(中)
深澤安博
はじめに 本稿の射程
1.モロッコでの反乱派支配の確立 1.1.内戦前までのスペイン保護領モロッコ L2.反乱の開始
L3.タンジャの「中立」と海峡を渡るモロッコ軍 L4.モロッコ民族主義者への誘い
15.フランス領モロッコ
II.反乱派・フランコ政権のモロッコ統治 2ユ.スペインで闘うモロツコ人
2.2.新ハリーファ国家?あるいはモロッコ人のための国家
(以上前号)
(以下本号)
2.3。監視と抵抗
2.4.フランス植民地主義「批判」
2.5.「モロッコのローレンス」とイスラームの友フランコ 2.6.タンジャでの対決
2.7.モロッコをめぐる仏・独・伊・英の牽制 Ill.モロッコ民族主義者の対応と論理
3.1.反乱派支持の論理
3.2.民族改革党(PRN)とモロッコ統一党(PUM)
3.3.利用と警戒
(以下次号)
3.4.フランス領民族主義者との連帯と分裂 3.5.汎アラブ主義
lV.植民地体制の呪縛と共和国の「巻き返し」
4.1.共和国によるモロッコ人への訴え
4.2,植民地体制の呪縛 ・ 4.3.モロッコでの反撃の企図と共和国派の活動 4.4.アブド・アルカリームの威信と脅怖 内戦の終了 結語と展望
2.3.監視と抵抗
しかし,反乱派・フランコ政権がモロッコ人を「信用」し,彼らの忠誠を得たと考えたの ではまったくない(そもそも,ベイグベデール上申書を見よ)。モロッコ人はあいかわず「被 保護民」一統治される対象だった。
まず,大量の在モロッコ兵力がイベリア半島に移動した後でも,モロッコでの武装治安部 隊はむしろ増強された。36年11,12月,ハリーファ軍の新大隊(Tabor)の創設と現存部隊
『人文学科論集』34,pp.1−26. ◎2000茨城大学人文学部(人文学部紀要)
2 深澤安博
(mia)の増員(全体として隊員を3倍化),ハリーファ武装警察隊の再編(隊員を2.5倍化)と裁 量権の拡大,カーイドの命令で動く補助武装警察隊の創設の措置が採られた。37年4月には,
ハリーファ軍の武装力が強化された(機関銃と臼砲装備)。以上の武装治安勢力は形式的には ハリーファ当局の下にあったが,実際には原住民部の統括の下にあった。また36年12月には,
イベリア半島と同じ治安警備隊も創設された。これは,軍に動員不可能な30才以上のスペイ ン人志願者を対象とした。さらに,スペイン人だけでなくモロッコ人をも加え約2万人の武 装勢力を形成したファランへ党義勇軍部隊も,スペインの戦場に行った部分とモロッコで治 安・監視活動をおこなう部分に分かれた。以上の在モロッコ武装治安勢力の全体の人員数は 不祥である。モロッコの反乱派当局は,イベリア半島で戦闘する兵力(スペイン兵,レグ
ラーレス,ハリーファ軍部隊外人部隊,ファランへ党義勇軍部隊の一部)と,以上の在モ ロッコ武装治安勢力との意識的な機能分担を図ったと考える。1)
それ故,反乱派当局が「危機」と見たときには,民族主義者はじめ「原住民」の行動の自 由や表現・出版は制限された。37年秋,『エル・リブ』がイタリア人がモロッコ人を「中傷」
した事件を取り上げたところ,その号は差し押えとなった。38年には,兵士未帰還と募兵強 化で住民の不安が高まったが,この年の1月中旬に,兵員の火器保持規制令(1年前の保持許 可を無効化。全兵員が新たに許可を得ること)が出された(a)。同年6月末には,「現体制に反 対する人々と...非合法行為をする人々による違反や行き過ぎを避けるため」示威行動は許可 制とされた(b)。同じ頃,イベリア半島の内務省令がモロッコにも適用され,出版物の出版・
輸入・購i入も許可制とされた(c)。この(c)の措置によって,38年12月には,『エル・リブ』
(イタリアのリビア政策批判のため),PRNの『自由』(フランス領での政策を評価したた め),アラビア語版『モロッコの統一』(理由不祥)が差し押えとなった。ベイグベデールは,
秘密警察を用いて民族主義者の動向を監視していた。2)
上述の規制措置は,「現体制に反対」したり「非合法行為」をするモロッコ人(また一部の スペイン人)がいたことを示している。これらの「反乱するモロッコ人」に関することは,
『アフリカ新報』や『モロッコの統一』にはもちろん現れない。共和国側と英・仏(とフラン ス領モロッコ)報道機関の情報を基にして(前者には誇張が含まれていることを考慮),モ ロッコ人の「反乱」をクロノロジカルに綴ってみる([]は筆者のコメント)。3)
①36年9月 ゴマラで,募兵によるもめ事を契機として,武装したモロッコ人がレグ ラーレス駐屯所を襲撃。後者のなかにも同調者が出た。レグラーレス隊長ほか3軍曹が死亡。
モロッコ戦争中のライスー二の副官だった1カーイドを含む多くの逮捕者[規模など不明]。
②36年9月一リブのべニウリアゲール部族で,アブド・アルカリーム軍の元幹部の指導 による「反乱」。反乱派当局は,リブとゴマラの部族の対立を利用して「反乱」に対処[規模 は小さいとの当時の論評あり]。
③36年12月 3地域から800人の「原住民」労働者が公共工事のためということでテ トゥワンに集められた。工事は始まらず,原住民部が入隊のための軍事訓練をすると通告し
たので,彼らは抗議し,武器をもったなら反乱を起こすと脅かした。軍が彼らを包囲したが,
結局,彼らは解散した。
④37年11〜12月 テトゥワン,ララーチェ,シュシャーウエン,メリーリャで,募兵と 食料不足に起因する「原住民の暴力的示威行動」。軍隊出動。反乱派政権はこれを否定[規模 など不祥。上記(a)の規制措置はこれに対処したものか]。
⑤38年5月一アルウセーマスの2人のカーイドが「反乱」宣伝の廉で逮捕された[上記
(b),(c)と関連か]。
⑥38年6月 クロート(西部地域)の武器保有可能な全男性が逮捕され,テトゥワンに 移送された。彼らはスペイン戦線に連れていかれたという噂がクロートで広まったので,ク ロートで女性たちを中心に「暴動」が起き,募兵事務所が襲撃されそうになった。当局は逮
捕者の多くを釈放[上記(b),(c)と関連か]。
⑦39年1月の高等弁務官の公式声明 イエバラ西部で「原住民によって故意に挑発され て」非常事態となった,当局によって鎮圧措置が採られた[非常事態の内容不祥。「唯一の」
本当の反乱という当時の論評。いずれにしても,高等弁務官の公式声明はほぼ唯一で異例]。
⑧年月不祥 スペインで戦闘中のモロッコ人の問でも「不穏」な動きが現れた。何人か の有力モロッコ人が「反乱」を起こし,そのうちスマタ(西部地域)の有力者は逮捕され,サ ラゴーサで処刑。反乱派は,モロッコからカーイドたちを呼んでモロッコ人兵士をなだめさ
せた。
「反乱」の契機としては,上に見たように,やはり強制的性格の募兵や戦闘に関することが 多い。以上に列挙した「反乱」の他に,モロッコ人の隠然たる抵抗を示唆するのは以下のこ
とである。①スペイン領モロッコの『官報』(毎月3回刊)に掲載される脱走モロッコ人兵士 に対する出頭命令。36年末から徐々に増え始め,37年5月分の号にはもっとも多い計49人の 名が出ている。②①と重なるか関連した,フランス領に逃亡したモロッコ人の存在[数は不 祥]。③37年5月に,原住民部に科料特別部設置。④38年9月の動員令 耕作中の農民や就 業中の労働者も徴募。⑤38年(月不祥),ハリーファ当局首相が農村部を回り,反乱派・フラ ンコ軍に加わるよう訴えた[④,⑤は,それまでの方法ではもう兵員確保ができなくなったこ とを表している]。⑥38年9月,ベニアロスとべニラアセンの部族有力者逮捕(「原住民勢力」
が武力反乱を起こしたためという情報があるが不祥)。⑦38年(月不祥),アブド・アルカ リーム帰還の噂が広まったとき(第IV章第4節で後述),何人かのアブド・アルカリームの 家系の者が逮捕された。4)
以上から見て,反乱派の支配は揺るがなかったものの,彼らがモロッコ人の忠誠を得たの ではないこと,とくに募兵と戦闘はモロッコ人にとってしだいに負担と感じられたことが言 えるだろう。
モロッコ在住スペイン人についても,上述の『官報』の出頭命令欄を見ると様々な隠然
(一部公然)たる抵抗があったことがわかる。38年6月までに100人を超える徴兵忌避者があ
4 深澤 安博
り,37年5月までに30人以上の脱走兵と40人以上の域外への逃亡者,37年7月までに18人の
「戒厳令違反」者が載っている。他にも,36年9月にセウタで3人が「反乱」者とされ,同年 12月にはセウタで4人が「おそらく政治的活動をしていた」とされ,また37年5月にメリー
リャで「多くの労働組合員を船で逃亡させようとした」3人の名もある。イベリア半島と同 じくフリーメーソンの活動やその前歴は罪とされた。逃亡者のうち,ユダヤ人だととくに言 及されているのは,反ユダヤ人意識への訴えかけの意図が消えていないことを示す。36年11 月以降,セウタとメリーリャの統治権もスペイン領の高等弁務官の権限となった。ベイグベ デールは,セウタ,メリーリャのスペイン人の支持を得ることにも腐心していたが,内戦終 期の39年3月,アルジェリアのオランの共和国領事などと通信していた廉でメリーリャの何 人かの「知名な人物」が逮捕されている。他方,スペイン領のスペイン人コミュニティーの 中では,ベイグベデールがモロッコ民族主義者やハリーファの気嫌伺いをすることへの不満
が存在した。5)
2.4.フランス植民地主義「批判」
本章第2節のベイグベデール上申書の①にあるように,スペイン領での民族主義者の「扱 い」はフランスに打撃を与えるためでもあった。第1章第4節に所引のトレスの演説のよう に,モロッコ人と北アフリカ人の抑圧者=フランス,モロッコ人の保護者=「国民派」スペ インという格好をっくることだった。ベイグベデールのスタッフのなかには,フランスを挑 発するこのような政策はフランスの対応を硬化させるので,スペイン領に圧力がかかるだろ うと懸念する者もいた。しかし,ベイグベデールは対仏強硬姿勢をとり続けた。先述(第1 章第5節)のように,36年9月にフランス当局によって仏・西領間の境界が閉鎖されたが,
スペイン側はこれに対し,モロッコの経済に損害を与える,フランス領の商工業者からも批 難されている,とのキャンペーンを張った。6)
やはり鮮明な対比が表れたのは民族主義者の「扱い」だった。36年10月にラバトで開催予 定だった北アフリカ学生協会大会にフランス当局が躊躇していると,スペイン側はフランス を批難し,これをテトゥワンで開催させるようにした(スペイン領以外からは参集せず,大 会の実質はなし。モロッコ学生協会議長はトレス)。既述のように,スペイン領でも実は完全 な出版の自由はなかったが,とにかくPRN, PUMとも新聞は出せた。他方,フランス領で は民族主義者の新聞がしばしば発禁になった(スペイン領のPRN, PUMの新聞なども)。36 年10〜11月,フランス領のCANは,出版・結社・教育などの自由を求めて各地で集会や示 威行動をおこなった。フランス当局は,アルファッシらを一時逮捕し,37年3月には,CAN の解散命令を出した。CANからは,自由を認めた「有能な」フランコに対し「忌まわしい」
ノゲスといった批判も出た。スペイン領の新聞は,フランス領での民族主義者の迫害を書き 立てた。37年9月のメクネシュ事件の際のフランス当局による民族主義者弾圧もスペイン領 で大きな反響を呼んだ。ベイグベデールは,一方でスペイン領への波及を恐れながら,他方
で自らの地域の「保護国」の統治の寛容さを示す機会として利用し,実際に民族主義者たち は,フランスの「帝国主義」「植民地主義」を激しく批難した(第III章第4節)。7)
さらに,フランスがスペイン領「原住民」の反乱をけしかけているという「フランスの陰 謀」も批難された。37年3月4日,フランコはラジオ・サラマンカで,アルヘシーラス会議 議定書締結諸国に訴えるとして,次のように述べた。
フランスの人民戦線政府は,「我が諸部族」の反乱を引き起こさせるために,いくつか の地域に武器を集結してスペイン領内に送ろうとしたり,境界地域に軍事力を集結させ て,この地域の「原住民」に圧力をかけ騒動と不安をかき立てようとしている。これは 1912年の条約に違反している。アルヘシーラス議定書締結諸国に対し,上掲の策謀の証 拠を集めるため緊急に国際委員会を設立することを訴える。不干渉委員会もこのような 犯罪的な策謀を打ち砕くために緊急の決定をするだろうことを疑わない。このようにし て,フランス領とタンジャでの共産主義者の陰謀をやめさせることができる。
ドイツではこの訴えが大々的に報道されたが,イギリス政府は仏・西間の問題だ,また,フ ランス政府は「全く根拠がない」として,それぞれ応じなかったので,フランコの訴えはす ぐに立ち消えとなった。この時期に共和国側はフランス領からスペイン領に反撃を図ろうと しており(第IV章第3節),反乱派情報機関はそれを掴んでいただろうから,フランコの訴 えに「根拠」がなかったわけではない。また,不干渉委員会で合意されっつあった国際監視 活動を遅らせたいドイッの意向が働いていたという指摘もある。8)
実際には,フランス領の住民,とくにフランス人が反乱派反対でスペイン領に対抗してい たのでは決してなかった。フランス当局の禁止措置にもかかわらず,既に見たように,フラ ンス領からも多くのモロッコ人が反乱派軍に入隊したが,これはフランス軍人の知悉してい るところだった。軍人とくに将校層には反乱派に親近感をもつ者が多かったことと,「原住 民」の入隊は経済的不安を緩和して反乱の危険を避けるためにむしろ好都合と考えられたか らである。とくに37年6月のブルム政府崩壊以後,反乱派支持の動向が公然と現れた。この 時期に,スペインからの移民の子孫が多い(約25万人)アルジェリアのオラン地域やそれに近 いフランス領モロッコのウジダでは,反乱派支持の集会がおこなわれた。9)
上のフランコの訴えにある「共産主義者の陰謀」や,「全北アフリカに火をつけることにな る反乱の炎」を挑発している共産主義者に対してノゲスは何もしていないという批難i(「ユダ ヤ・共産主義の浸透」という言い方もされた。以上,それぞれ36年12月,37年3月の『アブ
リカ新報』)は,「共産主義」の「危険」に対してともに対抗しようとの訴えでもあった。こ れは,スペイン共和国反対,フランス人民戦線派への反対だけでなく,既述のように,モ ロッコないし北アフリカの民族運動の「危険」も含んでいた。フランス植民地主義「批判」
を言いながら,反乱派当局も実は初めから同じ植民地主義の立場にあった。36年8月末,『ア
6 深澤安博
フリカ新報』は,「原住民」のイベリア半島派遣はモロッコに関する条約違反であるとのフラ ンス人の批判に対して次のように応えた 第1次世界大戦の時にフランス領統監リヨテも フランスを守るためモロッコ兵を派遣した。この時にスペインは反フランスの対応をしな かったのに,今,「反共産主義戦争」の時にこのように批難するとは何事か。10)
2.5.「モロッコのローレンス」とイスラームの友フランコ
モロッコ人の「利益」「便宜」を擁護する政策をおこない,フランス植民地主義を批判する という「変身」ぶりは,当然ながら,その真意についてメトロポリで憶測と関心を呼んだ。11)
37年3月にベイグベデール(翌4月に正式に高等弁務官に就任)がフランスの2新聞(親反 乱派)の記者に応じた2つのインタヴューには,この点も含めた彼の「本音」が見られる(以 下の①は『アフリカ新報』にも一・部削除されて掲載)。12)
①スルタンへの讃辞が消えたのには(本章第2節参照),「酌量すべき状況」があるから だ。スルタンは,スペイン領の「臣民」に多くの関心を示していないのに,スペインでの
「原住民」部隊の使用に抗議し,また,両地域境界を閉鎖してモロッコを分裂させた。/スペ インに行った兵力と在モロッコ兵力の数字を出すことはできない。「原住民」たちは「以前 我々に対して闘ったように,いまは我々とともにたいへんうまく闘っています」。ファランへ 党員は,治安確保のためにモロッコで徴募されているが,これは第1次大戦中にフランス領 でなされたのと同じ役割をするものである。/我々はモロッコ人に自治など「何の約束もして いません」。「モロッコを放棄せずしてどうしてこんな約束を果たせますか」。「あなた方と同
● ● ● ● ● ●
様,我々もモロッコを放棄する意図をもっていません」(傍点部分は『アフリカ新報』では削
● ● ● ● , ■ ● ● ■ ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● … ● ・
除)。/我々が「友好と平等」の政策をおこなっているので,モロッコ人は我々とともにある。
これは,「偉大な植民者」リヨテの原則である。
②「植民地政策の誤りは,それぞれ[のモロッコ人]が自身の中にもっている民族感情を 恐れたことです」。/[質問者 民族主義者と協力すると「リスクは大きいと思いますが」]
「いやここに危険はありません。いいですか,このやり方はムスリムたちを彼ら自身が望む中 に封じておくことです,彼ら自身の文明から抜け出させないことです_」[質問者一「これが ベイグベデールのすべてだ。これは第2のローレンスだ!」]。
ここには,質問者も驚くほどのマヌーバーとアフリカ派の植民地主義者ベイグベデールの 姿が見える。ベイグベデールは,当時さらに「マキアヴェリストはだ」の人物とも形容され た。37年12月,ムーレイ・ハッサン・モロッコ研究所の開所式で,ベイグベデールが「[保 護国家の]ここでの使命は,植民地化でも征服でもなく,モロッコ人民の向上と進歩のため にハリーファ当局を援助することであります」と述べたとき,新所長ナーシリーは,ベイグ ベデールそれにフランコはモロッコの民族主義の歴史において特別で忘れられない記憶を残
すだろう,と讃えた。13)
既述からも窺えるように,やはりアフリカ派の他ならぬフランコもモロッコとムスリムの
友人として振る舞った。フランコの言,「モロッコの人々よ知って下さい。国民派スペインは モロッコ保護領で利己的な観点を決してもちませんでした。国民派スペインは,モロッコの 人々が以前ここスペインにもたらした文明をモロッコの人々に返すことだけをいつも切に 思って来ました...」は『モロッコの統一』でたびたび紹介された。モロッコの子どもたちが ブルゴスを訪れたとき,フランコはアラビア語で応答した(38年8月)。38年8月のカイロで のムスリム大会には次のメッセージを送って,スペインの植民地主義的意図をひた隠しにし
た。
「北部モロッコでの我々の行動はモロッコ政府とモロッコの人々とのもっとも誠実な協 力という範囲を超えるものではありません」。スペインはスルタンの独立とモロッコの統 一を守ってきたが,「権威当局の不在と諸部族のアナーキー状態」があり近辺が危険と なったので,モロッコでの「平和の回復」のために介入した。フランスがモロッコを保 護領とし,スペインは北部モロッコで保護国となるように説得されたので,「ささやかな 地位」を受け入れた。「国民派スペインが多大な関心を持ってムスリムの人々の覚醒に貢 献していることを皆さん方は知っておられるでしょう」。
PUMなど民族主義者が北アフリカ・中東でフランコを賞賛したこともあり(第III章第5 節),フランコは,これらの地域で「ハジュ[巡礼者]・フランコ」とか「マンスール[勝利 者]」などとも呼ばれるようになった。14)
39年1月,フランコは,スペイン紙のインタヴューで次のように言った 「この戦争が 終わったら,私は北アフリカの我が保護国がモロッコ帝国でもっとも栄える地域になるよう にしたいと思います」。「アフリカでの私の歳月は,言葉にならぬほど強い力でもって私のな かに今も生き続けています。偉大なスペインを立ち直らせるという可能性が生まれたのもア
フリカであります。我々が現在抱いている理想が形づくられたのもアフリカであります。ア フリカがなければ私自身もほとんど説明できませんし,軍の私の仲間のこともうまくは説明 できないのです」。これは大々的に宣伝されたものだが,半分はプロパガンダの性格をもつと はいえ,後半の「独白」は,アフリカ派軍人としての実際の心境を語ったものといえる。内 戦終了直後のフランコのベイグベデール宛電報も,モロッコ人の動員と協力で内戦に勝てた という実際の心境を含んでいる 「我々は同じ運命にあるという意識に満ち溢れ,友情と無 私で我が国民と一緒になった親愛で忠実な[モロッコの]ムスリムの人々」。15)
2.6.タンジャでの対決
タンジャは様々な対決の場だった。スペイン領モロッコの反乱派当局からすれば,共和国 政府が合法政府として国際管理委員会に代表されており,共和国支持派が活動している目の 上のたんこぶだった。逆にこの意味で共和国支持派からすれば,スペイン領に影響力を与え
8 深澤 安博
得る小さいが重要な地点だった。さらに,英・仏のみならずイタリアの政府関係者・軍人・
民間人も合法的にしかも活発に動いていた。同じことは,管理委員会に代表されないドイッ についても言えた。
スペインの両勢力はしばしば対峙し,ときに物理的に衝突した 反乱派支持派による2 誘拐事件(36年11月)/共和国支持派とフランス人民戦線支持派の合同集会,ユダヤ人も多数 参加(37年1月)/ファランへ党員が共和国支持派と見られる1人を誘拐(37年2月)/マラガ陥 落を祝うファランへ党の集会・行進。その翌日,共和国支持派が三色旗(共和国旗)を掲げ て,二色旗(王政時の旗で反乱派の旗)を掲げている建物に対して「抗議」。警察が動員され て衝突は回避(同月)/ファランへ党員がスペイン会館(Casa de Espaha)を襲撃(37年。月不
詳)/ビルバオ陥落を祝うファランへ党の示威行進,一部はユダヤ人地区・ユダヤ人商店街を 襲撃(37年6月)/サンタンデール陥落に絡んで,共和国支持派がファランへ派のバーを襲う
と,ファランへ派が仕返しの襲撃をしてカフェの客が1名死亡(37年8月)/共和国政府管理の スペイン・アラブ学校の校長への襲撃i(38年8月)/共和国支持派の日刊紙『未来』E!Po理8η r への脅迫(同月。『未来』への襲撃は以前にもあり,同じく共和国支持派の日刊紙『民主主 義』D醐ocroc αへの襲撃も以前に2回あった)/ピストルで武装した約50人のスペイン人
(CNTと連絡をとっていた)と「原住民」が警察によって逮捕された。反乱派支持派はこれ を,共和国派とフランスがスペイン領との境界を襲撃しようとしたと批難ベイグベデール は国際管理委員会に抗議の手紙を出した。他方,イスラームの1教団デルカウア教団(後述)
が関わった(CNTを裏切った)との指摘もある(38年9月)など。16)
反乱派支持派はファランへ党組織を中心に,テトゥワンの直接指導下にある拠点(「領事 館」「公使館」)を構え,共和国派を攻撃するだけでなく,タンジャでもモロッコ人の募兵を おこなった。モロッコ人には,反乱派を支持すると優先的に仕事を与える,スペイン国籍を 与えるとの「約束」を振り撒いた。またスペイン領では,タンジャには1万5千人も「赤」
が住んでいて,警察は「赤」には甘いが反乱派支持のスペイン人とモロッコ人は弾圧されて いる,タンジャの共和国派はスペイン領で陰謀を起こそうとしている,と宣伝した。さらに,
反乱派支持を表明しない(二色旗を掲げない)タンジャ居住スペイン人や企業を高等弁務官名 で「罰する」とした。他の目立った行動としては,約40人のレグラーレス部隊が一時タン ジャに侵入(36年11月)/タンジャのモロッコ人たちがテトゥワンに来て反乱派支持を表明し た後,ベイグベデールとハリーファに経済援助を要請,後者はこれに応えた(37年2月)/タン ジャのモロッコ人を「解放」されたマラガとセビーリャに招待,フランコとケイポ・デ・
リャーノが迎えた(同月),などがある。特記すべきことは,スペイン領でのモロッコ人の
「利益」「便宜」擁護政策と,既述のように反乱派がタンジャでは反ユダヤ主義をあおったこ とにより,反乱派支持のモロッコ人が増えたことである(「ムスリム原住民は,...多かれ少な かれファランへ派」,『フランス領アフリカ』37年3月号)。スーフィズムの一派であるデルカ ウア教団も反乱派に協力した。さらに,反乱派は「タンヘルはスペインのものだ(i騒nger
para Espa五a!)」と叫び,スペイン領への併合の意図も顕わにした。スペイン人の反乱派支持 派だけでなく,イタリア人水兵も共和国派を襲うことがあり(36年ll月,37年3月),イタリ
ア人コロニーも共和国派に挑戦的だった。ドイッ商船・艦隊がしばしぼタンジャ水域・港に 停泊したことも共和国派に圧迫をもたらすものだった。ドイツ兵がユダヤ人を襲ったことも
あった(37年6月)。17)
国際管理委員会の中では仏・西代表以外は反乱派の活動容認の姿勢だったので,共和国政 府代表のプリエート・デル・リオ(38年9月からはビダルテ)が反乱派の活動を取り締まるよ
う何回も要求しても効果はなかった。共和国派とくにそのオピニオン・リーダーだった前掲
『民主主義』『未来』の両紙は,スペイン領はタンジャでの「陰謀」の拠点となっている(誘 拐された共和国派の人々はスペイン領に連れ去られた)と訴え,スペイン領との境界を閉鎖 することを要求した。また彼らは,ファランへ党の脅迫(38年8月に,ファランへ党の新聞 は,「もしこれからタンジャのどのような新聞においてでもフランコへの中傷がなされるな ら,新たな仕置きがなされるだろう」と宣言した)が挑発であり,タンジャへの脅威だと訴 えた。しかし,共和国政府から任命されたタンジャ合同裁判所の検事が38年10月に反乱派支 持を表明するなど,反乱派支持派はイベリア半島での軍事的優勢を背景にタンジャでも政治 的影響力を増していった。18)
タンジャのユダヤ人の状況について既に見た(本章第2節,本節)。彼らの多くは共和国支 持だった。反乱派がムスリム住民の反ユダヤ人感情に訴えかけたにもかかわらず(あるいは,
それ故に),彼らはムスリムとの友好を強調した。「ユダヤ人の利益の擁護者」を名乗るスペ イン語隔週刊紙『真実』E〃観〃創刊号は次のように言う ムスリムとユダヤ人の対立はどう しようもない伝統ではない。「ムスリムとユダヤ人の真の必要 それぞれの諸問題を解決し て状況を改善するという必要一が何かということを我々が理解したとき,このときから,
ムスリムに親しく手を差し伸べることを我々に妨げるようなことが我々から去っていっ
た」。19)
タンジャはさらに,イベリア半島の対立する2経済圏の「通貨戦争」の場でもあった。内 戦後半には,反乱派のペセータが有力となり共和国のペセータはほとんど価値を失ってゆく。
スペイン銀行のタンジャ支店長が,共和国政府によって解任されたにもかかわらず居直った ことは,共和国派を不利にした。また,共和国と反乱派の各の政権は,タンジャにあったモ ロッコ国営銀行へのスペイン政府の代表権や同銀行の配当金をめぐっても争い合った。20)
アフリカの他のスペイン植民地の状況についても触れておく。サハラは,36年7月17日の ベイグベデールの戒厳令施行命令に総督が従ったので,直ちに反乱派の支配下に入った。イ
フニでは,総督と軍司令官がベイグベデールの戒厳令施行命令には従わなかったもののアガ ディールに逃亡,それに代わった司令官は共和国支持を表明した。36年8月中旬に,原住民 治安警備隊司令官がフランコの名で政府の建物や軍司令部を占拠,この後,軍人や民間人の
10 深澤 安博
逮捕(約70人),彼らの処刑(約10人)とカナリア諸島への追放,任務拒否の原住民治安…警備 隊員(約200人)の武装解除が起きた。スルタンも反乱派に協力した。赤道ギニアでは,総督 が共和国支持だったため初期に海から反乱派の攻撃を受けたが,これは失敗した。36年9月
に,フェルナンド・ボーの植民地軍司令官が反乱宣言をおこない,またカナリア諸島から派 遣されたレグラーレスによって10月までにはフェルナンド・ボーも赤道ギニアも反乱派に制 圧された。カナリア諸島と赤道ギニアからの食糧供給(前者から魚類・バナナなど,後者か らコーヒー・ココアなど)は,イベリア半島の反乱派地域の食料不足を少なからず緩和し た。21)スペイン領モロッコが反乱派の拠点となったことと,事実上の軍人支配地という性格に より,アフリカ植民地は内戦初期にすべて反乱派の支配するところとなっていた。
2.7.モロッコをめぐる仏・独・伊・英の牽制
周知のように,仏・独・伊・英のそれぞれの国家はスペインの内戦に深く関わった。しか し,それらの関わりはピレネーの境やジブラルタル海峡の北側(ヨーロッパ国際政治)にあっ ただけでなくその南側にもあり,むしろ,ときには後者を対決場所としていた。これらの国 家は,それぞれ独自の利害からモロッコの動向にも深く関わり,互いに牽制し合った。22)
①フランス
既に見たように,人民戦線政府であれ北アフリカ植民地についてフランス植民地主義者と 利害を一にするフランス政府の対応は,まずはイベリア半島の内戦がモロッコでのフランス の「原住民」支配を動揺させないようにすることだった。この姿勢は,スペイン領モロッコ を統治するのが共和国であろうと反乱派政権であろうと変わるものではなかった。37年2月 に『フランス領アフリカ』の編集長は,「[スペインの]内部の不和が,フランスがモロッコ でおこない追求してきたような植民地化の事業を危機に陥れていることは嘆かわしいことだ」
と述べた。これは,スペイン人が早く内戦を終えて,モロッコ人が介入する余地をつくらな いようにしてほしいという願望の表明だった。同編集長は,反乱派政権がハリーファ国家自 立化政策,モロッコ人融和政策,さらにはフランス植民地主義「批判」に出たことに対し,
1904年と1912年の西仏条約によると,モロッコでの唯一の保護権を有するのはフランスであ る,スペインは北部地域「勢力範囲」の統治をフランスから委任されているだけだからフラ ンスの承認なくして勝手なことはできない,とも主張した。23)フランス政府はこのような主張 を全面的に押し出したのではないが,反乱派政権のやり方を大いに警戒した(本章第2節)。
フランス政府のもう一つの懸念は後述のドイッの行動だった。36年10月,フランス軍参謀 本部では,スペイン領でのドイツのプレゼンスが甚だしくなった場合のスペイン領への侵入 計画も立案された。ドイツの軍事力によって北アフリカのフランス帝国(それとフランス本 土との連絡)が脅かされてはならなかった。37年1月9日,フランス政府は,1912年の仏西 条約では外国軍隊がモロッコに入ることは禁じられていることを反乱派政権に「喚起」する 公式コミュニケを出した。ベイグベデールは,このコミュニケを携えて来た在テトゥワンの
フランス領事(フランスは承認していないはずの反乱派政権の統治下のモロッコに領事を置い ていた!)に対し,モロッコに外国軍隊はいないし来る予定もない,と答えた。これを受けて フランス外務省は,外国軍隊がモロッコに上陸することの「重大な国際的結果をテトゥワン 当局は理解している」との覚書を出した(1月11日)。実際にベイグベデールや反乱派政権 は,ドイツのモロッコでの行動を対フランス牽制の要素と見ていたが,フランスとその植民 地支配を決定的に刺激するまでになることを好ましいとは考えていなかった。以上の意味で,
イベリア半島と同様に実際はどうあれ,モロッコで(こそ)フランス国家が必要としたのは ヨーロッパ諸国家の「不干渉」だった。『フランス領アフリカ』編集長が前の引用に続けて,
「とにかくフランス政府が採っている不干渉の立場は,とくにモロッコの観点からして支持さ れ維持されるべきである」と言う所以である。しかし軍事力を伴わなかったとはいえ,ドイ
ツのモロッコでの行動はフランス国内ではセンセーショナルに受けとめられた。反ファシズ ム知識人監視委員会が,ドイツ軍のモロッコへの上陸は虚偽か誇張である,このようにして 好戦的雰囲気がつくられるのは平和を危うくするものだし,独・伊の反乱派への援助から目 をそらせることになる,との声明を出したほどだった(37年1月)。それでも,内戦中,フラ ンス軍部はスペイン領への軍事行動の計画を捨てなかった。24)
②ドイツ
ドイツのモロッコへの戦略的・軍事的関与はまさにフランスが恐れた性格のものだったが,
ドイツは徐々に地歩を得ていった。36年8月にはドイツ軍艦がセウタなどに寄港し始め,同 年10月以降には,スペイン沿岸警備を理由としてドイツ軍艦がタンジャ水域にたびたび停泊
した。ドイツはヴェルサイユ条約でタンジャ港上陸の権利を奪われていたが,38年8月には この権利をフランスに認めさせた。つまり,イペリア半島の内戦を利用してモロッコでも ヴェルサイユ体制の打破に成功した。翌9月,かのドイッチラント号がタンジャ港に到着し,
300人の乗組員が上陸した。ドイツは,反乱派への援助の代償としてモロッコだけでなく,カ ナリア諸島に軍艦を派遣したり,さらには赤道ギニアやフェルナンド・ボーにも軍事的拠点
をつくろうと試みた。25)
やはり援助の代償としてのモロッコへの経済的関与もよく知られている。HISMA(スペイ ン・モロッコ運輸会社)を通じての鉄鉱石の対ドイッ輸出は内戦中に急増し,また,ドイッ は鉱山への直接投資などの利権も得た(モンタナ・プラン)。26)以上の活動にはモロッコでの ナチ組織が深く関わっていた。ナチ組織はさらに反ユダヤ主義の宣伝をモロッコに持ち込ん だ(本章第2,6節)。これは,ドイツをイスラームの擁護者と思わせ,またフランス(さら にイギリス)植民地支配「批判」をして,ムスリム・モロッコ人を引き寄せるためだった。
もちろん,これは北アフリカ・ムスリムの民族運動支援が目的ではなかった。むしろドイツ は,30年代のモロッコ,チュニジア,アルジェリアの民族運動がスペインの内戦によってさ
らに高まるのを恐れた。27)
12 深澤 安博
③イタリア
前節で見たように,イタリア軍人はタンジャで好戦的になった。また,反乱派援助の代償 としてモロッコの鉄鉱石の対イタリア輸出も内戦中に急増している。しかし,イタリア・
ファシスト政府はモロッコにそれ以上のことを望まなかった。エティオピア・リビアの植民 地支配を中心とした東地中海・北東アフリカでのイタリアの影響力が確保されればモロッコ を含めた西北アフリカについては現状維持でよかった。周知のように,これをよく表すのは 内戦に起因する2度の英伊協定(37年1月,38年4月)である。イギリスが主導した2度の協 定は,モロッコに関して,スペイン領モロッコでのイタリアの領土的・政治的・経済的要求 の放棄と,ドイツが地中海で新たな地歩を占めるのを認めないことを約した。フランス政府 は,当然ながら英伊協定を歓迎した。28)
イタリアは,イベリア半島の内戦のはね返りで北アフリカの民族的要求が高まることを抑 えることと,他方でそれを英・仏の植民地支配の反発へとそらすことをドイッの場合以上に 追求した。ローマで作成され,28言語で書かれ,37年末に全アフリカとくに北アフリカで多 く撒かれたビラは次のように言った一「...あなた方のモロッコの兄弟たちは解放の事業に踏 み出しています。スペイン国家の長フランコ将軍は,ドゥーチェに感化されて,他の人民を 隷従させているのは偉大な人民にふさわしいことでないことを率直に認めています。フラン コ将軍はモロッコ住民に独立を与えることを約束しています。フランコ将軍は,必要な武器 をモロッコ住民に提供しています。モロッコ住民は,彼らの残虐な抑圧者たちを打倒するた めスペインの戦場に馳せ参じています。ほかにも抑圧者がいます。フランス,イギリス,べ ルギー植民地の抑圧された人民の解放 これが私達の目的です。ドゥーチェによって救わ れるこれらの人民はアフリカ・ファシスト帝国を形成することになるのです。_」。やや長く 引用したのは,上掲の目的のために反乱派のモロッコ政策が宣伝の好材料として用いられて おり,また,アフリカ人は結局イタリア国家の支配下に入ることが要求されているからであ
る。29)
④イギリス
英伊協定に見られるように,イギリスの対モロッコ・西地中海政策が現状維持を求めるも のだったことは言うをまたない。とくに,ドイツの行動を牽制することでイタリアを引き込 んだことは成功だった。39年1月の『フランス領アフリカ』が,イギリスの対伊政策を「地 中海のミュンヒェン」と呼んだのはほぼ当たっている。イギリス政府が内戦の当初からモ ロッコで反乱派を「認知」していたことは,タンジャ港の件に表れていた(第1章第3節)。
37年11月15日のブルゴスでのイギリス通商代表部設置はイベリア半島での反乱派の事実上の 承認だったが,その翌日,イギリス軍艦がセウタ港を訪れ,セウタとテトゥワンで反乱派当 局から歓迎を受けた(イギリス領事もテトゥワンにいて,歓迎会に出席)。イギリス国家関係 者のモロッコ反乱派当局の公式訪問は初のことで,これはモロッコでの反乱派の事実上の承 認だった。イギリスのこのような対応の影響力は大きく,アフリカでは,ほぼ唯一の「独立
国」エジプトで,反乱派政権に代表部を設置する提案が議会でなされた(38年5月)。30)
不干渉委員会での外国人兵撤退の議論に関し,共和国政府は外国人兵にモロッコ兵も含め るようイギリス政府に覚書を出した(37年3月)。しかしイギリスは,不干渉委員会はスペイ ン領モロッコに権限をもたないとしてこれを拒否した。他方,反乱派政権もこれを拒否する よう独・伊政府に要請したので,共和国の提起は実らなかった(共和国は,38年7月にも不 干渉委員会に同様の要請をした)。植民地は自国領というのがヨーロッパ諸国家の前提だった から(共和国もこの前提を崩していなかった 第IV章参照),不干渉委員会の誠意や実行力 のなさを別にしても,この提起の実現はきわめて難しかったと言わねばならない。ヨーロッ パ諸国家間の牽制のモロッコへの反響ということでは,38年9月の「ミュンヒェン危機」の 際のモロッコでの反乱派当局の対応がある。英・仏と独・伊が対抗するかも知れぬ局面を前
にして,ベイグベデールは民族主義者たちに,反乱派統治下でモロッコは「そう遅くない時 期に自由を享受できる」と懇願にも似た約束を繰り返したのである。31)
llLモロッコ民族主義者の対応と論理
3.1.反乱派支持の論理
スペイン内戦の発生の頃,スペイン領CANは,ほとんどが都市部にいる約2千人の加盟者 を擁するそれほど大きくない組織だった。PRNとPUMが設立され,反乱派を支持するに 至った経緯にっいては既に見た。37年2月,トレスに次ぐPRNのリーダーでPRNテトゥワ
ン委員会の代表ベンノーナは,PRN系新聞『エル・リブ』で次のように説明した 我々 は,我々の独立と自由を勝ちとるために多大な努力をする必要がある。「[反乱派の]統治権 力者が我々に援助の手を差し伸べようとしており,我々に若干の自由を付与しようといくつ かの方策でもって我々を援助しようとしており,我々の独立を回復しようとしているのだか ら,統治権力者が相互に助け合うことが不可欠の条件だと言っているのなら,我々が彼らに 援助の手を差し伸べるのは当然ではないだろうか」。32)
PUMは, PRNと競うかのように(競わされて),さらに熱烈に反乱派統治を讃えた。以下,
ナーシリーのいくつかの発言 モロッコ人はイベリア半島の内戦で傭兵として闘っている のではない。「我々のスペイン当局への信頼は限りないものです。スペイン当局の誰もが我々 の要求を認めてくれています。誰もが我々の問題を解決しようとしてくれています。...ベイ グベデール氏は,その役職にもっとも適した人物です。その名声はフランコの名声にも劣っ ていません。彼より他にモロッコの問題をよく知っている人はおりません。...彼の政策は 我々両人民の間の友好を深めています...」(バリャドリーのファランへ党機関紙での会見,
1937年)/国民派スペインとの関係は公然としたものである。「.国民派スペインは,保護領が
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ずっと続くものではないしそうはありえないことを知っています」。同時に国民派スペイン は,モロッコ人民が「遅かれ早かれいつか完全な独立を回復することを知っています...」(38
年3月のテトゥワンでの演説)/「我が愛する祖国のために我々に与えられたどのような機会で も利用しないわけにはいかないと思った」ので,我々は新国家との関係をもち始めた。「スペ イン新国家の代表と連絡をとるに際しては,我々ははじめから彼らに,新しい方向性や我々 の問題を完全に理解すること,またモロッコの大義に愛着をもってほしいと警告した」。「今 日,この[スペイン領]地域の状況はこの上なく良い。...我々モロッコの愛国者は,スペイ ンの人民戦線がそのフランスの兄弟よりもっと人間的で寛容であろうとは想像できない。な ぜなら,政治的経験がはっきりと示すところによると,スペインの以前の政府の指導者たち はフランス帝国主義といっも一緒だったから_」(『モロッコの統一』,38年8月)/39年1月の フランコのインタヴュー(第II章第5節所引)へのコメントー「フランコは,ただ場当たり 的に軽々と約束をして,その目的が適ったらすぐにそれを忘れてしまう男ではない」(同,39
年1月)。33)
ナーシリーの発言が多いのは,後述(本章第2節)のように,この頃,反乱派当局がPRN よりPUMを持ち上げていたという事情がある。さらにナーシリーの発言については,スペ イン紙上ということをもちろん考慮しなければならないし,また,38年になっても反乱派当 局との関係を説明しなければならないことからして,PUM内外に反乱派との関係にっいて一 般的な疑問が存在したという推測も可能である。民族主義者の中で,当初から反乱派への非 協力を主張しそれを貫いた者はいなかったのだろうか。後に反乱派当局の有力者は,「...潔白 な人物で,それ故,けっして我々の側に帰順させることができなかった_」指導的民族主義 者(ダーウード)がいたことを証言している。しかし,少なくとも37年春ころまでは(やはり 本章第2節で後述),このような人物たちの主張が表面に出ることはなかった。34)
それでも,PRNにもPUMにも反乱派軍の兵士となってスペインで闘おうという呼びかけ は見られない。民族主義者の影響力がほとんど都市部に限られていたという事情があるにし ても,彼らの反乱派支持はモロッコにとどまるものだったことがわかる。
3.2,民族改革党(PRN)とモロッコ統一党(PUM)
(1)PRNの指導者トレスはテトゥワンの資産家家族の一員であり,彼の父親はテトゥワン のパシャだった。前掲ベンノーナも父親の「貴族的民族主義」(レゼット)を継いでいた。
PRNは,資産家や行政官などのムスリム名士を多く抱え,指導部には血縁関係で結ばれてい る者が多く,そのメンバーはほぼテトゥワン地域に限られていた。37年3月,PRNは機関紙
『自由』の創刊号で次のような目標を掲げた一イスラームへの奉仕,汎アラビア主義,祖国 への奉仕,祖国の富を侵入者に渡さない,唯一の祖国の統一のために闘う,モロッコ王権の 擁護。以上は,36年のフランス領CANとの合意(第1章第4節)にほぼ沿ったものである。
トレスらは,反乱派と接触した最初の民族主義者だっただけでなく,36年11月のテトゥワン
でのファランへ党集会にトレスが議長として加わるなど,PRNの正式創立以前からモロッコ のファランへ党組織と協力していた。37年1月には,ファランへ党を擬した私兵集団である 緑シャッ隊も組織されたが,そのメンバーが数百名を超えることはなかったようだ。とにか
く,トレスがハブス担当相に就任した36年12月から37年3月頃まで,PRNは民族主義者の代 表勢力であり,また,PRNは反乱派当局と協力して利益を得たように見えた。35)
しかしこの37年3月に,トレスはハブス担当相を辞任する。モロッコ人の自治といっても 結局,原住民部の命令に従うものだったというのが理由である(第II章第2節)。この辞任に 反乱派当局が困惑した様子はない。この辞任は,上掲の理由とともに,反乱派当局がPRNに 対してPUMをぶつけ,むしろPUMを持ち上げ始めたことへのトレスの不満によるものでも あった。これ以降,PRNは反乱派当局に協力するどころかむしろ批判派となった。トレスは 反乱派に約束を果たすよう要求した。トレスは,37年8月のベイグベデール宛公開書簡で,
PRNには規制が加えられPUMには便宜が与えられることに抗議し,「約束された我々の自由 はどこに行ったのか」と詰問した。PRNのメンバーが反乱派批判を公然と表明することもし ばしばあった。37年にPRNの何人かのメンバーは,「トレス万歳,モロッコ万歳,スペイン くたばれ」と叫んだことによって追放・収監されたり,亡命した。フランス領モロッコでの メクネシュ事件のとき,テトゥワンでもスペイン人植民者による泉水専有に対してモロッコ 人が抗議し,3人が逮捕された。PRNは抗議の示威行動をして,この3人を釈放させた。ト レスは一時,再び自宅に幽閉された。38年2月にニコラス・フランコがテトゥワンに来たと き,PRNのメンバーが「フランコくたばれ!我が兄弟の殺人者に死を!」と叫んだ。同年6月 にもテトゥワンで同様のアピールがあった。38年12月になってもトレスは,「モロッコ人の友 好国[スペイン反乱派]は,大事なことを怠慢でしていない...。...スペイン政府のやり方は 疑いもなく遅いということだ」と批判した。PRNは,モロッコ人のスペインの戦場からの引
き揚げをも要求した 「どうしてスペインの争いに加担しなければならないというのか。こ れはモロッコには関係ない」(『エル・リブ』37年5月)。ナーシリーが所長のムーレイ・ハッ サン・モロッコ研究所の6人のモロッコ人教員が「反フランコ宣伝」の廉で逮捕されたが
(37年末か38年1月),これにもPRNが関係していると推測される。 PRNは,イタリア国家 のリビア併合の決定に対しても,「アラブの統一が破壊された」との批判を表明した(『エ ル・リブ』38年12月)。ベイグベデールは個人的にはトレスとの関係を保ち続けようとした が,内戦の大半の期間中のPRNは,非合法化されることこそなかったとはいえ,以上のよう
な状況だった。36)
(2)『モロッコの統一』スペイン語版創刊号は,「民族的・モロッコ的思想の機関紙」,「イ スラーム!祖国!」「唯一にして不可分のモロッコ」のスローガンを掲げた。また,まずムス リムで次に民族的である,それ故,左翼でも右翼でもないとも言った。当初から鮮明なのは,
宗主国との「協力的民族主義」である。いわく,過去25年間,自分たちは保護国家国民と相 互に協力し真の理解に達することはなかった,今,「この特別な状況の中で」スペインとモ
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ロッコの理解の政治が始まる,我々は新しいモロッコを知らせるのだ,しかし我々はスペイ ンの国内政治には介入しない,など。反乱派当局との協力路線はPRNよりずっと明確に打ち 出された。そもそもスペイン語版『モロッコの統一』の発刊自体がこの目的の一環だったし,
これはまず間違いなく反乱派当局の示唆によるものだった。他方,とくに当初はPRNへの対 抗心が表された。トレスは,イスラームの民主主義的原則を放棄している,スペイン軍人の ために働いてモロッコの独立を勝ちとるためとスルタンのために働いていないと批難され
た。37)
組織と運動をモロッコ人の間に広げることもPRNより意識的におこなわれた。テトゥワン をはじめアルシラ,ララーチェ,シュシャーウエン,アルカサルキビールなどにPUMのク ラブやセンターが開設された。もっともこれらの場に集まったのは地域の名士たちが多かっ たようだ。PRNが近づかなかったスルタン非支配地域でも若干の支持を得た。 PRNから移っ てきたメンバーも少なくなかった。以上からして,全般的にPUMのメンバーや支持層は PRNのそれらより低い社会層のモロッコ人から成っていた。さらに,スペイン語版『モロッ
コの統一』編集長タムサマー二とその兄弟はかのアブド・アルカリーム軍の元幹部だった。
彼らがPUMに加わったことは, PUMがリブとイエバラ(スルタン非支配地域多)で支持を
得る一要素だった。38)
さらに,PUMはPRNよりその民族主義を理論化していた モロッコ民族主義は民族的 なものであって階級闘争ではない。我々の民族的問題は共産主義でもファシズムでもない。
近代的精神に対する伝統的要素の戦いでもない。それでは「我らのイスラーム民主主義の諸 原理」とは何であるか。それは,純粋にモロッコ的な民主主義体制で,人民の信任を得ない 政府の行動は効力をもたないとするものである。現在のモロッコの衰退は主に人民的要素の 側からのイニシアティブの欠如による。保護国になる以前は,人民が直接に選んだのではな い少数者によるスルタン権力がすべてだった。スルタン権力への人民の従属が保護国への前 提条件をっくった。だから我々は,モロッコ人が参加する各種の行政機関の創設を要求する。
我が人民は独立を担保に入れたのではないから,我々の文化水準が向上したら,「成年に達し たすべての者にふさわしい行動の自由を全面的に獲得するその日を待っている」。それでは,
これをどのようにして実現するか。我々の協力的民族主義は革命的ではなく平和主義的で,
国際的条約を遵守する。あらゆる合法的手段で保護国家による直接統治と闘う。これは,
ヨーロッパの侵入に対するモロッコでのあらゆる革命が失敗したことを知っているからであ る。ヨーロッパに対する我々の物質的劣等性を知っているからである。だから,武器よりも 文化・学校・書i籍・新聞で宣伝してゆく。39)以上から,PUMが人民的民族主義,平和的闘争 論を掲げたことがわかる。ただ実際の運動では,反乱派当局の歓心を買うためもあってか反 共産主義が強く打ち出された。農村の荒廃と農民の搾取がひどいので「共産主義の危険」が 芽生えている,新スペインが農村の状況を根本的に変えてくれることを期待している,スペ インで闘っている兵士の多くは農村から出ているのだ,など。PUMは,ムッソリー二をイス
ラームの擁護者と見て,イタリアの北アフリカ・ムスリム政策も支持した。40)
以上の民族主義理論を展開したのは,PUMがモロッコの社会・経済についての認識を若干 でも持ち合わせていたからだった モロッコなど北アフリカ諸国では,ヨーロッパの物品 に押されて手工業が危機に陥っている。これが購買力低下,経済危機,失業の原因となって いる。協同組合化などをして手工業の再生が必要である。農民(fellah)は「国の神経であり基 礎」だから農民を保護しなければならない。この意味で,37年8月にスペイン反乱派地域で 出された小麦の生産・流通と農民「保護」に関する政令がモロッコに適用されないのは遺憾 である。さらにモロッコ社会の問題としては,人身売買・奴隷など「いくつかの誤った信仰 や行為」からモロッコ人を解放しなければならない。41)
PUMは,新スペインが「改革されたモロッコのスルタン政府のモデル」をつくるだろうと 期待した。以上の民族主義と現状認識に基づいて,PUMの立場と要求が37年12月の「基本的 政治宣言」と「要求」にまとめられた。「宣言」「要求」は,事前にハリーファの了承を得た うえでテトゥワンで開催された党員集会で発表され,そこで承認された後,ハリーファと高 等弁務官に提出された。これは,CANが34年に提起した「改革プラン」(ナーシリーはその 作成委員の一人だった)のスペイン領版と位置づけられた。以下,「宣言」と「要求」の主内 容をフォローし,必要な場合のコメント([]内)を付しておく。42)
「モロッコの統一」運動の基本的政治宣言
①イスラーム主義②汎イスラーム主義③アラビア主義 モロッコにおいては「新たにモ ロッコ人をベルベル化するあらゆる試み」(=アラブ系人とベルベル系人を分ける)と闘う。
アラビア語が唯一の公用語。ベルベル語は局地使用言語で文化・科学・文明を代表していな い(文字をもたない)[フランス領の「ベルベル勅令」のようなモロッコ人分断化への警戒。
しかし,実際に存在するペルベル系人・地域の問題は残る]④汎アラビア主義⑤アラウイ王 家支持。「王のための人民,人民のための王」⑥「無知による隷従」・貧困・外国帝国主義から のモロッコ人民の解放。モロッコ人民の「欠点」にも目を向ける。「諸社会階級間の真の均 衡」をつくってモロッコ人民がLつの家族」になるようにする。「最上にして唯一の長」は スルタン[モロッコ諸社会階級は調和できるか]⑦フランスに対して スルタン政府への 援助と改革が終わったら保護国状態は無効となり,モロッコは完全独立を回復する。フラン スは征服,占領,帝国主義,同化の政策をおこなっているので,これらに全力で反対⑧スペ インに対して一スペイン政府は征服,帝国主義,同化の政策をしていず,モロッコ人の声 を聞きその要求を満たす政策を採っている。PUMは理解,協力,「健全な批判」の対応をし ている。1912年の仏・モロッコ条約が廃棄されたら自動的に同年の西仏条約も無効となり,
モロッコの独立が宣言される。セウタ・メリーリャについては現状維持[対スペイン要求は
やや妥協的]。