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カブールと憲法 1イタリアにおける議院内閣制の成立について ー

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(1)

イタリア半島の大陸部北西に位恕するピエモンテ地方がイタリア史に登場するのは一六世紀以降のことである︒こ  

の地に君臨するサヴォイア家はフランスHl白の家系であり︑西アルプスの両側に跨るというその地政学的位置のため  

︵1︶  ﹁サヴォイア公国は幾世紀にもわたって緩衝国ないし辺境国の役割を果してき﹂ており︑同円でもイタリア語とフラ  

ンス語の二国語が通用しており︑宮廷ではフランス語が幅をきかせていた︒エマヌエーレ・フィリベルト ︵一五五三  

七三   

カブールと憲法  

1イタリアにおける議院内閣制の成立について ー  

はじめに   はじめに  一 アルベルト窟章の成立  二 カブールの畳法観  三 カブール内聞−−⊥議院内閣制の成立  まとめにかえて   

文  男   井  口  

(2)

用 法(36−1)74  

七四   

八〇年︶︑カルロ・エマヌエーレⅠ世︵一五八〇−∵ハ二〇叶︶時代に絶対⊥詑H家としての体制を整えるにいた  −  

り︑イタリア半島宮地がスペイン支配下にあった巾で晰一独立を保つことができた︒そしてスペイン継承戦争後のユ  

トレヒト条約︵一L一二﹂圧︶︑ランュタット条約︵一七一日付︶ により領土を拡人し︑その後サヴォイア公ヴィット  

リオ・アメデーオn他 ︵一六七五−一七∴〇咋︶ には王りが付与せられろことになり︑維はこの軍里的外交的成功を  

ふまえて内政においてもフランス塑の申血︵什弼権主義的吊家改皿申に弟ヰし︑このりぷは彼の後継首カルロ・エマヌエー  

レⅢ世︵一七三〇1七∴咋︶ にも引き継がれていくじしかしサィソトリオ・アメデーオmⅢ ︵一七七∵十九六咋︶崎  

︵2︶  代になると﹁サヴォイア偶の絶対圭∴ヰは官僚的早来的性烙を始め﹂︑イタリア半鳥んハ地で﹁時雄場してきた改革運動  

の気運の高ヰ∵りとは対照的に旧守皿傾向を雷わにしていノト︒パッセうーノ︑アルブィ∵↑−リ℃の攻車派知識人が亡命  

を余儀たくされる時代であり︑ブルジョアジーの発根も隣川口′∴ハルディアよりも未だ吊正た段椚にあり︑他方では  

貴族とブルジョアジ1との対し止もより県凡親化していた︒こうした社八▲ム伏況が用命フランスに対する戦やで更に悪化し︑  

一し九八圧一∴月八にはビュモンテ王はノランスに併合されるに圭り︑パ王カルロ・エてヌエーレⅣ世︵一七几  

六−∵ハ〇二律︶ はサルデーニャに亡命㌻ることになった︒そ・い後王政復んとともにサィソトリオ・エマスエーレ1  

■=J﹂  世︵一八〇二−二一作︶ の下でビニモンテ†は旧作制に寝付することに行ご㌔  

︵4︶   きて︑ベンソ・カミッロ・ディ・カブールはこのビュモンテのn誹トリノで一八∵い叶八月一〇に津まれた︒ヤ  

ミケーレはキューリ∴の旧くからの止城山再⁚炊の豪系に侶し︑ナボレ寸ン休制トでもカミッロ・ボルゲーゼ公の  

下でそ山地位を保持しえた有餞なH吏であった︒保守的ではあったが弼紺な反動派ではなかったという︒母アデーレ  

はジュネーブに移住したユグノー派の双系に属し︑ジュネーブでも目指の市民として知られていた︒カミッロを甘ん  

だ翌咋にカトリックに振向している︒カ︑>\ソロは伏=であったため幼少から封隊で教〃を更け少周まで昇進したが︑  

三一咋には韓隊をやめ︑フープンス︑イギリス︑ワハイス︑ベルギIを旅行し︑この川政治︑社会︑拝所聞損を地場し︑   

(3)

75 カブールとぷ法  

更に帰国後はピエモンテの農業︑通商政策施研究し︑軍陣時代から培われた∩出※義山心想を確立するようになった︒  

彼の思傾形成に大きな適期を及ばしたのは少往時代の二川叩川丈=りと二〇りのフランス七月亜余であり︑そしてベンタ ﹂   

ム︑スミス︑リカード︑ コンスタンを読んだことであった︒又吐六川山への皿心.からイギリスり救技法の勉琉にもう  

ちこんだ︒∵八三四咋末から謀付にかけてのヨーロッパ捕りではジュネーブでシスモンディ︑ロンドンでトックゲィ  

ユと交流している︒こうして︑彼はギゾー的な廉史硯の卜で ﹁晰進的で穏健な進歩﹂を幸じる穏柾目出土義辛となり︑  

そのモットーは﹁巾川﹂であった︒  

一八二元律父がトリノの警視総推し﹂なったため︑カブールは父が所有していたレーリの荘閲の竹即を引き受け︑肌  

業清鋤に従事するようになった︒この現業に成功するや︑被は高菜︑金融業にも手を拡げビュモンテでも有数の失業  

家となる︒更に彼は川∴咋に設正された﹁罠業協会﹂にもり動から参加して宇腑を奮い︑川上咋には穏根派チェーサ  

レ・パルポが創刊した﹃リソルジメント﹄紙に昔縞するようになり政治活動にも踏み糾してゆくことになる︒   

墨甲ハ咋はイタリアでも激動の圧であった︒一日にバレルモで勃究した.反乱はシチリア出合十に拡がり︑更にナポ  

リでもフ⊥ルディナンドロ世にユり里心法公布が約束され︑その膵轡はトリノにも及び憲法制定川題が伴叫点となった︒  

カブールはすでにこの圧の一月七にジュノヴァの反ジュスイソト派運動わ代表との会兄において憲法制定の必.製を  

︵5︶  説き周囲を翫かしている訳であるが︑彼の憲法机を検討する前にビエモンテにおけるアルベルト堪草の成立について  

概観することにしよう︒  

註   ︵1︶G.PrOnaCni−StOria deg ita−ia阜吉Li−Laterza−priヨa ediziOne−麗辞ediziOne ri−egata−−当節−P.−讐 ︵斎藤泰  

広訳﹃イタリア人民の歴史†﹄︑未来社︑一九八四年︑二四六貢︶︒  

七行小   

(4)

岡 法(36−1)76  

すでに述べた如く︑一八四八雄一月一二にバレルモに始まった大衆的反乱はたちまちシチリア全土に拡がり︑頓  

にイタリア半島両雄にも波及し︑一予九ナポり∴∴川のフェルディナンド目性は憲法公布の承認に踏み切らざろを  

えなかった︒   

このナポリにおける憲法公布水認の軸は㌃リ∵にはトリノに届き︑聖二月一にはジュノヴァ︑トリノで憲法  

を求める大集会が誹解されることになった︒こうした事態に対し︑国王カルロ・アルベルトは当初﹁いかなることが  

あっても憲法を要求する示威行進を容認することはできない︒徹底的に闘うというのが私の囲い決意であり︑蜂起者  

︵1︶  

の要求に応えることばできない﹂との強硬な確度を示していたが︑内相ボレッリが人民の圧力に吊して譲歩を余儀な  

くされる前に違法を自ら制定する万が得策であるとの旨進言したため︑この点につき枢密会議に諮ることを不承不承    卜し㌧︑  

︵2︶G.Ca已e−OrO﹀StOria d2一ltaHa mOderH−a﹀ 喜L T﹀Fe−trin2ごi﹀prima e︹liNi01e−誤謬 primD ediziOne ne=Uコi・   

<erSale EcOnOmicaゴー彗㌘ p.諾.  

︵3︶以上のビュモンテに閲すろ叙述は︑勺rOCaCCi︶ Op.Ci㌻・喜︼.H.pp.−苫−︼諾 ︵邦訳前掲二川五1∵宣∵自︶︑召−.   

F pp.N3−い○い ︵豊下相澤肌∴イハ一り∴ノ人Hの脛里=﹄︑未来社︑一几八四り︑宜ご 宜九貢︶︑及び Caヨde−OrO−Op.   

Citこ ﹂昌L I−pp一票−冨 e pp.N巴INヨ﹀ <○︹︸ prima ediNiOne ︸票00︼ prima ediNiOne ロeご; Ul︼i諾rSa−e EcOnOmi・   

Ca一.︼−誓00︶ pp.た−い○ に依拠した︒  

︵4︶ カブールに関する叙述は︑R.R︒meO︑くita di COくOur−Laterza︼−悪道及び C呂de−Or〇一〇p.Cit.一一10︼.コ√prima   

2diNi012−諾−︑pri2P e︹liNi︒ne コe︼て 昌已2rSU︼e Ec︒n︒micU一一︑い琵ウ﹀pp.−N−1−ピ に依拠した︒  

︵5︶ROmeO﹀Op.Cit.−p.−川芦  

一 アルベルト憲章の成立  

(5)

77 カブールと憲法  

九   八 七  

同意した︒二月三日に開かれた枢密会議は憲法制定の必要性と緊急性につきボレッリの意見に同門心し︑これを蹟享九      ︵ 2︶  カルロ・アルベルトはただちに憲法草案の準備を大田に命じたが‖最終的決定椛はらに留保することにし㌔この決  

︵3︶  

定にもとづき二月八日には将来の憲章の基礎となるべき一四ケ粂が公布きれた︒その内容は以下の辿りである︒   

﹁我が国に代議制政府の完全な体制を樹正するために以下の如き基本聖卑の基本原則を採択することを決定した︒  

一条 ローマ・カトリック敦は別家の唯一の宗教である︒  

既存の他の宗派は法梓にもとづき寛容される︒   

二 条 国王の一身は神聖にして不可侵である︒  

国王の大臣は貢学負う︒   

三 条 執行権は国王にのみ帰属する︒国王は国家苗捕である︒国王は陸侮の全学乍統師し︑宣戦を布批目し︑講和︑  

同盟︑通商条約を締結し︑全官吏を任命し︑法律の執行に必要な命令を制定する︒但し︑法律の通用を停止  

し︑又は免除したりすることはできない︒   

四 条 国王のみが法律を裁可し︑これを公布する︒   

五 条 すべての司法は国王に再来し︑国王の名において行使きれる︒国王は恩赦及び減刑を行なうことができる︒   

六 条 立法権は国王と両院が共同してこれを行使する︒  

条   条    条 第一院は国王任命の議Hよりなる︒第二院は別途㍍める財産賢栖にもとづき選挙される議‖からなる︒  

法律発案権は国王とわ院に帰属する︒但し︑課税に関するすべての法律はまず代議院に提出するものとす  

る︒   

国王は毎咋両院を召集し︑その会期を延長し︑又代議院を解散することができる︒解散の場︵‖には四ケ月  

以内に所蔵院を召集するものとする︒  

七   

(6)

同 法(36−1)78  

以上の原則にもとづき︑析出会議にて∴会期にわたり再思早草塞が審議きれ︑∴四に冊‡の辞署がなされ︑黒土  

に﹁サルデーニャ‡‖基本小繋ヒとして公布きれた︒  

︵4︶   全文八日ケ条からなるアルベルト芯苺はその廿栴において二八八l二lの原則をそのまま採川しており︑その日容は以  

下のようにまとめることができよう︒   

制定形式は日干による欽ハ止︵前文︶ であり︑政仏を代表〃※制と規定している ︵二条︶︒神輿にして不可侯とされ  

る ︵四条︶国‡は‖家元古であり︵五条︶︑立法︑行政︑司法の三桁を保持し ︵∴︑五︑六八条︶︑更に陣据付早の統  

帥杵︑宣戦・講和杵︑条約締結権︵五条︶︑命令・規則制定権︵六条︶︑法律発案桔︵一〇条︶︑法押裁可栴︵七  

条︶︑両院を召録し︑代議院を解散する椎利︵九条︶︑恩赦・減刑の桁利︵八条︶ という広範な権限を一身に集申し  

ている︒   

国王と共同して立法稚を打抜する両院︵三条︶ は元老院と代議院とからなる︒元老院は憲法で定める資格保持者    七八   

一〇条 両院により日詰され︑国王の裁可を得なければ︑如何なる租税を課すことも徴収することもできない︒  

一一条 出版は自山とする︒mし︑法律に従わなければならない︒  

一二条 川人の山が保障される︒  

二い条 別途定める二止期Ⅲ職務を行化した後には裁判官はこれを捏免することはできない︒但し︑区裁判官は除  

ノ\〇   

一四条 別途㍍房る租税拙負m若からなる都市民兵を皿㌍するものとする︒  

都市民止ハは市り局の指揮下におかれ︑内務大ぃに服する︒  

日光は適切と判断する場所においては都再民真の設眉を付け止し︑又は研敬することができる︒  

(7)

7g カブールと忍法  

︵二一にわたるカテゴリーが列挙されている︶ の小からH‡の任命する終身の議員︵三三条︶及び‡挺 ︵二四条︶か  

ら構成される︒元老院は﹁顆逆邦及び宏の公安を害する犯罪ならびに代議院において弾劾された大田を裁判する﹂  

高等法院でもある ︵三六条︶︒他方︑代議院は﹁法稚で小山める選挙区から選Hされる議H﹂からなり︵二九条︶︑作  

用は五年︵円二条︶︒代議院議=は全日民の代表であり︑命令委付は禁止される ︵四一条︶︒代議続議員は国干の大  

臣を弾劾し︑これ登用等法院︵元老院︶ に訴える椎利を有している ︵四七兼︶︒   

両院には国王ととも法律発案栴が付与されている ︵一〇条︶︒目し︑課税及び‖の予算の承認に関する法律案は代  

議院で先議されなければならない ︵一〇条︶︒両院議‖には不逮捕特権︵元老院∴七条︑代議院四五条︶︑免貢特権  

︵五一条︶が保障されている︒又貴桁竹訟の決定は両院に留保きれ ︵六〇条︶︑更に両院は規則制定樅︵六一条︶を  

有している︒   

大臣に関する規定はわずか三ケ粂にすぎない︒囚‡が大日を任免し ︵∴ハ玉条︶︑人臣は両院に席することができ︑  

発言することができる ︵六六条︶︒又大臣は賞を負う︵六七条︶︒この六七条の文.バのみからは大い一昌代が誰に対  

するものか不明であるが︑行政樟を有する﹁神里心可Hな﹂H王が大臣任免腔を保有している点からして︑日干に対  

するものであると解釈するのが妥﹂であろう︒しかしながら憲章の実際の通川においてはこ∽条項は対議会貢任の意  

味において解釈され︑慣習上成立した議院‖㈹制の根拠規にとされることになる︒この点は後にふれることにしよう︒   

司法は国王に招来し︑‖王の名において行使きれ︑H※が戒判官の任命権を有する ︵六八条︶︒裁判官には身分保  

障規定がある ︵六九条︶︒尚︑法律の解釈桁は裁判所にはなく︑立法椎に属する ︵七三粂︶︒   

更に憲法改正規定は存在しないのでこの憲章は軟性憲はの部類に属する︒   

人権については全八四ケ粂巾わずか九ケ条があてられているにすぎない︒しかもその中には租税負担義務 ︵二五  

第︶︑課税法律上義︵三〇条︶︑公北ハ貢務の保障︵三一条︶が含まれているので︑実際には法律の前の平等 ︵二四  

日几   

(8)

岡 法(36−1)銅  

一八二〇咋のフランス憲茸及び若干の側面では一八三一作のベルギー憲法が膜倣すべきモデルとなった﹂とし︑モル  

ターティも﹁アルベルト恕草の規範は一八一四咋と一八二∵0什の二つのフランスのぶ抜放び一八∴一作のベルギー憲  

︵8︶  

法に依拠したものである﹂と述べ︑更にクリーザフィッリは﹁王政復H別の諸憲章を歴史的に特徴づける諸原則に依  

︵9︶  

拠した成文憲法﹂であると言及している︒歴中︑家カンデローロは﹁本円杓には二〇律のフランス冊心法・フランス二      ︵10︶  

月革命によりまさにこの時別に崩壊した 一 考膜傲している﹂として∵つの憲法のうち二〇雉憲草に比頂をおいてい  

る︒  

へ‖︶   以上の点を念頭において四八咋アルベルト憲章をそのモデルとなった三つの憲法と比較した場合︑おおむね次の様  

な対応が浮かびあがってくる︒   

まず憲章の制定形式であるが︑前文において朴の思配に上り王権の行使で以って制定されたと謳われているので︑  

この点では一四年憲章の形式を精製していると言ってよい︒次に国王に広亀な権限を付与している規定であるが︑榊  

様な規定は一四年︑三〇咋憲章にともにみられる︒出し︑悶貰の命令・規則制足権︑法律発案樅に閲する条文は二〇  

年憲章の規定に近い︒三一年ベルギー憲法の雄鞍下にあるものとしては︑代議院議Hが全国民の代表であり︑命令委    本憲章は  

作成されて   八〇   

条︶︑人身の自由︵二六条︶︑住居の不可佼︵二七条︶︑山懐の白山︵二八条︶︑所有権の保障︵二九条︶︑集会の  

権利︵三二条︶ の六つのカタログ及び司法の軍に規定された﹁∩然の裁判官の裁判を受ける樅利﹂ ︵七一条︶が列挙  

されているにすぎない︒   

最後に宗教に関する規定であるが︑第一条でローマ・カトリック教が畔一の国家の宗教とされ︑他の出石派は法律に  

︵5︶  

もとづき寛容きれると定められた︒それ政信教の自由は憲草上の権利ではなく︑法律に委ねられることになっている︒  

い(−一  

る且読  

○ し  て明らかな様にフランス一八一四年志ホ︑二〇咋芯章そして一八二二律ベルギー憲法を参考として  

この点は多くの論者の指摘するところであるが︑例えば憲法史家ギザルベルティは﹁一八一四年と  

︵7︶  

(9)

81 カブールと忍法  

任が禁止きれる旨の規定︑議員の不逮捕特権︑発言・表決の免貢特椛︑院による議Hの資格争訟に関する規定が挙げ  

られる︒更に法律の有権解釈権が議八バにある日の軸足もフープン∴山二項聖早にはなく︑∴一年ベルギー憲法に依拠した  

と思われる︒最後に国民の権利に関する規定であるが︑佳日の不可侵︑集会の縮利はフランスの二雷草にはなく∵一  

年ベルギー芯法の条せに依拠したものと推定される︒さて︑山バ致に関する規定は︑イタリアがバチカンり作れする所  

であるという点で他のヨーロッパ諸州に比してより複維な川題を捉起する訳であるが︑アルベルト憲ポは冒頭第一条  

でローマ・カトリック教を雌一の同家の凸小数である旨宣二=した︒規定の⊥からは一M年憲章第六条とほぼ山一であり︑  

その他の宗派を法律で認めた点で数の・山がかろうじて光春きれることになったと一いえる︒   

以上を総括するならば︑四八隼アルベルト憲章は︑制に形式と景教に闇する条項で一拍丹毒草に︑下種に広範な権  

限を付与しているたで三〇咋憲章に︑議会の権限をより詳細に規定し︑人穐のカタロゾを幾分でも増加 した点で二一  

昨ベルギー憲法に依拠したと.∵ぃえよう︒   

ここで再び先にとりあげた論者に登場してもらい︑それぞれのアルベルト憲草に対する評価を相硯しておくことに  

しよう︒  

まずギザルベルティはアルベルト遣葦を仙時如に制定されたイタリア半鳥各地の㌫痕と一括して ︵例外はシチリア  

王国憲法と一八四九年ローマ共和国憲法︶ とりあげ次の様に特徴づける︒﹁公権力を山王のt桁的意思に従属するも  

のとし︑憲章を発布することによりこれまでの絶対的n心田心を山口制限せんことを軍言したとしても︑このことにより  

議会君‡制を措定せんとの即急を認めようとしたものとは思われない︒ここから︽純粋立退詔t制︾のタイプが帰結  

される︒そこでは国王にのみ執行権が全体として帰属し︑国王はH己のH作する人物を通じてそれを打侵する︒政治  

指針は君主により決定︑実現され︑君⊥は自己に服従し自ら任命する大田の活動を利用する︒国会議‖は大南の選出  

に介入することはできず︑国王と大臣との別に存在する関係にも介入しえない︒但し︑大日は一定のクイブの政治貢  

八一   

(10)

岡 法(36−1)82  

三条は上慌に選州きるべきカテゴリーとして邦隊と官僚及び僧侶の代読と抽んで︑納税による賢榊︵二一り︶ と﹁す  

ぐれた某紙をも﹁て﹂Hの名㍗右高めた有︵二Cり︶ を掲げている︒すなわち上院にブルジョアジ1の代表が選一−=き  

かる司徳性を与えていた︒更に代叫諭障の構成であるが︑この点は憲草二一九条にJTリ法律ににめる選挙区で選出きれる  

議員からなるとされていたため︑ヤ禦早上は選挙椎に吊らの制限を付しておらず︑この間題は選挙法に委ねらわること  

になった︒選挙椎の肌蹴がサルデーニャ玉川の政拾体制の発展にとって基本的で決定的なものとなったといえよう︒  

ギザルベルティによれば︑四八咋遣章が従来の川干人怖をそっくりそのまま継受したにも拘らず︑現実の溝川にわい  

ては議会側の万両へ発達していったのは以上の様な特徴ないしは現にか憲封に存在していたからに仙ならない︒   

モルターティもアルベルト憲章における川干大柿の存続︑い∵∴隼を榊起せしめるような規定あるいは政府の優越  

的地位に対抗しうるような規定の欠如︑市民の純利に関する条文がわずか九つのであるのに対し川家機栖と固王権限   

く(と(草  

る16に15(プ)  

八二  

︵12︶  任を負う︒﹂ ﹁大臣は国王の選出するものであり︑法上及び事実上執行権の首長である国王はあらゆる政治清動にお  

いて大臣が自己に甫接鳥目任を負うものであるとみなした︒それ故国王大権は議会の権限をほ倒的に凌駕するもので  

あった︒というのほ両院︑とりわけ良心に照らして世論を代表するとされた代議院には政府活動に対すろ莫然とした  

︵13︶  統制の権能のみしか帰属していなかったからである︒﹂ ﹁加えて川下﹂任命の上院の存爪は下院に対抗することができ︑  

場合によっては直接に上位に立つことができ︑何千大権とそれに用地するH王の政治的称限の更なる増大を袴易にす  

︵14︶  るものであり︑このことは白山主夫燕血にとってはこれらの憲法の無税しえない限界をホすものであった︒﹂   

このような限界の存在にも拘らず︑イタリア半はにおいては仙の憲法が不適川又は廃止とされた申でアルベルト憲  

みが存続したために︑この憲草ほ﹁根仏法と山にもとづく羅lイカ.リアを希求する人々の希や⁚と州念を集めるこ  

なった︒この点に印して更に立らいってアルベルト憲章そのものを分析すると以下の様な特徴が浮かび上って  

まず﹁戦陣照偲法すなわち通情法律で故H叫博という性格﹂であろ︒次に上院の構成に汗‖してみよう︒照豊里二  

(11)

83 カブールと憲法  

︵17︶  に関する条文が二二にものぼることを指摘して︑この憲章の限界に言及している︒しかし当時のビエンモンテに移住  

してきた愛国者選ば﹁限定された憲法の文吉を議会制の方向すなわち代表制原理を強化する方向に進展させ︑又国家  

︵18︶  の世俗的性格を確認する方向﹂で憲ギを解離した︒こうした方向での里人践の担い手こそ﹁由†義的立県聖地勅﹂であ  

り︑この運動は君‡制の原理と並んで艮‡制の原理の諸要素を導入せんと試み︑国王と人民という二つの異なる自律  

︵19︶  的権威を併置﹂せんとした︒モルクーティは憲章の規景房みにとらわれず︑憲章を担う勢力によって現実に解釈・適  

用された実質的意味での憲法に着日しているといえよう︒  

︵20︶   同じくクリーザフィッリも憲章制出札者の意図が君‡制原理の確証にあったとしながら︑﹁注目されるのは憲章の実  

際の通川においては﹃議院﹄内閣制の図式に従った﹂と述べている︒すなわち︑﹁アルベルト憲草の本文では議院内  

閣制について明文上規にしておらず︑この点に闇して不明瞭かつ多義的であるが︑能動的な政治勢力により議会‡義  

の方向に発屁せしめ︑そのようなものとして理解される可能性はあった︒﹂何故なら︑一つには憲章六七条の﹁大臣  

は貴を負う﹂との規定が存在しているからである︒そこでは誰に対して貢を負うのかという問題が留保されており︑  

それ故議会に対する試作をJ張することも排除されていない︒第二には︑﹁法律及び政府の命令は︑大臣の署名がな  

い場<‖には無効とする﹂との規に︵∴ハ七条︶ は古典伯議会制に固有なものだからである︒クリーザフィッリはアルベ  

ルト憲章の下でも憲法機凋の担い手の対抗︑暗黙の合意にもとづいて議院内閣制の成立・発展が可能であること︑又  

実際にそうなったことを以上のような論証で示してくれている︒   

最後に歴史家カンデローロの評価についてふれておこう︒彼によれば︑アルベルト憲章は一八三〇年フランス憲章  

を本質的に模倣したものであり国王大権の確保に最大限の関心を示しているが︑同時に国王任命の上院と制限選挙に  

︵21︶  よる下院の存在により貴族と上層ブルジョアジ1を担い手とする代表制をも実現するものであった︒  

(12)

岡 法(36−1)84  

八四  

アルベルト憲章の内容とその特徴については以上に述べてきた通りであるが︑この再思卑の﹁代表制﹂的要素を把握  

する上で不可欠な代議院に関する選挙法についてここで簡単にふれておくことにしようr︺  

︵22︶  一八四八年三月一七日の選挙法は三=でいえば小選挙区哨記∴回投冊バ制を導入したもいであった︒宮速筆区は一名  

のみの議員を選出し︑議=数は二〇四†である ︵六二条︶︒選挙lメ刊は別表Bでおこなわれている ︵六四条︶︒仝有  

権者の三分一以上かつ投票の通津数を得た者がり選となる ︵九二条︶︒該﹁者がない場合には上位二名の冊で拾∴回  

投票がおこなわれ︑有効没呵小の多数を得た者が巧選となる ︵几二条︶︒その際得叫一小数が山肌⁚≠の場ムには隼艮者が巧選  

となる ︵九四条︶︒   

選挙権は二五才以上で読み出Hき牒力があり︑咋MOリプ ︵地方によ﹁ては二〇り予︶ の印税せ払常に付与さかた  

︵一条︶︒その他に科学アカデミ1会‖︑入学教H等は租税要件に闇わらず有杵常とかた ︵∵.条︶︒これにより¶椎  

者は全人口の一・七%にすぎなかった0でかなり据柄な制限選挙であったことがわかろ︒ところがり時においてはこ  

の選挙制度は﹁‡政復H後のフランスで長期にわたり美醸され代表制の再正成に必要なも狛と考えられ︑同時に仰の最  

良の人物を選することになるDで極めて山守堰的性質÷もつものと称揚された︒遭挙桁に必要な僅力と納税徹の  

要件︑そして限足された選挙区と小選挙区制によーリ促された石椎骨し﹂被選挙人との皿の直接的な結合は由仁半歳的基h  

︵23︶  礎にもとづく代表制の実現により砕黒豆保障をなすものと考えられた︒一   

意草の規定とこの選挙法の規定にJ∵り代議様には一冊の上層ブルジョアジー及び鵠廠の代表しか草場できないこと  

が明らかになった訳である︒l国干と=Ll板そして一部のブルジョアジ1のみが川を運営していくというシステムが法制  

上確立したといってよかろう︒   

さて︑以上のような内容を有するサルデーニャ千国の糾しい小栗り体制の下で如何にして議会制が発達し︑議院H閣  

制が成立したかを検討する前に︑それに責献した巾心的人物カブールの憲法観を概観しておくことにしよう︒   

(13)

85 カブールと宜法  

註   ︵1︶ Caロde−OrO−Op.nit.−く○−.=巳︼ p.−∽?  

︵2︶lbid.−p.−∽−.アルベルト避章の成立小情については︑その佃に参照︑ C.Ghisa−b2rti−StOria cOStituziO︼邑e d一Ht巳ia   

−芝モー曾芯﹀ ﹂菩−.Ⅰ−Laterza︸−讐ご p.1ヾP Lr CaracniO−○﹀ StatO e SOCiet抄 ciユーe−prima ediziOne−望岩︶ prima  

ediziOne nei.式eprints︒√ Einaudi−−当ご pp.−乏−−宗.  

︵2︶ RaccO−ta deg atti de−gO諾rnO di sua ︻n諾St抑lL RE DI SLPRDEG2A−⁝﹁−のー一望か pp.−?⊥亘  

︵4︶正式にはサルデーニャ上川兆木轟音︑制定宥の目上カルロ・アルベルトの名を冠して通称アルベルト憲章と呼ばれる︒ここ  

では COST−TUN岩2E−TALIA2A﹀ Einaudi−ト当∽pp.㌫−∽り を参照にした︒邦訳は︑ぷ扶調査会車務局編﹁イヤリヤ最   

S・ポルゲーゼ署︵岡部史郎訳︶ ﹇ィクリγぺ⁝法人門?   法のあゆみ﹂ ︵﹃㌫費■総領五一一け﹄︑∵几穴一り︶ 六∴−∴九日︑  

有斐閣︑一九六九拝︑一七六−一八四貢︑参照︒  

︵5︶すでに一八四八年二月一には勅令によりワルド一派に他の※派との‖∵の艮車上︑政⁚上の桔利が付りされており︑次い   

で三月二十九日には同じノ\勅令にトナりユダヤ人に民車上の頼利が付与され︑そしてパ八一九じには憲章二川条︵法律の前のV   

等︶を︑宗派の速いは代車上︑政沼上の休刊3日守り■ハ︑公帽への拙作に際しての例外とはならない口碑釈する扶律が制にされ︑   

実質⊥H教の白由が桔正することになった︒Cfr.Cand2−OrO−Op.Cit.﹀ 3﹁ 苧p.−山∽.  

︵6︶A.AmOrth−くicende cOStituziOna−i itaHane da○=A−beユin〇一u aa COStituziOne re苫bbごnana﹀ in Qu2StiOni di  

StOria de−RisOrgimentO e dednit帥 d一丁ta−ia 芯 Cura di E.ロOta︶︼ ︼諾︸︶ p一語車  

︵7︶Ghisa−berti−Op.Citこ p.いP  

︵8︶ C.MOrtati−DaO StatutO a−bertinO aa COStituziOne dea R2pubbHca−in RaccO−ta di Scritti∵デ Giuffr和﹀   

−当N︶ pt u∽N.  

︵9︶く.Crisafu≡−LeziOni di DirittO COStituziOnaす T−CedPm−−黒岩−ワ u︺.  

︵10︶ Cande−Or〇.〇p.Cit一︸ ノd−.ヨ一p.−︺︺.  

︵11︶ フランスの二憲章については︑−es COnStitutiOnS de−a Franne︸DaごON﹀−慧少pp.−こ−−り付 2t pp.︸いーー一山∞ を参   

﹃照恩賢・結節四八=ヒ︑一九六〇咋︶質料一〇二−血〇七   椙にした︒邦訳は揖は調査∴車務局鋸﹁∵ソンス里恩法山あゆみ﹂ ︵   

頁︑一〇八1二▲鳥︑参鳳︒一八∴一丹ベルギー∴点はについては︑宮沢健義鋸﹃昭雄再︑皿は棋﹄律H版︑︵⁝パ渡文硝︶︑hへ宜   

一員以下参照︒  

︵12︶Ghisa−berti−Op.Cit.−p.い︶.  

︵13︶冒id.︑p.∽−.  

一し・ 

(14)

岡 法(36−1)86  

二 カブールの憲法観  

︵1︶   カブールはアルベルトぷ草公布後すぐに ︵二一月一〇︶︑﹃リソルジメント﹄紙⊥に﹁カルロ・アルベルト憲草と  

︵2︶  先進的党派﹂と超する一文を掲載し︑軍草を擁護する論陣を張り︑己の積極的評価を打ち出している︒まず先進的  

H山王誠の立場から恕草は不十分なものであると批判する勢■刀に対して︑﹁それ ︵憲章︶ は山な憲法の有するすべ  

ての遠大な原理を含んでおり︑文明諸州民の草堂する権利を我々に認めている﹂として反論を加えている︒その現由  

として彼が具体的に列挙しているのは以下の点である︒まず憲草は政治機構に選挙の原Ⅲを導入した︒次に執行権の  

活動領域を正当で厳栴な限界Hに画定している︒更に司法の独立が保障され︑版の帖︑個人の山が厳粛に保障  

された︒市民の平等という神・里な頂即が承認された︒如何なる身分上の特権も廃止された︒一七八九年にフランス国    ︵19︶ C.MOrtlti−Istit仁2iOni di DirittO P仁bbごcO−TOmO I︶ Ceda眉−当︵J.︑p.禁.  ︵20︶以下のクリーザフィッリの=謹仙については︑Crisafui︸Op.Cit.−pp.−−?⊥忘 に依拠している︒  ︵21︶ Caロde−OrO−Op.Cit.−p.−︺︺.  ︵22︶RaccO−ta deg−i atti d2−拍○くゎrnO di sua ma2Stぴ.芦RE D︻SARDEG2A﹀く○︼.声−監少pp.−NU︑−−冠・  ︵23︶Gbisa−berti−Op.cit.−p.∽N.  

︵14︶冒id.−p.   ︵15︶Ibid.﹀ p.   ︵16︶lbid.−pp.  

︵17︶Pざrtati﹀  

︵用︶Ibid.▼p.  

∽N.  山山.  

︺∽−U加.  

〇p.Citこ p.u山N.  

︺∽u.  

(15)

87 カブールと憲法  

民が茸二言した偉大な原理︑白山な娃活の真の基礎となる原理が公然に︑かつ断固として宣言された︒   

これに対し︑憲章においては日数の口山が完全に承認されていない点については︑﹁我々の期待に全面的に応えろ  

憲章ではない﹂としてその欠点を一応認めながらも︑﹁この問題は事実上のというよりは言葉の上のものである﹂と  

し︑第一条は実際上はカトリック教への敬意を単に示したもので︑これでもって憲章の白由主義伯価値が劣るとの立  

場には与していない︒   

次に︑憲章においては身分制が扶持されたままであるとの批判に対しては次のように反論する︒確かにそれは否定  

することのできない誤りではあるが︑これまで述べてきた利点に比すればとるに足らないものである︒更に我々が獲  

得した市民的権利に比すれば特桁︑利点を伴わない称けというものは空虚なものであり︑今や選挙人により選出され  

た代議院議員こそが賢明な人々の眼には多大な敬意を払うべきものになっている︒   

その他にも余り謁要ではない若†の条文に批判が加えられているが︑カブールは﹁有機的な憲章というものは憲法  

の基本的諸原則を内包すべきものであり︑それ以上のものではない﹂との立場から︑余り細部に眼を向けた議論をす  

べきではないとする︒   

最後に︑憲章の前文で﹁王国の不磨の基本法﹂と宣言されたことに不満を糾える意見に対しては︑﹁国民は合法的  

手段により政治機構を変化せしめる棒龍を祝われることはない︒如何なる方法によっても国民の制憲権は放棄してな  

い︒この制冠権は絶対君‡制においては正統なH一に作し︑立憲揖主制においては国会︑すなわち国王と両院に完全  

に付与されている﹂との立場から︑この国会の全権により社会進歩に即応した発展を促すことができるとした︒それ  

故憲章前文に採用された﹁不磨の﹂という言小黒は憲章が耳言した新しい遠大な原理 − カブールによれば立憲的自由  

主義の原理 − にのみ通用可苗なものである︒以上の議論から︑アルベルト憲章の基本原理は自由‡義の精神に合致  

するものであり︑個々の条文︑規定のみに拘泥することなく︑基本原理に則って憲章を発展的に解釈すべきであると  

八七   

(16)

同 法(36−1)  

t\▼︑\  ノノ   

の立場にカブールが立脚していたことがわかる︒すなわち︑前章で検討した憲章の有する限界を念動におきながらも︑  

そこに含まれている自由主義に適合する要素を解釈により=取大隈に引き出していこうとの立場である︒憲章の制に里  

惜そしてその内搾からしてカブールの如き解釈が妥当性を有するかはかなり疑聞と﹂わなければならないが︑このしよ  

うなカブールの立場には彼のイギリスをモデルとする議会中心的な恒心法硯︑更に ﹁申Ⅲ﹂をもって⁚板書とし教条を緋  

︵3︶  した実践的理論家としての性向が見事に反映しているといえよう︒   

カブールの如く議会申心的憲法観に立つと︑その議会を逝すや選挙法が環裏な付置を占めることは﹂−.nぅまでも1互  

い︒そこで次にカブールの﹁選挙法﹂に関する諭稲に肌を通すことにしよう︒彼は一八川八咋二八二 一にバルポ弐  

︵4︶  

宰の選挙は制定委H会禿山に任命されることになるが︑彼の選華はに閲する見解は﹃リソルジメント﹄紙上にム回に  

︵5︶  

わけて発表されている︒そのうち=収後のものは選挙法公布後のものでらがそのHみの親の⊥人である選挙法を﹁  

︵6︶  山な原理に依拠している﹂として精輝的に擁蓋したものである︒   

最初の論縞は鼠算発布の勅令公布﹂時︑世論に支配的であった川接選挙用︵=コムーネ議会による代議⁚過日︶ の  

主張を批判し︑代表制の導入︑完成が時代の要請に応えるものであることを論証するために出目かれた︒イタリアでは  

都市国家の伝統が強佃に存在し︑いわゆる郷土※義︵ムニチパリズモ︶ が捕んであったこと︑そして外国の模倣を避  

けイタリア特有の政治制度を創設しょうとの希望がこの仙接選挙制の※張の門景にあった︶ カブールは都市の独立が  

市民の杵利の唯一でHハの保障であった時代は過去のものであり︑代走刷の辱人により仙人の権利の保持が強大な申央  

︵7︶  

政府の存在と適合しうるようになったとして︑第一の論拠を斥けた︒次に外国の棋傲を避けるべきとの点についてu︑  

キリスト教が支配的な近代社会は殆ど同一の原理に支えられており︑一山で試された政治制度は他国においても採用  

しうるし︑これは石目的な模倣とは言えないとして反論した︒カブールは現に次の様に述べて代表制のメリットキ抽  

調する︒まず第一に政治と行政を区別しなければならない︒すなわち︑コムーネ議会は独立の政治休をなすべきては   

(17)

gg カブ←ルと憲法  

なく︑コムーネ議会の有する行政上の権利は政治上の権利と明確に区別さるべきであり︑このことこそが強力で統一  

した中央権力と人民の白山とを通人せしめる立憲体制の不可欠の条件である︒それ故コムーネ議会を代議院議H選挙  

の単位とすることによりコムー︑ネ議会を政治体に変化させることは避けなければならない︒次に代議nがコムーネ議  

会から越山きれることになれば︑代議‖がコムーネ議会に日東されることになり︑命令委任のシステ・が碓∴几するこ  

とになる︒   

それなら如何なる選挙システムが望ましいのか︑そしてその原則は川かを提示したのが第二から第川の前編である︒  

カブールによれば︑選挙法が解決すべき大仙題はけ民の真の利聖.1︑仙諭︑H当な感情を可能な限り正和かつnハ正に代  

表する議会を如仙に構成するかということである︒この目的を達成するために川よりもまず次の皐点の※裏な皿涙が  

検討されなければならない︒第一は議員数を村名とするか︑第二は選挙方式と選挙区制を如何にすべきか︑第三は選  

挙権を如何なる腫憶の市民に付りすべきか︑第四は被選挙要件︑第五は任期及びその更新の方式である︒このうちカ  

ブールが﹃リソルジメント﹄紙上で解明しえたのは第三の問題までである︒選挙法制定委⁚艮会委としての活動の故  

に残る二つの聞損は﹃リソルジメント﹄紙上では検討されずに終った︒   

まず議‖数について︒近代社会の急速な発屁により立法鹿が仰決すべき引噴は広範で複離となっているため︑議会  

には多くの尊門家︵法曹︑農業家︑商人︑工業家︑経済学者︑技術者等︶が必要とされているとの宜場から︑又議会  

は拙論の状況を正確に反映すべきであるとの立場から多数の議⁚‖からなる議会が必要であるとする︒もし属目数が少  

ないと議会は政治家のみで構成されることになり場合によっては政治射止が激化し議会の機能を有効に果しぇなくな  

り︑又他の権力に撫作され蚕食される恐れもあり︑更に院外大衆の圧力を恐れるような事態にもなる︒文議会の公開  

という要請から傍聴を許す場合にも傍憶人が議員数を越えることのないようにするため議員数は多い方が望ましい︒  

この点はベンサムの推奨するところであるが︑それは多数の傍聴人による無秩序とか危険を汎心れたためというよりも  

1\ し  ノ′ノ   

(18)

岡 法(36−1)90  

九〇   

議員の発言が同僚の説得というよーりも傍聴人向けに一時的な人気とりに向かわないようにするためにも必要なことで  

ある︒それ放課院の善良な運営と適合しうる数の議を選出する必要がある︒以上の考察をふまえてカブールは具体  

的には二〇〇名の議をもって川畑的とする︒これはH帖山サルデーニャ‡Hわ人からして人二山五﹁人当り一  

名の議員になる︒   

次に選挙区の血は︒ここでは小選挙げ制と大遭挙は刷のメリット︑デメリットを比轢棟討し︑根神右と選挙人との  

結びつきの強さ︑そして選挙人がnJの判断で根補者を選択しうるという点からして︑小選学区制が望ましいとする︒   

第∴に選挙秩についてじまず普通選挙備については︑数世紀にわたり山に致召さわた北ハ和州では美現可稚かも知  

れないが︑税爪のヨーロッパ社余の条件の下ではそ似り値件示もたないというのがカブールの立場である︒それ瀞涙  

挙椎が自然権であるとの上張にk対すろ訳であるが︑選芋椎がり兢な限り拡張されるのは望ましいとの兄研を表明し  

ている︒すなわち︑代表制においては社会に危喜を加えることなく正しく選挙椎を行使しうろに必要な条件を例えて  

いると<甜仙に抑捌しうる人物す︑へてに選挙縮が与されなけかばならない︒その条件とは︑箱一に独宜心すなわち  

党派あるいは政府の刷からの誘惑に拭抗しうること︑帯∴に恢補常の見解及び鮭精を批判しうる拙見を有しているこ  

︑8﹂  

と︑第三に社会秩序維持への関心を有していることである︒   

以上∽快討からカブールが守旧的な刷接遇軍制を批判し代表制理前に与しながらも︑小選挙区︑制限選挙という生  

成期の口∴義に特有いエリ−・ト的統治硯に立っていたことがわかる︒‖し︑制限選挙については椎史的条件をふま  

えて容認しているのであり︑普通選挙を頑迷に侶ホするのではなく将来にわける導入には含みを残していることば留  

意しておく必要があろう︒そこにはカブール的へ鳥浜歩的座史机の∴端が相見られるからである︒  

︵9︶   カブールの憲法硯を知る上で興味撒い諭椙として更に﹁上院の改井﹂がムる︒ここでは公選による⊥院の必要を説  

き︑その点で憲章に別にされた国王作命制に反対する立場を表明している︒まず∴院制そのものについて︑カブール   

(19)

91カブ【ルと憲法  

は﹁それは権力の均衡のためではなく︑政治制伎の整序された前進的活動を柑保するため﹂必要なものとし︑多くの  

公法学者の依拠する権力均衡論には依拠していない︒すなわち州側の秩序ある進歩を促すために︑一院では人民的要  

素︑起動力が支配的であり︑他院には保守的調整的要素が付与きれるような二院制が必要とする︒比喩的に∴うなら  

ばアクセルとブレーキを伴った政治機構を頬定している︒それならば上院の構成を加にすべきかということが問題  

となるが︑イギリスのH族院はカブールの想定した役刊を雁史伯に果してきているが︑イタリアにおいては肯族の構  

成がイギリス程には確立していないので︑それをそのま草膜傲する訳にはいかない︒かくして世襲制が斥けられると︑  

第二院の構成として考えられるのは日干による任命︑公選︑その混八=方式の二つである︒まず執行権による任命によ  

議Hとなった者は世論においては政府の委任を受けた者とみなされ︑その独立性に懐疑をもたれ︑その結果允分な  り  

権威をもつものとはならないであろう︒それ故第一の方式は推奨できない︒混<=方式は有権者が候補者リストを執行  

権に担出し︑執行権がそのリストに記潤された昔の申から上院議員を選出する方式であるが︑田接選挙でない点︑そ  

して部分的には執行権の委任を受ける点でそれ程の影鯉力を行根しうるとは思われない︒そうすると椎一合靴的なの  

は公選による上院の構成ということになる︒公適による上院は下院し﹂川一となるのではないかとの批判に対しては︑  

被選要件︑選挙区の構成︑任皿を異にすることにより同一化が防げるというのがカブールの反論であり︑真休的には  

ベルギー︑アメリカの上院が参考になるとする︒   

この諭縞はカブールの退法祖がアルベルト憲澤の立場より一歩進んだ地点に達していたことを示している︒   

カブールは又︑議駈の椛成︑内部手続に闘わる議院規則にも注意盲払っていた︒このことは﹃リソルジメント﹄紙  

︵10︶  上に公表された﹁代議院規則について﹂と超する論縞により明らかになる︒そこでは代議院のり而する緊急課題の一  

つに規則制定の問魁があること︑そしてこの規則の良し恋しが宜法作業に直抜影響することが説かれている︒そして︑  

この点ではイギリスのではなく︑フランスの規則が参考となるというのがカブールの立場であった︒更に︑完成きれ  

九一   

(20)

岡 法(36−1)g2  

九二   

た規則を作成するのには多大な時間を要するとして︑暫定規則を採川するよう説いているが︑この提言は政府により  

受け入れられることになった︒個別の論点では資桁争訟の制度と抽せんによる委員会制をし﹂りあげているが︑この占仙  

ではフランスの制度に批判的な見地を出している︒   

こうした論稿に眼を通すと︑カブールが議会制一般に関するm諭のみでなく実際的な川題−1議会制の技術−1に  

も精通していたことが伺える︒当時︑いわゆる議会㈱が碓宜していない段階であったが故に︑この点でのカブールの  

先見性は一層郎党っていると.∵=えよう︒   

最後に本稿の主題とは‖接には関係しないがカブールの教会観を倹討しておくことにしよう︒教会に関する問題は  

ヨーロッパ︑とりわけバチカンの存在するイタリアにおいては憲はが・県り扱うべき重要な領域をなしているからであ  

る︒   

周知の如くカブールの貴会に対する立場は﹁山な山家における帖な教へ亡という∴菓で表現されるが︑こわは  

教皇皿とヴェネチアとを除くイ々リア半鳥の統一がなり︑ローマ皿はが作⁝山となった議会︵一八∴一咋二一‖︶ で究明  ■‖し  されたものである︒彼は﹁イタリアの首都ローマなくしてイタリアは〃在しない﹂との立場から将粟の′lクリアーい苗  

郡がローマであるべきとの見解を表川し︑しかもこのことを﹁法干のHハの独立を阻害することなく︑世俗の権威が粁  

︵12︶  神化界へ偉力を行使することなく﹂実現すべきであるとした︒このアプローチの根底には︑フランス雄命後のヨーロ  

ッパ日出主義の流れに拾って教会の世俗的権力は否認し︑その精神的権威のみを承認するとの態度があった︒カブー  

ルによれば︑教会巧届にとっても世俗の柿力を放棄した方が︑その精神的桁戚をより有効に発揮しうるのであり︑  

﹁法王の独立︑尊厳そして教会の独立は二つの権力を分離することにより︑市民社会と山小数社会との闇係に山の原      ︵13︶  

理を誠実かつ広場に適用すると音﹂一﹇することにJ∵り一層強州に確保される﹂のであり︑このことをHら﹁山な日豪  

︵14︶  における自由な教会﹂の大原理と宣言した訳である︒彼は白山‡義者として﹁∩山のシステムが宗教社会︑市民社会   

(21)

93 カブールと言責法  

以上我々はアルベルト憲章への評価︑選挙法のm題︑そして日豪と教会の闇係においてカブールが仙川にアプロー  

チしたかを検討してきた︒国王大稚の確保が前面にている憲章に対してはその中にも含まれている自由の頂抑に着  

目して﹁進歩的﹂解釈を通じてそれを最人限に引き出し議会制の方向へ発促せしめる余地あるものとし︑選挙法の問  

題ではイタリアの現状︑雅史発展段階を︑ふまえて小選挙■区・制限選挙を叫両最憲一lとし︑国家と教会の関係については  

白山‡義の原則を厳格に闇くようt脹した︒そこに一日しているのはバうまでもなく出‡義の∴止揚であるが︑現状  

を無視して極輔に走ることなく﹁巾川﹂に落ち着くことを旨としていたといえよう︒   

かかるカブールの見解︑その中でもとりわけ議会小心的憲法佃が現美のサルデーニャ‡川の黒心法政れの地肌の申で  

如何にして実現きれることになったかを次に概親してみることにしよう︒   ︵15︶  ︵16︶  の双方において導入されること﹂︑﹁日向の原理が教会と国家との関係においても通用きれる﹂ことを要求したと言  えよう︒  

註  ︵1︶ チユーザレ・パルボ ︵穏健派の中心人物でアルベルト最葦下の初代肯和︶がイニシアティブをとり︑カブールが鋸脹名兼支  

配人となった新聞で一八四七年山一月から準備が進められ︑川年一二日一五日に一けが発刊された︒ロレンツォ・ヴァレリオ  

の‡草した﹃コンコルディア﹄が自由※兼ブルジョアジーのu解を代表していたのに射し︑﹁リソルジメント﹄では自由主義  

的血月族が論陣を張った︒参昭州︑ROmeO−Op.Cit.﹀p.−畠.  

︵2︶Gご scritti de−c︒nt2di CaくOur ︵a cura di Naコiche≡︶.召−.H↓BO−Ogna−−漂N−pp.山−富.  

︵3︶尚︑カブールの憲法観を研究したデ・マルキは次の様に指摘している︒カブールの﹁小冊﹂のⅡ場は︑冠法的次元において  

は﹁自由という基本的権利の枠内で現実の社会状況にぷ法を継続的かつ完全に通人口させる﹂ことを意味していた︒それ枚︑  

﹁社会状況の過展への窟法の不断の適合は合理的で沈着な方法で実現きれなければならない︒﹂ ︵ErロeSt︒De Ma邑言 ︼−  

しご﹂  イノ   

(22)

岡 法(36−1)94  

三 カブール内閣 − 議院内閲制の成立  

︵1︶   アルベルト憲章の公海・施行後︑憲章体制下最初の内閣が穏腱派のチェーザレ・パルポを首班として一八四八年三  

月一六日に形成される︒そしてパルボ内閣の下で二月一七日の選挙法にもとづく葦一回線選挙が四月二七日に施行き  

れたが選挙の結果は穏他派が多数を占めることになった︒一方︑H王任命の元老院には貴族的保守的人物が任命きれ    九凹  

p昌SierO COStituNiOna−e de︼ Caく○彗︸ mi︼anO−芝ゴ p.−P︶  

︵4︶ROmep▼ Op.nF−p.−誓.  

︵5︶錯一回は一八四八年二‖二二‖︑第二回は二八一九︑拾∵.回は二月二∵一日︑m川Hは二月二∴︑第一本国は二▲ハニ一に   

公表きれている︒G︼i scritti c㌻−pp一ひul∽じ.  

︵6︶G−i scritti citこ p.コ.  

︵7︶ デ・マルキはカブールがm抹加乗左批判した点にカブールの﹁反協‖抹王先︑反石機体主義﹂を晶︑そしてその舶はには彼   

の脚人‡端的円山斗十﹂弛の観念があるとする︒De MalChi︸Op Cir−pp.︺︺−︺P  

︵8︶ カブールの小遭巫区制︑制服追準擁護論の根底にも仙人の山を縮保するとの視点が円かれていることがわかる︒参照︑   

De Marchi﹀ Op.Cit.−pp.ひNlいぃ.  

︵9︶G−i scritti−Cit.︸ pp.∞U−S.  

︵10︶G−i scritti︼ Cit.−pp−志−−N−.  

︵11︶ Cam2rP dei D2putati︑SeSSiOごe−宗−︼e聖s−1t焉a ⊆.p.M芝  

︵12︶lbid..p.N設.  

︵13︶Ibid.−p.N琵.   

︵14︶︑︵15︶︑︵16︶Ibid.︑p.∽∽N.  

(23)

g5 カブールと憲法  

︵2︶   る︒・  

た︒かくして成立した両議会は九月ハロに机会され︑芯草†最初い議会正面が肱川されていくことになパルボM  

関の直面した課題の〟つに笥▲次対オーストリア独証戦争により師放されたロムパルディアとげェネト地力の四‖  

︵パドヴ7︑ゲィチェンツ7︑トレサィゾ︑ロビゴ︶のサルデーニャ王Hへの描︿=に闇する川題があった︒併<に閲  

する法律案の議会審議においてロムパルディアの臨時政府の桁隈を制限する政府捏の修H案が否決される事態とな  

り︑これを受けて蔵相レベルは睾〃ハ議会において︑パルポ内閣は二週硯前に総辞職していた旨を報磐した︒この  

パルボ内閣の辞職をめぐって︑これが議院内閲制の原理の最初の表明であると促える諭けもいるようであるが︑カン  

デローロは︑内閣総辞職が議会に止る政府修正案石決の二週哩削であったこし﹂︑H王が議会の志向に闇わりなくパル  

ボ内閣の閣僚に組閣を委ねたこと︑政府修正案に対する没呵小は不任の没霊ではなかったことを指摘し︑議会り内閣  

に対する政治統制の原理が暗黙裾にホ認されたことは稚かであるが︑この辞職により議院内閣制が成立したとは言え  

︵2︶  ないと述べている︒筆者もこのカンデローロの説に与したい︒   

戦時体制下とはいえ発足したはかりの議会が内閲への政治統制を小黒⊥行使しえたという点では︑この事什は その  

後の憲章体制下での議会の果す役剖が坑要な要素となることを些小するものであった︒   

その後の窒早体制の発根のうえで兄のがすことのできない小作として︑オーストリアとの再度い交戦におけろノヴ  

ァラでの扱北後︵∵八川九雄三パ∴∴︶ヵルロ・アルベルト日工が退位しサィットリオ・エて又エレu世が即位し  

︵4︶ たこと︑そして五月し目に穏雌派のマッシモ・ダゼりオが苫相に任命されたことがあげられる︒このグゼリオH偶の  

下で川丸印には七山一五日と一二月九日に∴皮璧芋がおこなわれている︒この∴ほの璧ポにおいては山王の㍍喜∵﹂い  

形で政府による選挙+渉がおこなわれた︒七月の選苓では政府 の十渉にも拘らず政府反対派の民※派が勝利を占め  う  

たが︑オーストリアとの講和条約の蒋認をめぐって政府と対立した議会は二月二〇に解散され㌔この押散とと  

もに国王はダゼリオ起澤のモンカリエーリの真一口︵調和条約に反対する議去は憲章の定める二樅の独立を侵犯するも  

九五   

(24)

岡 法(36−1)96  

ところでこのダゼリオ内聞の下での改非政錆として教会改印があ﹁ノた︒そして刀ブールが議会内穏触派のリーダー  

として頭角を表わしてくるのはこの教会攻蛮の議会離議を通じてであった︒この作業はジュゼッペ・シッカルディ仰  

が法相に任命されて ︵一八州九年一二‖一八日︶ から若手きれ︑彼は教会用判と庇護椎の廃止︑宗教祭の削減︑宗  

教団体等による財指の取得︑追贈︑贈りについては嘩附の許司を要するとの法案を∵ハム0咋二二人に議 会に提  

出する︒誹満会ではバチカン当局との交渉が必要との立場から反対論を述べたレベルやパルポに対して︑再思早施行によ  

り開始きれた改革を更におし進めるべきであるとしてカブールが門成諭を展榊し︑法案は∴月七には代議院を︑そ  

してその一ケ月後には元老院を通過した︒これにより憲章体制に即した教会制度の攻叩への道が切り捌かれた訳であ  

るが︑それとともに議会における林蔵を通じて穏健派内の保守派の分離が決定的となり︑又激しくンッカルディ法に  

︵6︶  

反対した教会の動きを背景に教権・反動派が明確に形成されることになりた︒サルデーニャ†Hにおける議院内閣制  

は教会改耶をめぐる穏腱派と教権・反捌派の対立の申で漸次に確立することになるが︑その序常を飾るのがこのシソ  

カルディ法をめぐる闘争であったと.﹁=えよう︒   

さて︑このシッカルディ法の成立後︑議会内穏腱派のリーダーとして清粧していたカブールは両局・商・侮運相とし  

てダゼリオ円閣に入組することになる ︵一ハ五〇咋一〇月一一口︶︒カブール︑四〇才の帖であった︒カブールはそ  

の後財務大臣をも兼任することになり ︵一八.五一年四月一九︶︑サルデーニャ王国の経済政策のよ案︑執わに専念  

することになったことはもちろん︑議会運営に不慣れな首相ダゼリオに代わり議会において改肘を代表し︑政策全般    返される悪例を残した訳であるが︑ともかくも憲章体制は維持されることにな   ー∪.\  

Jノ.ノ   

のであると批難し︑選挙において政府派に支持が集まらない場人いには将来の貢任を負うのは川王ではなく︑又そこか  

ら生じる無秩序は選挙民自身が負うべきであると脅迫した︶を発し︑更に政府機融毒血=目して選挙十渉をおこなった  

ため︑結果は穏健派が三分の二を占める勝利となった︒政府による選挙十捗とい  の後のイタリアの政治史で繰り  

(25)

97 カブールと憲法  

にも影皆を与えていくことになる︒カブールの大臣としての活躍の巾で本稿の立場からとりわけ指摘しなければなら  

ないのは︑出版法改正法律をめぐる問題で議会での法案の成立を図るため議会内左派の代表者ラクッツィの協力をと  

︵7︶  

りつけ︑いわゆる﹁コヌービオ﹂と呼ばれる多数派を形成したことである︒これにより議会内柚右派の捌きを封じ込  

め︑自由主義勢力を強化することができた︒この﹁コヌービオ﹂は後佃になるとイタリア議八■ム政治学特徴づける﹁ト  

︵8︶  

ラスフォルミズモ﹂の先例をなすものとして市道的に評価されがちであるが︑門事においては憲章体制への極右派の  

攻撃を斥け︑ピエモンテにおけるい由主義政策を押し進めることを可能にしたという点 で進歩的なものであったし︑  

︵9︶  

旧山貝族の進歩的部分と農・餉業ブルジョアジーの迅立が成ったことをホすものであった︒そして議会制の発展という  

︵10︶  観点からは︑﹁H王に対抗しうる同質的多数派が始めて形成されることになった﹂と言えよう︒   

かくしてサルデーニャ王国における憲は政治は議会側の確★へ向けて動き出したかに見えたが︑五二咋五月∩  

に代議院においてラクッツィが議長に選出されると︑これに不満の‖王の介人を受けカブールは大臣職を辞する ︵五  

月一六Fl︶という肇作が起きた︒このことは人に留まるためには議会の支持のみでは充分ではなく︑国‡の支持を  

が明らかになったという点で︑未だ読会刷が椎立したものでほなかったことを示して  も得ていなければならないこと  

いる︒それでもカブールが内閣に戻る ︵しかも今度は首相として︶機会は意外と早くや二しきた︒ンッカルディ法に  

つぐ国家の世俗化政策としてダゼリオ内閣は﹁民事婚法案﹂を代議院に提出し︑七〃五には可決にこぎついたが教  

桁派や法王ピウス九世の圧力を受けた国王の激しい反対にあい︑ダゼリオ内閣は五二咋一〇月二一口に梓職すること  

になった︒匡l王はダゼリオの勧告に従いまずカブールに組閣を命じたが︑民事柄法案の断念が条件となっていたため  

カブールは組閣を辞退した︒そこで国王はパルボに組閣を命じ︑パルボは国王の条件を飲み右派のレベルとともに組  

閣に着手したが両者の意見の遇い︑そして何よりも議会の状況の故に組閣に失敗し︑国王は再度カブールに組閣を命  

ぜぎるをえなかった︒この時は民事婚法案が元老院に上程された場人目にはH任閻題を提出しないとの条什でカブール  

九七   

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岡 法(36−1)98  

・し一\︑  

﹂ノ/′  

﹁‖﹂  は組閣を引き受け︑月西口にカブールを首班とする内用が成立することになった︒議会輿多数派に依拠しないパ  

ルボの組閣の突放︑カブール・門閥の成立は国王といえども議会内多数派の志向を無拍しぇなくなった︑すなわち﹁議  

︵12︶  け 会の多数派に政府首席を委ねる必要があることが初めて明らかになった﹂という点で議院内閣制確宜へ向ての大き  

な一歩を示すものと言えよう︒rl再‡壷の理論を身につけ議会中心ぷ法机を畠につけた人物が政府首相し﹂して貿場し  

た訳である︒しかし議院内㈲制の林立には未だ到達していなかった︒というのは組闇引き一ツけの交換に民再婚法案の  

成立を断念せぎるをえなかったからであり︑更にこのことばより明椛には一八人五りのいわゆる﹁カラビアーナの危  

機﹂と呼ばれる事件において浮き彫りにされることになる︒   

カブール内閣は教会改叩政策を進めるために法相ラクッツィ提案による以下の様なは案を議八ムに提した︒その山  

容は︑布教︑教育︑疾病昔への扶助活動をおこなってない山バ教川休を廃車し︑叫∵笹川体の財庫を日豪の監督下にある  

教会金購に帰属せしめ︑更に廃止の対象とはならない凸パ教冊体の収益が∴止水準を遇えるり∧にはそれに課税し︑そ  

して教会金座は廃止された景教闇体の聖職者に咋金を支給し︑又村政力の弱休な教区司祭に補助金を支糾するという  

ものであった︒要するにこの法案は教会財産はの所有であり︑がそれを辺川・処分するとの来場に〃⁚つものであ  

り︑長年にわたり由‡裁音︑民†主義者が要望したことに応えるものであった︒これに対し法J庁が激しい敵立︸せ  

八五五圧二二に二∴ハ対二.宍でラクッツィ法が叫決された︒しかし元老院での帝議は雄  示したが︑代議院では一  

航をきわめた︒元老院で教会勢力はカラビアーナ枢機拙を通じて︑ラクッツィ法の取り下げと引きかえに補助金友情  

にあてるために教会が国家に圧九二万リラを提供するとの提案産おこない政府に播きぶりをかけたのである︒これ封  

しカブールはカラビアーナ提案の検討のために議会帝議を申止し︑辞職に訴えるという強硬手段に出た︒辞職の東向  

きの理由はカラビアーナ提案は法王けH局との云㍊に通ずる†段し﹂なりうるが︑その小父渉は削い政肘によるガが望ま  

しいというところにあったが実際は‖故に介入し草態を悪化させた張本人であるH‡身に事態収拾わ石打妄負わせ︑   

参照

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