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フロイス『日本史』の史料的価値──天文〜永禄年間の事例にみる──

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フロイス『日本史』の史料的価値

春期大会シンポジウム特集

「ルイス・フロイスの時代と東アジア」

フロイス『日本史』の史料的価値

──天文〜永禄年間の事例にみる──

岡本 真

はじめに

 16世紀半ばにフランシスコ・ザビエルが来日して以降、日本で活動したイエズ ス会の宣教師は、多くの書翰をヨーロッパやポルトガル領インドなど各地にいる 同志へ書き送った。それらの多くは、会員同士のつながりの維持・強化や、活動 を支えることを目的として、イエズス会の規則にもとづいて作成されたもので、

1579年に来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノによる制度改革を契機に、基 本的には年報へと集約されていく(1)。今日、その原本や写本は、ローマにあるイ エズス会文書館をはじめ、ポルトガル国立図書館やアジュダ図書館、科学学士院 図書館など各所に所蔵されている。また、1598年に出版されたエヴォラ版など版 本にも、少なからぬ書翰が収録されている。こうした書翰に記載された情報は、

ある出来事からそれほど月日が経過しないうちに執筆されたと考えられ、また執 筆者自身の体験を記したものも少なくなく、概してその記述の信憑性は高いと言 える。ただし、前述の諸本のうち、エヴォラ版を中心とする版本については、そ れを主な底本とした日本語訳が刊行されているものの(2)、原本や写本については、

原文の翻刻や日本語訳などの基礎作業はいまだ途上の段階であり(3)、発展的な研 究は今後に期待すべきところが大きい。

 一方、イエズス会員が記したものは書翰だけではなく、ある程度のまとまり を持った著作として今日に伝わっているものも少なくない。『日本史』や『ヨー ロッパ文化と日本文化』、『日本教会史』などがそれで、これらについては基礎作 業が前述の書翰よりも進んでおり、日本語訳の参照も容易である(4)。それらのな かでも、本稿で特に取り上げたいのが『日本史』である。同書は、ルイス・フロ イスによって編纂された日本におけるイエズス会の布教史で、1549〜1593年の部 分の現存が確認されている。フロイスは1563年に来日したので、同年以前の『日 本史』の記載はそれ以前から日本にいた他のイエズス会員の記した書翰やそうし

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験にもとづいた記述が少なくない。そのため、同書は一次史料と二次史料の側面 をあわせ持っていると言える。今日に至るまでの研究においても、キリシタン史 の視点からだけでなく、織田信長や豊臣秀吉など権力者とのかかわりや、日本に 残された史料にはない異国人の目から見た独特の記述などが注目されてきた。た だし、どちらかと言うとフロイス来日後の、自身の実体験ないしそれに近い伝聞 情報にもとづく記述に光が当てられてきており、フロイス来日以前の記述につい ては、比較的注目されてこなかった印象を受ける。

 そこで本稿では、天文〜永禄年間(1532〜1570年)の『日本史』の記載のう ち、1551年のフランシスコ・ザビエルの堺滞在と、1559年のガスパル・ヴィレラ の近江来訪に関するものを、他のイエズス会関連史料などと比較することで、そ の史料的価値の一端に迫りたい。

1.フランシスコ・ザビエルの堺滞在

 フランシスコ・ザビエルがキリスト教を1549年に日本へ伝えたのは、周知のこ とである。そして、来日後の彼が薩摩から平戸、山口や堺を経て上洛したことも また、よく知られている。しかし、ザビエル自身がその行程を述懐したものはご く一部であり、そうしたものは簡潔に記されているため(5)、より詳しい事柄を知 るには、フロイス『日本史』や、ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』(イエズ ス会本部からの指示により、ロドリゲスが主として1620〜1622年に執筆し、その 後増訂したもの)など、後代の記述に依拠する必要がある。実際、ザビエル上洛 の行程は、そうした史料にもとづいてゲオルク・シュールハンメル師や松田毅一 氏によって推定されている。それによると、1550年10月末に平戸を出発して山口 へ向かい、同所を12月17日出発し、12月下旬に厳島を経て瀬戸内海航路を進み、

1551年1月上旬に堺に到着し、そこから京都にのぼって1月中旬から下旬の11日 間滞在し、その後3月に平戸へ戻ったとのことである(6)

 このザビエルの上洛に関して本稿で取り上げたいのは、堺滞在に関する事柄で ある。まず、『日本史』には、ザビエルの同行者フアン・フェルナンデスがフロ イスに語ったことや、フェルナンデスの死後に見つかった書類にもとづいたこと として、以下のように記されている(7)

メストレ・フランシスコ師(ザビエル)には、その聖なる、そして確乎たる 決心を実現するためには山口から都への旅を続けることが必要だと思われ た。そして一五五〇年の末、降誕祭の八日前に、それまで見たことも知りも しなかった旅路についた。(中略)途次、一行が立ち寄ったある港で、一人

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フロイス『日本史』の史料的価値

の身分の高い男は、司祭が天竺から来た者であることを聞いた。そして彼は 司祭が異国人で貧しい様子であるのを見て同情し、結婚して堺に住んでいる 友人に宛てた書状を彼に与え、その中で、誰か都へ行く人があれば彼を伴わ せてほしいと依頼した。この依頼された人は、一行を自分の家に泊らせ、一 人の身分の高い貴人がちょうど都へ赴こうとしているのを聞くと、彼らをそ の人のところへ連れて行った。それは彼らが彼の伴侶となって旅行し、そう することで道中での多くの通行税や盗賊から煩わされないようにするためで あった。その貴人は小姓や馬丁たちを従えて駕籠に乗って旅をし、メスト レ・フランシスコ師は、シャム帽を頭に結びつけ、かつてどこでも見せたこ とがないような深い喜びを示しながら、一行の間を駆けて行った。積雪は非 常に深かった。かくて司祭は堺と都の間の十八里を駆け足で進んだのであっ た。

この『日本史』の記載にもとづくと、ザビエルは道中立ち寄った港において、身 分の高い人物から堺に住むその友人へ宛てた紹介状をもらい、堺ではその友人の 家に宿泊し、さらにはその友人の伝手によって、上京の際に貴人に同行する機会 を得たということになる。旅の途次で知り合った人びとが図ってくれた便宜のお かげで、ザビエルの堺滞在は順調だったと理解されるのである。

 なお、ここに見える堺で宿を提供した人物に関連して、ザビエルよりも半世 紀ほど後に日本で宣教に従事したペドロ・モレホンは、以下のように記してい る(8)

小西弥左衛門レオンは、既述のドン・アウグスティン(小西行長)の娘婿 で、古い書翰において大変有名な、堺の重立った市民、了珪ディエゴ(日比 屋了珪)の孫である。その(了珪の)両親は、日本の聖なる使徒である聖フ ランシスコ・ザビエルを、その家に宿泊させた。

小西弥左衛門レオンの血縁関係に言及したこの記述によると、弥左衛門の祖父は 堺商人日比屋了珪で、了珪の両親は堺でザビエルを泊めたとのことである。した がって、了珪の父こそが、前掲の『日本史』に記された堺に居住する紹介状の名 宛人だということになる(9)

 一方、同じザビエルが堺に至った際のこととして、ロドリゲス『日本教会史』

には、次のように記されている(10)

この道中で数知れぬほどの肉体的な労苦と危険と困難を重ねて、彼らは堺の 都市に着いた。(中略)ここでも、人々は福者パードレ(ザビエル)たちの そのような(貧しげな)様子を見ただけで情容赦もなく扱い、彼らに宿を与 えようという者を見つけることはできなかった。人々は道路で声高に笑っ て、彼らを嘲ったり冷かしたりして、彼らを少しも休ませようとはしなかっ

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らなかったので、彼らは市外へ出て、そこの松林に行った。それは住吉大明 神という有名な神の松林であった。福者パードレたちはその中の一本の松の 木の根元に、ひろってきた数枚の古ござで小屋を作り、その中に宿泊したの である。そこに、都市の子供が彼らを見るため群れをなしてやって来た。そ して悪口や罰当りの言葉をさんざん浴びせながら、石を投げつけ、彼らにひ どい乱暴をはたらいた。このように彼らはすべての人にとって嘲笑の的と なった。(中略)こうしてこの土地(堺)では教えを説くことができないと 知ると、彼は都へ向かって出発した。

この『日本教会史』にしたがうと、堺で宿を提供する者がいなかったために、ザ ビエルは住吉社の境内の松林に宿ることを余儀なくされ、さらに堺滞在中によか らぬ扱いをうけ、同所における宣教の不可を悟り、京都へ向かったということに なる。

 これら『日本史』と『日本教会史』の記述は、同じ出来事を語ったものである が、そこから読みとれる事柄は正反対と言っても差し支えないくらいに差異があ る。この点については先行研究でも取り上げられており、ゲオルク・シュールハ ンメル師は、『日本教会史』を著したロドリゲスには、しばしば無批判かつ誇張 的で、脚色する傾向がみられるものの、単に逸話を創作するようなことはしない として、同書の記述に一定の信憑性を置いた。そして、両書の記述を折衷して、

ザビエルらは遅い時刻に堺へ着いたため、到着初日には紹介状の名宛人を見つけ られず住吉社の松林に泊まり、翌朝に名宛人である日比屋の家の在処を見つけた のだと説明した(11)

 これに対し松田毅一氏は、日比屋邸は港の正面の町内に位置していたので、到 着時にそれを見出し得なかったとは考えられないとして、シュールハンメル説を 批判した。そして、日比屋了珪がイエズス会の強力な支援者であったことから、

フロイスは、ザビエルと日比屋の関係を叙述するにあたり、叙述のもととなった フアン・フェルナンデスの手記に、脚色を施したのではないかとした。そのうえ で、やはり『日本史』と『日本教会史』とを折衷し、ザビエルは日比屋宛の紹介 状を携えて堺に着き、港の正面にあった櫛屋町の邸に日比屋の当主を訪問したが 冷遇をうけ、住吉神社の松林で仮眠せねばならならず、その一方で日比屋は、不 穏な道中の危険から安全であるよう、ある武士に伴って上洛できるように取計 らったのだという説を提示した(12)

 これら両説について卑見を述べると、まずシュールハンメル説については、

『日本史』と『日本教会史』の記述双方を整合的に解釈するべく、堺到着時刻が 遅かったことが原因で、到着当日と翌日以降とで宿泊先が異なったとの見解に

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フロイス『日本史』の史料的価値

至ったものと推察される。しかし、そのように考えるべき根拠は、どちらの史料 中にも見出されない。一方、松田説にしたがえば、日比屋は冷遇したザビエル に、京都への上洛の便宜を図ったことになり、行動が矛盾することになるように も見うけられる。そのうえ、紹介状の名宛人である堺居住者が日比屋であること は、モレホンの記述と勘案してはじめて判明する事柄であり、それが『日本史』

自体に明示されているわけではない。それなのに、日比屋への配慮から脚色を施 す必要が、果たしてフロイスにあったのだろうか。また、脚色の可能性を想定す るならば、『日本史』だけでなく『日本教会史』についてもするべきであろう。

その記述に脚色や不正確な箇所が少なくないことは、前述のシュールハンメル師 の言及をはじめ、先学の指摘するところだからである(13)

 結局のところ、ザビエルの堺滞在について、『日本史』と『日本教会史』とで は、記述に大きな差異があることは疑いようもなく、両者を単に折衷するのみで は、整合的な解釈を導き出すことは難しいと言わざるを得ない。もちろん、松田 説のように『日本史』自体に脚色が加えられた可能性を想定することも可能であ ろう。だが、紹介状が出された経緯など、『日本史』にしか見られない情報で、

かつ脚色とするにはその動機が見出されないようなものについては、一定の信憑 性を認めるべきだと考えられる。その点において、『日本史』はザビエルの日本 での活動の詳細をうかがい知るうえで、重要な史料と言うことができよう。

2.ガスパル・ヴィレラの近江来訪

 次に取り上げたいのが、ガスパル・ヴィレラが近江へ赴いた際の記録である。

フランシスコ・ザビエルは上洛後、平戸へ戻り、山口や豊後府内で暫時布教活動 をおこない、間もなく離日した。後事を託されたコスメ・デ・トルレスは、京都 での布教を企図して、1553年に日本人修道士ロウレンソ了斎を比叡山へ派遣し た。彼がそこで心海とその門弟大泉坊乗慶と接触し、心海からの好意的な書翰を 得て豊後へ戻ると、トルレスは1559年にヴィレラを、ロウレンソ(ロレンソ)や 日本人同宿ダミアン、坂本出身のキリスト教徒ディオゴ(ディエゴ)とともに、

心海への返書を持たせて派遣したのである。

 このときの事柄については、『日本史』だけでなく、1560年6月2日付インド 管区長宛ロウレンソ書翰にも記される(14)。以下では、両者の記述を比較してみ たい。まず、同行者のディオゴに関するロウレンソ書翰の記述は、次の通りであ る(15)

坂本と呼ばれる村にあるディエゴの家に到着しました。そこは、多くの僧院 を擁する、そして日本全国の宗派と学者の長がいる、比叡山と呼ばれる山の

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ここには、ディオゴの家が坂本にあることについて、ごく簡単に記されている。

そして、それ以外の情報はなく、彼がどのような人物であるかは記されていな い。

 一方、『日本史』には、次のように記されている(16)

豊後からは、司祭(ヴィレラ)、ロレンソ、ダミアンとともに、道中の案内 役としてディオゴという一人の日本人が旅をした。彼はシナの島であるサン ショアンでキリシタンになった人で、結婚しており、比叡山の麓の坂本とい う地に住んでいた。

ここには、ディオゴについての情報が、前掲のロウレンソ書翰よりも豊富に記さ れている。それによると、彼は広東沖のサンショアン(上川島)で受洗したこと がわかる。当時、明の沿岸地域では倭寇の活動が盛んになっており、密貿易が活 性化していた。恐らくディオゴもそれに参加していた商人で、サンショアンを訪 れたイエズス会員から洗礼を受けたものと考えられる。一般に、倭寇との関係で は、主として九州地方の人々が注目されることが多いが、この記述は近江在住の 人物がそこに加わっていたことを示すものとして興味深い。

 さて、このディオゴの案内により近江を訪れた時、先年トルレスへ書簡をした ためた心海はすでに死去していため、ヴィレラ一行は大泉坊乗慶に面会した。そ の際の大泉坊の勧めとそれをうけたヴィレラらの行動について、ロウレンソの書 翰には次のように記されている(17)

パードレ(ヴィレラ)は翌日彼(大泉坊)の許に行き、私(ロウレンソ)を 交えて彼と対話し、彼と共にその弟子の僧侶達三人もそれを聴きました。彼 等は理解を示し、我々の教え(キリスト教)を弘めるためには、まずこの比 叡山の仏僧の長老(天台座主)に会う必要があり、長老の従者である貴人の 仏僧が、我々をその者の許へ連れて行くであろうと語りました。パードレは ただちに、長老(天台座主)への取りなしを請うため、我々〔すなわち〕私 とダミアンを連れて、七レグアの道のりをディエゴと共に、前述の貴人(座 主の従者である貴人の仏僧)の許へ向かいました。しかし、彼はパードレと 会おうともせず、一切の好意を示しませんでした。かくして我々は、すぐに 坂本へ戻りました。(中略)大泉坊の助言を得て、長老(天台座主)への取 りなしを請うために、パードレ(ヴィレラ)は比叡山の代官のような人の許 へ向かいました。彼(代官のような人)は、彼(ヴィレラ)がその教えにつ いて議論するために彼(長老)と面会することを欲するのなら、長老はそれ を嫌悪するであろう、それゆえ、それ(取りなし)を行ないたくはない。ま たその仏僧への進物を持参していないのであれば、僧院を見るためであって

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フロイス『日本史』の史料的価値

も〔比叡山へ〕連れて行くことはできない、と答えました。パードレは比叡 山で真理を説き得る手立てがないのを見て取ると、ミヤコへ向かうことに決 めました。

ここには、大泉坊は宣教のために座主に会う必要があると述べ、そのための取り なしを天台座主の従者である仏僧に求めるよう勧めたことや、ヴィレラがそれに したがって行動したものの門前払いに遭ったこと、ふたたび「比叡山の代官のよ うな人」に座主への面会の取りなしを要請したものの、宗論のためであれば望ま しくない旨や進物がなければ比叡山入山は叶わない旨を返答され、面会をあきら めたことが記されている。ヴィレラの行動は一貫して、座主への面会を試みたも のとして記されているのである。

 一方、『日本史』には、同じ出来事について、次のように記載されている(18)。 大泉坊はそれにつき、彼(ヴィレラ)に言った。「近江国主の六角殿には、

永原殿なる首席家老がおられる。その方は、比叡山を司る人で、ここから七 里のところに住んでいる。御身らがここ比叡山に滞在中、危害を加えられな いようにするためには、永原殿の書状を入手するよう努めねばなりますま い。なにぶんそれがなくては、ここでは御許らの身は危ない」と。(中略)

司祭(ヴィレラ)は伴侶たちとともに近江の湖(琵琶湖)の対岸に渡り、そ こから陸路徒歩で永原に赴き、そこで北村殿というかの家老(永原殿)の代 官に会った。司祭は彼に、主君、永原殿から自分が求めている例の保護状を 貰い受けられたいと懇願した。代官はそれにつき快諾する一方、司祭に非常 に友好的な態度を示し、自分の近所の一屋を司祭の住居として指定し、さら に翌日司祭を食事に招きたいと伝えた。そして彼は大いに好意を示して事実 そのように振舞った。食事が済むと、北村殿は、説教を聞かせてもらいたい と言った。彼の傍には五十歳代と思われる一人の仏僧がいたが、彼は大日を 拝む真言宗という宗派の人であった。(中略)仏僧はそのキリシタンの教え を聞いてひどく激昂し、つまらぬことを質問したが、司祭は容易にそれを解 き明かした。(中略)彼(仏僧)の怒りはますます募った。だが北村殿がそ のことで感じた憤怒のほどは、比較にならぬばかり大きかった。機嫌を損 い、顔色を変え、彼は側に置いていた刀を手にとって起ち上がり、一言も発 しないで奥の別室に退いた。(中略)その後まもなく北村殿は、司祭たちに、

次のようなことを言って寄こした。「御家老は多忙であられるから、御身ら はすぐにも退去されよ。御家老には十日間、誰も会うことはできない。(中 略)」と。

ここには、大泉坊は、天台座主に面会するためではなく、身の安全を得るため に、六角氏の家老永原氏から書状を得るよう勧めたと記されている。前述のロ

一九六

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訪問目的や相手(座主の従者である仏僧か永原氏か)などに差異が見られる。ま た、ロウレンソ書翰では門前払いとなった旨が記されているが、『日本史』には 直接永原氏を訪問した旨の記述はない。さらに、ロウレンソ書翰の「比叡山の代 官のような人」が、『日本史』に見られる「北村殿というかの家老(永原殿)の 代官」に対応すると考えられるが、その地位に関する情報が異なるだけでなく、

やはり要求事項が異なっている。

 こうした食い違いを見せる記述について、真偽を見定めるのは困難である。概 して言えば、ヴィレラの旅に直接同行したロウレンソの書翰と、フロイス本人の 体験ではなく伝聞にもとづいている『日本史』の当該部分とでは、前者に信を置 くのが妥当のようにも考えられる。しかし、ロウレンソ書翰は、今日ではゴアに いたイエズス会インド管区長アントニオ・デ・クアドロス宛のスペイン語文やラ テン語文、イタリア語文の形で伝わっているが(20)、もともとはコスメ・デ・ト ルレスや豊後府内のイエズス会員宛だったのがゴアへ転送されたものであり(21)、 さらにその送付にあたっては、日本語が母語であるロウレンソの一次的な筆記が 翻訳されたものと考えられる。したがって、その過程でロウレンソ書翰に誤情報 が入り込む余地がないわけではない。また、当時の六角氏の家臣には実際に永原 氏の存在が確認されるし(22)、同氏や北村氏の名がまったくの根拠なく『日本史』

に挙げられることは考え難い(23)。こうした情報は、むしろ『日本史』のみによっ て知られる、貴重な事柄と言うことができ、そうした独自の記述の存する点が、

フロイス来日以前の記事も含む、同書の有用性を示していると言えよう。

おわりに

 本稿では、ルイス・フロイス『日本史』の、特にフロイス来日以前の部分のう ち、フランシスコ・ザビエルの堺滞在と、ガスパル・ヴィレラの近江来訪という 2つの具体的事例をもとに、同書と他史料との比較を通じて、その史料的価値に 言及してきた。誤解のないように述べておきたいが、本稿では他史料との差異の 顕著な事柄のみを取り上げたものの、『日本史』には、フロイス以外のイエズス 会員の書翰にもとづいた記述も少なくなく、すべてにおいて著しい差異が認めら れるわけではない。それでもあえて差異に着目したのは、他の史料と整合性のと れない『日本史』の記述には、前述のように、単にフロイスによる脚色や創作と は言えない情報も含まれているからである。

 研究をおこなうにあたって史料自体に批判や検証を加えることが必要なのは言 うまでもないが、それでも『日本史』の独自の記述には興味深いものが多い。そ

一九五

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フロイス『日本史』の史料的価値

れらについては、書翰など他の関連史料や、日本の史料などと対比検討しつつ も、積極的に利用していくべきであろう。

(1) 五野井隆史「日本イエズス会の通信について──その発送システムと印刷──」

(『東京大学史料編纂所研究紀要』11、2001年)。なお、本稿では特に日本について 言及しているが、こうした通信は在日本イエズス会員のみに限られたものではない。

(2) 松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第1〜3期(同朋舎出版、

1987〜1998年)。

(3) 1547〜1562年 の 書 翰 に つ い て は、Ruiz de Medina, Juan, S. J. (ed.), Documentos del Japón (Rome: Instituto Histórico de la Compañía de Jesús, 1990-1995) において、校訂を 加えた原文翻刻がなされている。また、1547〜1561年の書翰については、東京大学 史料編纂所編纂『日本關係海外史料 イエズス会日本書翰集』(東京大学史料編纂 所、1990〜2018年)に原文翻刻と日本語訳がなされており、続刊も予定されている。

(4) 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』第1〜12巻(中央公論新社、2000 年、初出1977〜1980年)、岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波書店、

1991年、初出1965年)、江馬務ほか訳注『日本教会史』上・下(『大航海時代叢書』

第1期9・10、岩波書店、1967〜1970年)など。このうち本稿で主として取り上げ る『日本史』は、異なる内容の写本が複数存在しており、その一部については従前 からその翻刻や日本語訳がなされてきたものの、現在知られている写本の内容をま とまった形で参照できるようになったのは、Wicki, Josef, S. J. (ed.), Historia de Japam, Vol. 1-5(Lisbon: Biblioteca Nacional de Lisboa, 1976-1984)および前掲松田毅一・川崎 桃太訳書の公刊以後のことである。詳細は、本巻に収録されている伊川健二氏の論 考を参照されたい。

(5) 河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』(平凡社、1985年)93号。

(6) Schurhammer, Georg, S. J., Francis Xavier, Vol. IV, (Rome: The Jesuit Historical Institute, 1982) pp. 139-215. 松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』(風間書房、1967 年)551〜552頁。

(7) 『日本史』第1部第4章。注(4)松田・川崎訳書第1巻24〜26頁。ただし、引用 文中の丸括弧内は筆者による補足。また、典拠に付されたルビや補注などは適宜省 略した。以下同じ。

(8) 『1627年度日本殉教録』(Relation de los Mártires del Japón del ano de 1627, Mexico, 1631)

47丁表。注(6)松田書553頁、川村信三「ザビエル上洛事情から読み解く大内氏・

堺商人・本願寺の相関図──天文年間(一五三二─一五五四)「瀬戸内海リンク」

の存否をめぐって──」(『上智史学』55、2010年)24-25頁。

(9) 日比屋了珪の父について、フロイス『日本史』第1部35章にはクンドCundoとい う名である旨が記されている。これに基づき、彼はクンドやクドと呼称されたり、

またこの記載が日比屋の本姓工藤を指すとする説や、フクダFucundaの誤りである との説が示されたりしてきた。しかし、別稿で述べたように、同時代の堺の医者半 井慶友の治療記録集『半井古仙法印療治日記』に「比々屋空道」の名が見え、この 人物こそが了珪の父にあたると考えられる。岡本真「堺商人日比屋と一六世紀半 ばの対外貿易」(中島楽章編『南蛮・紅毛・唐人──一六・一七世紀の東アジア海

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(10) 『日本教会史』第3巻第16章。注(4)江馬務ほか訳注書下巻434〜436頁。ただし、

同書において訳文に併記されている、固有名詞などの原綴は省略した。

(11) Schurhammer, Georg, S. J., Francis Xavier, Vol. IV, pp. 177-180.

(12) 注(6)松田書553〜555頁。

(13) 青山玄「ザビエルの都への旅」(『キリシタン研究』15、1979年)77頁など。

(14) 『日本関係海外史料 イエズス会日本書翰集』原訳文編之4(東京大学出版会、

2018年)第131号文書。

(15) 1560年6月2日付インド管区長宛ロウレンソ書翰。注(14)書15頁。ただし編纂 者による注記は適宜省略した。以下同じ。

(16) 『日本史』第1部第23章。注(4)松田・川崎訳書第1巻48頁。

(17) 1560年6月2日付インド管区長宛ロウレンソ書翰。注(14)書15〜17頁。

(18) 『日本史』第1部第23章。注(4)松田・川崎訳書第1巻50・52〜53頁。

(19) ロウレンソ書翰の翻訳には「七レグア」とあり、『日本史』のそれには「七里」

とあるが、原文は「7 legoas」と「sete legoas」、すなわちともに7レグアとなっている。

(20) Ruiz de Medina, Juan, S. J. (ed.), Documentos del Japón 1558-1562, p. 265.

(21) Ibid., p. 264.

(22) 『禅林寺文書』永禄4年7月27日付永原重澄・永原重広連署書状など。

(23) 松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』五畿内篇1(中央公論社、1978年)62頁。

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