2009年 三重精神医会 抄録
雑誌名 三重医学
巻 57
号 1
ページ 25‑30
発行年 2014‑03‑25
その他のタイトル Mie Psychiatric Society, Abstracts, 2009
URL http://hdl.handle.net/10076/13883
1.三重県こころの健康センターでの活 動概要
―8 年間の諸々の雑感等とともに―
前三重県こころの健康センター長 崎山 忍
2.『先輩に聴く』「三重県における精神 医療の展開」1
三重県の精神医療の風景
水沢病院 服部尚史
(1)M村N地区-昭和10年代
県の中央部(中勢地域)の農村M村N地区.
ある日,集落から離れて丘の上にある一軒家で,
その家の青年が姉婿を鎌で刺した.人の話では気 が違っているので宮川の脳病院に連れて行かれた とのことだった.その後かなりたってであるが近 所の青年が長い間,座敷牢に入れられていた.と きには大声で叫んでいることもあったが戦争の終 わる頃に亡くなった.乞食も時々集落に入ってき た.ある夏の夕方に,この部落には入らずに部落 に行っていた乞食が県道を歩いて近づいてくるの を見かけた.下駄履きで黒っぽい着物を着流して,
ぶつぶつと何かいいながら歩いていった.乞食で あるが気が違っていると人は言っていた.この頃 では「狐憑き」とか「神隠し」といった言葉は使 われていなかった.
(2)宮川脳病院
昭和3年に設立.戦後しばらく経って閉鎖され,
国立津病院榊原分院と県立高茶屋病院がその後を 継ぐことになった.宮川脳病院の最後の院長となっ た中野嘉一は松阪市内で開業した.
(3)高茶屋病院
院長井上正吾は新設の三重県立医科大学(旧三 重医学専門学校)の精神科(教授 黒澤良介)の
入局者をすべて受け入れ発展していった.また鳩 谷龍副院長を中心とした「非定型内因性精神病」
の研究が進められた.
(4)多病院時代
昭和30年代になると,国立と県立の2病院か ら私立精神科病院を主とした多病院時代になった.
昭和35年までに6病院が,昭和45年までには更 に8病院が設立された.その後は新設はなく,1 病院は閉鎖になっている.
(5)精神科病院は新しい時代に入る
殆どの病院で新築,改築が終わり,高層化され て院内の業務は電子化されつつあるところもある.
多くの病院では社会復帰施設を持っており,デイ ケアも盛んに行われている.何台かの送迎バスが 山間を走っている病院もある.院長は初代から2 代目,3代目にうつった.
(6)総合病院の精神科と精神科診療所
(7)三重大精神神経科教室
(8)県の北部と南部での特徴
(9)M村N地区-再び
新しい世紀になった頃M村N地区はK町N 地区となった.戸数は昔とあまり変わらない.細 い道に囲まれて家があり,その家の姓は以前と同 じである.この数年の間に精神科に通院している 人はいるようであるが,長期入院者はいない.自 殺者が一人あったと聞いている.認知症で施設に 入っている人はいる.地区の周囲の風景は随分と 変わった.丘の上には30年ほど前に団地が造ら れ,小学校ができ,スーパーマーケットも出来て いる.丘の下を通る県道は広くなって舗装され,
道に沿った田圃は埋め立てられて家や店や医院が 建っている.少し離れたところにはメンタルクニッ クもできている.
2009 年 三重精神医会 抄録
MiePsychiatricSociety,Abstracts,2009
3.『先輩に聴く』「三重県における精神 医療の展開」2
―三重県立高茶屋病院をめぐって―
元・三重県立高茶屋病院院長 若生年久
はじめに
昭和
25
年(1950)に制定された精神衛生法に より,都道府県に設置が義務づけられた県立精神 病院の第一号として,三重県立高茶屋病院(現・三重県立こころの医療センター)が旧海軍工廠跡 のお粗末な建物を利用して開設された.それから 平成
7
年(1995),演者の定年退職時頃までの波 乱に富んだ同病院の足跡を振り返る.以下,三重 県立高茶屋病院を高茶屋病院または当院と呼び,また医学関係誌の習慣にならい医師の名に「先生」
を付けないこととする.
初代院長の井上正吾(京都大学出身)は戦争末 期,ビルマのインパール作戦に軍医として参加,
10
万人余の兵隊の殆どが戦死または戦病死した なか,あらゆる苦難を乗り越えて無事帰還された 兵士の1
人であった.副院長は,昭和
28
年(1953)に,京都大学か ら赴任された鳩谷龍である.氏は終戦時,軍医と して満蒙地区に派遣されていたがソ連軍の参戦に より捕虜となり,数年間極寒のシベリアで強制労 働をさせられた.帰国後,京都大学に復帰され,昭和
28
年同大学精神科から高茶屋病院に来られ た.このお二人は戦争体験を通して,平和の大切さ と人権尊重を強く意識され,特に精神障害のため に悲惨な状態にある病者の医療的及び社会的救済 に深い関心を持っておられた.
もう
1
人の指導者として,三重県立医専(現三 重大学医学部)の黒沢教授がおられた.氏は京都大学卒業後,6年間,同大学精神科に て研鑽を積まれたあと,台湾に渡られ,台北大学 の助教授として活躍され,戦後も国立台湾大学副 教授として台北に留まられ,昭和
22
年(1947) に三重県立医専の教授となられた.実に医療,研 究,若い医師の育成に熱心な方であった.昭和29
年(1954)から医師の数も徐々に増え始め,医療と研究の体制も整いはじめた.
昭和
50
年代から平成10
年(1998)にかけて当 院の抱える最も大きな問題は,老朽化,狭隘化し た病院を新築整備し,近代化するにあった.平成7
年(1995),演者が定年退職するまで,副院長 の平野直を中心として検討を繰り返し,平成7
年2
月に機能面からみた病院全体のレイアウトのイ メージをまとめることができ,三重県から「三重 県立高茶屋病院整備の基本構想」として発表され た.実際の設計,建築は3
年余を要したが,県当 局,建築業者は言うまでもなく,平野院長を始め とするすべての職員の努力は並々ならぬものがあっ たと思われる.お蔭で,全国に誇れる立派な病院 となった.さて,昭和30
年代に戻って,当院の 歩んだ道を,以下,項目をしぼって概観する.(1)精神医療をとりまく背景
(2)社会化を目指す精神医療の発展について
(3)医師の教育・研修について
(4)精神分析療法の台頭
(5)広範な精神医療の研究について
(6)非定型精神病の研究
(1)精神医療をとりまく背景
従来の閉鎖的な精神医療が反治療的であるとす る「反精神医学」が世界的に注目され,運動化し たのは,昭和
35
年~55年(1960~1980)頃にか けてである.この影響下で,イタリアでは昭和53
年(1978)の法律改正により,総ての精神病 院を閉鎖するまでになった.わが国では昭和42
年(1967)に,世界保健機関(WHO)から,日 本の精神医療の現状を視察し改善勧告をするため,英国のフルボーン病院院長
D.
クラークが来日し た.彼は,全国の国公立,市立の精神病院15
ケ 所と大学の精神科等を訪問し,その結果を「クラー ク・レポート」としてわが国の政府に提出した.そこでは,日本の精神医療には社会的視野が乏し く,閉鎖的である点などを指摘し,厳しい批判と 勧告がなされた.
昭和
44
年(1969),金沢での「精神医療の総点 検」をテーマとした日本精神神経学会総会が混乱 のうちに開催されて以来,各地で古い因習に満ち た医局講座制に反対する運動や精神病院の告発が 各地で起こった.昭和58
年(1983)に「宇都宮 病院事件(職員による傷害致死事件)」が起こり,国際的にも問題となって,法律家を含めた国際調 査団が来日した.それを踏まえて国は精神衛生法 26
の見直しを約束し,昭和
62
年(1987)に新しい「精神保健法」が成立した.人権擁護と社会復帰 施設が成文化され,行政面での改革も大きく前進 することとなった.
(2)社会化をめざす医療の展開
以下,高茶屋病院でおこなわれたユニークな社 会化をめざす医療について紹介する.
a
)外勤療法外勤療法は,昭和
30
年(1955)代から当院が 最も熱心に取り組んだユニークなリハビリテーショ ン活動の一つであった.ちなみに「外勤療法」と いう言葉は,当院で昭和30
年(1955)代に生ま れたものである.この療法では,院内作業療法で 作業能力がある程度回復した入院患者を,地域の 事業所に通わせ,そこでの指導の下で実際に社会 で働く体験も持たせ,社会復帰を目指した.この 療法を推進するに当っては,先ず「職親」を探す ことから始まった.これにはPSW
が大いに活躍 した.統計によると30
年間で職親の業種は39
種 類で,293ヶ所の働く場が提供された.外勤療法 中,PSWが頻繁に職場訪問をする内に,障害者 に対する偏見も急速に薄れていった.昭和30
年 代の初めには一日20
名位の患者が外勤に出てい たが, 最盛期の昭和40
年 (1965) 頃には一日50
~70名に達した.この間,事故らしい事故は なかった.30
年間に延べ694
名が参加し,その 内523
名(75%)が退院することができた.彼ら は再入院も少なく,比較的安定した社会生活を営 んでいる人が多かった.家庭事情などで退院でき ない患者は,社会復帰施設がなかったため,病院 周辺の古いアパートなどに住む人が多くなり一時 は40
名を数えた.昭和42
年(1967),クラーク 氏が当院に来られた際には,実際に外勤療法の現 場を見て高く評価された.b
)治療共同体治療共同体とは,広義では病院全体を対象とし,
狭義では,病棟を対象として,そこで生活するこ と自体が治療的になるように病院や病棟の運営を することである.この概念は主として英国で生ま れたものである.治療共同体では,職員も患者も 上下関係ではなく平等且つ公平な立場に立って,
病院の管理・運営に関与することを目指した.病 棟では,しばしば患者のミーティングを開き,何 か問題があれば患者自身に考えさせるようにした.
この理念に従った病院運営で,病院が患者に与え うる大切な贈り物は,「自由」,「責任」,「活動」,
「社会学習の機会」,「成長の促進」,「希望」の六 つであるとされた.当院では昭和
42
年(1967) 以来この理念を重く見て,あらゆる機会に実現す るよう努力した.c
)児童精神医療の進展昭和
39
年(1964),当院の中に60
床の児童病 棟(あすなろ学園)が開設され,心に障害をもつ 児童・生徒に対する治療と教育の場が誕生した.当時,この種の施設は他県にも殆どなく,全国の 注目を浴びるところとなった.情緒障害の小・中 学生が県内外から来院した.入院治療を受けつつ,
院内学級または地元の小・中学校の障害児学級に 通学する方式で,モデル的な運営がなされた.昭 和
57
年(1982)から昭和58
年(1983)にかけて,あすなろ学園診療本館と病棟が新築され,昭和
60
年(1985)には当院から完全に分離独立する こ と と な っ た . こ の 間 の詳 細は , 平 成7
年(1995)にあすなろ学園から出版された「あすな ろの
10
年」に記載されている.d
)アルコール医療の進展従来,当院に限らず,どこの精神病院にもアル コール依存症患者は入院していたが,良い治療法 がなく,また患者の処遇についても問題が多くあ り困っている病院が多かった. 昭和
45
~46年(1970~1971)になって,当院では,数人の若い 医師を中心として,本格的にアルコール医療に取 り組み始めた.アルコール依存症は,病院医療の みで完結する病気ではなく,地域内に自主的な断 酒会 な ど が必 要と の 理解の も と , 昭 和
50
年(1975)には病院近くに「断酒の家」が建てられ た.これを契機として,県内各地に断酒会がつく られ,院外の医師との連携もあり,当院のアルコー ル医療は県のセンター的働きをするようになった.
e
)その他当時としては先駆的な人権尊重,病棟の開放化,
作業療法,外勤療法,リハビリテーションの促進,
児童部門の導入などの業績が認められ,昭和
43
年(1968)に日本精神神経学会から「呉秀三賞」が井上院長に授与された.
(3)医師の教育・研修について
昭和
30
年代の医師の教育・研修は,黒沢教授 を中心として,三重大学と高茶屋病院の連携の下に行われた.
毎週木曜日の午後
1
時から開かれる 「医局 会」には当院の医師と大学精神科の医局員が出 席し,過去1
週間における新入院患者と退院患 者の紹介があり,それに続いて当番制で症例研究 と外国語の文献紹介が行われた.夕食後,午後6
時 か ら8時 ま で は ヤ ス パ ー ス の Al l gemei ne Psychopathol ogi e
をドイツ語で輪読するプログ ラムが永年にわたり繰り返された.月に一度,日 永病院に南山大学の荻野恒一教授を招いて開かれ る「日永集談会」(症例検討会)に参加するのも 若手医師の教育に大いに役立った.(4)精神分析療法の台頭
昭和
30
年代後半には,従来の精神療法に加え て精神分析療法が導入された.数人の医師により,単に患者に対する治療面のみでなく,PSW,CP,
OTR
,看護職員にも熱心に精神分析学の基礎を 教育指導した.その結果,コメヂカル職員が患者 の抱える問題に対し,より力動的に対処する傾向 が生まれたことは大きな進歩であった.(5)広範な精神医療の研究について
当院開設以来の
30
年間に, 医師のみでなくCP
,PSW,OTR,薬剤師,栄養士,看護師など,多くの医療関係職員により多岐にわたる研究がな された.その中で,学術誌に掲載されたものは合 計
301
編にのぼる.その内訳は次のとおりである.①病院精神医学関係
34
編②作業療法,リハビリテーション関係
67
編③精神病理,精神療法関係(非定型精神病を除く)
16
編④非定型精神病関係
20
編⑤身体病理,精神生理関係
18
編⑥PSW関係
31
編⑦臨床心理関系
12
編⑧精神衛生関係
22
編⑨薬物療法関係
17
編⑩看護関係
13
編⑪児童関係
51
編合計
301
編 このうち11
編の論文は,三重大学に学位申請 時の主論文として提出され,学位が授与された.(6)非定型精神病の研究
「非定型精神病」の研究は,黒沢,井上,鳩谷 の三氏により京都大学時代から行われていたが,
当院では,多くの医局員の参加を得て,多面的な 研究がなされた.これらの研究は非定型精神病の 研究で有名な満田久敏教授(大阪医科大学)の臨 床遺伝学的研究の流れに沿うものであった.当院 では精神病理学的研究,詳細な生活歴調査,長期 経過と予後の調査なども行なわれたが,いずれも 本疾患群は,統合失調症定型群とは赴きを異にし ていることが示された.ここでは精神内分泌学的 研究の一端を紹介する.
精神内分泌学的アプローチ
昭和
29
年(1945),演者は鳩谷の研究に加わっ たが,研究費は殆どなく,検査器具も揃っていな い劣悪な環境で研究せざるを得なかった.昭和30
年(1995)から31
年(1956)にかけて,新卒 の医師4
名が入局し,鳩谷グループに参加し,そ の陣容はほぼ整ってきた.非定型精神病に対して ヨーロッパでは学派や研究者により色々な名があ たえられ,その内容も必ずしも一致するものでは なかった.疾病学を目指す生物学的研究では,対 象とする疾患ができるだけ均一であるのが好まし く,吾々は対象とする患者の臨床特徴を鳩谷の見 解によるものに統一した.即ち,「本疾患群は自 生的に発病することもあるが,何らかの身体的或 いは精神的契機から発病することが多く,発病は 多くの場合急激であり,多少とも意識障害を伴い 情動不安や精神運動性興奮,更には錯乱,昏迷,夢幻様状態を呈する.この際多彩な幻覚,妄想を 示すものが多いが,経過は概ね一過性,位相性或 いは周期性で,大部分は良好な予後を持ち,数ヶ 月以内に寛解に達する特徴を有する.」
まず病者の内分泌機能の状態を,グループのメ ンバーで分担して測定した.その指標としたもの は尿中の
17
-KS,17-KS分画,エストロゲン,プレグナンジオール,ゴナドトロピン,血清
PBI
, 血中アンモニア等々,多岐にわたった.縦断面的 測定をしたため大変なエネルギーを要する仕事で あった.結論:この病態発生の背後には,多くの要因が 関与していると推察される.例えば,ある特定の 性格の比較的若い人(女性の方が多い)が,精神・
身体的により不安定な時期に,例えば生理前,産 後,過労,不眠,風邪気味などのときに,心的あ るいは身体的な強いストレスを受ける時などの要 因がしばしば認められた.そして発病時には,視 28
床下部,下垂体前・後葉系,末梢内分泌線,肝の ホルモン代謝機構などからなる機能環に,ホメオ スターシスの異常を認めることが多いが,この種 の異常は,多くは周期性発病の寛解とともに回復 した.これらの所見は単に精神病の随伴所見では なく,pathoplastischな意味があると考えた.
しかしこの異常が持続する場合や,病期が遷延化 する場合には,甲状腺ホルモンがよく奏効するこ とを認め,治療的にも意義をもつと考えられた.
おわりに
昭和25年(1950)から平成7年(1995)頃ま での高茶屋病院の歩んだ足跡を, 主として医療 および研究活動の面から展望した.この時代にわ が国は著しい経済発展を遂げたが,精神医療は諸 外国と比べて後進性が目立っていた.即ち,低医 療費政策の下で,作業療法,ケースワーク,臨床 心理の仕事も永い間全く点数化されなかった.地 域には受け皿がなくて退院もままならず,長期慢 性患者が病院に溢れるようになっていた.
当院としてはリハビリテーション医療に重点をお きつつ,都道府県の中核病院としの診療機能を保 ち,更に,公立病院として教育・研修・研究,県 の保健衛生,地域精神医療などにも積極的にとり 組んだ.昭和62年以後の数次にわたる精神保健 法の改正により,わが国の精神医療は大きく改善 をみたことは喜ばしい.更なる発展を期待したい.
4.シンポジウム「発達障害の成人例~
治療者間の連携を求めて~」1 児童精神科医の立場から
三重県立小児心療センターあすなろ学園 中西大介
発達障害とりわけ広汎性発達障害の社会的認識 が拡がるにつれ,以前は児童精神科領域に限定さ れがちであった発達障害者の受診先は,精神科医 療全般に拡大している.また,その受診理由は,
二次的に生じる抑うつ症状,不安症状,不眠症状,
精神病症状を主訴とする者から,対人関係の苦手 さや,ひきこもり,衝動コントロール不良,就労 相談などを主訴にする者まで様々であると想定さ れる.患者のニーズが多様であるため,医療機関 のみで対応することは困難な場合が多く,発達障
害支援センター,市町村福祉課・障害者支援セン ター,学校などとの連携は不可欠である.
あすなろ学園は,入院治療を実施可能な病床を 80床有する児童・思春期単科精神病院である.
入院対象は義務教育年代を上限としており,外来 でも新規患者の受け入れは18歳までと制限して いる.また,継続した外来治療が必要な場合は,
概ね20歳を目途に他院へ紹介させて頂いている.
しかし,近年は20歳を過ぎてから受診するケー スも散見される.多くの者は発達障害を有してお り,全例関係機関からの紹介である.現在,就労 支援を含む各種の福祉サービスを利用するに当たっ ては,何らかの医学的診断が必要となり,成人精 神科領域においても,ある程度発達障害の診断を 行えるニーズが高まっている.診断目的の受診に 加え,二次的に何らかの精神症状を来たしている 際には薬物療法や,心理療法,認知行動療法的な 近接も必要となる.また,D.C.の利用では,居 場所作りや仲間作りを行うことに加え,作業能力 や対人関係のとりかた,社会性などを細かくアセ スメントし関係機関に伝え,以降の支援につなげ る必要がある.
当園の入院治療は義務教育年代を上限としてい るが,より適切な「育ち」の保障が必要となるた め,入院期間が年単位におよぶ児も少なくはない.
多くの児は,退院後も外来治療を継続し課題を少 しずつ克服していく.その際,入院治療で獲得し たスキルが,児や家族の支えとなっている.しか し,成人以降も引き続き治療が必要なケースや,
退院後症状が再燃するケースでは,円滑な成人精 神科医療への引継ぎが必要になると考えている.
また,近年,家族機能が脆弱なケースが増加して おり,養育を行う家族自身が精神疾患を有し通院 治療を行っていることもある.その際,子どもの 治療を行うのみでは,問題の解決とならず家庭復 帰が困難となる.情報交換を行うなど治療者間で 連携していくことが必要であると感じている.
児童・思春期精神科領域では,常に「育ち」を 意識した治療が必要である.特に発達障害の治療 には,終結となるものはなく,各ライフステージ に応じた課題があり,それに応じた支援が必要と される.その実現には,今後医療分野でも児童・
思春期から成人期へ途切れのない支援を行ってい けるような連携が更に必要になると考えられる.
5.シンポジウム「発達障害の成人例~
治療者間の連携を求めて~」2 成人の発達障害
三重大学医学部附属病院 鈴木 大
6.シンポジウム 「発達障害の成人例~
治療者間の連携を求めて~」3
精神科心理臨床での新たな視点『発達 障害』
三重県立こころの医療センター 榊原規之
7.シンポジウム 「発達障害の成人例~
治療者間の連携を求めて~」コメント
三重県立小児心療センターあすなろ学園 西田寿美 30