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オットー三世とボレスラフ・フロブリの会見について  

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(1)

西腫一〇〇〇咋︑ドイツ卓帝オットー三世が︑ローマからアルプスを越え︑はるかな遠隔の地ポーランドに赴き︑  

ポーランドの支配者ボレスラフ・フロブリとダニエズノで会見した︑という雁史上の一事作は︑ドイツ・ポーランド  

両帽の文献史において特別の往唇−心が払われてきた︒ポーランドにおいては︑その最Hの年代記﹃郎γのガル咋代鋸﹄  

膚〇二   

一〇〇〇年のグニュズノにおける  

オットー三世とボレスラフ・フロブリの会見について  

− ﹃匿名のガル年代記﹄第一巻第六革解釈の試み −  

序  ﹃匿名のガル年代記﹄の記述  

第二車 型アブルベルトゥス ︵聖ヴォィチェフ︶  

第∴草 ポーランドにわける教会建設  

第∴葦 咽マウリチウスの析  

第四童 パトリキウス  

黛五卓 ボレスラフ・フロプリとカール大帝  

第八巻 結びにかえて ー ﹃匿名のガル咋代記﹄からドユウゴーシの咋代記へ王  

荒    木  

(2)

開 法(36−2)218  

●  

一C四   

CQS ゝ喜ミ邑 C字書符昌 の第一巻領六葦に︑この事作が特筆され︑ダニエズノ会見の際に︑オットー二世がボ  

レスラブ・フロブリに与えたときれる﹁皇帝の友・協力者 frater et n00peratOr imperii﹂︑﹁ローマ人民の友・同  

盟者 amicus et sOCius pOpuご ROmaコi﹂ という呼称は︑﹁ホーランドの古き山libertas antiq仁a PO−Oniae﹂の  

一表現として︑﹃町γのガル咋代記﹄が力説高根するところのものであった︒   

本稿は︑﹃匿名のガル律代記﹄の解読のためにはこの一事件の正確な理解は欠かすことができないと考え︑この箇  

所に閲する今日までの代表的な見解を整理紹介し︑ポーランド中世の史書を貴く雅史恵識の一端を明らかにしようと   

するものである︒  

★ ﹃県名のガル咋代記﹄については︑拙稿﹁ポーランド違占の咋代記 − ﹃昭電のガル佳代記﹄について﹂ ︵﹃岡山大学法学会  

難詰﹄第∵五巻第∴り︑山九八五咋︶ぢ照︒ホーランドの史パにわいて︑この車作に︑﹂=推している代走的なものは︑仁∵桝紀未  

あろいは十一∴Lけ妃初璃に#かれた﹃マギステル・ヴィンセ︑′/ティのホーランド年代記﹄ しく庶﹁叫玖ヽ町 コ莞昌叫町町 C︑こ・Q喜.C昌  

七已Q喜⊇選︑十川世紀に作成・編倶きれに﹃ダイエルコ・ポルスカ仲代記﹄Cぎ昌叫c亀℃已Q3訂亀≒軋Qコ■h︑小世ポーランドの  

最盛期︑十≠付紐小瀧に十ン・ドゥウゴ〜シによって出目かれた︑モニュメンタルな歴史書﹃ヤ=⁝きポーランド十㈹の咋代記 ﹄  

A喜已訝 篭叫︷C言古〜へ莞訂へ\註言g温℃旦箋㌻〜 である︒﹃マギステル・ゲインセンチィのポーランド年代記﹄については︑  

﹁聖スタニスヮフ㍍拝の形成について﹂ ︵﹃岡山大学法学会難詰﹄第二.宜巻第.÷四け︑一九八六咋︶参照︒このダニエズノ会  

見についての研究は︑ドイツ・穴1一ウンドにわいてすでに長い歴史古持ち︑多くの研究論支が書かれているが︑その一部の文献  

リストについては︑本論文末化に納介しておいた︒  

ところで︑﹃匿名のガル咋代記﹄第一碁笥六葦の叙述は次のようであった︒  

﹁神に祝福された型アダルベルトゥスは︑長い和教退座の旅に出て︑そのうえ自国の民ボヘミアの反抗的な人々   

からも災難を蒙った︒しかしながら︑彼がボレスラフのところに赴いた暗に︑ボレスラブは大いなる敬意の心を抱   

(3)

21g「1000年のダニユズノにおける会見」  

いてアダルベルトゥスを受け入れ︑敬虔な心でアグルベルトゥスの教えと指示に従った︒ところで︑殉教者となっ  

たこの軍人は︑変の炎と布教の熱に燃えていたが︑ポーランドには︑すでに信仰が芽生え︑聖なる教会も育ってい  

ることを知って︑恐れる心もなくプルシアヘ渡り︑そこで殉教者としての己の什事を全うした︒後にボレスラフは︑  

聖人の遭体を︑それと同じ遷さの金でプルシア人から買い戻し︑それを︑恭しくダニユズノの大司教座に安旧した︒  

とりたレ ⁝⁝皇消オットー・ルーフスは︑祈りと執成のために︑またその機会にボレスラブの名声を確かめるために型アダ  

ルベルトゥスの真に化.州でた︒・⁚⁝ボレスラブは︑モやローマ頁帝や賓客を棟結するのに相応しいやり方で︑光粁に  

あふれ︑堂々たる態度で真相を迎え入れた︒:⁝占−マ皇帝は︑彼のγ声︑勢威︑雷肯をみて讃嘆し︑叫んだ︒  

﹃我が帝国の王冠に誓っていうが︑私が見ているものは︑うわきに聞いていたものよりもすばらしい!﹄そして大  

血盟倣建と諮ったあとで︑居並ぶ者すべてに向って︑つけ加えた︒﹃このような人物︑このような偉大な人物をあた  

かも誹扶 princepes の一人であるかのように︑公 duH あるいは︑伯 nCmeS と呼ぶのはよろしくない︒輝  

しく彼を玉座に上げ︑王冠で飾るべきである﹄︒そしてり帝の冠を頭からはずして︑それを友好府な同盟amici︷iac  

fOedus の印としてボレスラフの頭に置いた︒次いで凱旋胱と交換に︑︷1の十ザ無の釘と叩てウリチウスの析とを  

贈り物としてボレスラフに与えた︒それに対してボレスラブは里帝にm上アダルベルトゥスの挑を贈った︒こうして  

この日︑両人は大変強い愛惜で結ばれたので︑空将はボレスラブを澗国の兄弗︑協力者 frater e︷ c00pera︵Or  

imperii に任じ︑またローマ川民の友︑同盟者 aヨicus e︷sOCius pOpu−i ROmani と呼んだ︒さらに教会に関す  

るすべての望摘の権限を︑ポーランド王国内においても︑またすでにボレスラフによって征服された地および将来  

征服されるであろう地においても︑すべてボレスラフおよび彼の後継者に譲った︒ついでこの収り決めを法王ンル  

ヴュステルは塑ローマ教会の囲勅によって確認した︒こうして︑光栄にも里滞によって王座に登ることになったボ  

レスラブは天性の気前の良さを示した︒﹂︒  

一〇五   

(4)

同 法(36−2)220  

一〇六  

ミbeatum Ada冒ertum in−Onga peregriコat古ne et a sua rebe≡geコte BOhemica mu︼tas iコiurias pe扁eSSum﹀   

ad se くenientem cum magna 諾nerati昌e SuSCepざ eiusque praedica︷iOコibus fideter et institutiOnibus   

Obediくit.SanctusくerOヨartir igne caritatis et Ne−O praedicatiOユs accensus.ut aquant亡−uヨ iam in PO︼Onia   

fidem puu−asse et sanc︷am ecc−esiam e宍reくisse cOnSUe邑t︐intrepidus Prusiam iロira<it−ibique martiriO  

suum agOnem COコSuヨmaくit.POStea諾rO COrpuS ipsius ab ips訂Prusis BO−eN−avus auri pOndere cOmpara<it↓   

OttO Ru2s imperatOr ad sanctum Ada旨ertum   et in GneNコenSiヨetrOpOcOndi爪nO hOnOre COOCaまt\⁝⁚  

OratiOnis ac recOコCiatiOnis 雪atia simu︻que g︼OriOSi 切○−eN︻awi cOgnOSCeコdi fama intrOiまt.・   

Quem∞○訂s−a三S Sic hOnUri〇ce etヨagni竹ice suscepit︑ut regem imperatOrem ROmaコum an tantuヨhOSpitem   

suscipere decens fuiT=⁝Cuius g︼Or訂m et pOtentiam et diノきias iヨperatOr ROnlaコuS COnSideransY adヨirandO  

di註⁚きヾ ○ヨさS∴官軍註︑蚕∴ き已ミQ違ミ 山喜岩ユ落夕 爪盲§こざ責︑−︑ヘ音二suOruヨque COnSuき  

ma讐atum nOram Omロib亡S adiecit⁚き芸空こ旦苫ミニ空きS慧:キ芸こた箋−hぎ︑ニさ表替号町営首叫ぎh︑  

■ンくニー⁚︑∴こ⁚主∴︑ミー∵︑≡ざ∵へ.ミ㌧ i⊃ rl・≡一一・茎ニuヨ ト∵︑︑こ・︑−・∴:︑:∵‡.∴ミ︑︑︑‡.∴︑≡∵ ㌧へ︑・.︑㌧亭㌧︑∵  

Et accipiens iヨPeria︻e dyadema capitis s阜 capiti ∞○−eN−aまiコamicitiae fOedus iヨpOSuit.et prOくe軋O   

triumpha−i c−写ロm ei de c⊇Ce DOmiヨi cum−呂Cea S賀Cti 害呂ricii dOnO dedit−prO quibus i≡ BC−esF∃S   

saさCti Ada−berti brachium redOコaくit.Et tanta sullt≡a die di訂ctiOne C2niti﹀ quOd imperatOr eum   

fratrem et c00peratOrem imperii cOnStituit−et pO嘗ご ROmani amicum et sOCiuヨ appeaまt.1nsuper  

e︷iam in ecc−esias︵icis hOnOribus q已tqui−ad imperiuIゴpertin2bat in regnO PO−○コOrum−<enaliis superatis  

ab eO完−superandis regiOnibus barbarOruヨーSuae SuOrumque pOteStati cOnCeSSit︼Cuius pacti昌is decretum  

papa Si−完Ster SanCtae ROmaロa2eCClesiae p−i基egi︒C︒nfi−ma<it・Igitur B〇一eユa喜S in re鷲m ab imperatOre   

(5)

221「1000年のダニユズノにおけろ会見」  

九九六年︑オットー三世が長い摂政時代を経て皇帝として再托権力を掌廃したのは︑十七才の時であり︑一〇〇〇  

年のダニエズノ墓参の時は︑オット1はまだ弱冠二十才前後の若者にすぎなかった︒しかも︑積年のバヴアリア公ハ  

インリッヒとの対立・緊張も根本的には解消しておらず︑ザクセンと酉スラブ放との国境︑オドラ川下流域一群には︑  

まだ戦塵もたちこめていたこの時別に︑ローマからアルプスを越え︑ローマ曳帝としてかつて誰も足を踏み入れたこ  

とのなかったスラブの地に赴くということは︑それ程容易な事柄ではなかった︒   

それでは︑若きオットー三世を︑このような大胆ともいえるダニユズノ訪問へと駆りたてていったものは仙であっ  

たのだろうか︒﹃匿名のガル年代記﹄の伝えるところでは︑オットー三世のダニエズノ訪問の動機は︑聖アダルベル  

■  

一〇七    以上の叙述から︑我々は次の点を確認することができる︒   皇帝オットー二世がダニユズノに赴いたのは︑主として聖アダルベルトゥスの墓参りのためであった︒   侶オットー三世は︑ボレスラフ・フロブリの降盛︑栄華を見て感嘆し︑ボレスラフの頭上に自らの冠を置き︑彼を  王座に挙げた︒   

川オットー三世は︑ボレスラフを﹁ローマ帝国の兄弟︑協力者﹂に任じ︑﹁ローマ国民の友︑同盟者﹂と呼んだ︒   

囲オットー三世は︑主イエス・キリストの十字架の釘と聖マウリチウスの槍を贈り︑その返礼としてボレスラフは︑  

聖遣物としての聖アダルベルトゥスの腕を贈った︒   

佃オットー三世は︑ボレスラブに︑ポーランド国内およぴポーランド周辺の異教の地における皇帝の教会支配権を  

譲った︒   tam g︻OriOSe Sub︻imatusこnditam sibibera−itatem e諾rCuit㌧−︵Cぎ聖賢恵こ㌔㌻営さ岳︹コs.缶ご  

(6)

同 法(36−2)222  

一〇ハ   

トゥスの墓詣︑ということになっている︒胃年皐帝の宗教的熱情が︑後世のポーランド史・ドイツ史にとって重大な  

意味を持つことになる一事件を惹き起こした︑というわけである︒   

﹃匿名のガル年代記﹄のこの記述は︑どの程度の真実を含んでいるのだろうか︑またこの記述の意味するところは  

何であるのか︑我々もその点を確かめるために︑この歴史的一事件の宗教的側加に若干の光をあててみることにしよ  

ナウ0  

★ オット1二世OttOロ とビザンティンの童女テオファノ Te︒faロ︒の白心子として生まれたオットー三世の牡涯は︑まことに  目まぐるしいものであった︒九八〇特に住まれ︑西才の時には︑すでにドイツ‡に即位し︑十七才の時にローマで皇帝の位に即  

いている︒そしてその数咋後には︑ローマを追われ︑再起を脚す軍隊の陣営の小で一〇〇一﹂年一月に没している︒   

オットー二世の政治を貫くものは︑西スラブ族銚圧のための便所なる出征と︑政情不安定なイタリア・ローマへの.二雌にのば  

遠征である︒オットー三相が︑ドイリ王に即位した九八二.年には︑西スラブ族ポワブ 人 P︒㌻bを中心とする北辺墳伯テオド  る   

リッウTeOdOrykに対する大反乱が起きているし︑九ハイ咋〜六年にはやはり西スラブ族ゲィエレッツィ Wie訂cy に対して自  

ら討伐軍を率いて戦っている︒さらに九九一年には︑プレンナ Brenna︵今日のブランデンブルグ︶の砦をポーランドのミュン  

コ一世とともに攻め︑九九四年にセルブ人 Serb をのぞいて舛スラブ族全体が人反乱を起こすと︑翌九九.九咋に人畢を率いて  

スラブの地深く︑とくにオポヅツリィ族 Ob︒drzcy 討伐に遠征している︒この戦は︑九九八年まで続き︑オットー自らも九九  

七咋には︑ヴィエレッリィ族Wie︼ecy討伐を指揮している︒   

また九八三年から九九一昨までの付テオファノの摂政︑九九一年から九九六隼までの祖桂アデライダ Ade互da の摂政の鴨  

朋を過ぎると︑九九六年︑自らイタリア経営に乗り出し︑自らの緑ポを法王グレゴリウス#世 GregOri仁Sくとして即位きせた  

あと︑自らローマでローマ皇帝の冠を戴くのである︒その後州スラブ族討伐のためにローマを退くと︑九九七咋の初め︑ローマ  

貴族クレスケンチウス芽escentius の反乱が任じるや︑ただちにローマに取って返し︑反乱鋲圧に成功する︒九九九年の末ド  イリに帰り︑さらに一〇〇〇咋の二万ポーランドのダニ工ズノを訪問する︒帰路︑マグデブルグを通り︑アーヘンに証ち寄り︑  

有ネなカール人帝の弟を調いている︒しかし︑一〇〇〇咋の末︑再びローマで反乱が隼じるや︑一二蛇口ーマに遠征し︑反乱軍鋲  

圧の陣中で没する︵叫旬叫−t.日−S・裟N︶︒   

(7)

223「1000年のダニユズノにおける会見」  

聖団e団粧卜−ロ  

G腑∞tOt    雀藍心る ︵巴誓言票SJ再き︶  

こ;.Jこ︑︑↑′1\し.ミ.トご︑︑﹁﹁J.ト﹁  

一〇几  

(8)

同 法(36−2)224  

いトノト・二世関係年表〕   

〔票三≡三◆讐〕   

995 十ボン′ツイ族,ヴイエし  

′ソイ族の大反乱  

963 ウー亡7辺規什】.ウゥシィッィ  

施を言ナつ〔1  

972 オりト「 二世のポhランド  

偉人   

983 西スラブ族の大ノ吏乱,  

北辺規仙テナドりリクとの  

挙晃デン「7−ク.すドラ河   rlに上陸っ ミュシコ ー什,  

ドイ十川町陣営に入る  

〔三∵ノ三〕   

オノト一三世の  

①=第一同のロ・マ訪問  

②=第二何のローマ訪問   耳=第三何のローマ訪問  

「寸ソ トー三世〕  

972 寸ソトーニ壮,ビザンティ  

ンの皇女テナフ丁ノと結締  

980 ㌻†ソトー三世生まれるい   り83 寸ットーニ楳ドイ ツ‥Eに即  

位(4才)ゥ バザ7リア公ハ   インリソヒと対二、ヒ。バザ7   り7公.ナ1コのボレスラ   つ二世.ポーランドのミ1   シニ」一けt,十ポジ∵ツイの  

ムシテヴイと同盟く】時子寸  

つ7ノの摂政J吹消 r〜99‖  

9鋸禾 ハイ ンリソヒ.寸ソト一   二世に.せ、三成を誓)上、  

9R4 十エコ,ミシニrマイセン1  

をI封軋  

9R5〜986 オ,ソトーーil牲,ヤィェ   しりソイ推計代。  

9R6 三1シコ一件,オ・ソトー ニ   W:に忠誠を架う 

987 丁ソケハル ト ミシニ(マ  

イセン)を寒帆、  

9酢トイ9(1ミ工シコーl仕.r1■コ  

か11マウ寸ボルスカ地プブを  

曝・・1  

9901巧スう丁〝)異取繕の大反乱   9つ1 テオ ̄フ7/.ノ7つェドリン  

プルケでミtシニと倉見〔。  

ナット→−∴世ミュシ」とと   もトニプし/ンナを1女めるっ   992 寸ソトh二世のプレンナ攻  

撃続く。ザクセン族とすポ  

ジノソイ放との雛  

994 昨スラブ族の大反乱   995 寸ソトーニ†廿の大通ilE,ボ  

レスラブ・フロプり,オ ソ   トー二世の時に用わ「),寸   ポシ ノソイ族を討つ〔,  

991組付アデライダの摂耽政油  

∫〜996)  

996 5日 ローマ皇帝に即ノは(17   才)。  

996 寸・ソトーニニ惟,5∫1ローマ   で戴冠①法tグレ丁り「フス   五世(996へ一909J   997初 口ーマ負族クレスケンテ  

ィウスの反乱  

997禾 オノト 一三世,口一マ(1  一   人り反乱を娘/亡する〔、屠√  ○    1000末 ロー−rrで反乱軍生ずる。  

す.′ト一三世,ローマで反  

乱軍と戦うり③  

10021月 パテノの陣中で子安す  

るし 

997夏 寸 ノト¶三堆の西スラブ   族討伐。ヴィェしソソイ族   をiミ才一′J(〜998)。  

999末 寸 ノトーニ惟,ドイツに   帰る。  

1000 寸ソトh二世,7一ヘンに  

てカール大帝の裏を間、∴  

1000 ナ ノ ト ニ壮,グー 千ズノ  

訪問。その後■√ブナブルプ   訪問  

(9)

225「1000年のダニユズノにおける会見」  

オットー三世のダニエズノに赴いた動機が主として宗教的なものであった︑ということについては︑当時のドイツ  

側の史書も述べているところである︒この時期のドイツ■ポーランド関係について最も詳しい事情を伝えている﹃メ  

ルセブルクの司教ティトマールの年代記﹄ つ訂已3雫叫竜箪竃訂式芸札的 句㌢筈怠叫Cぎ芸叫c冨︵以下︑﹃ティトマ  

ー ルの年代記﹄と略記︶ は︑グニエズノの会見を次のように描いている︒   

﹁次に︑神は御自ら愛された殉教者アグルベルトゥスを通して奇跡を成し遂げられたのであるが︑畠帝はこの奇  

跡のことを知ると︑祈りを捧げるためにかの地に急いだ︒ラティスボン ︵レーゲンスゾルク︶ に着いた時︑その地  

の大聖堂の司教ゲプハルドは大いなる敬意を持って迎えに出た︒皇帝には︑バトリキウス ︵の地位︶ のジィアゾン︑  

オプラティオナリウス ︵の地位︶ のロベルトスおよび枢機卿が随行した︒いまだかつてローマ皇帝で︑これ以上の  

豪勢な陣容でローマを出発した者はいなかったし︑︵このような帥容のまま︶ ローマに帰還した者もいなかった︒  

⁝⁚・イルアと呼ばれる場所で︑ボレスラフは前もって皇帝のための宿舎を用意していた︒その時どのようなやり方  

でボレスラフが皇帝を迎え︑自分の国を迫ってグニュズノまで案内していったか︑私はそれを信じることもできな  

いし︑語ることもできない︒オットーは︑自分が待ら望んでいた都市を見ると︑祈りながら素足でその場所まで歩  

いていった︒この地の司教ウンゲルは︑皇帝を恭々しく出迎え︑教会まで案内した︒その教会で皇帝は涙を流し︑  とりなし  キリストの恩寵を受け取ることができるように︑聖なる殉教者の執成を懇願した﹂︒  

ミPOStea CeSar auditis mirabこibus一quae per di−ectum sibi martyrem Deus fecit Aetbe−bertum︐Orati昌is  

一一一    第一葦 聖アダルベルトゥス ︵聖ヴォィチェフ︶  

(10)

岡 法(36−2)228  

一一二  

誓atia eO pergere festinaユt.Sed cum RatisbOnamくeniret︸ a Ge汀ehard〇一eiusdeヨ aenC−esiae antistiteu   

magnificO hOnOre SuSCeptuS eSt﹀ COヨitantiどs secum Niaz昌e︷uコC pa︷riciO et RObbert0 0b︻aciOnariO CuTロ   

cardiコa−ibus.Nuus iヨperatOr maiOri umquam g−Oria a ROma egrediturコeque reくertitur\・∴ コ ︼OC〇.q亡i   

I︼ua dicitur.suiヨet hOSpiciO−ヨu−tuヨ一己aris OCCurrit.Quater autem cesar ab eOdeヨ tunC SuSCiperetur   

et per sua usque ad GコeSin deducereturl dictu iコCredibi−e ac iコeffabごe est..5dcコS a−○ロg ur訂∃   

desideratam コudis pedibus suppciter ad諾〇it et ab episcOpO eiusdem UngerO 詔nerabi≡er succept亡S  

aecc−esialゴ intrOduciturY et ad Christi gratiam sibi iコpe︵randam martyris Christi intercessiO prOfusis  

︳ −acrimis inまtatur㌧u︵↓緊已S彗︹−芭︸ 卜叫訂ヽ軍曾r宏一︶  

書 ティトマール Th山まmar は︑メルセブルグの司教でザクセン胡の咋代記けとして署ヤである︒九七宜圧︑ヴ7ルペック  

Wa−beck 氏振︵ザクセン東邦の旧家︶ のジグフリード仙 Graf Nygfryd とスターデ仙の′十クネグンゲぎnegunda の子とし  て生まれる︒はじめクフェドリンブルゲで教〃を受け︑九八七井から二叩問マグデブルケの聖ヨハネ修道院に入る︒ついでマブ  

デブルグ大聖堂付の修道僧学校に入る︒その時の学友に︑後のオットー三世の皿折の一人となり︑聖アダルベルトゥス伝の執筆  

者となったゥフエルフルトの墾フルーノがいる︒一〇〇〇咋には︑マグデブルグの大聖堂参事全会員となり︑苛々咋には祖父伝  

来の地ケァルペックの修道院艮となっている︒オソトー二川の没後︑山0〇四丹にマルデブルグ大司教タギノTagiコ︒との接触  

を通じて導帝の宮廷にも入り︑一〇〇七隼のハィンリソヒ二仰のポ1ランド山征には︑大司教とともに従軍している︒∵0〇九  

咋メルセブルケ司教となり︑一八軒に吊地にて没する︒ティトマールの政治的闇度は︑オットー三根の親ポーー7ノド的政範に批  

判的であり︑キリスト教川であるドイーノと異教徒であるルソィソィ振Lucicy ︵オドラ・エルベ下流に住む西スラブ族︶との川  

盟を進めるハィンリッヒ三Ⅲの政策を支持している︒仲代記は八巻からなり︑エとしてザクセン王朝の歴史を扱い︑またドイツ  

東部の十世紀から十一世紀にかけての政治史︑とりわけポーランドも含めた西スラブ族との交渉を詳しノ︑叙述している︒一〇一  二叩から没咋まで讃き続けたが︑死によって叙述は未完成のまま残された ︵ヨ意竹 内萱ミd ↓安登萱Å−己−むよび  

ゎ切払.t.か−S.ゴニ︵   

(11)

227「1000年のグニエズノにおける会見」  

きらにほぼ同時代に書かれた﹃クフェドリンブルグの年代記﹄ ゝ喜已認 ①罵覧町已§票記竃h もまた同様に︑グ  

エズノ訪問が鼻緒の宗教的熱情から出たものであることを示している︒  

﹁皇帝は︑﹃まず神の国を求めよ﹄という聖書の言菓を忘れず︑祖父伝来の皇帝家の流儀にならい︑また王や上  

流人士に慈悲を求める宗教上のあらゆる要請に従って︑己を低くしてスラブの地に身を漱げ近頃キリストに倣って  

とりたし 月桂冠を授けられた聖アダルベルトゥスのもとに赴き︑彼の執成を熱心に懇請した︒その他でスラブ人の君‡ボレ  

スラフ公によって心からの歓待を受けた︒至るところから入念に集められたあらゆる樺類の財宝を贈られたけれど  

もその時には何も受け取らなかった︒なぜなら︑彼の地に赴いたのは︑奪い収るためでなく︑与え祈るためだから  

である﹂︒  

.︑Ⅰe<erO euange︼ici nOn iヨmemOr praeCeptiY quD d訂itur⁚ヽ3.き茎二軍買主屯ぶ苫ミ編 b阜 iu已aヨOreヨ  

pareコ︷uヨSuOrum imperatOruヨーOmロia sua diエロa regi acヨe−iOrari e誓ptanS C−e−完Hltia−humこi deヨtiOロe  

山n Sc−aviaヨ SanCtuヨ Ada冒ertuヨ nuper prO ChristO−aureatum adiit−eiusque inter完已uヨ Obni已us  

petiit.ibi suヨヨO COロanime a duce Sc訂言nicO BON−a喜ne SuSCeptuS■ 駕niis Oヨロigeni cens亡S ubique  

terraruヨStudiOS訂siヨe quaeSi︷i Obsequia≡er dOnaturこice︷コihi−tunc tempOris e舛h訂acceperit−quippe q亡i  

ロOn rapiendi nec sumendr∽ed daロdi et Orandi ca房a eO−OCi ad完ntaSSet.一一︵ゝ喜已へh 昏へ乳︑町已琶g芸紅h.  

● ︹呂s.ヨ︶  

★ 東部ザクセン地方︑スラブ振の誠地に近い都市クフユドリンプルグにおいて書かれた﹃クフェドリンブルク侵代記﹄ゝ喜已巴  

①罵ら㌻ぎヽgQ莞㌻ は︑九九〇咋︑あるいは一〇〇七咋に書き始められた︑とされている︒はじめの部分は︑﹃ヒルデスハイ  ム年代記﹄ 旨芸邑竃︑寧蛋邑蚤ざ⊇芦Ⅵ に依っているけれども︑九九三雄以降の記事は︑オリジナルなものである︒苦者は︑  

一二   

(12)

岡 法(36−2)228  

■  

一一四  

ティトマールとは逆にオットー三世の教会政策︑親ポーランド外交を擁護し︑オットー三根の後に鼻緒に即いたハィンリソヒ二  

世の政策を批難している︒この咋代記は︑とくに西スラブ族の歴史にとって極めて巧要な質料となっており︑九九四律の反乱︑  

九九五時︑九九七咋のザクセン族への攻撃︑九九五年のオポジッツィ族ヴィエレッツィ麒へのドイツ人による討伐︑九九六年︑   

一〇〇〇年︑∵0〇二咋のドイツ・ポーランド関係の記事に詳しい︒この時期の資料としては︑ヴィドキンド︑ティトマールと  

並ぶ第一級の文献であるといわれている︒︵旬訟.t・Ⅰ・S.∽〇  

以上の紹介から見られるように︑ポーランドの史書もドイツの史#も︑異教僻遠の地プルシアで殉教した聖アグル  

ベルトゥスの墓参りが︑オットー三世のダニユズノ訪問の基本的動機であった︑と述べている︒それでは︑これ程ま  

でに皇帝の心を捉えたときれる聖アグルベルトゥスとは︑いかなる人物であったのか︑高位聖職者たる司教身分とは  

いえ︑一聖職者の死が当時の最高権力者をしてかくも遠隔の地まで赴かせたという叫態は︑どのような事情のもとで  

可能となったのであろうか︒   

聖アダルベルトゥスの伝記については︑九九七年の殉教後数咋のうちに四つの伝記が書かれたし︑また中世ヨーロ  

ッパに流布したヴォラギネの﹃黄金比脱﹄ ト竃⊇計 き言Q のポーランド阪には︑これらの伝記を媒として無名の  

作家によって書かれた聖アダルベルトゥス伝が伝えられている︒今これらの伝記が描いている型アグルベルトゥスの   

生涯の軌跡をたどってみると︑ほぼ次のような像が浮かび上ってくる︒  

★ 聖アグルベルトゥスの四つの伝記については︑拙稿﹁ポーランド最古の咋代記I﹃酷名ガルの咋代・記﹄について﹂参照︒﹃黄  

金伝説﹄は︑いうまでもなく十三恨紀末イタリアのジェノヴァ大司教ヤコブス・ア・ヴォラギネによって執筆・編集されたラテ  

ン語の聖人伝鮭である︒この﹃黄金伝説﹄はただちに全ヨーロッパに普及し︑中仙を通じて﹃聖苦﹄に次いで投もポピュラーな  

書としての地位を占めたといわれており︑事実︑十三世紀末︑すでにポーランドにまで流布し︑ポーランドの娩人かの聖人伝を  

追加して編集された︒聖アダルベルトゥス伝はその追加編の冒頭に箔かれている︒lak仁b de く︒ragineて慧告白 L訂璽室計  

ミ富守.Tど芦lanina P−e2i︒旬a.WSt巾pem Marian P−eziP WむrSNa雷−諾︺●S・巴∽−盟亘   

(13)

229「1000年のグニュズノにおける会見」   

九五六年︑アダルベルトゥスは︑ボヘミアの首都プラハの北西部からポーランドの‖境にいたるまでの広大な領地  

を有していた大領主スウアブニーク S訂wnikの了として住まれ︑スラブ諦で ﹁軍隊の喜び wOjska uciech﹂‖‖‖ヴ  

ォィチェフ WOjciecゴ という洗礼名を与えられた︒九七二咋︑ドイツのマブデブルグの聖マウリチウス修道院にお  

いて勉学を始める︒このl−寺の教師の一人に︑学識において聞こえていたオストリック Ostryk がおり︑後にオット  

ー二世の宮廷付司祭となっている︒ヴォィチェフの竪振式にあたっては︑時のマグデブルグ大司教アダルベルトゥス  

が︑ヴォィチェフの家柄︑その有為の才を知り︑自分の名を与えた︒   

九八一年︑学業成ってボヘミアに帰り︑司祭として聖職叙任の聖肌を受ける︒九九二咋︑プラハの初代司教デイト  

マール Detヨar が没するに及び︑ボヘミア公ボレスラブ二世その他の有力諸挨は一致して後作にヴォィチェフを選  

ぶ︒その意向をうけてオットー二世は︑イタリアのヴュロナにヴォィチェフを糾喚し︑プラハの司教職の受禄を許可  

し︑司教杖を与え︑監督の付置に立つマインツ大司教ヴィリギス Wi≡gis が無職叙任の門別の儀式をとり行った︒  

六年間︑ヴォィチェフはプラハのり教職に在ったが︑土地の里俗誹勢力と対立し︑九八九什司教職を辞 してエルサレ  

ム巡礼の旅にHることを決意し︑まずはじめにローマを訪れる︒ローマではオットー∴世の如テオファノから︑オッ  

トー二世の冥福をエルサレムで祈るよう懇願きれ︑巡礼の梯川を贈られる︒しかしローマを発ち︑モンテ・カシノ山  

頂に建つベネデクト派修道院に立ら寄ると︑この修道院の一修道椚に訓戒され︑エルサレム行きを断念する︒ヴォィ  

チェフは山を下り︑署名なる隠修士里ニル Nご と呼ばれるギリシャ人の学仰を訪れる︒禦ニルは︑ヴォィチェフに  

ローマのアブェンティノにある聖ポニファティウス修道院に入り︑院長レオの教えの†に修業に勤しむことを勧める︒  

ヴォィチェフは司教の衣を脱ぎ一介の修道士として五咋開この修道院に惰る︒しかしながら︑九九四年︑プラハから  

使節が釆てヴォィチェフの帰国を艶話した時︑法王はヴォィチェフに帰国を命ずる︒一日﹁プラハに帰ったヴォィチェ  

フは︑ハンガリアへの布教をはじめ︑諸々の聖職の任務に力古住ぐけれども︑ボヘ︑ミアの人々の態度が豹変し︑ヴォ  

叫 血圧   

(14)

岡 法(36−2)230  

l一六   

ィチエフ排斥の空気が醸成されていくのを知り︑九九九拝再びアヴュンティノの修道院の静寂の生活にもどっていく︒  

九九六年︑オットー三世のローマ皐帝叔冠の儀式にマインツ大司教とともに列席することがあったが︑これを契機に  

オットー三世と三度親密な接触を持つにいたる︒マインツ大司教は︑再度ローマの司教会議でヴォィチェフのプラハ  

帰国を決定させるが︑ヴォィチェフは︑それに一つの留保条件を要諦する︒すなわち︑ボヘミアの人々が︑今後もな  

お頑に心を関しているならば︑法王は︑ヴォィチェフが他の異教の国々に布教に照ることを許可する︑というもので  

あった︒法王がこの条作を認めたのでヴォィチエフはボヘミアへの帰国の旅にる︒しかし旅半ばにしてボヘミアの  

有力諸侯によって分の一族郎党が滅亡の憂き目をみたことを聞き︑プラハに入るのをとりやめ︑ポーランドのダニ  

ユズノに赴く︒その地でポーランド公ボレスラフの心からなる歓待を受け︑翌年春︑ゲィスワ川を北に下ってプルシ  

アの地に入り︑殉教する︒   

以上が︑聖アグルベルトゥス ︵−1ヴォィチェフ︶ の隼涯のおおまかな軌跡であるが︑その巾に一つの興味深い事実  

が語られている︒西欧の辺境に椋置するボヘミア山身のアグルベルトゥスは︑ついに故郷に容れられず︑ローマ参詣  

のゅでアヴュンティノにあるベネディクト派の聖ポニファチウス修道院に入り︑この修道院と探い関係を持つにいた  

った︑という点である︒   

ところで︑このベネディクト派の型ポニファティウス修道院は︑当時のローマ宗教界に非常に人きな影響力を持っ  

ていたといわれている︒アグルベルトゥスにアヴェンティノのこの修道院に入ることを勧めた聖二ル白身名声ある隠  

修士であり︑オットー三世の宮廷に山人りしている聖職者でもあった︒またこのボニファティウス修道院の院長レオ  

もローマ法王庁に雄雉力を行使できた︑当時の宗教界の指導的人物であった︒後にアグルベルトゥスへの熱烈な信奉  

者となり︑聖アダルベルトゥス伝を書くことになるクフェフルトの聖ブルーノ 習unO くOn Quefurt︑ポーランド最  

初の大司教となったアグルベルトゥスの弟ガウダンティ Gaudanty︑ハンガリアの初代大司教となるアストリック   

(15)

231「1000年のダニユズノにおけろ会見」  

さらに︑このような聖職者の薫陶もあって︑オットー白身︑隠修士的な圧清に憧れ︑単身異教徒改宗の旅にるこ  

とを自分の使命と考える宗教的素禦の持‡であったことも史料が指摘するところである︒聖アグルベルトゥスへの傾  

倒ぶりは︑九九七年オットーがアーヘンにあってアグルベルトゥス殉教の報を知るや︑頂ちに殉教者記念の修道院を  

アーヘンに︑イタリアのスビスコ︑ローマには教会を建豆する決定を出していることからも想うことができる︒  

♯   

Astryk もこのレオ膝下の修道僧であった︒その上︑この修道院が︑オットー三世の居城近くに位置していたことも  

あって︑オットー三世の拷廷とこの修道院の指導者層とは︑極めて近い関係にあったことが注臼されなければならな  

い︒レオがフランスのランス大司教代人州問題で︑地方司教会議およぴカペ1家の側に立つゲルベルト ︵後の法王シル  

ベステル二世︶ を抑え︑法王庁および皇妃テオファーノの意向を尖期させるのに力を尽したのもこのような関係を示  

すものである︒  

■   

■ ﹃五人の修道会士の伝記﹄ く町︑n 喝S.3勺吉 \ヽ已rミ道 ︵弓屯 t.声 s.∽箪︶ には一〇〇一年︑オットーがラベンナ  

一丁七    書 オットー∴惧とその周囲をとりまく聖職甘屑との関連については︑P.E一Schraヨm−舞已完ヽ−声音応ミ邑⊥㌘さ買已㌻ t.i.  Bern−悪声s.−試−−芦 S.Nakrzewski−b已巴︑Q∈C冒Qざ七 ︻ヨ已ざKrak■首−篭u.s.芸1−.参胸︒ンユラムの見  解においては︑オットーの行動の宗教的動機が種めて重視されている︒オットーの側近を形成した人物として︑右で述べた他に︑  ギリシャ的なグノーシス杓・慣遁的禁欲住活の唱導宥和グレゴリウス︑クリユニー作道院改革の小心人物オデロ︑クリュニュー  的改叩と隠修士的禁欲性病の結合を説く型ロムアルドス︑聖ブルーノに出∩の点からも近いヒルデスハイムの聖ベルンハルト︑  聖ベルンハルトの兄弟タムモ︑ウォルムスの教余法学苫プルハルドの兄弟フランコ︑が挙げられている︒シュラムは︑オットー  一二川の時代は︑クリュニューの攻世運勤の高揚と南イタリア的=ギリンヤ的隈修士的な佃院泳動とが結合した教会所動の一大画  期であったと‡張している︒  

(16)

岡 法(36−2)232  

先に紹介した聖アダルベルトゥスの年渾の軌跡において︑なおもう一つ注目すべき点がある︒聖人伝においてはア  

グルベルトゥスは︑はじめてハンガリアヘキリスト教を布教した人物として紹介され︑また︑プルシア布教の権利を  

ローマ法王から許可されている︒この点は︑H時のローマ法‡庁の東欧への布教計画の一瑞を示すものと考えられな  

ければならない︒   

九∧九咋︑キエフ公ウラジーミルがビザンティン塁帝バンレオスの妹アンナと結婚し︑ギリシャ正教岡に入ったこ  

とは︑ビザンティンと教組拡大を㍊うローマ法‡汗にとって柚めてゆゆしき車健であった︒従ってローマ法‡けにと  

ってアグルベルトゥスのハンガリア・来−ランド・プルシア布教は︑こり闇辿において秘めて帖圧にかなった企てで  

あった︒アグルベルトゥスが九九上作にプルシア布教で殉教した直後ただちに彼の列聖化の手続きがはじまり︑おそ  

くとも九九九咋の冬には完了していたと仕えられている ︵NakrNe弓Ski坤s﹂−巴︒または丁シルヴュステル二世は九  

九九特にはすでにボレスラブ・フロブリの教会煙設についての嘆願パに応ずるべく︑十−ランドに里アブルベルトゥ  

スの名を冠した大司教椎設FHの州勅をし︑アグルベルトゥスの兄如ガウダンティ Gau皿anty を節一代のグニュズ  

ノ大司教に任命している︒またハンガリアについても︑一〇〇一昨︑ハンガリアのステファン Stefan ︵1イシュト  

ヴ7−ン︶ にモ拉を認め︑オスチホーム Ostrz首○ヨに大司教座を設皿mすることを許司している︒一〇〇〇年前後は︑  

まさしくローマ法王庁にとりて︑ギリシャポ教との対抗を念虫にmい左東欧への教組鮎火の両親であった︒その点か  

ら考えるならば︑オットー三世のダニエズノ茄参は︑ローマ法王庁にとってはすでにシルヴエステル二世が認めたグ    一一八   

に滞在してい仁時︑聖ロムアルドスにらの思いを述べた節所が記きれている︒﹁人−この時︑神と聖人達に誓っていう︒二年  

後・・二=財産を分け与えて︑瓜二つの経で︑心をこめてイエス・キリストに従うつもりである︒﹂ ■由㌍h呂hOra prOmittO DeO  

et sancti∽ e訂s⁚pOSt treS aコ冒S∴⁚e童e〇Sa peCu已a.・二 t芝a anima ヨudus sequar nhristum﹂一  

(17)

233「1000年のダニエズノにおける会見」  

以上に述べたように︑当時の咋代一記・文悪から︑オットー∴世のダニエズノ基参には︑オットー のアグルベルトゥ  

スに対する州人的な伽側に加えて︑オットー側近の※数的サークルの姫鱒︑きらにローマ法王圧の東欧への教組拡大  

の計画が与って大きな力となっていたことが窺えるのであるけれども︑ともかくも︑このようにして宍現したオット  

ーのダニユズノ訪Ⅲによって︑ポーランドははじめて﹁独兄﹂の教会組織を持つことができた︒この点は﹃ティトマ  

ルの年代記﹄も確認しているところである︒   ー    ユニズノ火山教推設置ポーランドの教会組織の確立を実現させる機会となったのであり︑また︑きらに広くスラブ  の地に布教を進めていく絶好のチャンスを意味したのである︒  

﹁彼 ︵オットー三根︶ は︑即座にここに大川教座を設けた︒それは∧口法仙なやり方で︑と思うけれども︒とはい  

っても苗に述べた司教の人口意を得ることなく︑そうしたのであるが︒というのは︑この地方はこの司教の轡櫓下に  

あったからである︒︵オットーは︶ この地域を殉教者の兄弟ラジムに任せ︑被にサルツホルベルクのd教ラインベ  

ルヌスを︑クラコフの司教ポッポを︑ブラティスラフの司教ヨハンを従わせた︒ポズナニの司教ウンゲルは被らと  

は別であった︒そして祭壇を設けてそこに聖遺物を安起した︒﹂  

︒Nec mOra一fecit ibi archiepiscOpatum−ut SperO−egitime−Siロe COnSenSu tamen prefa︷i presu−is.cuius  

diOCeSi Omn訂 haec regiO Subiecta est一COmmittens euコdem predicti martyris fratri RadimO eidemque  

S旨iciens ReFbernum−Sa︼sae CbO−bergiensis aecc−esiae episcOpum−POppO記m Cracuaensem.HO訂nnem  

九   

第二葦 ポーランドにおける教会建設  

(18)

同 法(36−2)23l  

ここでいうラジム Radimとは︑アゲルベルトゥスの兄弟ガウダンティのことであり︑ここにこのガウダンティ大  

司教の下に︑サルツホルベルクSa−sae ChO冒ergiensis すなわち西ポモージュ地心はバルト海沿山件の小心地コウォ  

ブジュグ只○㌻brzeg︑クラコフ︑ヴラティスラフWrOtiN︻aensすなわちヴロツワフ︑の三つの司教区が従属する一  

つのまとまった教会組織の設宜が認められたのであろ︒   

ただしこのナイトマールの叙述には書手の圧削が必要であろう︒ティトマールにおいては︑ダニユズノへの大司教  

座設楷は︑ただもっぱらオットー三世の命によろとだけ記されているけれども︑同時代の資料からも明らかなように 

この処置は皇帝と法‡とポーランド公の意志という二つの要囲によってはじめて尖現されたものであった︒﹃ヒルデ  

スハイム昨報﹄は次のように述べている︒   

﹁員帝オットー二一世は︑四旬即に︑聖職者であり列数者となった聖アゲルベルトゥスに祈りを献げるためにスラ  

ブの地に赴いた︒その地で︑司教会議を〃集し︑七つのiり教区の秩序を山九め︑福者アダルベルトゥスの兄弟ガウダン  

ティを︑ローマ法王けの許可とボヘミアのボレスラブの懇満によって︑スラブ人の首都プラハの大司教に任じた﹂︒  

..ImperatOr OttO teユius causaOratiOnis ad sanctum Ada冒erduヨ episnOpuヨet martire︻n quadragesimae   

tempOre Sc−aviam首traくit.1bique cOadロnata SinOdO episcOpia septem dispOSuit.et Gaudentium−fratrem  

beati Ada冒erti−in principa urbe Scla<0岩ヨ Pra竃 Ordinari fecit archiepiscOpuヨ.−inentia ROヨani  

pOntificis.nausa petitiOnis BO︸eN−a蓋nis BCeヨiOrum ducis∴−︵ゝ喜已宗祇こ計s訂ぎ⊇竃筈N︺s.㌶.︶    l二〇  

WrOtiz−aensem一くungerO POSnaniensi e宍eptO⁚fact呂ue ibi a−tari sanctas in eO hOnOrifine cOコdidit  

requias㌔ ︵コぎ乳挙聖︹−占−ト芯顎軍芸︶︒  

(19)

285「1000句三のダニエズノにおける会見」   

前節で述べように︑すでに九九九年に法モンルヴュスチル二世は︑ボレスラブの要請にもとづいて︑︺⁚−1ランドに  

新たに三つの司教区とその上に立つ一つの大司教娃の設慣を認めていたのであり︑グ一三ズノ訪問はそれを現実に鮎  

■ 行する機会となったのである︒  

書 この﹃ヒルデスハイムの年報﹄において︑ゾウダンティはプラハの大司教に任じられた︑となっているが︑これは言うまでも  

なく誤記である︒プーフハには当時まだ人司教座はmかれていないからである︒また﹁七つの司教﹂が言及きれているけれども︑  

この点については︑一九世紀のオーストリアの歴史家であり︑ポーランドの文献学の先駆ポでもあるザイスベルクの見解に従う  

と︑ダニユズノ︑クラコフ︑コリオブジェグ︑ヴロッリブ︑ポズナニ︑ミシ二 ︵マイセン︶︑プラハの七つの教区を意味し︑オ  

ットーは︑これらの教はの簡鞘囁別について胡停し︑鶴界を設定した︑と解されている︒確かに︑一〇〇〇年以前においては︑  

ポーランドはその仝城がポズナニ司教の教区とみなきれていたし︑グロツワフ︑力1↓コフの教区は一部︑プラハの管軒†にあっ  

たからクラコフ︑ヴロッワフに司教座を旧くことになると︑ミシナ︑プラハの司教区と教区の亀城について調整が必要となって  

くるからである︒ロNeissberg−OttOヨund BO︸es︼aw.︼ くOn PO−eP小n⁚N乳訂cざ︑七盲ヽ.斗訝〜畏一C王道芸h﹂票↓.く.胃e.  

またティトマールの記述において︑オットーのゲ⊥一ユズノ人司教座設置は︑﹁前に述べた司教﹂の︵ぷを得ること  

なく強わきれたもの︑となっているけれども︑この点についても甜保が必要となる︒   

教会法においては︑新しい司教区単位を創設する場合には︑それ以前に当地域の管轄権を持っていた司教の同意が  

必要となり︑それは厳格に実行きれていた︑といわれている︒ダニユズノに大司教座を設定することは︑当然︑以前  

ポーランド全体学習椎下に置いていたポズナニ司教の川芯なしには遂行きれ得ない事柄である︒この点に注目して従  

米多くの研究者は︑ティトマールの叙述 ︵﹃司教の川意を得ることなく﹄︶ は︑ティトマール自身の考えガの捜影で  

あり︑事実は︑ウンゲルはダニエズノの大司教座設置に反対しなかったのだ︑と主張するにいたっている ︵W.Ab・  

raham@︒Nt WOjciechOWSki㊨㊥︶︒すなわち︑ティトマールにおいては︑そもそもポズナニの司教はマグデブルグ  

大司教の副監督 Suf叫ragan であって︑マグデブルグの管轄下に立つものであると考えられており ︵↓已已ヨ弓  

て二   

(20)

開 法(36−2)236  

■事  

ニヨB三S   

︹忘︺ト叫訂ヽ 芸.︶︑マグデブルゲは︑ポーランドに独立した教会組織の設立を承嘉しようとしなかったのであるから︑  

ウンゲルもまた︑ダニエズノの決定に不同意であ﹁た︑と考えられているからである︒   

しかしながら︑そもそもポーランドのキリスト教改宗にあたっては︑九六六拝主エンコの改宗により︑九六八咋は  

じめてポズナニに司教座が置かれたのであるが︑このd教腫はローマの法‡庁に直属する布教択当司教座 episcOpuS  

gen︷どmともいうべきものであり︑二仕後に肌皿揖されたマグデブルゲの大司教睦の竹粧区域に人らないものであった︒  

このぷは︑後のポーランドの教会史・国家史の特翫右考えるうえで決定的な軍縮である ︵∽∽∽.﹁−.s.−NOニ.の.s.  

N冨︶︒ポーランドの教会が辿った苗とは正しく対照的であったのはチェコの教会であった︒同じ西スラブ放であるチ  

ェコ人においては︑プラハに九七二一律に司教雌が潰かれることになるのであるが︑この司教座はドイツのマインツ  

︵モダンツイ︶ 大司教の竹折に服するものであった︒アグルベルトゥスが絶えず︑マインツ大司教の志向に沿わねば  

ならなかったことは先にみたとおりである︒   

人﹁や︑ポーランドにおいてローマ法王庁の直接の監督ドに立つ ﹁独立﹂のダニエズノ大司教薩が設置きれた︒そし  

てそのことは︑ポズナニり教をマゲデブルグ大司教に服するものと考えているティトマールにおいても明確に承認き   

れるにいたったのである︒  

★ ウンゲル U責er については今日までよくわかっていない点が多いのではあるが︑おそらくヾ・イツ人であろう︑と言われてい  

る︒しかしウンゲルなる名をドイツの文献で払い出すことが困難なことから︑彼の州身をイタリア︑あろいはバルカンとすろ説  

も出されている︒しかし︑九九二1三拝に︑初代ポズナニ司教ジョルダン JOrdaロ の後継署としてポーランドに入ったことは  

確認されている︒一〇〇〇咋のグニュズノ大司教塵設椚にあたっては︑その決定に‖意ネ長音つつも︑自らの教区はグニエズノ  

から独立した地位に寸ちものであることを承認きれていろ︒ティトマールの叙述に止る火司教舛設問へのウンゲルの不川意なる  

ものは︑山0〇四年︑ウンゲルがローマに赴く途中︑マゲデブルクに監禁され︑ポーランドの教会糾織のマグデブルグヘの従属  

を強要されたという事件から導き川された︑ティトマールH身によるn己‡損の衣現である︑と考えられている︒らなみに︑こ   

(21)

237「1000年のダニエズノにおける会見」  

の強要きれたウンゲルの表明は︑十一肌紀︑おょびト二此紀において︑マブデブルゲがポーつンド教会に対する自らの聴明哲梅を  

要求した時の根拠となっている︒ウンゲルFl身の態度についてはホ明な点が多いけれども︑親ポしノンド派のクフェルトのブル  ーノが︑ウンゲルを﹁非滞に有徳な﹂人物と呼んでいることから︑ウンゲルはボレスラフり収策に好点滴であった︑とする説が  

証てられている︒一〇一二年ドイツに捜する︵hhh.︷.P s.N声 叫.聖已S彗︹−古.ト芯筆 写合一︶︒  

第三葦 聖マウリチウスの槍  

以上述べてきたように︑一〇〇〇年のケニュズノ会兄で︑ポーランドはドイツから﹁独ぺした﹂教会机織を設讃す  

ろことに成功した︒しかしながらこのことは︑政治的にもがーランドのドイツからの﹁独立﹂を点昧することになる  

であろうか︒   

﹃酢名のガル咋代記﹄の記述によれば︑ボレスラフ・フロブリはポーランドにわいても︑またポーランド周辺の異  

教の諸民放においても︑里帝が持っていた教会支配権を手に入れ︑皇帝を介せず︑直接にローマ法王けとポーランド  

聖職者儲とを結びつけろ唯一の仲介者となった︒それでは︑このことによってボレスラフの政椚的付椚はいかなる意  

義を持つことになったのであろうか︒この点についても仙ならぬティトマールは︑彼の年代記の申で次の上うに述べ  

ている︒  

﹁今の他の人々と祖父たちとを比較することは︑川と不愉快なことであろうか︒卓越した人物オドの持きた時代に  

は︑︵ボレスラフの︶ 父ミュシコは︑オドを見ると敢えて毛皮の服を着たままでは・家の申に入ろうとはしなかった  

し︑オドが席から立つ時には︑敢えて腰をおろしていることはなかった︒神よ︑皇帝が古納を負う者を土人DOmi一  

nusにし︑これ程までに商い地位に引き上げたことに対して御寛容を似りますように﹂︒  

ミQuam inique cOmparandi sunt antecessOreS nOStri et cOコtempOra−es一 くi<ente egregiO HOdOne pater  

一二∵一   

(22)

同 法(36−2)238  

この文章は︑一〇〇二律に没したオットー三恨への追憶としてダニユズノの会uに触れたものである︒この節所に  

記されているようにボレスラフが皐帝に対して責納を負う者であ﹁たかどうかは︑今は詳しくは触れないとして︑皇  

帝はボレスラブを工人 ︵ドミヌス d〇ヨi喜S︶ とした︑とティトマールは述べている︒  

*  

⁚四  

istius MisieC dOヨuヨーqua euln eSSe SCiebat一Cr亡S訂atus i已rare くe︼ eO aSSurgente nuヨquaヨpreSuヨー  

psi︷ sedere.De仁S iコdu︼geat iヨperatOriu quOd tribut害ium facie5S dOmiきヨad hOC unぶuaヨ e︼eく如くit一一.  

︵↓賢乳S弓︹−凸−ト叫訂ユ1﹂○︶︒  

★ ボレスラフが草将に対してり納を負う首であったか蕎かについては︑ティト7︑1ルの九L∴作の.記述の次の間何が引き合いに  

昭される︒﹁尊敬すべき辺境仙ホドは︑叩封キ集めて︑皇.巾に対して小心誠を机﹂いげアルツ川までりり納を払っていたご\エンコを  

討った︒﹂=Interep HOdO−くeコerab≡s marcゴiO︑三isec呂em iコper三〇ri fide︻em trib亡t亡mque uSque in くurta fF<i亡m  

Sユ<entem e莞rCitu petiユt cOu2Ct〇.︵↓㌢㌫ごさ彗︹−告.ト叫〜︑雫u.N吋.︶︒ナレスウフ・ブコプリは几六六咋︵または九六  

し咋︶ にミュシコの肋位を継いでポーうンド公に即付しているので⊥のるから︑多くの前者は︑このナイト7−ルの叙述キ兆に︑  

ボレスラフは山00C咋まで阜滴に対して▲⁚︑納を支払っていた︑と考えている︒問題は︑どのょうな備囲の宕ri城に対する.り納で  

あるか︑であり︑ヴァル?川︵オドゥ川の甘流でポズナニキ揖流する︶左⁝吊︵ヴアルク川の直方︶と解して︑ポート∵ノ∵﹁仝城に  

対してボレスラフは〃︑納を負っていたとする証ル︹もいる︒バルトルドF.G.汐rt訂−d︑ザイスベルグH.Z2issberg︑ヴェルシェ  

C.﹂若rsch2︑ブラック﹁∴ノA.Bra︹kヨaココ︑ラントE.Raコdt︑アリビンロAubin︑ルダトロLudat等ほとんどドイリ人研究  

者が名を列ねている︒またヴアルクん両局ではあるが︑その日納を負﹁ている領域をもっと狭く限定して ︵例えばノテ∵河口から  

オドラ川まで︑とか︑ヴアルク川とオトラ川の捜点付近の地域とか︑ルブシの地域とか︶ いる論者もいる︒マウェリキA.Ma一  

訂cki︑グロデッキR.GrO倉c打i︑クロスS.H.CrOSS︑ザケンェブスキ︸.NakrNe奄Ski︑アーノルドS.prnO−d︑ラブーグG.La一  

b已a︑ブリュクナーA.Br旨kコ2r︒それに対してヴァルタ川右岸︵西方︶李γ蝦する論者には︑ザゲジェフスキS.Nakr〜2尋Ski︑  

ヴィダイエグッチJ一Wida号wic2︑ヴォイチェホ﹁′云キN.弓OjciecFOWS打i︑テドリリキM.Z.Tedc打i︑がいる︒とくにヴォイ  

チェホブスヰは︑責納車負う地域を西ポモージュ全体に広げている︵論文宋ほの文献リスト参照︶︒   

(23)

239「1000年のダニエズノにおける会見」   

では︑このドミヌス d〇min仁Sとは︑川を膏心峠する語であろうか︒中世ラテンの相法においては︑それは第一に家  

の主人︑第二に王︑または阜用︑第∴に封建領土 ︵特に重罪裁判権haute justiceを持つもの︶︑篤門に高相聖ぬ者︑  

第五に市長︑を意味する ︵CQミ慧Cぎ叫巴叫§Qヨ§ト芸叫へ書卜已叫乳訂こh竜邑町軋ゝ箋ユ↓urnhO≡−篭豊︒   

それでは︑オットー二一世は︑﹃匿名のガル律代㍊﹄が書き記しているように︑ボレスラブに確かに王化を授与した  

のであろうか︒それともローマ帝国内での特殊な高付身分施与えたのだろうか︒それとも普通の高位封建領主の一位  

■ 椚を認めたにすぎないのであろうか︒今日まで︑この点について多くの見解が山きれている︒  

★ ダニエズノにおけるボレスラソの地位を︑附封土を授与された封Hと考えるハ冊ハにはスタシンスキ 1.Stasi訝ki︑また皇帝と  

人格的な巾⁝誠関係ドけで結ばれた封と考えるザイスベルグ声Zeissber叫︑ローペル R.R音eH︑ヴュルシェ K.Wersc訂が  

いるけれども︑人・‖では多くの上川を得ていない︒脚ボレスーソフはゲニエズノで†柏に用いた︑とする説をモ服すろ研究者には︑  

ナルシェゲィッチ P2arusNeWicN︑バンドキュ J.S.Bandtk訂︑シャイノーハ K.SNajnOCha︑ドラゴン Mt Drag昌︑レレゾ  

ェルJ.Le︼わW2て マウェソキ A.Ma︷eckiがいる︒刷京レス一ソフのダニユズノでの王位蛾冠を認めるけれども︑それは十全のも  

のでなく︑教会によろ里翫毎夜如した珊分m ︵従って世俗的なレベルにとどまる︶な戴冠であった︑と‡張する研究者には︑ウ  

ォンンスキ M.どdy訝ki︑グロデ∵キ R.GrOdec−ユ︑アーノルド S.Arコ○−dがいろ︒伸さらに﹃酢名のガル叩代記虹の.∵乱述は︑  

黒帝によるボレスラフヘの†仙戴冠の賢精授与んし意味しているとすろ見植がある︒こ直見解によれば︑オットーはダニユズノ  

からの帰還の後ボレスラブの正式の⊥仰戴冠を酢﹁備しトル︑と考えることとなる︒二U〇一往の凹バにアストリク pStryk なる  

憎がポーランド下の佳節として↓︑︑∵ノナにH巾を訪ねていろけれども︑これをポーランド公への下起投与に闇する使節と考える  

こととなる ︵S.NakrNe卓Ski︑呵s﹂︺U︑−−合.︶︒この几解に†つ人々には︑ザグジェフスキS.Za訂z2委skiの他に︑デューディ  

ックB.Dudik︑ラーゲェル K.Rawer︑ティミュニェツヰ K.Tymieコimcki︑ラブーグ Gt Labuda がいる︒㈲きらに後述するよ  

うにボしスラフは パトリキウス Pa︷rici亡S に任じられた︑とする脱があろ︒はじめてこり堰説を捉ホしたのは︑オーストリア  

のザィスヘルグで⊥のるが︑さらにトノ∴ノ■・ポーうンドの研究ポの小にも支持が柑ついで牛まれた︒ボブジンスキM一BObrzy訂ki︑  

スタドニソヰ K Stad已cki︑ブラックマン A.Brackmann︑エルトマン C.Erdmann︑ステンゲル E.E.Steコgeてイユドリツキ  

芦Z.Jed−訂ki︑ヴォィチェホフ7⁚キ N一WOjc訂c−岩W叩ki︑ガンシニュク R.Gansi已ec︒ホじて︑ドイツの研究者はボレスラフの  

一二圧   

(24)

同 法(36−2)240  

*  

∵∵㌧  

地位をドイリ皇帝の封臣とみる傾向にあるのに対して︑ポーノンド仙の研究署は︑ドイツ良市の支配から脱した地位︵土または  

パトリキウス︶ を主張する似向にある︒Ⅲ在のポーランドの法制史家パルダフは︑両署の見解の丸正を統一しようとして次のよ  

うな説を宜てている こt Ba昆ach︶屯訂旨︑・訂﹂pご史ぎ忘︑hヾ彗岩︻や已監予鼎 Wars〜aWP−芸㌣t﹂一S●芦︶︒すなわち︑パル  

ダフは︑レーンがこの時鞘の社会上旛㌫慢伏を津オる兆仙をなしていたのであるから︑国家削の関係においてもレーン関係を反  

映したヒエラルヒッシュな関係が成≠していた︑としたうえで︑対日mレーンと対外的レーンとを区別し︑対外的レーン閑係に  おいては︑国家間のゆるい関係がみられる︑と†張する︒そしてこの対外的関係において皇帝はすべてのキリスト教国の君‡の  

上位者であるが︑その地相は桁威的︵頼力的でなく︶名誉上の ︵pl・eStiど喜2h︒n︒r︒Wこ ものであった︑とするのである︒す  

なわらパルダフは︑古代tl−マのアウクトリークス AuctOri﹇as と※云ノスヵ∵スp︒﹇3taSの椚異を︑対外的レーンと対l内的レー  

ンにふり分け︑皇帝の対外朗係は7ウクトリータスに撒くもぃであって権力的た強制関係を本来は含まないものである︑と考え  

るのである︒そしてその点からみて︑ホーランドのホレチフフ一世︑∵M︑∴世の時代は︑ポーランドはドイツに対して余く独  

正した地相を保持していた︑と述べている︵論文来厄の又融リスト参照︶︒  

ところで︑ボレスラブがダニユズノの会兄によってどのような世俗r杓地位についたか︑を検討する峠︑他ならぬ  

﹃匿名のガル年代記﹄がまた一つの.小塵的な記述を残している︒  

﹁︵皇帝は︶自らの冠を頭からはずして︑それを友好的な吊盟い印としてボレスラブの山に置いた︒次いで凱旋庚   

と交換にボレスラブに︑‡の十り†撃∽針と型マウリチウスの槍を贈り物として彼にウ孔た︒﹂  

ここで挙げられている聖マウリチウスの槍の胴与というH為は︑小世ヨーロッパにおいて秘めて重要五シンボル行  

為であったことがすでに多くの研究者によって指摘きれている︒それではそもそもこの塑マウリチウスの愴とはいか   

なるものであるのか︒  

ー聖マウリチウスとは︑やはりヴォ▼ブギネの﹃黄金伝説﹄の巾に登場する聖人の一人である︒人﹂その巾に描かれている聖人像を   

(25)

241「1000年のダニユズノにおける会見」  

簡単に紹介してみよう︒   マウリチウスなる人物は︑苗代ローマ帝国の軍隊の巾で︑﹁テーベの連隊﹂と呼ばれる一部隊の隊長である︒この連隊の名は︑  

テーベという名の都市からつけられたもので︑連隊はその都市において編成きれたのである︒その都市はローマの東方にあって︑  

豊かで果物と美樹に富み︑均整のとれた休謳︑武に長じて勇敢髄肌なる住民を誇りとした︒ナイルに面したその都は﹁テーベ百  

門の大都﹂として称えられた︒   苗代ローマ帝国にあっては︑二七七年ディオクレティアヌス DiOn−e︻ian忘とマキンミアヌス Ma首鼠an亡Sが権力を掌廃し  

た︒彼らは版凶内のキリスト教徒を根絶せんとして︑全屈州に指令を出した︒﹁ローマの抑々への信仰に立ち返れー﹂と︒しか  

しながらキリスト教徒は皇帝の使者に返事を与えなかったので︑皇帝は激恕して全属州にり令し︑武装維力あるすべての男子を  

ローマに集め︑ローマに従わぬ者を討て︑と命令した︒この皇帝の布令はテーベにも達する︒郡市の人々は︑﹁神のものほ抑  

に︑カイザルのものはカイザルに﹂の抑のづ=典に従って六千六百六十六人の兵士を皇帝に送った︒これらの兵士たちは︑正義の  

戦においては皇帝を助けた︒しかしキリスト教徒に対しては武器を取らなかった︒   ディオクレティアヌス帝は︑マキシミアヌスに大軍を与ぇ︑ガリアを攻めた︒その時テーべの連隊もこのマキシミアヌスの指  

揮下にあった︒全軍がアル︒ブスを越えてオクトトールム Oct︒dOrum ︵ジュネーヴの近郊︑後のブルグンド玉田の一地方︶に到  

着した時︑皇帝は︑従軍部隊の兵士に︑ローマの神々に犠牲を捧げ︑皐帝に敵対するすべての者︑とりわけキリスト教徒な討っ  べし︑というハ脊を強要した︒これを聞いたテーベの連隊は︑本隊から数マイル程離脱し︑ロダヌ川の近くで陣を張った︒マキ  

シミアヌス帝はこれを知って椎者を送り︑命令に従うこと牽強要した︒テーベの兵士達は耐の命令を拒んだ︒怒った真滝は﹁朕  は朕に加えられた悔串だけでなくローマの神々に加えられた伽辱にも復讐する﹂と叫び︑再び佼者を送って威嚇した︒テーベの  

兵士たちは喜んで刀の下に頚を置いた︒その時マウリチウスは立ち上り︑彼らに呼びかけた︒﹁諸君らのすべてがキリストの信  

仰のために死の覚悟があることを知って私は嬉しく思う︒しかし私は今︑主がベトロに語ったバ菓を思いわこし︑そのように行  

いたいと思う︒﹃剣な刑に収めよ﹄と︒なぜならば︑我々はすでに仲閥の死体に取り囲まれているし︑衣は彼らの血で赤く染っ  

ているからである︒彼らに続いて我等もまた殉教の死を遂げようではないか︒皇帝が我等の答を聞かんと欲するならば︑次の如  

く答えよう︒﹃皇帝よ︑我々は汝の兵士であり祖国を守るために武器を取った︒裁々には裏切りもなければ不安もない︒しかし  

またキリストの信仰を捨てることもない﹄﹂︒この苓を聞いた皇帝は全軍に命じて一人残らず殺教するように命じた︒この殉教  

が行われたのは二八〇年ごろといわれている︒神の命によって彼らの多くはそこを逃げ出すことに成功し︑あるいは他の国々に  

赴いてキリストの名を輝かし︑あるいは立派な戦勝をあげることができた︑といわれている︒以上﹃貴会伝説﹄ N〜已bト馬?  

≡旨−一やヾひ曾.T︸um−Jani冨 P−e泣○司a−Wars冒宅a−冨山.の要訳である︒  

一二七   

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