAusgabe(mitTagebiicharnundBriefen),besorgtvonR,M.Werner.24.Bde,1913.HebbelsWerkeinzehnTeilen,hrsg,vonTheodorPoppe.5

Bde.o、J.LudwigsWerkeinVierTeilen,hrsg・vonArthurEIoesser、2Bde.o、J・畏拭e昼や雑遥裡やee型餐穐匿』役梢智蝿やe型′E、A・Georgy;DieTrag6dieFr・Hebbelsnachihremldeen‑gehalt,1911.Fr.Brunn8FJiedrichHebbelundOttOLudwig,1913.吹田順助,ヘツベル.岩波書店刊Sophokles"Trag6dien,hrgg.vonDr・PaulBrandt.MeyersK1aSsiker=AuSgaben.o、J・田中秀央,内山敬三郎訳,ソポクレース,希隠悲壮劇.理想社刊J.Geffcken:DiegriechischeTragadie、1917.

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