青年訓練所反対運動の論理と実践三︶
大 串 隆 吉
長野県下伊那地方における青年訓練所反対運動は有名である︒したがってその研究もいくつかあげることができる︒
まず︑下伊那の青年運動を戦前︑戦後にわたって集大成した﹃下伊那青年運動史﹄︵国土社 一九六〇年︶があげられよ
う︒これには︑青年訓練所反対運動の経過が報告されているが︑青年側がそれを可能にした要因については︑分析され ユ ていない︒同様のことは︑平山和彦﹁反体制的青年運動の動揺と変質−長野県下伊那郡青年会の場合﹂にもいえる︒
氏は︑下伊那の反体制的青年団運動の変質過程の結節点として︑大正十四年︵一九二五年︶十二月におこなわれた在郷軍
人会と政治研究会︑軍事教育反対同盟の対談会をとりあげている︒そして︑これが︑下伊那郡青年会の運動のピークを
なすものだとされている︒しかし︑その対談会以前にも大正十年頃から下伊那郡の青年の中に反軍国主義意識があった
ことを指摘されながらも︑その後の運動との関係は︑論文のテーマの限定づきの故であろうか︑考察されていない︒
大正十四年十二月の軍教対談会を可能にした下伊那郡の青年の主体的条件を考察するためには︑対談会の中心となっ
た政治研究会下伊那支部の前身である下伊那自由青年連盟の軍国主義教育反対の論理を考察する必要がある︒下伊那自 ︵2︶ ︵3︶ 59由青年連盟の研究には︑木下春雄﹁下伊那社会主義運動史の研究﹂及び﹁社会教育体制の確立と抵抗運動﹂がある︒こ
の二つの論稿は︑下伊那自由青年連盟の発生の条件や経過︑問題点を分析した労作であるが︑おしむらくは︑下伊那自
由青年連盟が重視した反軍国主義教育についてはふれられていない︒以下のべるように︑反軍国主義教育運動は︑社会
主義的青年運動として︑又自主的青年会確立のために極めて重要な位置づけがされていたのである︒この小稿は︑自由
青年連盟から軍教対談会に至る反軍国主義教育運動の発展と変化を考察する︒
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下伊那自由青年連盟結成及びその政治研究会への組織がえの経過については︑﹃下伊那青年運動史﹄及び木下前掲論
文に紹介されているので省かせてもらうが︑テーマに関して次の特徴を指摘しておきたい︒ ︵4︶ O 結成にあたって山川均等の中央の社会主義者︵主に第一次共産党のメンバー︶の影響を受けたこと︒例えば︑中
心メンバーだった羽生三七が結成の意義を述べる際︑下伊那の青年運動の﹁方向転換﹂といったり︑山川の﹁方向転 ︵5︶ 換論﹂の眼目であった﹁大衆の中へ﹂というスローガンを実践に移した︒
⇔ ﹃種まく人﹄を母胎とした秋田青年思想研究会と交流している︒両方とも反軍国主義を重視したから︑社会主義
的青年運動の発生を考察する上で重要な示唆を与えている︒
さて︑自由青年連盟は︑機関紙﹃第一線﹄を︑大正十二年四月二十日に創刊した︒その第三︑四号の巻頭論文は︑軍
国主義と青年に関するものである︒第三号が︑羽生三七﹁軍国主義と無産青年﹂︑第四号が︑大井由次郎﹁軍隊と無産
青年﹂である︒両者の論文に共通しているのは︑O 早稲田大学の軍事研究会事件にあらわれた大学生に対する軍国主
義宣伝は︑勤労青年に関係がある︒⇔ 反軍国主義運動は︑社会主義的青年運動の中心任務である︒⇔ 軍国主義とは︑
国内においては階級支配の道具であり︑国外に対しては侵略の道具である︒という点である︒⇔のとらえ方は︑山川も
同様のことを言っており︑社会主義者の共通の認識として存在した︒⇔は全民衆の問題であるから︑その論理的帰結と
してOの考え方が導き出される︒それは︑山川の言う﹁軍隊の民衆化と民衆の軍隊化﹂のちがった表現であるが︑先の
問題を自分達の問題に引きつけられたのは︑羽生等が早大文化講演会に参加し︑その後︑大山郁夫等を講師に招いてい
たという条件があったと考えられる︒⇔について羽生は︑﹁青年は軍国主義に面接する点に於て︑最も直接的であるか
らである﹂とその理由をのべているが︑それが社会主義的青年運動︵あれこれの青年運動ではなく︶の﹁精髄﹂ととら
えたのは︑国際的なプロレタリア青年運動の経験から学んだからである︒それを示すものとして︑﹃第一線﹄創刊号の
羽生が書いた巻頭論文は︑共産青年イソタナショナルのことから書き出されているし︑大井の論文は︑ヨーロッパの反
軍国主義運動の歴史を第一次世界大戦の動向を中心として紹介し︑社会主義的青年運動が反軍国主義の闘いを課題とし
て生まれたことを指摘した︒中央の社会主義雑誌も︑ロシアやフラソスのプロレタリア青年運動を紹介しているが︑こ
のように全体的に紹介したものはない︒しかも︑それだけではなく︑軍隊外での軍備撤廃論者との共同戦線と軍隊内でロの活動という実践課題を導き出している・当時︑中央の社会主義者の青年運動論は︑反軍国主義運動の重要性を指摘し
難ていたとはいえ・具体的活動の墾はなかった・したがって・畠享連盟の考えは︑当時の中央の社会主蓼の水準
と編を越えていた︒この墾にそって︑軍隊内に雑誌﹃進め﹄﹃赤旗﹄などがおくり.妄れ︑大正+三年三月の警の時に
動 は入営兵士が取り調べを受けたという︒
縫羽生は・雑誌﹃進め﹄に度々籍し・青年運動の竺人者の観を呈していた︒自由青年連盟は︑中央の社奎蓼に
緬大きな感銘を与えて窮大圭年七月に籠された共産党は︑塁四月に呆共産主葦同盟の設妾決定した.
馴その初代委員長となった川裏虎は︑同年八月末北島吉蔵︑金子健太と共雫伊那に出かけ︑中央の社会主義者が注目︑圭.していた畠青年連盟のメン・→と会合をもった・その時・秋田や鷲の社会主義的青年団体︑水平社の青年等と連絡6
をとり︑全国的な社会主義的青年団体を結成することが相談されている︒このもくろみは︑関東大震災の際の虐殺事件
で︑川合︑北島が犠牲となり具体化されなかった︒
自由青年連盟は︑官製青年団の自主化︑実補の管理権の獲得︑電灯料値下げ運動︑普選運動等精力的におこなった︒
反軍国主義運動との関係では︑青年団の自主化︑実補の改革との関係が︑この時点で充分つかみきれていないと言わね
ばならない︒
大正十三年三月︑いわゆるLYL事件によって幹部が検挙され︑一〇月に自由青年連盟は解散命令をうける︒LYL
事件を契機として︑社会主義的青年の下伊那郡青年会に対する影響は一時後退した︒他方︑国民精神作興に関する詔書
にもとついた下伊那国民精神作興会が作られている︒
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二
大正十三年九月﹃第一線﹄は︑﹃政治と青年﹄に改題された︒そして︑解散命令を受けた自由青年連盟幹部は︑﹃政治
と青年﹄を通じて︑政治研究会の結成を呼びかけた︒﹃政治と青年﹄に改題したのは︑彼等が要求してきた普通選挙制
が施行されるので︑﹁スタート﹂の切りなおしをする必要があったからである︒
﹁青年は普選を獲得した事によって安堵する場合ではない︒只政治運動のスタートを切り直した丈けの事である事は
今も既往も変りない︒
吾が﹃政治と青年﹄は︑この際に於ける研究並に運動の機関として生れたものだ︒吾等はこの新形勢に触れて将さ に一大飛躍を試みんとする本質的の政治運動の発展を信ずる﹂
当時︑普選が施行されることになって︑全国的に労働組合︑農民組合︑コミュニストビューロー等によって無産政党
作りがはじめられた︒島中︑大山等が中心となった政治研究会は︑そのひとつであった︒政治研究会から佐野袈裟美が︑
飯田に来て羽生三七や北原亀二と会っている︒下伊那の社会主義的青年達は︑労働組合︑農民組合に入っておらず︑全
国的な社会主義的青年団体結成のもくろみが一頓座している時だったから︑彼等が団体として無産政党作りに参加して
いくには政治研究会しかなかった︒この客観的条件があったとはいえ︑彼等が政治研究会を選んだ主体的理由として︑
政治研究会と自由青年連盟の考え方の類似をあげることができよう︒政治研究会は︑官僚と有産階級による政治支配を
無産階級の政治支配に転換させるために無産政党作りを目的とし︑その準備として民衆の啓蒙と政治の調査︑研究をお
こなおうとした︒この考えは︑有産階級と無産階級という対立を考え︑無産階級の政治支配のために青年の思想的啓蒙
をも目的とした自由青年連盟と共通している︒したがって︑政治研究会と自由青年連盟の間には︑断絶は考えられず︑
﹁入れ替り﹂ととらえられ︑政治研究会の出現は︑﹁必然﹂としてとらえられたといえる︒
自由青年連盟と政治研究会下伊那支部が︑連続的だった一面として︑政研支部が青年運動的傾向を持っていたこともカー あげられる︒そのことは︑機関紙の名が﹃政治と青年﹄だったことにあらわれているが︑同紙第五号︵大正±二年+月二
実 +日︶﹁政治研究会生る﹂で︑﹁下伊那三万の新有権者のために青年が奮起してこれが誤らざる政治教育の任にあたるこ
と綱とは誠に機宜に適した喜ぶことである﹂といい︑趣意書で⊇目年の奮起すべき時は今ではないでせうか今必要な事は民
動 衆の政治的覚醒と団体的訓練とですLと言っている︒つまり︑青年が民衆︵大人も含め︶を啓蒙し指導する主体と考え
縫られている・この考えは・自由青年連盟の幹部にも存在した︒例えば︑羽生は﹁私はここまで考へ系て︑事新しく主目
世代間対立の発想を伴なった青年だけが政治を革新できるという発想が︑社会主義的青年運動に持ちこまれた場合︑青
年前衛党的傾向になる︒彼等は︑﹁明治維新に活躍したのは青年の力だ︒青年なくしてなにができるか︑という自負心
があった﹂という︵桑原郡治談︶︒自由青年連盟のこのような傾向は︑政研下伊那支部にももちこまれている︒
この傾向は︑中央の社会主義者の中にも存在した︒例えば︑﹃前衛﹄誌上でもっぱら青年運動を論じた水島潤治は︑
﹁青年は新秩序の支持者であり︑老人は旧秩序の支持者である︒古来歴史の車輪は常に此の青年の大衆によつて推し進
︵10︶められる︒﹂と書いている︒日本共産党の成立以降︑次第に克服されていくようであるが︑共産党の勢力は小さく︑し
かも労働運動に参加してきたのは青年が多かったから︑以上の事は真実のようだったと考えられた︒それは︑﹁日本の
労働運動は︑従来青年が指導してきた︒労働運動が余りに戦闘的であつたために︑青年労働者は︑特に︑青年労働者の ︵H︶地位と使命と云うが如き点に自ら迂遠な態度をとつて来た﹂ことの裏返しと考えられる︒
したがって︑下伊那の青年達の先に述べた特徴は︑社会主義運動の歴史的限界を示しているが︑無産政党作りの過程
で︑克服されねばならないものとなってくる︒そのあらわれが︑北原論文である︒
﹁今日の政治研究会支部が只単に自由青年連盟の延長であるとする観念は全然誤ってゐるものである︒自由青年連盟
は︑青年運動の機関である︒青年運動は行動運動に至るまでの準備運動としての使命と任務をもつに止る︒ ︵12︶ 然るに︑政治研究会は︑行動的運動の団体でなければならない︒﹂
青年世代論的発想は︑郡青年会でも同様だった︒それが青年団自主化の論拠のひとつとなっていることに注意する必
要がある︒下伊那郡青年会テーゼ︵大正十五年二月︶に︑次のようにのべてある︒
﹁社会進化の原動力は青年である︒それは時代と国家との相違を問わず厳然たる歴史的事実である︒殊にわが国の現
状は明治維新後に急激を極めたる文明の進歩に依り老人と青年とを殆んど異つた時代に立たしめ︑思想的な相違を年
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令に依つて載然とわかつて居る︒斯る状態のもとに於て社会の進展を促すものは確固たる組織と結合に依る青年の力
である従来の官制青年団は老人官僚軍閥等の支配統制のために作られたものである︒随つて彼等が所謂修養教育とは
一切の伝統的勢力に対する絶対的信仰と盲目的服従とを強いるものであつて真の修養を妨げ教養を奪ふものであつた︒
吾等は之に対して自主的青年団の目標を掲げ敢然として青年以外の伝統的勢力を駆逐し青年団を真に青年自身の支配
の下に置かしめたけれ共之れに対する彼等の挑戦も漸く甚だしさを加え軍閥官僚反動新聞等の背景に依り郡青年会に ロ 対する不平分子を結合して新興青年団たる保主的青年会の設立さへ見るに至つた﹂
このテーゼが書かれた時に︑すでに郡青年会は分裂していたが︑これは後の時期ー昭和六年1に発生した青年の
﹁階級分化論﹂を準備するものだったと考えられる︒この考察は後にゆずりたい︒
三
の劇政治研究会下伊肇部は︑大正+三年+三二+日績成された︒政研支部による軍事警批判は︑陸軍現役将校配
ぽ屑に対する批判からはじめられる︒﹃政治と青年﹄第九号︵大辛三年+一亘日︶は︑量閥の学校占領Lと題して︑
瀦蛋事誓なるものは︑壮丁の在営年限を短縮するその補ひに︑中学以上の学奮軍事姦科目の一として教.曇むと
動言うことにあるから・その裏必然に軍国主萎吹きこむものであることは争はれない︒斯くして教育の独立性は全く
瀧失はれLるのである・それは・﹁轟の秦化・実は軍閥の学校占領のきざし﹂だと覆した︒この藷には︑当時し
緬ばしば郡青年会蓋師に来・又政治研究会の幹部だった大山郁夫の髪読みとれ顯輝︑﹁杏郁夫氏は︑政治研究
馴誌上で国防問題に対する︑既成政党の矛盾せる態度を完膚なきまでに攻撃魏せるも︑五︑々のそれに対する態度に付い5主.三言半句も述べられてい蕊﹂と不満をもらしている・では︑彼等はどのような楚を三たのか︒ 6
政研支部幹事だった北原亀二は︑郡青年会委員長になっており︑政研支部は郡青年会に影響をもっていた︒郡青は︑
大正十四年二月のデモ行進に軍教反対のスローガンを入れた︒
大正十四年になると︑勤労青年に対する軍事教育の具体化が問題となる︒青年団による軍事教育という初期の計画が︑
同年六月から七月にかけてジャーナリズムによってあきらかにされると︑﹃政治と青年﹄は反対のキャンペーンをのせ
た︒第二七号︵大正+四年八月+日︶にのった宮島義治﹁一般青少年軍事教育に反対せよ﹂がそれである︒自由青年連盟
以来︑反軍国主義運動をおこなってきた彼等にとって﹁戦争に対する実際的な訓練を目的とする軍事教練には無産階級
の立場から絶対的に反対すべきは議論の余地はない﹂ことであった︒しかし︑﹁軍国主義教化の範囲と効果の程度に於
て青少年軍事教練は学生軍事教育の比ではない﹂ことを指摘した︒その理由として︑O 社会を変革する無産階級の子
弟に対するものである︒⇔農村青年は︑農村に定住するから﹁軍国主義に影響され︑訓練された彼等はやがて其の地
方町村の文化を支配する一勢力﹂になる︒をあげている︒
さらに︑青年会を在郷軍人会と結びつけることは︑自主的青年団を破壊するものだから青年団を自主化する立場から
も反対しなければならないと述べている︒
そこで︑青年団は︑青年団自主化のために︑政治研究会等の無産階級団体は︑無産階級の利益擁護のために︑軍事教
育反対の共同戦線を作ることを呼びかけた︒この具体化として政研支部は郡青に働きかけ︑九月に郡青代議員会は反対
決議をあげた︒提案どおりいかなかったが︑政研支部は︑十一月に郡青の有志とともに軍事教育反対同盟を結成した︒
青年団との共闘という方針は︑政研支部によれば﹁青年運動の新戦術﹂であった︒それには︑青年団の自主化を在郷
軍人会や村.県当局の攻撃に対抗して徹底させる課題が意識されていた︒自主的青年会の意義︑内容は︑運動の初期か
ら次第に変化していた︒大正十三年八月の郡青代議員会決議文は︑﹁思想善導の名で青年の領域に容騰してくる官僚︑
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作興会︑軍人会等一連の反動勢力に対抗しようとする第二期的自主防衛の考え方に移行しつつある点︑新段階に入つた
ことを思は為・Lものであった・すなわち決議文によれば・青年団の皇化とは︑﹁青年が青年自らの自治と独立とに
よつてその教養指導の機関を持っ﹂ことである︒したがって﹁青年会員がその指導教養に関して青年以外のものの介在
する機関によって統制され或は指導さることを拒否しなければならぬ︒殊にこれが青年の進歩的思想を誤解し︑或は︑
これに反対せんとする反動的思想的傾向のものに対して吾らは断乎として拒否しなければならぬ﹂のである︒ ロ 北原亀二は︑﹁自主的青年会確立の真意義﹂で次のようにのべている︒
﹁青年会は教養団体である従つて其れは社会現象の科学的批判的考察︑を青年自らの出発点として確保する為に︑青
年自身が自主的に強大な組織をつくり︑力となる必要があるのである︒
青年の科学的考察を︑妨ぐるものはひとり迷信や老人の伝統的観念のみではない︒
実に其の最大部分は支配階級の教化指導にある︒﹂
カ
ー すなわち︑﹁支配階級の教化指導﹂のひとつとして︑軍事教育がとらえられたのである︒実 ところが・大正十四年初頭︑北原委員長の出身青年会−上郷村青が郡青を脱退し︑対抗組織として郡連青の結成に
と綱のりだす︒郡青は︑外に軍事響︑精神作興会等の攻撃︑内に青年会の脱退という危機に直面する︒この事態の打開と
動青年会自主化を徹底するために・政研下伊那支部が打ち出した方針が︑反軍教青年同盟の組織化であった︒圭・年会内部
縫の百由義的分子L︵上郷村青等の指導部を指すとおもわれる︶は二独立藷の闘争的場面から逃避せんとしているL︒
酬そし三郡青における反動的纂は在響人会曇の他の反動的分子を以て膨大なる反動の勢力を形聴撃独立運動
馴に於て能力を失墜したる畠主蓼子を引込み組織的に青年大衆を彼等の手中に獲得せんとしつつあるL︒.﹂のような7主.青年会内部の動揺を防ぎ・軍事誓による新たな皇的青年会の破壊に対抗するには︑蕪産享の闘雰子L︵政研支6
部の青年を指すとおもわれる︶との共同闘争しかない︒そのスローガンは︑先述したと同じ理由から軍事教育反対であ
る︒反動思想と対抗するには︑青年の革新性のみに依拠する青年世代論的発想ではだめで︑無産階級との共闘がなくて
はできないという意味で︑発想の転換であり︑﹁新戦術﹂だったといえよう︒
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四
さて︑大正十四年十月十五日にいわゆる小樽高商事件がおこった︒﹃政治と青年﹄は︑﹁全青年の利益のために︑無産
階級の利益のために起て︑一大共同戦線に加はれ﹂と呼びかけ︑ この事件をとりあげた︒この事件は︑﹁明らかに軍事
教育が無産階級を敵として白衛軍を編成する計画なる事を明確に立証した﹂のであり︑関東大震災の時の﹁労働組合運
動者︑鮮人等の虐殺を是認﹂するものだと激しく攻撃した︒政研支部は︑先述した宮島義治二般青少年軍事教育に反
対せよLで軍事教育は青年だけでなく無産階級全体の問題であるから︑無産団体全てが反対運動をするよう呼びかけて
いた︒したがって︑この事件を契機とした軍国主義教育反対の無産団体の運動のひろがりを喜び確信を持ったのである︒
﹁吾等はさきに軍教実施の問題起るや軍教反対運動に努力し来つたもので︑殊に軍教反対問題は単に一部青年学生の
みの問題に非ず全無産階級の問題にして吾等は全国的に一大共同戦線を以てこれに当らざる可からずとは︑吾等の主
張して止まざる所であつた︑今や全国的運動に拡大され︑やうやく白熱化されんとしつつあるを見て歓喜たく不能す ︵19︶ るものがある︒﹂
又在目朝鮮人団体の日本人に対する呼びかけを紹介したことは︑呼びかけに答えようとすることをあらわしたものだと
いえる︒
小樽高商事件は︑下伊那の青年の軍教反対運動に一層の拍車をかけた︒大正十四年十二月三日︑在郷軍人会下伊那郡連合会と政研支部︑軍教反対同盟との軍教対談会が開かれた︒この対談会でも小樽占口同商事件が反対の論拠のひとつとな
っている︒が︑青年側の論拠にはひとつの特徴があらわれている︒それは︑自由青年連盟以来主張してきた軍国主義が
帝国主義的侵略の道具であることを主張するのが弱くなってきていることである︒例えば︑軍教反対同盟︑政研下伊那
支部︑政研長野県評議会連名の呼びかけ﹁全民衆に激す﹂によくあらわれている︒
政研支部は・﹃政治と青年﹄の記事﹁政研支部大会の宣言﹂︵号外︑大正+四年八月十七日︶﹁国際青年デー﹂︵第二八号︑
大正+四年九月五日︶で︑軍国主義の帝国主義的侵略の道具という側面を指摘しているし︑千代村青年会では︑軍教反対
の宣伝にあたってその点を指摘している︒しかし︑小樽高商事件を評した﹁全国化し白熱化する軍教反対運動﹂では︑ の その点が枕言葉的になっている︒奥田修三氏の紹介した政研本部発行﹃軍事教育の教程﹄が︑朝鮮問題を植民地解放の
問題としてとらえ︑それを弾圧するものとして軍事教育をとらえているのにくらべ︑はるかに後退しているといえよう︒
何故だったのか︒自主的青年会確立と発展を重視するあまり︑それと軍国主義教育との関係を全面におしだした結果だ② と考えられる︒
峠
纏政研下伊那支部は︑政研の大衆教高盟への組織替えと共に︑その支部となり︑労農党南信支部へと発展する︒又︑
動政研支部へ参加した青年達は・舎黍産青年同盟の支配を結成する︒軍国主蓼育反対運動は︑主・年訓練所設立と共
㍗新しい段階をむかえる.その後の覇の考覆次回に警たい.自由圭・年連盟以﹄別の反軍国主義教育運動につい
馴ては︑青年が青年団と在響人会との関係をど−みていたかが︑ひとつの問題となると責られるが︑.﹂れも他の機会
鞠 にゆずらざるをえない︒ 9青 6
注
む︵1︶ ﹃史潮﹄九二号 7︵2︶ ﹃社会教育行政の理論ー日本の社会教育第四集﹄︵日本社会教育学会編︑一九五九︶所収
︵3︶ ﹃講座現代教育学五︑日本近代教育史﹄︵岩波書店︑一九六二︶所収
︵4︶ 羽生と山川均等の接触及び︑羽生のその前後の活動については︑次のものを参照︒羽生三七﹁生涯の進路を決した山川宅の一
夜﹂︵﹃山川均全集月報五﹄︶︒小川利夫﹁自由大学運動の再評価ーその現代的視点OI﹂︵﹃自由大学研究第一号﹄自由大学研
究会︑一九七四︶
︵5︶ 上郷村電問題が︑それである︑羽生三七﹁自由青年連盟の成立まで﹂︵﹃進め﹄一巻六号︑大正十二年七月︶︒ただし︑厳密な
意味で山川の﹁方向転換論﹂でいわれてるような条件が︑下伊那に存在したかは疑問である︒
︵6︶﹃進め﹄︵前掲号︶のコラムに次のようなものがある︒﹁羽生君に会つた瞬間︑まるで大人のやうな感じを受けた︒落付きのあ
る態度思慮深い言葉︒山川さんは西君と同じタイプの人だなと印象された︒自由青年連盟の人達は︑皆揃つて偉い︒その上皆ん
なジヨウダンが旨い兎に角山の中に︑大変な一郡が現はれたものである︒﹂
︵7︶ ﹁スタートの切り直し﹂︵﹃政治と青年﹄第一号︑大正十三年九月十日︶
︵8︶ 羽生三七﹁青年運動の責務﹂︵﹃進め﹄第二巻一号︑大正十三年一月︶
︵9︶ 宮本静夫﹁青年運動を起せ﹂︵﹃第一線﹄第一号︑大正十二年四月二十目︶
︵10︶ 水島潤治﹁青年団員に撤す﹂︵﹃前衛﹄第二巻四号︑大正十一年十一月︶
︵11︶ 川合義虎﹁都市労働青年の運動﹂︵﹃建設者﹄第二巻四号︑大正十二年七月︶
︵12︶ 北原亀二﹁下伊那における方向転換﹂︵﹃政治と青年﹄第二二号︑大正十四年五月二十日︶
︵13︶ ﹃千代青年会史﹄︵昭和九年︶一〇八ページ︒これらの青年世代論的発想には︑明治維新が念頭にある︒したがって︑徳富蘇峰
の青年世代論との類似を指摘できる︒蘇峰の青年論の影響を検討する必要がある︒又︑当時︑明治維新は日本の社会が変わる証
明となったから︑後のピオニールでも教材としてとりあげられている︵例えば︑大阪全農上瓦屋少年団︶︒したがって︑教材と
して明治維新のとりあげ方が問題となるだろう︒
︵14︶大山郁夫﹁学生生活と軍事訓練﹂︵﹃政治研究﹄第二巻三号︑大正十三年十一月︶参照
︵15︶ 荒井邦之介﹁ニュインテレゲンチャーの態度︵二︶﹂︵﹃政治と青年﹄第二二号︑大正十四年一月二十日︶
︵16︶﹃下伊那青年運動史﹄︵国土社︑一九六〇︶五五ページ
︵17︶ ﹃政治と青年﹄第七号︑大正十三年十一月十日
︵18︶ ﹁青年運動の新戦術−反軍教青年同盟組織に全力をあげよl﹂︵﹃政治と青年﹄第三二号︑大正十四年十二月一目︶
︵19︶ ﹁全国化し白熱化する軍教反対運動﹂︵﹃政治と青年﹄第三一号︑大正十四年十一月一日︶
︵20︶ 奥田修三﹁大正期における軍国主義教育批判﹂︵﹃立命館産業社会論集﹄第ご号︑一九六六︶
②
戦 実
と理
論
動の
運
対
反
噸
所
青 71 鞠