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Vol.65 , No.1(2016)059那須 円照「『瑜伽師地論』「摂決択分菩薩地」における不一不異説 」

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全文

(1)

『瑜伽師地論』「摂決択分菩薩地」における

不一不異説

那 須 円 照

1.筆者(那須)の不一不異説研究史

筆者は,今までの諸論攷において,仏教における諸学派ごとに,異なる特徴を 持つ諸不一不異説を分類考察している.私は,主に,インド仏教においては,〈1〉 アビダルマ的不一不異説,〈2〉中観的不一不異説,〈3〉唯識的不一不異説の三類 型に分類されると考える. その中で,アビダルマ的不一不異説は,矛盾をはらんだ不完全なものと理解さ れ,中観的不一不異説と唯識的不一不異説は,矛盾点のない双方独自性を持つ理 論と理解される. さらに,私は,インド仏教からの発展的形態としての〈4〉中国浄土教における 曇鸞の不一不異説についての考察をすでに済ませている.これは,日本の浄土教 である浄土真宗の教義の背景をなし,浄土教の完成態を示唆している. まず,〈1〉アビダルマ的不一不異説を紹介する.これは,さらに『婆沙論』に 説かれるものと『順正理論』に説かれるものに大別される.『俱舎論』では,これ らの有部の不一不異説に対して経量部の立場から批判的解決がなされている. 『婆沙論』において,作用と本体が不一不異であると説かれる.この関係は, 個々の有漏法の本体と,無常等の多くの特徴との関係に喩えられる.この場合, 本体は常住であり,作用は現在のみで無常であり,作用と本体は同一でないだけ でなく,別異でもないとは,矛盾していると『俱舎論』で世親は批判する.世親 は,有漏法の個々の本体は現在のみの無常な存在であり,同じく現在のみの作用 や様態と全く同一であると考える. これに対して,衆賢は反論する.作用は,法と本体が現在において異ならない から,別異ではないとされる.そして,過去・未来においては本体はあるが,作 用がないから,同一でもないとされる.この場合,作用は三世に実有でないから よれば abhūtaparikalpa は karmadhāraya ではなく,虚妄なる二取(abhūta)が分別

(parikalpa)の対象となっている tatpuruṣa であると言える5)

4.結論 

本稿で検討した文献に限っては,abhūta は二取を形容するものであり, abhūta によって形容される二取は parikalpa の対象になるものである.従って,こ の場合,abhūtaparikalpa は「虚妄なるもの(=二取)を分別すること」,或いは, 「虚妄なるもの(=二取)に対する分別」という意味の tatpuruṣa として理解しなけ ればならないと考えられる. 1)長尾[1937: p. 79],長尾[1967: p. 1],長尾[1976: p. 232],長尾[1988: p. 6].    2)MAVBh(N) 18, 1.   3)『中辺分別論』T 31.451a18.   4)『弁中辺論』T 31. 464b18.   5)伊藤[2010]では MAVṬ のこの箇所の分析に基づいて虚妄分別と虚妄 なるものである二取との間には因果関係が成立するということを論証している.ただ, 虚妄分別がどのような種類の複合語であるかに関しては直接的に言及していない.    〈略号〉

MAV Madhyāntavibhāga-kārikā (Maitreya). See MAVBh(N).

MAVBh(N) Madhyāntavibhāga-bhāṣya (Vasubandhu). Madhyāntavibhāga-bhāṣya: A Buddhist

Philosophical Treatise. Ed. Gadjin Nagao. Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1964.

MAVṬ(Y) Madhyāntavibhāga-ṭīkā (Sthiramati). Madhyāntavibhāgaṭīkā: Exposition

systéma-tique du Yogācāravijñaptivāda. Ed. Susumu Yamaguchi. Nagoya: Hajinkaku, 1934.

Repr., Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1966. 〈参考文献〉 長尾雅人 1937「空義より三性説へ」『哲学研究』250: 61–96. ――― 1952「転換の論理」『哲学研究』405: 449–476. ――― 1967「唯識義の基盤としての三性説」『鈴木学術財団研究年報』4: 1–22. ――― 1968「余れるもの」『印仏研』16 (2): 23–27. ――― 1976「中辺分別論」長尾雅人・梶山雄一・荒枚典俊訳『大乗仏典 15 世親論集』 中央公論社. ――― 1982『摂大乗論――和訳と注解――』上巻,講談社. ――― 1988「世界観としての三性説」『日本学士院紀要』43 (1): 1–19. 伊藤康裕 2010「安慧の唯識説の一考察――虚妄分別と二取との関係を中心に――」『東洋 の思想と宗教』27: 46–63. 〈キーワード〉 abhūtaparikalpa,虚妄分別,安慧,Madhyāntavibhāgaṭīkā (佛教大学大学院)

(2)

該当箇所(D. no. 4038: 1b. 1–3a. 4; P. no. 5539: 1b. 1–3b. 2) 2.1. 因相と名称との不一不異 因相(rgyu mtshan)と名称(ming)と別異と言われるべきであるのか,非別異と言われ るべきであるのか.答える.両方とも説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失に陥るからである. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.名称が実体として存在することになる. 非別異性であるとき,どんな過失があるのか.因相を把捉するとき,名称も把捉される ことになる. (解説)まず最初に,因相と名称との関係が考察される.因相と名称とは不一不異 の関係にあると主張される. 全く別異であるとき,因相と名称とが別々の実体としてあることになり,名称 が因相に関する名称であると言えなくなる. 全く同一であるとき,認識対象としての因相と名称が区別できなくなり,名称 を言ったとき,常に因相が直に把握されるという都合の悪いことになる. 両者が不一不異の関係にあるためには,因相が実有,名称が仮有という関係で はなく,両者が時間空間的差異はあるが互いに類似している空なるものという立 場に立たなければならないであろう.これは,龍樹中観的な不一不異説である. この場合,価値観は捨象されている. 2.2. 因相と構想との不一不異

因相(rgyu mtshan)と構想(rnam par rtog pa)と別異と言われるべきであるのか,非別異 と言われるべきであるのか.答える.両方とも説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失に陥るからである. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.諸構想が因相を本体としないことになる. 非別異であるとき,どんな過失があるのか.構想を離れた諸因相も構想を本体とするの みとなる. (解説)次に,因相と構想との関係が考察される.因相と構想とは不一不異の関係 にあると主張される. 全く別異であるとき,諸構想が,因相と,法性という本体を共有しないことに なる. この場合,構想は遍計的なものであり,菩薩,仏にとっては仮有あるいは都無 であるが,凡夫にとっては情有理無であり,何らかの意味で実有の因相と共通の 本体があると言える. 仮有であり,本体は三世に実有である.この仮有と実有の部分的同一性にもとづ く不一不異説は,『俱舎論』の経量部の,種子は心の一部であるという種子と心の 空間的不一不異説に類似しているように思われるが,この経量部の立場では,種 子は仮有であり,心は実有であり,種子は因施設という性質を持つとされる.こ の場合は,例えば,種子が善であり,心が不善である場合は,別異であるが,中 観的に言えば,ともに有為であるという点で同一である.経量部のように種子と 心の関係を仮有と実有とすると,両者の接点がなくなり,不一不異説を主張する ことはできないが,中観派のように,両者を空とすると,次節で説明するように, 不一不異を主張することは妥当である.[那須(1999, 70–76);那須(2009, 266–270) 参照] 次に,〈2〉中観的不一不異説を紹介する.中観派の不一不異説は,『中論』にお ける因果不一不異説で代表される.第二十章では,時間的不一不異説が説かれて いるが,これは空間的不一不異説にも敷衍することができるであろう.龍樹は, 因と果とは,ともに空なるものとして,全く同一な一実体でもなく,全く別異な 二実体でもなく,両者は類似しており,因から果へと連続的に変化するという意 味で,不一不異なのである.龍樹にとって一切の事象は空で有為転変の世界にあ るが,類似性の濃淡のちがいで,因果関係にあるものとそうでないものとの区別 がある.一切の事象は濃淡の差はあれ,何らかの関係性の中にあると龍樹は考え るのであろう.[那須(2009, 284–285);那須(2013, 1–4)参照] 次に,〈3〉唯識的不一不異説を紹介する.唯識学派の不一不異説は,『唯識三十 頌』における依他起性と円成実性との不一不異説と,『中辺分別論』における虚妄 分別と空性との不一不異説で代表される.世親は,『俱舎論』「業品」において徹 底した刹那滅論を遂行し時間を超越し,『唯識二十論』において徹底的な極微論批 判を遂行し空間を超越する.この時間空間を超越したあり方が,仏と凡夫とに共 通のあるがままの世界の姿であり,これは有為と無為を超越した境地であって, 唯識学派の不異の側面を示す.しかし,存在論的に時間空間を超越しても,価値 的には有漏と無漏との差別は残るので,不一の面が残る.この不一を超えること が修道論的課題として残されることになる.[那須(2009, 270–283);那須(2013, 4– 10)参照]

2.

『瑜伽師地論』「摂決択分菩薩地」における不一不異説

不一不異説の分類に終始している『瑜伽師地論』の不一不異説を検討する.

(3)

該当箇所(D. no. 4038: 1b. 1–3a. 4; P. no. 5539: 1b. 1–3b. 2) 2.1. 因相と名称との不一不異 因相(rgyu mtshan)と名称(ming)と別異と言われるべきであるのか,非別異と言われ るべきであるのか.答える.両方とも説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失に陥るからである. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.名称が実体として存在することになる. 非別異性であるとき,どんな過失があるのか.因相を把捉するとき,名称も把捉される ことになる. (解説)まず最初に,因相と名称との関係が考察される.因相と名称とは不一不異 の関係にあると主張される. 全く別異であるとき,因相と名称とが別々の実体としてあることになり,名称 が因相に関する名称であると言えなくなる. 全く同一であるとき,認識対象としての因相と名称が区別できなくなり,名称 を言ったとき,常に因相が直に把握されるという都合の悪いことになる. 両者が不一不異の関係にあるためには,因相が実有,名称が仮有という関係で はなく,両者が時間空間的差異はあるが互いに類似している空なるものという立 場に立たなければならないであろう.これは,龍樹中観的な不一不異説である. この場合,価値観は捨象されている. 2.2. 因相と構想との不一不異

因相(rgyu mtshan)と構想(rnam par rtog pa)と別異と言われるべきであるのか,非別異 と言われるべきであるのか.答える.両方とも説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失に陥るからである. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.諸構想が因相を本体としないことになる. 非別異であるとき,どんな過失があるのか.構想を離れた諸因相も構想を本体とするの みとなる. (解説)次に,因相と構想との関係が考察される.因相と構想とは不一不異の関係 にあると主張される. 全く別異であるとき,諸構想が,因相と,法性という本体を共有しないことに なる. この場合,構想は遍計的なものであり,菩薩,仏にとっては仮有あるいは都無 であるが,凡夫にとっては情有理無であり,何らかの意味で実有の因相と共通の 本体があると言える. 仮有であり,本体は三世に実有である.この仮有と実有の部分的同一性にもとづ く不一不異説は,『俱舎論』の経量部の,種子は心の一部であるという種子と心の 空間的不一不異説に類似しているように思われるが,この経量部の立場では,種 子は仮有であり,心は実有であり,種子は因施設という性質を持つとされる.こ の場合は,例えば,種子が善であり,心が不善である場合は,別異であるが,中 観的に言えば,ともに有為であるという点で同一である.経量部のように種子と 心の関係を仮有と実有とすると,両者の接点がなくなり,不一不異説を主張する ことはできないが,中観派のように,両者を空とすると,次節で説明するように, 不一不異を主張することは妥当である.[那須(1999, 70–76);那須(2009, 266–270) 参照] 次に,〈2〉中観的不一不異説を紹介する.中観派の不一不異説は,『中論』にお ける因果不一不異説で代表される.第二十章では,時間的不一不異説が説かれて いるが,これは空間的不一不異説にも敷衍することができるであろう.龍樹は, 因と果とは,ともに空なるものとして,全く同一な一実体でもなく,全く別異な 二実体でもなく,両者は類似しており,因から果へと連続的に変化するという意 味で,不一不異なのである.龍樹にとって一切の事象は空で有為転変の世界にあ るが,類似性の濃淡のちがいで,因果関係にあるものとそうでないものとの区別 がある.一切の事象は濃淡の差はあれ,何らかの関係性の中にあると龍樹は考え るのであろう.[那須(2009, 284–285);那須(2013, 1–4)参照] 次に,〈3〉唯識的不一不異説を紹介する.唯識学派の不一不異説は,『唯識三十 頌』における依他起性と円成実性との不一不異説と,『中辺分別論』における虚妄 分別と空性との不一不異説で代表される.世親は,『俱舎論』「業品」において徹 底した刹那滅論を遂行し時間を超越し,『唯識二十論』において徹底的な極微論批 判を遂行し空間を超越する.この時間空間を超越したあり方が,仏と凡夫とに共 通のあるがままの世界の姿であり,これは有為と無為を超越した境地であって, 唯識学派の不異の側面を示す.しかし,存在論的に時間空間を超越しても,価値 的には有漏と無漏との差別は残るので,不一の面が残る.この不一を超えること が修道論的課題として残されることになる.[那須(2009, 270–283);那須(2013, 4– 10)参照]

2.

『瑜伽師地論』「摂決択分菩薩地」における不一不異説

不一不異説の分類に終始している『瑜伽師地論』の不一不異説を検討する.

(4)

在せず因相なしに真如があることになる.また,真如を現等覚しても因相に真如 が内在しないから,因相を現等覚しないことになる. 全く同一であるとき,真如は単一で区別がないように,すべての因相が清浄で 時間空間を超え区別がなくなってしまう.因相の認識が真如の認識と同一となっ てしまい,因相が清浄のみとなるか,あるいは逆に,因相と同一の真如が不浄の みとなってしまう. この場合は,前項と同じ世親唯識的不一不異説である. このことに関して,いくつかの例が説かれている. まず,{1}諸行と,それの共相としての無常・苦・無我との関係と,{2}身心 と,麁重・軽安との関係と,{3}善・悪・無記法と,種子との関係が不一不異で あると説かれる.『瑜伽師地論』本論には説明はないが,その意味を解明してみる. {1}諸行とそれら共通な相との関係は,法と法性の関係と同じであり,あるが ままに時間空間を超えているという点で,両者は共通しているが,通常の世間的 状態では,諸行は有漏,無常・苦・無我は三法印として無漏であり,両者は不一 不異である.これも世親唯識的不一不異説である. {2}身心と麁重・軽安の関係は,両者とも通常の状態では有為有漏であり,そ れらは,時間的・空間的範囲内での類似性という点で,龍樹中観的不一不異説で ある. {3}善・悪・無記法と種子の関係は,これも,有為有漏あるいは有為無漏であ り,それらは,時間的・空間的範囲内での類似性という点で,龍樹中観的不一不 異説である. 最後に,虚空と色処との不一不異説が例示される. 全く別異であるとき,虚空が遍在しないから,虚空は物質的空界と同じになり 無常となってしまう. 全く同一であるとき,色処が遍在するという不合理なこととなる. この場合は,時間的に,虚空は常住であり,色処は現在のみで無常であり,空 間的に,虚空は色処以外にもあるが,色処の中に貫徹しているという点で,色処 の側からのみ虚空との部分的同一性が見られ,存在論的に不一不異説が説かれる. 少し問題点の残る有部衆賢的な不一不異説である. 2.4. 諸行・諸蘊内における不一不異 世尊によって,声聞乗によっても,ある場合に,諸行と別異でもなくて,非別異でもな くて,記別のこの道理を顕示する. 全く同一であるとき,無漏なる諸因相も,誤った構想と同じ有漏という都合の 悪いことになる. 諸構想は誤ったものであるから有漏である.因相は,必ずしも誤ったものとは 限らないから,有漏・無漏に通じている.よって,両者の本質としての有為・無 為を超えた法性は同一であるが,因相は無漏の場合もあり,全く諸構想と同一で はない.これは,世親唯識的な不一不異説である.この場合,価値観が考慮され ている. 2.3. 因相と真如との不一不異

因相(rgyu mtshan)と真如(de bzhin nyid)と別異と言われるべきであるのか,非別異と 言われるべきであるのか.答える.両方とも説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失になることに陥るからである. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.因相の勝義性,それが真如ではないことに なり,ヨーギンが因相を見ずに真如を求めることになり,真如を現等覚するときにも, 因相を現等覚することはないことになる. 非別異性であるとき,どんな過失があるのか.真如において区別がないように,すべて の因相においても区別がないことになり,因相を認識するとき真如も認識することにな り,真如を認識しても,因相のように不浄になってしまう.

つまり,例えば,諸行(’du byed rnams)において,共相(spyi’i mtshan nyid)として,無 常(mi rtag pa)と苦(sdug bsngal ba)と無我(bdag med pa)があっても,それら(諸行) と別異であるか非別異であると説かれるべきでなく,身(lus)と心(sems)において麁 重(gnas ngan len)と軽安(shin tu spyangs pa)があっても,身と心とそれら(麁重と軽 安)とは,別異であるか非別異であると説かれるべきでなく,善(dge ba)と悪(mi dge ba)と無記(lung de ma bstan pa)の諸法(chos rnams)の中に種子(sa bon)があっても, それら(善と悪と無記の諸法)とは,別異であるか非別異であると説かれるべきでない. 両方とも過失に陥るからである.

つまり,例えば,虚空(nam mkha’)は遍在するから,色処(gzugs kyi phyogs)において 虚空があっても,それ(虚空)とそれら(色処)とは別異であるとも非別異であるとも 説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失に陥るからである. 別異性である場合,どんな過失があるのか.虚空が遍在しないから無常となる. 非別異性であるとき,どんな過失があるのか.色処と虚空が別でないことになる. そのような場合,この中にも,道理は適切に知られるべきである. (解説)次に,因相と真如との関係が考察される.因相と真如とは不一不異の関係 にあると主張される. 全く別異であるとき,因相の法性としての勝義性が,法性そのものとしての真 如と同一でないことになり,因相と真如の共通部分がなくなり,因相に真如が内

(5)

在せず因相なしに真如があることになる.また,真如を現等覚しても因相に真如 が内在しないから,因相を現等覚しないことになる. 全く同一であるとき,真如は単一で区別がないように,すべての因相が清浄で 時間空間を超え区別がなくなってしまう.因相の認識が真如の認識と同一となっ てしまい,因相が清浄のみとなるか,あるいは逆に,因相と同一の真如が不浄の みとなってしまう. この場合は,前項と同じ世親唯識的不一不異説である. このことに関して,いくつかの例が説かれている. まず,{1}諸行と,それの共相としての無常・苦・無我との関係と,{2}身心 と,麁重・軽安との関係と,{3}善・悪・無記法と,種子との関係が不一不異で あると説かれる.『瑜伽師地論』本論には説明はないが,その意味を解明してみる. {1}諸行とそれら共通な相との関係は,法と法性の関係と同じであり,あるが ままに時間空間を超えているという点で,両者は共通しているが,通常の世間的 状態では,諸行は有漏,無常・苦・無我は三法印として無漏であり,両者は不一 不異である.これも世親唯識的不一不異説である. {2}身心と麁重・軽安の関係は,両者とも通常の状態では有為有漏であり,そ れらは,時間的・空間的範囲内での類似性という点で,龍樹中観的不一不異説で ある. {3}善・悪・無記法と種子の関係は,これも,有為有漏あるいは有為無漏であ り,それらは,時間的・空間的範囲内での類似性という点で,龍樹中観的不一不 異説である. 最後に,虚空と色処との不一不異説が例示される. 全く別異であるとき,虚空が遍在しないから,虚空は物質的空界と同じになり 無常となってしまう. 全く同一であるとき,色処が遍在するという不合理なこととなる. この場合は,時間的に,虚空は常住であり,色処は現在のみで無常であり,空 間的に,虚空は色処以外にもあるが,色処の中に貫徹しているという点で,色処 の側からのみ虚空との部分的同一性が見られ,存在論的に不一不異説が説かれる. 少し問題点の残る有部衆賢的な不一不異説である. 2.4. 諸行・諸蘊内における不一不異 世尊によって,声聞乗によっても,ある場合に,諸行と別異でもなくて,非別異でもな くて,記別のこの道理を顕示する. 全く同一であるとき,無漏なる諸因相も,誤った構想と同じ有漏という都合の 悪いことになる. 諸構想は誤ったものであるから有漏である.因相は,必ずしも誤ったものとは 限らないから,有漏・無漏に通じている.よって,両者の本質としての有為・無 為を超えた法性は同一であるが,因相は無漏の場合もあり,全く諸構想と同一で はない.これは,世親唯識的な不一不異説である.この場合,価値観が考慮され ている. 2.3. 因相と真如との不一不異

因相(rgyu mtshan)と真如(de bzhin nyid)と別異と言われるべきであるのか,非別異と 言われるべきであるのか.答える.両方とも説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失になることに陥るからである. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.因相の勝義性,それが真如ではないことに なり,ヨーギンが因相を見ずに真如を求めることになり,真如を現等覚するときにも, 因相を現等覚することはないことになる. 非別異性であるとき,どんな過失があるのか.真如において区別がないように,すべて の因相においても区別がないことになり,因相を認識するとき真如も認識することにな り,真如を認識しても,因相のように不浄になってしまう.

つまり,例えば,諸行(’du byed rnams)において,共相(spyi’i mtshan nyid)として,無 常(mi rtag pa)と苦(sdug bsngal ba)と無我(bdag med pa)があっても,それら(諸行) と別異であるか非別異であると説かれるべきでなく,身(lus)と心(sems)において麁 重(gnas ngan len)と軽安(shin tu spyangs pa)があっても,身と心とそれら(麁重と軽 安)とは,別異であるか非別異であると説かれるべきでなく,善(dge ba)と悪(mi dge ba)と無記(lung de ma bstan pa)の諸法(chos rnams)の中に種子(sa bon)があっても, それら(善と悪と無記の諸法)とは,別異であるか非別異であると説かれるべきでない. 両方とも過失に陥るからである.

つまり,例えば,虚空(nam mkha’)は遍在するから,色処(gzugs kyi phyogs)において 虚空があっても,それ(虚空)とそれら(色処)とは別異であるとも非別異であるとも 説かれるべきではない. それはなぜか.両方とも過失に陥るからである. 別異性である場合,どんな過失があるのか.虚空が遍在しないから無常となる. 非別異性であるとき,どんな過失があるのか.色処と虚空が別でないことになる. そのような場合,この中にも,道理は適切に知られるべきである. (解説)次に,因相と真如との関係が考察される.因相と真如とは不一不異の関係 にあると主張される. 全く別異であるとき,因相の法性としての勝義性が,法性そのものとしての真 如と同一でないことになり,因相と真如の共通部分がなくなり,因相に真如が内

(6)

ている. まず名称と構想とは別異であるとされる.両者とも仮有であるが共通性はない とされる.龍樹的に考えれば,両者は何らかの関係にあるとも考えられるが,両 方とも本体がなく作為的人為的なものであり,存在性が希薄であるから,世親唯 識的には関係がないとも言えるであろう. 次に,名称と正智,構想と正智は,別であるとされる.名称・構想は仮有であ り,正智は実有であり,聖者の立場から,世親唯識的には共通性はないであろう. 最後に,因相の相と,名称の相と,構想の相と,真如の相と,正智の相とが, 説かれる. 因相には構想の認識対象としての相がある.名称には言葉の根拠としての相が ある.構想には因相のはたらく原因としての相がある.真如には正智の認識対象 としての相がある.正智には真如においてはたらくという相がある.

3.結論

以上の検討から明らかになったことは,『瑜伽師地論』「摂決択分」における不 一不異説は,世親の著作等で見られるような,聖と俗との不一不異説に限らず, 龍樹や有部・衆賢と類似する不一不異説も見られ,学説に統一性がないというこ とである.この著作は初期瑜伽行派思想形成期のものであり,雑多な思想が混在 する可能性があったのであろうと思われる. 〈略号〉 『瑜伽師地論』「摂決択分」D. no. 4038,P. no. 5539. 〈参考文献〉 那須円照 1999「得・非得に代わる種子の理論」『インド学チベット学研究』4: 67–78. ――― 2009『アビダルマ仏教の研究――時間・空間・涅槃――』永田文昌堂. ――― 2013「龍樹・世親(天親)の思想を背景とする曇鸞の不一不異説」『光華会宗教研 究論集』4: 1–32. 〈キーワード〉 因相,構想,真如,龍樹,世親,衆賢 (龍谷大学仏教文化研究所客員研究員,博士(文学)) 例えば,比丘たちよ,諸蘊に即しても執取せずに,諸蘊から離れても執取することがな いけれども,それでもこの場合,欲貪であるそれを,この場合,執取することがあると 言われるように. その場合,非別異性であるとき,どんな過失があるのか.答える.諸蘊(phung po rnams)の善(dge ba)と無記(lung du ma bstan pa)に対して誹謗して,不浄化(rnam par mi ’dag pa)の過失がある. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.答える.執取して常住性を増益し,不浄化 の過失がある. (解説)まず,諸蘊の中の善・無記なるものと不浄なるものとが全く同一であると き,善・無記なるものの不浄化の過失がある. 全く別異であるとき,善・無記なるものと不浄なるものが,ともに実体である ことになり,善・無記なるものに常住性を増益することになり,それらが不浄化 されるという過失になる. これらの問題点を解決する不一不異説は,諸蘊が空なるものであり,浄不浄に こだわらず,常住性もなく,類似性があるという龍樹中観的不一不異説であろう. 2.5. 因相・真如・名称・構想・正智の種種なる関係の考察

因相(rgyu mtshan)と真如(de bzhin nyid)のように,名称(ming)と構想(rnam par rtog pa)と正智(yang dag pa’i shes pa)もそのように知られるべきである.

因相と正智は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.構想のように両方とも説かれるべきではない. 名称と構想は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.別異と説かれるべきである. 名称と正智は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.別異と説かれるべきである. 構想と正智は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.別異と説かれるべきである. 因相の相は何か.答える.構想の所行の相である. 名称の相は何か.答える.言説の依り所の相である. 構想の相は何か.答える.因相の所行の相である. 真如の相は何か.答える.正智の所行の相である. 正智の相は何か.答える.真如における所行の相である. (解説)因相と正智とは,真には両者に共通の法性が有為無為を超越している点 で,同一であるが,因相は有漏・無漏に通じているが,正智は無漏のみであると いう点で,別異である.これは世親唯識的不一不異説である. 最後に,不一不異関係ではないが,諸要素間の関係や諸要素の相がまとめられ

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ている. まず名称と構想とは別異であるとされる.両者とも仮有であるが共通性はない とされる.龍樹的に考えれば,両者は何らかの関係にあるとも考えられるが,両 方とも本体がなく作為的人為的なものであり,存在性が希薄であるから,世親唯 識的には関係がないとも言えるであろう. 次に,名称と正智,構想と正智は,別であるとされる.名称・構想は仮有であ り,正智は実有であり,聖者の立場から,世親唯識的には共通性はないであろう. 最後に,因相の相と,名称の相と,構想の相と,真如の相と,正智の相とが, 説かれる. 因相には構想の認識対象としての相がある.名称には言葉の根拠としての相が ある.構想には因相のはたらく原因としての相がある.真如には正智の認識対象 としての相がある.正智には真如においてはたらくという相がある.

3.結論

以上の検討から明らかになったことは,『瑜伽師地論』「摂決択分」における不 一不異説は,世親の著作等で見られるような,聖と俗との不一不異説に限らず, 龍樹や有部・衆賢と類似する不一不異説も見られ,学説に統一性がないというこ とである.この著作は初期瑜伽行派思想形成期のものであり,雑多な思想が混在 する可能性があったのであろうと思われる. 〈略号〉 『瑜伽師地論』「摂決択分」D. no. 4038,P. no. 5539. 〈参考文献〉 那須円照 1999「得・非得に代わる種子の理論」『インド学チベット学研究』4: 67–78. ――― 2009『アビダルマ仏教の研究――時間・空間・涅槃――』永田文昌堂. ――― 2013「龍樹・世親(天親)の思想を背景とする曇鸞の不一不異説」『光華会宗教研 究論集』4: 1–32. 〈キーワード〉 因相,構想,真如,龍樹,世親,衆賢 (龍谷大学仏教文化研究所客員研究員,博士(文学)) 例えば,比丘たちよ,諸蘊に即しても執取せずに,諸蘊から離れても執取することがな いけれども,それでもこの場合,欲貪であるそれを,この場合,執取することがあると 言われるように. その場合,非別異性であるとき,どんな過失があるのか.答える.諸蘊(phung po rnams)の善(dge ba)と無記(lung du ma bstan pa)に対して誹謗して,不浄化(rnam par mi ’dag pa)の過失がある. 別異性であるとき,どんな過失があるのか.答える.執取して常住性を増益し,不浄化 の過失がある. (解説)まず,諸蘊の中の善・無記なるものと不浄なるものとが全く同一であると き,善・無記なるものの不浄化の過失がある. 全く別異であるとき,善・無記なるものと不浄なるものが,ともに実体である ことになり,善・無記なるものに常住性を増益することになり,それらが不浄化 されるという過失になる. これらの問題点を解決する不一不異説は,諸蘊が空なるものであり,浄不浄に こだわらず,常住性もなく,類似性があるという龍樹中観的不一不異説であろう. 2.5. 因相・真如・名称・構想・正智の種種なる関係の考察

因相(rgyu mtshan)と真如(de bzhin nyid)のように,名称(ming)と構想(rnam par rtog pa)と正智(yang dag pa’i shes pa)もそのように知られるべきである.

因相と正智は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.構想のように両方とも説かれるべきではない. 名称と構想は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.別異と説かれるべきである. 名称と正智は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.別異と説かれるべきである. 構想と正智は別異であると説かれるべきであるか,非別異と説かれるべきであるか.答 える.別異と説かれるべきである. 因相の相は何か.答える.構想の所行の相である. 名称の相は何か.答える.言説の依り所の相である. 構想の相は何か.答える.因相の所行の相である. 真如の相は何か.答える.正智の所行の相である. 正智の相は何か.答える.真如における所行の相である. (解説)因相と正智とは,真には両者に共通の法性が有為無為を超越している点 で,同一であるが,因相は有漏・無漏に通じているが,正智は無漏のみであると いう点で,別異である.これは世親唯識的不一不異説である. 最後に,不一不異関係ではないが,諸要素間の関係や諸要素の相がまとめられ

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