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生徒の主体性を考える「教育課程論」

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<論文>

生徒の主体性を考える「教育課程論」

―授業実践とその分析―

宮島 基

1.本論文の主題と目的

本稿は、筆者が2009年にA大学において行った「教 育課程論」の授業をもとに、この授業実践を通して学 生たちがどのような学びを経験したのか、当初のねら いに対してどのような結果に至り、それは授業実践と してどのような意味があったのかという、授業計画・

授業実践とその帰結について分析を行うものである。

「教育課程論」という科目は、教員免許法および教 育免許法施行規則に従って、大学の教職課程において

「教職に関する科目」として設定された科目である。

教職を志す学生たちが、「教職課程論」の授業を受ける 中でどのような気付きや変化を経験するのか、そして どのようにして教員になっていくのかということは、

教員養成という面においても教育学的にも丁寧に考察 されるべき課題であることは間違いない。ただ、大学 の教職課程科目の個々の授業について、教員が自らの 実践を分析する研究は多くはない。そこで本稿では、

教育課程論で扱うべき内容とその課題を整理するとこ ろから始めたい。その上で本授業が具体的にどのよう に実践として展開されたのかについて分析を進めてい く。

まず2節では、「教育課程論」が何を課題とし、授業 として何が到達目標として設定されるのかを整理する。

3節では、それに則って授業の方針をどのように立て たのかを整理する。筆者(=授業者)が受講学生の様 子をどのように捉えていたのかもそこで描かれる。4 節では、半期15回の授業の流れを説明し、5節では 授業の最終レポートについて考察し、授業全体のまと めとなる本レポートの分析を通して、この授業が狙い としたものがどのような形で学生に引き取られ、そこ でどのような学びが生じたのか、またどのような課題 が浮かび上がったのかを考察する。なお、個人の特定 を避けるため、本稿に登場する人名等の名称は、教材 として取り上げた埼玉県立浦和商業高校定時制課程の 生徒名を除いて全て仮名である。

2.教育課程論の課題

授業を始めるにあたって、筆者が教育課程の何を課

題と捉え、授業の目標をどのように設定したのかをま ずは整理しよう。

「教育課程」に関するテキストの中には、その導入 部分において「教育課程」と「カリキュラム」という 言葉の関係について説明するものが少なくない。例え ば教育課程は英語カリキュラムcurriculumの翻訳語 であると紹介されるが(田中2005、伊藤2010など)、 安彦(2002)によれば教育課程とカリキュラムは同義 ではなく、それらは歴史的に使い分けられ、しかも近 年はカリキュラムという言葉がよく用いられていると いう。

安彦はその理由を二つ挙げている。一つは、「受験教 育」や「詰め込み教育」として批判される日本の学校 の「教育課程」を、「子どもの生活経験」や「生活歴」

に注目するアメリカ的な色合いの強い「カリキュラム」

という視点で捉え返そうという風潮があるためである。

もともとカリキュラムとは、ヨーロッパの大学におい て教育内容の順序・期間・修了を明確に統制するもの、

つまり「合理的で明確なコースを意味するもの」

(ibid.12)であった。だが近年では、特にデューイに

よる新教育や児童中心主義の教育を通して、子ども自 身の経験の総体、さらには学ぶ主体に即した意味が強 調されて来ており、そうした意味合いを含むものとし てカリキュラムという語が用いられているというので ある。

もう一つは、「教育課程という用語のもつ『計画』レ ベルでは予想できなかった『結果』レベルのもの、結 果として子どもが身につけたものを重視しようとする

動き」(ibid.12)によるものである。意図せずに生じ

る「潜在的カリキュラム」という言葉の用いられ方に 見られるように、カリキュラムとは結果レベルの用語 だというのである。教育課程の捉え方をめぐるこうし た近年の傾向から、安彦はその違いについて、「教育課 程は計画レベル、カリキュラムは結果レベルを見よう とする用語である、との意味の性格の違いから来てい ると言ってよいであろう」(ibid.13)と述べている。

さて、このように安彦は、教育課程とカリキュラム は異なる意味合いをもつとして論じているわけだが、

(2)

20 ここで注目したいのは二つの言葉の厳密な使い分けや 棲み分けの検証ではない。重要なのは、教育課程とい う用語が意味してきたものの理解やその議論の前提が 変化してきたということである。すなわち、もともと は「コース」や「計画」といった、いわば教える側の ねらいや目的を意味するものとして用いられてきたも のが、次第にそれに留まらない、子どもの主体性や教 育の結果までをも含めて論じられるようになってきた のである。

一点目の、「主体性」という側面が強調されるように なったことに注目してみよう。以前の教育課程が、国 家・学校・教師といった「指導する側」が統制するコ ースを意味したということは、「学ぶ側」の子どもはそ れを受け取る立場として理解されてきたといえるだろ う。つまり教育課程は、いわば教える側の問題として 想定されていたとさえいえ、そしてそれが近年では教 える側の問題に留まらない、学ぶ側の役割が議論の対 象に含まれるようになったということである。

だが、「学ぶ側」の主体性を重視すると一口にいって も、その中身は自明ではない。学び手である子どもが、

指導する側が計画する教育課程に対して、どのように 主体的な位置づけをもち得るのかということは大きな 問題なのである。例えば柴田(2010)は、教育課程編 成の主体は誰かを論じる中で次のように述べている。

第一に、教師の教育活動に直接にもっとも大きな影 響を及ぼすのは、教育の対象である児童・生徒であ る。児童・生徒たちに受け入れがたいような教育活 動の計画は失敗とならざるを得ない。児童・生徒の 理解度、彼らの要求や関心・興味を、常に何らかの 程度は考慮に入れて教育課程は編成せざるを得ない のである。(ibid.8)

柴田はこの後で、第二、第三の要因として学習指導 要領、教科書といったものを挙げるが、では第一の主 体であるその児童・生徒は、教育課程においてどのよ うな形で主体になり得るのか。柴田は、例えば児童中 心主義的なあり方について次のように検討している。

柴田によれば、「わが国戦前の学校の教育内容選定にお いては、国益・国家的必要が極度に強調されていた。

それは超国家主義の教育とも呼ばれ、戦後の教育改革 において厳しく批判されたことは周知の事実といえよ う。かわって、戦後の民主主義的教育改革において特 別に重視され、教育内容選定の基準ともされたのは、

児童・生徒の必要や興味であった」(ibid.23)。デュー

イらを中心に児童中心主義を整理しながら、柴田は児 童中心主義的教育について、「児童の生れつきもってい る自然的本性を内部から展開させること、成長させる ことであって、外部から何かを与えようとするもので は な い と い う 教 育 観 、 そ し て 発 達 観 を 表 す 」

(ibid.26-27)と述べている。だが、旧教育を批判し

ながら変革の重点を教師から児童へ移動させたのは、

「問題の本質を見誤るもの」であった、と柴田は論じ ている。「児童中心の教育によって、詰め込み主義の教 育は否定され、子どもはある程度解放された。しかし、

子どもはどこへ導かれていくのか。目標のはっきりし ない教育は無力である」(ibid.32)というのである。

つまり戦後の教育課程は、戦前のものとは違い、国家 が教育内容を全て決定するのではなく、子どもの「自 然的本性」に目を向けるようになった。ところがそれ は、結局のところ教育内容の方向性すら曖昧にするも のであり、認めることはできないと柴田は結論付ける のである。

要するに教育計画として理解されてきた教育課程は、

教える側中心の教育計画としての位置づけを脱し、子 どもの主体性を重んじようとしている。ところが、そ れがどのように達成され得るのかは、必ずしも自明で はないのである

教育課程の捉えられ方の変化について安彦が示した 二つ目、結果レベルの教育課程という点からも問題を 整理してみよう。教育課程を教育計画に留まらないも のとして論じているのは、田中(2005)も同様である。

田中によれば、教育課程とは「子どもたちの成長と発 達に必要な文化を組織した、全体的な計画とそれに基 づく実践と評価を統合した営み」(ibid.11)であり、

この定義には「『教育課程』を単なる『計画』にとどめ ておくことでは不十分であるという教育経営の見解を 投影してい」る、という。それは教育に関する計画で ある一方で、学び手である子どもを含めた実践と評価 の統合であるというのである。だが、「全体的な計画と それに基づく実践と評価を統合した営み」としての教 育課程とは具体的にどのようなものか。特に、「実践と 評価の統合」という言葉には、やはり学び手である子 どもの存在をどのように位置づけるのかという問題が 含まれているように見える。

例えば教育課程編成を考える上では、教育を「制作」

と捉えるのか「実践」と捉えるのかという相違がある といわれる。評価に関しても、「工学的接近」と「羅生 門的接近」といった見方が知られている。例えば西岡

(2005)は、目標準拠的な評価は合理主義・実証主義

21 的な子ども理解を前提としているが、「教育課程評価に おいても、ある程度『ゴール・フリー評価』を取り入 れることが必要」(ibid.191)と述べている。その一方 で西岡は別の場所で、「羅生門的接近においては、設定 される教育目標がオープン・エンドで一般的なものに とどまるため、この働きかけを効果的に計画すること ができなくなるのではないかという疑問が残」るとも

述べ(ibid.171)、結局は、「教育評価は本来教育の成

否を評価するものであり、意図した子どもの発達がも たらされたかどうかを点検することが最も重要」

(ibid.191)として、教育課程評価の中核に授業成果

の評価を位置づけるべきと述べている。

このように、結果としての教育課程をめぐって評価 のあり方を整理してみても、それは計画通りに進んで いることを評価するのか、あるいは子どもの多様性に 沿った評価を重視するのかによって大きく異なるので ある。特に後者の場合、それは具体的に何を評価する ことになるのかも問われることになる。そしてそれは、

一点目の問題とも相関してくるだろう。教育課程にお いて子どもの主体性はどのように達成されると考えら れるのか、それはその子どもの多様性をどのように評 価するのかということと密接に関係しているのである。

要するに、教育課程は教育計画として捉えられてき た側面があり、またそのように現在も理解されている 側面が多分にある。だが、一方でそれを脱するものと して教育課程のあり方が想定され、模索されてもいる。

例えばその一つが子どもの主体性を重んじようとする 教育課程のあり方であり、あるいは子どもの多様性に 即した評価をしようとする教育課程のあり方である。

ところが、その具体像は自明ではない。教育内容を子 どもに全て丸投げしてしまうような教育課程や、教育 目標が完全に「オープン・エンド」になってしまう教 育課程までが認められているわけではないのである。

では、そうではない教育課程のあり方とはどのような もので、そこでは子どもたちはどのように主体性や多 様性が重視され得るのか。そして、そこでの教師の役 割とは何なのか。それは教育課程における根本的な問 題である。

さて、以上のような問題意識をもって大学の教職課 程における教育課程の授業を計画する際、何を獲得目 標とすればよいだろうか。教職課程論の課題の方向性 として、児童・生徒にとっての望ましい教育課程のあ り方を考えることが必要であろうが、それは上記のよ うな教育課程論の課題を踏まえるならば、まずどのよ うなものが教育計画として設定されているのかを知る

必要が出てくる。そしてその一方で、教育計画に留ま らない、例えば児童・生徒が主体的に学びに参加でき る教育課程とはいったい何かといった問題も生じてく る。つまり、既存の教育計画に依存するのでもなく、 あるいは教育内容全般を丸投げにするのでもない、そ れぞれの子どもが主体的に存在する教育のあり方とは どのようなもので、そうした子どもの主体的な学びに 向けて、教師は何をする必要があるのか。教育課程論 において獲得されるべきは、そうした教育課程論にお ける本質的な問いを理解し、子どもたちの主体性を支 えるための力量をつけることといえる。あるいは、実 際の教室空間から離れた大学の授業であるという制約 を考慮すれば、少なくともそのための視点を獲得する ことが求められると考えられるだろう。

そこで本授業では、授業計画を以下のように設定し た。最終的なテーマは、「望ましい教育課程とはどのよ うなものか」である。この問いに答えるためには二つ の視点を踏まえなければならない。第一には、学習指 導要領や教科書をはじめとした教育内容・教育計画の ガイドラインの存在と役割を知ること、そしてそのね らいや目標を理解することである。特に教師として教 育課程を編成していくためには、教育制度・政策、教 育法規、あるいは学校現場がどのように教育内容を規 定し決定しているのかについて学ばなければならない。 そして第二には、教育を受ける児童・生徒たち自身が、 それぞれの環境の中でどのようなニーズをもち、具体 的にどのように変化・成長しているのかを知ることで ある。特にこの二点目に関しては、普遍的・一般的な 子ども像を知るというよりは、個別的で多様な子ども がそれぞれの学校実践・授業実践を通して具体的にど のような学びを経験しているのかを読み解く視点を獲 得することが重要である。とりわけ実践を通じた子ど もたち自身の学びに関しては、計画されていた授業内 容がどのように学びとられているのかととともに、学 び取られていないものや、学校や教師の教育計画から 外れたところで子どもたちが独自に展開したものまで を含めて、その実態を知る必要がある。本授業では、 そうした具体的な姿を読み解く観点を養うことを課題 として設定した。

3.授業のねらい、および受講学生について 授業の教育課題を上記のように想定するにしても、 授業自体は受講生の条件やニーズも考慮しなければな らない。教育課程に関わる問題意識のみに基づいて授 業を設計するのではなく、例えば受講学生の学年や教

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20 ここで注目したいのは二つの言葉の厳密な使い分けや 棲み分けの検証ではない。重要なのは、教育課程とい う用語が意味してきたものの理解やその議論の前提が 変化してきたということである。すなわち、もともと は「コース」や「計画」といった、いわば教える側の ねらいや目的を意味するものとして用いられてきたも のが、次第にそれに留まらない、子どもの主体性や教 育の結果までをも含めて論じられるようになってきた のである。

一点目の、「主体性」という側面が強調されるように なったことに注目してみよう。以前の教育課程が、国 家・学校・教師といった「指導する側」が統制するコ ースを意味したということは、「学ぶ側」の子どもはそ れを受け取る立場として理解されてきたといえるだろ う。つまり教育課程は、いわば教える側の問題として 想定されていたとさえいえ、そしてそれが近年では教 える側の問題に留まらない、学ぶ側の役割が議論の対 象に含まれるようになったということである。

だが、「学ぶ側」の主体性を重視すると一口にいって も、その中身は自明ではない。学び手である子どもが、

指導する側が計画する教育課程に対して、どのように 主体的な位置づけをもち得るのかということは大きな 問題なのである。例えば柴田(2010)は、教育課程編 成の主体は誰かを論じる中で次のように述べている。

第一に、教師の教育活動に直接にもっとも大きな影 響を及ぼすのは、教育の対象である児童・生徒であ る。児童・生徒たちに受け入れがたいような教育活 動の計画は失敗とならざるを得ない。児童・生徒の 理解度、彼らの要求や関心・興味を、常に何らかの 程度は考慮に入れて教育課程は編成せざるを得ない のである。(ibid.8)

柴田はこの後で、第二、第三の要因として学習指導 要領、教科書といったものを挙げるが、では第一の主 体であるその児童・生徒は、教育課程においてどのよ うな形で主体になり得るのか。柴田は、例えば児童中 心主義的なあり方について次のように検討している。

柴田によれば、「わが国戦前の学校の教育内容選定にお いては、国益・国家的必要が極度に強調されていた。

それは超国家主義の教育とも呼ばれ、戦後の教育改革 において厳しく批判されたことは周知の事実といえよ う。かわって、戦後の民主主義的教育改革において特 別に重視され、教育内容選定の基準ともされたのは、

児童・生徒の必要や興味であった」(ibid.23)。デュー

イらを中心に児童中心主義を整理しながら、柴田は児 童中心主義的教育について、「児童の生れつきもってい る自然的本性を内部から展開させること、成長させる ことであって、外部から何かを与えようとするもので は な い と い う 教 育 観 、 そ し て 発 達 観 を 表 す 」

(ibid.26-27)と述べている。だが、旧教育を批判し

ながら変革の重点を教師から児童へ移動させたのは、

「問題の本質を見誤るもの」であった、と柴田は論じ ている。「児童中心の教育によって、詰め込み主義の教 育は否定され、子どもはある程度解放された。しかし、

子どもはどこへ導かれていくのか。目標のはっきりし ない教育は無力である」(ibid.32)というのである。

つまり戦後の教育課程は、戦前のものとは違い、国家 が教育内容を全て決定するのではなく、子どもの「自 然的本性」に目を向けるようになった。ところがそれ は、結局のところ教育内容の方向性すら曖昧にするも のであり、認めることはできないと柴田は結論付ける のである。

要するに教育計画として理解されてきた教育課程は、

教える側中心の教育計画としての位置づけを脱し、子 どもの主体性を重んじようとしている。ところが、そ れがどのように達成され得るのかは、必ずしも自明で はないのである

教育課程の捉えられ方の変化について安彦が示した 二つ目、結果レベルの教育課程という点からも問題を 整理してみよう。教育課程を教育計画に留まらないも のとして論じているのは、田中(2005)も同様である。

田中によれば、教育課程とは「子どもたちの成長と発 達に必要な文化を組織した、全体的な計画とそれに基 づく実践と評価を統合した営み」(ibid.11)であり、

この定義には「『教育課程』を単なる『計画』にとどめ ておくことでは不十分であるという教育経営の見解を 投影してい」る、という。それは教育に関する計画で ある一方で、学び手である子どもを含めた実践と評価 の統合であるというのである。だが、「全体的な計画と それに基づく実践と評価を統合した営み」としての教 育課程とは具体的にどのようなものか。特に、「実践と 評価の統合」という言葉には、やはり学び手である子 どもの存在をどのように位置づけるのかという問題が 含まれているように見える。

例えば教育課程編成を考える上では、教育を「制作」

と捉えるのか「実践」と捉えるのかという相違がある といわれる。評価に関しても、「工学的接近」と「羅生 門的接近」といった見方が知られている。例えば西岡

(2005)は、目標準拠的な評価は合理主義・実証主義

21 的な子ども理解を前提としているが、「教育課程評価に おいても、ある程度『ゴール・フリー評価』を取り入 れることが必要」(ibid.191)と述べている。その一方 で西岡は別の場所で、「羅生門的接近においては、設定 される教育目標がオープン・エンドで一般的なものに とどまるため、この働きかけを効果的に計画すること ができなくなるのではないかという疑問が残」るとも

述べ(ibid.171)、結局は、「教育評価は本来教育の成

否を評価するものであり、意図した子どもの発達がも たらされたかどうかを点検することが最も重要」

(ibid.191)として、教育課程評価の中核に授業成果

の評価を位置づけるべきと述べている。

このように、結果としての教育課程をめぐって評価 のあり方を整理してみても、それは計画通りに進んで いることを評価するのか、あるいは子どもの多様性に 沿った評価を重視するのかによって大きく異なるので ある。特に後者の場合、それは具体的に何を評価する ことになるのかも問われることになる。そしてそれは、

一点目の問題とも相関してくるだろう。教育課程にお いて子どもの主体性はどのように達成されると考えら れるのか、それはその子どもの多様性をどのように評 価するのかということと密接に関係しているのである。

要するに、教育課程は教育計画として捉えられてき た側面があり、またそのように現在も理解されている 側面が多分にある。だが、一方でそれを脱するものと して教育課程のあり方が想定され、模索されてもいる。

例えばその一つが子どもの主体性を重んじようとする 教育課程のあり方であり、あるいは子どもの多様性に 即した評価をしようとする教育課程のあり方である。

ところが、その具体像は自明ではない。教育内容を子 どもに全て丸投げしてしまうような教育課程や、教育 目標が完全に「オープン・エンド」になってしまう教 育課程までが認められているわけではないのである。

では、そうではない教育課程のあり方とはどのような もので、そこでは子どもたちはどのように主体性や多 様性が重視され得るのか。そして、そこでの教師の役 割とは何なのか。それは教育課程における根本的な問 題である。

さて、以上のような問題意識をもって大学の教職課 程における教育課程の授業を計画する際、何を獲得目 標とすればよいだろうか。教職課程論の課題の方向性 として、児童・生徒にとっての望ましい教育課程のあ り方を考えることが必要であろうが、それは上記のよ うな教育課程論の課題を踏まえるならば、まずどのよ うなものが教育計画として設定されているのかを知る

必要が出てくる。そしてその一方で、教育計画に留ま らない、例えば児童・生徒が主体的に学びに参加でき る教育課程とはいったい何かといった問題も生じてく る。つまり、既存の教育計画に依存するのでもなく、

あるいは教育内容全般を丸投げにするのでもない、そ れぞれの子どもが主体的に存在する教育のあり方とは どのようなもので、そうした子どもの主体的な学びに 向けて、教師は何をする必要があるのか。教育課程論 において獲得されるべきは、そうした教育課程論にお ける本質的な問いを理解し、子どもたちの主体性を支 えるための力量をつけることといえる。あるいは、実 際の教室空間から離れた大学の授業であるという制約 を考慮すれば、少なくともそのための視点を獲得する ことが求められると考えられるだろう。

そこで本授業では、授業計画を以下のように設定し た。最終的なテーマは、「望ましい教育課程とはどのよ うなものか」である。この問いに答えるためには二つ の視点を踏まえなければならない。第一には、学習指 導要領や教科書をはじめとした教育内容・教育計画の ガイドラインの存在と役割を知ること、そしてそのね らいや目標を理解することである。特に教師として教 育課程を編成していくためには、教育制度・政策、教 育法規、あるいは学校現場がどのように教育内容を規 定し決定しているのかについて学ばなければならない。

そして第二には、教育を受ける児童・生徒たち自身が、

それぞれの環境の中でどのようなニーズをもち、具体 的にどのように変化・成長しているのかを知ることで ある。特にこの二点目に関しては、普遍的・一般的な 子ども像を知るというよりは、個別的で多様な子ども がそれぞれの学校実践・授業実践を通して具体的にど のような学びを経験しているのかを読み解く視点を獲 得することが重要である。とりわけ実践を通じた子ど もたち自身の学びに関しては、計画されていた授業内 容がどのように学びとられているのかととともに、学 び取られていないものや、学校や教師の教育計画から 外れたところで子どもたちが独自に展開したものまで を含めて、その実態を知る必要がある。本授業では、

そうした具体的な姿を読み解く観点を養うことを課題 として設定した。

3.授業のねらい、および受講学生について 授業の教育課題を上記のように想定するにしても、

授業自体は受講生の条件やニーズも考慮しなければな らない。教育課程に関わる問題意識のみに基づいて授 業を設計するのではなく、例えば受講学生の学年や教

(4)

22 職課程の受講年数、これまでどのような科目を受講し てきたのか、あるいは教職への志望の度合いなども想 定する必要があるだろう。

そこで次に、学生の様子も視野に入れて設計した本 授業の具体的な授業計画を整理してみよう。筆者は、

私立A大学の非常勤講師として2009年4月から半年 にわたって本授業を担当した。まず授業づくりの打ち 合わせとして、A大学の教職課程に携わるB教員と面 談を行ったところ、学科や免許の種類に関して考慮す べき以下のような点を示された。

本授業を受講する学生にとって教職科目の単位は必 修ではなく、取得できる免許は高校の「情報」と「福 祉」である。またこの授業は2年生を対象としたもの で、本授業の受講生は教職課程を履修し始めたばかり である。担当教員からは、①学生にとっては初めて履 修する教職科目なので基礎的な知識を教えてほしい、

②「教える」ということを学生たちにイメージさせて もらいたい、等の説明を受けた。

そこで本授業では、以下のような計画を設定し、授 業シラバスとした。(5月2日、第1回授業資料より)

テーマ:「今、求められる教育課程とは何であるか?」

①教育内容の変遷

学習指導要領を含め、子どもの学力をめぐる議論と その変遷

②教育実践のレベルから

高校の授業実践の分析を通して、生徒のニーズをめ ぐる教育内容について考える

③大人になるとはどういうことか

現実の移行問題研究から見えてくる「学び」とは何 であるか

④実際の授業場面(「情報」・「福祉」)を想定する そもそも「教える」とはどういうことか。例えば実 際に授業を組み立ててみる

授業回数の制限もあるため四つの柱すべてを網羅す るのではなく、特に「①教育内容の変遷」、「②教育実 践のレベルから」という二つを重点的に扱うこととし、

残りのテーマは授業の進み方や議論の深まりに応じて 派生的に紹介するという形にした。特に、取得できる 教員免許が高等学校のものであることから、「高校生た ちにとって、いまどのような教育課程が求められるの か」という問いを設定することで、「学力問題」など広 く議論になっている教育課程の課題を入り口に、現行

の学習指導要領や「ゆとり教育」のあり方、それにま つわる制度、政策等を知ることを課題の一つとして設 定した。またそれと同時に、そうした中で実際の子ど もたちが何を学んでいるのか、あるいはどのような学 校生活を送り、大人になって行こうとしているのか、

具体的な実践を通してその成長の姿を捉えることをも う一つの課題とした。特に後者に関しては、先述の教 育課程論の課題との接続から、教職課程一年目の学生 たちにとっては、実際の子どもたちの実態、例えば学 校生活の中で何をどのように学び、どのような問題を 抱えているのか、といったことを当の子どもの立場か ら具体的に理解することを重視した。そして最終的に、

学校実践・授業実践について、その取り組みの意味を 受講学生同士で共有することを通して、実際的に望ま しい教育課程のあり方を一緒に考えていくことにした。

なお、第1回目の授業では、将来教師になる希望が あるかを記述してもらった(表1)。実際に常勤の教員 になりたいと考えている学生はごく一部であり、いず れ機会があれば非常勤などで教壇に立つことを考えて いるという学生を含めても半数程度であった。また教 職課程を取り始めてはみたが、実際に教師になる気は ないという学生も少なくなかった。

表1.受講生の様子

学生 出身高校の課程 教師になる気はあるか 境田 公立・商業科 教師になる気はない。

井釜 私立・普通科(私 文型)

出身校でなければ、教師 にはなりたくない。

天野 公立・普通科 新卒では考えてない。年 を取った頃に非常勤で できたら。

外栄 私立・普通科(英 語科)

新卒では考えていない。

結婚・出産・育児が落ち 着いたら非常勤で。

桜岡 私立・普通科(英 語科)

高校教師ではなく、小学 校教師になりたい。

向井 公立・普通科 高校教師になりたい。だ が情報科の募集が少な く迷っている。

本条 私立・普通科 なれるならなりたい。

山崎 公立・普通科 教師になる気はない。

前嶋 私立・通信制(普 通科)サポート校

教師になる気はない。

真鍋 公立・普通科 教師になる気はない。

23 柿沢 公立・普通科 介護の経験をしてから

就きたい。

久保山 私立・普通科 病院で働きながら教え ていきたい。

菊池 公立・普通科 不明

岡村 不明 不明

4.授業内容とその分析 4-1.扱ったトピック

上述のように、「①教育内容の変遷」「②教育実践の レベルから」を中心に授業を展開した。次に示すのは、

最終的に授業で扱ったトピックおよび資料のまとめで ある。(7月25日、最終回の授業資料より)

これまでの確認…この授業で扱ったもの

①学校体験の振り返り…皆さんがどのような学校で、

どのような教育体験を経てきたのか、紹介をしても らいました。

②そもそも「学校」とは(「教室」とは、「試験」とは

…)何であるのか考えました。〔参考文献:苅谷剛彦

『学校って何だろう』ちくま文庫、2005年〕

③日本における近代学校の成立の歴史を通して、いわ ゆる学力論争について考えました。〔参考資料:「明 治 ゆとりか、学力か」NHKスペシャル、2005 年〕

④学力論争の一方で、子どもたちの間に学力格差が生 じている問題も扱いました。〔参考文献:苅谷剛彦ほ か『調査報告「学力低下」の実態』岩波書店、2002 年〕

⑤障害児学級の先生をエキストラとしてお呼びし、障 害児教育における教育課程の実際について学びまし た。

⑥学びは人間の人格形成の過程でもあります。個々人 の内面を育てようと工夫する教師の実践について考 えました。〔参考文献:鳥山敏子「にわとりを殺して 食べる」、『いのちに触れる』太郎次郎社、1985年〕

⑦定時制課程に通う若者たちの様子から、教育におけ る成長や人格の形成について考えています。今日は その続きです。

重点的に扱う二つの柱のために以上の小トピックを 扱ったが、以下では、授業の最初と最後に位置づき、

かつ学生の考察が読み取れる分析資料となり得るとい う理由から、授業開始時に行なった「①学校紹介」、そ

して授業の最終課題となった「⑦定時制課程の実践」 についての議論とレポートについて分析を行う。

4-2.学校紹介

受講生自身の経験してきた多様な学校体験そのもの が、教育課程に関する重要な教材に他ならない。そこ で授業の最初に、受講学生自身の出身高校の学校紹介 を行った。

受講生の多くは普通科高校の出身であったが、商業 高校出身の境田さんの高校では、授業の三分の一ほど が商業科目を扱うものであった。普通科高校出身者の 報告では、授業内容に関しては文系か理系かといった 違いが中心的に報告され、特に大学進学との繋がりが 意識されていることが繰り返し指摘されたが、商業科 では例えばエクセル・ワード、電卓、簿記、シスアド といった検定試験に向けて授業内容が組み立てられて いる、といった報告が行われた。また前嶋さんの出身 校C学院は、通信制サポート校であるため高校卒業資 格が取得できず、資格を得るためにはC学院が提携し ている私立D高校に入学する必要があるということ であった。通常授業の中では教科書・学習書・副教材 を使ってレポートを作成し、年2、3回の頻度でD高 校のスクーリングを受けて認定試験を受け、単位を取 得するという仕組みだった。不登校、高校中退、転入 生、学力の関係から高校に進学しなかった等、様々な 事情をもった生徒が通っていたということで、これも また他の学生と対比的な特徴が確認された。

こうした進学や資格取得に向けた教科学習に関する 側面に加えて、意見交換がされたのは、校則や制服指 導といった生徒指導に関する項目であった。例えば、 外栄さんの私立女子校では厳しい宗教的理念に則った 生徒指導が行われており、男性と交際することも禁止 されていた。他にも、多くの学生が携帯電話の管理や 風紀など厳しい指導を経験していた。

厳しい生徒指導を経験した学生が多かった半面、自 由な雰囲気であったと紹介していた学生もいた。その 多くが、行事や部活動などの生活指導的な活動につい て丁寧に紹介してくれた。例えば井釜さんは中高一貫 の私立E高校であったが、中学3年間は風紀が厳しか ったのに対して、高校は自由な雰囲気であった。個性 の強い教師が多かったが面倒見も良く、職員室に入り 浸る生徒も多くて、他の学校から赴任してきた先生が 驚くほどだった。そしてE高校は、特に行事が大変に 盛んであった。文化祭が最大のイベントで、講堂で発 表される演劇部やダンス部、コーラス部のミュージカ

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22 職課程の受講年数、これまでどのような科目を受講し てきたのか、あるいは教職への志望の度合いなども想 定する必要があるだろう。

そこで次に、学生の様子も視野に入れて設計した本 授業の具体的な授業計画を整理してみよう。筆者は、

私立A大学の非常勤講師として2009年4月から半年 にわたって本授業を担当した。まず授業づくりの打ち 合わせとして、A大学の教職課程に携わるB教員と面 談を行ったところ、学科や免許の種類に関して考慮す べき以下のような点を示された。

本授業を受講する学生にとって教職科目の単位は必 修ではなく、取得できる免許は高校の「情報」と「福 祉」である。またこの授業は2年生を対象としたもの で、本授業の受講生は教職課程を履修し始めたばかり である。担当教員からは、①学生にとっては初めて履 修する教職科目なので基礎的な知識を教えてほしい、

②「教える」ということを学生たちにイメージさせて もらいたい、等の説明を受けた。

そこで本授業では、以下のような計画を設定し、授 業シラバスとした。(5月2日、第1回授業資料より)

テーマ:「今、求められる教育課程とは何であるか?」

①教育内容の変遷

学習指導要領を含め、子どもの学力をめぐる議論と その変遷

②教育実践のレベルから

高校の授業実践の分析を通して、生徒のニーズをめ ぐる教育内容について考える

③大人になるとはどういうことか

現実の移行問題研究から見えてくる「学び」とは何 であるか

④実際の授業場面(「情報」・「福祉」)を想定する そもそも「教える」とはどういうことか。例えば実 際に授業を組み立ててみる

授業回数の制限もあるため四つの柱すべてを網羅す るのではなく、特に「①教育内容の変遷」、「②教育実 践のレベルから」という二つを重点的に扱うこととし、

残りのテーマは授業の進み方や議論の深まりに応じて 派生的に紹介するという形にした。特に、取得できる 教員免許が高等学校のものであることから、「高校生た ちにとって、いまどのような教育課程が求められるの か」という問いを設定することで、「学力問題」など広 く議論になっている教育課程の課題を入り口に、現行

の学習指導要領や「ゆとり教育」のあり方、それにま つわる制度、政策等を知ることを課題の一つとして設 定した。またそれと同時に、そうした中で実際の子ど もたちが何を学んでいるのか、あるいはどのような学 校生活を送り、大人になって行こうとしているのか、

具体的な実践を通してその成長の姿を捉えることをも う一つの課題とした。特に後者に関しては、先述の教 育課程論の課題との接続から、教職課程一年目の学生 たちにとっては、実際の子どもたちの実態、例えば学 校生活の中で何をどのように学び、どのような問題を 抱えているのか、といったことを当の子どもの立場か ら具体的に理解することを重視した。そして最終的に、

学校実践・授業実践について、その取り組みの意味を 受講学生同士で共有することを通して、実際的に望ま しい教育課程のあり方を一緒に考えていくことにした。

なお、第1回目の授業では、将来教師になる希望が あるかを記述してもらった(表1)。実際に常勤の教員 になりたいと考えている学生はごく一部であり、いず れ機会があれば非常勤などで教壇に立つことを考えて いるという学生を含めても半数程度であった。また教 職課程を取り始めてはみたが、実際に教師になる気は ないという学生も少なくなかった。

表1.受講生の様子

学生 出身高校の課程 教師になる気はあるか 境田 公立・商業科 教師になる気はない。

井釜 私立・普通科(私 文型)

出身校でなければ、教師 にはなりたくない。

天野 公立・普通科 新卒では考えてない。年 を取った頃に非常勤で できたら。

外栄 私立・普通科(英 語科)

新卒では考えていない。

結婚・出産・育児が落ち 着いたら非常勤で。

桜岡 私立・普通科(英 語科)

高校教師ではなく、小学 校教師になりたい。

向井 公立・普通科 高校教師になりたい。だ が情報科の募集が少な く迷っている。

本条 私立・普通科 なれるならなりたい。

山崎 公立・普通科 教師になる気はない。

前嶋 私立・通信制(普 通科)サポート校

教師になる気はない。

真鍋 公立・普通科 教師になる気はない。

23 柿沢 公立・普通科 介護の経験をしてから

就きたい。

久保山 私立・普通科 病院で働きながら教え ていきたい。

菊池 公立・普通科 不明

岡村 不明 不明

4.授業内容とその分析 4-1.扱ったトピック

上述のように、「①教育内容の変遷」「②教育実践の レベルから」を中心に授業を展開した。次に示すのは、

最終的に授業で扱ったトピックおよび資料のまとめで ある。(7月25日、最終回の授業資料より)

これまでの確認…この授業で扱ったもの

①学校体験の振り返り…皆さんがどのような学校で、

どのような教育体験を経てきたのか、紹介をしても らいました。

②そもそも「学校」とは(「教室」とは、「試験」とは

…)何であるのか考えました。〔参考文献:苅谷剛彦

『学校って何だろう』ちくま文庫、2005年〕

③日本における近代学校の成立の歴史を通して、いわ ゆる学力論争について考えました。〔参考資料:「明 治 ゆとりか、学力か」NHKスペシャル、2005 年〕

④学力論争の一方で、子どもたちの間に学力格差が生 じている問題も扱いました。〔参考文献:苅谷剛彦ほ か『調査報告「学力低下」の実態』岩波書店、2002 年〕

⑤障害児学級の先生をエキストラとしてお呼びし、障 害児教育における教育課程の実際について学びまし た。

⑥学びは人間の人格形成の過程でもあります。個々人 の内面を育てようと工夫する教師の実践について考 えました。〔参考文献:鳥山敏子「にわとりを殺して 食べる」、『いのちに触れる』太郎次郎社、1985年〕

⑦定時制課程に通う若者たちの様子から、教育におけ る成長や人格の形成について考えています。今日は その続きです。

重点的に扱う二つの柱のために以上の小トピックを 扱ったが、以下では、授業の最初と最後に位置づき、

かつ学生の考察が読み取れる分析資料となり得るとい う理由から、授業開始時に行なった「①学校紹介」、そ

して授業の最終課題となった「⑦定時制課程の実践」

についての議論とレポートについて分析を行う。

4-2.学校紹介

受講生自身の経験してきた多様な学校体験そのもの が、教育課程に関する重要な教材に他ならない。そこ で授業の最初に、受講学生自身の出身高校の学校紹介 を行った。

受講生の多くは普通科高校の出身であったが、商業 高校出身の境田さんの高校では、授業の三分の一ほど が商業科目を扱うものであった。普通科高校出身者の 報告では、授業内容に関しては文系か理系かといった 違いが中心的に報告され、特に大学進学との繋がりが 意識されていることが繰り返し指摘されたが、商業科 では例えばエクセル・ワード、電卓、簿記、シスアド といった検定試験に向けて授業内容が組み立てられて いる、といった報告が行われた。また前嶋さんの出身 校C学院は、通信制サポート校であるため高校卒業資 格が取得できず、資格を得るためにはC学院が提携し ている私立D高校に入学する必要があるということ であった。通常授業の中では教科書・学習書・副教材 を使ってレポートを作成し、年2、3回の頻度でD高 校のスクーリングを受けて認定試験を受け、単位を取 得するという仕組みだった。不登校、高校中退、転入 生、学力の関係から高校に進学しなかった等、様々な 事情をもった生徒が通っていたということで、これも また他の学生と対比的な特徴が確認された。

こうした進学や資格取得に向けた教科学習に関する 側面に加えて、意見交換がされたのは、校則や制服指 導といった生徒指導に関する項目であった。例えば、

外栄さんの私立女子校では厳しい宗教的理念に則った 生徒指導が行われており、男性と交際することも禁止 されていた。他にも、多くの学生が携帯電話の管理や 風紀など厳しい指導を経験していた。

厳しい生徒指導を経験した学生が多かった半面、自 由な雰囲気であったと紹介していた学生もいた。その 多くが、行事や部活動などの生活指導的な活動につい て丁寧に紹介してくれた。例えば井釜さんは中高一貫 の私立E高校であったが、中学3年間は風紀が厳しか ったのに対して、高校は自由な雰囲気であった。個性 の強い教師が多かったが面倒見も良く、職員室に入り 浸る生徒も多くて、他の学校から赴任してきた先生が 驚くほどだった。そしてE高校は、特に行事が大変に 盛んであった。文化祭が最大のイベントで、講堂で発 表される演劇部やダンス部、コーラス部のミュージカ

(6)

24 ルが本格的だといい、毎年講堂は満員になるという。

「とにかく先生も生徒も個性が強かったけれど、みん な優しくて学年もタイプも越えてひっくるめて仲良く なれる学校だったな、と改めて考えてみて感じた」と 発表してくれた。

あるいは公立のF高校に通った向井さんは、「公立 普通科・共学の高校で、泣いたり笑ったり思い出深い 3年間でした」と紹介してくれた。F高校では、3年 生が「威厳たっぷり」で、模擬店を出す際にも3年生 が優先されるなどの文化があり、3年生が校風を左右 するのだという。一方、そうした上級生によって「心 のこもった」新入生歓迎会の発表会が行われるのが恒 例という。また、全体の8割ほどの生徒が部活動に参 加しており、「勉強・ボランティア・行事・部活・地域 での活動・海外留学など何事にも積極的に活動。活気 にあふれる学校」と紹介してくれた。そうした雰囲気 のため、離任・卒業する先生や先輩たちが残す「F高 最高、生涯F高生」という言葉は、送る側の在校生も 行事ごとに感じているという。

こうした学校紹介を通して、まずは互いの学校の指 導や教育課程が大きく異なることが確認された。また それ以上に、進学や資格取得に向けた教科教育も重要 な教育経験ではあったが、行事や部活動などを通して も様々な学びがあり、これもまた重要な高校教育であ ったことも明らかになった。

4-3.学校実践の分析

次に、本授業の後半で行なった学校実践への議論・

レポートについて分析する。このレポートは本授業の 最終課題でもあった。

授業で扱ったのは、埼玉県にあった県立浦和商業高 校定時制課程(以下、浦商とする)を舞台にした学校 実践記録である。主な資料は、浦和商業高校定時制四 者協議会編『この学校がオレを変えた浦商定時制の学 校づくり』(ふきのとう書房、2004)、平野和弘『オレ たちの学校浦商定時制―居場所から「学び」の場へ』

(草土文化、2008)、VTR資料「テージセー~1461 日の記憶~」(日本テレビ、2007)であった。

授業は、浦商の方針や教員の理念が分かるテキスト を読み合い、VTR資料を視聴した。それらの資料を元 に小グループごとに感想や疑問を出し合い、高校生た ちがどのような学校経験をし、どのように変化・成長 しているのか/いないのか、論点を整理しながら互い に議論するという形で進められた。最終的に個々人で レポートを作成した。

その最終レポートを分析するため、まずはこの浦商 という学校がどのような教育方針をもっているのか、

授業者が学生に示した浦商の理念を、授業中に資料と したテキストを要約しながら整理する。

まず『オレたちの学校浦商定時制』の冒頭の文章を 読んだ。浦商の教員である平野和弘先生が、ある生徒 が書いた「自分史」を転載する形でこの学校の性格を 紹介したものである。この生徒は、浦商に入学したも のの休みがちで、「別に学校に在籍している意味なんて ないと思っていた」ため、二年生のある日、退学する つもりで学校に行った。平野先生には「もう一度考え てみてください」と言われたが、退学届を出すつもり のまま帰宅。ところがその直後に事件を起こし鑑別所 に送致されてしまう。この生徒は少年院も覚悟してい たが、そこへ面会に来てくれたのが平野先生だった。

平野先生は何度も鑑別所に足を運んでくれ、この生徒 は入学してから数えるくらいしか学校に行っていなか った自分を先生が生徒として見てくれていることに嬉 しさを感じたという。この時の気持ちを、「普通の学校 ならうちの生徒じゃないって言いたいときに、うちの 生徒です、と言ってくれた。出所したら復学しようと 決めました。(中略)何度も何度も面会に来てくれた平 野さんのこと、本当ははじめうざかった。けど、その 熱さに心が少し開けることができました」、と書いてい る。これに対し平野先生自身は、こうした浦商の姿勢 を次のように書いている。「浦商定時制ではさまざまな 教職員が(教員だけではありません。業務主事と呼ば れる方々や、給食の調理の人たち、ときには卒業生や 保護者たちも含めて)さまざまなやり方で、重しを背 負い学校にやってくる生徒たちに寄り添っていきまし た」。たとえ常識から外れた物言いや行為をする生徒に 対しても否定せず、彼らを信じて添うていくことを重 視してきた、平野先生はそのように述べている。

また、浦商教員の伊藤和由先生が書いた「居場所づ くりから自治活動へ」(浦和商業高校定時制四者協議会 編、2004)も資料とした。他者との距離感がうまく取 れなかったり、不登校経験のある生徒たちも安心して 座っていられる場になるよう、浦商では職員室が開放 され、教員の間には生徒を否定するのではなく肯定す る文化が共有されているという。ただ、そうした居場 所でくつろいでいるだけでは、生徒は「お客さん」に 過ぎない。そこで生徒が主人公になっていくために、

体育祭、卒業式、文化祭、離任式など、行事を生徒に 委ねていった。全ての行事を生徒の実行委員会が担っ ていくようになったというのである。そうした変化を

25 伊藤先生は次のように書いている。「行事のノウハウを 学び、交わりの術を体得し、立つこと・語ることを身 につけた生徒たちは、教師に操られる存在ではなくな っている。そこには、自らの課題を自らの力で達成し ていく自治活動の芽生えが感じられる」(ibid.104)。

本授業では、浦商の教師が書いたこうした資料を読 み、その方針について自由に感想を言い合いながら、

今度は実際の生徒の様子をVTR資料を通して見てい った。そしてこの実践全体についてコメントを出し合 い、それをもとに議論を行なった。

では、その議論を元に作成したレポートを見ていこ う。課題は、「浦和商業高校定時制課程の取り組みにつ いて議論を行いました。浦商の学校実践は、この学校 に通う若者たちにとってどのような意味があると考え ますか。資料に登場する生徒の様子やエピソードに即 して、具体的に記述してください。」というものであっ た。なお、「前期であつかった学校教育に関するキーワ ード・トピックをもとに、こんにち求められる教育課 程とはどのようなものであると考えますか。具体的に 記述してください。その際、参考とした資料が他にあ る場合は明記して下さい。」という課題と選択できる ようにしたが、後者を選んだ学生はいなかった。

①生徒にとっての居場所への注目

多くの学生は、教師が生徒に対して受容的に関わっ ていることに注目し考察した。桜岡さんは次のように 論じている。

様々な事情により、その過程の途中で立ち止まって しまった生徒、前に進むことができなくなってしま った生徒に対して、浦商は生徒一人ひとりと向き合 い、一緒に問題を改善しようとし、再びその子を他 の子と同じラインに立たせてあげる役割を担ってい るようにも見えた。

このように、教師による生徒への受容的働きかけを 肯定的に評価するものが多かった。井釜さんは次のよ うに書いている。

浦商は生徒たちにとって、自分たちの心のよりどこ ろであり「自分」をあらためて確認できるのだ。自 分を受け入れてくれることの大切さ、「否定しない」

ことの優しさに触れていられる浦商は、生徒にとっ てとても大切な心のよりどころだ。

批正せずに生徒に寄り添うという浦商の姿勢は、ま さに平野先生の資料にあった通りであるが、やはり生 徒を受け入れるという側面の重要性が注目されている。 それはまさに学校の方針そのものを肯定的に評価した ものといえるだろう。

②居場所を通して変化したものへの考察

居場所としての学校の役割に注目するものの中で、 生徒を受容することの意味、特に居場所があることで 生徒が変化したと考察するものもあった。レポートの 中で最も注目されたのは、在学中に妊娠したナオミと いう生徒についてであった。ナオミは自傷行為を繰り 返していた生徒で、VTRでは校内で自らを傷つけてし まうシーンや、学校で過呼吸の発作を引き起こしてし まうシーンもあった。そんな彼女が、3年生の時に妊 娠したというエピソードがあった。天野さんはレポー トで次のように述べている。

浦商は家族のような温かい場所だ。どんなことを生 徒がしても全て肯定的に受け入れていく。しかし、 私は本当に一人ひとりの生徒を社会に送り出すのな ら、世間一般の意見も教えるべきではないだろうか。

「学校だけど学校じゃない」こんな言葉、ほかの高 校では絶対聞けないと思う。けれど、学校という場 所の醍醐味は平等という守りがある、小さな社会で あり、家庭では学べないさまざまな事を得られる場 所だと私は考える。いじめという経験をしながら、 学校という場所を再び受け入れ、自分の居場所とし 考えられる今、もうワンステップ上に進み、夢や目 標を浦商で得てほしかったと思う。夢に向かって頑 張ること、頑張れることの自分を、実感してほしか った。

確かにVTRでは、妊娠を機にナオミは過呼吸の発 作も収まったと紹介され、学校の外に安心できる人間 関係を得たことがきっかけであるように映し出された。 レポートの中にはその変化がナオミの成長だと捉える 意見もあった。天野さんが指摘したのは、ナオミが学 校外の経験を通して変化したというのではなく、その 学校においてこそ変化を示してほしかったという意見 といえる。生徒が浦商の実践によって得たもの、学校 を通して得た変化に注目した論点といえるだろう。

久保山さんは、学校生活を通した生徒の具体的な変 化や成長について、中学時代にいじめを経験したメグ ミに注目している。メグミは高校入学前は中卒で働く

(7)

24 ルが本格的だといい、毎年講堂は満員になるという。

「とにかく先生も生徒も個性が強かったけれど、みん な優しくて学年もタイプも越えてひっくるめて仲良く なれる学校だったな、と改めて考えてみて感じた」と 発表してくれた。

あるいは公立のF高校に通った向井さんは、「公立 普通科・共学の高校で、泣いたり笑ったり思い出深い 3年間でした」と紹介してくれた。F高校では、3年 生が「威厳たっぷり」で、模擬店を出す際にも3年生 が優先されるなどの文化があり、3年生が校風を左右 するのだという。一方、そうした上級生によって「心 のこもった」新入生歓迎会の発表会が行われるのが恒 例という。また、全体の8割ほどの生徒が部活動に参 加しており、「勉強・ボランティア・行事・部活・地域 での活動・海外留学など何事にも積極的に活動。活気 にあふれる学校」と紹介してくれた。そうした雰囲気 のため、離任・卒業する先生や先輩たちが残す「F高 最高、生涯F高生」という言葉は、送る側の在校生も 行事ごとに感じているという。

こうした学校紹介を通して、まずは互いの学校の指 導や教育課程が大きく異なることが確認された。また それ以上に、進学や資格取得に向けた教科教育も重要 な教育経験ではあったが、行事や部活動などを通して も様々な学びがあり、これもまた重要な高校教育であ ったことも明らかになった。

4-3.学校実践の分析

次に、本授業の後半で行なった学校実践への議論・

レポートについて分析する。このレポートは本授業の 最終課題でもあった。

授業で扱ったのは、埼玉県にあった県立浦和商業高 校定時制課程(以下、浦商とする)を舞台にした学校 実践記録である。主な資料は、浦和商業高校定時制四 者協議会編『この学校がオレを変えた浦商定時制の学 校づくり』(ふきのとう書房、2004)、平野和弘『オレ たちの学校浦商定時制―居場所から「学び」の場へ』

(草土文化、2008)、VTR資料「テージセー~1461 日の記憶~」(日本テレビ、2007)であった。

授業は、浦商の方針や教員の理念が分かるテキスト を読み合い、VTR資料を視聴した。それらの資料を元 に小グループごとに感想や疑問を出し合い、高校生た ちがどのような学校経験をし、どのように変化・成長 しているのか/いないのか、論点を整理しながら互い に議論するという形で進められた。最終的に個々人で レポートを作成した。

その最終レポートを分析するため、まずはこの浦商 という学校がどのような教育方針をもっているのか、

授業者が学生に示した浦商の理念を、授業中に資料と したテキストを要約しながら整理する。

まず『オレたちの学校浦商定時制』の冒頭の文章を 読んだ。浦商の教員である平野和弘先生が、ある生徒 が書いた「自分史」を転載する形でこの学校の性格を 紹介したものである。この生徒は、浦商に入学したも のの休みがちで、「別に学校に在籍している意味なんて ないと思っていた」ため、二年生のある日、退学する つもりで学校に行った。平野先生には「もう一度考え てみてください」と言われたが、退学届を出すつもり のまま帰宅。ところがその直後に事件を起こし鑑別所 に送致されてしまう。この生徒は少年院も覚悟してい たが、そこへ面会に来てくれたのが平野先生だった。

平野先生は何度も鑑別所に足を運んでくれ、この生徒 は入学してから数えるくらいしか学校に行っていなか った自分を先生が生徒として見てくれていることに嬉 しさを感じたという。この時の気持ちを、「普通の学校 ならうちの生徒じゃないって言いたいときに、うちの 生徒です、と言ってくれた。出所したら復学しようと 決めました。(中略)何度も何度も面会に来てくれた平 野さんのこと、本当ははじめうざかった。けど、その 熱さに心が少し開けることができました」、と書いてい る。これに対し平野先生自身は、こうした浦商の姿勢 を次のように書いている。「浦商定時制ではさまざまな 教職員が(教員だけではありません。業務主事と呼ば れる方々や、給食の調理の人たち、ときには卒業生や 保護者たちも含めて)さまざまなやり方で、重しを背 負い学校にやってくる生徒たちに寄り添っていきまし た」。たとえ常識から外れた物言いや行為をする生徒に 対しても否定せず、彼らを信じて添うていくことを重 視してきた、平野先生はそのように述べている。

また、浦商教員の伊藤和由先生が書いた「居場所づ くりから自治活動へ」(浦和商業高校定時制四者協議会 編、2004)も資料とした。他者との距離感がうまく取 れなかったり、不登校経験のある生徒たちも安心して 座っていられる場になるよう、浦商では職員室が開放 され、教員の間には生徒を否定するのではなく肯定す る文化が共有されているという。ただ、そうした居場 所でくつろいでいるだけでは、生徒は「お客さん」に 過ぎない。そこで生徒が主人公になっていくために、

体育祭、卒業式、文化祭、離任式など、行事を生徒に 委ねていった。全ての行事を生徒の実行委員会が担っ ていくようになったというのである。そうした変化を

25 伊藤先生は次のように書いている。「行事のノウハウを 学び、交わりの術を体得し、立つこと・語ることを身 につけた生徒たちは、教師に操られる存在ではなくな っている。そこには、自らの課題を自らの力で達成し ていく自治活動の芽生えが感じられる」(ibid.104)。

本授業では、浦商の教師が書いたこうした資料を読 み、その方針について自由に感想を言い合いながら、

今度は実際の生徒の様子をVTR資料を通して見てい った。そしてこの実践全体についてコメントを出し合 い、それをもとに議論を行なった。

では、その議論を元に作成したレポートを見ていこ う。課題は、「浦和商業高校定時制課程の取り組みにつ いて議論を行いました。浦商の学校実践は、この学校 に通う若者たちにとってどのような意味があると考え ますか。資料に登場する生徒の様子やエピソードに即 して、具体的に記述してください。」というものであっ た。なお、「前期であつかった学校教育に関するキーワ ード・トピックをもとに、こんにち求められる教育課 程とはどのようなものであると考えますか。具体的に 記述してください。その際、参考とした資料が他にあ る場合は明記して下さい。」という課題と選択できる ようにしたが、後者を選んだ学生はいなかった。

①生徒にとっての居場所への注目

多くの学生は、教師が生徒に対して受容的に関わっ ていることに注目し考察した。桜岡さんは次のように 論じている。

様々な事情により、その過程の途中で立ち止まって しまった生徒、前に進むことができなくなってしま った生徒に対して、浦商は生徒一人ひとりと向き合 い、一緒に問題を改善しようとし、再びその子を他 の子と同じラインに立たせてあげる役割を担ってい るようにも見えた。

このように、教師による生徒への受容的働きかけを 肯定的に評価するものが多かった。井釜さんは次のよ うに書いている。

浦商は生徒たちにとって、自分たちの心のよりどこ ろであり「自分」をあらためて確認できるのだ。自 分を受け入れてくれることの大切さ、「否定しない」

ことの優しさに触れていられる浦商は、生徒にとっ てとても大切な心のよりどころだ。

批正せずに生徒に寄り添うという浦商の姿勢は、ま さに平野先生の資料にあった通りであるが、やはり生 徒を受け入れるという側面の重要性が注目されている。

それはまさに学校の方針そのものを肯定的に評価した ものといえるだろう。

②居場所を通して変化したものへの考察

居場所としての学校の役割に注目するものの中で、

生徒を受容することの意味、特に居場所があることで 生徒が変化したと考察するものもあった。レポートの 中で最も注目されたのは、在学中に妊娠したナオミと いう生徒についてであった。ナオミは自傷行為を繰り 返していた生徒で、VTRでは校内で自らを傷つけてし まうシーンや、学校で過呼吸の発作を引き起こしてし まうシーンもあった。そんな彼女が、3年生の時に妊 娠したというエピソードがあった。天野さんはレポー トで次のように述べている。

浦商は家族のような温かい場所だ。どんなことを生 徒がしても全て肯定的に受け入れていく。しかし、

私は本当に一人ひとりの生徒を社会に送り出すのな ら、世間一般の意見も教えるべきではないだろうか。

「学校だけど学校じゃない」こんな言葉、ほかの高 校では絶対聞けないと思う。けれど、学校という場 所の醍醐味は平等という守りがある、小さな社会で あり、家庭では学べないさまざまな事を得られる場 所だと私は考える。いじめという経験をしながら、

学校という場所を再び受け入れ、自分の居場所とし 考えられる今、もうワンステップ上に進み、夢や目 標を浦商で得てほしかったと思う。夢に向かって頑 張ること、頑張れることの自分を、実感してほしか った。

確かにVTRでは、妊娠を機にナオミは過呼吸の発 作も収まったと紹介され、学校の外に安心できる人間 関係を得たことがきっかけであるように映し出された。

レポートの中にはその変化がナオミの成長だと捉える 意見もあった。天野さんが指摘したのは、ナオミが学 校外の経験を通して変化したというのではなく、その 学校においてこそ変化を示してほしかったという意見 といえる。生徒が浦商の実践によって得たもの、学校 を通して得た変化に注目した論点といえるだろう。

久保山さんは、学校生活を通した生徒の具体的な変 化や成長について、中学時代にいじめを経験したメグ ミに注目している。メグミは高校入学前は中卒で働く

参照

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