ラット一過性脳虚血モデルにおける全身臓器の
HMGB1 の発現(要約)
日本大学大学院医学研究科博士課程 外科系脳神経外科学専攻
梶原 遼
修了年 2021 年
指導教員 大島 秀規
1 要約
一過性脳虚血発作は「局所的な脳、脊髄、網膜の虚血によって発症したものの新鮮な梗塞を有さ ない一過性の神経症状」と定義される。従来、一過性脳虚血発作は脳梗塞、くも膜下出血、脳出 血などと比べ軽症と考えられており、患者、医師共に重症疾患と考えられない傾向にある。しか し、近年一過性脳虚血発作後の悪影響の報告が相次いでおり、2018年にBivardらが一過性脳虚血 後に脳萎縮、高次機能障害を引き起こすことを報告している[1]。しかし前述の通り、一過性脳虚 血が及ぼす悪影響に比して患者の関心は高いとは言えない。一過性脳虚血発作を起こした患者の 3割は24時間以内に医療機関を受診しないという報告もあり、これは医療機関、患者ともに適切 な啓蒙がされていないためと考えられる [2]。Rothwellらの報告によれば、脳梗塞患者の発症当日 に17%、前日に9%、7日以内に43%の患者が一過性脳虚血発作を発症していた [3]。一過性脳虚 血後脳梗塞を発症した患者の半数は 2 日以内に発症していた。Johnston らは一過性脳虚血の脳梗 塞発症リスク評価としてABCD2スコアを提唱した [4]。ABCD2スコアの項目は年齢(Age: 60歳 以上)、血圧(Blood pressure: 収縮期140mmHg、拡張期90mmHg以上)、臨床症状(Clinical feature:
片麻痺または呂律障害)、症状持続時間(Duration of symptoms)、糖尿病(Diabetes)である。ABCD2 スコアは48時間以内の脳梗塞の発症を予測し、0-3点で1.0%、4-5点で4.1%、6-7点では8.1%に 達する。一過性脳虚血発作の多くは抗血小板薬で加療されるが、短期のうちに脳梗塞を発症する リスクがあるため、一過性脳虚血は症状が消失していても直ちに精査と治療を開始するべきであ る。RothwellらはEarly Use of Existing Preventing Strategies for Stroke研究で一過性脳虚血患者を迅 速に診断し、治療を早期に行うことで脳梗塞の発症を有意に抑制できると報告した [5]。Simmatis らによると一過性脳虚血の繰り返しにより脳機能の低下、異常行動が発症することが報告されて いる [6] [7]。また、画像検査においては臨床現場ではdiffusion weighted image (DWI)での高信 号の有無が重要視されているが、一過性脳虚血発作後24時間以内のDWIで病変の検出がされな
変の検出ができる場合があると報告されている [8]。また、一過性脳虚血においてFLAIRで異常 信号の見られない場合であっても 1ヶ月後のfunctional MRIで神経回路の断裂、局所的な脳皮質 の崩壊が見られうるという [9]。脳波検査においても一過性脳虚血後局所的徐波を認め、脳磁図で も一過性脳虚血の責任病変と考えられた部位に徐波やβ波を認めたという報告もある [10] [11]。
これは一過性脳虚血において何らかの病理学的変化を示唆していると考えられる [12]。一過性脳 虚血の患者は疲労を感じていることが多い [13]。さらに一過性脳虚血患者の 26%に 90 日後の modified Rankin Scaleの低下が見られたと報告されている [14]。これらの報告は一過性脳虚血が全 身性の何らかの反応を引き起こしている可能性を示唆している。
脳卒中や脳外傷直後に全身の合併症を生じることは臨床の場でよく見かける事象であり、代表的 なものはタコつぼ型心筋症 [15]と神経原性肺水腫である [16]。これらは脳への損傷のみで頻繁に 観察される全身合併症である。生体細胞が障害に反応し細胞外に放出する物質をdamage associated molecular patterns (DAMPs) と呼ぶ。High mobility group box-1 (HMGB1)はDAMPsの一つで あり、様々な炎症性疾患に関与していることが知られている[17]。HMGB1 はalarmin 分子として 細胞より放出された後receptor of advanced glycation end product (RAGE)、toll like receptor-4(TLR- 4)などの受容体を経て炎症性サイトカインであるinterleukin-1β(IL-1β)やtumor necrosis factor α
(TNFα)などの放出を促し、炎症を引き起こす [18]。HMGB1は局所的には炎症、免疫等に寄与 するが、全身性に発現するとショックや播種性血管内凝固症候群(disseminated intravascular
coagulation: DIC)を引き起こす。局所的でも慢性的に作用すると関節リウマチ、急性呼吸窮迫症候
群、間質性肺炎、再灌流障害、動脈硬化などに関与すると報告されている [19][20] [21] [22]。も
ともと HMGB1は様々な転写因子の活性の間接的な調節に関係するタンパク質として知られてい
た [23] [24]。WangらがHMGB1を敗血症においてエンドトキシン血症の致死性に関わる重要な
メディエーターとして報告して以降、種々な炎症性疾患への関与が報告されている [25]。その後 の報告により様々な細胞から放出されることがわかってきた。脳虚血性疾患においても HMGB1
の放出は中枢神経の炎症に関与している可能性が報告されており、臨床的な治療標的として期待 されている [26]。
軽症な脳虚血と考えられている一過性脳虚血において全身性の炎症反応が惹起されている可能 性を示す報告は限られている。本研究ではラットにきわめて軽度の虚血負荷を加えた総頸動脈一 過性遮断モデルを作成し[27]、全身性の炎症反応が起きるかを観察した。ラット一過性脳虚血モデ ルとしては Ejaz らが報告している開頭下でのマイクロ血管クリップによる遠位中大脳動脈の 15 分遮断モデル [28]、Fanらの報告している縫合糸による中大脳動脈遮断モデル等がある[29]。ラッ ト両総頸動脈の永久遮断モデルが慢性の脳の低灌流モデルとして用いられており[30]、今回用い た総頸動脈一時遮断モデルは、後方循環系からの前方循環系への血流が保たれている点で前述の 中大脳動脈遮断モデルより軽微な脳虚血モデルである。特に虚血モデルで全身臓器に発現が観察 されると報告されている HMGB1の全身臓器における発現に注目した。また脳内の細胞反応に着 目し、アストロサイトの発現定量のためにglial fibrillary acidic protein、(GFAP) 炎症細胞であるマ イクログリアの発現定量のためにCD11bをWestern blottingで定量した。結果は目的タンパク濃度
/beta-Actin 濃度として表示した。さらに脳組織炎症や脳組織破壊が起こっているかを確認するた
めに、組織炎症の指標である protein kinase Cδ (PKCδ)や、 組織破壊の指標である matrix metalloproteinase -9 (MMP-9) を測定した。
心臓、肺、肝臓、脾臓、腎臓、大腸、小腸の検体を抗HMGB1抗体で染色した。心臓では、全群で
HMGB1の発現を認めなかった。
肺では、
Sham群、片側遮断群ではHMGB1の発現を認めず、両側遮断群でHMGB1陽性を示す細胞を認めた。
肝臓では、
Sham群、片側遮断群ではHMGB1の発現を認めず、両側遮断群でHMGB1 陽性を示す細胞を認めた。
脾臓では、
全群で HMGB1 陽性細胞を認め た。Sham群、片側遮断群と比べ、両側遮断群でHMGB1陽性を示す細胞の著名な増加を認めた。腎臓
では、
全群で HMGB1 の発現を認めなかった。大腸では、
全群で HMGB1陽性細胞を認めた。Sham群、片側遮断群と比べ、両側遮断群でHMGB1陽性を示す細胞の著名な増加を認めた。
小腸では、
全胞の著名な増加を認めた。脳のHMGB1、MMP-9抗体による免疫染色では脳皮質、白質にHMGB1、
MMP-9 陽性細胞が観察された。Sham 群では陽性細胞を認めなかった。抗 GFAP 抗体を用いた
Western blottingでは大脳皮質のSham群の値は1.08±0.31であった。片側群左脳、片側群右脳、両 側群はそれぞれ1.24±0.31、1.40±0.36、 1.88±0.62であり、両側群で Sham群より有意差を持って 高い値を示した(p<0.05)。海馬のSham群の値は1.32±0.63であった。片側群左脳、片側群右脳、
両側群の値はそれぞれ1.29±0.44、1.07±0.52、1.46±0.37であった。片側群、両側遮断群共にSham 群と比べ有意差を認めなかった。大脳皮質および海馬の抗CD11b抗体を用いたWestern blottingで は大脳皮質のSham群の値は0.87±0.56であった。片側群左脳、片側群右脳、両側群の値はそれぞ れ0.81±0.55、0.99±0.64、 1.77±0.72であり、両側群においてSham群より有意差を持って高い値 を示した(P<0.05)。海馬のSham群の値は0.82±0.65であった。片側群左、片側群右、両側群の 値はそれぞれ1.25±0.54、1.05±0.50、1.28±0.77であった。片側、両側遮断群共にSham群と比べ有 意差を認めなかった。大脳皮質および海馬のmatrix metallopeptidase-9(MMP-9)のmRNAの発現 をPCRで測定した。大脳皮質、海馬の両方において片側群、両側群でMMP-9の発現を認め、遮 断を行った全群において Sham 群と比べより強く発現する傾向が認められた。組織炎症の指標と して、大脳皮質および海馬のProtein kinase Cδ (PKCδ) のmRNAのPCRでの発現を測定した。大 脳皮質、海馬の両方において片側群、両側群でMMP-9の発現を認め、遮断を行った全群において Sham群と比べより強く発現する傾向が認められた。
アストロサイトのマーカーであるGFAP の増加が認められたことから軽微な脳虚血単独でも脳細 胞に変化を起こしうることが示唆される。また、脳内唯一の免疫細胞であるミクログリアのマー カーであるCD11bの増加もみられ、脳内の炎症反応が惹起されていることが示された。実際に脳 検体のPCRでは組織障害指標である MMP-9、炎症の指標である PKCδもその発現が確認され、
脳内に炎症反応が惹起していることを示している。これは従来考えられているよりも一過性脳虚 血は脳細胞に多大な影響を与えていることを示している。今回両側遮断モデルでのみアストロサ イト、ミクログリアの発現に有意差が見られた原因は片側のみの遮断では対側からの血流が担保
されており今回のモデルでは脳細胞は虚血に至らなかったものと考えられた。また、大脳皮質に のみ発現に差が見られ、海馬で差が見られなかった理由に関しては海馬では前方循環からの血流 が遮断されても後方循環系からのみで虚血に到らないためと推察される。また、本研究で示され た重要な事項は軽微な脳虚血と考えられる一過性脳虚血発作においても全身の炎症反応を惹起し うるということである。脳内で観察された HMGB1が全身臓器で発現していたということは血流 によってその炎症のシグナルが全身に伝達されたことを意味する。これは従来考えられているよ り一過性脳虚血発作は重度の反応を引き起こしていると考えられる。死のメディエーターと言わ れ、重症患者で発見された HMGB1が軽症脳虚血性疾患と考えられている一過性脳虚血発作でそ の全身性の分布が観察された事は非常に興味深い。また近年、一過性脳虚血発作により二次性神 経変性を生じた結果遅延性の脳萎縮を生じ、認知機能の低下につながることが報告されている。
これは従来考えられているより一過性脳虚血発作の影響は長期間に渡って持続することを示唆し
ている。HMGB1は慢性疾患である関節リウマチなどでもその関与が報告されており、一過性脳虚
血発作では脳内のみならず HMGB1の全身性の分布による慢性の炎症性疾患に関わっている可能 性を意味する。昨今各種疾患においてHMGB1 を治療対象とした臨床応用について注目されてい る。一過性脳虚血でもその全身への影響が明らかにされたことで、従来と比べより厳格な治療が 必要であり、また全身性の影響に注目した治療により軽症脳虚血発作の予後をより改善しうるこ とを示唆している。動物実験ではHMGB1の拮抗により様々な臓器で炎症を抑制できることが報 告されている [31] [32] [33]。また、全身性の炎症が起きているとすればステロイド療法による炎 症の抑制も効果的である可能性がある。今後も本研究の結果を踏まえた一過性脳虚血発作の病態 の詳細な解明、今後の臨床への応用が望まれる。
ラット一過性脳虚血モデルでは、脳内の細胞障害と炎症反応に加えて、全身性の炎症反応が生じ ていることが示唆された。今後さらなる研究により、一過性脳虚血発作と全身臓器の障害との関 連を解明することで、臨床における一過性脳虚血発作の治療成績の向上に寄与することができる と考える。
2 引用文献