【学位論文審査の要旨】
論文の内容
本論文は,企業の情報セキュリティへの投資が企業の利潤や戦略に与える影響について,
ゲーム理論のモデルを用いて分析した論文である.研究開発とそのスピルオーバーが存在 する 場合の研 究開発競争と 共同研究 を比較した代 表的なモ デル に d’Aspremont and Jaquemin (1988)のモデル (以下 DJ モデル)があるが,本論文では DJ モデルの詳細を再 検討すると共に,さらにそれに情報セキュリティ投資を加えたモデルを新たに構築して分 析した.DJ モデルは,2 企業が第 1 段階で研究開発への投資量を同時に決定し,第 2 段階 で両企業がクールノー競争を行うモデルである.第 1 段階の投資が大きいほど,第 2 段階 における生産の限界費用が削減されるが,自企業の研究開発投資はスピルオーバーし,相 手企業の限界費用も同時に削減される.本論文では,第1段階で研究開発投資に加え情報 セキュリティの投資量も同時に決定する.情報セキュリティへの投資を行うと,相手企業 へのスピルオーバーは小さくなり,これは情報流出が小さくなることを表現している.
一般的に情報セキュリティは,相手企業が自企業の研究開発の成果の漏洩にタダ乗りし て利潤を増加させることを防ぐ消極的な支出であって,自企業の利潤を増加させるとは認 識されていない.著者は,相手企業との生産量競争の相互作用から得られる「戦略的効果」
を考慮することにより,情報セキュリティへの投資は自企業の利潤を増加させる積極的な 支出となりうることを主張し,その条件や効果について分析している.
論文は本文 60 頁であり,5つの章と付録・参考文献から構成されている.本論文の第3 章の内容は査読付き論文として,経営学専攻の紀要「経営と制度」2013 年3月号に単著と して掲載された.また,第4章の内容は査読付き論文として,経営学専攻の紀要「経営と 制度」2013 年3月号に単著として掲載された.また,第5章の内容は査読付き論文として,
日本オペレーションズリサーチ学会和文論文誌 2015 年 12 月号に単著として掲載が決定さ れている.
本論文の成果
本論文の成果は以下のとおりである.第3章では,基礎となる DJ モデルについて再検討 を行った.DJ モデルでは,研究開発の投資量は均衡において対称な内点とされているが,
これは限界費用に非負制約をおいていないためである.論文では,ある数値例では限界費 用が負となるような矛盾した設定となることを示した.その上で,もし限界費用の非負性 を仮定した場合には,研究開発の投資量に上限が存在するために,均衡はその上限値(端 点均衡)となる場合があることも示している.第3章では,たとえ限界費用の非負性を仮 定して端点均衡を考慮した場合でも,対称な端点均衡を仮定する限りは d’Aspremont and Jaquemin (1988)の結論は変化せず,先行研究の含意は矛盾していないという結論が得られ ている.
次に第 4 章では,DJ モデルに情報セキュリティ投資の効果を加えたモデルを新たに構築
し分析を行っている.まず,第 2 段階でクールノー均衡が行われたと想定した企業の利潤 を情報セキュリティの投資量の関数として表し,それを微分して,情報セキュリティの投 資量の変化に対する利潤の変化を調べた.これにより,情報セキュリティ投資は,相手企 業の利潤を減じるだけではなく,第 2 段階でのクールノー均衡解の変化を通じて自社の利 潤を増加させる可能性があることを示し,その必要条件についても導出した.
第 4 章の後半は,費用関数と逆需要関数に線形関数を仮定することによって,さらに詳 細な検討を進めている.そこでは,相手企業が情報セキュリティの投資量を増加した場合 には,自企業は情報セキュリティの投資量を低めることが最適であること,相手企業が研 究開発の量を増やした場合に,自企業が情報セキュリティの投資量を増やすべきか減らす べきかは,技術スピルオーバー係数が 1/2 より大きいか小さいかに依存すること,などが 示された.
また均衡における比較静学を行い,市場が拡大するときに均衡における情報セキュリテ ィの投資量は増加すること,スピルオーバーが増加するときに均衡における情報セキュリ ティが増加するか減少するかは,その費用係数の大小に依存することを示している.
論文の評価
本論文の審査委員からは,(1)モデル内で内点均衡を導くために仮定されているパラメー タの条件を経済学的に解釈することが難しく,その仮定を置かずに端点均衡について分析 を行えれば,より説得力のある結果であったこと,(2)他のパラメータに関する比較静学も 必要と考えられること,(3)論文での「戦略的補完」と「戦略的代替」という用語は,通常 の用法と異なるため注意が必要なこと,などが意見として出された.
以上の課題はあるものの,企業の情報セキュリティ投資という重要な問題に対して,ゲ ーム理論のモデルを用いて解を与えたことは,有用性が高い研究であると判断した.また,
産業組織論においてよく知られた DJ モデルを批判的に検討し,その限界を明らかにして,
さらにその上でモデルを拡張して結果を示すという精緻な方法から,本論文の経済学に対 する貢献度と新規性は非常に高いと判断した.以上の点から,本論文は学位を授与するに は十分な価値が認められると判断した.
最終試験の結果
公開審査会は 7 月 23 日 10:30 より経営学系会議室にて行われた.発表後,論文審査委員 からも本論文に関する質疑応答を行った.その結果,申請者は本論文だけではなく,経済 学・産業組織論・ゲーム理論に対しても博士を取得するにふさわしい学力があることが認 められた.
したがって,本審査委員会は河重隆一郎氏に博士(経済学)を授与することが適当であ ると判断する.