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Vol.19 , No.1(1970)001西 義雄「如来蔵思想の淵源に就いて」

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Academic year: 2021

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西

一 近 時 の 研 究 と 問 題 提 起 の 動 機 近 時 如 来 蔵 思 想 の 研 究 は、 梵 文 ﹁ 宝 性 論 ﹂ の 詳 細 な 研 究 な ど と 前 後 し て 可 な り 盛 ん に な つ た の で な い か と 思 わ れ る。 そ の 中、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と 言 う 名 称 に 関 説 す る 文 献 を 多 く 蒐 集 し、 之 を 漢 訳 の 翻 訳 年 代 及 び 思 想 的 展 開 な ど を 考 慮 し て 簡 潔 に よ く 纒 つ た 研 究 報 告 が、 勝 又 俊 教 氏 の ﹁ 仏 教 に お け る 心 意 識 の 研 究 ﹂ 第 二 篇、 心 性 ・ 心 体 論 の 展 開 ﹂ 中 の 第 二 章 ﹁ 如 来 蔵 思 想 の 発 達 ﹂ 中 に 見 出 さ れ る。 本 ﹁ 印 度 学 仏 教 学 研 究 ﹂ 誌 上 に 於 て も 従 来、 凡 そ 三 十 数 種 に 亘 る ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 に 関 す る 研 究 報 告 が な さ れ て い る。 そ の 多 く は ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と 銘 打 つ た 文 献 に 関 す る 諸 種 の 研 究 で あ る が、 こ の 二 三 年 来、 如 来 蔵 思 想 前 史 と も 言 う べ き、 そ の 源 流 を 明 か に し よ う と す る 諸 種 の 研 究 発 表 が な さ れ て い る。 以 上 の 中、 特 に 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 を 論 ず る に 就 い て、 筆 者 の 関 心 を 深 め た 二 三 の 研 究 論 文 中 の 第 一 は、 香 川 孝 雄 氏 の ﹁ 仏 種 に つ い て ﹂ で あ る。 こ の 中 で は、 心 性 本 浄 -仏 種-仏 性 の 思 想 系 列 に 関 し て、 そ の 必 然 的 関 連 展 開 を た ど り う る か ど う か が 吟 味 さ れ て い る。 而 し て 従 来 は、 心 性 本 浄-仏 性-如 来 蔵 と せ ら れ が ち で あ つ た が、 ﹁ 仏 種 ﹂ が ﹁ 仏 性 ﹂ と 同 一 視 せ ら れ、 阿 含 経 以 来 語 ら れ て き て い る ﹁ 釈 種 ﹂ ﹁ 聖 種 ﹂ ﹁ 仏 種 ﹂ の 種 の 思 想 が ﹁ 如 来 蔵 ﹂ ﹁ 仏 性 ﹂ の 教 説 へ と 展 開 す る 一 要 因 で あ る と 決 論 さ れ て お り、 特 に 竜 樹 の 智 度 論 に は ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 語 は な い が、 ﹁ 仏 種 ﹂ の 系 譜 を 辿 る こ と に よ つ て、 如 来 蔵 思 想 の 要 素 が 見 出 さ れ る と 言 わ れ て い る。 勿 論、 民 が 紹 介 さ れ て い る 如 く、 ﹁ 仏 種 ﹂ が 即 ち ﹁ 仏 性 ﹂ で あ る と す る 用 例 に 就 い て は、 こ れ 以 前 に 高 崎 直 道 氏 が ﹁ 華 厳 教 学 と ( 2) 如 来 蔵 思 想 ﹂ 中 に 指 摘 さ れ て い る 意 味 の、 仏 性 即 ち 如 来 性 起 又 は 如 来 興 現 の 義 に 用 い ら れ た ﹁ 仏 種 ﹂ の 義 を 援 用 さ れ て い ( 3) る よ う で あ る。 次 に、 石 橋 真 誠 氏 が ﹁ 如 来 蔵 縁 起 思 想 の 起 源 ﹂ に 於 い て 紹 介 さ れ て い る 如 く、 如 来 蔵taagata-garhaの gabhaの 起 源 を 望 月 信 亨 博 士 が、 曾 て Garba-upniadの 説 に 求 め ら れ た こ と も、 此 の 際、 再 吟 味 し て よ い 問 題 の 一 つ で 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 )

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如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 ) あ ら う と 思 う。 し か し、 更 に 高 崎 直 道 氏 は、 ﹁ 般 若 経 と 如 来 蔵 ( 5) 思 想 ﹂ と い う 論 文 中 に、 宝 性 論 に お け る 如 来 蔵 の 三 義 と す る 法 身、 真 如、、 如 来 性 の 相 即 性 を ふ ま え て、 ﹁ 般 若 経 ﹂ 中 に、 如 来 蔵 思 想 の 先 駆 的 思 想 が 見 出 さ れ る と し、 諸 仏 諸 菩 薩 及 び 一 切 衆 生 の 共 通 の 母 ( 即 ち 仏 母 般 若 ) が 如 と い う 蔵 と す べ き で ( 6) あ ろ う と い う 鈴 木 大 拙 氏 の 説 を 取 り 上 げ、 小 品 般 若 や 大 品 般 若 な ど に ﹁ 須 菩 提 は 如 来 の ア ヌ ジ ャ ー タ ( 随 生 ) と す る ﹂ 文 句 を 重 視 せ ら れ て い る こ と に 触 れ て お ら れ る。 か か る 如 来 蔵 思 想 前 史 と も い う べ き 諸 説 に 就 い て は、 筆 者 も 約 三 十 年 前、 原 始 仏 教 に 於 け る ﹁ 心 性 本 浄 論 を 発 表 し て 以 来、 従 来、 一 般 に 知 ら れ る 自 性 清 浄 心 (本 性 浄 心)-仏性-如 来 蔵 説 を と り、 こ れ を 屡 述 し て 来 て い た 丈 に、 非 常 な 学 的 興 味 を 以 て 拝 読 し た の で あ る。 特 に、 こ の 十 数 年 間、 梵 文 宝 性 論、 梵 文 樗 伽 経、 梵 文 十 地 経 な ど を 諸 漢 訳 を 参 照 し な が ら、 学 生 の た め に 読 解 し て き た 関 係 上、 此 の 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に つ い て は、 た え ず 深 い 関 心 を 持 つ て 来 て い た の で、 諸 専 門 学 者 の き び に 附 し て、 こ れ ま で の 考 の 一 端 を 述 べ て 見 た い と 思 う。 二、 問 題 の 所 在 と 研 究 方 針 イ ン ド に 著 作 さ れ、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と 銘 打 つ て、 此 に 関 説 さ れ て い る 経 及 び 論 の 中 で、 現 存 す る も の は、 約 十 九 種 が あ げ ら れ ( 7) る。 勿 論、 此 の 中、 ﹁ 大 乗 起 信 論 ﹂ の イ ン ド 撰 述 か、 シ ナ 撰 述 か の 議 論 が あ る か ら、 此 が 決 定 さ れ な い 限 り、 或 は 十 八 種 と す べ き か も 知 れ ぬ が、 筆 者 は 目 下 の 所、 種 々 の 点 か ら イ ン ド 撰 述 説 に 傾 い て い る。 又、 こ の 如 来 蔵 思 想 は、 申 国、 朝 鮮、 日 本 に 及 ぶ、 本 覚 門 系 統 の 仏 教 各 宗 の、 或 は 形 成 原 理 と し 或 は 説 明 原 理 と し て そ の バ ッ ク ボ ー ン と 見 ら れ 得 る 程、 重 視 さ れ て い る こ と が、 賢 首 の 華 厳 学 や、 こ の 影 響 を 受 け た 後 の 中 国 天 台 と 起 信 論、 真 言 学 と 釈 摩 詞 葱 論 な ど の 関 係 の 上 に 見 ら れ る こ と は、 既 に 周 知 の 如 く で あ る。 絃 で 問 題 は、 然 ら ば、 こ の 如 来 蔵 思 想 は、 何 時 頃 か ら、 如 何 様 に、 仏 教 史 上 唱 導 さ れ る に 至 つ た か と 言 う こ と で あ る。 前 述 の 如 く、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と い う 名 称 は、 現 存 の 竜 樹 の 著 述 に は 見 当 ら な い。 法 立 等 訳 の 大 方 等 如 来 蔵 経 は 西 紀 二 九 一-三 一 二 年 の 間 に 翻 訳 さ れ て い る の で、 此 が 若 し 仏 陀 蹟 陀 羅 (A. U 四 二 〇 年 頃 ) 訳 の 如 来 蔵 経 と 同 趣 旨 の も の で あ つ た と 見 て、 そ の 原 典 が 竜 樹 時 代 の 直 後 に あ つ た も の と 見 て も、 そ れ 以 前 に ま で さ か の ぼ り 得 る と の 確 証 は 未 だ 得 ら れ て い な い。 し か し 前 掲 し た 如 く、 香 川 氏 や 高 崎 氏 の 説 に は、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と い う 語 は な い が、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 の 要 素 と し て、 ﹁ 不 断 仏 種 ﹂ 説 や、 仏 母 と し て の 般 若 観 や、 諸 仏 の 子 息 即 仏 子 即 ち ﹁ 須 菩 提

沢如来の随生である。(anujo ym subih sthiras

Tatha-gatasya)説 な ど が あ つ た と の 提 案 が な さ れ る に 至 つ て い る。 こ の 提 案 は、 換 言 す れ ば ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と い う 名 と 実 ど を 内 的 に 展

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開 す べ き 意 義 内 容 を 有 す る 思 想 が、 少 く と も、 初 期 大 乗 仏 教 時 代 の 文 献 中 に 見 出 さ れ 得 る と い う こ と と 解 し て よ い で あ ろ う。 鈴 木 大 拙 氏 説 の 如 く、 小 品 般 若 に お け る 諸 法 如 の 如 が 蔵 ( 8) (tathagata-garbha)と よ ば れ て 然 る べ し と 言 う こ と を 認 め る と す れ ば、 尚 更 で あ る。 但 し、 此 等 の 諸 氏 の 如 来 蔵 思 想 の 要 素、 又 は 前 思 想 史 的 研 究 も、 そ の 論 証 典 拠 の 限 界 は 初 期 大 乗 文 献 を 限 度 と し て い る と 思 わ れ る が、 筆 者 の こ の 論 は、 斯 く 如 来 蔵 思 想 の 要 素 的 或 は こ れ を 内 的 に 展 開 し う る 意 義 内 容 を 含 畜 す る 法 義 の 存 在 を 更 に 引 き 上 げ、 原 始 仏 数 に 直 属 せ し め 得 な い で あ ろ う か と い う 点 に 視 野 を 拡 げ て 見 た い の で あ る。 次 に 其 の 検 出 方 針 に つ い て、 従 来 は、 多 く 名 目 を 中 心 の い は ば 文 献 史 的 方 法 と、 思 想 史 特 に 哲 学 史 的 研 究 方 法 と が 用 い ら れ て い た と 思 う が、 筆 者 は 更 に 此 の 上 に、 仏 教 を ﹁ 宗 教 ﹂ と 見 て、 宗 教 史 的 観 方 を 附 加 す べ き で あ る と 思 う。 換 言 す れ ば、 宗 教 学、 又 は 宗 教 史 学 と し て は、 一 定 の 宗 教 を 信 奉 す る 人 々 は、 そ の 宗 教 々 義 や そ の 実 現 修 行 法 の 有 効 性 を 信 じ、 必 ず そ の 教 法 に よ つ て 目 的 が 達 成 さ れ る と 言 う こ と を 確 信 し て、 そ の 宗 教 体 制 の 中 に 入 り 住 し 思 索 し 行 修 し て い る 筈 で あ る。 こ の 確 信、 広 く は ﹁ 信 ﹂ な く し て は、 あ ら ゆ る ﹁ 宗 教 ﹂ の 社 会 的 現 象 は、 持 続 す る こ と が 困 誰 で あ る か ら で あ る。 仏 教 は 小 乗 ・ 大 乗 と 大 き く 分 れ て は い て も、 共 に、 成 仏 道 を 最 上 最 高 目 標 と し、 ﹁ 法 ( 三 法 印 の 如 し ) を 見 る も の は わ れ ( 釈 尊 自 身 の 真 仏 ) を 見 る ﹂ と い う 根 本 教 理 が 信 ぜ ら れ て い て、 若 し 如 来 仏 陀 の 教 法 の 如 く に 正 し く 信 解 行 証 す れ ば、 必 ず 成 仏 疑 い な し と の 信 が 先 与 条 件 と な つ て い た と 推 定 せ ざ る を え な い。 即 ち こ の 点 に 就 い て は、 従 来、 中 国 以 来 の 教 相 学 者 に は 多 少 の 誤 解 も あ つ た が、 小 乗 仏 教 論 に 於 て も 発 心 修 行 の あ り 方 次 第 で は 成 仏 可 能 性 が 説 か れ て い る こ と は 同 じ で あ る。 此 ( 9) 件 こ と に 就 い て は、 他 に 論 じ た 通 り で あ る。 斯 る 宗 教 と し て の 又 は 宗 教 史 観 へ の 無 関 心 が、 曾 て は 経 成 立 編 纂 の 時 間 的 限 定 に の み 囚 わ れ た 人 々 に よ り 大 乗 非 仏 説 論 が 展 開 さ れ て い た 所 以 で も あ ろ う。 又、 歴 史 的 に 観 て 後 出 の 諸 大 乗 仏 典 が、 等 し く 仏 説 と し て 説 述 さ れ 且 つ 奉 ぜ ら れ て ぎ て い た 仏 教 史 上 の 特 殊 事 情 を も、 全 く 無 視 す る こ と に な る か ら で あ る。 ( 但 し こ の 仏 教 史 観 に 就 い て は、 論 述 上 の 必 要 に 応 じ て 詳 論 し た い )。 第 三 に、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と 言 う ﹁ こ と ば ﹂ が 術 語 と し て 用 い ら れ る に 至 つ て い な い、 い は ば、 如 来 蔵 前 思 想 を 探 究 す る た め に は、 仏 教 の 重 大 な 意 義 を 含 む 術 語 を し て 通 用 さ れ る に 至 つ た ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 重 用 な 意 義 と 思 想 内 容 を 先 づ 明 了 に し て お き た い。 単 に ﹁ こ と ば ﹂ に の み 重 点 を 置 い て の 該 博 な 研 究 は、 ﹁ こ と ば ﹂ が 一 般 世 間 共 通 語 で あ る 上 に、 全 く そ の 意 味 内 容 を 異 に し て、 流 通 し て い る こ と も あ り 得 て、 前 述 の 社 会 に 信 ぜ ら れ て い る ﹁ 宗 教 ﹂ 上 の 重 大 な 術 語 的 用 語 の 源 泉 研 究 と し て は、 必 ず し も 妥 当 で な く、 往 々 に し て そ の 学 者 の 言 語 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 )

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如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て (西 ) 的 博 学 を 誇 示 す る に 留 ま る こ と も あ り う る か ら で あ る。 三 如 来 蔵 と 本 性 浄 心 ( 能 摂 蔵 論 ) ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 を 構 成 す る 諸 種 の 重 要 の 要 素 を 組 織 化 し て 述 べ て い る と、 一 般 学 者 に 多 く 認 め ら れ て い る の は、 如 来 蔵 経 や 勝 髭 経 等 の 如 来 蔵 説 を 更 に 詳 細 に 説 述 し た ﹁ 宝 性 論 ﹂ で あ る、 と は、 近 時 の 定 説 で あ ら う。 今 は、 勝 髭 経 の 所 説 と 宝 性 論 の 所 説 と か ら、 如 来 蔵 の 重 要 思 想 を 五 義 に 絞 つ て 左 に 明 ら か に し、 且 つ 其 の 内 含 す る 意 義 内 容、 い は ば、 此 等 の 要 素 と (10) な る 思 想 を、 湖 源 的 に 抽 出 し て 見 た い と 思 う。 即 ち 宝 性 論 か ら は 所 謂、 如 来 蔵 の 三 蔵 説 を 取 り 出 し ( 後 説 の 一、 二、 三 義 )、 (11) 更 に 勝 壼 経 (勿 論、 宝 性 論 の 説 を も 参 照 し て ) か ら は、 二 義 ( 後 説 の 二 義 ) を 取 出 し て 見 る と し よ う。 (一) 如 来 蔵 は 一 切 の 衆 生 界 を 包 括 し て い る。 ( 法 身 遍 在 で あ り、 所 摂 蔵 と い わ れ る。 ) (二) 一 切 の 衆 生 は 総 べ て 如 来 蔵 を 有 す る ( 隠 密 蔵 と 能 摂 蔵 を 意 味 し、 一 切 衆 生 悉 有 仏 性 の 義 を 示 す ) (三) 如 来 蔵 の 本 質 は、 法 身 で あ り、 従 つ て 不 生 不 滅、 常 住 不 変 で、 痂分別智所証の本性浄心即ち自性清浄心(citta-prakrti-prab-hasvara)で あ る。 (四) こ の 如 来 蔵 ( 仏 性 ) を 有 す る が 故 に、 一 切 衆 生 は 自 ら 諸 苦 を 厭 い、 浬 架 の 楽 を 求 め 欲 し 願 う に 至 る。 即 ち 上 求 菩 提 へ の 働 き を 法 爾 に 有 す る こ と を 意 味 す る。 ( 大 乗 起 信 論 に お け る 浄 心 薫 と 妄 心 蕪 と 真 如 蕪 等 に 当 る ) (五)如 来 繊 は 一 切 法 の 浄 械 の 依 持 と 建 立、 即 ち 浄 法 も 繊 法 を も 画 き 出 す ( 即 ち 如 来 蔵 縁 起 の 生 滅 門 ) 右 の 五 義 中、 第 三 義 の ﹁ 如 来 蔵 の 本 質 は 法 身 で あ り、 ⋮乃 至 自 性 清 浄 心 で あ る ﹂ と 言 つ た の は、 有 名 な 宝 性 論 のyo

yam bhavams tathaagarbholokragarbha

pra-krtiparisuddhaarbha iti(Ratnatravibaga Mahayanotara

tanta sastra by E. H. Johnston. pp. 72-3)によつたので、此

の 文 は 勝 髪 経 の ﹁ 世 尊、 如 来 蔵 者、 是 法 界 蔵、 法 身 蔵、 出 世 間 上 上 蔵、 自 性 清 浄 蔵 ﹂ ( 大 正 一 二、 頁 二 二 二、 中 ) を 抄 出 し た 文 と さ れ て い る が、 更 に 湖 れ ば、 こ の 勝 髪 経 の 文 は、 六 十 華 厳 十 地 品 法 雲 地 申 の、 十 解 脱 の ﹁ 不 可 思 議 解 脱 ⋮如 来 蔵 解 脱 ⋮法 性 蔵 解 脱 ⋮﹂(大 正 九、 頁 五 七 三、 上、 近 藤 本、 梵 文 十 地 経、 頁 一 八 七 ) を 転 用 し た も の と さ れ て い る、 尚 こ の 十 地 品 の 旧 訳 で、 竺 法 護 が 西 紀 二 九 七 年 に 訳 し た と さ れ る 漸 備 一 切 智 徳 経 の 第 十 地 に も 同 一 相 当 文 が あ る ( 大 正 十、 頁 四 九 一、 上 ) か ら、 竺 法 護 訳 の 原 本 は、 恐 ら く 西 紀 二 五 〇 年 前 後 即 ち 竜 樹 活 動 時 代 に は イ ン ド に 成 立 し て い た と 推 定 し 得 る。 但 し 竜 樹 の 大 智 度 論 に 引 用 せ る 十 地 経 も 同 趣 同 文 で あ つ た か ど う か は、 確 定 し 得 な い。 然 し 竜 樹 に は 十 地 経 に 対 す る 註 釈 と し て 十 住 毘 婆 沙 論 も あ つ た と も 見 ら れ る か ら、 漢 訳 に は 第 二 地 ま で よ り 存

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-4-し な い が、 現 存 の 竜 樹 の 著 作 中 に ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 名 目 が 見 出 せ な い か ら と て、 竜 樹 が ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 を 全 く 知 ら な か つ た と 断 定 す る こ と に は 大 い に 問 題 が あ る の で は な か ろ う か。 こ れ は と に 角 と し て、 梵 文 十 地 経 を 見 る と、 此 等 の 中 の 如 来 蔵 は tathagata-kosaで、 法 界 蔵 がdharma-dhatugarbhaと な つ て い る が、 彼 の 十 解 脱 は 異 句 同 意 と 見 ら れ る の で、 梵 文 宝 性 論 中 の 勝 髭 経 の 引 用 句 で は、tathagata-garbhaと な つ て い る こ と は、 周 知 の 如 く で あ る。 さ て、 自 性 清 浄 心 と 言 え ぱ、 筆 者 も 読 者 も 否、 総 て ﹁ 心 ﹂ を 有 す る も の 一 切 衆 生 の、 心 の 本 性 本 質 が 清 浄 で あ り、 こ れ が 真 仏 如 来 即 ち 法 身 で あ る こ と を 明 示 し て い る。 即 ち こ れ は 同 時 に 第 二 義 の 一 切 衆 生 悉 有 仏 性 を も 意 味 す る こ と と な る。 此 の 自 性 清 浄 心 即 ち 本 性 浄 心 説 が、 既 に 原 始 仏 教 に 存 す る こ と に 関 し て は、 従 来 の 原 始 仏 教 研 究 の 先 覚 中 に 於 て は、 殆 (12) ん ど 特 別 の 注 意 が な さ れ て い な か つ た。 そ れ 丈 に 近 時 一 般 の 学 者 に も 往 々 等 閑 視 さ れ 勝 で あ る が、 筆 者 は、 曾 て 他 書 に 三 界 輪 廻 の 諸 苦 縛 か ら 解 脱 し た 心、 即 ち 心 の 解 脱 せ る も の 又 は 解 脱 心 と、 こ れ を 苦 縛 し て い る 因 縁 集 起 の 煩 悩 が、 そ の 名 と 義 と か ら も 客 塵 煩 悩 と 称 さ れ る も の な る こ と、 及 び 解 脱 心 が 金 鉱 中 の 金 の 如 し 等 の 響 喩 も 原 始 経 典 に 早 く 説 か れ て い る 点 等 か ら、 既 に 釈 尊 教 義 の 中 心 に、 こ の 本 性 浄 心 の 自 覚 が あ つ (13) た こ と を、 種 々 の 方 面 か ら 論 証 し て お い た の で あ る。 そ し て こ の 説 が 後 に、 舎 利 弗 阿 毘 論 や 大 衆 部 系 に 伝 持 さ れ て、 初 期 般 若 経 が こ の 説 を 出 発 点 と し て い る こ と も、 諸 処 に 於 て 論 述 し て き た。 原 始 仏 教 で も、 こ の 自 性 清 浄 心 の 顕 現 が 真 仏 た る 法 身 の 面 目 で あ り、 こ れ は 取 り も な お さ ず、 真 如 (sacca)の 現 成 で あ る こ と を 示 し て い る が、 こ れ 等 の 点 は、 宝 性 論 で も、 仏 ・ 真 如 ・ 自 性 清 浄 説 に 触 れ て い る 到 る 所 に 見 出 さ れ、 客 塵 煩 悩 説 と 金 鉱 の 喩 な ど を 使 用 し て い る 点 が 注 目 さ れ る の (14) で あ る。 四 如 来 蔵 の 一 切 衆 生 包 摂 論 ( 所 摂 蔵 論 ) 前 来 特 に 注 意 し た 如 く、 如 来 蔵 の 自 性 清 浄 心 は、 そ の 本 質 面 に 於 て で あ つ た が、 そ の 非 本 質 面 即 ち 現 象 面 は、 従 つ て、 心 の 本 性 ( p rakrti)が 顕 現 せ ず し て、 客 塵 煩 悩 に 覆 わ れ た 心 或 は 煩 悩 倶 生 な る ﹁ 心 ﹂ に 当 る。 さ て、 こ の 如 来 蔵 が 一 切 衆 生 を 包 摂 す る 面、 即 ち 一 切 衆 生 の 所 摂 蔵 面 の 要 素 の 直 接 的 起 源 は、 学 者 中 に は、 十 地 経 第 六 現 前 地 中 に あ る ﹁ 三 界 虚 妄 但 是 (15) 心 作、 或 十 二 因 縁 分 是 皆 依 レ 心 ﹂ に あ り と 指 示 し て い る 人 も あ る。 こ の 華 厳 経 の 十 地 品 が、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 前 史 に 密 接 な 関 (16) 係 の あ る こ と は、 前 来 触 れ て 来 た が、 更 に 斯 の 先 駆 思 想 の 原 形 は 原 始 仏 教 の 三 界 唯 心 造 説 に 販 因 せ し め う る。 即 ち 阿 含 中 に ﹁ 心 が 稼 れ る が 故 に 衆 生 が 汚 が れ、 心 が 浄 と な る が 故 に 衆 生 も 浄 と な る ﹂ (S.III pp. 151-152, 雑 阿 含 第 二 六 七 経 大 正 二、 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 )

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-5-如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 ) 百、 六 九、 下 ) と 言 い、 更 に 続 い て、 此 の 雑 阿 含 経 文 に は 染 瀞 者 又 は 画 師 が 種 々 の 色 料 に よ つ て 山 川 草 木 人 物 動 物 等 の 類 別 の 一 切 を 染 め 画 き 出 す 如 く、 衆 生 の 心 の 作 用 も、 又、 ﹁ こ の 染 締 者 や 画 師 の 如 し ﹂ と の 義 を 述 べ て い る。 こ の 響 喩 の 部 分 (16) が、 六 十 華 厳 経 夜 摩 天 宮 菩 薩 説 偶 品 第 十 六 中 の 如 来 林 菩 薩 の 偶 品 第 十 六 中 の 如 来 林 菩 薩 の 偶 中 に 述 べ ら れ て お り、 此 は 明 か に 三 界 唯 心 造 説 を 明 示 す る 根 拠 と さ れ て い る。 即 ち ﹁ 心 如 工 画 師、 画 種 々 五 纏、 一 切 世 界 中、 無 二 法 而 不 7 造 ﹂ の 偶 が そ (17) れ で あ る。 原 始 仏 教 に お け る 心 は、 い わ ば、 バ ラ モ ン 思 想 の 創 造 神 の 役 割 を な し て お る と 言 い う る が、 こ の 三 界 唯 心 造 説 が、 そ の ま ま ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 第 一 義 の 所 摂 蔵 観 に 引 き つ が れ て い る と 見 得 る か ら、 一 切 の 差 別 の 世 界 の 衆 生 の 生 死 の 依 と な り 持 続 者 と な り 建 立 者 と も な る と す る ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 第 五 義 を も、 原 始 仏 教 以 来 の こ の 三 界 唯 心 造 の 心 論 に よ つ て 説 明 し 得 る で あ ろ う。 五 如 来 蔵 の 名 義 の 生 ず る 所 以 絃 で 暫 ら く ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 名 義 に 就 い て 考 え て 見 よ う。 若 し 右 所 説 の 如 く、 原 始 仏 教 の 本 性 浄 心 の 自 覚 に 基 づ く 三 界 一 切 法 の 創 造 力 と し て の 心 説 を 基 盤 と す る と 見 る な ら ば、 何 が 故 に ﹁ 心 蔵 ﹂ 説 と 呼 称 し な か つ た か、 又、 上 掲 の 十 地 経 中 に は、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 外 に、 ﹁ 法 身 蔵 ﹂ と か ﹁ 法 界 蔵 ﹂ と か も あ り、 更 に 鈴 木 大 拙 氏 の 説 中 に あ る の 如 く、 如 即 ち 真 如 と い う 蔵 と よ ば れ て 然 る べ し、 と の 説 な ど か ら は、 ﹁ 真 如 蔵 ﹂ な ど と 云 う 呼 称 が な ぜ 流 通 す る に 至 ら な か つ た の で あ ろ う か、 と 言 う 問 題 に つ い て で あ る。 こ の 問 題 に つ い て、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ の 語 義 中 に は 此 を 機 た る 衆 生 に も 通 じ、 法 た る 真 如 法 界、 仏 た る 法 身 に も 通 じ つ つ、 し か も 一 切 衆 生 を し て 本 性 浄 心 な る 法 身 を 自 覚 せ し め る 如 き 重 大 な 接 点 と も な る 意 義 が、 内 含 さ れ て い る。 然 る に、 法 身 蔵 と か 真 如 蔵 と い え ば、 本 性 浄 心 を 表 わ す に 傾 き、 法 界 蔵 と い え ば、 機 を も 含 む に 拘 ら ず、 法 に 重 心 の お か れ た 表 現 と な り が ち で あ る し、 心 蔵 と 言 え ぱ、 機 の 面、 現 象 面 が 表 に 出 て、 真 如、 法 身 等 の 面 を、 と も す れ ば、 見 逃 し 勝 ち と な る 恐 れ が あ る で あ ろ う。 然 る に、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と い う 中 の ﹁ 如 来 ﹂ と 言 う 呼 称 は、 衆 生 た る 機 が 真 如 を 体 現 現 成 し て 法 身 を 具 象 せ る 者 な る と 共 に、 そ の 真 如 か ら 機 た る 一 切 衆 生 救 済 の た め に 衆 生 界 に 来 て、 衆 生 を 世 俗 に 通 ず る 諸 方 便 に よ り 教 導 す る 大 悲 の 実 現 者 の 義 が、 原 始 仏 教 以 来、 仏 教 社 会 に 信 ぜ ら れ て い た と 推 定 し う る。 例 せ ぱ、 原 始 仏 教 に 於 て、 ﹁ 如 来 ﹂ の 五 義 を 説 く 中 に、 如 来 は 成 道 よ り 入 滅 ま で、 そ の 所 説 が 凡 て 真 如 で あ つ て、 虚 妄 で な く、 又 所 説 の 如 く 説 く が 故 に、 如 来 と 名 つ く と い い、 如 よ り 来 た れ る が 故 に 如 来 (tatha-agata)と 説 く と せ ら れ て い

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( 18 ) た。 又、 大 乗 に な つ て か ら も、 例 せ ぱ、 竜 樹 の 十 住 毘 婆 沙 論 巻 一 に も ﹁ 如 ﹂ と ﹁ 如 来 ﹂ と の 関 係 を 原 始 仏 教 か ら の 義 を も 尊 重 し つ つ、 次 の 如 く 述 べ て い る。 略 示 す れ ば(1)如 来 と は、 如 を 名 け て 実 と 為 し、 来 を 名 け て 至 る と 為 す。 真 実 ( 浬 架 ) 中 に 至 る が 故 に、 如 来 と 名 つ く。(2)如 は 不 壊 相 に 名 つ く。 所 謂、 諸 法 実 相 な り。 来 は 智 慧 に 名 つ く。 実 相 中 に 到 り て 其 の 義 に 通 達 す る が 故 に 如 来 と 名 く。(3)空 ・ 無 相 ・ 無 作 を 如 と 為 す。 諸 仏 は 三 解 脱 門 に 来 至 し て、 衆 生 を し て 此 門 に 到 ら し む る が 故 に 如 来 と 名 つ く 云 云 と。 其 の 他、 如 と し て 四 諦、 六 度 な (19) ど も 挙 げ て、 如 来 の 十 義 を 述 べ て い る。 即 ち 真 如 を 自 ら 体 得 し、 ( 大 智 ) 又、 方 便 を 尽 く し て 衆 生 に 真 如 を 体 得 さ せ る ( 大 悲 ) と い う こ と が、 ﹁ 如 来 ﹂ で あ る と 確 信 さ れ て 来 て い た の で あ る。 聖 と 凡、 無 漏 と 有 漏、 不 生 不 滅 と 生 滅、 常 と 無 常 等 に ま た が つ て、 凡 聖、 漏 ・ 無 漏、 生 死 と 不 死、 無 常 と 常 と に 通 ず る の が、 如 来 と い う 名 号 に 期 待 さ れ て い た と 見 て よ い。 次 に 蔵 (garbhca)で あ る が、 前 述 の 如 く、 望 月 信 享 博 士 が、 そ の 源 流 を G a r h h a-upanisadに 求 め ら れ て い る が、 こ の 奥 義 書 は そ の 成 立 年 代 も 不 明 で あ り、 そ の 中 に Samkhya yoga説 な ど も 見 ら れ る の で、 奥 義 書 と し て は 可 な り 遅 い 成 立 で あ り、 ご く 一 部 の 派 の 所 属 書 と ル か 見 ら れ な い。 従 つ て、 わ れ わ れ が、 若 しGarbhaの 源 流 を 求 め る と す る な ら ば、 リ グ ・ ヴ ェ ー ダ 一 〇 ・ 一 二 一 に あ り、 ア タ ル ヴ ァ ヴ ェ ー ダ 四、 二 〇 タ イ テ リ ー ヤ 本 集 四、 一、 八 等 に も 記 載 さ れ て い る、 プ ラ ヂ ャ ー パ テ イ ( 生 主 ) 讃 歌 中 の、Hiranya-garbha ( 金 胎 ) の gq a rh haに、 こ の 語 の 源 泉 を 求 め た い。 此 の 方 が、 如 来 蔵 の 蔵 の 源 泉 と 見 る に、 成 立 時 期 か ら 見 て も、 其 の 内 容 か ら 考 え て も、 遙 か に 相 応 し い と 思 う か ら で あ る。 但 し 本 論 文 で ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 の 淵 源 を 仏 教 思 想 史 上 に 求 め る に 就 い て は、 斯 く 如 来 と 別 に ﹁ 蔵 ﹂ の 淵 源 を 求 め る 如 き 方 針 は、 こ こ で は 取 ら な い こ と と す る。 高 崎 氏 が、 鈴 木 大 拙 民 の 般 若 経 に あ る、 ﹁ 須 菩 提 は 如 来 の 随 (20) 生 (anujata)で あ る ﹂ と す る に 目 を つ け て、 こ れ に 梵 文 宝 性 論 第 三 十 四 頒 の ﹁ 最 上 乗 に 対 す る 信 解 を 種 子 と し、 仏 法 の 発 生 の た め 般 若 を 母 と し、 禅 定 を 胎 (garbha)と し て 処 し、 大 悲 を 乳 母 と す る 者 達、 彼 等 は 詣 仏 ( 牟 尼 ) の 息 子 (arasa)で (21) あ り、 随 生 者 (anujata)で あ る ﹂ と あ る の を 引 き あ わ せ、 こ れ 等 は ﹁ 仏 種 性 (gotra)﹂ の 規 定 に 結 び つ く 重 要 な 思 想 で あ る と 論 じ ら れ て い る。 し か し、 又、 筆 者 は、 般 若 経 中 の 須 菩 提 を ﹁ 如 来 の 随 生 で あ る ﹂ (anujato ⋮tathagatasya)の 義 を 文 字 通 り、 平 凡 に ﹁ 如 来 の 子 ﹂ の 義 と 見 て、 考 え て 見 る こ と と し た い。 即 ち 如 来 が 子 息 を 産 む と な れ ば、 如 来 に 胎 (garbha)が あ る こ と と 思 わ ね ば な る ま い。 か く 解 す れ ば、 如 来 は 聖 弟 子 の 親 で あ り、 此 等 を 出 生 し 得 る 機 能 を 有 す る も の と し て、 こ れ が ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と な 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 )

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如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 ) る 筈 で あ る。 然 も こ の 聖 弟 子 達 の う み の 親 は、 世 間 の 父 母 と 異 り 無 分 別 な る 真 如 の 顕 現 で あ る か ら、 父 母 未 生 以 前 の 親 と い う べ き で あ ろ う。 そ の 上、 こ の 意 味 の 親 子 の 義 は 小 品 ( 八 千 頗 ) 般 若 以 後 の 考 で は な い。 已 に 原 始 仏 教 の 聖 典 中 に あ ら (22) わ れ て い る こ と は、 こ れ 亦、 筆 者 は 明 か に 他 に 論 述 し て い る。 即 ち 仏 弟 子 で あ る 諸 の 阿 羅 漢 達 を ﹁ 仏 陀 の 諸 の 愛 子 ﹂ ( putta buddhassaorasa仏 陀 自 か ら 生 め る 子 供 達 ) と 呼 ん で い (23) る か ら で あ り、 又、 長 老 偶 中 に も ﹁ 仏 陀 の 相 続 人 (buddhassa (24) dayada)た る 比 丘 は、 予 が 教 え に て 欲 貧 を 早 く 捨 て 去 れ り ﹂ と い つ て い る。 こ の 考 は、 仏 弟 子 達 が ﹁ 吾 々 に と り、 世 尊 は、 諸 法 の 根 本 た る も の、 世 尊 は 導 者 で あ り、 世 尊 は 所 依 処 (25) で あ る ﹂ と せ る 有 名 句 と 同 趣 旨 を 明 す の で あ る。 又、 仏 陀 の 立 場 か ら は、 法 華 経 の ﹁ 三 界 の 衆 生 は 皆 是 れ 我 が 子 な り ﹂ と す る。 更 に 施 設 論 の 中 に、 諸 仏 は 修 行 中 に も 既 に ﹁ 菩 薩 は、 (26) 長 時、 諸 の 衆 生 を 観 ず る こ と 一 子 と 等 同 な り 云 云 ﹂ と し て き た と 言 つ て い る 程、 一 般 化 し た 思 想 で も あ つ た。 前 述 く 如 く、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 乃 至 法 界 蔵 等 を 説 い た 最 初 の 書 と レ て の 梵 文 十 地 経 中 に は、 到 る 所 に、 金 剛 蔵 菩 薩 が 聴 法 者 達 を ﹁ 郷 等、 仏 子 よ (jina-putra)と 呼 び か け て お り、 又 ﹁ 善 逝 自 ら 生 ぜ る も の ﹂ ( Sugatatmaja)(p. 31)と か、 ﹁ 仏 の 子 息 ﹂ (jina-suta)(p. 33) と か、 ﹁ 仏 陀 の 子 息 ﹁ (jina aurasa)(p.33)と 呼 ん で い る の を 発 見 す る。 律 の 大 品 に、 ﹁ 和 尚 の 弟 子 を 見 る こ と 当 に 実 子 た り と (putta citta)心 せ よ、 弟 子 の 和 尚 を 見 る こ と 実 父 た り と 心 (patucitta)せ よ ﹂ (Vinaya III. P. 45)と 言 つ て い る 所 か ら 見 て も、 仏 陀 如 来 の 直 弟 子 が 如 来 を 真 の 親 と し、 又、 如 来 が 愛 弟 子 を 実 の わ が 子 の 如 く と 思 つ て い る と の 思 想 が 生 ず る こ と は、 頗 る 自 然 で あ ろ う。 此 等 の 点 か ら、 即 ち 如 来 の 真 実 の 教 え の 中 心 思 想 を 内 含 せ し め る 意 味 で、 此 を ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 と し て 適 確 に 把 握 せ し め る 点 か ら も、 寧 ろ ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 が 仏 教 界 に 言 い 出 さ れ て く る に 至 つ た こ と は、 当 然 で あ つ た と 言 つ て よ い の で は な か つ た で あ ら う か。 如 来 蔵 系 思 想 史 上 に 於 い て 重 要 な 役 割 を し て い る 宝 性 論 が 究 寛 一 乗 論 を 宝 性 (Ratna gotra)と 修 飾 せ る 点 や、 仏 家 仏 種 等 と の 関 係 を 辿 つ て、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 の 要 素 を 明 め よ う と す る 努 力 に は 深 い 敬 意 を 表 す る し、 こ れ も 亦、 確 か に 有 益 な 研 究 と 思 う が、 然 し、 考 え 方 に よ つ て は、 仏 家 と か 仏 種 に 関 す るvamsaと かgotraと か に、 若 し も 声 聞 種 性 と か 縁 覚 種 性 と か に 対 立 す る 意 味 が、 多 少 で も、 此 に 附 加 さ れ る 如 き 危 催 が あ る な ら ば、 一 乗 仏 教 と し て の 一 切 衆 生 悉 有 仏 性 と か 如 来 蔵 の 一 切 衆 生 を わ が 子 と 見 る 所 摂 蔵 の 意 味 と か ら 見 て、 稽 と 要 注 意 の 感 が 起 ら な い の で も な い か と 思 う。 と 言 う 所 以 は 種 姓 論 を 重 視 す る 所 説 の 流 れ の 中 の 三 乗 種 姓 分 別 に は、 二 乗 種 姓 の 阿 羅 漢 に と り 成 仏 の 可 能 が な い と す る 説 と か、 或 い は 五 性 各 別 説 に は、 無 仏 性 有 情 説 な ど が 後 世 も 生 ず る に 至 つ て お

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る か ら で あ る 。 尚 、 自 力 聖 道 門 系 で は 問 題 が な い と し て も 、 浄 土 門 他 力 系 の 人 間 観 か ら は 、 此 の 如 来 蔵 思 想 に 多 少 の 違 和 感 を 懐 く む き も 或 は あ る か も 知 れ ぬ 。 こ の 点 に つ き 、 薄 学 の 筆 者 は 、 浄 土 門 で は 如 来 の 本 願 が 成 就 し て い て 、 一 切 衆 生 に し て 刹 那 に 阿 弥 陀 如 来 の 名 号 の み で も 聞 く も の は 凡 て 、 弥 陀 如 来 に 摂 取 不 捨 で あ る と さ れ て い る 所 、 既 に 如 来 蔵 の 所 摂 蔵 の 義 あ り と 見 る 可 き で な か ろ う か と 考 え て い る が 、 専 門 学 者 の 忌 慨 な き 御 指 教 を う け る こ と が 出 来 れ ば 幸 甚 で あ る 。 六 如 来 蔵 の 厭 離 、 食 欲 、 欣 求 浬 葉 前 掲 の 如 来 蔵 の 五 義 中 に 於 い て と り 扱 つ た 中 の 、 第 四 義 の 問 題 で あ る が 、 是 は ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と し て の 大 悲 面 の 衆 生 に 於 け る 内 部 作 用 と し て 、 起 信 論 で い え ぱ 、 染 と 浄 と 真 如 と の 黒 習 論 に 相 当 す る 問 題 と 考 え ら れ る 。 こ の 意 味 を 原 始 仏 教 に 求 め る に 、 諸 の 仏 数 信 者 で あ る 出 家 も 在 家 も 、 三 法 印 等 を 信 受 す る に 至 る も の に は 、 自 つ か ら 世 間 の 諸 法 に 無 常 と 苦 と 無 我 と を 順 次 に 痛 感 し 、 正 般 若 を 以 て 、 諸 法 を 如 実 観 し て 、 こ れ を 厭 い 、 こ れ に よ つ て 離 欲 し 、 離 欲 す る こ と に よ り 、 解 脱 し 浬 架 を 証 す る に 至 る と 説 く 数 多 く の 経 典 が あ る こ と を 発 見 し 得 よ う 。 例 せ ば 雑 阿 含 経 第 一 九 五 経 ( 大 正 二 、 の 通 し 番 号 に よ る ) (S. III p. 1)に は 、 六 根 に つ き て 、 雑 阿 含 第 三 三 三 経 (S.III p. 4)に は 三 世 の 六 根 に つ い て 、 雑 阿 含 第 二 〇 八 経 (S.III p.4)に は 三 世 の 六 境 に つ い て 、 等 し く 無 常 ・ 苦 ・ 無 我 を 順 次 に 正 般 若 に よ り て 如 実 見 し て 、 や が て 厭 患 し 離 貧 し 、 離 欲 し て 解 脱 浬 藥 を 欣 求 す る に 至 る な ど と 多 説 し て い る 如 く で あ る 。 こ の 六 根 六 境 は 共 に 十 二 処 説 と な る が 、 こ の 十 二 処 説 は 分 別 に よ る 一 切 法 を 示 す か ら 、 か か る 一 切 法 に つ き 厭 患 し 離 欲 し て 浬 葉 を 欣 求 す る 心 が 如 来 の 教 に よ り 自 ら 生 ず る に 至 る (26) こ と を 示 し て い る 。 阿 毘 達 磨 に な る と 、 婆 沙 論 巻 二 八 に は 厭 と 離 染 と 解 脱 と 浬 葉 を 論 ず る が 、 倶 舎 論 に 至 れ ば 、 ﹁ 厭 は 苦 ・ 集 を 縁 ず る 慧 ( 忍 智 ) な り 。 離 は 四 ( 諦 ) を 縁 じ て 能 く 断 ず ﹂ と し て い る 。 し か し て 、 こ の 慧 は 、 衆 生 が 本 来 此 を 亦 具 足 し て い る こ と が 、 真 実 で あ る と す る こ と に も な る 。 即 ち 有 部 宗 に 於 て は 、 こ の 慧 を 大 地 法 と す る 所 以 で も あ る 。 さ て 先 に 如 来 の ﹁ 如 ﹂ 中 に は 、 原 始 仏 教 に お け る 四 諦 の 法 を も 竜 樹 が 含 め て い る こ と を 指 摘 し た が 、 是 の 如 く 、 こ の 如 を 体 現 し た 如 来 の 教 た る ﹁如 来 蔵 ﹂ 思 想 に は 、 当 然 こ の 苦 を 圧 ひ 浬 架 を 欣 求 す る 作 用 が 存 す る と 見 な け れ ば な ら な か つ た の で 、 こ の 意 味 の 如 来 蔵 の 義 も 亦 、 原 始 仏 教 以 来 の 教 説 を 、 当 然 内 的 に 思 想 展 開 せ し め た も の と 見 得 る の で あ ろ う 。 六 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 説 の 流 通 の 時 機 以 上 、 如 来 蔵 の 五 義 の 意 義 内 容 を 原 始 仏 教 ま で 湖 つ て 探 究 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て (西 )

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如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て (西 ) し て 見 た 結 果 、 如 来 蔵 思 想 前 史 に 当 る も の は 、 遙 か に 原 始 仏 教 の 所 説 の 中 に 見 出 せ る の で あ り 、 従 つ て 如 来 蔵 思 想 は 、 原 始 仏 教 の 内 的 統 一 的 展 開 と 見 う る こ と を 、 略 ヒ 論 証 し 得 た と 思 う 。 此 を 、 一 括 し て 言 え ぱ 、 原 始 仏 教 に お け る 本 性 浄 心 を 悟 つ た 上 に お け る 三 界 唯 心 造 説 を た て 糸 と し 、 大 智 大 悲 の 真 仏 如 来 の 活 動 を 横 糸 と し て 織 り な し た 三 界 を 掩 う 大 布 の 上 に 、 如 来 と 衆 生 と の 親 子 、 更 に 換 言 す れ ば 、 わ れ わ れ の い う 物 質 界 も 精 神 界 も 、 自 然 も 文 化 も 、 苦 も 楽 も 、 生 も 死 も 、 束 縛 も 自 由 も よ く 考 え て 見 れ ば 、 衆 生 心 の 造 り 出 し た も の で あ り ( 三 界 唯 心 造 ) 、 若 し か か る 心 の 現 実 面 と 本 質 面 に ま た が る 真 相 を 一 切 の 衆 生 が 悟 れ ば 、 す べ て の 苦 ・ 束 縛 ・ 恐 怖 ・ 疑 惑 を 断 ち 切 つ て 永 遠 の 楽 ・ 自 由 ・ 安 心 が 個 人 に も 社 会 に も も た ら さ れ う る 。 こ れ が 亦 、 一 般 、 衆 生 心 の 内 部 要 求 で あ り 、 無 意 識 内 の 機 能 で あ る 。 但 し 斯 る 衆 生 心 の 真 相 を 発 見 し わ れ わ れ に 教 示 し た の は 、 ﹁ 如 来 ﹂ の 大 智 で あ り 、 大 悲 心 に 外 な ら ぬ 。 こ の 発 見 者 の 大 智 と 彼 れ の 教 導 の 大 悲 と を 紀 念 す る た め に 、 能 造 の 衆 生 心 が 、 一 切 法 の 生 産 胎 蔵 な る こ と を 、 心 胎 蔵 又 は 心 蔵 と 呼 称 せ ず し て 、 発 見 指 示 者 の 如 来 の 名 を 冠 し て 、 如 来 蔵 と 言 う に 至 つ た 。 差 別 現 象 界 に 浮 動 す る 衆 生 か ら 見 れ ば 、 斯 る 微 妙 な 本 来 の 清 浄 心 を 有 す る ( 能 摂 蔵 面 ) で あ る が 、 一 度 、 此 の 真 相 を 悟 れ ば 、 反 つ て 衆 生 全 体 が こ の 心 の 中 に 、 即 ち 如 来 蔵 内 に 在 る こ と (所 摂 蔵 面 ) と な る 。 こ れ が ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 で あ る こ と と な ろ う 。 然 ら ば 、 イ ン ド 仏 教 史 上 、 何 時 頃 、 こ の ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と い う 名 義 の 思 想 が 流 通 さ れ る に 至 つ た か と 言 え ぱ 、 対 機 説 法 を 主 要 と す る 仏 教 思 想 宣 揚 者 の 責 任 と し て 、 恐 ら く 、 バ ー ダ ラ ー ヤ ナ (A.D. 1-100説 に よ る ) のVedanta sutra が 多 く の 支 持 者 を 得 て 、 註 疏 等 も 盛 ん と な り 、 漸 く 仏 教 界 の 識 者 達 も 、 こ れ に 深 き 注 意 を 向 け 始 め た 頃 、 即 ち 竜 樹 時 代 の 直 後 位 に 、 こ の ﹁ 如 来 蔵 ﹂ 思 想 も 考 え 出 さ れ 、 恐 ら く 現 存 のVedanta sutra が 編 纂 さ れ 世 に 出 る 頃 (400-450)に は 、 ユ ガ 行 派 の 八 識 思 想 説 と 相 な ら ん で 、 こ の ﹁ 如 来 蔵 思 想 ﹂ の 重 な る 諸 経 典 も 世 に 出 さ れ 、 流 通 す る に 至 ら し め る よ う に な つ て 来 て い た の で は な い か と 、 筆 者 は 考 え て い る 。 諸 学 者 の 御 叱 正 を 期 待 し て 欄 筆 す る 。 1 印 度 哲 学 仏 教 研 究 十 七 ノ 一 ( 頁 二 四-三 二 ) 2 川 田 ・ 中 村 両 氏 編 ﹁ 華 厳 厳 思 想 ﹂ 頁 三 〇 〇-二 3 印 度 学 仏 教 学 研 究 十 七 ノ ニ ( 頁 二 三 一 ) 4 大 正 大 学 学 報 第 四 輯 、 ﹁ 如 来 蔵 説 の 起 源 及 び 発 達 ﹂ 。 5 印 度 学 仏 教 学 研 究 十 七 ノ ニ 。 6 ﹁ 鈴 木 大 拙 全 集 ﹂ 第 五 巻 、 頁 一 八 以 下 。 7 勝 又 俊 教 氏 が そ の 著 ﹁ 仏 教 に お け る 心 意 識 説 の 研 究 ﹂ 中 に 、 ﹁ 如 来 蔵 ﹂ と い う 名 目 を 掲 げ て 解 説 し て い る 経 と 論 と を 、 十 九 種 類 あ げ て 、 こ れ を 思 想 史 的 に 前 、 中 、 後 の 三 期 に 分 け て 論 述 さ れ て い る 。 こ の 十 九 種 類 中 に は 、 法 立 ・ 法 矩 ・ 白 法 祖 等 の ﹁ 大 方 等 如 来 蔵 経 ﹂ が 含 ま れ て い る が 、 こ れ は 現 存 し な い 。 失 訳 で あ る が 、筆 者 は 此 に 諸 種 の 十 地 経 類 (即 ち 漸 備 一 切 智 徳 経 、 十 住 経 、 仏 説 十 地 経 と 世 親 の 十 地 経 論 ) を 一 種 と 見 て 、 此 を 加 え て 十 九 種 と し た 。

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8 鈴 木 大 拙 全 集 第 五 巻、 頁 一 八-二 〇。 9 拙 著 ﹁ 小 乗 論 に 於 け る 三 乗 思 想 ( 特 に 仏 乗 論 に 就 い て ) ﹂ 頁 二 一-二 三 ( 東 洋 大 学 紀 要、 第 五 輯 所 収、 一 九 五 三 年 ) 10 宝 性 論 ( 大 正 三 一、 頁 八 二 八、 中 ) 及 び 梵 文 宝 性 論 頁 二 六 一 11 勝 髭 経 ( 大 正 一 二、 頁 二 二 二、 中 ) 12 原 始 仏 教 を 漢 巴 両 面 か ら 研 究 さ れ た 著 名 な 学 者 と し て こ こ に 想 起 す る の は、 日 本 で は 姉 崎 ・ 木 村 ・ 宇 井、 和 辻 の 諸 先 覚 な ど で あ る。 13 拙 稿 ﹁ 原 始 仏 教 に 於 け る 心 性 本 浄 に つ い て、 ﹂ 昭 和 十 六 年、 仏 教 研 究 五 ノ ニ、 及 び、 ﹁ 原 始 仏 教 に お け る 般 若 の 研 究 ﹂ 第 二 編。 14 宝 性 論 梵 文 碩 特 に No. 15, 18 全 喩 はNo. 15そ の 外102, 111 等 々 。 15 六 十 華 厳 経 第 二 十 五 ( 大 正 九、 頁 五 五 八、 下 )、Dasabhum-と あ る。 16 拙 著 ﹁ 原 始 仏 教 に お け る 般 若 の 研 究 ﹂ 頁 三 三 二-三 三 四 に 詳 細 に 論 ず。 17 六 十 華 厳 経 巻 第 十 ( 大 正 九、 頁 四 六 五、 下 )、 八 十 華 厳 巻 十 九 ( 大 正 一 〇、 頁 一 〇 二、 上 ) 18 ﹁ 原 始 仏 教 に 於 け る 般 若 の 研 究 ﹂ 頁 四 八 九-四 九 一 に 詳 説 し て い る。 19 大 正、 二 六、 頁 二 五、 上、 下。 20 梵 文 八 千 頽 般 若 ( 荻 原 氏 編 ) 頁 六 一 八、 小 ・ 品 般 若 巻 六 ( 大 正 八、 頁 五 六 二、 中 )

21 Ragotravibhaga Mahaytatntra sstra, by

Jo-hnston pp. 30-31 22﹁原 始 仏 教 に 於 け る 般 若 の 研 究 ﹂ 頁 三 七 六-三 六 八。 23 S. III. pp. 83-84、講 訳 中 阿 含 無 常 経、 ( 大 正 一、 頁 六 〇 九 -六 一 〇 ) 24 Theragatha p. 4 25 講 訳 施 設 論 巻 三 ( 大 正 二 六 頁 五 一 九、 下 ) 26 国 訳 毘 曇 部 八、 頁 一 一 一 に ﹁ 厭 に 依 り て 解 脱 し、 解 脱 に 依 り て 浬 葉 す ﹂ と い う 阿 含 を 引 き、 広 く 釈 す る。 27 倶 舎 論 巻 二 五 ( 大 正 二 九、 頁 一 三 四、 上 ) 如 来 蔵 思 想 の 淵 源 に 就 い て ( 西 )

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