福岡県周防灘沿岸部における石干見の記録
著者 田和 正孝
雑誌名 人文論究
巻 71
号 1
ページ 1‑34
発行年 2021‑05‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/00029685
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
田 和 正 孝
はじ め に
│小 論 の 目的 沿岸
に石 を積 み上 げ︑ 潮位 差を 巧み に利 用し て魚 を獲 る石 干見
︵イ シヒ ビあ るい はイ シヒ ミ︶ は︑ 漁具
・漁 法と し て の価 値を 失っ てす でに 久し く︑ 日本 では ほと んど が消 滅し てし まっ てい る︒ しか しな がら
﹁お か﹂ と﹁ うみ
﹂の バ ッ ファ ーゾ ーン とも いえ る潮 間帯 に敷 設さ れた この 漁具
・漁 法は
︑人 と海 との 関わ りを 知る 貴重 な手 がか りと もい え る
︒そ れだ けに
︑か つて 各地 の沿 岸域 に存 在し た石 干見 がい かに 利用 され たの か︑ 地域 の漁 業の 中で いか なる 位置 を 占 めて いた のか
︑と いっ た問 題に 対し て検 討を 加え る必 要性 が依 然と して 残さ れて いる
︒ その ため 筆者 は︑ 石干 見研 究の 課題 のひ と つ とし て
︑﹁ 石 干見 の 地 域文 化 誌 の 構築
﹂を 掲 げ︑ 過 去の 記 録 の検 証 と そ れを 蓄積 する こと の重 要性 を指 摘し た︒ すな わち
︑地 域調 査で は︑ 石干 見を かつ て利 用し たこ との ある 人び と︑ 石 干 見の 存在 を知 る人 びと への 聞き 取り のほ か︑ 各地 の自 治体 史︵ 誌︶ にあ る水 産業 史的 記述 や漁 業民 俗誌 的記 述を 収 集 す る こ と︑ さら に は 新た な 史
・資 料 を 見 出 す こ と に も 注 力 し な け れ ば な ら な い と 考 え た の で あ る︵ 田 和 二
〇 一 九
︶︒ ここ でい う新 たな 史・ 資料 の発 見と して
︑写 真資 料や 絵図
︑絵 画資 料の 活用 の重 要性 につ いて 気づ かせ る橋 村︵ 二 一
〇 一 九︶ の 指 摘 は 示 唆 に 富 む︒ 橋 村 は︑ 歴 史 地 理 学 的 な 視 点 か ら
︑沿 岸各 地の 古写 真の 点検 や︑ 近世 期の 絵図
︑名 所図 会︑ 絵馬 な どの 読み 直し を進 める こと によ って
︑そ こに 漁具 を発 見で きる チ ャン スが ある かも しれ ない
︑と いう ので ある
︒橋 村の 考え 方を 拡 大し て解 釈す るな らば
︑石 干見 が消 滅す る以 前の 空中 写真 の判 読 も︑ この なか に含 める こと がで きる
︒沿 岸域 を撮 影し た写 真の な かか ら︑ 石干 見の 存在 を明 らか にで きる 可能 性も 考え られ るか ら であ る⑴
︒ とこ ろで 福岡 県は 明治 期か ら多 くの 石干 見が 存在 した
︒日 本定 置 漁 業 研 究会 編
︵一 九 三九
︶は
︑各 都 道 府県 の 定 置 漁 具 の 数 を︑ 一 九〇 七︵ 明治 四〇
︶年 末か ら一 九三 六︵ 昭和 一一
︶年 末に いた る 三〇 年間 を六
〜八 年ご との 五期 に分 けて 示し てい る︒ この なか に は 䌶 簗 類 漁 業 に 含 ま れ る 石 干 見 の 統 数
︵表 1︶ も 含 ま れ て い る
︒こ れに よる と福 岡県 の石 干見 の数 は︑ 一九
〇七 年に は一
〇〇 基 と長 崎県 の一
〇三 基に 次ぐ 全国 第二 位で あっ た︒ その 後︑ 数は 減 少し たが
︑そ れで も一 九三 六年 には 四九 基が 記録 され てい る︒ 石干 見が 構築 され る条 件の ひと つに
︑顕 著な 潮汐 作用 がみ られ る こ と が ある
︒こ の 点 から す れ ば︑ 福岡 県 の 石 干見 の 分 布 域 は︑ 玄 界灘 側 を 除 く周 防 灘 沿岸 部 か 有明 海 沿 岸 部の い ず れか と な る︒
表1 䌶簗類漁業石干見の県別統数(1907〜1936年)
1907年
(明治40年)
1916年
(大正5年)
1924年
(大正13年)
1930年
(昭和5年)
1936年
(昭和11年)
和歌山県 山口県 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 沖縄県
― 34 100
― 103 2 65
―
―
― 62 1 117 3 71
―
― 23 73 5 185 6 66
―
2 22 76 4 145 2 70
―
― 21 49 4 115 1 69 14
総数 304 254 358 321 273
注)1907年、1916年の数値は年末現在、1924年の数値は調査月日不明、1930年の 数値は3月31日現在、1936年の数値は12月31日現在のものである。
日本定置漁業研究会編(1939)より作成。
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
二
し かし
︑有 明海 側に は石 干見 の記 録は 現在 のと ころ 見出 せて いな い︒ 他方
︑周 防灘 沿岸 部に は明 治期
・大 正期 の石 干 見 の資 料が 残り
︑ま た︑
﹁ イシ ヒビ
﹂と いう 呼称 や﹁ 石 干見
﹂と い う 漢字 に よ る表 記 も 当 時か ら 使 用さ れ て いた こ と が 明 ら か で あ る︒ 小 論 で は︑ こ の 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 に つ い て 再 検 討 す る こ と を 目 的 と す る
︒自 治 体 史
︵誌
︶や 地域 に残 され た記 録を 整理 し︑ 絵図
・写 真 等の 利 用 も視 野 に 入れ な が ら︑ 石 干見 の 地 域文 化 誌 を時 間 的・ 空 間 的な 視点 から 組み 立て るこ とを 試み る︒ 以下
︑第 一章 で は 石干 見 の 名称 に つ いて こ れ ま での 研 究 成果 を 振 り返 る
︒ 第 二章 では 周防 灘沿 岸部 の石 干見 の概 要を 示す
︒第 三章 は江 戸時 代末 期か ら明 治期 にか けて の石 干見 の史
・資 料︑ 第 四 章は 大正 期お よび 昭和 前期 の石 干見 の資 料に つい て検 討す る︒ 第五 章で は本 地域 にお ける 石干 見の 消滅 につ いて 考 察 する
︒ なお
︑福 岡・ 大分 両県 沖合 の周 防灘 南部 は︑ この 地方 の旧 国名 に因 んで 豊前 海と 称さ れる こと があ る︒ これ まで の 研 究成 果に おい ても 周防 灘と 豊前 海の 二つ の海 域名 が用 いら れて きた が︑ 両者 が示 す地 域に はほ とん ど差 がみ られ な い
︒し たが って
︑小 論で もこ れら を厳 密に 使い 分け るこ とな く論 を進 める
︒ 第一 章 石干 見 の 名称 本章
では
︑周 防灘 沿岸 部に おけ る石 干見 を考 察す る前 段と して
︑石 干見 の名 称に 関わ る論 点に つい て︑ これ まで の 研 究を 振り 返っ てお く︒ 石干 見は
︑䌶 簗漁 業に 含ま れる 定置 性の 漁業 種類 のひ とつ であ る︒ 水産 行政 の用 語と して も使 われ てき た︒ 石積 み に よっ て構 築さ れた この よう な漁 具の 一般 名称 であ るこ とも
︑学 界で は定 説で ある
︒他 方に おい て︑ 石干 見を 表現 す る 様々 な地 域固 有の 名称 があ った こと が︑ これ まで の研 究か ら明 らか にな って いる
︒ 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
三
西 村︵ 一 九六 九
︶は
︑﹁ 名 称は 大 体︑ 沖 縄︑ 奄美 の
kaki
︵垣
︶系 統 と︑ 九 州 一 円 で 用 い ら れ て い
る
sukki
︵掬 い
︶ 系 統に 大別 でき るよ う だ﹂ と 述べ て い る︒ 小川
︵一 九 八 四︶ は﹁ 九州 の 有 明 海の 諫 早 湾︵ 泉水 海
︶・ 島 原半 島
・宇 土 半 島付 近に 見ら れる もの はス ッキ イと いわ れ︑ 周防 灘 の 福岡 県
・山 口 県沿 岸 に みら れ る も のは イ シ ヒビ と い われ る
﹂ と 記し てい る︒ 小川 は︑ 加え て︑ 豊前 海の 石干 見を 調査 した 一九 六二 年の 記録 とし て︑
﹁ ヒビ を干 見と 漢字 であ てて
︑ 石 干見 とい う用 語が 豊前 海地 方か らは じま った と思 われ る﹂ と指 摘し てい る︒ ただ し西 村や 小川 は︑ これ 以上
︑石 干 見 の名 称を めぐ る議 論を 展開 して いな い︒ 筆者 自身 も石 干見 の地 方名 に関 心を いだ き︑ 文献 調 査 およ び 九 州各 地 で のき き と り 調査 を 続 けて き た︒ そ の結 果
︑ 周 防灘 沿岸 部に みら れる もの がイ シヒ ビや イシ ヒミ
︑あ るい はヒ ビや ヒミ と呼 ばれ たこ とを 確認 する にい たっ た︒ さ ら に個 々の 石干 見に つい ては それ を特 定で きる よう に︑ 個人 の名 前︑ その 大き さや 形状 を表 現す る名 称︑ 地域 を表 す 特 徴的 な名 称な どを ヒビ とい う語 の前 につ けて 呼ぶ のが 一般 的で ある こと も明 らか とな って きた
︒た とえ ば︑ 大分 県 宇 佐市 の長 洲海 岸に は昭 和一
〇年 代に 七基 の石 干見 が存 在し た︒ これ らは 総称 して ヒビ と呼 ばれ たが
︑こ れら のう ち の 六基 には 兵作 ヒビ
︑国 ヒビ
︑宮 ヒ ビ︑ 長 ヒビ
︑角 兵 ヒ ビ︑ 女ヒ ビ と いう 名 称 が つけ ら れ てい た
︵田 和 二
〇 一九
︶︒ 残 る一 基に つい ては
︑詳 細は わか らな い︒
﹁ イシ ヒビ
﹂と いう 呼称
︑﹁ 石干 見﹂ とい う表 記は
︑周 防灘 沿岸 部に おけ るこ うし た漁 具の 名称 と考 えて 誤り はあ る ま い︒ ただ し︑ この 用語 がど のよ うに して 行政 用語
︑学 術用 語と して 定着 する にい たっ たの か︑ その 過程 は依 然と し て 不明 のま まで ある
︒ イシ ヒビ ある いは イシ ヒミ の語 源は
︑石 で造 られ た䝽 すな わち 石䝽 と考 えて 誤り はな い︒ 䝽は
︑浅 海に 竹材 や竹 な ど で編 んだ 簀を 建て てつ くっ た陥 穽漁 具の こと であ る︒ ノリ やカ キを 養殖 する ため に沿 岸部 に竹 材を 杭の よう に打 ち 込 んだ 漁具 も﹁ ひび
︵䝽
︶﹂ と 呼ば れる
︒室 町 時代 に 成 立し た 抄 物の ひ と つ であ る 玉 塵抄
︵一 五 六 三年
︶に は
﹁江 ヤ
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
四
国東半島 国東半島
浦 ニシ バヤ サヽ ノ葉 ヲシ カト 立テ ヽヨ コニ 水ヲ セイ テ魚 ヲト ルヲ ソレ ヲ ヒ ヾ ト 云 ソ﹂ と あ る︵ 中 田 編 一 九 七
〇
︶︒ 入 り 江 や 浦 の よ う な 内 湾 部 に
︑柴 や笹 の葉 を編 んだ り結 わえ たり して こし らえ た簀 状の 道具 を隙 間 な く建 てて
︑こ れに よっ て海 水の 流れ を遮 って 魚を 漁獲 する 漁具
・漁 法 を ヒビ と呼 んだ ので ある
︒ ヒビ は︑ 古く は﹁ ヒミ
﹂と も発 音し たと いう
︒こ れは 音声 学的 な子 音 の 交替 とい う現 象で 説明 がつ く︒ すな わち
︑m 音と b音 とが 変化 し︑ そ れ ぞれ に母 音i がつ いた 結果
︑イ シヒ ミと イシ ヒビ が併 存す るよ うに な っ たと 考え るの が適 当 であ る⑵
︒音 声 学 的な 視 点 から い え ば︑ 石干 見 は イ シヒ ビあ るい はイ シヒ ミの いず れの 読み でも よい こと にな る︒ 第二 章 周防 灘 沿 岸部 の 石 干見
︵1
︶周 防灘 沿岸 部の 概要 周防 灘は
︑瀬 戸内 海の もっ とも 西部 に位 置す る海 域で ある
︒山 口県 南 部
︑福 岡 県 北 東部
︑大 分 県 北部 に よ って 囲 ま れ て い る︵ 図1
︶︒ 東 は 伊 予 灘に 接し
︑北 は関 門海 峡を 経て 響灘 へと 続く
︒伊 予灘 との 境界 は︑ お お よ そ 山 口県 の 屋 代島
︵周 防 大 島︶
︑ 室 津︵ 熊 毛︶ 半 島︑ 長 島︑ 祝 島 と 大 分県 の姫 島︑ 国東 半島 北岸 を結 ぶ線 であ る︒ 福岡 県お よび 大分 県の 沿
図1 福岡県東部周防灘沿岸部 福
岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
五
岸 海域 の一 部は
︑前 述し たよ うに
︑豊 前海 とも 呼ば れて いる
︒
な が お
き い
福 岡 県東 部 地 方で は
︑長 峡川
︑祓 川
︑城 井 川︑ 佐井 川
︑山 国 川 をは じ め 大小 一 五 以 上 の 河 川 が 周 防 灘 に 注 い で い る
︒下 流部 には 沖積 平野 や三 角州 が形 成さ れて きた
︒ま た︑ 潮汐 作用 が顕 著に みら れ︑ 大潮 時の 潮位 は最 高四 メー ト ル 以上
⑶
に達 する こと があ る︒ 干潟 が平 野末 端部 から 沖合 数キ ロメ ート ル まで 発 達 し︑ 海 面が 水 深 一五 メ ー トル 程 度 の 浅海 部ま でゆ るや かに 傾斜 して いる こと も︑ この 地 域 の海 岸 地 形の 特 徴 であ る
︒こ の よ うな 沿 岸 部の 自 然 条件 が
︑ 石 干見 の構 築を 可能 にし てき たの であ る︒ 周防 灘沿 岸部 は︑ 明治 後期 に鉄 道や 国道 が敷 設さ れ工 業化 が進 展す るま では
︑農 業・ 漁業 を主 たる 生業 とす る﹁ 海 付 き﹂
︵ 安室
二
〇一 一︶ の地 域で あっ た︒ この よう な生 業を にな う人 びと が︑ 海岸 に石 干見 を築 いて きた と考 えて 誤 り はな い︒ ただ し︑ 干潟 では
︑早 いと ころ で一 七〇
〇年 代後 半の 天明 年間
︵一 七八 一〜 八九 年︶ から 江戸 時代 末期 の 文 久年 間︵ 一八 六一
〜六 四年
︶︑ さ らに は明 治期 以 降に も
︑新 田 開発 を 目 的と し た 干 拓が お こ なわ れ て きた
︒こ れ に よ り海 岸線 は改 変し
︑石 干見 の構 築に 適し てい た干 潟も かな り失 われ たと 考え られ る︒ 消滅 した 石干 見が 数多 く存 在 し たで あろ うこ とも 容易 に察 せら れる
︒こ の地 域の 石干 見の 存在 を分 析す るに 際し ては
︑以 上の よう な干 拓事 業に よ る 影響 を考 慮し なけ れば なら ない
︒
︵2
︶石 干見 の形 態 周防 灘沿 岸部 にあ った 石干 見の 形態 を伝 える 資料 は少 ない
︒そ のな かに あっ て︑ 福岡 県水 産試 験場 が︑ 大正 末か ら 昭 和初 期に かけ て調 査し た豊 前海 沿岸 の漁 具・ 漁法 に関 する 報告 書に ある 石干 見の 記録 は貴 重で ある
︒石 干見 は︑ 雑
み け か ど
漁 具五 種⑷
の ひと つと して 掲載 され てい る︵ 福岡 県水 産試 験 場編
一九 二 七︶
︒ 石 干見 の 調 査事 例 は︑ 築 上郡 三 毛門 浦 の もの
︵図 2︶ であ る︒ 説明 には
﹁干 見﹂ に対 して
﹁ひ み﹂ とル ビが う たれ て い る⑸
︒ 漁 期や 漁 法 につ い て の聞 き 取
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
六
り 内容 とと もに
︑平 面図 が描 かれ
︑そ こに いく つか の部 位の 高さ や長 さの 計測 値が 示さ れて いる
︒現 地調 査に よっ て 入 手し たこ うし た資 料の 価値 は高 い︒ 説明 内容 の一 部は 以下 の通 りで ある
︒ 石干 見漁 の漁 期は 周年 にわ たる もの の︑ 冬季 は休 業し た︒ 五月 から 一一 月頃 まで はイ ワシ
︑九 月か ら一 一月 頃ま で は アミ エビ の漁 期で あっ た︒ 満潮 時に 来遊 した 魚類 のう ち︑ 干潮 時に なっ ても 石干 見内 に居 残る もの を︑ まき 網︑ 四 図2 石干見(築上郡三毛門浦)の図
福岡県水産試験場編(1927)による。
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
七
手 網︑ 投網
︑刺 網な どを 使っ て漁 獲し た︒ まず
︑潮 が引 きは じめ るこ ろに 石干 見に 行っ て︑ なか に残 って いる 魚類 を 見 定 め た︒ ボ ラは ま き 網に よ っ て取 り 囲 み︑ 四 手網 や 投 網な ど で 漁 獲し た
︒イ ワ シ︑ その 他 の 魚 類 が 入 っ た 場 合 に は
︑ま き網 を使 用し た︒ アミ エビ は︑ もっ とも 沖側 に設 けら れた ジヨ モト と呼 ばれ る暗 渠状 の排 水口 の外 側に 刺網 を 建 てて
︑海 面へ と泳 ぎ出 てゆ くも のを これ によ って 捕獲 した
︒小 イワ シも 同様 の漁 法で 漁獲 した
︒ 形態 は前 掲図 2の 平面 図か ら馬 蹄形 に近 いこ とが わか る︒ 海岸 の両 袖側 にあ たる 石積 みの 端と 端と の間 隔は 約一 一 八 メー トル ある
︒石 積み は沖 側の ジヨ モト まで
︑両 袖と も約 一三 七メ ート ルあ った
︒石 干見 内の 面積 は約 一・ 四ヘ ク タ ール と推 定で きる
︒石 積み の高 さお よび 幅に つい ては
︑両 袖に 四か 所ず つ計 測値 が記 載さ れて いる
︒そ の高 さは 海 岸 部で 四〇
〜八
〇セ ンチ メー トル
︑も っと も沖 側で 一一 五〜 一二
〇セ ンチ メー トル
︑基 底部 分の 石積 みの 幅は
︑海 岸 部 で 七
〇 セン チ メ ート ル 前 後︑ 沖側 で 一
〇
〇〜 一二
〇 セ ンチ メ ー ト ルで あ っ た︒ 大潮 時 に は︑ 最 高 潮 位 か ら 判 断 し て
︑石 積み の倍 以上 の高 さま で海 面下 に隠 れた と考 えら れる
︒海 岸か ら沖 を見 た場 合の 右袖 にあ たる 石積 みの 高さ の 方 が︑ やや 高め であ る︒ この 点か らみ れば 干潟 自体 に高 低差 があ り︑ 左袖 側の 方が やや 高い 海岸 地形 であ るこ とが わ か る︒ 外側 から 見た ジヨ モト の図 も掲 げら れて いる
︒開 口部 分の 幅は 八八 セン チメ ート ル︑ 高さ は七 六セ ンチ メー トル あ っ た︒ そこ に目 合の 細か い竹 製の 格子 を固 定し
︑魚 が石 干見 内か ら逃 げな いよ うに 工夫 され てい た︒ アミ エビ や小 イ ワ シを 捕獲 する 場合 には
︑こ の格 子を いっ たん 外し てお いて 刺網 を敷 設し たの であ ろう
︒
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
八
第三 章 江戸 時 代 末期 お よ び明 治 期 の石 干 見 に関 す る 史・ 資 料
︵1
︶石 干見 の存 在時 期 石干 見が いつ 頃か らこ の地 域に あっ たの か明 らか にで きる 古い 史・ 資料 は存 在す るの であ ろう か︒ また
︑石 干見 と い う表 記は いつ 頃ま で遡 って 確認 でき るの であ ろう か︒ 石干 見の 存在 を伝 える 伝説 の類 とし ては
︑平 安時 代前 期の 学者 菅原 道真 に由 来す るも のが ある
︒築 上郡 史編 纂委 員 会 編︵ 一九 五六
︶に は以 下の よう な記 述が ある
︒ 菅地
の梅 に云 う﹁ 既に 豊前 国築 城郡 椎田 浦に 着き 給ふ
︒此 日北 風の 烈し かり しに や︑ 此浦 にひ ゞと て海 に箕 の 手 の石 を組 立て 門一 つを 明け 置汐 の干 を待 て漁 する 業な す者 あり
︒ 其日 業に 出で 居れ るが 菅公 の甚 く御 舟に 悩み 給う を見 奉り 海辺 に座 せん とて 御座 所を 尋求 めけ るが
︑や がて 舟 の 綱を 打敷 て座 せ奉 りぬ
︒︵ 中 略︶ 偖そ のひ ゞ 主は 尾 原 村の 者 に て︑ 一人 は 八 田 村の 者 な るが
︑尚 ほ 菅 公を 労 り 奉 りて 背に 負ひ て家 に入 奉れ り︑
︵ 以下
︑略
︶﹂
︒ 史実
とは 異な り考 証し がた い以 上の よう な伝 説を 除外 して
︑筆 者は これ まで
︑福 岡県 にお ける もっ とも 古い 石干 見 の 記録 を︑ 後述 する 明治 期の 漁業 税に 関係 する 資料 に見 出す こと がで きる
︑と して きた
︒し かし なが ら︑ 最近
︑こ の 地 域に 残る 江戸 時代 末期 の絵 図か ら石 干見 の存 在を 確認 でき るこ とが わか った
︒そ れが
︑次 節で 考察 する 県東 部︑ 大 分 県と の県 境近 くを 流れ る山 国川 の河 口部 にあ った
︑砂 州島 小祝 と高 浜を めぐ る小 倉藩 と中 津藩 との 境界 争い に関 連 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
九
し て作 製さ れた 絵図 であ る︒
︵2
︶江 戸時 代末 期の 絵図 にみ る石 干見 山国 川河 口域 は︑ 江戸 時代 には 高瀬 川と 呼ば れて いた
︒ま た沖 合に あっ た小 祝島 の三 角州 で分 流す る河 川の うち 中 津 城側 は表 川︑ 中津 川︑ 小犬 丸村 が面 す る 側は 裏 川︑ 小 犬丸 川 な どと 呼 ば れ た︒ 慶長 末 年 頃︵ 一六 一
〇 年代
︶︑ 仲 津 郡 今井 村の 漁業 者が 移り 住ん で漁 業を 営ん だの が小 祝に おけ る漁 業集 落の 成立 とい われ てい る︒ 江戸 時代 中期 まで は 今 井村 にち なん で小 今井 村と 呼ば れた
︒小 祝は
︑も とも とは 陸続 きで あっ たが
︑一 六六 九︵ 寛文 九︶ 年の 大洪 水に よ っ て河 川の 流路 が変 わっ た結 果︑ 砂州 島と なっ た︒ 小祝 の西 側に は高 浜と いう 洲が あっ た︒ この あた りは 小倉 藩領 と 中 津藩 領と が混 在し てお り︑ 両藩 の間 にし ばし ば境 界を めぐ る争 いと とも に替 地が なさ れた
︒領 地替 えの 経緯 につ い て は︑ 豊前 市史 編纂 委員 会編
︵一 九九 一a
︶に 詳し い︒ 一八 六七
︵慶 応三
︶年 には
︑小 倉藩 領の 小祝 村お よび 高浜 と 中 津藩 領の 直江 村︑ 土屋 垣村
︑別 府村 の一 部と の所 領の 交換 が完 了し た︒ その 結果
︑小 祝村
︑高 浜が 中津 藩領 に編 入 さ れた
︒な お︑ 現在 では 小祝 は大 分県 中津 市︑ 高浜 は福 岡県 築上 郡吉 富町 に属 して いる
︒ 江戸 時代 末期 の小 倉藩 領と 中津 藩領 との 境界 争い に関 係し て作 製さ れた 小祝 周辺 と山 国川 河口 部︑ 沖合 の砂 州を 示 す 絵図 が残 され てい る︒ 吉富 町教 育委 員会 によ れば
︑五 葉を 確認 でき ると いう
︒そ れら は︑ 現在
︑吉 富町 小犬 丸に あ
こ ひ ょう
る 八幡 古表 神社 が所 蔵す る﹁ 小祝 ノ絵 図面
﹂二 葉︵ 吉富 町教 育委 員会 編 二
〇〇 一︶
︑豊 前市 の辛 島家 が所 蔵す る﹁ 幕 末 期替 地前 の小 倉・ 中津 領の 藩 領 界﹂ と﹁ 幕末 期 の 小倉
・中 津 両 藩の 領 界 の 村々
﹂︵ 半 田 解説
・校 訂
︑豊 津 町史 編 纂 委 員会 企画
一九 九二
︶︑ さら に大 分県 日田 市に ある 廣瀬 資料 館所 蔵の 絵図 一葉
︵半 田校 訂・ 解説
︑中 津藩 政史 料刊 行 会 企画
一九 八七
︶で ある
︒ これ らの うち 八幡 古表 神社 所蔵 の二 葉の 絵図 には 高浜 の沖 側に 東西 に六 基の 石干 見が 描か れて いる
︒藩 領を 色分 け
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一
〇
写真1「小祝ノ絵図面」その1(八幡古表神社所蔵。写真提供:吉富町教育委員会)小倉藩領と中津藩領を色分けした絵図。高浜の沖側に東西に6基の石干見が描かれている。6基とも小倉領を意味する赤によって彩色されている。東側の2基をまとめて「小祝浦石干見」、続く3基にそれぞれ「小祝浦干見」という記載がある。もっとも西側に位置するものには記載はない。 写真2「小祝ノ絵図面」その2(八幡古表神社所蔵。写真提供:吉富町教育委員会)高浜の沖側に石干見が破線で6基描かれている。西側から順に「直江干見」「小祝干見」「同」「小祝干見」「同」「同」とある。もっとも西側の1基は佐井川河口部右岸に位置した直江村の村民が所有していたと考えられる。
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 一
城井川城井川
湊湊
鬼塚鬼塚
上り松川上り松川 城井川城井川 高塚高塚 宇留津宇留津
写真31962年に撮影された現在の築上町上空の空中写真(国土地理院MKU629-C6-10)城井川河口部から南に続く干潟に10基以上の石干見(石干見であったと思われる痕跡を含む)が認められる。干拓堤防が干潟の沖側にすでに完成しており、小さな陸繋島であった鬼塚が、堤防内に取り込まれている。 写真41962年に撮影された現在の築上町上空の空中写真(国土地理院MKU629-C5-9)城井川河口北部の高塚、宇留津地区の干潟に石干見とその痕跡と思われる9〜10基の構築物がある。
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 二
し て示 した 絵図
︵写 真1
︶に は六 基と も小 倉領 を意 味す る赤 によ って 彩色 され
︑さ らに 東側 の二 基を まと めて
﹁小 祝 浦 石 干 見﹂
︑ 続く 三 基 にそ れ ぞ れ﹁ 小祝 浦 干 見﹂ と いう 記 載 があ る
︒も っ とも 西 側 に 位置 す る も の に は 記 載 は な い
︒ 本 図は
︑豊 前市 史編 纂委 員会 編︵ 一九 九一 a︶ によ れば
﹁高 浜論 所絵 図﹂ と命 名さ れて おり
︑文 化年 間︵ 一八
〇四
〜 一 八一 八年
︶に 作製 され たも ので ある とい う︒ もう 一葉 の絵 図︵ 写真 2︶ にも 同様 に︑ 高浜 の沖 側に 石干 見が 破線 で 六 基 描 か れて お り︑ こ れら に は 西 側 か ら 順 に﹁ 直 江 干 見
﹂﹁ 小 祝 干 見﹂
﹁ 同﹂
﹁小 祝 干 見﹂
﹁同
﹂﹁ 同
﹂と 記 載 が あ る
︒ も っと も西 側の 一基 は山 国川 の西 を流 れる 佐井 川河 口部 右岸 に位 置し た直 江村 の村 民が 所有 して いた と考 えら れる
︒ 辛島 家が 所蔵 する
﹁幕 末期 替地 前の 小倉
・中 津領 の藩 領界
﹂絵 図は
︑前 掲の 八幡 古表 神社 蔵の 後者 の絵 図と 構図 的 に は同 じで ある
︒吉 富町 教育 委員 会に よれ ば︑ 辛島 家の この 絵図 と八 幡古 表神 社の 絵図 とは
︑小 倉藩 側と 中津 藩側 に そ れぞ れ一 葉ず つ残 され たも のに 合致 する ので はな いか とい う︒ 辛島 家所 蔵の この 図に も高 浜の 沖側 に六 基の 石干 見 が 描か れて おり
︑そ れら には 西側 から
﹁直 江干 見﹂
﹁ 小祝 干見
﹂﹁ 同﹂
﹁ 同﹂
﹁同
﹂﹁ 小 祝干 見﹂ との 記載 があ る︒ なお
︑ 本 図 の 一 部は
︑築 上 郡 史編 纂 委 員会 編
︵一 九 五 六︶ の口 絵 に も掲 載 さ れ てい る こ と を 確 認 し た︒ こ の 絵 図 に は﹁ 中 津
︑小 倉両 藩慶 応三 年一 部の 替地 々図
﹂と の名 称が 付 さ れて い る︒ 一 八六 七 年 の替 地 の 状 況を 説 明 した も の であ る
︒ 辛 島家 が所 蔵す るも う一 方の 絵図
﹁幕 末期 の小 倉・ 中津 両藩 の領 界の 村々
﹂に は︑ 高浜 の沖 側に 石干 見ら しき もの は 描 かれ てい ない
︒ 廣瀬 資料 館所 蔵の
﹁幕 末期 替地 前の 中津
・小 倉領 の藩 領界
﹂に 関す る絵 図は
︑一 八六 七年 の替 地直 前の もの とさ れ て おり
︑高 浜沖 に五 基の 石干 見が 描か れて いる
︒も っと も西 側に 位置 する 石干 見に は﹁ 小祝 浦石 干見
﹂と あり
︑こ れ に 続く 東側 の四 基に はい ずれ も﹁ 同右
﹂と の記 載が ある
︒ 以上 の江 戸時 代末 期に 描か れた 絵図 に対 する 考察 から
︑当 時す でに 干見 とと もに 石干 見と いう 用語 も存 在し てい た こ とが 明ら かに なっ た︒ これ ら一 連の 絵図 は︑ 筆者 が現 在ま でに 確認 でき た福 岡県 の石 干見 に関 係す る史 料の なか で 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 三
松 原 松 原
有 安 有 安
四郎丸 四郎丸
も っと も古 いも のと して 位置 づけ るこ とが でき る︒
︵3
︶明 治期 の石 干見 資料 筆者 は︑ 福岡 県に おい て石 干見 が登 場す るも っと も古 い資 料は 明治 期の 漁業 税規 則で ある と考 えて きた
︒こ の規 則 は 一八 八〇
︵明 治一 三︶ 年に 施行 され た︒ 掲げ られ てい る地 区︵ 村︶ ごと の各 種漁 業に 対す る税 目表 のな かに
︑石 干 見 の税 額も 記さ れて いる
︵福 岡県 庁庶 務課 別室 史料 編纂 所編
一九 四九
︑三 井田
二
〇〇 六︶
︒ 本規 則第 一条 の条 文は
︑﹁ 漁 業税 ハ八 等ニ 分チ 各村 各 種ノ 税 額 ヲ定 メ 之 レヲ 課 ス 其 目左 ノ 如 シ 但網 漁 ハ 網数 ニ 長 縄 漁ハ 縄数 ニ羽 瀬石 干見 漁ハ 箇 所ニ 拠リ 課税 ス﹂ とな って お り︑ 石干 見へ の課 税額 は敷 設 場所 の漁 獲成 績に よっ て決 定 され たこ とが わか る︒ 税額 表 によ ると
︑仲 津郡 の二 地区
い な ど う
︵稲 童︑ 松原 の二 大字
︒以 下︑
︵
︶内 の 地 名 は 大 字 を 示 す
︶︑ 築 城 郡 の 七 地 区︵ 湊︑ 高 塚︑ 東八 田︑ 西八 田︑ 宇留
しょ う え
津
︑松 江︑ 有 安
︶︑ 上 毛 郡 の 四 地 区︵ 八 屋
︑沓 川
︑四 郎
図3 周防灘沿岸の集落(大字)
主要な集落(大字)名を掲げた。ベースマップ は現在の行政界を示したものである。
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 四
丸
︑三 毛門
︶の 計一 三地 区︵ 図3
︶に 石干 見が あっ た︒ 税額 は条 文の 通り 八等 級に 分け られ てお り︑ 年額 一円 の六 等 と され た三 毛門 の石 干見 を除 くと
︑他 地域 の石 干 見 は︑ いず れ も 最下 級 の 八等 に あ た る年 額 二
〇銭 で あ った
︒ま た
︑ 地 区内 の漁 業種 類が 石干 見だ けに 限ら れる とこ ろが 四地 区︵ 松原
︑高 塚︑ 東八 田︑ 西八 田︶ 含ま れて いた こと もわ か っ た⑹
︒ 三毛 門を 除く 一二 地区 では
︑石 干見 によ る漁 業生 産額 がわ ずか であ り︑ 石干 見は 商業 的漁 業の 範疇 に組 み込 まれ て い なか った と考 えら れる
︒石 干見 以外 の漁 業種 類の 記載 がな い四 地区 には
︑専 業の 漁家 は存 在し ない こと にな る︒ 石 干 見は 農家
︑あ るい は農 業と 漁業 を併 営す るい わば 半農 半漁 の家 が所 有し
︑毎 日の
﹁お かず とり
﹂の 場と して これ を 利 用し てい たと 考え るの が適 当で あろ う︒ 小川
︵一 九八 四︶ は︑ 一九 六二 年に 椎田 町の 石干 見を 調査 した 際︑ 椎田 町湊 に在 住の 鬼頭 栄太 郎と いう 人物
︵当 時 八 二歳
︶が 所有 する
︑明 治期 の石 洲の 売買 に関 する 以下 の受 領証 を確 認し てい る︒ 受領
之証 一
︑ 金八 拾五 円也 右 前記 之金 額 石 洲壱 ヶ所 売 買 代金 トシ テ受 取 申候 也 明治 三拾 四年 七月 廿八 日 西 角田 村字 上リ 松 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 五
中 尾タ ヨ 畑 中惣 吉 椎田
町湊 増右 衛門 殿 小川
は︑ 石洲 が石 干見 のこ とと 思わ れる と述 べ︑ ここ でい う八 五円 が米 二〇 俵に 相当 する 価格 であ ると 推察 して い る
︒石 干見 は売 買さ れる 対象 であ った
︒ 築上 郡角 田村 松江 に組 織さ れて いた 松江 浦漁 業組 合の 組合 規則
︵一 九〇 二・
〇三 年︶ によ ると
︑組 合が 有す る漁 業 権 には 水面 専用 漁業 権︑ 定置 漁業 権︑ 区画 漁業 権︑ 入 会 漁業 権 の 四つ の 漁 業権 が あ り︑ こ のう ち の 定置 漁 業 権に は
︑ 桝 網類 漁業
︑張 網類 漁業
︑䌶 簗漁 業が 含 ま れた
︒䌶 簗 漁 業を さ ら に細 分 す る と石 干 見︵ 䝽︶ と 石筌 が あ った
︒﹁ 䌶 簗 類 石干 見﹂ の漁 業免 許 に は︑ 漁獲 物 の 種類 と し てイ ナ
︵ボ ラ の 若魚
︑以 下
︑魚 名 の︵
︶ 内は 筆 者 注︶
︑セ イ ゴ︵ ス ズ キの 若魚
︶︑ イ カ︑ チヌ
︵ク ロダ イ︶
︑カ ニ︑ ヒラ
︑カ レイ が掲 げら れ︑ 漁期 は一 月一 日か ら一 二月 三一 日ま で﹁ 昼 夜 兼行
﹂で あっ た︒ さら に︑ 慣行 事実 とし て︑
﹁ 其年 紀ヲ 詳 スル ニ 能 ハズ ト 雖 モ既 往 ニ 遡 テ推 考 セ バ已 ニ 旧 藩時 代 ヨ リ 設置 セラ レタ ルコ ト確 実ナ リ﹂ との 記載 があ る︵ 豊前 市史 編纂 委員 会編
一九 九一
︶︒ 石干 見が 江戸 時代 から 存在 し た こと は間 違い ない とい うの であ る︒
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 六
第四 章 大正 期 お よび 昭 和 前期 に お ける 石 干 見漁 大
正 期︵ 一九
〇
〇 年代 初 頭︶ に おけ る 石 干 見の 状 況 が明 ら か にで き る 資 料と し て︑ 福 岡県 水 産 試 験 場 が 一 九 一 七
︵大 正六
︶年 に刊 行し た﹃ 福岡 県漁 村調 査報 告 漁業 基本 調査 第一 報﹄
︵ 福岡 県水 産試 験場 編 一九 一七
︒以 下で 書名 を 取 り上 げる 際に は︑
﹃ 福岡 県漁 村 調査 報 告﹄ と 略記 す る︶ が ある
︒こ の 報 告 書は
︑一 九 一 五︵ 大正 四
︶年 二 月の 現 地 調 査に 基づ いて いる
︒基 本的 には 漁業 組合
⑺
を構 成し た大 字ご とに 整 理さ れ て い るが
︑報 告 書 のタ イ ト ルに あ る﹁ 漁 村
﹂は
︑大 字だ けで はな く︑ 漁業 を生 業の 一部 とす る集 落を 指し てい る場 合も ある
︒以 下で は︑ こう した
﹁漁 村﹂ を 表 す用 語と して
︑漁 業集 落あ るい は単 に集 落と いう 用語 を使 用す る︒ 漁業 集落 ごと にま とめ られ たこ の 報 告書 は
︑集 落 の総 論 的 な説 明 に 続 いて
︑漁 船 数︑ 産 額︵ 漁業 生 産 高︶
︑漁 業 者 の 副業 の種 類︑ 漁業 者家 族の 業務
︑漁 業組 合︑ 魚市 場に つい て取 り上 げる
︒加 えて 網具
︑釣 具︑ 雑漁 具︑ 養殖 業な ど の 員数
︵漁 家数
︑一 部の 漁具 は漁 具数
︶︑ 漁 期︑ 漁場
︑漁 獲物
︑漁 獲高 を記 載す る︒ 石干 見は
︑豊 前海 に面 する 京都 郡 仲 津村 稲 童︵ 現 在は 行 橋 市域
︶︑ 築 上 郡 八津 田 村︑ 椎 田町
︑西 角 田 村︵ 現在 は い ず れも 築上 郡築 上町 域︶
︑ 築上 郡角 田村 松江
︑同 郡三 毛門 村︵ 現在 はい ずれ も豊 前市 域︶
︑築 上郡 東吉 富村
︵現 在は 築 上 郡吉 富町 域︶ の各 集落 に存 在し てい たこ とが 報告 書か らわ かる
︒石 干見 の合 計数 は八 九基 にの ぼっ た︒ ちな みに 前 掲 の日 本定 置漁 業研 究会 編︵ 一九 三九
︶に は︑ 福岡 県の 石干 見の 数が 一九 一六
︵大 正五
︶年 に六 二基 とあ る︒ 大正 期に おけ る福 岡県 の石 干見 につ いて
︑筆 者は すで に﹃ 福岡 県漁 村調 査報 告﹄ に依 拠し て若 干の 報告 をし てい る
︵田 和 二〇 一二
・二
〇一 九︶
︒ しか し︑ その 内容 は石 干 見の 名 称 およ び 当 時の 石 干 見 の数 に 注 目し た 程 度で あ り︑ 地 域 文化 誌的 な記 述に はい たっ てい ない
︒そ こで 本章 では
︑こ の報 告書 の記 述を 再検 討す ると とも に︑ 新た に見 出す こ 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 七
と がで きた 資料 を加 えて
︑各 漁業 集落 の石 干見 漁に つい て考 察し たい
︒
︵1
︶京 都郡 仲津 村稲 童の 石干 見 行橋 市史 編纂 委員 会編
︵二
〇〇 六︶ は︑ 石干 見漁 を以 下の よう に説 明し てい る︒ すな わち
︑干 潟に 大小 の石 を積 み 上 げて 半円 の築 堤︵ 高さ 一メ ート ル︑ 長さ 五
〇〜 七
〇メ ー ト ル︶ をつ く り︑ こ の築 堤 の 最 も深 い と ころ に 網 を張 り
︑ 干 潮時 に海 水が 出て 網の 付近 に逃 げ遅 れて 寄集 まっ た魚 をた も網 など で獲 る︒ 漁期 は周 年︵ 盛期 は四 月か ら一 一月 ま で
︶で
︑漁 獲物 はボ ラ︑ スズ キ︑ クロ ダイ
︑イ カな どで ある
︒石 干見 は︑ 稲童 の石 並や 松原 で行 われ たと いう
︒こ れ が
︑い つの 時代 を意 識し た説 明文 なの かは 明ら かで ない が︑ 漁具 の規 模は 前述 した 三毛 門の 石干 見と 比べ ると
︑小 型 で ある
︒ 稲童 は︑ 大正 期に は仲 津村 に含 まれ る大 字で あっ た︒ 小河 川の 河口 に船 溜ま りを 有し てい た︒ この 船溜 まり は決 し て 良港 とは いえ なか った が︑ 北は 長峡 川︑ 今川
︑祓 川の 河口 沖合 にあ る簑 島︵ 現在 は行 橋市 域︶ から 南は 八屋
︵現 在 は 豊前 市域
︶ま での 間に 存在 した 集落 の港 のな かで は︑ 小・ 中型 漁船 の発 着に 便利 な漁 港と なっ てい た︒ この 地が 小 倉 藩領 であ った 時代 には
︑村 民は 農業 の傍 ら︑ 石 干 見を 営 む にす ぎ な かっ た と い う︒ その 後
︑八 屋 や簑 島 の 漁業 者
︑ 岡 山 県 か らの 漁 業 者が 移 住 して き て 居 つい た
︒一 九 一五 年 当 時︑ 戸 数は 三 六 戸を 数 え た︒ うち 一 八 戸 は 移 住 者 の 家 で
︑い ずれ も専 業漁 家で あっ た︒ 主た る漁 業種 類は 桝網
︑打 瀬網
︑チ ヌ︵ クロ ダイ
︶延 縄︑ アナ ゴ延 縄︑ たこ つぼ で あ った
︒た だし
︑漁 業者 家族 の業 務と して 農業
︑漁 具製 作︑ 農業 手伝 いが 掲げ られ てい るこ とか ら︑ 各漁 家は 農地 を 所 有す るか
︑借 地し て農 業に も従 事し てい たも のと 考え られ る︒ 移住 者の 家を 除く 一八 戸は すべ て農 業を 主と して い た
︵福 岡県 水産 試験 場編
一九 一七
︶︒ 石干 見は 一七 基あ った こと が記 録さ れて いる
︒漁 業者 の副 業の 種類 とし て﹁ 十八 戸ハ 漁業 専業
十 八戸 ハ農 業九 分
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 八
漁 業一 分﹂ とあ る︵ 福岡 県水 産試 験場 編 一 九一 七︶
︒こ の記 録か ら︑ 石干 見は
︑旧 藩領 の時 代か ら居 住し てい た農 家 が 継承 し︑ 所有 して いた もの と考 えら れる
︒石 干見 漁で は︑ 一般 に農 業者 が農 作業 の合 間に
︑よ い潮 時を みて 作業 を い った ん休 止し
︑漁 に勤 しむ
︒農 作業 に支 障の ない 夕刻 から 夜間
︑早 朝に かけ ての 時間 帯に 生じ た干 潮時 間を 選択 し て 漁に 出か けた りも する
︒石 干見 漁は この よう に日 周期 的な リズ ムの なか での
﹁農 間漁 業﹂ とい う性 格が 強い
︵田 和 二
〇 一 九︶
︒稲 童 の 専 業漁 家 が 網漁 と 釣 漁を 主 体 と した 漁 船 漁業
⑻
に 従事 し て い た︵ 福岡 県 水 産試 験 場 編 一 九一 七
︶ こ とを 考え ると
︑こ れら の漁 家が
︑漁 業活 動時 間が 干潮 時に 限定 され る石 干見 を︑ 潮時 に応 じて 毎日 のよ うに 利用 し た とは 考え にく いの であ る︒ 農家 数と 石干 見の 数が ほぼ 同数 であ るこ とか ら︑ 各農 家が それ ぞれ 一基 を個 人所 有す る 形 態 で あ った と も 察せ ら れ る︒ 石干 見 は 周 年に わ た って 利 用 さ れ て お り︑ イ ナ︑ ボ ラ︑ ア ミ︵ 小 エ ビ︶ が 漁 獲 さ れ た
︒石 干見 を使 用す るに あた って は︑ 漁業 組合 に漁 業料 を納 めた
︒ 福岡 県水 産課 は︑ 一九 二七
︵昭 和二
︶年 に も 県下 の 漁 業集 落 を 調査 し て い る︒ その 報 告 が﹃ 福岡 県 漁 村調 査
﹄︵ 一 九 二九
:
筆 者未 見︶ とし て刊 行さ れて いる
︒行 橋市 史編 纂委 員会 編︵ 二〇
〇六
︶は
︑こ の調 査を 参考 にし て︑ 現在 の 市 域に 含ま れる 四つ の漁 業集 落︑ すな わち 簑島 浦︑ 沓尾 浦︑ 稲童 浦︑ 長井 浦の 昭和 初期 の漁 業の 状況 につ いて まと め て いる
︒こ れに よる と︑ 石干 見が 当時 存在 して いた のは 稲童 浦の みで 一〇 基が 記録 され てい た︒ 石干 見の 平均 漁獲 金 額 は年 間一 五〇 円︑ した がっ て総 額は 一五
〇〇 円と なっ た︒ 石干 見は
︑ウ ナギ を獲 るた めに 河口 部に 設け られ る石 倉と とも に︑ 干潟 漁業 の代 表的 なも ので あっ た︒ これ らの 干 潟 漁業 は︑ 稲童 浦の
﹁浜
﹂部 に居 住す る漁 業専 業 者 では な く︑
﹁ 岡﹂ 部に 住 む 農家 に よ っ て兼 業 と して 営 ま れた と い う
︒石 干見 はこ こで も農 家に よる 日周 期的 な﹁ 農間 漁業
﹂の 装置 とし て位 置づ けら れる ので ある
︒ 福
岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
一 九
︵2
︶築 上郡 八津 田村 の石 干見 八津 田は
︑か つて は宇 呂津 や宇 留津 とも 称す る漁 業が 盛ん な集 落で あっ た︒ 一九 一〇
︵明 治四 三︶ 年に は石 干見 が 一 五基 あっ た︵ 椎田 町史 編纂 委員 会編
二〇
〇五 a︶
︒し かし 大正 期に は漁 業集 落と して の面 影は なく
︑漁 家三 六戸 の い ずれ もが
﹁半 漁半 農﹂ 形態 であ った
︒主 とし て桝 網お よび ボラ 旋網
⑼
が おこ な わ れ てい た
︒漁 家 の生 計 は 農家 に は 及 ばな かっ たも のの
︑比 較的 豊か であ った とい う︒ 一九 一五 年当 時︑ 石干 見は 一〇 基あ り︑ 周年 にわ たっ て利 用さ れ て い た
︒漁 獲 対象 は
︑イ ナ︑ ボ ラ︑ コチ
︑イ カ 類︑ セ イゴ
︑チ ヌ
︑カ タ ク チ イ ワ シ な ど で あ っ た︒ 使 用 に あ た っ て は
︑漁 業組 合に 漁業 料を 納め てい た︵ 福岡 県水 産試 験場 編 一 九一 七︶
︒石 干見 の所 有形 態に つい ては 特に 記載 はな い が
︑内 陸側 に位 置す る大 字東 八田
・西 八田 の農 漁家 が所 有し てい た石 干見 も存 在し たの では ない だろ うか
︒ なお
︑石 干見 は一 九三 四︵ 昭和 九︶ 年に は一 一基 あ っ た とい う 資 料が 残 っ てい る
︵椎 田 町 史編 纂 委 員会 編 二
〇
〇 五 a︶
︒
︵3
︶築 上郡 椎田 町の 石干 見 椎 田 は︑ 戸数 六 三 戸か ら な る﹁ 半漁 半 農﹂ の 集 落で あ っ た︒ 主た る 漁 業種 類 は ボ ラ 旋 刺 網︑ 桝 網︑ 石 干 見 で あ っ た
︒こ のう ち石 干見 は三 三基 あり
︑数 とし ては
︑周 防 灘 沿岸 の 漁 業集 落 の なか で は 最 多で あ っ た︒ 石干 見 で はイ ナ
︑ チ ヌ︑ ボラ
︑ス ズキ
︑サ ヨリ
︑イ カ類 など が漁 獲さ れた
︒周 防灘 沿岸 全体 での 石干 見に よる 漁獲 高は
︑一 九一 五年 に は 三二 二〇 円に のぼ った とい う︒ 椎田 はそ のう ちの 一六 五〇 円を 漁獲 した
︵福 岡県 水産 試験 場編
一九 一七
︶︒ 一九 一四
︵大 正三
︶年 に申 請さ れた 以下 のよ うな 石干 見の 漁業 権免 許願
︵漁 場図 を含 む︶ が︑ 椎田 町史 編纂 委員 会 編
︵二
〇〇 五b
︶に 収録 され てい る︒
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
二
〇
漁業 免許 願 一 漁 業ノ 位置 及区 域 別 紙漁 場図 ノ通 一 漁 業ノ 種類 及名 称 䌶 簗類
石 干見 一 漁 獲ノ 種類 ぼ ら いな
せ いご
い あ ちぬ
か に すゞ き ひら
か れい
ゑ い 小い わし
あ み 一 漁 業時 期 毎 年
自一 月一 日 至十 二月 三十 一日 一 漁 業権 存続 期間 満 二十 箇年 前記
ノ通 定置 漁業 ノ免 許相 受度 別紙 漁場 図二 通及 関係 書類 相添 此段 相願 候也 福
岡県 築上 郡椎 田町 大字 湊九 四番 地 大 溝松 太郎
㊞ 大正 三年 二月 一日 福 岡県 知事
谷 口留 五郎 殿 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
二 一
漁場 図に は﹁ 定置 漁業
簗漁 業石 干見 図﹂ と とも に
︑漁 場 位置 と し て﹁ 築上 郡 椎 田 町大 字 湊 鬼塚 西 角﹂ が 記載 さ れ て いる
︒ 椎田 町史 編纂 委員 会編
︵二
〇〇 五a
︶は 近現 代の 慣行 漁法 を説 明す るな かで
︑石 干見 につ いて 以下 のよ うに ふれ て
ひび
い る︒ まず 小見 出し とし て﹁ 石干 見︵ 石䝽
︶﹂ を 使用 し てい る こ とに 注 目 して お き た い︒ 石干 見 は 当地 方 独 特の 原 始 的 漁法 で︑ 海岸 近く の浅 瀬に 広さ はお よそ 一ヘ クタ ール
︑高 さ一
・五 メー トル くら いの 石積 みの 囲い をつ くり 潮の 干 満 を利 用し 干潮 のと き石 積み の囲 いの なか に残 った 魚を 獲っ てい た︒ 豊前 海の 豊富 な魚 が大 量に 獲れ
︑多 いと きは 馬 車 で運 び市 場に 出し たこ とも あっ た︒ なお
︑昭 和初 期に おい ても 宇留 津海 岸に 一一 基の 石干 見が あっ たこ とを
﹃八 津 田 村史
﹄︵ 筆 者未 見︶ を引 用し て述 べて いる
︒ま た︑ 地域 の漁 業関 係者 と思 われ る二 名︵ 池田 正敏
︑森 寛太 郎の 二氏
︶ か らの 聞き 取り とし て︑ 高塚 海岸 に六
︑七 基︑ 有安 海岸 に三 基あ った こと が記 され てい る︒ 石干 見で の漁 獲物 は︑ クロ ダイ
︑チ ヌ︑ エイ
︵ア カエ イ︶
︑ サヨ リ︑ ダイ ガン ジ︵ ダツ
︶︑ ボラ
︑イ ナ︑ ベカ ゴ︵ ジ ン ドウ イカ
︶︑ ハ モ
︑モ ン ゴウ イ カ︑ ア ミ︑ コベ シ
︵カ ワ ハギ
?︶
︑ ソソ ラ
︵ト ウ ゴ ロウ イ ワ シ︶
︑ヒ サ
︵イ シ ダイ
︶︑ そ の他 の雑 魚で あっ た︵ 椎田 町史 編纂 委員 会編
二〇
〇五 b︶
︒ 石干 見の 権利 は︑ 漁業 組合 の漁 業権 とは 異な り︑ 県に 一年 ごと に申 請す るこ とに よっ て得 た︒ この 権利 は家 ごと に 継 承さ れた
︒石 干見 の所 有者 を干 見主 と呼 んだ
︒干 見主 は︑ 湊に 二〇 軒︑ 東高 塚に 七︑ 八軒
︑東 八田 と宇 留津 に各 々 二 軒あ った とい う︒ 干見 主が 自ら の石 干見 にお いて 大き な魚 を漁 獲し たの ちに は︑ 近所 の子 供が ここ に入 って 残っ た 小 魚を 獲っ ても よか った
︒漁 獲が 多い 時に は魚 を近 所に 配っ た︒ 陸に 近い 方に 敷設 され た石 干見 を岡 干見
︑沖 の方 の 石 干見 を沖 干見 と呼 んだ
︒岡 干見 と沖 干見 を一 基ず つ 所 有 して い た 家が 多 か った と い う︵ 椎 田町 史 編 纂委 員 会 編 二
〇
〇五 b︶
︒ こう した 状況 はい つの 時代 のこ とな のか 特 定で き な いも の の︑ 干 見主 と い う 呼称 や 岡 干見 と 沖 干見 と い う 敷設 場所 によ る分 類は
︑こ の地 域の 石干 見の 所有 形態 に関 わる 重要 な記 述内 容で ある
︒
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
二 二
︵4
︶築 上郡 西角 田村 の石 干見 西角 田村 では 漁業 者は 大字 有安 に居 住し てい た︒ 有安 は︑ 以前 は隣 村の 松江 浦に 属し てい たが
︑そ の後 分か れ︑ 一 浦 とな った
︒一 九一 五年 当時 の漁 戸の 数は 一四 あり
︑い ずれ もが 半農 半漁 形態 であ った
︒石 干見 は六 基存 在し た︵ 福 岡 県水 産試 験場 編 一 九一 七︶
︒
︵5
︶築 上郡 角田 村の 石干 見 角田 村で は松 江に 石干 見が 存在 した
︒松 江は 築上 郡の 中で もっ とも 古い 漁村 で︑ 慶応 年間
︵一 八六 五〜 六八 年︶ に は 播州
︵播 磨国
︶か ら豊 前国 の長 洲浦
︵現 在の 大分 県宇 佐市 長洲
︶を 経て 導入 され た岡 建桝 網︑ さら に明 治中 期に は 京 都郡 苅田 浦か ら導 入さ れた 沖建 桝網 が隆 盛を きわ めた
︒大 正初 期に は桝 網の ほか
︑手 繰網
︑吾 智網
︑延 縄が 主流 で あ った
︒雑 漁具 のな かに 石干 見が 五基 含ま れて いた
︒一 九一 五年 の漁 戸数 は四 二で ある
︒各 戸は 半農 半漁 的な 生業 形 態 をと って いた
︵福 岡県 水産 試験 場編
一九 一七
︶︒ 豊前 市史 編纂 委員 会編
︵一 九九 一b
︶は
︑大 正期 の松 江に おけ る沿 岸定 置網 漁業 の概 況を
﹁松 江浦 漁業 組合
﹂の 資 料 を 用 い て説 明 し てい る
︒そ れ によ る と
︑一 九 二〇
︵大 正 九︶ 年 五月 一 三 日 に開 催 さ れ た 同 組 合 の 総 会 で︑ 桝 網 七 件
︑沖 建 網 三 件︑ 建干 網 一 件︑ 石干 見 五 件の 漁 業 権 の更 新 を 県に 申 請︵ 存 続 期間 一
〇 年︶ す る こ と が 決 議 さ れ て い る
︒松 江で は︑ 石干 見漁 が少 なく とも 漁業 免許 の上 では 昭和 初期 まで 継続 した ので ある
︒
︵6
︶築 上郡 三毛 門村 の石 干見 三毛 門村 のな かで 漁業 を営 む者 がい たの は大 字沓 川の 一集 落の みで あっ た︒ 一九 一五 年当 時の 漁戸 数は 一九 とな っ て いる が︑ いず れも 農業 を主 とし てお り︑ 漁業 は︑ 建干 網や 徒歩 曳網
︑石 干見 など 干潟 漁業 がわ ずか にお こな われ る 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
二 三
の みで
︑﹁ 微 々ト シテ 振ハ ズ﹂ の状 態で あっ た︒ 石干 見 は一 三 基 あっ た こ とが 記 録 さ れて い る︒ 各 漁戸 は 漁 船を 有 し て はい なか った
︒こ の点 から いえ ば︑
﹁ 其ノ 業態 寧ロ 之 ヲ漁 業 者 ト呼 ブ ノ 至当 ナ リ ヤ ヲ疑 ハ ザ ルヲ 得 ズ﹂ の 状況 で あ っ た︒ 定置 漁業 の一 種で ある 桝網 が隆 盛を きわ めた 三〇 年ほ ど前
︑す なわ ち明 治二
〇年 代の 面影 はす でに なか った の で ある
︒た だし
︑各 戸は 水田 を平 均で 七︑ 八反 所有 して おり
︑豊 かと はい えな いま でも 生活 に困 窮す るこ とは なか っ た
︵福 岡県 水産 試験 場編
一九 一七
︶︒
﹃ 福岡 県漁 村調 査報 告﹄ を作 成す るた めの 現地 調査 は︑ 一九 一五 年に 実施 され たこ とは すで に指 摘し た通 りで ある
︒ 第 二章 で取 り上 げた 三毛 門の 石干 見に 関す る調 査は 大正 末年 から 昭和 初期 にか けて なさ れて いる
︒し たが って
︑三 毛 門 では 一九 一五 年以 降︑ 各戸 は農 業を 主と しな がら
︑少 なく とも 一〇 数年 間に わた って
﹁お かず とり
﹂と して の石 干 見 を維 持管 理し てい たこ とが わか る︒
︵7
︶築 上郡 東吉 富村 の石 干見 東吉 富村 は山 国川 の左 岸に 位置 した
︒川 を隔 てた 右岸 側は 大分 県で ある
︒一 八三 七︵ 天保 八︶ 年に 他地 域の 漁業 者 が 山国 川沿 いの 喜連 島に 移住 して きた のが 漁村 とし ての 起源 であ ると いう
︒喜 連島 の漁 業者 は天 保期 以降 増加 し︑ 一 九 一五 年現 在で 戸数 は一 一〇 に達 して いた
︒こ れら のう ちの 六〇 戸が 専業 の漁 家で あっ た︒ 烏賊 芝手 繰網 漁の ほか 各 種 の 手 繰 網漁
︑た こ つ ぼ漁
︑貝 桁 網 漁な ど が 盛 んに お こ なわ れ た︒ こ れ ら以 外 の 雑漁 具 の なか に 石 干 見 が 五 基 あ っ た
︒漁 業組 合は
︑石 干見 の経 営に 対し て漁 業料 を徴 収し た︵ 福岡 県水 産試 験場 編 一 九一 七︶
︒
福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
二 四
第五 章 石干 見 の 消滅
│ 松 江と 椎 田 の事 例 か ら 昭和
期以 降の 石干 見漁 に関 する 記述 は︑ 管見 によ れば きわ めて 少な い︒ わず かに 確認 でき る統 計と して 一九 四八 年 の 築上 郡に おけ る漁 業権 の所 有状 況に 関す る資 料が 残っ てい るが
︑こ れに よる と定 置漁 業権 が一 六九 件あ り︑ その う ち の一 二七 件︵ ます 網
:
一一〇件
︑䌶 簗
:
一七 件︶ を漁 業会⑽
が 所有 し
︑残 り 四 二件
︵い ず れ も䌶 簗
︶を 個 人が 所 有 し てい る︵ 小林 編 一 九四 九︶
︒個 人所 有の 漁業 権は 石干 見の 漁業 権と 考え て誤 りは ない であ ろう
︒ 一九 六二 年に 豊前 海の 石干 見を 採訪 した 小川
︵一 九八 四︶ の記 述は こう した 状況 にあ って 貴重 であ る︒ この 記述 に 若 干の 補足 をし なが ら以 下に まと めて みよ う︒ 三毛 門の 沓川 の地 先海 浜に 高さ 一メ ート ル五
〇セ ンチ ほど で角 ばっ た半 円形 の石 干見 が三 基︑ 壊れ てい るも のが 二 基
︑国 鉄日 豊本 線の 豊前 松江 駅前 にも 一基 みら れた
︒海 岸は 小さ い丸 石の 多い 砂場 であ った
︒石 干見 のネ ギリ
︵基 礎 部 分の こと
:
筆 者注
︶の 石に は丸 石が 使わ れて いた
︒石 積み は海 岸に ある 石ば かり を使 った もの では なく
︑足 りな い 石 は他 所よ りも って きた
︒石 干見 の排 水溝 はジ ョモ トと いい
︑一 基に 一個 ない しは 二個 設け られ てい た︒ 石干 見は 台 風 の時 は壊 れる し︑ 風に よっ てお こる 波で も壊 れる
︒冬 の北 西風 は波 浪を 打ち かけ た︒ シオ
︵海 水︶ が澄 んで いる と 魚 の入 りは 悪い
︒波 浪が 出て いる 方が 魚の 入り はよ かっ た︒ 従来 は農 業者 が石 干見 を所 有し てい た︒ こう した 農業 者 も 漁協 の準 組合 員を 構成 した
︒第 二次 世界 大戦 前に は一 基が 二〇
〇円 くら いで 売買 され た︒ 一九 四九 年の 漁業 制度 改
う の しま
革 後も
︑石 干見 は漁 具と 考え られ
︑個 人所 有の よう な形 態が 継続 され た︒ 宇島 漁業 協同 組合 では 七基 あっ た石 干見 の 石 を三 万五 千〜 四万 円で 買い 取り
︑そ れを 壊し てそ こを ノリ の養 殖場 にし た︒ 宇島 には もと もと 石干 見が 一二
︑一 三 基 あっ た︒ 八屋 にも 一︑ 二基 あっ たと いう
︵小 川 一 九八 四︶
︒ 福 岡 県 周 防 灘 沿 岸 部 に お け る 石 干 見 の 記 録
二 五