『星の王子さま』におけるおとな性
― 六つの星をめぐってわかったこと ―
生越 達*
(2009 年 11 月 30 日 受理)
Adulthood in Le Petit Prince : Discoveries by Visiting Six Planets
Toru O GOSE
*(Received November 30, 2009)
はじめに
しばしば,子どもが変わったということが言われる。たしかに小中学校の先生がたの話を聞いて いると,以前とは異なってきている子どもの姿が見えてくる。たとえば,子どもたちとの関係をつ くるのが難しくなったという。また自己肯定感が低く,叱るとすぐに落ち込んでしまうと話す先生 もいる。自己中心的で規範意識が低くなったとも言われる。また明るいのだけれども自分から積極 的にチャレンジすることがないなどともいわれる。
変わったのは子どもたちだけではない。むしろより大きく変化したのは保護者である。先生がた と話をしていると,子どもの変化はそれほどでもないけれども,保護者は変わったという先生に出 会うことも多い。もちろん,その一端には,子どもへの対応に戸惑っている教師の保護者への責任 転嫁があるかもしれない。だが,少なくとも保護者の子育てをめぐる不安は強くなってきているよ うに思われる。そして,そうした不安は,ときとしてモンスターペアレントといわれるような現れ 方をするのである。
こうした事態が生じていることの背景には,大きく変わろうとしている現代社会の在り方がある だろう。成熟社会になり,現代社会は,もはや頑張っても報われるとはかぎらない状況にある。し かし,いっぽうでは,グローバリズムの広がりのなかで,世界を一つの市場とする社会が生まれて いる。その結果,ますます競争主義は強まっている。したがって,競争は熾烈なものにならざるを えないことになる。以下,もう少し詳しく現代社会の特徴を考えてみよう。
ひとつは,現代社会が成熟社会であることにかかわる特徴である。すでに成熟してしまった社会 においては,全体の富は増大しない。したがって,競争は開かれた競争ではなく,現存している富 を奪い合う競争にならざるをえない。実際に,政府の政策もまた,競争をして勝ち残れという方向
*茨城大学教育学部
に傾いている。その結果,勝ち組,負け組がはっきりした社会が生まれることになる。このような 状況では,一部のエリート志向の子どもたちが必死になって頑張るいっぽうで,どうせ頑張っても 成功しないだろうという予測を多くの子どもたちは立てるはずである。そこで,子どもたちは頑張 ることよりもまったりと生きることを選ぶことにもなるだろう。また,閉じられた競争は,教育格 差の再生産とも結びついていくだろう。
もうひとつの特徴は,これまで競争社会のセーフティネットとして機能してきたともいえる家族 も壊れていくことである。社会は,いま必死になって家族の復権を果たそうとしているが,自己実 現社会と家族は,両立しがたい。なぜなら,これからの社会においては,もはや専業主婦という役 割を女性に押し付けることはできないからである。だが,家族の危機は,子どもたちの自己形成の 危機を生み出す。
現代社会の特徴は競争主義だけではない。世間という「大きな物語」を喪失したことも大きい。
たしかに世間は,私たちをしばってきたかもしれないが,いっぽうでは私たちをこの社会につなぎ とめてくれるものでもあった。世間が喪失しつつある今,私たちは「個人」としてこの社会のなか に放り出される。したがって,個として自立しつつも,上手に他者とコミュニケーションをとれる ことが重要な能力とならざるを得ない。このことは同時に,コミュニケーション能力の低い人たち は,孤立して追い込まれていかざるを得ない,ということを意味する。
こうした傾向がみられるのは,子どもたちだけではなく,大人も同様である。以前,幼児の親の 公園デビューが,とりあげられることがあったが,そうしたことが問題になるのは,個人が孤立し ているからである。親同士のかかわりでもコミュニケーション能力が求められる。
また,「大きな物語」が喪失した社会では,子どもたちの規範意識の低下や自己チューも自然な流 れであるともいえる。他者の風景化は時代の必然である。
情報社会,技術社会が進み,人と世界とのつながり方が表層的になったことも私たちに深い影響 を与えている。世界はモノ化し,他者も世界も道具としてしか私たちの前に現れてこない。他者や 世界は私たちにモノとしての顔しか見せてくれなくなってきている。そうした社会では,自己自身 も道具としてまなざされる。
私たち自身を振り返っても,他者にたいして開かれることが困難になってきている。清潔志向社 会の進展もまた影響を与える。清潔志向の社会において,私たちは他者の異質性に対して開かれる 力を失ってしまっているのである。こうした社会は,身体的にはアレルギーの増加と結びつくが,
とうぜん精神的なアレルギーといった事態も生じてきている。
時代の流れの速さもまた,私たちが他者や世界との関係にゆっくりととどまることを許してくれ なくなっている。私たちは時間の激流のなかで,なんとか流れについていくほかない。つねに,ゆ っくりとどまれば時代から取り残されてしまう恐怖のなかで生活しているのである。
重要なのは,子どもたちのことにしても,保護者のことにしても,そして社会のことにしても,
社会の変化の方向は一つだということである。それは,「関係の希薄化」ということである。人と人 とがつながること,人と世界がつながることが困難になりつつある。教育はこのことに気づいてい るし,もちろん社会も気づいているだろう。だが,「関係の希薄化」が社会の進展の方向に添った変 化であるということは,この問題へのアプローチは矛盾を抱えやすく難しいということを意味する。
つまり現代社会を前提にした解決方法の模索は,むしろ問題を悪化させる危険性をもっているとい
うことである。
教育に限って考えてみよう。たしかに教育基本法の改正や新学習指導要領をはじめとして今日の 教育改革は,現代社会の在り方を踏まえて進められている。いっぽうでは,グローバリズム下の競 争社会を生き残っていける新しい学力をもった子どもを育てること,いっぽうでは,日本人として アイデンティティをもち,規範意識の高い子どもを育てることである。
そして,こうした困難な状況に対応するために,教師それぞれが競争を乗り越えて切磋琢磨する こと,そして学校も組織として競争によって勝ち残っていくこと,が強調されるのである。ますま す高い資質が教師に求められる。
乱暴な言い方をすれば,競争主義から生まれた弊害を競争主義で乗り越えようとする方法をとっ ているということである。そして競争を目に見えるようにするために,あるいは競争を実質化する ために,計画立案が重視されることになる。教育基本法にも教育振興計画が盛り込まれ,実際に平 成20年月には計画がたてられている。そして地方の特徴を生かしながらも,それぞれの都道府県 においてこの教育振興計画を踏まえた教育計画を立てることが求められている。PDCAサイクル によって教育を管理する方向性である。
計画の内容についてはここではふれない。計画によって教育を動かしていくという発想自体に問 題はないのだろうか。なぜなら,教育は子どもに触れながら実践していくものだからである。した がって,計画を実行し,計画を評価するという考え方は,子どもに触れること,子どもに学ぶこと を奪ってしまう危険性をもっている。このことは計画をたてなくていいということを意味している わけではない。計画を立てることによって,教師の子どもへの願いを確認することは大切であろう。
だが,PDCAサイクルは,計画を絶対視し,計画のなかに子どもを閉じ込める危険をもっている。
保育に関してであるが,佐伯は次のようにいっている。「保育計画は,子どもを保育者の手のひら の上で踊らせるためのものではない。あるいは『鳥かごのなかの鳥が動きまわれるように,あらか じめあちこちにエサをまいておく』ようなことでもない。そうではなく,子どもがそれぞれの状況 のなかで,みごとな文化的実践をその都度遂行できるように,必要かもしれない道具を用意してお き,関係づけるかもしれない『環境』を設定しておき,なにが起きても対応できるように,起こり うる事態を多様に想定(イマジネーション)しておくことが,計画を立てるということである」1。
少なくとも,教育の分野に関しては,綿密な計画をたて,実行し,その結果をできるだけ客観的 に評価し(つまりは数字で表し),その評価に基づいて計画を反省し,計画の修正を行うというPD CAサイクルは改善に役立つかどうかは疑問である。それは,教育は具体的な状況や人とのあいだ に成立する一回限りの出会いのなかに生まれるものであり,また関係のなかに生まれるものだから である2。
教師は,はたして計画実行のまなざしのもとに,子どもと出会うことは可能なのであろうか。あ る教師は,授業には二種類あるということを話してくれた。一つは,普通の授業であり,もう一つ は見せる授業である。見せる授業とは,研究授業などにおいて,見せるために綿密な計画をたて,
その計画どおりにすすめる授業だという。こうした授業では,子どもを誘導することは可能だとし ても,むしろ子どもの主体的な学びを閉ざしてしまうことになるのではないだろうか。
そこに教師と子どもたちとの出会いがあるからこそ,何かが見えてくる,つまり「関わりがある からこそ見えてくる」というのが教育の現場なのではないだろうか。計画どおりに実行しようとす
る教師がいるとすれば,そこには教師と子どもたちとのかかわりはないと言えよう。環境や状況は 客観的に存在するのではなく,意味は関係のなかで紡ぎだされてくるものだからである。
以下において,私は,サン=テクジュペリの『星の王子さま』について考察を加えながら,かか わりのなかから考えることの重要性について論じることにする。『星の王子さま』を取り上げる理由 は,この作品は,後に述べるように,かかわることの大切さを表現しているように思われるからで ある。そして,具体的にものをとらえるまなざしについて学ぶことが実際の課題である。『星の王子 さま』におけるサン=テクジュペリのまなざしは,見えてくるものとつながりながらとらえる仮説 生成型のまなざしであるように思われるのである。
この小論においては,とくに自己中心性とは何かといった規範意識を中心とする人間性の育ちに 焦点をあてて考えていきたい。その際,『星の王子さま』において王子さまが尋ねた六つの星の住人 にスポットを当てて考えることにする。それは,この住人たちをとおしてサン=テクジュペリは,
現代社会においてつながりを喪失した大人たちを描いているからである。小論では,逆にこうした 大人たちを見つめることを通して,つながりについて考えたい。
1・ 『星の王子さま』の概略
詳しく論じることはできないが,必要な限りでの『星の王子さま』の概略について述べておこう。
『星の王子さま』は,サン=テクジュペリがその挿絵とともに描いた作品である。サン=テクジ ュペリの作品には,私小説のようにサン=テクジュペリ自身の存在そのものが織り込まれているこ とが多く,この『星の王子さま』もそうした性格をもった作品であるように思われる。たしかにこ の作品の語り手である僕は飛行士であり,サン=テクジュペリ自身も飛行士であったことを考える と,語り手にサン=テクジュペリが織り込まれていると考えることができるようにも思うが,事実 はそれほど単純ではない。読み方によっては,この作品そのものが語り手と王子さまという二人の 姿をとった一人の人間の自己内対話としても理解できるような作品だからである3。
題名は内藤濯が「星の王子さま」と訳して以来,日本では,その題名でとおってきているが4,も ともとのフランス語を直訳すれば「小さな王子(Le Petit Prince)」である5。バラの花とうまくい かなくなり星を出た王子さまが,さまざまな星をめぐったあとに地球に到達し,そこでキツネやヘ ビと出会いながら成長を遂げ,そして最後の一週間を飛行士とともに過ごすといった内容である。
旅による自己の成長を描いた作品としてとらえることもできるように思う。キツネが語った言葉で ある「かんじんなことは目に見えないんだよ」ということをテーマにしているとも考えることもで きるし,このことばとも深くかかわるのだが,「飼いならす」,あるいは「仲良くなる」(絆をつくる)
ことをテーマにした作品であるとも考えることができるであろう。
またこの作品の大きな特徴は子ども性を軸に物語が展開していくことである。サン=テクジュペ リは,子ども性をおとな性と対比させながら,人間にとっての子ども性の大切さを繰り返し強調し ている。この子ども性に関しては,サン=テクジュペリのもともとのパーソナリティとしてとらえ る立場もある6。小論でも,この子ども性に焦点をあてて考えていくことにする。だが,小論では,
作者の性格分析やさらには王子さまの性格分析としてではなく,一般的な自己論として,子ども性
とおとな性を対比させつつ論じていくことにする。
また子ども向けの物語といいながらも,描かれている王子さまは基本的には孤独で一人ぼっちで ある。こうしたところは,現代の子どもたちを考えるにも多くの示唆を与えてくれる。この点も,
王子さまの個人的な性格としてではなく,王子さまの内なるおとな性とかかわらせながら考えてい きたい。また,この物語では,おとなの孤独も隠されたテーマになっていると思われる。だが,そ れは表面にあらわれる孤独ではなく,つねに孤独からの逃避として訪れる。
さらには物語が展開する場が砂漠であることも重要な意味をもつであろう。この点についてサン
=テクジュペリは他の作品のなかでも触れている。砂漠は,おとな性を相対化する場,あわただし い日常性の相対化される場,なのである。
直接的には小論では,『星の王子さま』に描かれたさまざまな大人の在り方を分析することにより,
現代社会への問題提起,ひいてはおとな性の問題,教育の問題について考えていきたい。そして大 人社会によるのではない世界の見方を学ぶことを目的としている。そこでは,子どもの孤独,ひい ては存在の不安は,子どもの中に植えつけられたおとな性から生まれてくるのではないかという仮 説をたてて考えていくことにする。
2・ 『星の王子さま』におけるおとな性
7(1) 王子さまの孤独,語り手の孤独
王子さまが純粋な子どもと言えるかは難しい。見えないものが見えるという点では子どもといっ ていいだろうが,成長のために旅を必要としたということが純粋の子どもとは言えないようにも思 われる。見えないものが大切だということもキツネに教えられたことであって,王子さまがはじめ からわかっていたことではなかった。あるいはまた王子さまと飛行士が一人の人間の自己内対話の 相手だとすれば,王子さまを子ども,飛行士をおとなと二分することには無理があるかもしれない。
そもそもおとなと子どもとを二項対立的にとらえることは正しくないように思われる。人間につ いて考えるためには,子ども万歳でも,おとな万歳でもなく,双方のまなざしを絡めあわせながら 考えることが必要であろう。片木も「子どもの『純粋さ』と並べられる大人の『腐敗・堕落』とい う安易な二元論」8に陥ることの危険性に触れている。
子ども性を体現しているかどうかは置いておくとしても,ともかく王子さまには孤独の影が付き まとっている。その意味では,王子さまは子どもらしくない面をもっているように思われる。だが,
王子さまがこうした孤独の影をひきずっていることが,現実の子どもに内在する無秩序さや押しつ けがましさを弱めて,私たちが王子さまの世界に耳を傾けることを可能にしているようにも思える。
王子さまの孤独はテキストの何か所かで見ることができる。
まずは,その挿絵をとおしてである9。第6章の飛行士と日暮れの話をしているところについてい る挿絵である。夕焼けを見ているマフラーをなびかせた後ろ姿の王子さまはさびしそうである。た だし,文章のなかではさびしいという言葉は使われていない。
「ぼく,いつか,日の入りを四十四度も見たっけ」
そして,すこしたって,あなたは,また,こうもいいましたね。
「だって……かなしいときって,入り日がすきになるものだろ……」
「一日に四十四度も入り日をながめるなんて,あんたは,ずいぶんかなしかったんだね?」
しかし,王子さまは,なんともいいませんでした10。
もう一つの挿絵は地球上で高い山に登ったところの星の王子さまの様子を描いたものである。「ま るで刃をつきたてたような,とがった岩のほかには,なんにも見えません」11というような山で,
王子さまはやはり後ろ姿で,マフラーを風になびかせて頂上にたっている。
「ぼくの友だちになってね。ぼく,ひとりなんだ」と,王子さまがいいました。
「ひとりなんだ……ひとりなんだ……ひとりなんだ……」と,こだまが答えました。
王子さまは,そのときに考えました。「なんて,へんな星だろう,からからで,とんがりだらけで,
塩気だらけだ。それに,人間に,味がない。ひとのいうことをオーム返しにするきりだ……。ぼく の星には,花があった。そして,その花は,いつも,こっちからなんにもいわないうちに,ものを いってたんだがなあ……」12
ともにマフラーを風になびかせた後姿の王子さまが描かれおり,同じようにさびしそうに見える。
そしてその孤独は花との関係と深くかかわっているように見える。
実際に王子さまのさびしさに触れている部分は,高い山にのぼった次の章で,五千ものバラに出 会った場面である。
「あんたたち,だれ?」と,王子さまは,びっくりしてききました。
「あたくしたち,バラの花ですわ」と,バラの花たちがいいました。
「ああ,そうか……」
そういった王子さまは,たいへんさびしい気もちになりました。考えると,遠くに残してきた花 は,じぶんのような花は,世界のどこにもない,といったものでした。それだのに,どうでしょう。
見ると,たった一つの庭に,そっくりそのままの花が,五千ほどもあるのです13。
ここでは,よりはっきりと,王子さまの孤独にバラの花が関係していることが示されている。バ ラとの関係が,むしろ王子さまを孤独にする。
「もし,あの花が,このありさまを見たら,さぞこまるだろう……やたらせきをして,ひとに笑 われまいと,死んだふりをするだろう。そしたら,ぼくは,あの花をかいほうするふりをしなけれ ばならなくなるだろう。だって,そうしなかったら,ぼくをひどいめにあわそうと思って,ほんと うに死んでしまうだろう……」
それから,王子さまは,また,こうも考えました。
「ぼくは,この世に,たった一つという,めずらしい花を持っているつもりだった。ところが,
じつは,あたりまえのバラの花を,一つ持っているきりだった。あれと,ひざの高さしかない三つ
の火山――火山も一つは,どうかすると,いつまでも火をふかないかもしれない――ぼくはこれじ ゃ,えらい王さまなんかになれようがない……」
王子さまは,草の上につっぷして泣きました。14
王子さまは星に残してきたバラが,ありきたりのバラだということを知ってさびしくなる。とす れば,ありきたりでないバラであったら,さびしくならなかったということだろう。その場合,あ りきたりかありきたりでないかは,対象としてのバラの特有性によって決まるということになるだ ろう。「世界のどこにもない」ということが大切だということになる。そうだとすると,このとき,
王子さまは,やはり所有にこだわっていたということができるだろう。珍しいものを所有している ことが,王子さまのさびしさをいやす。所有していたバラが珍しいものではなかったことが,王子 さまのさびしさを生み出す。
この時点での,王子さまの孤独は,花との関係によって生み出されたものであるだけではなく,
相手を所有すること(珍しさ)によって左右されるものであることがわかる。これでは王子さまは,
まるでおとなのようではないだろうか。
もうひとつテキストのなかでさびしさに触れられているは,ヘビとの出会いの場面である。
「美しい星だなあ。なにしにここにきたの?」
「ぼく,ある花といざこざがあってね」と,王子さまがいいました。
「ふーん」と,ヘビがいいました。
ふたりはだまりました。
「人間たちは,どこにいるの」と王子さまは,やっとまたいいだしました。「砂漠って,すこしさ びしいね……」
「人間たちのところにいったって,やっぱりさびしいさ」と,ヘビがいいました。15
このヘビとの出会いのあとで,王子さまは,高い山に登り,5千ものバラの花に出会うのである。
その後,王子さまが,キツネと出会うことで,星に残してきたバラとの関係について考えなおすこ とをふまえても,ヘビに出会ったころの王子さまのさびしさは,所有に左右されるさびしさだと考 えてもいいようにも思われる。だからこそ所有の相対化される砂漠においてはさびしいのである。
砂漠においては,日常性の喧騒のなかでは見えないものが見えてくる。
人間は本来的に孤独である。だからこそ,珍しいものを所有することによって,この孤独を紛ら わそうとする。その意味で孤独は所有に左右されるのである。だが,所有が,絶対的に孤独を癒し てくれることはない。なぜなら,王子さまの経験からもわかるように,珍しさは相対的なものだか らである。したがって所有によって孤独を癒そうとすることは,その孤独から目をそらすことはで きても,心の奥底ではつねに孤独の影を恐れながら生きていくことでもある。夕焼けを見る王子さ まのさびしさも,やはり同様のさびしさと考えることができるだろう16。そうすると,王子さまは 星を出てくる前から,所有の相対性から生じるさびしさに気づいていたことになる。「もつ」ことか ら生じるさびしさである。
こうした所有から生まれる孤独は,はたして克服しうるものなのだろうか。所有することによっ
てこの孤独を見ないようにするほかないのだろうか。王子さまのよぅに,それとも所有の相対性に 気づいてしまった人間は,ただ孤独に耐え続けるほかないのだろうか。それとも,所有に対する見 方さえ変われば,孤独を克服することもできるのだろうか。
よりはっきりと自らの孤独について語っているのは語り手である飛行士のほうである。
ぼくは,そんなわけで,六年まえ,飛行機がサハラ砂漠でパンクするまで,親身になって話をす るあいてが,まるきり見つからずに,ひとりきりで暮らしていました。……(引用者省略)
そこで,はじめての日の晩,ぼくは,およそ人の住んでいるところから,千マイルもはなれた砂 地で眠りました。難船したあげく,いかだに乗って,大洋のまん中をただよっている人よりも,も っともっとひとりぼっちでした。17
語り手が孤独な理由は,「親身になって話をするあいて」が見つからなかったからである。だから こそ,難破して海に漂っている人よりも,もっともっとさびしかったのだろう。そして砂漠という 土地が,このさびしさをより強くしたのである。
語り手においては,星の王子さまに見られた孤独が,「親身になって話をするあいて」の喪失とか かわっていることを表現している。より一般的に述べれば,他者との親密性や対話性の喪失が孤独 に深くかかわっているのである。
語り手の孤独について考えると,孤独と,おとな性が幅をきかせる社会とが深くかかわってくる ことがわかってくる。「そんなわけで」18とあるように,語り手の孤独は,前章にある,語り手の大 人社会とのミスマッチから生じてきていることが明らかだからである。「親身になって話をするあい て」がいない社会とはウワバミの話の通じない人たちばかりの社会である。
そこで,ぼくは,ウワバミの話も,原始林の話も,星の話もやめにして,その人のわかりそうな ことにお話をかえました。つまり,ブリッジ遊びや,ゴルフや,政治や,ネクタイの話をしたので す。すると,そのおとなは,<こいつぁ,ものわかりのよい人間だ>といって,たいそう満足する のでした。19
だが,飛行士は,こうしたおとなとは親身になって話をすることはできなかったのである。そう 考えると,『星の王子さま』のなかに描かれている孤独を,単にバラとの関係がうまくいかなかった ことから生まれる孤独であると考えるのは短絡的であるようにも思われる。少なくとも,おとな性 と子ども性との絡みのなかでとらえなければならない孤独であるように思われる。そもそも『星の 王子さま』全体を覆っている雰囲気はこの物語にとっての孤独の重要性を語っているはずである。
だとするならば,孤独は必ずしも否定すべきものではなく,孤独の経験をとおして学ぶこともあ るように思われてくる。たとえば藤田はヘビとの出会いの部分について次のように考えている。
「人間たちは,どこにいるの」と王子さまは,やっとまたいいだしました。「砂漠って,すこしさ びしいね……」
「人間たちのところにいったって,やっぱりさびしいさ」と,ヘビがいいました。
この部分を藤田は
「人間たちはどこにいるの?」と,ようやく王子さまはいった。「砂漠にいると,ぼくちょっとひと りぼっちだって気がするよ」
「人間たちの中にいたって,ひとりぼっちにゃかわりないわさ」と,ヘビはいった。
と訳してつぎのように述べている。「ここで『ひとりぼっち』(on est seul)という表現に注目したい と思います。『ひと』が『だれかとほんとうに『出会う』とき,『ひと』はまず『ひとり』である必 要があるからです」20。こうした立場にたてば,人間にとって孤独であることは必要であり,孤独 であるからこそ他者との出会いも可能になる,ということになる。したがって,所有によって孤独 を避けようとするのではなく,孤独とまっすぐに向き合っていくことを学ぶことが必要だというこ とにもなるのである。
(2) 見える子どもと見えないおとな
テキストの冒頭で,まずはおとなのものの見方が批判的に取り上げられる。ウワバミに呑みこま れた象を描いた飛行士(語り手)は,次のような経験をする。
ぼくは,鼻たかだかと,その絵をおとなの人たちに見せて,<これこわくない?>とききました。
するとおとなの人たちは<ぼうしが,なんでこわいのか>といいました21。
そこで,これならわかるだろうとウワバミの中身をかいておとなに見せます。
すると,おとなの人たちは,外がわをかこうと,内がわをかこうと,ウワバミの絵なんかやめに して,地理と歴史と算数と文法に精をだしなさい,といいました22。
ここで語り手は,繰り返し,「おとなの人ってものは,よくわけを話してやらないと,わからない のです」23とか,「おとなの人たちときたら,じぶんたちだけでは,なに一つわからないのです。し じゅう,これはこうだと説明しなければならないようだと,子どもは,くたびれてしまうんですが ね」24と語っている。つまり,おとなには見る力がないので,わけを説明されてようやく理解でき るようになるのである。子どもにわかること(了解できること)が,おとなには説明しないとわか らない。子どもの知が了解的知であるのに対して,子どもの知は説明的知であるということである。
このテキストを読むおとなは,この作品を読むことをとおして自らのおとな性と向き合い,子ど も性を取り戻していくことを求められるわけだが,その際に,了解的知を大切にすることが求めら れることになる。つまりは説明的な見方から了解的な見方へと見ることのまなざしを変換すること を求められるのである。おとなになることは,了解的知を喪失していくことなのである。語り手は 次のように言っている。「けれど,ぼくには,あいにく,箱の中のヒツジを見る目がありません。ぼ くもどうやら,おとなじみているのかもしれません」25。おとなになるとは,見えないものを見る
力を喪失していくことなのである。
さらにこのエピソードは,おとなが「地理と歴史と算数と文法」を重視していることをとりあげ,
その空虚さを皮肉っている。
なるほど,地理は,たいそうぼくの役にたちました。ぼくは,ひと目で,中国とアリゾナ州の見わ けがつきました。夜,どこを飛んでいるか,わからなくなるときなんか,そういう勉強は,たいへ んためになります。26
こうした記述から,語り手が行動に結びつかない地理という学問を揶揄していることがわかる。
こうした視点は地理学者の星を訪れるときにも繰り返される。
もうひとつ,おとなが重視している事柄がある。それは「ブリッジ遊びや,ゴルフや,政治や,
ネクタイの話」である。これらは,「地理と歴史と算数と文法」とは異なって,現代社会そのものの 在り方への批判を含んでいる。畑山は,サン=テクジュペリが,ある手紙のなかで次のように述べ ていることを取り上げている。「精神的なものが片端から虐殺されてしまった後に,何が残るという のだろう。今ほど人間の心が物質的繁栄のために圧殺されてしまった時代はない。われわれの世界 のこの発達目覚ましい飛行機が,高級乗用車が,トランジスターや冷蔵庫,高性能のカメラが,果 たして人々の心をどれだけ幸福にし得るのか。現代の技術者たちの歪んだ脳みそから生まれた化け ものの機械が作り出すいわく言い難い暗雲の上に,英知の木の梢を突き出さない限り,何が残せる のだ。われわれの生きているこの時代なんて,まさに愚劣そのものではないか」27。サン=テクジ ュペリの生きたのは20世紀の半ばまでだが,現在においてもまったく状況は変わっていないよう に思われる。こうしたサン=テクジュペリの思いが,「ブリッジ遊びや,ゴルフ,政治や,ネクタイ」
には込められているのだろう。「地理と歴史と算数と文法」といった「真面目な」28世界に生きなけ ればならないおとなは,いっぽうで「ブリッジ遊びや,ゴルフ,政治や,ネクタイ」といった気晴 らしを必要とするのである。
サン=テクジュペリは,飛行士として大空からこの地球をとらえてみたときに,上記のような見 方を身につけたのではないだろうか。しかも,砂漠という場においては,日常的な意味はかすんで いく。そこに本質的なものが見えてくる。それが,常識的にはこの社会にとって大切だと思われる
「真面目さと気晴らし」の双方を否定することに向かわせたのである。この社会に支配されてしま っているおとなは,そのまなざしから免れることができなくなってしまっている。したがって,子 どものまなざしとは,方法的には,つねに従来の社会の価値観に縛られずにつねに新しく見ること,
古い価値を壊し続けるまなざしを意味することになる。おとなの思考は柔らかさを失ってしまって いる。飛行士として,さらには砂漠を生きることによって,この世界を相対化することのできたサ ン=テクジュペリは,現代社会を疑う視座を手に入れたということだろうか。見る力をもって生ま れてきた子どもは,もともとは柔らかなまなざしをもって生まれてくるのである。だが,子どもも また,誕生と同時に,この社会によって汚染され,見る力を失っていくので,見えないものをみる 力はつねに取り戻されることを必要とする。
(3) おとなは数字で世界を表現する
再び第四章で,子どもとおとなの対比がなされている。王子さまの星が発見されたときに,それ を発見した人がトルコ式の服を着ているときには認められなかったのに,ヨーロッパ風のたいそう りっぱな服を着たところ,すぐにその発見を認めてくれたというところから話は始まる。
そして「おとなというものは,数字がすきです」29ということがテーマになっていく。
おとなの人たちに<桃色のレンガでできていて,窓にジェラニュウムの鉢がおいてあって,屋根 の上にハトのいる,きれいな家を見たよ……>といったところで,どうもピンとこないでしょう。
おとなたちには<十万フランの家を見た>といわなくてはいけないのです。すると,おとなたちは,
とんきょうは声をだして,<なんてりっぱな家だろう>というのです。30
数字は,世界の間接的表現の最たるものである。世界との触れあいから最も遠い表現が数字であ ろう。世界を数字で表現するということは,世界にできるかぎり触れないで生きるということであ る。そして数字には比較や管理を可能にするといった特徴がある。そこでは世界とのかかわりは生 き生きとした実感を奪われ,世界の感性的側面は失われていく。数字は,世界を記号的にとらえる まなざしを育てると同時に,感性的にとらえるまなざしを衰退させていくのである。記号的なまな ざしのもとでは,世界はずっと遠くからとらえられるほかない。
教育の評価を数値化しようとしている現在の方向性は,王子さまの見方からすれば,とんでもな いことだということになるだろう。人と人とが触れ合うなかで営まれる教育においてこそ,なまな ましい感性的側面が重要である。それにも関わらず,それを数値化して表現し,そしてそれを比較 し,競争させようとする考え方は,まさに現在教育に欠けているものを増幅させてしまうことにな るからである。子どもたちは,世界や他者とのなまなましい関係を喪失し,そのことに苦しんでい るのである。
たしかに数字は子どもたちを管理するには便利かもしれない。だが,管理することは子どもを傷 つけるのである。子どもたちが求めているものは,他者や世界の生き生きとした姿であり,また信 じ信じられる関係である。数値化する世界では,他者や世界はますます子どもたちから遠ざかって しまう。「おとなの人は,かんじんかなめ(essentiel)なことはききません」31。このような状況で は,子どもたちの孤独は強まってしまう。
子どもたちは,いつも数値化をしようと遠くからまなざしている教師を信じることなどできるで あろうか。教師のまなざしは,事実を把握するどころか,逆に子どもを遠ざけてしまうという矛盾 をおかしていることになるのではないだろうか。それどころか,子どもを数字で見ることは,競争 のまなざしで見ることであり,また管理のまなざしで見ることであり,競争や管理のなかで傷つい た子どもをさらに傷つけることにならないだろうか。子どもたちの傷つきが,競争と管理の社会を 生き続けなければならないことから生じてきていることを,どのように考えたらいいのだろうか。
子どもたちに対して,数字で本当らしさを演出する必要などないのである。王子さまのふるさと の星がB-612 番であるかどうかなどどうでもいいことなのである。なぜなら子どもたちには,「も のそのもの,ことそのことが,たいせつ」32だからである。すでに子どもの知は了解的知であるこ とを述べたが,子どもにとって大切なのは,そのもの,そのことに直接に触れ,理解することなの
である。ものやことにつけられたラベルによって把握するようなことはしないのである。
(4) 他者や世界を道具化することによって孤独をいやし,存在を支える
王子さまが,ふるさとの星をあとにして訪れた第一の星には,王さまが住んでいた。王さまにと っては星を訪れるすべての人間は家来でなければならなかった。「王さまたちにとっては,人間は,
みんな家来なのです」33。なぜ家来が必要なのか,いいかえればなぜ王さまでなければならないの だろうか。それは,自分の存在感を高めるためであろう。家来をもつことによって得意になること ができ,そのことによって自分の存在を確かなものにしようとするのである。したがって,王さま にとっては,具体的に他者を支配することよりも,支配関係を維持することによって自己の存在価 値を満足させる形式を守ることのほうが大切なのである。
「王さまの前で,あくびするとは,エチケットに反しておる。あくび禁止じゃ」
「がまんできないんです」と王子さまは,どぎまぎして答えました。「ぼく,長い旅をしてきたで しょう? それに,眠らなかったものですから……」
「そうか,では,あくびをしなさい。命令する。わしは,もう,なん年か,ひとのあくびするの を見たことがない。あくびというものは,おもしろいものだな。さ,あくびしなさい,もう一度。
命令じゃ」34
王さまの命令は絶対に守られなければならない。「王さまがなによりもたいせつに思っていること は,じぶんの威光に,きずがつかないことだから」35である。したがって,王さまの支配は迎合的 支配なのである。王さまは,「ひとり」の具体的人間に出会おうとすることはない。いつも他者は家 来として分類される存在でなければならないからである。この意味で,王さまは他者を道具化して いることになる。
だが,いっぽうで,自分の存在感を守るためには,むしろ家来に王さま自身を合わせなければな らないという逆転が生じてしまう。王さまは存在感を守るために,具体的で生々しい自分を表現す ることを自ら抑えつけなければならない。王さまは,自らの存在維持のために,自分をも道具化し てしまっているのである。そうなると,さらに自己表現を抑えられた王さまの自己存在は不安定に なる。王さまは,ますます家来を必要とするようになるだろう。こうして王さまは,王さまであり つづけなければならないという出口のない悪循環を生きざるを得なくなっていくのである。
こうした王さまのエピソードにはユーモアがあふれている。そして王さま自身,こうした命令の 仕方を「政治のこつ」36だと述べている37が,自らの存在価値を見失い,家来を使って何とか自分の 存在感を高めようとしている王さまは,本質的には,孤独な人間だと言えるだろう。そして王さま と王子さまとの関係を見ればわかるように,表層的には王さまは王子さまを道具化し(他者の自己 化),自らの孤独をいやし存在感を高めるために利用しているように見えるが,実際には,自己が他 者に迎合する(自己の他者化)というおかしなことになっているのである。
第二の星で,王子さまはうぬぼれ男に出会う。すると,驚くことに,うぬぼれ男もまた王さまと まったく同じ生き方をしているのである。王さまが支配することによって自分の存在を守っていた ように,うぬぼれ男は賞賛されることによって自分の存在を守る。王さまに家来が必要だったよう
に,うぬぼれ男には賞賛者が必要なのである。あとはまったく王さまと同じである。教師や親に褒 められようと,「よい子」であり続けようとする子どもたちのことが思い出される。賞賛されるため には,つねに自己を自分としてではなく褒められるための道具にして生きなければならなくなる。
結果として他者に迎合し続けることを求められるのである。
第三の星で,王子さまは,呑み助に会う。呑み助はこれまでの二人とはだいぶ違っていた。
「なぜ,酒なんかのむの?」と,王子さまはたずねました。
「忘れたいからさ」と,呑み助は答えました。
「忘れるって,なにをさ?」と,王子さまは,気のどくになりだして,ききました。
「はずかしいのを忘れるんだよ」と,呑み助は伏し目になってうちあけました。
「はずかしいって,なにが?」と,王子さまは,あいての気もちをひきたてるつもりになって,
ききました。
「酒のむのが,はずかしいんだよ」というなり,呑み助は,だまりこくってしまいました。38
呑み助は,はずかしさを忘れるために酒を呑むのだが,恥ずかしくなる理由は酒を呑むことであ る。理屈をいえば酒を呑まなければ恥ずかしくないのだから,ともかく呑まなければいいというこ とになるだろう。だが。そうはいかないのである。なぜなら,恥ずかしい自分を肴に酒を呑むこと は,自分の存在感を守るのに役立っているからである。王さまやうぬぼれ男と同じように。呑み助 も存在の不安におびえている。そして酒を呑み恥ずかしくなり,さらに酒を呑むという循環を生き ることによってのみ,落ち着くのである。呑み助は,自分の存在を維持するのに他者を必要とはし ていないが,そのかわりに直接に自分を道具にして存在を守っている。自己の道具化(自己の他者 化)である。そして恥ずかしいということの裏側には,他者の前で生きるということが意識されて いるということがある。直接的に他者を利用することはないが,間接的にはやはり他者が利用され ている。そう考えると,そんなに王さまやうぬぼれ屋とも違っていないともいえるだろう。こうし た生き方は,子どもたちだけではなく,依存傾向のある多くのおとなたちにも共通する生き方であ るように思われる。
王子さまが四番目の星で出会ったのが実業屋(ビジネスマン)39だった。王子さまは,実業屋と 似た存在には,他の星でも出会っている。サン=テクジュペリにとって実業屋の存在がおとなの代 表だったのかもしれない。カナヅチを手に持って,機械油で指を真っ黒にしながら飛行機を直して いる時に,王子さまに話しかけられた語り手は,考えを邪魔されて,つい「大事なことが頭にひっ かかっていてね」と,言ってしまった場面での出来事である。
「まるで,おとなみたいな口のききようをする人だな!」
そういわれて,ぼくは,すこしはずかしくなりました。しかし,あいては,それにかまわず,こ うつづけました。
「きみは,なにもかも,ごちゃごちゃにしているよ……まぜこぜにしているよ……」
王子さまは,こんどは,ほんとうに腹をたてていました。そして,目のさめるような金色の髪を,
風にゆすっていいました。
「ぼくの知っているある星に,赤黒っていう先生がいてね,その先生,花のにおいなんか,吸っ たこともないし,星をながめたこともない。だあれも愛したことがなくて,していることといった ら,寄せ算ばかりだ。そして日がな一日,きみみたいに,いそがしい40,いそがしい,と口ぐせに いいながら,いばりくさっているんだ。そりゃ,ひとじゃなくて,キノコなんだ」41
飛行機を修理しようと一生懸命仕事をしている語り手に,王子さまは不満であり,寄せ算ばかり している赤黒先生と同じだというのである。語り手の仕事は砂漠で故障した飛行機をなおすことで あって,その仕事には命がかかっている。けっしてどうでもいい仕事などではないのである。
だが,王子さまは,それよりも大切なことがあるという。それは人や世界とかかわり,つながる ことである。ところが,赤黒先生は,一日中,計算ばかりして忙しがっている。人や世界など目に 入らない。忙しくしていることが,あたかも,大切であるかのように生きている。忙しさが,世界 や他者とのつながりを喪失させていることに気づくこともない。そうした生き方を王子さまは許せ ないのである。だから語り手にたいしても,「ほんとうに腹をたて」る。
そしてこの赤黒先生と同様,第四の星の実業屋(ビジネスマン)も,忙しがっている。「その男は,
たいへんいそがしがっていたので,王子さまがやってきても,頭をあげようともしません」42。そ して,サン=テクジュペリが,ビジネスマンと英語で名づけていることも,このタイプのひとが,
王様やうぬぼれ屋,呑み助以上に,現代社会を代表していることを表現しているようにも思われる。
この実業屋も,赤黒先生と同様,仕事はしているけれども,世界や他者とのつながりがない。自 分が何を計算(寄せ算)しているのかなかなか思いだせないのである。自分の仕事の意味はがわか っていない。それでも,山ほどの仕事をかかえ,それが大事な仕事であり,邪魔されるのは困るの である。
「五億って,なにがさ?」
「え? まだそこにいたのか。五億一百万って,そりゃあ……いや,知っちゃいないよ……なにし ろ,こんなに山ほどの仕事だからな。おれは,だいじな仕事をしているんだ。くだらんことに,か かりあっちゃおられん。二たす五は七と……」43
実業屋はなかなかその名前を思い出せないが,やっと自分が計算しているものが星であることを 思い出す。実業屋にとって星は所有するためのものである。
「五億一百六十二万二千七百三十一だよ。おれはだいじな仕事をしているんだからね,この数にま ちがいはないよ」
「でも,そのたくさんの星,どうするの?」
「どうするかって?」
「ああ」
「どうもしやせん。持っているだけさ」44
実業屋にとって一つ一つの星とのつながりなんか関係がない。ともかくたくさん所有すればいい
のである。星は対象であり,ただ所有することにより,自分の存在が大きくなる(ように感じる)。 つまり,金持ちになることが目指されるのである。星は自分を金持ちとして支えるための道具にす ぎない。その美しさは何の意味ももたない。
「でも,星を持ってて,いったい,なんの役にたつの?」
「金持ちになるのに役立つよ」
「金持ちになると,なんの役にたつの?」
「だれかが,ほかにも星を見つけだしたら,そいつが買えるじゃないか」 45
ここには,呑み助と同じような閉じた循環がある。星との関係そのものを生きるのではなく,金 持ちになることが自己目的化して,ただただ増幅していくのである。金持ちという,よりよく生き るための手段が,目的となってしまっている。手段の自己目的化である。こうすることによって実 業屋は,生きる意味を忘れて生きることができる。生きる意味への問いから免れて,仕事のなかに 自己を埋没させて生きることが可能になる。王子さまもそのことに気づく。「このひと,さっきの呑 んだくれと同じような理くつをいっているな,と王子さまは思いました」46。所有の問題は,すで に,王子さまや語り手の孤独について考えた際にも問題になった事柄である。サン=テクジュペリ が,おとなであることと所有とが深くかかわっていると考えていたことが,わかる。おとなによる 世界との関係の取り方は「所有」であるといってもいいのかもしれない。
また実業屋は競争する人でもある。実業屋にとって,人より先んじることが大切なのである。
「どうすれば,星をじぶんのものにすることができるの?」
「星は,いったい,だれのものかね」と,実業屋は,カンにさわったらしく,いいかえしました。
「ぼく,知らないけど,だれのものでもないでしょ」
「じゃあ,おれのものだよ。だって,おれが一ばんに,星をもつこと考えたんだからな」47
実業屋は所有した星を管理する。管理するとは,星の美しさを眺めることでもなく,ましてやそ の星を旅したりすることではない。ただ,いくつあるかを計算して,銀行にあずけることである。
そして銀行に預けることは,紙に書いて,その紙を引き出しの中に入れておくことである。
「そりゃそうだ。でも,その星,どうしようっていうの?」と王子さまがいいました。
「管理するのさ。いくつあるのか,かんじょうするんだ。なん度もかんじょうしなおすんだ。むず かしい仕事だが,しかし,おれはちゃんとした男だからな」
「ぼく,えりまき持っていたら,それ,首にまいて,持ってけるよ。花がぼくのものだったら,そ の花をつんで,どこへでも持ってけるんだ。だけど,星をつむわけにはいかないじゃないか」
「そりゃそうだ。だけど銀行にはあずけられるよ」
「それ,いったい,どんなこと?」
「持っている星の数をだな,ちょいとした紙の上に書くっていうことだよ。それから,その紙を引
き出しの中に入れて,鍵をかけておくのさ」48
引出しのなかに入れ,鍵をかけてしまうのである。こうした考えに対して,王子さまは,「だいじ なことじゃないや」49と考える。そして実業屋のような考え方をおとなの考え方だとしている。
王子さまは,なにがたいせつかということになると,おとなとは,たいへんちがった考えを持っ ていました。ですから,あらためてこういいました。
「ぼくはね,花を持ってて,毎日水をかけてやる。火山を三つ持っているんだから,七日に一度す すはらいをする。火を吹いていない火山のすすはらいもする。いつ爆発するか,わからないからね。
ぼくが,火山や花を持っていると,それがすこしは,火山や花のためになるんだ。だけど,きみは,
星のためにはなってやしない……」50
王子さまにとって大切なことは他者とつながることである。そして役に立つことである。そして仕 事とは役に立つという仕方で他者とつながることである。その結果,他者と王子さまのあいだに相 互的な意味が生まれてくるのである。いっぽう,実業屋は,片面的に,まさに星を道具にして,自 分の存在を守ろうとしているにすぎない。そして守ろうとする気持ちは,所有すればするほど強く なり,ますますたくさんの星を集めたくなるのである。所有は限りない循環のなかに陥っていく。
こうした王子さまの考えは,第五の星で,点燈夫と出会うことで,よりはっきりと見えてくる。
点燈夫の星は小さく,家もなく,住んでいる人も誰もいない。それにもかかわらず,街燈に灯をつ けることを仕事としている。だがそれでも王子さまは灯をつける仕事には意味があると考える。そ れは,星を光らせ,花を開かせるからだ。
「この男もばかばかしい人なんだろうな。それでも,王さまや,うぬぼれ男や,実業屋や呑み助よ りは,ばかばかしくないだろう。ともかく,この男の仕事には,なんか意味がある。街燈に灯をつ けるのは,星を一つ,よけいにキラキラさせるようなものだ。でなかったら,花を一つ,ぽっかり と咲かせるようなものだ。点燈夫が街燈を消すと,花もつぼんでしまうし,星も光らなくなる。と てもきれいな仕事だ。きれいだから,ほんとうに役にたつ仕事だ」51
王子さまは点燈夫の仕事を役に立つ仕事だと考え,好意を寄せる。それで,「王子さまは,星に足 をふみ入れたとき,ていねいに点燈夫におじぎをしました」52。
さらに,灯をつける理由を尋ねる王子さまに,点燈夫は命令だと答える。それに続いてサン=テ グジュペリは,「王子さまは,あいての顔をじっと見ました。そして,こんなにも命令をよくまもる 点燈夫がすきになりました」53と書く。命令の是非も考えずに,ただただ命令を守ろうとしている 点燈夫,ある意味では,王さまと対になる存在のようにも見える。しかしいっぽう,点燈夫もまた 命令を守ることで自己の存在をまもっているようにも見える。
たとえば,援助職につく人のなかには,他の人の役に立っているという思いで自分を支える人が いる。良心的エゴイズムの問題である。そうした人たちにとって,いつも関心の対象は自分である。
人によく思われたいから人に迎合する。人に評価されたいから,人の世話をする。人に褒められた いから自分を犠牲にする。その場合,どんなに他者のために働いても,それは自分の存在を確かな ものにするためである。他者は道具にすぎない。そのとき,人のために生きるひとは,うぬぼれ屋 と似てくる。
だが,点燈夫はそうしたことは一切言わない。ただ命令に従うだけである。他者を道具として利 用しようとするところがない。そして,王さまの命令が自分の存在を証明する迎合的なものだった のにたいして,むしろこの点燈夫のほうが,潔くて強い。王子さまはこうした点燈夫が好きになる のである。
王子様は,もっと遠くへ旅をつづけながら,こう考えました。――あの男は,王さまからも,う ぬぼれ男からも,呑み助からも,実業屋からも,けいべつされそうだ。でも,ぼくにこっけいに見 えないひとといったら,あのひときりだ。それも,あのひとが,じぶんのことでなく,ほかのこと を考えているからだろう。54
ここには,おとな性と子ども性との見方の違いがはっきりと示されている。おとなからすれば意味 もわからず,ただただ命令にしたがって街燈の灯を点けたり,消したりしているだけの点燈夫は軽 蔑の対象なのかもしれない。だが,子どもの眼差しのもとでは,むしろ王さまや,うぬぼれ男や,
呑み助や,実業屋のほうがよほど「こっけい」なのだ。生きる意味も忘れ,ただ自分を守るために 齷齪しているだけだからだ。しかも呑み助を除くと,彼らはみな,自分が重要な仕事をしていると 考えていたり,重要な人物なのだと思いこんだりしている。点燈夫だけが王子さまにとって友だち になる価値のある存在である。
第六の星には地理学者が住んでいた。地理学者は仕事部屋にひきこもり,探検家の話をきいて,
ノートをとり,そして本をまとめる。地理学者は,現実を知らない。自分の星に,海があるかどう かも,山があるかどうかも,ともかく何も知らない。そして,現実を知ることなどよりもっと大切 な仕事をしてるのだという55。地理学者は,行動する人である探検家と対比的に描かれている。
地理学者にとって不確かなものは重要でないのである。
「わしたちは,花のことなんか書かんよ」
「なぜ? とっても美しいんですよ」
「花っていうものは,はかないものなんだからね」
「はかないって?」
「地理学っていうものは,あらゆる本の中でも,一ばんだいじなことが書いてある。流行おくれ になることなんか,けっしてない。山が場所をかえることもめったにないことだし,大海の水が,
からからになることも,めったにないことだ。わたしたちは,いつまでもかわらないことを書くん だよ」56
地理学者は地理学という学問によって自分の存在を守ろうとする。確かなもの,証拠のあるもの によって自分を守る。はかないもの,つまりは流行遅れになってしまうようなものでは自分の存在
の確かさの証明には不十分だからである。はかないものは存在を守るには不十分である。地理学者 も地理を自分の存在を守る道具として利用していることになる。
「はかなさ」がいったい何を意味するのかが気になった王子さまは,しつこく地理学者に尋ねる。
そして自分の花がはかない存在であるということに気づく。そして花のことをなつかしく思いだす。
地理学者とは反対に,王子さまははかないものの大切さに気づくのである。安定して変わらないも のではなく,命のはかなさを知り,そしてはかないからこそ大切にしなければならないことに気づ く。それは花一般ではなく,特定の花が際立ってくるということでもある。花一般がすべて同じも のならば,花は花としてはかないものではない。だが,花がはかないということは,その花には代 りはないということである。その花はかけがえのない存在だということである。だからこそ,王子 さまは星に残してきた花がなつかしくなったのである。
ぼくの花は,はかない花なのか,身のまもりといったら,四つのトゲしか持っていない。それな のに,あの花をぼくの星に,ひとりぼっちにしてきたんだ! と王子さまは考えました。57
だが,おとなはこうした命のはかなさから逃避し,地理学者と同じように,確かなものにすがり ついて生きようとする。変わらないものを大事なものだと考える。だが,王子さまは,はかないか らこそ大事なものなのではないかと気づくのである。
以上のように,それぞれの星の住民たちは,みな自分の存在を守ることに一生懸命である。そし て,彼らはみな孤独である。それは他者と出会おうとしないからである。でもいっぽうでは,彼ら はみな何かすがりつくものを必要としている。いっぽうでは豊かで多様な世界や他者との出会いを 避けながら,いっぽうでは一つの固定的な「何か」にこだわり,その対象との関係を生きている。
他者と出会うことによって癒されるはずの孤独に耐えうることができないからである。孤独を忘れ ていたいからである。孤独を穴埋めする何かを必要としているのである。だから忙しい。
また彼らは,その忙しさの意味を考えようとはしない。なぜなら,そうすることによって自らの 無意味さに気づいてしまうからである。実業屋や呑み助に典型的なように,意味のない循環を生き 孤独を忘れる。永遠装置化された循環を生きることによって,自己の不確かさ,あるいは存在の不 安を忘れることができる。そしてこの循環を生きはじめると,世界や他者とはつながらなくなり,
空虚さはさらに高まる。そこで,ますます循環を生きないことには不安におとしめられてしまうこ とになるのである。孤独に耐ええないおとなは,自らの存在感の希薄化を隠し持っている。だが,
存在感の希薄化に直面することは耐えられない。そこで,すでに述べてきたようなさまざまな方法 で,自らの存在感の希薄化から目をそらそうとするのである。彼らの生き方はこの世を生きていく ための一つの知を表現しているといえるだろう。だが,ほんとうには,おとなは毎日毎日忙しくし ていても,自分が何をしているのかはわかっていないし,またわかろうともしていないのである。
その際,付随的に他者,そして世界の道具化ということが生じる。王さまにとっては家来が必要 であり,うぬぼれ屋にとっては賞賛者が必要であった。呑み助はお酒,実業屋には星(お金),地理 学者には確かな山や川が必要だったのである。こうした関係においては,他者や世界は自分に都合 のよい姿でしか現れてこない。他者は他者として出会われることはない。他者の無化が生じている
のである。この点に関しては,王子さまが好きだった点燈夫も同様である。点燈夫もまた命令を下 す人を必要としていたのである。
そして,他者や世界と出会わないことは,自己を出会いのなかで育てる機会を奪い,さらなる道 具を必要するという悪循環に帰着する。そこでは自己もまた道具となり,循環を担う一つの装置に なっていくのである。
それでも点燈夫だけは,王子さまも好きになる。それは,命令に従う側面でなく,その仕事の内 容が,人のために行われていたからである。点燈夫の仕事には他者に向けての窓が開かれている。
サン=テクジュペリは,近代を生きる私たちが弱い自己に閉じ込められ,その結果生じる存在感の 希薄化を仕事58に依存することで守っているととらえている。そしてこうした仕事から抜け出す一 つの可能性が点燈夫の仕事にはあるということになるだろう。
(5) 子どもたちの行動におけるおとな性と子ども性の絡み合い
たしかに子どもたちは,存在感の希薄化に直面しているように見える。だが,『星の王子さま』か ら示唆されることは,それが子どもとして未発達だからであり,おとなになることによってそれを 乗り越えてくということではなさそうだということである。むしろおとなになるにしたがって,存 在の不安が生まれてくる。佐伯はこのような状況をとらえ,「今日の社会は,このような『幼児期に はゆたかにもっていた』はずの共感的な他者理解能力が,いわゆる『発達』とともに失われて,『マ キャベリー的な』知能ばかりが支配的になった大人たちが世の中にあふれているということに,大 きな問題があるのではないだろうか」59と述べている。
だが,子どもたちの行動は,おとなと同じだと考えていいのだろうか。子どもにはむしろ独特の 共感能力がある。それは理屈を超えた生来的な存在の在り方である。小さな子どもは,母親の行動 に同調し,真似をする。また他の子どもが泣いているとそれに同調して泣きだす。また他の子ども が泣いていると自分も悲しくなってしまって,その子を一生懸命慰めようとしたりする。たしかに 発達心理学でいうような道具的な他者理解能力はないかもしれないが,むしろ佐伯の言うように,
そうした他者理解は,むしろ他者への共感能力を奪い,他者を道具として利用することへとつなが る。子どもたちは「発達」とともに退化していくのである。
私自身も,次のような経験をしたことがある。ある自閉症児とのかかわりにおいての経験である。
冬の朝,寒いなかを歩いてきた自閉症児の手を握って,「冷たいね」と話しかける。その後,その子 は,暖かいものを触った時に「冷たいね」というようになる。それこそ道具的心の理論でいえば,
この子は他者を理解する能力がないということが言えるだろう。立場の転換ができていないからで ある。彼は,私が手を握ったとき,暖かいという経験をした。そして他者の視点に立つことができ ない彼は,暖かいものに触れるときに「冷たいね」というようになるのである。だが,いっぽうで は,私とのほんのちょっとした経験が彼の心に残ったという事実がある。それは私と彼が「つなが った」からということができるのではないだろうか。つまりおとなの視点にたつかぎり,彼は他者 とつながれない子どもであるかもしれないが,でもおとなが忘れてしまった他者とのつながりが彼 には存在している。おとなから見ると彼は「自閉症」かもしれないが,彼の存在が他者に閉じられ ているわけではない。
これまで考えてきたことから明らかなように,子どもたちが自己の希薄化に苦しむのは,おとな