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精神の定在としての言葉

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(1)

長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第23巻 第1号 一‑二十五(一九八二年七月)

精神の定在としての言葉

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‑ Z u r   H E G E L S   P h a n o m e n o l o g i e   d e s   G e i s t e s

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I

ヘーゲル哲学において﹁精神Geist﹂とは何であるか‑という問いに︑我々はどこから︑そして何をてがかりとして

近づくことができるであろうか︒

小論において︑我予は﹁言葉は精神の定在である(精神は言葉においてそこにあるようになる)dieSprachealsdas 12 D a s e i n d e s G e i s t e s ﹂ と い う ﹃ 精 神 現 象 学 ﹄ に お け る 規 定 に 注 目 し た 3 . 0 以 下 ︑ 主 に ﹃ 精 神 現 象 学 ﹄ 序 文 V o r r e d e に

定位して考察を進める︒

(2)

I

‑﹃精神現象学﹄におけるヘーゲルの思索は常に一貫して﹁精神Geist﹂とは何であるかを自ら言い表わしaussprechen,

ausdriicken︑叙述するdarstellenことにおいてなされたものであった.そのことは︑あるいは全‑自明のことであると

言われるかもしれない︒しかし︑我々ははじめに︑ヘーゲルの思索が常に﹁精神﹂というものをめぐってあったというこ

とと同時に︑その思索は︑﹁精神﹂とは何であるかを言い表わし︑叙述することにおいて︑そしてその言い表わし︑叙述す

ることそのものへのふりかえりにおいてなされたものであることに注意を換起しておきたい︒

というのは︑ヘーゲルが﹁精神﹂と呼んだものは彼にとって︑自らがそれを言い表わし叙述することをはなれては︑そ

の定在の場をもちえないものであったと思われるからであ凍︒それは︑およそ﹁学Wissenschaft﹂というものがそ 3 の叙述ということをはなれてはありえないのと全‑同様であふ︒しかも︑﹁精神(それは﹁異なるものdasWahre﹂︑﹁絶

対的なものdasAbsolute﹂と呼びかえられる)﹂とは︑それを言い表わし︑叙述すること︑したがってまた︑認識する

ことをはなれて︑それ以前に自らの眉体存在を保持しているようないわば記述対象ではない︒それは︑言い表わすこと︑

4 叙述すること︑認識することを﹁道具﹂として︑それによって捕えられて‑るような対象ではない︒むしろ︑言い表わし︑

叙述し︑認識することそのこと自身が真実成立しうるところーそこにおいてのみ﹁精神﹂はそれ自身にとって顕わsich

offenbarになる︒﹁精神﹂があかのは︑﹁精神﹂がそれ自身にとって顕わであ朝︑それが自らを自ら自身のうちにうつし出

5

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︒ ヘ

ー ゲ

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次 の

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に 言

う ︒

﹁(精神が何であるかが精神自身に対してfursichあるようになるとき)精神の自己産出は‑‑同時に精神にとって

対象的な場となり︑そこにおいて精神は定在を得︑そしてこのような仕方で精神は定在することにおいて眉らに対してぁ

︑6 る

よ う

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と な

嵐 ︒

そしてへこのことが成立する場は'他ならずそれが言い表わされ︑叙述されるという場︑すなわち︑言葉ないし言葉の

(3)

使用という場であったと思われる︒

しかし︑他方ヘーゲルにとって﹁真なるもの﹂︑﹁絶対的なもの﹂とも呼びかえられる﹁精神﹂というものを︑いわばヘ

ーゲル自らの私的表象のesoterischな圏域においてではな‑︑まさにeXOterischな場面において言い表わし︑叙

述するということはいかにして可能になって‑るのか︒その叙述そのものの可能性はヘーゲルによっていかに思惟されて

いたのか︒およそ﹃精神現象学﹄におけるヘーゲルの企てそのものが︑﹁絶対者﹂とか﹁神﹂についての他の多‑の人々

の悪意的な﹁断言(私的表象の結合・分離)﹂に再び新たな﹁断言﹂をつけ加えることにすぎないのではないか‑ ︒ヘ

ーゲルはいかなる根拠にもとづいて︑私的表象の立場︑すなわち知的直観︑直接的表象の圏域のうちで﹁絶対者﹂とか

﹁神﹂について喋々し︑それにはって何か意味あることが語られ︑言い表わされたかの如‑私念する立場と自らとを峻別し︑ 7 それらの立場を批判しえたのか‑ ︒

ここに我々は﹁精神﹂というものをヘーゲルが叙述してゆ‑際の︑一種の錯綜した構造を見ることができよう︒その叙

述において彼は︑﹁異なるもの﹂すなわち﹁精神﹂が何であるかを言い表わし︑叙述することそのこと自身に対して無批判

的であることはできない︒むしろ︑先の私的表象の圏域のうちでの﹁断言﹂や﹁論弁Rasonnieren﹂が決して﹁精神﹂

をそれ自身にとって顕わならしめるものではないこと︑そのことを批判的に解明してゆ‑ことが︑同時にヘーゲル自身に

とっての﹁精神﹂の叙述の場がいかなるものであるかを規定してゆ‑ことである︒ 8 2ヘーゲルは︑この私的表象の圏域のうちで浮遊する﹁表象的思惟dasvorstellendeDenkenJというものの根

源に︑およそ何かを言い表わし︑語り出す(判断する)ということの︑いわばゆがめられたあり方がひそんでいることを

見抜いている︒すなわち︑そこで厄︑およそいかなる言葉の使用においても︑その根底SubstanPに︑そしてそれ以前

に.﹁知る自我daswissendelc町﹂なるものが﹁形式的思惟﹂あるいは﹁思惟され︑思惟する実体﹂として前提されて 2 いる︒そして︑この﹁自我﹂なるものがそのつど自らに﹁表象された主語﹂に対して︑これまた表象された述語をそのつ

ど何か私的な仕方ではりつけるheftenのであり︑さらにそのことが︑そこでは︑何か︑言い表わすこと︑語り出すこ と︑すなわち判断することとされてしまっている︒

精神の定在としての言葉

(4)

しかし︑およそ何かを何かとして言い表わし︑語り出すことの根底に︑このような﹁形式的思惟﹂ないし﹁論弁的思

惟﹂︑さらには﹁自我﹂なるものを前提し︑そこをもって言葉の使用の(したがってまた経験の)拠点とするとき︑思惟す

るとは︑私的表象の私的で悪意的な結合(あるいは分離)という訂oterischな圏域を1歩も出ることはできないであ

ろう︒ここにおいて︑言葉はおのおのの﹁自我﹂の多様で私的な表象がそれに託されるような︑いわばその乗り物の如きも のへとゆがめられてしまっており︑したがって︑ここで︑言い表わし'判断するとはへ各人が各様にいわば自らの不定形 の粘土細工をそのつど結合したり︑分離したりする︑それ自身不定なる遊戯以外のものではありえない︒そしてその限り︑

或る言葉におのおのの﹁自我﹂がいったい同じ表象を託しているのか否かはおよそ問われえないし︑それどころか︑こ のような思惟は語り出し︑言い表わすことにおいて自ら自身が実際に何を行なっているのかを自らにとって顕わにすること はおよそ不可能である︒ヘーゲルはへこの︑表象から表象へ︑表象をたよりに進む他はない﹁表象的思惟﹂の不毛を端的

に見抜いている︒

ところが︑先に述べたように︑﹁精神﹂がそれ自身にとって顕わとなり︑自らを自ら自身のうちにうつし出すということは︑

それが言い表わされ︑叙述されるという場をはなれてはありえない︒‑とすれば︑ヘーゲルにとって︑﹁精神﹂が何であ るかを言い表わし︑叙述するということは︑その言い表わし︑叙述するということそれ自身のうちに真実いかなる構造が

あるのかを︑まさに言い表わしてゆ‑ということに他孝りないであろう︒﹁精神﹂がそれ自身のうちにうつし出されてくる︑

ということが可能になるのは︑まさにこのような叙述によってのみであろう︒

言い表わすということそれ自身への反省Reflexionが︑ついには何か︑もはや言い表わしえないものに行きつく︑とい

うのでは決してな‑︑すなわち︑そこでは︑言い表わしえないものがおのおのの﹁自我﹂によってその乗り物としての言 葉に託される︑というのでは決してな‑︑言い表わすということそ事自身のうちに︑その言い表わすということが顕わにな ってくるとき(それはまた︑私的表象の結合・分離ということとの区別において︑真実﹁判断﹂ということが成立すると

き︑とも言える)︑そのとき﹁精神﹂︑すなわち言葉をその定在とし︑言葉においてはじめてそこにあるようになる﹁精神﹂

は︑自らにとって顕わとなり︑自らを自ら自身のうちにうつし出すreflektierenようになるであろうOまた︑ヘーゲルが

(5)

l

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J

7

di eL og ik od er sp ek la ti ve Ph il os op hi c)

と呼ぶ所以もまたここにあるのであろう︒

3では︑言葉においてはじめて定在するようになる﹁精神﹂そのものを言い表わし︑叙述してゆ‑ということはヘー ゲルによっていかなることとして遂行されるのか︒‑この問いに対して︑まずは︑それは﹁意識の経験の学﹂としての

dasunittelbareDasein

CnU

desGeistes﹂であると言われるからである︒しかし︑それはいかなることか︒

ここで︑意識の経験を叙述するとは︑意識が直接的な仕方で(すなわち︑自らの何であるかを自ら自身のうちに全き仕

方でうつし出してはいないにせよ'しかし意識がすでに)それであるところの﹁精神﹂が何であるかを言い表わし︑叙述す

ることである︒そして︑意識が精神の直接的定在である︑と言われるのは︑﹁意識の経験のうちにあるもの︑それはただ精

神 的

実 体

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意 識

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であるような仕方で﹁表わされsichauBernj︑意識自身によって︑自らが自ら自身であることの実体・基(いわば

Su bs ta nz se in er se lb st )

Ei ge nt um de sB ew uB ts ei n 運動を指して言われるものに他ならないからである︒したがってへ意識の経験の叙述とは'その経験そのもののうちにす

ヽ︑

でにansich︑その経験を可能ならしめるものとして存していた精神的実体が︑意識自身によって﹁自らのもの﹂として

透明化されてゆ‑運動そのものの叙述である︑と言えよう︒

しかし︑この意識の経験ということそれ自身が成立するのは︑それが︑意識の自ら自身に対する言表︑叙述としてある

限りでのことである︒すなわち︑﹃精神現象学﹄における叙述は︑何かfunctionboxの如きものとしての意識のなかに︑と

もか‑も何かが生起し︑次いでそれが叙述者によって記述Iされる︑という仕方であるのではない.叙述者はある意味では

2

0

意識そのものであり︑すなわち︑意識が自ら自身を吟味する(のである︒意識は自ら自身に対してfursichselbst言い秦

わしている限りでのことのみをそこで経験しているのであり︑そしてまさにそのことが︑意識の﹁自己吟味﹂ということ

(6)

そして︑自らを自ら自身のうちにうつし出してゆ‑とい‑ことは︑いかにしても成立しえないことであろ‑︒この︑意識の

自己吟味ということは︑何か言表以前の﹁内省﹂というようなこととは全‑別のことがらである︒自己吟味とは︑自らが 自らに対して言い表わしていることそのものの吟味以外のものではない︒

しかし︑それにもかかわらず︑意識には︑そのつど自らがなしている﹁言い表わす﹂ということそれ自身が見えていな い︒すなわち意識はそのつど向ほどかのことを自らに対して言い表わしながらも︑しかし︑いわばその﹁言い表わす﹂と

いうこと自身のかたちは︑そのつどその内容のうちに見えな‑されている(意識が﹁精神﹂の直接的定在である︑と言わ

れることの意味はここにある)︒

そうであれば︑意識の経験を叙述するとは︑すでに自らに対する言表︑叙述として成立しているその経験のうちに︑そ

のつど(﹁言表すること自身のかたち﹂を顕わならしめてゆ‑ことであると言えよう︒﹃精神現象学﹄における意識の経験

の展開(それは先に述べた︑意識の自己吟味ということに他要らない)が︑そのつど︑﹁自体存在﹂︑﹁対日存在﹂︑﹁こ︑

﹁多﹂といった︑ヘーゲル的な意味でのカテゴリー(﹁単純な思惟規定﹂)に即してなされてゆくことは明らかである︒先に︑

﹁意識の経験のうちにあるもの︑それはただ精神的実体のみである﹂と言われた際の﹁精神的実体﹂ーとは︑まずは︑この

よう皇愚昧での﹁言い表わすことのかたち﹂としての思惟規定︑カテゴリーを意味していたと亭えhS.意識は︑すでに自

らに対する言表として成立している自らの経験そのもののうちにある﹁言表することのかたち﹂︑さらに﹁思惟すること

のかたち﹂(精神的実体)それ自身を自らに対して透明化すること︑それを﹁自らのもの﹂とすることによって自らの経験

5u

を展開させうるのである.ヘーゲルが﹁概念の努加﹂という言葉で語ったことは︑そのことに他要らない︒

ここで︑今述べたことが可能であるのは︑たしかに︑意識というものが再帰性︑自らへのたち帰りReflexioninsich

selbstという運動である限りでのことと言わねばならない︒しかし︑この時忘れられてなら憂いのは︑この再帰性という

ことは︑意識そのものがすでに言表という地平において成立しているということと切りはなしえない︑という点である︒

すなわち︑ここで何よりも注意すべきは︑この言葉ないし言表という地平にあるということそれ自身が︑すでにこの地平

において自らのなしていることを自らにとって透明化することそれ自身をも可能にしている︑という点である︒この地平

(7)

にあるということがそのまま﹁精神﹂的たることに他掌らないと言えるが︑しかし同時にへまたそのことが︑自らの﹁精 神﹂たることの知の可能性をも支えているのである︒﹁精神﹂(あるいは︑その直接的定在としての意識)が︑自らを自ら 自身のうちにうつし出してゆ‑ということへまた︑自ら自身へたち帰ってゆ‑と3;フことも︑このような仕方において︑

削ュC ・ J

このような地平においてはじめて成立することであると言わねばならないであろう︒

‑ ・土思誠の再帰性︑自らへのたち帰りの運動というものが︑何か﹁意識の事実﹂といったものとして固定化︑平板化さ

れるとき︑﹁精神﹂とは何かという問いは'かえって見えな‑されるように思われる︒先に述べた︑意識の経験というもの

が︑それ自身︑自らに対する言表としてしかありえないということ︑さらに︑その再帰性ないし自己関係Sichselbst・

beziehenというものが︑言葉・言表という地平においてのみ成立しうるということ‑実際このこと自身がいかなるこ

となのかが根本から問われねばならない︒それは︑言葉が﹁精神の定在﹂である︑とはいかなることか︑という問いであ

る︒

しかし︑我々は以下での論述を﹃精神現象学﹄序文において語られる﹁精神﹂の規定の考察に限定しよう︒そして︑そ

こで語られた﹁主体Subjekt﹂たる限りでの﹁実体Substanz﹂としての﹁精神﹂の概念を考察することを通じて︑この

﹁精神の定在としての言葉﹂という問題に近づ‑ための基本的な手がかりを得たいと思う︒そしてまた逆に︑﹁自らを外化

sichentauBernして他となり︑しかもこの外化からそのまま自らのうちにたち帰る運動﹂という仕方で語られる︑﹁主

体﹂たる限りでの﹁実体﹂としての﹁精神﹂というものの構造は︑その定在たる言葉へのふりかえりを通じて我々にとっ て近づきうるようになると思われる︒

そして︑この自らの経験のうちにすでにansichあり︑その経験の根底に経験それ自身を可能にする根拠Substanzと

(8)

^

J

してあるこの精神的実体を'自らに対してfiirsich︑自ら自身の基として対日化し︑それを﹁自らのもの﹂としてゆ‑

運動こそ﹁経験﹂と呼ばれる当のものである︒そして︑このような運動︑すなわち経験によってへその基としてすでに

根底にあった実体が意識自身にとって全‑透明にされたとき(そのとき意識は全き仕方で﹁精神﹂である)﹁嘆体﹂は﹁主

ATワ̲

体﹂と呼ばれるのである︒あるい厄︑﹁自らのぅちにたち帰り︑自らを自ら自身のうちにうつし出している対象﹂︑さら㌍

u

>

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﹁自らの実体・基を知っている精袖﹂が﹁主俄﹂︑すなわち﹁精神﹂としての﹁精神﹂である︒﹁実体が本質的に主体であき

6B

ということが示されたときに﹃精神現象学﹄は︑それをもって終る︑と言われbO gが︑それは﹁精神の完成とは︑精神が何

h ソ ̲

であるかを︑すなわち精神が自らの実体・基を知ることに存すふ﹂と言われるのとひとつのことである.

そして︑前節で指摘したように︑このことが可能になるのは︑まさに﹁精神の定在﹂と言われる︑言葉という地平にお

いてである︒単純化して言えば︑この言葉という地平こそ﹁実体﹂が同時に﹁主体﹂たりうる地平︑﹁精神﹂が﹁精神﹂と

a E q

して成立しうる地平である︒しかも︑本来的に﹁実体﹂︑﹁精神的実体﹂とは︑この︑言葉ないし言葉の使用ということそ

れ自身のうちに︑そしてそれ自身のうちにのみある︑と言えるものである︒

しかし︑そのことはさらに厳密に言えばどのようなことなのか︒およそ﹁意識﹂ということに関する次のような二元図 式は︑どこまでも︑意識そのものに︑自らの何であるかの透明化をあおうものとしてつきまとうであろう︒すなわち︑感

覚的事物であれ︑信仰の対象たる神であれ︑とも価‑もそれらのものは︑﹁知る﹂という何か主観的な営みに対して﹁媒介

. ︑ 引=

さ れ

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に︑﹁知る﹂ということの︑また意識ないし自己意識の﹁媒介されざる直接性(それらの直接的確実性)﹂がある︑と︒

﹃精神現象学﹄序文における﹁実体=主体﹂という把捉は︑まずはこの二元図式の批判という仕方で語られるが︑その際

ヘーゲルの論点は︑媒介と無媒介・直接性という点に集中する︒そしてこの間題はとりもなおさず言葉︑ないし言葉の使

用という場面での問題であろう︒

2ヘーゲルは次のように言う︒

﹁私の見るところによれば‑それは体系そのものの叙述によってのみその正当性を証されるべきものであるが︑‑

(9)

すべては次の点にかかっている︒すなわち︑異なるものを実体としてでは登‑︑全‑同様に主体として把握し︑言い表わ

すというこの一点である︒同時に注意されるべきは(いま言われた実体の)実体性が︑存在であるような直接性︑すなわ

ち ︑

知 る

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まず第1に注意すべきことは︑何か叙述以前のヘーゲルの﹁見解﹂というものがさしあたり堅固な前提としてあって︑

それがおのおのの叙述に適用されてゆ‑︑というのではないことである︒むしろ﹁真なるもの(それは﹁精神﹂と呼びか

えうる)を実体としてではな‑︑全‑同様に主体として把握し︑言い表わす﹂ということそれ自身は︑他ならず体系の叙

述としてのみ遂行されうるのである︒その叙述は︑﹃精神現象学﹄に限って言えば︑﹁実体﹂と言われるものが意識自身に

よって自ら自身の実体・基として透明化されてゆ‑︑その経験の叙述に他ならない︒いま挙げられた序文の一節は︑我々

が前節で指摘した︑﹁精神﹂というものの叙述がもつ或る錯綜した構造を端的に示していると言えよう︒すなわち︑﹁実体

=主体﹂ということが語りえなければ基本的に﹁経験﹂ということをそれとして確保する場はないのであり︑しかしまた︑

そのこと自身が﹁経験﹂の叙述を通してはじめて語りうることとして示されねばならないのである︒この﹁叙述﹂という

ことをはなれて︑そのときどきに適用されるべき﹁実体=主体﹂論なる図式は︑はじめからありはんない︒‑そうであ

JUJ. ︑一 ■1 :

れば︑我々は﹁デュオミス・エネルゲイア﹂なる図式︑あるいは自然学的な﹁類‑種・個﹂なる図式︑さらには﹁絶対者

lTru

の自己顕現︑自己啓示﹂なる表象的ミュー‑スによってヘーゲルの﹁実体=主体﹂論なるものをいわばつ‑り上げ︑解釈

してしまうことに対して常に慎重でなければならないであろう︒

むしろ我々が注目すべきは︑ここで﹁主体﹂と言われるものとの区別においてヘーゲルが﹁実体性﹂と言うとき︑それ

によって何が言われているか︑である︒それは‑

仰存在であるような直接性︑すなわち︑知ることに対してあるような直接性・無媒介性︑であり︑他方‑

仰知ることそれ自身の直接性・無媒介性である︒

ここで言われる二重の﹁実体性﹂ないし二重の直接性・無媒介性は︑先に触れた二元図式の二元ということに対応する

(10)

十 であろう︒ヘーゲルは︑この二重の﹁実体性﹂をそのまま﹁媒介されざる直接性﹂として無批判的に前提する立場に周到

な批判を加えてゆ‑︒

︑︑

3さて︑㈹の﹁̲実体性﹂の立場に対するヘーゲルの批判は︑すべての定在(何かとして︑*vtollあるもの)は﹁思惟

EiiヽnGedank

る︒ヘーゲルは︑この 荏(38)「 」

であり︑そのまま﹁論理的定在logischesDaseinJである‑という点に端的に表わされてい

し「論

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理 的

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﹁ 実

体 の

あるいは﹁自己というエレメントElementdesSelbstsJへと移しおかれた定在と呼びかえ

ている︒ここで︑﹁存在であるような直接性︑知ることに対してある直接性﹂として前提された﹁実体性﹂との区別におい

て ヘ ー ゲ ル が

﹁ 実 体 ﹂ 止 呼 ん で い る も の は ︑

﹁ 精 神 的 本 質 性 g e i s t i g e W e s e n h e i t e n J あ る い は ﹁ 単 純 な 思 惟 規 定 e i n f a c h e

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Ge da nk en be st im mu n

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da ss pe kl at iv eP ra di ka t

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4

ぶ)であり︑さらに彼が﹁種ArtJへあるいは﹁エイド耳﹂と呼んでいるものに他ならない︒定在は︑何かであるそれと

ヽ︑

して語られ︑言い表わされるという仕方で︑何かとしてそこにある︒

﹁アナクサゴラス以降の人々は︑定在の本性を︑さらに明確にエイドス︑あるいはイデア︑すなわち規定された普遍態︑

種として把握し漉︒‑‑定在が種として規定されるというまさにその点において︑定在は単純な思想である︒ヌース︑単

LL'

r ̄u

純 性 が 実 体 で あ 嵐

︒ ﹂

﹁規定された普遍態﹂としての﹁種﹂によって規定されない定在とは︑端的に無である︒﹁種﹂によって定在を規定する︑

とはまさに定在を定在として語り出し'言い表わすということに他ならないが︑そのとき︑この﹁種﹂ということそれ自 身のうちにカテゴリーによる規定ということがすでにある︒何かであるものとしてそこにある定在は︑﹁他のもの﹂ではな

ヽヽ

いそれであり︑それ自身﹁なるもの︑﹁自己同一性﹂においてあるものである︒

さらに︑ヘーゲルは磯の﹃エンチクロペディー﹄で﹁言葉は︑感覚︑直観︑表象に対して︑それらの直接的定在より以

nu

.̲̀ヽ

上の第二の定在を与えふ﹂と語っているが︑その﹁第二の定在﹂とはまた﹁あらゆる表象する者のうちで反響するような

よびかけAufrufであるような定在﹂である︑とも言われる︒この言い方にしたがえば'定在とは﹁精神﹂あるいは意識

(11)

によって語り出され︑聴きとられるような﹁よびかけ﹂という仕方である︑と言えよう︒言い表わされ︑聴きとられる︑

という仕方である定在が﹁実体﹂の所有‑むしろ﹁精神﹂の所有‑となった定在であり︑﹁精神﹂的定在である︒

ところで︑定在は︑たしかにそれ自身﹁直接性﹂において成立している︒そうでなければ︑およそ定在が存立するとい

うことはありえない︒我々が︑あれ︑これの定在を﹁あれ﹂として︑﹁これ﹂として指示したり︑数えたり︑相互に区別し

たりしうるのは︑それらがまさに受領らとして︑単純な直接性においてあるからである︒しかし︑その直接性は﹁存在す

°0

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克 服

さ れ

也叫H H hH

た直接他﹂︑﹁精神﹂の所有となった直接性︑あるいは︑いわば論理的直接性であると言わなければ掌らない︒定在が定在

として直接的に存立するのは︑思惟規定︑思弁的述語としてのカテゴリー︑さらに﹁規定された普遍態﹂としての﹁種﹂

によって規定され︑媒介され︑それによって︑かたちを与えられた定在であるということ︑すなわち︑言い表わされ︑聴

きとられうるようになった定在(論理的定在)であるということによってである︒

周知のように︑﹃精神現象学﹄における﹁感覚的確信・確実性﹂という形態において︑意識が対象を直接的に︑何らの媒

介も経ずに純粋に受けとろうとするとき︑その直接的なこのものDiesesは︑すでに﹁言い表わされたこのもの﹂であり︑

すでに論理的媒介を自らへと単純化した直接性なのである︒﹃精神現象学﹄における意識の経験は︑その端初からしてすで

に﹁言い表わす﹂という言葉の地平において成り立つものであることを示している︒

﹁彼らが自ら私念meinenしているところの︑この紙片をじっさいに語ろうとしてみても︑そして現に語ろうとした

のだが︑これは不可能である︒何故なら︑私念された感覚的なこのものは︑自体的にすでにansich普遍的なものであ

i5

LJ.'

る意識に帰属する言葉にとっては︑到達されえないものだからである(︒﹂

LL.)

ここで注意すべきは︑この﹁言い表わす﹂ということのうちに見出される本性(ヘーゲルはそれを﹁神的本性﹂と呼ぶ)

である︒すなわち一方で︑この﹁言い表わす﹂ということは︑あるもの︑あることがらを単純な直接性において定立する

Verstehen,Verstand﹂ということが成り立つのも︑この直接性という場面においてであると言えよう︒理解する︑と

1

(12)

ヽ︑は︑しかPかである︑あるいはないという言表が︑この直接性という場(﹁ある﹂)において成立するということに他ならな

り̲A . J'

い︒﹁悟怯﹂ということが成り立つのも基本的にこのような場面においてである︒

︑︑

しかし他方︑この直接性の定立としての﹁言い表わすこと﹂というのは︑それ自身思惟規定︑﹁思弁的述語﹂としてのカ

テゴリー(﹁こ︑﹁自己同一性﹂︑﹁対日存在﹂︑﹁対他存在﹂︑﹁質﹂‑‑)による規定︑ないし媒介なくしてはおよそ成立し

ない︒否︑というよりむしろ︑何かを何かであること︑あるいはないこととして言い表わすということそれ自身が︑この ような︑規定すること︑媒介することそのものであると言わねばならない︒そのことをはなれて︑カテゴリーというものが

何か空虚な﹁形式﹂としてどこかに存立しているわけではない︒それは︑﹁言い表わすこと﹂のために使用される道具では

ない︒それは︑いわば﹁言い表わす﹂ということが自ら自身を支えている︑自ら自身の﹁かたち﹂である︒‑そうであ れば︑言い表わし︑語り出すということは︑規定し︑媒介することそれ自身であり︑しかも同時に︑そのままそれとひと っのこととして直接性の定立であると言わねばならない︒媒介ということが直接性の定立に何か先立ってあり︑そして媒

介過程のある時点でそれが直接性へととりまとめられてゆ‑︑というのではない︒﹁媒介することは︑それ自身の埠純性の

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︒ ヘ

ゲルにおける﹁生成(﹁なる﹂)﹂ないし︑媒介とは︑無限定な生成変化とは快走的に異る︒およそ直接性(﹁ある﹂)という

▲T

ことなしに媒介・生成(﹁なる﹂)ということが成立するはずはないので透葱すなわち生成する︑とは﹁すでに単純性

1 1

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に 他

な ら

な い

‑以上で粗描されたことが基本的に確認しうるとすれば︑先の仰の﹁実体性﹂の立場︑すなわち︑﹁存在する直接性﹂

というものを﹁媒介されざる直接性﹂として前提し︑それを﹁知ることに対してある直接性・無媒介性﹂として﹁実体﹂化

することは'それ自身虚しい試みであろう︒それは︑言葉によって到りえない'およそ﹁語りえないもの﹂を知の対象と

E

=

するような︑自然的にしてかつ論理的な誤謬であ葱しかもここで注意すべきことは︑この﹁実体性﹂は︑何か世界観︑

あるいはいわゆる思想上の立場における誤謬といったものではないこと︑すなわち︑﹁意識﹂とい‑ことそれ自身にいわば

必然的に見出され︑したがってまたへその﹁経験﹂のうちで意識自身によって開示さるべき﹁実体性﹂である︑という点

(13)

だがしかし︑以上のことが基本的に確認されうるとしても︑他方︑この﹁言い表わす﹂ということのいわば背後に︑そ れ自身は﹁言い表わす﹂ということをどこまでものがれるような︑あるいは︑それ自身にとっては﹁言い表わす﹂という

ことがあ‑まで何か外的でしかないようなものが不透明なままに残存しているのではないか︒すなわち︑﹁知るということ

それ自身﹂︑あるいは﹁自己土息識Selbst‑bewuBtsein﹂ということは'何ものも前提しない︑何ものによっても媒介さ

れていない﹁媒介されざる直接性﹂として︑あらゆる言表の根底に残存するのではないか︒たしかに︑それは言表という

場において︑対象を︑言い表わされた対象︑定在として定立する働きではあっても︑しかし︑それ自身は︑決して言い表

わしえないような直接性・無媒介性を有しっつ︑言葉ないし言表という地平をどこまでもすり抜けてしまうものではない

爪桝

加‑ ︒ここに︑直接性の﹁実体﹂化の第二の側面︑すなわち︑先の仰の﹁実体性﹂が見出される︒この﹁知ることそれ 自身の直接性﹂としての﹁実体性﹂はいかなる仕方で批判︑開示されうるのか︒

4この第二の実体性の立場に特徴的なことは︑何かへもはや言葉によっては到りえないような﹁わたしlch﹂︑そし て︑もはや何ものも語り出さず︑何ものも聴きとることもしないような﹁わたし﹂へのたち帰り︑ひきこもりということ であろう︒日‑‑もはや語りえず︑それ自身語ることもやめた﹁わたし﹂の内奥こそ﹁わたし﹂が常にそこから出発し︑

そしてそこへと帰ってゆ‑ような経験の拠点であり︑したがって﹁わたし﹂が﹁わたし﹂であることの︑すなわち自己意

もとい

識が自己意識として成立しうるそのことの基Substanzである︑つまりその基こそ﹁知ることそれ自身の直接性・無媒介

性﹂に他掌らない︑と︒言うまでもな‑このような立場はヘーゲルの思索からははるかに遠い︒﹁わたし﹂にしか了解でき

ない内奥の領域というようなものが︑じつはinderWahrheitノ﹁わたし﹂にさえも了解されえない領域でしかないこと︑

このことをヘーゲルは﹁確信﹂と﹁真理﹂の問題として︑すなわち﹁確信﹂は自ら自身を支える構造をそれ自身のうちに もっていない︑ということを﹃精神現象学﹄の叙述全体を通じて明らかにしてゆく︒

だが︑ヘーゲル自ら語るように︑このような﹁知﹂あるいは﹁自己意識﹂にお声る実体化された直接性を流動化し︑そこに

弧瓢

﹁媒介そのものであるような直接性﹂を開示してゆ‑ということは︑﹁感覚的な定在﹂や﹁無力な抽象的直接怯﹂の流動化より︑

精神の定在としての言葉

(14)

g

] はるかに困難なことであろ言い表わすこと﹂それ自身のかたちとして問われねば孝bない﹁思弁的述語﹂としてのカテゴリ

ヽ︑

ーというものでさえ︑何か﹁主観﹂が認識にあたって使用すべきT形式﹂﹁図式﹂といったものへとゆがめられてしまβであろう︒

りJ

しかし︑むしろ我々はこの﹁知ることそれ自身の直接性﹂あるいは﹁自己自身たることの直接的確信・確実性﹂の開示

ということそのもののうちに︑ヘーゲルにおける﹁精神﹂とい‑ものの構造の開示を見てとることができる︑と言えよう︒と

いうのも︑およそ﹁精神﹂が﹁精神﹂として成立しうるのは︑自らが自らにとって顕わとなり︑自らにとって対象となる

こと︑言いかえれば︑それが︑自らの何であるかの﹁知﹂であり︑自らの﹁実体﹂の﹁知﹂として自己意識である限りでの

ことだからで成る︒そして﹁精神﹂の自己知︑自己意識というものが︑言葉ないし言葉の使用という場をはなれた︑何か

3

﹁内的な直接悔﹂というようなところに究極の基をもつ限り︑およそ﹁精神﹂がそれ自身にとって顕わになるということ

は決してありえないであろう︒したがって︑第二の仕方で実体化された直接性・無媒介性を開示してゆ‑ということは︑

そのまま﹁精神﹂の自己知︑自己意識の構造を顕わにしてゆ‑こととひとつであるはずである︒‑我々は以下で︑この 開示ということがなされるべき場がいかなるものかについて︑基本的な点を確認しよう︒そしてそれは︑再び言葉︑ある

いは﹁語り出すこと=聴きとること﹂という言葉の使用への着目において理解されねばならないことのように思われる︒

5ヘーゲルが自ら﹁精神﹂と呼んだものの構造として常に‑り返し強調することは︑それが﹁媒介そのものであるよ

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ら を 外 へ 表 わ し な が ら も ︑ そ の ま ま u n m i t t e l b a r 自 ら を と り も ど し z u r i i c k n e h m e n ︑ そ し て 単 純 態 ・ 直 接 態 に お い て

あるもの﹂である︑という点である︒ここで注意されるべきは︑この﹁外化﹂と︑そこからの﹁たち帰り﹂とが︑何か継

起的に起るふたつの運動ではない︑ということ︑すなわちそれらは︑そのままひとつのことだということである︒この︑

ふたつのことがそのままひとつである︑という点にこの運動の﹁精神性﹂が存するとも言えよう︒だがそのことは︑﹁精

神﹂の自己知︑自己意識の構造として︑いかなる問題であるのか︒

ここで我々が注目すべきは︑およそ﹁語り出し︑言い表わす﹂ということが︑そのまま﹁聴きとる﹂ことであり︑すな

わち﹁外へ表わすauBern﹂ことが︑そのまま﹁内へとりもどす﹂ことであるという点︑つまり言葉の使用においてこの

参照

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