映像 としての 自我
‑∫. G. フィヒテの晩期知識学 における生命理解 について一 池 田 全 之
TheIasI mageofTheabsol ut e
‑Ont heunde rs t andi ngofl i f ei nt hel at e rphi l os o phyof ∫. G. Fi c ht e‑
TakeyukiI KEDA
Abs t r ac t
Theval i di t yoft r adi t l Onalwayofpe da gogl C alt hi nki ngc ome st obes us pe c t e dl at e l y. Oneort he mos ts e r i ousdoubt sc as t e doni ti st hataboutt hec ommonbe l i e f;' Aut onomyl SunC Odi t i onal l ygood:
( Thatl St OS ay,al lhumanbe i ngs‑ al s oc hi l dr e n‑ S houl dbef r e ef r om al lc ompl us i ons ,butadul t s mus tf or c ec hi l dr e ni nor de rt oe nc our aget he i raut onomy. )Pos t mode r ni s tphi l os ophe r si ndi c at et hati f s uc hbe l i e fi st r ue ,wec an ' tbutf al li nt opar adox,be c aus ec ompe l l i ngc hi l dr e ni si nc ons i s t e ntwi t ht he i r ownf r e e dom.Butit hi nk,be c aus eofmi xl ngupunl i mi t e df or malf r e e dom wi t hac t ualone,t he yr e gar d s uc hwayoft hi nki ngaspar adox. Sowehavet oc l ar i f ymor es t r i c t l yt hec ondi t i onsofr e al i z i ngau‑
t onomy. AndIc hoos et het hought sofGe r manI de al i s t s ,whi c hpr e par e dde c i s i ve l ymode r nwayof t hi nki ng,asac l uet oi nve s t l gat et hepr oc e s soft her e al i z at i onoft heac t ualf r e e dom. Amon gt he m,I e s pe c i al l ygr appl ewi t ht hel at e rphi l os ophyof J. G. Fi c ht e.
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e r e d̀ he r me ne ut i cc i r c ul at i on'whi c hge ne r al i z e st hef ac toft hehumane xi s t e nc easf ol l ow ;̀ Whe nwe putouri nt e nt i onsi nt opr ac t i c e si nourdai l ys t at e s ,wear eal waysgl Ve nuni nt e nt i onal l yt hec ompr e ‑ he ns i onoft hewhol es e ns eoroure xi s t e nc e . I I nt hi spape r ,i nt e r pr e t l ngFi c ht e' st houghtasahe r me ‑ ne ut i c sofhumanl i f e ( Le be ns he r me ne ut i k),Imadef oundame nt ale xami nat i onoft hè f r e e dom‑ c om‑
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は じめに
近年,教育学 の近代的な思考 の枠組 みの妥 当性 を問 う 試 みが盛ん に行 われている。 その中のひ とつ に, 自律 を 巡 る問題があ る。 すなわちそれ は,矢野智司によれば 〔 1 ) ,
カ ン ト ( Kant ,I mmanue l1 7 2 4‑ 1 8 0 4)が 『教育学 につ いて ( Ube rPadago gi h) 』 ( 1 803 年) にお いて率 直 に述 べているものであ る。
「 教育 の最大 の問題 のひ とつ は, ど うす れ ば法則 的 な 強制への服従 と, 自 らの 自由を使 う能力 とを一致 させ る ことがで きるのか, である。 とい うの も,強制 は必要 な のだか ら !私 はどのよ うに して強制 の もとで 自由を滴養 す るのか。私 は私 の生徒 に, 自由に対す る強制 に耐 え る 習慣 をつけてや るべ きであ り, 同時 に彼 を指導 して,彼
‑ 1
の 自由を十分 に使用す るよ うにさせ るべ きであ る 」( 2 ) 。 カ ン トによれば,子 どもは自己立法 ( 「 法則的な強制」 ) に服従す るよ うにな るべ きである。 けれ ど も大人 は,子 どもを外か ら強制 して,彼 の 自律 を促 さな くて はな らな い。 だか らここに, 自律 の促進 のために, 自律 に反す る 強制 を加 えなければな らない とい うパ ラ ドックスがある,
とい うのであ る。
もちろん こうした 自律 と強制 を対立 させ る発想 に対 し
て は, そ もそ も子 どもは自律 を完全 に自 らに担 うことが
で きる存在 なのか, とい う発達理論的異論 の他 に も, ド
イ ツ観念論 によれば, 自律 は本来,人 が 自分 の 自由を制
限 して強制力 に服従す ることであ る。 したが って,人間
の 自由の実現 には強制 を被 ることがあ らか じめ織 り込 ま
れているのであ り,無制約 な自由が想定 され るわけで は
な い。 ゆえに子 どもの 自由に も強制が随伴 しているのは
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 5 4
集当然であ り,子 どもの自由だけを特別視 して,強制への 服従を促す ことを問題 にす る必要があるのだろうか とい
う内在的な批判 も考え られよう。
本稿で特 に論 じたいのは後者である。 そ もそ も, 自由 対強制 とい う近代教育学 のパ ラ ドックスがわれわれに逆 説であると考え られ るのは,無制約 な形式的 自由をその まま現実 の自由 と混同す るなど, 自律を成立 させている 諸要因を綿密 に究明す る手続 きが取 られていないか らで はないだろうか。 そ こで,筆者 は人間的 自由の成立条件 を,近代的な思考の枠組みを準備 した ドイツ観念論 の脈 絡 に戻 って考察す ることによって , 「自由な主体 の 自己 実現」 の構造を明 らかに したいと思 う。
思想史的にみれば , 「自律」 の成立条件についてはヘー ゲル ( He ge l ,Ge or gWi l he l m Fr i e dr i c h1 7 7 0 ‑ 1 8 3 1) が 重要 な観点 を提起 している。つ まり,‑‑ゲルは,個人 の自律をそれだけで考察すれば形式論 に陥 って しまい, 自由の内実 が空虚 になって しまう。 だか ら, それを実質 的に解明す るためには,個人の自律を常 に全体性 ( 共同 体) との関係の中に置 き入れなければな らない, と考え る。 へ‑ゲル自身 はこの発想を,意識が弁証法的過程を 経て,客観精神の もとで自己実現す るという上昇 の論理 で展開 している。
だが, こうした議論で は, 自己実現 しつつある個人 に してみれば,実現 のさ中で はそのテロスを知 ることがで きない ことになろう。個人 と全体 との緊密な関係をいず れかの項か ら他方‑ と一方方向にではな く, その もの と
して解明す る試みが必要 になると思われ る。
す るとわれわれはそ うしたモデルを, さしあた りハイ デガー ( He i de gge r ,Mar t i n1 8 8 9 ‑1 97 6 ) に求める こと がで きる。‑イデガーによれば,人間 は世界 の中に被投 的に投入 されている。す ると,所与の世界の中で 自らの 世界を形成す ることが,人間的 自由の実現 となる。‑イ デガ‑は, その実現の構造 を 『存在 と時間 ( Se i nu nd Ze は) 』( 1 92 7 年) において , 「理解 ( Ve r s t e he n) 」 とい
う実存範晦を究明す る中で明 らかに している。
まず,ハイデガーによれば, 人間 はひたす ら存在可 能である存在者であ り, 自らの可能性 を投企 す る ( e nt ‑ we r f e n) ことにその本質がある。だが,人間の世界内で の自己実現 は,幾つかの選択肢 の中か らまった く自由に 決断す る式 に理解 されてはな らない。
「 実存範噂 としての可能性 は , 『 懇意の無差別性 ( Gl e i c h‑
gi i l t i gke i tde r Wi l l ki i r ) 』 とい う意 味での 自由 に漂 うよ
都度既 に特定の可能性の中にはまり込んでお り,それが 存在 している存在可能 としては,他の可能性 を既 に逸 し
な ので あ り, 徹 頭 徹 尾 被 投 的 な可 能 性 ( ge wor f e n e
M6gl l C hkel t ) で ある」〔 3 ) 。
この一節 の要点 は下線部 にある。 ここで確認 されてい るのは,人間にはその自由に先立 って,常 に何 らかの世 界が割 り当て られているとい う 「 事実性」である。‑イ デガーは,所与 の世界 に巻 き込 まれなが らも, なおかっ 自分 の可能性 を そ こ‑ と投入 してゆ く現存在 の能力 を
「 理解」 と呼ぶ。 「理解 は,現存在 の存在 をそれの主 旨 ( Wor umwi l l e n) へ向か って投企す るのみな らず, それ と同 じくらいに根源的に, それを現存在 のその都度の世 界 の世界性 としての有意義性へ と投企す る」( 4 ) 。 「理解 す る」現存在 は, その都度出会われ る事物 的な存在者 を, 自 らにとって‑‑のためにあるものとして ( al s ) 「解釈 す る ( aus l e ge n) 」 ことによ って, それ らを 自 らに とっ ての有意義性 の連関へ と組み込んでゆ く。反面, こうし た 「 解釈」 は, 同時 に世界があ らか じめ持 っている道具 連関の中でなされる活動で もある。だか ら, 現存在 は, 理解 しつつある場合 にはいっで も,道具連関全体 ( 世界) をあ らか じめ把握 している ( vor gr e i f e n) ので あ る。 そ
して‑イデガーは,全体 と個のいずれに議論 の重点が置 かれ るべ きなのかについて,全体 の理解 と個の理解 とは 循環 してお り, この循環 に正 しい仕方で入 ることこそが 重要であると述 べている。
ところで,われわれ は個 の自己実現 と全体 との関係を 解 明 して い る生 の解釈学 に, じつ は既 に, フ ィ ヒテ ( Fi c ht e ,JohannGot t l i e b 1 7 62‑1 81 4) の後期哲学 で 出会 うことがで きる( 5 ) 。 フィヒテの哲学 の内在 的発展 を 辿 る従来の研究 によれば,個人の自己実現 と全体 ( 社会)
との関係 についてのフィヒテの最終的 な解答 は , 「宗教 的な愛 に媒介 された共 同体」 の構想 で あ るとされて い
る。
「 精神的世界 に向か う理性的個人 の積極 的 な意志 は次 のような ものである。すなわち,各個人の行為において, 神的本質が この個人の中で取 った形態が純粋 に現象す る
こと,各個人があ らゆ る他者 の行為 において神を‑認識 し,それ と同 じように他 のすべての個人がその個人 の行 為 において神を‑認識す ること,だか ら,常 にかつ永遠 に,一切 の現象 において神が全体的 に現れて,神だけが 生 きて支配 し,神の他 に何 もな く,神だけが遍在 してあ らゆる方向で永遠 に有限者の眼 に現象す るとい う意志 で ある 」 ( Ⅴ. 5 3 6) 。
けれ どもこの構想が,通俗講義である 『 幸福 な生への 指針 ( Di eAnwe i s u n gz um s e l i ge nLe b e n) 』 ( 1 8 0 6 年) で表明されてい ることを考えれば, フィヒテは個人 の自 律 を宗教 的次元 に還元 した と断 じるの は早計 だ ろ う。
む しろわれわれ に求 め られ るの は, この問題 を知識学 ( Wi s s e ns c haf t s l e hr e ) に 問 いか け ることで あ る。 す る とわれわれは, フィヒテの最終的な哲学的境地がは じめ
2‑
て開陳 された 1 8 0 4 年 の 『 知識学』 ( 以下,『 知識学
18 0 4 』 と 略記す る) の他 に も,最晩年 の知識学講義群 ( 1 8 1 0 年‑
1 8 1 3 年) を手 にす ることがで きるのであ る。
隈元忠敬 が従来 の先行 研 究 を ま とめて い るよ うに( 6 ) , 最晩年 の知識学 は, 立 場 と して ほ人 間 を絶 対者 の映像 ( Bi l d ) とみ なす 『知識学 1 8 0 4 』 の見解 を踏 襲 して い る。
だがそ こには,絶対 的原理であ る神か らの現象 の発生構 造 を追究す る 「 下降の道 」 , 「 現象論」 と呼ばれ る 『 知識 学
1恥』 の後半部 の一層詳細 な展開がみ られ るのであ る。
それ らのひ とつである,『 知識学 へ の序論 講義 ( Ei n‑
l e i t un gs uo r l e s un ge ni ndi eWi s s e ns c ha ft s l e hr e ) 』 ( 1 8 1 3 年)で は, フィヒテの分析 の一貫 した主題だ った自我 の 最終的な理解 が次 のよ うに語 られている。
「自我 とは,見 る こ と ( S e h e n) が 自己 を見 る ことの 産物であ り, つ ま り,規定す る思考 の純粋で空虚 な結合 点である産物 である。見 ることの このよ うな規定, その 相貌 ( Ge s i c h t e ) においてのみ,見 ることの形式 と して の自我 が存在 し, 自我 はそれ以外 のあ り方 をす ることが ないのである 」 ( Ⅸ.8 5 ) 。
視覚 の比境で語 られてい るため, この一節 が 自我 のい かな る事態 を指 して いるのか はこれだけで は不可解であ る。 だが とりあえず,①見 る働 き,②見 られ る自己,③ 見 られ る自己を見 ること, の三項 か ら自我 はな るとい う フィヒテの理解 を知 ることはで きよ う。つ ま り, 当初絡 対者 の写像 とみなされていた自我 の中に,晩年 の知識学 で は重層的な構造 が兄 いだ されたのであ る。 また, フィ ヒテの後期哲学 の原理 である神 は,晩年 の講義 で は 「 生 命 ( Le b e n) 」 と呼 ばれ, 自 らを あ るが ま ま に 「図 式 ( S c h e ma ) 」 の中に映 して いると考 え られ て い る。 それ ゆえ , 「 見 ること」 の重層構造体 として の 自我 も, その 根元 に生命 の映像を有 して いると理解 される。すなわち,
この事態 を 自我 の側か らみ るな らば,生命 ( 秤) 自体か らは決定的 に分離 されていることを認 めなが らも , 「見 る」 ことを究 めてゆ く中で, 自己の根底 に神 の映像 を自 覚 してゆ く存在者 が 自我であ ることになる。
す ると,( 丑全体 と しての生命 は,直接 的 には与 え られ ない,② だが, 自我 が存在 す るか らには, それ は映像 と して はあ らか じめ与 え られてい る,③ 自我 は 「 見 る」働 きにおいて,生命 の映像 をその都度事後的 に自 らの中 に 確証す る, とい うフィヒテの論理 が見えて こよ う。奇抜 な用語 や形而上学的 モチーフに阻 まれて フィヒテの洞察 の真 の意味が覆 われて しま ってい るが,個 々の実践 にお いて全体 がすで に先行的 に与 え られているとい う,‑イ デガ一に通底す る思考型 を晩年 の フィヒテは発見 してい たのである
。それで は,晩年 の フィヒテの生命理解 はどのよ うなの だろ うか。本稿で筆者 は, 自 らの生 を遂 行 (自己実現 )
しつつ理解 してゆ く自我 の存在構造 を最晩年 の知識学講 義 に追 うことによ って, 自律 にまつわ る 「自由対強制 の アポ リア」 につ いての基礎 的考察 を行 ってみたい と考 え てい る。
映像論 ( Bl l dl e h r e ) への道程
本稿 は晩年 の知識学 における生命理解 を究明す ること を 目指 しているが, フィヒテの論著 を執筆順 に通覧 して くると,晩年 の知識学 の映像論 の原則 は, すで に 『 知識 学
18 D l 』 において示 されているのをみ ることがで きる。 し たが って考察 の手順 として,最晩年 の知識学 に向か う前 に, まず,『 知識学 1 8 D 4 』 を手短 か に検 討 す る ことに よ っ て,後期 フィヒテは生命 につ いていかなる直感 を持 って いたのかをみてお きたい と思 う
。『 知識学
1弧』 は, われわれの通常 の個別 的 な知識 か ら 絶対知へ, そ して絶対知 の根源 にあ る絶対者へ と経験的 で偶然的な与件 を抽象す ることによって到達 しよ うとす る 「 上昇 の道 」( 「 純粋真理説」 , 「理性 説 」( X.2 1 3 )) と, そ こで獲得 された絶対的原理 か ら経験 的な知識 を演 鐸 しよ うとす る 「 下降 の道」 ( 「 現象論 」 ) とい う二部構 成 を とる。 こうした原理への上昇 とそ こか らの下降 を志 向す る議論 において,本稿 の課題 か らみて注 目すべ きな のは, もちろん後者であ る。
それで は,多様 な経験的知識 はどのように究極原理か ら導 出 され るのだ ろうか。「 理性論」 の考察 を経 て , 「 存 在 は一貫 してそれ 自身 の中に閉 ざされた生命 と存在 の単 一体 ( S i n g u l u m) であ り, そ れ はけ っ して 自己 自身 か ら抜 け出す ことがで きない 」( Ⅹ.2 1 2 ) との知見 を得 た フィヒテは, われわれが絶対者 につ いて定立す る一切 の 概念 を無化す るときに絶対者 その ものへ到達で きると繰 り返 し表明 している。 だが, この命題 か ら多様 の由来 を 説 明す ることは困難であ る。 そ こで フィヒテは,多様 の 現存 とい う事実 を前 に して , 「自己内完結 した存 在 」 に
「自己構成」 とい う運動概念 を導入す る。 つ ま り理性 は, 多様 な現象 の根拠 として絶対者 の存在 を要請 し, か りに 絶対者 が‑・ ・ ‑と存在すべ きで あるとすれば,現象 は・ . ・ ・ ・ ・ でなければな らないとい う推論 を行 わざるをえない とい
うのであ る。 フィヒテはこの推論 の 「べ し ( So l l ) 」 を重 視 し( 7 ) ,われわれの洞察 は蓋然的な 「べ し」 を根底 に置 かなければな らないとす る。
「ここで は一切が まだ蓋然的であ るにす ぎな い ことを 忘れないで いただ きたい。 もしか くか くと洞察 され るべ き ( s ol l ) であ るとすれば, しか じかでな けれ ば な らな
こうした蓋然性 の もとで, この蓋然性 が提示 され るまま
ー 3‑
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 5 4
集に留 ま らなければな らないことはまさに明 らか で あ る」
( Ⅹ.21 8 ) 。
それでは , 「べ し」 とい う形式 にお いて絶対者 はいか に自己構成 におよぶのか。 フィヒテは絶対者を指示す る 限界概念 として,前置詞 von の名詞化を選択す る( 8 ) 。
「自己以外の一切 を抽象 した後 に残 る もの と して絶対 者が定立 されるとすれば, それ は必然 的 に Vons i c hと
して立て られ る 」 (Ⅹ. 2 3 4 ) 。
絶対者 は自己内で完結 した独立 した存在である。 それ は他 の ものによって存在す ることはない。だか ら,それ は 「自己自身 に淵源 して ( Vons i ° h) 」存在 すべ きで あ る。 したが って, 観念論 の立場 か らす れば, 絶 対者 は
「 根源的なVon 」である。われわれは Von の発見 によ っ て,絶対者の当初の直接的な自己同一に分離要素 ( 主観‑
客観)が導入 された ことに着 目しなければな らない。す なわち,フィヒテは von を採用す るにあた って,それが 元来意味 している,原因 ・由来 と分離 ・離脱 の指示機能 を含めて名詞化 してお り, とりわけ多様 な経験的知識の 導出にあたっては, それ らの絶対者か らの由来を暗示 さ せなが らも,絶対者か らの離脱 の意味を強調 している。
「 Von の中には一貫 して分離 ( Di s j unkt i on) が あ る。
‑ しか もその分離 は‑絶対 的 に創 り出 され, ただ Von によってのみ絶対的に分離され,それ以外の何 ものによっ て も分離 されないものなのである 」( Ⅹ.2 5 0 ) 。
絶対者を根源的な Von として捉 えた うえで, フィ ヒ テはそ こか ら多様 の由来を説明す る。 まず, その説明の 前提 は,絶対者 自体がわれわれに直接現れ ることはない とい うことである。 だが,絶対者がわれわれに全 く顕現 す ることがなければ,われわれはそ もそ も絶対者 の存在 を知 る術を持 たな くなろう。 フィヒテはこの困難 をVon s i c h の二重化 によって打開す る。
まず,絶対者を根源的な Vonとみなす ことによ って, 主観 としての絶対者 (自 らを写像 す る絶対者) と客観
としての絶対者 ( 写像 された映像 としての絶対者) とい う最初 の分離 が招来 され る。 「見 ること」 , 「投 射作 用 ( Pr o j e kt i on) 」 と呼ばれ るこうした絶対者 の中に起 こる 自己映像化作用 によって, フィヒテは絶対者が外化す る 可能性が準備 され ると考え る。
「 原理化 ( Pr i nz i pi e r e n)とは投射作用であ り, 内在 的 な自己投射である。すなわちそれは終始一貫直接 に生命 自体 の中にあるのだか ら,割れを通 して ( pe rhi at um) あるもので も客観的な もので もな く,内的にかつ本質的 に, 超実体 的 に, 自 らを投射作用 や直観作用 とす る」
( X.2 7 6 ) 。
最初の分離 において は絶対者 は自己内で 自己を 自己の 映像 に映 しているのだか ら,映像 と実体の間には 「 割れ 」
はないはずである。『 知識学 1 8 0 4 』 によれば, この最初 の
‑ 4
絶対者の映像 こそが 「 絶対知 ( abs ol l l t e SWi s s e n) 」 で ある。 それゆえフィヒテの理解 によれば, われわれは存 在 の根源 において絶対者 の実質を投射 されていることに なる。す ると,絶対者が 自らを Vons i c hとす る自由 と その際に従 う形式的法則が絶対知 にも転移 され ることに な り,絶対知 において個別的知識が発生す る際に もそれ らが作用 していることになる
。絶対知か らの個別的知識の発生 を率直に説明す る一節 は次 のようにな っている。
「 〔 個別的知識 の〕 分離 は, それが まさに絶対 的統一
〔 絶対知〕 の中に求 め られるべ きだ った とすれ ば, ‑早 純 な Von ではな く ,Vonの中の Von ( Voni m Yon) , Von の Von ( Vonde sVon)である 」( X.2 6 3 ) 。
個別的知識 は,絶対知 における再度 の分離 によって現 象す る。だか ら, あ らゆる知識 は間接的に絶対者 に根拠 を有 してお り,絶対者があ らゆる知識において顕現する。
ただ し, こうした論理 にそのまま従 うな らば,根元 にお いて絶対者 と繋が っているわれわれが,例 えば,なぜ誤 謬認識を犯 して しまうのかが不可解 なままにな って しま うだろう。 テキス トをみれば,個別的知識 の独立性を認 めることで この異論を防 ごうとす るフィヒテをみること がで きる。絶対者 を投射 された もの と して の絶対知 は, 絶対者 の自由 と法則 を も受 け継 いで い るか ら, や は り Vons i c h をその存在様態 とす る。 す ると絶対知 の映像 が現象す るようになる。 そ して, それ と同時に,絶対者 の実質 (自由) を表す 「直観」 と絶対者の形式存在 ( 形 式的法則)を映す 「 本質存在」が分裂す る。 これによっ て,絶対知の自由を介 して 「 絶対的な割れが発生 し,割 れを通 しての投射が本質か ら分離 され,本質 自体がでは
( X.2 7 7 ) 。 こうして,絶対知 は再度 の 自己投射 によ っ て, 自らの単なる 「 陳述,言表,表現 」 (Ⅹ. 2 8 3 ) に堕 落 し区別 と多様 の現象 としての個別的知識が発生す る。
個別的知識の発生 については , 『知識学 1 8 0 4 』 で はまだ
素描 に留 まってお り議論の道筋が判然 としてはいないが, 1 8 0 4 年段階での議論を以上 のよ うに整理 して くると,そ
存 にいたるまで, 自らの根拠 をそれ 自体の中に持 ってお
らず,絶対知が存在すべきだという絶対的目的の中に持 っ
ている 」( X.2 9 0 )とい う確信 の体系化の努力に集約 さ
れることが明 らかになる。 ヨハネス ・プラハテ ン ドル フ
はここに, 自我の自己定立 を究極原理 としていた前期哲
学 と, この定立 を絶対者 の現象 のための可能的な条件 に
低 める後期の思索 との決定的な差異を認めているが, ま
さに首肯 しうる指摘だろ う( 9 ) 。 また, ヴォル フガ ング ・
ヤ ンケは , 『 知識学 1 糾』 の現象論 と最 晩年 の知識学 との
連続性 を以下 の三点 にまとめている〔 1 0 ) 。
①知識 は絶対的存在 の映像である
。②神 自体を知 ることはで きない。
③現存在 は自己を理解す る悟性 の形式 における現( Da ) である。
特 に③ については,晩年 の用語が使 われていて, ここ
倭 ( 絶対知) 一映像 の映像 ( 個別的知識) とい う折 り重 なった映像 のシステムがは じめて 『 知識学
l馳』 において 提起 された ことは銘記 されなければな らない。 問題 は, 映像の映像 としてのわれわれが 自らの生命 を理解す るこ と, それを究 めることはいかなる事態 なのかである。 こ うした観点 を念頭 に置 きなが ら,次 に最晩年の知識学 に 分 け入 ることに しよう。
三重の映像現象 と しての自我一映像性 ( B‖dl l C hkel t )を生 きること
『 知識学
1恥』 の現象論 において解明 されたの は, 個別 的知識が成立 している場合 に常 に既 になされている,絶 対者 の投射作用の二重化であった。最晩年 の知識学 も,
この投射作用を 「 映像化 ( bi l de n) 」 と呼 びかえて受 け 継 ぎ,それを三段階に細分化 している
。①現象 は現象す る ( Di eEr s c he i nunge r s c he i nt . ) 。
②現象 は自己現象す る ( Di eEr s c he i nunge r s c he i nt s i ° h . ) 0
③現象 は自己に対 して現象す るとして, 自己に対 して 現象 す る ( Di eEr s c he i nunge r s c he i nts i ° h,al ss i c h‑
e r s c he i ne nd. )。
何が現象す るのか といえば , 『 一般 的概要 にお け る知 識学 ( Di eWi s s e ns c h a ft s l e hr ei ni hr e m al l ge me i ne n Umr i s s) 』( 1 8 1 0 年)の冒頭で示 されているように , 「 神」
であるoす るとこの三段階を 『 知識学
l竺』と比較すれば, 映像 としての知識 の構造がよ り細か く分類 されているこ
とに気づかれるだろう。言 いかえるな らば,晩年 の知識 学で はわれわれの 日常的な現存在の神 ( 生命)か らの隔 絶が,1 8 0 4 年時点 よ りもいっそ う自覚 された構成 にな っ ていると言えるのである。 そ して,本稿 の課題か らみれ ば , 「 三重の映像現象 としての自我」 が神 と表現 されて いる生命 といかに関わるのかを究明す ることが重要 にな る。 したが ってわれわれ はこの間題を,最 もまとまった 最晩年 の知識学である 1 81 2 年 の 『 知識学』 ( 以下 , 『 知識 学 1 8 1 2 』 と略記す る) を基礎 テキス トとして考究 したいと 思 う。 そ してその際 に, フィヒテがそれへの入門 として 講義 した 『 意識 の諸事実 ( Di eTat s ac he nde sBe wu βt ‑ s e i ns) 』( 1 81 3 年 以下 , 『 事実』 と略記 す る) を随時 参照す ることによって,極度 に抽象的な 『 知識学
1812』 の 骨子を具体的に再現 したい。
‑ 5
( 1 ) 自我 の基底‑「 映像の映像」 としての 「 絶対知」
後期知識学 の変わ ることのない大前提 は , 「絶対者 は 存在す る」である。 そ して 『 知識学
1812』で も絶対者 の隔 絶性が確認 され, それ自体 について語 ることは断念 され ている。 ゆえに , 『 知識学
1812』 は絶対者 の現象 に出発点 を置 くことになる。
「 絶対者が存在 しているように絶対者 の現象 もまた存 在す る。 さて,絶対者 は絶対的に存在す る。 ゆえに絶対 者 の現象 も絶対的に存在す る 」( Ⅹ. 4 0 8 ) 。
は じめに根源的事実 と して, 絶対者 の 「根 源現 象 ( Ur e r s c he i nung) 」 , 「 図式 Ⅰ( Sc he ma I) 」 の存在 が主 張 され る。 フィヒテによれば,絶対者 は自己内で 自らが あるがままに映像の中へ入 る。 ゆえに , 「現象 は存在す る,端的に存在す る。 そ してそのか ぎりで,われわれが この意味での現象 について語 るときには,現象 はあ るが ままに存在す る。質的 に 自同的 に ( s i ° hs e l bs tgl e i c h) 存在す る。そ していかなる変化 も,増大 も減少 も不可能 である」( Ⅹ.3 3 7 f . ) 0「 図式 Ⅰ 」 はた しか に絶対者 自体 で はないが,絶対者 その ものをそのまま写像 している映 像である。
す ると問題 は, どうして自己内充足 しているはずの図 式 Ⅰが,次の段階でさ らに主観 (自己理解する根源現象)
と客観 ( 理解 され る根源現象の自己映像)の二重性 に分 裂す るのか ということである。『 知識学
1812』 で は, その 理由は次のように述べ られている。
「われわれは,絶対者が存在す ると言 って きた。 われ われはその概念 を直接 に意識 してお り, この 『 存在する』
という言葉 は, この直接的な意識以外の何物 も表現 しな
い。 さらにわれわれは,映像が何であるのかは,映像が
存在す るときには, それが 自己 自身 を, 自己の映像性
( Bi l dl i c hke i t )を特徴づけるがゆえに直接的 に明 らかで
あると言 って きた。・ ‑概念 ‑映像。 それゆえ,以上 の二
つの命題 においてわれわれが兄 いだ したのは,現象 はま
さしく自己自身 に対 して現象す る,である 」( X.3 37 ) 。
図式 Ⅰ内での分裂の根拠 は,われわれが絶対者の概念
を直接意識 しているとい うことと,概念,すなわち映像
が写像 された ものを映 しているとい うこと ( 「映像性 」)
にあるというのである。すなわち,われわれが絶対者 の
概念を現 に持 っているとい う (フィヒテにとっての)事
実か ら出発 し,本来,概念 は写像 されるもの自体 の存在
を指示 しているはずだ とい う論拠で,われわれの抱 く概
念か ら絶対者 の映像 の存在 をア ・ボステ リオ リに確証 さ
せていると言え る。 だが これでは,事後 に発見 され るも
のか らア ・プ リオ リな事柄が証明されてお り,絶対者の
自己現象 の根拠の演縛 としては不十分だろう( l l ) 。 けれ ど
も,筆者 は,絶対者 自体 ( 生命) との問 に事実 としか言
いようのない根源的な隔絶があるとす る洞察か ら,不在
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 5 4
集の究極原理 の トポスを認 め ることによ って, どのよ うに われわれの生 が説 明 され うるのか についての, フィヒテ の思考 モデルの妥当性 を考 えてみたい。
それで は,図式 Ⅰが主観 ‑客観 に二重化 した結果生ず る図式 Ⅱはいか な るものか。 フィヒテによれば,莱‑ の 映像 は絶対者 の内面 での自己客観化 によるのだか ら,級 対者 と同様 に不 変 で あ るが , 「映像 の映像」 (X. 3 2 8)
と しての図式 Ⅲにおいて は , 「 無限 の変 転 が あ って もか まわない 」 (X. 3 3 8 ) とされ る。つ ま り,映像作 用 が二 重化 され る過程 で,原理 ( 絶対者) の 自由 もまた転移 さ れて,図式 Ⅱの 「 存立性」 と して実現 され る。 す る と, そ こには図式 Ⅰには存在 しなかった生成 という契機 も入 っ て くる。 こうした 『知識 学 1 8 1 2 』 の説 明 は, われ われ に
『 知識学
18 0 4 』 で の 「 絶対知」 を容易 に想 起 させ よ う。 絶 対者 を写像す る地平 である 「 絶対知」 において は, その 絶対的 自由 も形式的法則 も原理 と して絶対者 と共有 され ていると考 え られて いたが,図式 Ⅱにおいて も事情 は同
じであ る。
「 現象 A 〔 図式 Ⅰ 〕 の存在 とその映像 ( 図式 Ⅱ) との 問 には‑・ 特殊 な原理存在 によって埋 めなければな らない よ うな空隙 はけ っ して入 り込 まない。 む しろ,神がその 存在 において 自己の映像 を端的 に自 らに伴 ってい るの と 同様 に,現象 はその存在 において 自己の映像 を端的 に自 己に伴 ってい る 」( X.3 6 1 ) 。
だか ら 『 知識学 1 8 1 2 』 において も,絶対者の 自由 と法則 とが外 に投射 されて転移 され ることによ って,図式 Ⅱに おける個別的知識 の多様性 の発生 が説明 され ることにな る。 だが, こ こで い ったん 『知識学
1812』 か ら離 れて ,
『 事実』 に目を向 けることによって, わ れ われ の生 の具
う
(12)。
知識学への入門講義 である 『 事実』 は, われわれの経 験, ない しは悟性 ( Ve r s t and)の現存在 を前提 して, そ れ と絶対者 との関係 を示唆 しなが ら, 自我 による世界構 成 の実相 を分析 してい る。 それゆえ厳密 さを期待で きな いと して も, この講義録 によ ってわれわれは, 自我 の具 体的な活動 に迫 りうるのである。『 事実』 で は, 図式 Ⅱ で ある 「 映像 の映像」 は 「 悟性」 と表現 されて いる。
「 絶対者 の外 で は, ただ悟性 だけが, 神 自身 が そ うで あ るよ うに,絶対的であ る。 とい うの も,悟性 は神 の現 象 だか らであ る 」 ( Ⅸ.408) 。
また , 「 悟性」 は , 『 知識学 1 8 1 2 』 におけ る 「図式」 と同 様 に,分離 を内 に学 ん だ 「自己理 解 ( Si c hve r s t e he n) 」 を常 に行 って い るとされ る。 ただ し, 『知識 学
18
12 』 にお いて は, なぜ図式 Ⅱに 「 生成」が導入 され るのか につ い て,必ず しも判然 としなか ったのに対 して , 『 事実』 は,
悟性 における 「自己理解」 とは , 「そ の中で現 象 が 自 ら
‑ 6
を現象 として形成す る」 ( Ⅸ. 409) 営 みで あ る と述 べ, 悟性 の自由な 自己活動性 に生成 の根拠 をみて い る。 (わ れわれの普通 の 「 理解」理解 とは異 な り, 自己を映像化 ( 客観化) し自己分裂 させ る働 きその もの さえ も , 「理 解」 において表現 されていることに注意 されたい。)
図式 Ⅱにおける生成 の動因 は,図式 Ⅱ自体 の自由によ る。‑ さ しあた り理解 され るの はこの ことである。 それ で は,悟性 における自己理解 は無条件 に行 われ るのだ ろ か。起源 を辿 れば, この問いは 1 8 01 /0 2 年 に フィヒテが 直面 していた問題 だ った。当時の フィヒテは,絶対知 の 自由 は,絶対知 に写像 され る絶対者 の存在 によって常 に 現 にあ るが ままに制約 されてい るとの結論 を兄 いだ して いたが こ 1 3 : . ,『 事実』 もこの結論 を踏襲 す る。 つ ま り, 悟 性 は二重の映像化 を経 て絶対者 か ら自由 と絶対者 の形式 的法則を受 け継 いでいるとみな され るのであ り,悟性 の 自由 は,発動 され る場合 には常 に絶対者 に由来す る形式 的法則 に制約 されているとみ るのであ る。
「自我 は自 らの映像化 の能力 を特定 の映像 化 の法 則 の 下 に直観す る。‑ 自我 はその ときに自 らを‑映像化 の特 定 の客観的法則 によって見や るので ある。今や もちろん 明 らかなの は次 の ことである。 自我 が 自 らをそ うした法 則 に従 って見や るだけ確実 に, この法則 の映像 自体 が存 在す ることにな る」 ( Ⅸ.430) 。
悟性 は絶対者 自体で はない と して も,絶対者 の形式 的 法則を転移 されている。 したが って,悟性 は映像化 の能 力 を特定 の映像化法則 の下で行使す る 。 『事 実』 は, 悟 性が具備 しその 自由を制約す る法則 の映像 を y と呼んで いる。 それ は,絶対者 とい う原理 か ら派生 した 「 原理派 生体 ( Pr i nz i pi at ) 」 であ る。
「この確固 と した映像 y は,根源的 に所 与 で あ り, ‑・
それ は現実的な ものに関わ り,現実的な ものを新 た に創 造す ることによる,現実性 と自我 の領域 の絶対 的な拡大
において生成す ることだろ う 」 ( Ⅸ. 43 3 ) 。
われわれ は悟性 の自由 とそれをア ・プ リオ リに制約す る y を得 ることによって,図式 Ⅱにおける生成 の原則 を 得 ることがで きる。 そ こで, ここで再 び 『 知識学 1 8 1 2 』 に 戻 り,図式 Ⅱか ら多様 な個別的知識 が発生す るあ り様 の 分析 に目を向 けることに したい。
( 2) 三重 の映像化一経験的 自我 の由来
ここまで明 らか にされていたのは,図式 Ⅱは生成 の原 則 と して,二重 の映像化 を経 て絶対者 の自由 と形式 的法 則を転移 されているとい うことで ある。 この ことに基づ きなが ら, フィヒテはわれわれの通常 の意識 を , 「現象 は自己に対 して現象 す ると して, 自己に対 して現象す る」
と定式化す る。すなわち, 自己現象 (自己理解)す る現
象 が,対 日化す るために再度 自己分裂 して, 自己映像化
した ものがわれわれの意識であ るとい うのであ る。 フイ
ヒテによれば,図式 Ⅱを形成す る映像化 が,絶対者 の外 での最初 の主観 ( 図式 Ⅰ) 一客観 ( 図式 Ⅱ) 分裂 であ る。
また,視点 を図式 Ⅰの側 に移すな らば, この再度 の分 裂である自己理解 において,絶対者 自体 の外化 の活動性 ( 絶対的 自由) その ものである 「 直観」 と, そ の活動 性 を思考 した ものである 「 概念」 ( 形式 的法 則) の分裂 が 招来 され る。図式 Ⅱ自体で は, この両者 は,図式 Ⅱの存 立の 自由は図式 Ⅰか ら転移 された形式 的法則 によ って制 約 され る, とい うかたちで総合 されている。 こうした分 裂即総合状態 にある図式 Ⅱが再度分裂 して, 自己を映像 しているのが図式 Ⅲである。 それゆえ, われわれが図式
Ⅲの境地 であるとすれば, その存在 において,①二回 目 の映像化 によって現象す る,図式 Ⅰ ( 主観) お よびその 直観 と概念 ( 客観 ‑図式 Ⅱ) ,②三 回 目の映像 化 に よ っ て現象す る,図式 Ⅱ ( 主観)と,その直観 と概念 ( 客観 ‑ 図式 Ⅲ) があ らか じめ織 り込 まれていることになる。 し か も,図式 Ⅲを表す上述 の命題 において表現 されてい る ように,現実 のわれわれ は 「と して ( al s ) 」 にお いて そ れぞれの項 の分裂即総合を常 に実現 しなが ら現象 してい ることにな る。
「自己現象 とは,現象が 自己に対 して現象す るとして, 自己に対 して現象す るとい うことであ る。‑ これ によ っ て現象 は五重性 に分裂す る。 とい うの も,現象 は直観 と 概念 とい う映像 を 自ずか ら与 え, そのそれぞれが再度主 観 と客観 に分裂 して, これ ら全 てが絶対的総合 の中にあ るか らであ る。 この五重 の総合 が 自己現象 の内 に絶対的 に存在 し, また この自己現象 その ものである。それゆえ, これ らの項 はけっ して分離 され ることはで きない。現象 は,現象す るとして現象す るのでなければ, 自己に対 し て現象す ることはない し, また逆 もしか りであ る 」 (Ⅹ
3 5 6 ) 。
われわれの生 との関係 で言 えば下線 を引いた部分 が特 に重要であ る。すなわち,三重 の映像化 の所産 と しての われわれが本来的 にあ るとい うことは,幾重 に も写像 さ れて分離 して現象 して くる諸項 を , 「と して」 で表 現 さ れているわれわれの能動的な活動性 において総合 して生 きるとい うことである。 そ して, その ときに こそ現象 の 彼方 にある絶対者 をわれわれの中で生 きることにな る。
それで は,三重 の映像化 の所産 としての 自我 とはいか なる現存在 だ ろ うか。 フィヒテは, この ことを 自我 が 自 覚 にいた るときにいっで も既 に存在 してい るもの と して 知覚 され る自然界 の演梓 と, 自然界 において 自 らの世界 であ る人倫界 を形成す る自我 の活動性 の分析 とい う二つ の観点 か ら解明す るO
①図式 Ⅱの反省性 と自然界
経験的 自我 の活動性 の演縛 にあた り , 『知 識 学 1 8 1 2 』 が
絶対的前提 と しているの は , 「自由 の ア ・プ リオ リな被
制約性」であ る
。「 現象 が 自由であ るのは,神 の現 象作 用 が そ の現 象 に 与 えた法則 に従 ってであ る。す なわち, そ の法 則 とは,
『 現象 は自由で あるべ きであ り, また, 現象 の 自由 の表 明 は ( それ は法則 によ って制約 されてお り,法則 におい てあ る) , すべて存在 すべ きであ る』 とい うものであ る
。したが って, 自由はもっぱ ら形式的な 自由で あ り, 内実 ( Was ) の根拠で はな く,事実 ( Daβ) の根 拠 で あ る」
( X.3 8 0 ) 。
だか ら, フィヒテによれば,図式 Ⅲにおいて投射 され て存在 している映像 は,絶対者 に由来す る法則 に従 って,
「 機械的 に働 いて い る法則 と して の反 省性 ( Re f l e xi bi ‑ 1 i t at ) 」 ( X. 3 8 5 ) によってあ らゆ る自由 に先立 って投 射 されて くる。 この図式 Ⅱの自己現象 における投射作用 ( 反省性) によ って発生す る映像 は, 自我 に と って必 然 的 に存在す る存在者 と して現象す る。す なわち, これが
『 知識学
18
12 』 における自然界 なのである。
「われわれ は反省性 を, 〔 自由な 自我が行 う〕反省 〔 主 観 一客観分裂 による自己現象〕が従属 している規定力の ある根本法
則( b e s tl ‑ mme n de sGr un dge s e t z ) と して前 提す る。 したが って, われわれの 目下 の前提 の下 で反省 を生 み出す はずの もの,すなわち多様 なものの完結 した 全体性が反省 に先立 って与 え られていなければな らない。
こうして, 〔 図式 Ⅱにおける前意識 的で機械 的 な〕 反 省 性 によ って,完結性 が多様 な ものの全体性 の中 に定立 さ れている 」 (X. 3 9 5 f. ) 。
こうして フィヒテは自然界の所与性 を説明す る。 だが 本稿で は, 自然界 の演経 を これ以上検討す ることを避 け たい と思 う。 む しろわれわれにとって問題 は, 自然界 と い う所与 の映像 の中 に意識化 と同時 に投入 されてい る経 験的 自我 が, 自 らの映像性 を究 めてゆ くあ り様 を追 うこ
とであ る。
② 自我 の 自己実現
自然界 は前意識的 に投射 された映像 で あ り, 自我 は, 自 らを意識す るときにその都度,既 にその中へ投入 され ている自己を兄 いだす。‑ イデガーの 「 披投 的投企」 を 想起 させ るこうした事態が , 『 知識 学 1 8 1 2 』 にみ られ る人
間の現存在 の基本様態であ る。 自我 は所与 の自然界 の中 で 自己実現 を目指す。
「自我 は自己を端的 に創造す る。 ・ ・ ・こ こで ま った く対 立 し,分 け られて二つの存在 〔 自然界 と自我〕 が提示 さ れ るo Lか もその第二 の存在 〔 自我〕 は第‑ の存在 〔 自 然界〕 によ って一緒 に与 え られ るので はな く,第二 の存 在 のためにはまず もって新 たな創造 が, もちろん第‑ の 存在か らの創造 が必要 であ る。第‑ の存在 は[ 引こ見 えな い仕方 で発生す る。 ( 現象 は端的 に自己 を観 取 す る。 だ が, この観取す ることは見 ること ( Se he n) の中にす っ
‑ 7‑
秋 田大学教育文化学部研究幕己要 教育科学部門 第
5 4
集か り投入 して しまい, ま った く事実 的 で客観 的 にな る
。第一 の存在 はこの法則 に従 って生 じる。) これに対 して 第二 の存在 は目に見え る仕方 で生 み出され る。すなわち 自我 は, 自 らの自己創造作用 をその現場 において実際 に 眼差 す 」 (Ⅹ.407 ) 。
( 図式 Ⅲの分析 において フィヒテは, 映像 の中 で発 生 す る分裂作用,分離作用 を 「 反省性」 や 「 見 ること」 と 表現す る。 とりわ け上 の一節 を理解す るために説 明を要 す るのは , 「 見 ること」 だろ う。普通 われわれが 「 見 る」
場合 には,見 る もの ( 主観) と見 られ るもの ( 客観) 杏 想定す るが, この ことか らも分か るように , 「見 ること 」
は主観 と客観 とを分裂 させ る。 しか も, フィヒテは見 る ものや見 られ るもので はな く , 「 見 ること」 を強調す る。
それ は,客観化 されて概念化 され る以前の,活 き活 きと 働 く分離作用その ものを言 い当て るた めで あ る。 「見 ら れ沈殿す るのは映像 だけであ る。 したが って客観 的 に投 射す る働 きが見 るであ る 」(Ⅹ.3 9 9 )。す ると上 の一 節 にある自然界 を表す 「 見 ることの中に投入 す る」 とは, 自覚す る以前 に分離作用を行使 されている図式 Ⅱの被投 的な存在様態 を言 い表 してい る。)
フィヒテによれば, 自我 は絶対者 の自由を写像 された 自由な存在者であ る。 自我 は対 白化 の法則 に従 いなが ら 自由に自己を投射す る。 この投射 を行 う 「 能力」 によっ て 自我 は自己を 自由に創造で きる。 言 いか え るな らば, 自我 は所与 の映像 (自然)か ら一度身 を もぎ離 して 自己 をそ こに投射 しうる。 フィヒテによれば自我 の こうした 直観 が 「 意欲」 なのであ る。
だが, このよ うな 『 知識学
18
12 』 の記述 は凝縮 されて い て難解であ る。 そ こで, それを 『 事実』 の対応箇所 と比 較 してみ ると, 自我 の どの よ うな活動 が, 『知識 学 1 8 1 2 』 を講義す る際 にフィヒテの念頭 にあ ったのかが明 らか に なる。先述 したよ うに, 自我 は絶対者 の法則の映像 y を 内包 している 。 y は自我 の超現実的 な原理で あ る。 フィ ヒテは, この y に導かれて 自我 は自然界 の中 に自発的 に 自己を投射 してゆ くと考 え る。
「 事実的直観 の最初 の形式 a , す なわ ち経 験 的 に現 実 的な もの 〔 自然界〕 は, 自 らの規定 を生成 しない もの と
して持 っている。つ ま り, は じめて第二 の形式 で あ る y の出現 によ って, それ は規定 を得 る」 ( Ⅸ.448) 。
自我 は y を絶対者 か ら転移 されて きた原理 と して具備 してい るがゆえに , 「自己を意志へ と形成す る能力」( Ⅸ.
471 ) を持 ってい る 。 y を通 して図式 Ⅰを実現 しよ うと す る意志 は, あ らゆ る所与 を超 えた 自我 の原理 とな る。
言 いかえ るな らば ,y によ って 自我 は自 らを端的 に絶対 者 を実現すべ きもの‑ と形成す ることがで きる。 それゆ
え ,
的存在 が,実際 に自我 の全体 的な超現実的な ものに対応 すべ きであ るとすれば, 自我が,意志 の こうした現実的 な原理 とな らなければな らないだろ う。 そ して, 自我 が そ うい うものであ りうるのは, ただ意志 の規定 によって
ればな らない」 ( Ⅸ. 47 7 ) 0
y は, 自我 の意志 を通 して 目に見 え るようにな る こと によって,所与 の映像である外界 に秩序 を与 え ることに な る。 フィヒテは前期哲学 における 「 外界への 目的概念 の投企」( 1 4 )を防排 させ る口調 で 『 事実』 において も , 「自 我 は非我 を こうした秩序 の概念 によ って規定 し, そ こに 包摂 させ る。 そ して,非我 を概念 と比較 し, それが概念 と対応 しない場合 には, それを変更で きる何 かを兄 いだ さなければな らない」 ( Ⅸ.483) と述べてい る。 す なわ ち, 自我 の実践的な行為 によ って こそ, 目に見 えない図 式 Ⅰ, ひいて は絶対者 が可視的 にな りうるとい うのであ
る。
おわ りに
本稿で筆者 は, フィヒテの晩年 の知識学講義 で展開 さ れた映像論 の中で いかな る人間理解 が提示 されて いるの かをみて きた。 そ こにおいて描 かれて いたのは,万象が 唯一 の根本原理 であ る絶対者 を映 しているとみ る映像 シ ステムだ った。 そ して以上で検討 した フィヒテの議論で 着 目すべ きなのは,図式 Ⅲの存在様態である。 フィヒテ によれば,人 間 は 「 神 の本質 を写像 し, 同時 に映像 をそ れの意味 に関 して理解す る」 ( Ⅸ.5 30) 存 在 者 で あ る。
もちろん 「 理解す る」 とい って も,現象 が 自己を分裂 さ せ ることによ って,現象 その ものが映像 の中で 自己を叙 示す る ( s i ° hd a r s t e l l e n ) あ り様 を自己の存在 の根 底 に 見 るとい う,現象 と して把握 された自分 の生命 を遂行す る実践 自体 とみな されて いることは強調 されなければな らないだろ う。 フィヒテにおいて は , 「 理解す る」 とは, その都度 自 らの生命 それ 自体 ( それ は自我 自身 の 自己理 解であ ると同時 に, 自我 の成立 と同時 に映像 の三重化 シ ステムが働 いているのであ るか ら, その根底 において は 絶対 的な生命 の自己理解 で もある) を生 きるとい うこと である
。「 神 は直接 的 に自己を現象す るもの にす るわ けで はな く,現象 の 自由の中で, また, この 自由によ って間接的 にのみ現象す るものであ る。神 の現実的な現象 は 現象 に内属す る自由を媒介 と しての現象 自体 の産物 なのであ る。神 は自由なものの内でのみ現象 しうる」 ( Ⅸ. 382 f . ) 。
全体 としての生命 は, 自我 の個別的生命 の遂行 の中で のみ活 き活 きと理解 され る。 だが, 自我 は,絶対者 か ら みれば三重 の映像化 を経 て発生す る現象であ る。す なわ
ー8‑
ち, 自我 とは,絶対者 が 自己 に対 して現象 す る, と して 自己に対 して現象 す る ことによ る生命 で あ る。 フィヒテ は, この映像 システムの中で 「と して」 の機能 を極 めて 重視 す る。
「この と して ( AI s ) は, ここで発生 して い る現象 〔 図 式 Ⅲ〕 の中心点 で あ る。 あ るい は,見 る ことにつ いて語 ることが許 され るな らば,視力 ( Se he ) の座 で あ る
。‑この と して の中で, また, この と して を見 る ことによ っ て,他 の一切 の ものが与 え られ, その中 に含 まれて い る ので あ る」 (Ⅹ,357) 。
「と して」 において表現 され る自我 の総 合 へ の活 動 性
概念 が対立状態 にあ りなが も相保 ちあ って存立 して い る とい うので あ る。 そ して, 自我 の現存 のためには三重 の 映像化 が不可欠 だ った ことを想起 すれ ば, 自我 の存在 に いた る来歴 の中で発生 して きた項 の一 つで も欠 けるとす れば, あ るいはそれ らが しか るべ く秩序 づ け られな けれ ば, 自我 の生命 に絶対者 が映 ることはあ りえな くな るだ ろ う 。 「と して」 こそが,生 の遂行 ‑理 解 の核 心 な ので あ る。 た しか に生 にお け る 「と して」構造 は,従来 の生 の解釈学 にお いて も分析 されて はきた。例えば‑イデガー は,理解構造 の分析 の鍵 語 と して 「と して」 に注 目 して い る。 しか し, ‑ イデ ガ一において は,事物 的存在者 を 道具 と して意 味づ けなか ら, 自 らの道 具的連 関 の中 に編 み込 んで ゆ く現存在 の生 の遂行 にお け る編 み込 みの働 き を指示 す る記号 と して用 い られて いた。 だが,新 田義弘
も指摘 す るよ うに, それ は自我 による地平形成 の水平面 ( 生活世界) の構造 を言 い当てた もの で あ り, フ ィ ヒテ の場合 のよ うに, 自我 の存在 その ものや, 自我 が存立 す る地平 その もの を実 現 させ る とい うわ れ わ れ の存 在 の
「 垂直的次元
」( 1 5 )にまで は到達 して いないで あ ろ う
。そ してわれわれが さ らに注 目 しな ければな らないのは,
「と して」 は単 に事実 と して成立 して い る もので はな い と考 え られて い る ことで あ る。 それ は,映像論 の要諦 に あ る 「 絶対者 の 自己現象 の事実性」 に も瞥見 で きる発想 だが, こう した一連 の後 期知識学 の議 論 全 体 が , 「絶 対
者 が存在 しそれがか くか くと自己を叙示 したのであれば, 当然現象界 は, ‑‑‑で あ るべ し」 とい う,蓋然 的な 「べ
し ( S o l l ) 」 に立脚 して いた とい うことで あ る。
「 要求 は こうで あ る。 す なわ ち, 現 象 はそ の単 な る存 在 にお いて 自己に対 して現象 すべ きで あ り, それ 自体 の 中で,こう した現象 の映像,す なわち代理者 ( Re pr as e n‑
t ant ) を投射 すべ きで あ る 」 (X. 352) 。
ここには安易 に絶対者 の内実 を語 らない フィヒテの真 筆 な態度 が反映 されて い るが, それ に留 ま らず , 「神 は 自由な ものの内で のみ現 象 す る」 とい う理解 を勘案 す る な らば , 「べ し」 を実際 に成立 させ 「と して」 を機 能 さ
せ るの は, ひたす ら自我 の 自由で あ る ことにな る。 した が って,知識学 で示 された生 の遂行 は,絶対者 その もの は与 え られない と して もその存在 を予感 しなが ら, その 都度 の行為 の中 に絶対者 を顕現 させ るべ き自我 の努 力 に かか って い る ことにな るので あ る。
た しか に後期 の フィヒテは,絶対者 か らの現象界 の生 成 の事実 を把握 す るために, われわれの側 か らの絶対者 の主観 的 な概念把握 を無化 す る ことを要求 して い る。 け れ どもそれ は単 な る放下 とはな らないので あ る。 自 らの 生 の中 に絶対者 の 自己理解 ( 見 る こと, 自己映像化) を 追理解 しなが ら生 きる こと, す なわ ち, みずか らの 「と して」 を究 めてゆ くこと, 映像 システムに捕 らえ込 まれ
人 間的 自由の根元 と意 味 を倦 む ことな く解 明す る晩年 の 知識学 は, 自由の実現 にまつわ る重 い責任 の 自覚 をわれ われ に訴 えか け続 けて い るので あ る。
注
本文中のフィヒテ全集からの引用は,小 フィヒテ版の全集に より巻数 と貢数を示 した。また,引用文中の太字は原著者によ る強調であり,鈎括弧内と下線は筆者による補足である。
の教育人間学』 ,1 81頁以下,世織書房,平成 8 年
( 2 ) I mmanue lKant ,Ube T ・Pa d agogL hl nKant sWe r ‑ he I X ,S. 4 5 3,Gr uyt e r,1 9 6 8,Be r l i n.
( 3 ) Mar t ュ nHe i de gge r ,Se乙 nundZei t ,l l auf l . ,S.1 4 4 , Ni e me ye r,1 9 8 4 ,T n bi nge n.
( 4 ) He l de gge r,a.a. 0. S. 1 4 5.
( 5 ) たとえば ,Moni kaBe t z l e r ,I c h‑ Bi l de rundBi l de T ・ ‑ we l t ,Fi nk,1 9 9 4,Mi mc he n.および,新田義弘 , 『現象 学 と近代哲学』 ,岩波書店,平成 7 年。前者 はデ ィル タイ の解釈学との関係で,後者は‑イデガーの解釈学的現象学 との関係で,フィヒテの後期哲学の先駆性を論 じている。
( 6 ) 隈元忠敬 , 『フィヒテ知識学の研究』 ,3 4 4‑3 6 3頁,協 同出版,昭和4 5 年
( 7 ) ヴォルフガング ・ヤンケは, こうしたSo l lの事態を次 のように集約 している 。 「そのゆえんが,非合理的な割れ ( i r r at i onal e rHi at ) によってわれわれの概念的把握か ら 分離されているこうした出来事 〔 絶対者の外化〕について は,それが必然的にあるべきであるとしか言 うことができ ない 」 。( Wol f gangJanke ,Vom Bi l dede sAbsol ut e n , S.3 3 9,Gr uyt e r,1 9 9 3,Be r l i n. )
( 8) 菅見に入 ったかぎりで ,Vonについては 「 依」( 隈元忠
敬)という訳語 と , 「 淵源 」( 渡遠二郎) という訳語があて
られている例がある。前者 は前置詞 vonによって指示 さ
れた分離作用において,分離されたものが分離 してきた本
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 5 4 集
体 に 「 依」 っている状態を強調 した訳語であ り,後者 は分 離 された ものが分離 して きた本体 こそが原因であるという 側面を強調 した訳語である。 いずれに して も, ここで問題 なの は Von とい う記号 で フ ィヒテが言 い表 そ うと した
「 働 き」である。 そこには,両氏のいずれの訳語 の意味 も 合意 されている。 そ こで,筆者 は訳語を一つに決めて割 り 振 ることをせず ,Von のままで表示す る。
( 9 ) Johanne sBr ac ht e ndor f ,Fi c ht e sLe hT ・ eU OT nSe i n , S.2 6 1 ,Sc ht ni ng h ,1 9 9 5,Mi i nc he n・
( 1 0 ) Wol f gangJanke ,Fi c ht e ,S・3 0 5,Gr uyt e r,1 9 7 0 , Be r l i n.
( ll ) 藤沢賢一郎訳 『フィヒテ全集第 1 9 巻 ベル リン大学哲学 講義 Ⅰ 』 ,5 9 3‑5 9 4 頁,暫書房,平成 7 年参照
( 1 2 ) 『 事実』の理解のために ,Johanne sSc hur r ,Ge wi
β‑he i tL mdEr z i e hung ,He i n,1 9 6 5,Rat i nge n を随時参 照 した。
(13)