中国朝鮮族の国境を跨いだ生活
―― 問題意識および調査方法(社会調査における 生活史の聞き取り調査)――
宮 島 美 花
0 は じ め に
本研究は,中国朝鮮族の跨境生活に関する研究であり,社会調査における生 活史の聞き取り調査の技法を用いて,跨境生活空間におけるガバナンスを明ら かにする。国境を含む行政区界の境界を跨いだ生活(跨境生活)には,行政区 界ごとに社会保障システムが成り立っていることに起因する不便や不利益が伴 う。彼らの跨境生活のありよう,特に彼らが日常的に直面する困難やその解決 方法を明らかにすることを通じて,国家や地方自治体のような行政区界内のガ バナンスと,そのような行政区界の境界に収まりきらない跨境生活空間におけ るガバナンスとのズレを問う。
0. 1 プロローグ−児島駅から坂出駅へ−
筆者の勤務する香川大学(香川県高松市)は,香川県にあるが,岡山県出身 の学生が香川県内出身の学生よりも多い。岡山駅と高松駅は, JR 瀬戸大橋線 快速マリンライナーで,所要時間5 0〜6 0分ほどで結ばれている。出張者や旅 行者のほか,通勤や通学,通院などの日常的な利用者が多く,座席が足らない こともある。岡山県内の自宅から毎日通学してくる学生もありふれており,彼 らは「マリン通(マリンライナー通学の略語) 」と呼ばれている。平成2 2年度 入学者データ
!
を見ても,香川県内出身者が全体の2 8. 2%に対し,岡山県出身者 は2 9. 5%であった。四国地方出身者は4 5. 4% (香川県2 8. 2%,愛媛県8. 0%,
香 川 大 学 経 済 論 叢
第8 4巻 第2号 2 0 1 1年9月 2 3−4 7
徳島県7. 4%,高知県1. 9%) ,中国地方3 6. 2% (岡山県2 9. 5%,その他6. 7%)
であり,岡山県出身の香川大生は,同じ四国内の他県からよりもはるかに多 い。
岡山駅と高松駅を結ぶマリンライナーでは,途中の児島駅で車掌の交替が行 われる。児島駅が, JR 西日本と JR 四国の管轄の境界駅であるためである。車 掌交替の車内放送を耳にするたびに,ここには目に見えないボーダー(境界)
があることを意識させられる。
2,3年前の2 0 0 9年頃のことであったように思うが,岡山駅を出発して間 もないマリンライナーの車内で,男性の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。日頃 は楽しげな会話が穏やかに流れる車内で,珍しいことだと思い,目をやると,
ひとりの男性の乗客が,車掌に対し,激しい口調でクレームを申し立ててい た。車両内の雰囲気は凍りつき,通学中の大学生らしき若い女性たちは,お しゃべりに興じることもできずに,表情をこわばらせていた。その声があまり にも大きかったので自然と耳に入ってきたことには,本州を走る山陽線とマリ ンライナーの列車運行に遅延があり,そのことに関する乗客への連絡体制が,
少なくともこの男性にとっては十分ではなかった,というようなクレーム内容 であった。高松での重要な仕事に遅れてしまうとかで,どうにも気が済まない 様子の男性は,延々と車掌に苦情を述べ続けた。
列車が児島駅に近づくと,車内にはいつものように車掌交替の案内放送が流 れた。車掌は, JR 四国側にも本件を引き継ぎしておく旨を断って,児島駅で 下車してしまった。児島駅を発車するとすぐに,交替で乗車した JR 四国の車 掌が対応にやってきて, JR 西日本側から報告を受けている旨を述べて男性に 挨拶をすると,なんと男性は,またはじめから,ことのいきさつを説明し,同 じ苦情を繰り返して述べ出したのである。しかし,ほどなく精根尽きた様子で
「もういい」と自ら話を中断してしまった。私が苦笑をもらすが早いか,車内 には早くも楽しげな会話の声が穏やかに聞こえる平素の様子が戻っていた。
(1) 香川大学のホームページ掲載の「入学者出身地別入学数」 (平成2 2年5月1日現在)
を参照した。
−24− 香川大学経済論叢 1 7 0
マリンライナーは,児島駅を発つと,瀬戸内海を渡って四国へ入り,四国側 での最初の駅である坂出駅に着く。児島駅・坂出駅間の車窓の景色は,眼下に 広がる緑色の瀬戸内海と個性的な島々である。自然の景色や海の色合いは,季 節によっても,その日の天候によっても,一日として同じことはなく,いつ見 ても見飽きることがない。瀬戸内海は,岡山と高松を隔て,そして ! いでいる。
岡山・高松間のアクセスは,鉄道のほかにも高速道路や船(フェリー)があ る。先日,卒業したゼミ生のSさんとUさんが,仕事帰りに,筆者の研究室を 訪ねて集まり,高松市内で夕食をともにした。岡山県内から車で来ていたSさ んが(もちろん飲酒はしなかった) ,帰りは,1時間ほどで帰れるのだが,疲 れているので,車を停めて車中での休憩を挟みながら帰るか,あるいは車ごと 高松から岡山へのフェリーに乗ってしまい,6 0分ほどの乗船時間中を休憩と するか,どちらかだ,という。ヒトが岡山から高松にやってくる。高松で消費 をして岡山へ戻っていくヒトがいる。日本に道州制という新たな跨境行政空間 の制度が導入されるとき,もしも岡山県と香川県が引き離されることになった ならば,少なくとも香川県や高松市にとってはバイタルな問題が引き起こされ るのではないか,と筆者は懸念している。
1 問 題 意 識
「人々が顔をつきあわせて暮らす空間が,国境線で区切られていたらどのよ うになるのだろうか」
"。欧州における国境を挟んだ自治体同士の越境協力の制 度化のプロセスを考察した高橋の研究において,その問題意識を端的に述べた 一文である。欧州研究では, EC から EU へという統合の動きの展開のなかで,
同時に,欧州の諸部分に,東西の国境を跨ぐ場合を含む地方自治体間の協力関 係が見られるようになっていった事実に注目した。2 0 0 0年代に入って,冷戦 期とは異なる新たな構造変化が起こっている東アジアと, EU とを比較する試
(2) 高橋和「第1部 ユーロリージョンの拡大と制度化の陥穽」高橋和・秋葉まり子著『EU 統合の流れの中で東欧はどう変わったか−政治と経済のミクロ分析』弘前大学出版会,
2 0 1 0年,1 0 5頁。
1 7 1 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −25−
みが盛んである
!。しかし,自治体間協力に注目するものが多く,行政区界では 語りきれない国境を跨いだ生活空間や,そこに抱え込まれた諸問題まで掘り下 げての欧亜の比較は少ない
"。
地域を地域たらしめるものとしては,国家間の公的関係や制度化のみなら ず,いまひとつには地域化(regionalization) がある。例えば,ペンペル(Pempel)
は,地域主義(regionalism)を「ASEAN,APEC,ARF といった政府間制度が 形成されるトップ・ダウンのプロセス」と捉え,地域化を「主として,企業,
NGO,トラック2のグループといった非政府アクターによって,国境を越え
る協力が推進されるボトム・アップのプロセス」と捉える
#。ハレル(Hurrell)
は,地域化を「域内での社会的統合の進展であり,しばしば政策的意図がなく とも進行する社会的,経済的相互作用の過程」と説明し,地域化のパターンは 必ずしも国境線とは一致せず,移民,市場,社会的ネットワーク(一例として 華人ネットワーク)が,新たな国境横断的な地域を創出するような相互作用や 連結性を増大させる可能性もある,と述べる
$。
筆者は,地域化をボトム・アップで進める勢力のひとつとして,国境を跨い で分布するエスニック・マイノリティとしての在外コリアン,特に中国朝鮮族 に注目する。朝鮮半島に民族的ルーツを持つ,いわゆる在外コリアンは,北東 アジアのすべての国に定住民として分布しており,本研究では,北東アジアの
(3) なかでも,2 0 0 5年第1 1回環日本海学会(現・北東アジア学会)は,EU・東アジアを 直接比較するのではなく両者をマクロリージョンととらえ,北海地域・北東アジアとい う下位地域から比較する方法を提示した。中村信吾・多賀秀敏・柑本英雄編著『サブリ ージョンから読み解く EU・東アジア共同体−欧州北海地域と北東アジアの越境広域グ ランドデザイン比較−』弘前大学出版会,2 0 0 6年。
(4) これに触れる最近の報告・研究としては,Hidetoshi Taga, Flow of Chinese more visible than flow of yen,
Herald Tribune / The Asahi Shimbun,May2 8 , 2 0 0 7 . 多賀秀敏「北東ア ジアの新地域形成と『地方』 」山本武彦・天児慧著『東アジア共同体の構築1 新たな 地域形成』岩波書店,2 0 0 7年。
(5) T. J. Pempel ed.,
Remapping East Asia−The Constructing of a Region,Cornell University Press.2 0 0 5 , pp.6 , 1 9−2 0 .
(6) Andrew Hurrell, Regionalism in Theoretical Perspective , in Louise Fawcett and Andrew Hurrell ed.,
Regionalism in World Politics : Regional Organization and International Order,Oxford University Press, 1 9 9 5 , pp.3 9−4 0 .
−26− 香川大学経済論叢 1 7 2
コリアンのなかでも中国朝鮮族を取り上げる。中国朝鮮族(以下,朝鮮族と略 す)とは,中国国籍を持ち,中国のいち少数民族として,歴史的に主に中国東 北に集住してきた約2 0 0万人のコリアンである。そのうち約8 0万人が集住す る吉林省東端の延辺朝鮮族自治州(州都・延吉市)には,幼稚園から大学に至 る民族学校の教育体系が整い, 「国語」たる中国語と「民族語」たる朝鮮語の 二言語使用のなかで,朝鮮半島本国の文化とは異なる独特な文化が育まれ継承 されてきた。この朝鮮族が,9 0年代以降,民族ネットワークを利用して北京 など国内大都市や韓日ロなどへ活発に移動するようになっている。渡航先は世 界各国に及ぶが,主として韓国,次いで日本・極東ロシアが多い。日本への移 動者が多いのは, 「満州国」期に " る歴史的理由で,外国語のなかでは日本語 に接する機会が最も多かったことが背景にある。出稼ぎ・留学・国際結婚など による,その移動の様子は, 「過流動」ないし「過剰」と表現されているほど である
#。そして, 「過流動」の結果,各移動先に形成されるようになった彼ら の民族コミュニティは孤立的でなく国際的に連 ! しており,またその一方で,
彼らの特異なアイデンティティ・文化を育み,次世代への継承を支えてきた彼 らの民族自治区域(例えば延辺)では,急速な人口流出と家族の分散が進んで いる。
従来,人の移動の研究は,母国の生活拠点をそのままにした短期滞在(観 光・交流研究) ,生活拠点を母国から移動先に移し定住する長期滞在(移民研 究)に重点が置かれてきた。日本在住の中国朝鮮族の事例を観察してみると,
既存の研究があまり取り上げてこなかった,生活拠点を2か所もつケースが見 られ,これらは従来の「外国人の単身赴任滞在」という視点だけではとらえき れない。交通の発達などによって,家族ひとりひとりの住居,働く場,保育・
教育・介護・医療などを受ける場などが,国内では自治体の境界を跨いで,或 いは国境を跨いで離れている場合が増加している
$
。国境を跨いで離れ,相互に 頻繁に往来し ! がりを保つ家族のあり方,生活のあり方を選択した当事者は,
(7) 佐々木衛・方鎮珠編『中国朝鮮族の移住・家族・エスニシティ』東方書店,2 0 0 1年,
3 0 7,2 1 2頁。
1 7 3 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −27−
例えばそのような日常生活のなかで,それぞれ国や自治体によって提供される 社会保障サービスの利用などに制約や不便があった場合,どのように問題解決 をはかるのであろうか。
交通の発達などによって物理的には可能になっても,あるいは以前よりも容 易になったとしても,そのような跨境生活には,社会保障のシステムが行政区 界ごとに成り立っていることに起因する不便や不利益が伴う。本研究は, 「跨 境生活において経験される日常的困難の原因は,社会保障のシステムが行政区 界ごとに成り立っていることにある」という仮説に基づき,調査を行う。その 結果から,既存の社会保障のシステムのありよう(彼らが必要としながらも享 受しえない現行の社会的サービスなど)と,何がそこで発生する彼らの不便・
不利益を補う役割を果たしているのかを明らかにする。この作業を通じて,国 家や地方自治体のような行政区界のガバナンスと,そのような行政区界の境界 に収まりきらない跨境生活空間におけるガバナンスとのズレを問う。
本研究では,朝鮮族の事例について上記の調査を行い,移動のために用いら れる民族ネットワークに,国境を跨いで営まれる生活を支える機能をも見出そ
ママ
うと試みる。初瀬は,ガバナンスを「政府という組織的でフォーマルの枠組み に,非組織的あるいはインフォーマルな枠組みが加わって,政治的な価値配分 や意思決定を行うこと」と定義し,レジームを「社会的課題の解決,運用につ いて,行為者間で共通の了解に至ったルール,規範,慣習の集合」と定義付け た上で,在日アジア人の場合を例に, ! 「国際移動のガバナンス」と " 移動後 の「滞在のガバナンス」とを考察している。
! 「国際移動のガバナンス」は, (イ)各国が管理する「出入国のガバナン ス」に加えて, (ロ)非合法ブローカーや「家族,親戚,同郷者などで形成す る移動のための私的ネットワーク」などによって「統治機構なしのガバナンス
(governance without government) 」が展開されている。 " 「滞在のガバナンス」
(8) 国境を跨いで離れ,相互に頻繁に往来し#がりを保つ家族を取り上げた先行研究に,
陳天璽「漂泊する華僑・華人新世代の越境」高原明生ほか編著『越境』慶応義塾大学出 版会,2 0 0 8年。
−28− 香川大学経済論叢 1 7 4
では, (ハ)受入国の法と社会政策レジームを中心としながら, (ニ)自らの生 活と人権を保障するための外国人自身のイニシャティブ,それを支え協働する 当事国市民のイニシャティブ, (ホ)外国人が住民となっている地方自治体の 行政レジーム, (ヘ)国際人権レジーム,が「1つのまとまりをもった複合体」
となって,移動先での生活・人権保障体制としてのガバナンスの機能を果たし ている,と整理する
!
。本研究では,初瀬の整理に加えて,朝鮮族の事例から,
民族ネットワークが移動のためにのみ用いられるのではなく,移動先での生活 を支える機能をも持つことを実証的に明らかにする。
民族ネットワークに注目をするのは,なぜ移動が起こるのか,なぜ先行移動 者が次の移動者を呼びおこす連鎖移動が起こるのか,その連鎖の紐帯が移動先 での生活にどうかかわっているかを考えようとするときに,構造主義的なアプ ローチのみならず,あわせて還元主義的なアプローチによって明らかになる ネットワークの存否を意識する必要があると考えるからである。
華人ネットワークをはじめ,民族ネットワークの研究では「構成要素(主体)
に内在する属性の解明に分析の主眼を置く還元主義的なアプローチ」がとられ る。一方,バラバシ( Barabashi )など社会科学のネットワーク研究の主流をな すのは, 「主体の属性同士は,相互に関連することはない,との前提の下,関 係の計上パターンを記述分析することによって,社会構造を解明」しようとす る「構造主義的アプローチ」である。森川は,ネットワーク研究の2つのアプ ローチのうち,構造が国際システムの関係を決定づけるという構造主義的な立 場からネットワーク分析の技法を用いて,政治,経済,社会・文化の各分野に おける,要素(主体)と要素の継続的な相互作用・関係から東アジアの特性を 把握しようとする。そこでは,ネットワークと個人ないし要素(主体)の生得 的な関係は視外に置かれる
"。東アジアにおける「人の国際移動」に注目する先 行研究にも,誰のどんな移動かという多様性を捨象し,一回の移動をすべて1 とカウントして得られる「総合的,包括的,中立的な数値」を分析に用いる研
(9) 初瀬龍平「在日アジア人のガヴァナンス論的考察」 『現代社会研究』京都女子大学現 代社会学部,第六号,2 0 0 4年。
1 7 5 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −29−
究がある
!。
しかし,民族ネットワークによって連鎖的に移動し,国境を跨いだ生活を支 える朝鮮族の事例とは対照的に,例えば,個別に求人に応募して仕事を得るア ルザス地方の越境通勤労働者の事例研究は,移動を奨励する制度を設けただけ では移動は増加しないことを明らかにしている
"。下位地域における人々の移動 と国境を跨いだ生活に注目する場合,構造主義的なアプローチのみならず,あ わせて還元主義的なアプローチで明らかになるネットワークの存否を意識する 必要があろう。
2 理論的枠組みと先行研究
2. 1 地域統合研究と「地域」 「下位地域」
1 9 5 0年代の西欧における初期の統合の動きは,ハース(Haas)に代表され る新機能主義や,ドイッチュ(Deutsch)の交流主義など,地域統合に関する 理論研究の展開を促した。1 9 6 0年代には,ナイ(Nye)によって,地域は「地 理的関係とある程度の相互依存によって結びつけられる限られた数の国々」と 定義づけられ,地域主義は「地域に基づいた国家間の連合(associations)ない し集団(groupings)の形成」と説明された
#
。
これに対し,グローバル化の文脈で生まれた1 9 8 0年代末からの地域主義の 動きは「新しい地域主義(new regionalism) 」と呼ばれる。その特徴のひとつ は, 「国家以外の行為主体もリージョナリズムに深くかかわって」 「多次元に及
(1 0) 毛里和子・森川裕二編『東アジア共同体の構築4 図説ネットワーク解析』岩波書店,
2 0 0 6年。森川裕二「地域空間の変動と分析アプローチ」 『平成1 8−2 0年度科学研究費補 助金(基盤研究(B) )研究成果報告書
EUサブリージョンと東アジア共同体−地域ガ バナンス間の国際連携モデル構築−(研究代表:多賀秀敏) 』2 0 0 9年。
(1 1) 平野健一郎「東アジアにおける人の国際移動−東アジア共同体の原動力−」西川潤・
平野健一郎編『東アジア共同体構築3 国際移動と社会変容』岩波書店,2 0 0 7年。
(1 2) 鶴巻泉子「越境現象と国民国家−アルザス地域の『フロンタリエ』から見た
EU統合 問題−」 ,宮島喬・若松邦弘・小森宏美編『地域のヨーロッパ−多層化・再編・再生』人 文書院,2 0 0 7年。
(1 3)
Louise Fawcett, Regionalism in Historic Perspective , in Louise Fawcett and Andrew Hurrell ed., op. cit., pp.11
,1 3
. ; Joseph Nye Jr. ed., International Regionalism,Boston : Little, Brown & Co.,1 9 6 8
, p. vii.−30− 香川大学経済論叢 1 7 6
ぶ(multi-dimensional)重層的かつ多層的なリージョナリズム」が展開してい る点に求められる
!
。顕著な例として,今日,EU の内部では,その下位地域が 多様な諸相を示している。EU 下位地域における越境協力に注目する研究に は,北海沿岸地域や環バルト海地域のような規模で見られる広域協力型のそれ に注目する研究と,ユーロリージョンのような,より小さな規模で見られるロ ーカルな市民社会密着型のそれに注目する研究がある。EU の地域政策である
INTERREG プログラムでの地域規模設定の方法を借りて,複数の主権国家を
傘状に丸抱えにする EU の規模をマクロリージョン,前者(例えば北海沿岸地 域)を EU のサブリージョン,後者(例えば個々のユーロリージョン)を EU のミクロリージョンと呼ぶことが多い
"。理論的には,1 9 9 0年代以降,EU 加盟 各国の政党,地方自治体,労働組合,環境保護団体などが相互連携とネットワ ーク化を進め,欧州委員会や欧州議会を通じて,EU の政策決定やその実施に 直接関与する事例へ注目が集まり,国家・非国家アクターが混交してなされる EU の政策決定とその実施の解明に「マルチレベルガバナンス」の概念が用い られるようになった
#
。
1 9 6 0年代のナイによる,国家中心型パラダイムに依拠した地域の定義は,
「誤りではないにせよ」 「一面的に過ぎる
$
」と考えられるようになり,今日,例 えば国連大学 CRIS(Comparative Regional Integration Studies)プロジェクトに よると,地域は, 「あらかじめ定められたものでも,所与のものでも,自然の ものでもなく,また地域は形式的な組織」でもなく, 「共通に掲げられた目的 の追求のためには何が最も適切であるかに基づき,内部および外部環境の変更 に応じて,様々なアクター間の相互作用を通じて,構築され,解体され,そし て再建される」ものと説明されるようになった。地域は, 「自然に構成された
(1 4) 山本武彦編『地域主義の国際比較−アジア太平洋・ヨーロッパ・西半球を中心にして』
早稲田大学出版部,2 0 0 5年,4頁。
(1 5) 柑本英雄「リージョンへの政治地理学的再接近
:スケール概念による空間の混沌整理 の試み」 『北東アジア地域研究』第十四号,2 0 0 8年,1 4頁。
(1 6) 稲本守「欧州連合(EU)の『地域政策』と『マルチレベル・ガバナンス』 」 『東京水産 大学論叢』第3 8号,2 0 0 3年,2 5頁。
(1 7) 山本,前掲書,3−4頁。
1 7 7 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −31−
地理的単位ではないが,物理的実在性なしには存在できない」ために,領域性
(territoriality)を必須条件とし,なんらかの境界(boundaries)を必要とする。
地域を定めるのは地域化の過程であり,換言すれば, 「地域は,地理的,歴史 的,文化的,政治的および経済的な変数の範囲内で起こっている広範な実践の 相互作用のパターンによって『見える( visible ) 』ようになる
!」 。
2. 2 国境を跨いだ生活に関する研究
近年,北東アジアのコリアンに注目し,彼らの越境移動と生活空間の広がり について実証的な事例研究が試みられるようになってきている。その試みは,
近年の在日朝鮮人史研究でも盛んに行われている。例えば外村の研究は,1 9 3 0 年代,朝鮮半島から新規の渡日者が連鎖型に次々とやってくる状況下で,当時 の大阪などに「単に朝鮮人人口が多いというだけではなく,朝鮮人向けの各種 商業サービス業が展開され,朝鮮人を雇用する工場等が集中する空間,つまり はエスニック・コミュニティ」 と 「独自の情報が流通する,いわばエスニック・
ネットワーク」が成立していたことを描き出す
"
。杉原は, 「帝国の暴力」のも とでの「生活をかけての越境」が「在日朝鮮人史の重要な側面を形づくってき た」ことを強調する。そこでは,在日朝鮮人は,朝鮮の故郷でも,渡航先の日 本での労働,居住,子どもの教育などの生活の現場でも「帝国の暴力」にさら され,渡航と帰還が繰り返されるなかで「玄界灘を越境する生活圏が形成され ていた」ことが指摘される
#。
朝鮮族の研究では,間島(延辺)と朝鮮半島北部の咸境道の間では,歴史的 伝統的に人々が日常的に往来し,スカラピーノ( Scalapino )の提起するところ の自然経済圏(Natural Economic Territory : NET)が存在してきたと論じる鶴
(1 8)
http://www.allied-co.com/ri/sitemap.html,2 0 1 1年7月6日アクセス。
(1 9) 外村大『在日朝鮮人社会の歴史学的研究−形成・構造・変容−』緑陰書房,2 0 0 4年,
1 7 0頁。
(2 0) 以下の報告要旨集に掲載。杉原達「暴力の中の越境/生活の中の越境−大阪の場から 考える−」 『北東アジアの新世紀−人の移動とコリアン・ネットワーク』国立民族学博 物館地域研究企画交流センター特別共同研究「人口移動の基礎研究」第九回国際シンポ ジウム(於・東京大学,2 0 0 3年1 1月2 0日−2 2日) ,7−8頁。
−32− 香川大学経済論叢 1 7 8
島や西の研究が挙げられる
$。
2. 3 新たなスケールの検討
筆者が『国際政治』 (1 1 9号)特集「国際的行為主体の再検討」で問題提起 したように,既存のトランスナショナリズムに関する理論では,人の国際移動 ないし移動する人々は,研究対象とされてこなかった
%
。梶田・小倉は, 「トラ ンスナショナルな空間」についても,機構ないし制度としてのそれを念頭に考 えるという傾向が強く,欧州研究の傾向として,移民や移動する人々に焦点を 当てた分析の前提には「すでに入国した外国人をいかに社会に統合するかとい う意味での『統合(Intergration)パラダイム』がある」と指摘する。 「同化」や
「エスニックな多元主義」は,いずれも「統合パラダイム」に属している
&。 この点,ファイスト(Faist)の研究は, 「トランスナショナルな社会空間」を,
! 送金を行う契約労働者のようなトランスナショナルな親族集団, " 華商や印 僑の通商ネットワークを例とするトランスナショナルなサーキット(circuit) ,
#ユダヤ人,クルド人のようなディアスポラを例に3タイプに分類しており興 味深い。ファイストは,マクロ・レベル(送り出し・受け入れ国家間や国際シ ステムにおける政治・経済・文化的構造)とミクロ・レベル(生存や豊かさを 求める移住者側の要因)から説明されてきた移民や移動の問題に,マクロとミ クロをつなぐメゾ・レベル(移住者・移住集団の社会的紐帯と,そこからもた らされる社会資本)の視点を加え,トランスナショナルな社会空間を形成し支
(2 1) 鶴島雪嶺『豆満江地域開発』関西大学出版部,平成1 2年。西重信「豆満江(図們江)
地域開発における
NET(Natural Economic Territory)論の意義」『環日本海研究』第7号,
2 0 0 1年。また,鶴島および西による自然経済圏の議論,および,1 9世紀末の朝鮮人の 移動を踏まえた鶴島雪嶺『中国朝鮮族の研究』 (関西大学出版部,平成9年)の議論の 延長線上に位置づけながら,特に9 0年代以降の朝鮮族の移動に焦点をあて論じた先行 研究に,権香淑『移動する朝鮮族−エスニック・マイノリティの自己統治』2 0 1 0年,彩 流社がある。
(2 2) 宮島美花「東アジアのエスニック・トランスナショナル・アクター」 『国際政治』1 1 9 号,1 9 9 8年。
(2 3) 梶田孝道・小倉充夫編『国際社会3 国民国家はどう変わるか』東京大学出版会,2 0 0 2 年,9−1 0頁。
1 7 9 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −33−
えるメゾ・レベル構造に注目を傾ける
#。
ファイストの研究は,国境を跨いで離れ,相互に頻繁に往来し " がりを保つ 人々の,移動・生活の動態や諸問題は,各国,各ガバメントの境界ごとに切り 取っての分析のみでは説明しきれないことを改めて筆者に気付かせてくれる。
同様に,現在のマルチレベルガバナンスの研究アプローチでは,欧州の越境地 域協力に注目する事例研究によって明らかになっていく現実の EU の有り様は 説明しきれない。柑本は,その理由と求められる方策を「スケール」概念から 説明する。
柑本は,今や,政策の容器境界は,スープラナショナル,ナショナル,リー ジョナル,ローカルの順に入れ子状になっているのではないことに言及する。
EC が, 「国家スケールに入れ子状に収まらないスケール」である既存のユーロ リージョンに目をつけ,その地域政策 INTERREG のなかで活用したのに始ま り,今や, EU の地域政策は,マクロリージョン,サブリージョン,ミクロリ ージョンの様々なスケールで実施されている。現在のマルチレベルガバナンス の研究のアプローチは, 「入れ子状の領域的ヒエラルキーを形成する政治機構 の各レベルに焦点」が当てられ, 「ガバナンスというよりガバメント中心の議 論」であり, 「サブリージョンなどの新しいスケールでの政策決定メカニズム に関する考察に欠け」ているとし, 「スケールは,所与,あるいは定まったも のではなく,実態・制度・行為体の観点から構築・再構築され,結束する」こ とを考慮し地域分析を進める必要がある,と主張する$。
3 調 査 方 法
3. 1 「社会調査」と社会調査協会認定の「社会調査士」資格
人々の意識や実態をとらえるために行われる社会調査の用途は様々である。
原の整理によると, ! 国勢調査など行政の基礎資料の収集のために行政機関が
(2 4)
Thomas Faist,The Volume and Dynamics of International Migration and Transnational Social Spaces, Oxford University Press,2 0 0 0
, pp.30−3 1
,1 0 2
,2 0 3
.(2 5) 柑本,前掲論文,1 1頁。
−34− 香川大学経済論叢 1 8 0
行う行政調査, " 貧困や公害など社会問題の実態を明らかにしたり告発したり するために行われる福祉調査, # 人びとの政治・社会問題に対する意見を探る ためにマスコミ諸機関などが行う世論調査, $ 消費者の購買意欲や動向を知る ために企業が行う市場調査等のほか, % 社会諸科学における重要なデータ収集 の手段として行われる学術調査,などの用途がある
&。
また原は,いずれの用途においても,個人的なデータ収集活動ではなく,
「社会調査」として行われる調査では,調査の全過程,つまりデータ収集・処 理・分析を通して,客観的方法が採用されねばならない,とする。方法の客観 性とは, ! 採用された方法が明示されていること, " 採用された方法が調査方 法論上の批判に耐え得ること, # 条件が整えば,他の調査者による追試(追調 査) が原則的には可能であること (=同一の方法によって調査を行ったならば,
同一の結果が得られたであろうと誰もが判断できる)の3点を含む
'。
社会調査の技法は,近年,その教育体系が整ってきている。社会調査法の教 科書を見ると,調査対象や調査方法を「作為的に変更すれば」 ,調査結果を「操 作することが可能」であるという危険性が指摘され,注意が喚起されている
(
。
「ずさんなデータ集めや分析」でなされている研究も多いとの指摘もある
)。本 研究において筆者は,出来る限り,外部からの学問的批判に耐えうる方法で調 査を実施し,妥当な調査結果を得たいと考える。得られた調査結果は,他の研 究者が各自の研究において資料として利用できるよう,分析を加える前の形で 公表する。朝鮮族の現実を把握しようとする研究上の必要のために,同じよう な調査が繰り返し行われる「調査公害」を少しでも減らし,調査対象とされる
(2 6) 原純輔・浅川達人『社会調査』放送大学出版協会,2 0 0 9年,1 0頁。
(2 7) 原は, 「
#の条件を満たすことは実際には困難である」とし,その理由を「大半の社 会調査は,後の時点で追調査しても無意味なことが多い。たとえば,大災害直後の地域 住民の意識や態度は,その時点でしか調査できない」 と述べる。 「だから
#の条件は, 『同 一の方法によって調査を行ったならば,同一の結果が得られたであろうと誰もが判断で きる』と言い換えてよかろう」と述べている。原ほか,同上書,1 9頁。
(2 8) 大谷信介・木下栄二・後藤範章・小松洋・永野武編著『社会調査へのアプローチ−理 論と方法』第2版,ミネルヴァ書房,2 0 0 5年,*頁。
(2 9) 谷岡一郎『 「社会調査」のウソ−リサーチ・リテラシーのすすめ』文藝春秋,平成1 2 年,2 3頁。
1 8 1 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −35−
朝鮮族たちの負担をいくぶんでも減らすことができれば,と思うためである。
社会調査の知識や技術を用いて社会事象等をとらえることのできる能力を示 す資格として,社団法人「社会調査協会」が認定する「社会調査士」資格があ る。 「社会調査協会」は,日本社会学会,日本行動計量学会,日本教育社会学 会を母胎に,平成1 5年に設立された「社会調査士資格認定機構」を前身とし,
平成2 0年に法人格を得て「社会調査協会」となった。 「社会調査士」資格を取 得するには,社会調査士資格制度に参加している大学で,社会調査協会の定め た標準カリキュラムに準拠した科目群
!を単位履修する必要がある。この社会調 査士資格制度に参加する大学は増加しており,2 0 0 8年現在1 6 3校の大学で「社 会調査士」資格が取得できる(図表1) 。中・四国地方の大学も2 2校が参加し ているが, 四国地方の大学はごくわずかしか参加していない(図表2) 。筆者の
(3 0) 社会調査士資格取得のためには,資格制度に参加している大学で,以下のA〜Gに対 応する科目を単位履修する必要がある。A社会調査の基本的事項に関する科目,B調査 設計と実施方法に関する科目,C基本的な資料とデータの分析に関する科目,D社会調 査に必要な統計学に関する科目,E量的データ解析の方法に関する科目,F質的な分析 の方法に関する科目,G社会調査の実習を中心とする科目。EとFはどちらかを選択す る。
図表1 「社会調査士」資格制度参加校の増加推移
出所:社会調査協会ホームページ(URL:http://jasr.or.jp/content/what_sr.html) ,アクセス 日2 0 1 1年5月2 4日。
−36− 香川大学経済論叢 1 8 2
勤務する香川大学も参加していない。全国的に見ても,国公私立を問わず主要 な大学は参加しており, このような四国地方の状況は非常に残念なことである。
単に,四国地方では特定の資格がとりにくい,ということにとどまらず,社 会諸科学において広く利用可能なデータ収集の手段・手法を体系的に学ぶ機会 が得難いという意味で,非常に残念なのである。例えば早稲田大学社会科学部
県名 大学名 中国地方 島根県 島根大学
島根県立大学 岡山県 岡山大学
岡山商科大学 岡山理科大学 川崎医療福祉大学 吉備国際大学 倉敷芸術科学大学 ノートルダム清心女子大学 広島県 広島大学
広島国際大学 広島国際学院大学 広島修道大学
広島文化学園大学(呉大学)
福山大学 山口県 東亜大学 山口大学 四国地方 愛媛県 聖カタリナ大学
松山大学 香川県 四国学院大学 徳島大学 徳島大学
徳島文理大学
図表2 中四国地方の社会調査士資格制度参加校
出所:社会調査協会ホームページ掲載のものに筆者が整理 を加えた(アクセス日2 0 1 1年5月2 4日) 。
1 8 3 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −37−
(2 0 1 1年度)では, 「ソーシャル・リサーチ(まちづくり) 」や「紛争解決論実 習」などが「社会調査士」資格を取得するための認定科目のひとつとなってい る。まさに,社会調査の用途のひとつに,様々な社会諸科学におけるデータ収 集の手段として行われる学術調査があることがうかがえる。社会調査の技法を 用いて実施する本研究の調査,その調査結果と研究成果が,教育面でも活用さ れて,香川大学の学生たちの,社会事象等をとらえる能力の向上に利するとこ ろがあれば,望外の喜びである。
3. 2 量的調査と質的調査
社会調査は,扱うデータ値の性質から,数量的データを扱う量的調査(定量 的調査)と,質的データを扱う質的調査(定性的調査)に大別できる。量的デ ータを収集する量的調査では,数値データを中心に分析を進め,その結果につ いては主にグラフや数値表あるいは数式などで表現される
!。 「数字をもって世 の中の現実を語ろうとする方法」とも説明される
"。質的データを収集する質的 調査とは, 「主にインフォーマル・インタビューや参与観察あるいは文書資料 や歴史資料の検討などを通して,文字テクストや文章が中心となっているデー タを集め,その結果の報告に際しては,数値による記述や統計的な分析という よりは,日常言語に近い言葉による記述と分析を中心とする調査法」である
#。 社会調査は,様々な学問分野においてデータ収集のために用いられる。佐藤の 大まかな整理によると,それぞれの学問分野を総体として見た場合,経済学,
心理学,社会学などは早い時期から自然科学の方法論モデルを採用し,定量的 なアプローチに傾斜していったのに対し,歴史学,文化人類学,社会人類学な どは,定性的なアプローチをとってきた(図表3) 。しかし,各学問分野の下 位分野を見ると,心理学のなかでも臨床心理学は臨床事例の丹念な記述と解釈 に重点を置く分野である。社会学のなかにも,量的データを収集し統計的な分
(3 1) 佐藤郁哉『フィールドワーク−書を持って町へ出よう』増訂版,新曜社,2 0 0 6年,7 6 頁。
(3 2) 大谷ほか,前掲書,6−8頁。
(3 3) 佐藤,前掲書,7 6頁。
−38− 香川大学経済論叢 1 8 4
析アプローチをとる立場もあれば,インフォーマル・インタビューなどを中心 に調査を行い,得られた質的データを扱う研究もある。
統計的な研究では,観察対象の個体群のなかで,諸個体がとっている「値の 分布」からなるデータを用いて研究がおこなわれ, 「複数の個体からなる個体 群の全体」や「分布のしかた」に関心がよせられる
!
。本研究においては,調査 母体(中国外に居住する中国朝鮮族ないしは国境を跨いだ生活を送る中国朝鮮 族)の規模そのものが不明である。このことを勘案すると統計的研究には限界 がある。そのため統計データ(センサス・データ)や,先行の量的研究を分析 の際に参照しながらも,本研究において実施する独自調査としては,特に質的 調査を重視し,単なる取材インタビューではなく,生活史研究の聞き取り調査 の手法を採用する。
3. 3 質的調査
盛山は,質的研究が探求しようとしていることを, 「何についての」探求か ということと, 「何を」明らかにしようとめざしたものであるか,の2つの軸 から大まかに区分している(図表4)
"。
(3 4) 盛山和夫『社会調査入門』有斐閣,2 0 0 4年,2 2頁。
(3 5) 盛山,同上書,2 5 1頁。
定 性 定 量
学問分野
全体 人類学,歴史学
(人文科学モデル) ← (社会科学)
心理学,経済学,社会学
→ (自然科学モデル)
下位分野 象徴的相互作用論(社会学) , 臨床心理学(心理学)
サーベイ社会学(社会学) , 実験社会心理学(心理学)
データ
質的データ 歴史資料,自伝・手記・日記,
文学作品,フィールドノーツ
量的データ センサス・データ,サーベイ データ,観察データ,実験デ ータ
図表3 定性/定量の区分の諸相
出所:佐藤郁哉『フィールドワーク−書を持って町へ出よう』増訂版,新曜社,2 0 0 6年,7 9 頁の表から抜粋。
1 8 5 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −39−
盛山によると, 「 ! 全体社会・コミュニティ」について, 「 " 全体的な民族誌 的構造の記述」を明らかにすることをめざすタイプの研究に,民族学や人類学 におけるエスノグラフィー(民族誌)と呼ばれる研究がある。今日では,研究 者にとって異文化とみなしうるような集団について,その日常生活と文化とを 細部にわたって記述したものを一般に「エスノグラフィー」と呼ぶようになっ てきている(例えば佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー』 1 9 8 4年,新曜社) 。 人々自身が必ずしも気づいていないのに,社会や相互作用場面において人々 の行為や態度を拘束している規範やルール,あるいは権力や支配の構造といっ た「 # 隠された制度」を明らかにすることをめざす研究がある一方で,隠れて いるものではなく,むしろ人々が主観的に了解している世界, 「 $ 主観的世 界,主観に捉えられた(しばしば日常的な)現実」を明らかにすることをめざ す研究がある。ライフヒストリー,ライフストーリーの研究が主としてこのよ うな主観的世界の探求をめざしている。しかし,主観的な世界の了解を通じ て,その背後にある隠れた制度にたどり着くことをめざすタイプの研究もあ る
%。
「何につ い て の」
探求か
①全体社会・コミュニティ 民族学,人類学,農村研究
②組織・アソシエーション・集団 企業調査
③相互作用・会話 シンボリック相互作用論,エスノ メソドロジー
④個人 ライフヒストリー, ライフストー
リー
「何を」めざして いるか
⑤全体的な民族誌的構造の記述
⑥ある社会や集団のより特定化された構造の解明
⑦隠れた制度,人々を拘束しているもの,権力,ルールの発見
⑧観念体系,思想,作品の構造の解明(学説研究を含む)
⑨主観的世界,主観に捉えられた(しばしば日常的な)現実・意味世界 の探求
⑩メカニズム的構造の発見
図表4 質的研究の多様な探求
出所:盛山和夫『社会調査入門』有斐閣,2 0 0 4年,2 5 1頁から抜粋。
−40− 香川大学経済論叢 1 8 6
本研究では,まず,調査に協力してくれる朝鮮族の「 ! 個人」について, 「 "
主観的世界,主観に捉えられた(しばしば日常的な)現実」を明らかにするこ とをめざし,この場合によく用いられるライフヒストリー,ライフストーリー の調査・研究方法を採用する。その上で,主観的な世界の了解を通じて,既存 の社会保障のシステムのありよう(彼らが必要としながらも享受しえない現行 の社会的サービスなど)と,何がそこで発生する彼らの不便・不利益を補う役 割を果たしているのか,国家や地方自治体のような行政区界のガバナンスと,
そのような行政区界の境界に収まりきらない跨境生活空間におけるガバナンス とのズレの問題に接近していく。
3. 4 ライフヒストリー,ライフストーリー
ここでは, 「ライフヒストリー」 ( life history ,生活史)と「ライフストーリ
ー」 ( life story )の定義,両者の相違点を明示しておく。山田によると,ライ
フヒストリーとは, 「ある特定の個人によって語られた,あるいは書かれた資 料,すなわちインタビューや自伝,日記などに焦点を当て,それらに対する多 角的な検討を行うことにより個人の経験や生涯を再構成しようとする手法」で ある。このような過程によって個人の体験を再現し,個人と社会の関係を浮き 彫りにするのが,この手法の特色である
#。
浅野の整理によると,ライフヒストリー研究は,1 9 2 0年代に着手されたシ カゴ学派による都市研究の方法に起源をもつ。その後,社会学の主流が統計的 調査法に移行し,1 9 5 0年代後半以降,一部の文化人類学者や社会学者によっ てライフヒストリー研究の再評価がなされ,特定の文化や社会の分析にその視 点が採用された。ここで再評価されたライフヒストリー研究の視点の第1は,
「ある個人が現在の行動や価値観をもつに至った原因や契機となる出来事を,
当人の人生経験全体から探り出そうとする視点」であり,第2は, 「そうした
(3 6) 盛山,同上書,2 5 2−2 5 3頁。
(3 7) 山田浩之「英米におけるライフ・ヒストリー研究の系譜:社会学, 教育社会学を中心 にして」 『松山大学論集』第9巻第5号,1 9 9 7年,1 4 2頁。
1 8 7 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −41−
様々な出来事に直面するなかで個人の人生に継起する変化の過程を,他者や身 近な集団との相互作用をとおして構築される『主観的現実』の次元から把握す る視点」である。こうした視点によって,現代を生きる人々が主体的に構築す る「自己」の次元から社会や文化の変動を逆照射することが可能となる
!
。 これに対し,ライフストーリーとは,ライフヒストリー研究において中心と なる資料であり, 「インタビューや自伝,日記など,個人が自分自身の生涯,
生活や仕事に関して語ったもの,あるいは書いたもの」 ,つまり,個人が主観 的な立場から自身の経験や生涯を再構成したものと言える
"。 個人の回想的な 「語 り」を研究者が歴史的・社会的文脈に位置づけて再構成し,個人の自己形成過 程を社会変動に即して解釈的に描き出した「作品」が「ライフヒストリー」で あるのに対し, 「ライフストーリー」とは,再構成される前の個人の「語り」そ のものを指す
#。
ライフストーリーに対する多角的な検討によってライフヒストリーは作り出 される。多角的検討の際に使用されるのは,分析対象となる個人に関わるすべ ての資料,すなわちマクロな統計資料,従来の量的・質的研究の結果などはも ちろんのこと,同僚や友人などに対するインタビューや対象となる個人に関す る公的な資料などである。こうした資料を個人のライフストーリーと対照させ ることにより,ある個人によって主観的に構成された内的世界を再現しようと するのがライフヒストリーである
$
。
本研究では,まず,調査に協力してくれる朝鮮族の「個人」について, 「主 観的世界,主観に捉えられた(しばしば日常的な)現実」を明らかにすること をめざし,その人生体験(ライフストーリー)の聞き取りを行う。そのライフ ストーリーと,センサス・データなどの統計資料や,量的・質的な先行研究の 結果といった資料とを対照させ,歴史的・社会的文脈に位置づけて再構成され
(3 8) 浅野信彦「教師教育研究におけるライフストーリー分析の視点−学校の組織的文脈に 焦点をあてて−」 『文教大学教育学部紀要』第3 8集,2 0 0 4年1 2月,8 5頁。
(3 9) 山田,前掲論文,1 4 2頁。
(4 0) 浅野,前掲論文,8 6頁。
(4 1) 山田,前掲論文,1 4 2頁。
−42− 香川大学経済論叢 1 8 8
たライフヒストリー(生活史)を描き出そうと試みる。その上で,主観的な世 界の了解,および,再構成されたライフヒストリーを通じて,既存の社会保障 のシステムのありよう(彼らが必要としながらも享受しえない現行の社会的サ ービスなど)と,何がそこで発生する彼らの不便・不利益を補う役割を果たし ているのか,について解釈を行おうと試みる。これらを経て,国家や地方自治 体のような行政区界のガバナンスと,そのような行政区界の境界に収まりきら ない跨境生活空間におけるガバナンスとのズレの問題に接近していく。
3. 5 インタビュー
対象者の人生の全体ないしその一部を語ってもらうようなインタビューで は,最初にインタビューの目的を述べ,録音の許可を得たあと,どのような言 葉でインタビューを開始し,語り手の語りを促していったらよいのだろうか。
非常に包括的に「あなたの人生についてお聞かせください。生まれたとき,あ るいは子どものときのご家族の状況から始まって今日にいたるまで,順にお話 し下さい」というような質問で始まるインタビューもあれば,ある特定の事件 やエピソードに関わる個人的な体験を語ってもらうものもある
$。
インタビューがはじまり,語り手がうまく話しはじめたら,質問をはさむこ ともできるが, ! 一度に1つ以上の質問をしない。 " 複雑なダブル・バーレル な質問(1つの質問の文章に複数の答えを求める問いが入っているもの)はし ない。 # イエス・ノーで答える質問は役に立たない。記述的な質問(例「あな たの子ども時代をどのように描きますか?」 ) ,構造的質問(例「子どもとして あなたがしたことはどんなことでしたか?」 ) ,対象的な質問(例「あなたの子 ども時代は青年期とどのように異なりましたか?」 のように比較を含んだ質問)
が効果的で有用である点などに留意する
%。
いずれにせよ,一問一答ではなく,調査対象者(語り手)が自発的に,まと
(4 2) 盛山,前掲書,2 5 7頁。
(4 3) 桜井厚・小林多寿子編著『ライフストーリー・インタビュー−質的研究入門』せりか 書房,2 0 0 5年,8 8頁。
1 8 9 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −43−
まった形で回答してくれることが望ましい。既に述べたように,ライフヒスト リー,ライフストーリーの研究は,主観的世界の探求をめざしており, 「事実」
を知ること以上に,調査対象者(語り手)自身が自己の経験や自己をとりまく 世界を,どのように構造化(意味づけ,解釈)しているかをとらえることが,
インタビューのねらいとなる
$。
3. 6 音声データの文書化
インタビューを録音した音声データは,文字に起こして文書化する。その 際,録音されていることをどの程度忠実に文書化するかは,盛山によると,
「データのどの側面が研究にとって重要であるかによる」 。会話分析のように会 話の微妙なニュアンスをデータとして活用したいときにはできるだけ忠実に,
アクセントの調子や中断時間なども表現できる記号法を用いて文書化しなけれ ばならない。これに対し, 「話された内容が重要なときは,文書として意味の 通ったものに直してかまわない」 。実際のデータは,話のテーマや時間の順序 が飛んだり,さまざまに入り組んでいるものなので,最終的な論述において,
「データ自身に語らせる」といっても,基本的に研究者自身がデータを整理し て,語るにふさわしい部分をとりだし,それらの順序を考えねばならない
%
。 これに対し,蘭によると,近年のライフストーリー研究には,語り手と聞き 手との相互行為・相互作用を基盤としたライフヒストリー構成に焦点をあて,
〈あのとき−あそこ〉での話が〈いま−ここ〉で「いかに語られたか」という,
語りの様式に注意を払うものが多くみられるという。そこでは,トランスクリ プト (書きおこし) の際にも, ! 聞き手の質問に語り手と同じ位置づけを与え,
聞き手側の質問や語りも語り手の語りと同じように,省略されることなく書き
起こす, " インタビューの最初から最後まで,継起順序にしたがって書き起こ
す, # 引用の際には聞き手の発語もあらわす,といった工夫や努力がなされて いるという
&。語りの内容だけではなく,語りが構築されていく相互行為過程を
(4 4) 原ほか,前掲書,1 7 5頁。
(4 5) 盛山,前掲書,2 6 0,2 6 5−2 6 6頁。
−44− 香川大学経済論叢 1 9 0
みるために, 「会話分析で通常行われるほど詳細なものでなくてもよいだろう」
が, 「割り込みや同時発話,沈黙の長さ,言い間違いや語彙ではない発話,語 り手の感情が現れる表現などを記述し,さらに聞き手が気づいた語り手のしぐ さや表情,場の状況も記録する」 。例えば, 「発話の流れのなかでの沈黙,休 止,途切れは,丸括弧内にドット(・・)で示される。ドットの数で,おおよ その時間を示す。 (・)は,約一秒」といった記号法を用いた文書化が行われ る
!。
本研究では,インタビューで録音された音声データを,どのように文書化す るのが適当であろうか。上に述べたように,本研究では,まず調査に協力して くれる朝鮮族の「個人」について, 「主観的世界,主観に捉えられた(しばし ば日常的な)現実」を明らかにすることをめざし,その人生体験(ライフスト ーリー)の聞き取りを行う。そのライフストーリーと,センサス・データなど の統計資料や,量的・質的な先行研究の結果といった資料とを対照させ,歴史 的・社会的文脈に位置づけて再構成されたライフヒストリー(生活史)を描き 出そうと試みる。その上で,主観的な世界の了解,および,再構成されたライ フヒストリーを通じて,既存の社会保障のシステムのありようと,何がそこで 発生する彼らの不便・不利益を補う役割を果たしているのか,について解釈を 行おうと試みる。これらを経て,国家や地方自治体のような行政区界のガバナ ンスと,そのような行政区界の境界に収まりきらない跨境生活空間におけるガ バナンスとのズレの問題に接近していく。
従って,本研究では, 「いかに語られたか」よりも「話された内容」を重視 する立場にたって,録音した音声データを文書化する際には, 「文書として意 味の通ったもの」となるように最低限の修正を行い,インタビュー・テキスト を作成したい。このインタビュー・テキストを資料とし, 「話のテーマ」 「時間 の順序」等によって整理しつつ引用しながら,歴史的・社会的文脈に位置づけ
(4 6) 蘭由岐子「いま,あらためて 声 と向きあう」『社会と調査』社会調査協会,第3号,
2 0 0 9年,3 8−3 9頁。
(4 7) 桜井ほか,前掲書,1 3 4−1 3 6頁。
1 9 1 中国朝鮮族の国境を跨いだ生活 −45−
て再構成されたライフヒストリーを描き出したい。
3. 7 標本(sample)と標本抽出(sampling)
調査事例として,どんな個人,どんな事例を選べば適当なのであろうか。統 計調査であれば,知りたいのは母集団のおける統計量 (母集団統計量) であり,
問題となっている社会や集団を構成している全個体(個人や世帯など)に対し て調査を行う全数調査の調査結果を母集団統計量とみなすことができる。社会 や集団を構成する全個体のうちから一部分を標本(sample)として選び出し(標
本抽出 sampling) ,この標本に対して調査を行う標本調査では,得られた統計
量(標本統計量)から,統計学理論を用いて母集団統計量を推測する必要があ る。正確な推測のためには,標本が母集団の「縮図」になっていることが望ま しく,母集団統計量に一致する(あるいはその近傍の値の)標本統計量が得ら れる確率が最も高い標本抽出法は,無作為抽出法である
$。そして,同じ調査を もう一度繰り返した場合には同じ結果が得られる再現性を理想とする。これに 対し,質的な聞き取り調査では,限られた数の事例に対して調査を行い,再現 性を求めることは困難である
%。
社会調査としての聞き取り調査を行う場合,事例を選び出す基準として,原 は, ! 代表性(問題となっている社会事象に関して,他の個体と類似の特徴を 共有しているという性質) ,"典型性(社会事象に関する特徴が極端あるいは 純粋な形で現れている) , # 先駆性(今後増大するであろうと予想される特徴 を有している)をあげている
&