73 『記号の系譜』(三元社、
2008
年)、『記号の思想』(同、2009
年)、そして『近代言語イデオロギー論』(同、
2011
年)の三部作(trilogy
)につづく小山亘氏の著作、『コミュニケーション論の まなざし』は、より幅広い読者層(高校生、学部生から大学院生、ひいては研究者まで)に向け て編まれた、記号論的コミュニケーション論のための「うひ山ぶみ」である。その平易な文体は、本書があたかも「手軽な入門書」であるかのような錯覚を起こさせてしまうかもしれない。しかし、
本書はむしろ、読者に寄り添って、読者とともに歩を進めながら、記号論的コミュニケーション 論の核心へと分け入っていく「道標の書」であり、その構成自体が、記号論的コミュニケーショ ン論にもとづく一貫性と厳密性を有したものとなっている。このことに注意しながら、以下、「
1.
コミュニケーション論のまなざし」、「
2.
コミュニケーション論のための言語学の『知の枠組み』」、「
3.
コミュニケーション論の『知の回路』」、「4.
知の枠組みと回路のための15
冊」、以上の4
章 からなる本書の内容を紹介し、評者なりの簡単な注釈を付すことを試みたい。そもそも、「学問」とはいかなる営みか。本書の冒頭において、ともすればコンテクストに埋 没した生活を送っているかもしれない初学者たちに潜在的に宿る「学問」への導火線に火をつけ んとするのが、「
1.
コミュニケーション論のまなざし」である。著者はまず、高校までの(ルー ティーン化された)「勉強」や(高校の延長としての「勉強」、サークル活動、「就活」がとかく 中心となってしまいがちな)大学生活といった、卑近な営みを出発点に据える。そして、これら の卑近な営みについて、「総合/専門」「抽象/具体」「理論/経験」という、学問的まなざしに 共通する(対照)ペアを通じて考えることが可能であることを示しながら、「大学」という場所 が保障する自由への、自己理解・自己分析への扉を内側から開いてゆく。その扉の先には、多角 的認識、全体性、真理の探求、あくなき自己理解という特質を有する、大学での「学問」として の「コミュニケーション論」がある。すなわち、「個人」や「言語」、「コミュニケーション」に 関する自文化中心主義的な理解を超え出でて、日常的な経験に対するさまざまな解釈の可能性を 認めたうえで、「終わりなき経験的調査4 4 4 4 4と容赦ない理論化4 4 4」を行う営為としての「コミュニケーショ ン論」に、著者は読者をいざなう。では、「終わりなき経験的調査
4 4 4 4 4
と容赦ない理論化
4 4 4
」という二つの軸が「学問」の中心にあると するならば、具体的に、「学問」という営みはどのような姿を呈するのか。「
2.
コミュニケーショ ン論のための言語学の『知の枠組み』」は、「言語学」という一つの学問分野を例に、前章にお ける批判的視点の萌芽を徐々に、学問の、記号論の語りへと変容させていく。本章でははじめに、社会と心理を結びつける「視点」、あるいは「視点」と「コミュニケーション・モデル」をつな げる「メタ語用」という概念が導入される。つづいて、「メタ語用」、換言すれば、「コミュニケー
小山 亘 著
『コミュニケーション論のまなざし』
(三元社、
2012
年、四六判、218
頁、1,700
円+税)榎本剛士
74
ICR 榎本剛士
ションについての(特定の「視点」からの)理解」という切り口から、言語の全体への〈まなざし〉
である言語学が内包するさまざまな「区別」や「程度(度合い)」とそれにもとづく術語が紹介・
解説されていく。それら主な「区別」・「程度(度合い)」とは、(
1
)「文法」と「言語使用」、(2
)「コミュ ニケーション出来事のなかで何が言われているか」と「コミュニケーションの場面の社会的性格・コミュニケーション参加者たちのアイデンティティや権力関係(何がなされているか)」、(
3
)「意 味」のコンテクスト依存性、(4
)「言語」と「方言」である。このような基本的な区別にもとづいて、(
1
)「言語学」(が扱う範囲)と「語用論」(が扱う範囲)、(2
)「言及指示」と「社会指標(相互行為)」、(
3
)「文法的意味」「文化的意味範疇」「ダイクシス」、(4
)「言語共同体」と「語用共同体」といっ た、「言語学」を構成するさまざまな概念が「言語学の概念体系」として、原理的な整合性をもっ て提示される。さらに、こうした区別は、「抽象的なモデル(概念・象徴)の次元」と「じっさ いに起こっていること(出来事)の次元」、「コンテクストとは比較的関係なく特定・措定できる 次元」と「コンテクストに比較的依存したかたちで(のみ)特定・措定できる次元」と言い換え ることもできるであろうが、これらの基点に「オリゴ」があるというのが、本書の勘所である。「オ リゴ」を中心とした「指標性の大小」という記号論的母型に、「コミュニケーション、方言、言 語構造、普遍文法」という言語の全体が的確に位置づけられ、このような体系的な理解のなかで、「語用」と「言語構造」とのあいだの(歪んだ)相互作用としての「言語変化」の内実が解かれる。
本書の第
2
章ではこのように、「学問」が(美しいほどの)全体的整合性を宿した営為である ことが示されるのだが、では、その「構成」は、どこに投錨されているのか。「3.
コミュニケーショ ン論の『知の回路』」は、「学問」から「学問の可能性の条件」へと想像力を飛躍させることを通じて、われわれがその中で思考・行為している「コミュニケーション・モデル」と、それが「もっとも らしいもの」として現れることを可能にしている社会の枠組みを直視するための章である。本章 では、「コミュニケーション・モデル」というものが「視点」に関わる「メタ語用的」なモデル であることを確認したうえで、「情報伝達モデル」「
6
機能モデル」「出来事モデル」の三つの「コ ミュニケーション・モデル」が示される。「情報伝達モデル」は、われわれにとってわかりやすく、きわめて「自然」にみえるのだが、そのような「見え」は、「コミュニケーション」が本質的に「情 報伝達」であることではなく4 4、そのような「モデル」のリアリティを支える社会のありようにむ しろ起因することに、著者は強い注意をうながす。そして、コミュニケーション出来事に参与す る(メッセージの送り手・受け手を含む)要素の「視点」を焦点化することを可能にする「
6
機 能モデル」が、とくにコミュニケーションと社会文化とをつなげる「詩的機能」に力点をおいた かたちで紹介されたのち、文法とコミュニケーション出来事を統合する「出来事モデル」とその 基本テーゼが、「チャールズ・パース」「ロマン・ヤコブソン」、そして「ヤコブソンに学んだ言 語人類学者たち」という系譜とともに、開示される。ついで、前章で詳細に説明された「文法」、「意 味」、「語用」がいかにして「コミュニケーション出来事」に投錨されたものであるといえるのか、言い換えると、三者がいかにして「オリゴ」に投錨された体系をなしているのかが、「出来事モ デル」を経由したうえで再訪される。また著者はここで、「本書を読む」という行為自体がコン テクストに根ざした出来事であることに対する認識、そして、そのことに対する著者自身の想い も書き記している。これまでの「三部作」では「あとがき」で表されることが多かった、「冷徹」
に徹しつづけることでしかたどり着けない、真に人間的な温かみが、そこには垣間見える。
さて、「学問」という営為の「構成」が「コミュニケーション出来事」の地平に投錨されてい ることそれ自体に、「学問」に従事するわれわれはどのように巻き込まれていく(いけばよい)
のか。本書を締めくくる「
4.
知の枠組みと回路のための15
冊」を単なる「文献案内」としてと75 書評
らえることがやや短絡的であることは、本書を根気強く読み進めた読者にとっては明白であろう。
この「文献案内」では、本書で繰りかえし言及・解説されてきた「言語」や「言語と社会文化と のつながり」といった問題についての書物がいくつか、それらがどのような「視点」から書かれ たものであるかに関する著者の簡単な解説とともに、紹介されている。「著作」にまつわるいか なる実践・行為も、「なぜ、そのように書く(書かれている)のか」という認識をその著者・読者 が欠いてしまえば、それは本書の冒頭で示された、多角的認識、全体性、真理の探求、そして自 己理解という、「学問」の特質に反する実践となりかねないことが、「文献案内」という形で示さ れている。
以上ここまで、本書のきわめて厳密な内容を、非常に素描的にではあるが、示した。本評を終 えるにあたり、本書が開陳する記号論的コミュニケーション論の視点から、本書の内容ではなく、
「本書を読む」という行為について、著者自身の言も借りながら、注釈を施してみたい。
本書全体を通じて、「コミュニケーション出来事」の中心には「オリゴ」があることが論じら れ、かつ、なされているのだが、本書の最終部で強調されているとおり、「本書を読む」という 行為自体が、特定の「オリゴ」に根ざした実践であり、プロセスである。上述のとおり、本書は、
高校までの「勉強」や「大学生活」という、想定されている読者にとって身近な(指標性の高 い)コンテクストを確認することからはじまる。そこから、「自分が実生活で関わっている事柄 について、そして自分自身について突き放して、客観的に、大きな視野の中に収めた理解」をす ることをめざして、「言語学」という「学問」の具体的な現れ(トークン)へと視点が移行し、そ して、そのような「学問」のかたちの母型的コンテクストとなっている「コミュニケーション出 来事」へと、さらに視点が転移していく。そして最終的に、読者が「今・ここ」で従事している、
「(本)書を読む」という行為に向かって一気に、その視点は急降下してくるのである。つまり、「本 書を読む」という実践(言語使用)を通じて、「本書を読む」という行為の意味そのものが問われ、
そして、それがなされている「今・ここ」で読者が置かれているコンテクストが読者の数だけ、
読書という行為の数だけ再構築される、このことについて、再帰的に言及しつづけるのが、本書 である。
「本書を読む」という行為を通じていかなる「テクスト」が創出されようとも、それが、本書によっ て媒介される実践の帰結である。つまり、「本書を読む」という行為(コミュニケーション)は、
それが起こる数だけの「オリゴ」に投錨されており、その「オリゴ」を基点として、それが起こ る分だけのコンテクスト化の作用とテクスト生成のプロセスをつねに、新たに、生み出していく のである。本書は、そのようなプロセスの只中に巻き込まれることを覚悟で、むしろそれを予期 して、著者が「投じた」ものであるといえるだろう。著者自身、読者、そして本書は、それを書く、
読む、それについて書く、それについて書かれたものを読む、といった実践を通じて多種多様な コンテクストとつながることで、動的に(再)構築されつづけていく類の存在(にすぎないもの)
であることは、本書が十全に示すところである。しかし、だからといって、そのような存在とし ての「個人」に絶望せず、投げやりにならず、容赦のない、あくなき相対化のまなざしを何より も自分自身に向けていくこと、高校生や大学生を読者に想定した本書がもし「教育的」であると するならば、そこに、本書の本領があるのではないだろうか。
そして最後に、言いたい。本書を読んだ(とくに学部の)学生は、「厳しい現代社会のなかで、
若者が『学問』という営為に自ら身を投じることに一体、何の意味があるのだろう」と問うかも しれない。たしかに、そのとおりなのかもしれない。それが、本書と多くの読者とのあいだに紡 がれる「テクスト」なのかもしれない。しかし、「学問」を志した一介の研究者・大学人はみな、
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ICR 榎本剛士
この疑問に対する何かを、微塵の妥協なく、示さなければならないのだと思う。その意味で、難 解な「三部作」につづく本書、『コミュニケーション論のまなざし』の向こうには、まさに高山 の如くそびえ立つ、後進が望むべき著者、記号論者の大きな背中と矜持がある。