「抽象的危険犯」における可罰性の制限について(
二・完)
その他のタイトル Strafbarkeitseinschrankung bei abstrakten Gefahrdungsdelikten (2)
著者 佐伯 和也
雑誌名 關西大學法學論集
巻 46
号 2
ページ 275‑321
発行年 1996‑06‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/00024559
一はじめにーー'問題の所在
二抽象的危険犯の問題性
①具体的危険犯と抽象的危険犯の形式的区別
①区別基準の問題
②抽象的1具体的危険犯概念
②従来の︵いわゆる︶形式説の内容と問題点
①一般的危険性説︵危険・危険性動機説︶
②反証を許さない危険・危険性推定説
︵抽 象的 危険
・危 険性 説︶
三抽象的危険犯における可罰性の制限をめぐるドイツの議論
① 真 正 危 険 犯 説
②︵反証を許す︶危険・危険性推定説
③具体的危険前段階説︵以上四六巻一号︶
④ 注 意 義 務 違 反 説
⑤ 実 質 的 危 険 説
﹁抽象的危険犯﹂における可罰性の制限について︵ニ・完︶ ﹁
抽象 的危 険犯
﹂
固観念的法益毀損説
⑦ 安 全 性 毀 損 説
四抽象的危険犯における可罰性の制限をめぐるわが国の議論
m
違法論における抽象的危険犯の限定①形式的実行行為+可罰的危険︵具体的危険説︶
②形式的実行行為+行為の危険性︵危険行為説︶
③形式的実行行為+結果としての危険︵危険結果説︶
③構成要件論における抽象的危険犯の限定
①危険結果説
②事前的危険行為説
鸞後的危険行為説 五 お わ り に
1私見の展開と残された課題
①二重の危険概念
②遺棄罪・放火罪の検討
③残された課題︵以上本号︶
佐
八 伯
九
︵二
七五
︶
和
にお ける 可罰 性の 制限 につ いて
︵ニ
・完
︶
也
注意義務違反説 ここで論述される見解は︑個々の場合における行為に着眼している点において︑
が︑その制限を﹁潜在的な行為の危険性﹂ではなく︑﹁過失犯の要件﹂であるー客観的あるいは主観的
1注意義
まず
︑ 務を用いて抽象的危険犯の制限を主張するところに共通性がある︒しかし︑個々の根拠づけにおいて相違が存在する︒
(1 )
ルドルフィーの見解が検討される︒ルドルフィーは︑ほとんど統一的な判例︑学説の広い適用範囲に対して重 要な疑念が投ぜられうるとし︑このことを明確化するため次のような事例を挙げ説明する︒つまり︑
A
は︑前もって最大限可能な注意を用いて住居には人がいないということを確信した後に︑行為時に人が決していない自らのあるい
は他人の住居に放火する︒三
0
六条の意味と目的は︑火を放たれた建物にいる人々の危殆化︑侵害︑および死から保 護することであるが︑ほとんど統一した見解は
A
を三
0
六条によって処罰することに疑念をもっていないのである︒しかしながら︑
ら︑先程の例では︑保護法益の侵害あるいは具体的危殆化のみではなく︑行為者の意思はまさに一︱
1 0
六条にとって重
要な︑すべての事態無価値
( S a c h v e r h a l t s u n w e r t )
の回避に向けられていたのであるから︑必然的に行為無価値も欠(2 )
けるのである﹂︒この点をさらにルドルフィーは︑本質的にフォルツの見解
I
フォルツは︑行為者が抽象的に危険な構成要件行為の実行によって︑同時に保護法益を事実的に危険にさらすかあるいはまった<侵害する危険をあえて 行う
( e i n g e h e n )
点に︑言い換えれば行為者が︑保護法益が事実的に危険にさらされるかあるいは侵害されるかどう(4)
抽 象 的 危 険 犯 に お け る 可 罰 性 の 制 限 を め ぐ る ド イ ツ の 議 論 ルドルフィーによれば︑それに対して﹁すでに不法レベルにおいて重要な疑念が向けられる︒なぜな
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
クラーマーの見解とほぼ一致する
九〇
二七
六︶
﹁抽
象的
危険
犯﹂
にお
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶
九
(3 )
かを︑義務違反によって偶然に委ねるという事実に根拠づけをみいだすーーに同意して︑次のことと異ならないとい
う︒つまり︑三
0
六条による可罰性は︑少なくとも三0
六条によって非とされる事態無価値︑すなわち火を放たれた建物にいる人々の侵害あるいは具体的危殆化に関する過失を前提とするのである︒従って︑一︱
1 0
六条は抽象的に危険
な構成要件行為の故意による実行の他に︑行為者がこの行為によって少なくとも過失により同時に一︱
1 0
六条によって
非とされる事態無価値の実現を﹁得ようと努力して
(4 )
する
ので
ある
︒
( e r s t r e b
e n )
﹂いなければならないかぎりで︑行為無価値を要求
以上のルドルフィーの抽象的危険犯における制限は︑彼の不法論に基づいている︒﹁刑法上の行為無価値概念﹂は︑
まず法益によって~理上の行為無価値概念より||'限定されるのであり、それに属するのは法的に承認された利
益の侵害あるいは危殆化に︑すなわち構成要件該当の事態無価値に向けらた行為のみである︒刑法上重要な無価値内
(5 )
容は︑構成要件上確定された法益侵害あるいは法益危殆化の取得努力に基づいているのである︒すなわち︑ルドル
フィーによれば︑﹁刑法上の行為無価値﹂は事態無価値の志向
( I n t e n t i
o n )
︑つまり志向無価値
( ln t e nt i o ns u n we r t )
(6 )
なのである︒ルドルフィーが行為無価値を重視する見解(‑元的人的不法論︶を排斥し︑結果無価値も重視する見解
(7 )
︵二元的人的不法論︶に依拠しながら︑例外として抽象的危険犯を位置づけている点︑行為無価値による抽象的危険
犯の適用範囲の制限を行っていることは注目される︒しかし︑このような行為無価値によって説明しなければならな
いかは疑問である︒
( 8)
ホルンはルドルフィーそしてフォルツに引き続き︑﹁客観的注意義務﹂によって抽象的危険犯の構成要件に実質的
な内容を与えようとする︒まず︑ホルンによれば︑通説では︑﹁抽象的危険犯﹂という表現は︑決して独立の理論的
︵二
七七
︶
︵二
七八
︶
意味を持ってはいないのである︒通説に従って︑具体的危険が明らかに︵あるいは類似の表現並びに﹁侵害ー適性﹂
及び同様なもの︶確定される必要がないところでは︑裁判官は危険性の考慮
( G e f a h r l i c h k e i t s i i b e r l e g u n g )
も決して
行う必要がなく︑むしろ単に包摂し
( s u b s u m i e r e n )
なければならないのであるということを前提とするなら︑その
( A p o s t r o p h i e r u n g )
は︑意味なきことであり︑抽象的危険犯
(9 )
と﹁単純行為犯﹂との限界をめぐる論争は無味乾燥なものへ陥るのである︒このことを回避する︑つまり一定の法益
連関を要求するためには︑ホルンによれば︑二つの理論的な形態が存在する︒つまり︑抽象的危険犯を﹁危険ー結
果﹂犯
( G e f a h
r ,
E r f o l g s d e l i k t )
︑それ故﹁抽象的危険﹂︵これは一種の程度を弱められた﹁具体的危険﹂であろう︶
という結果をもった犯罪とするかあるいは﹁危険ー行為﹂犯
( G e f a h r ' H a n d l u n g s d e l i k t )
︑すなわち特定の法益の侵
害の発生に関して不注意な︑しかし法益侵害を実際に実現したかどうかに左右されずに﹁可罰的で﹂ある︑構成要件
( 10 )
の中でその性質を記述された行為による犯罪とするかである︒ホルンは︑抽象的危険犯を﹁危険ー結果﹂犯とする解
決は︑法はまさにそのような結果を要求していないので︑法と一致にもたらされうるかどうか疑わしいとし︑危険ー
行為犯による解決をとるべきだとする︒このことは︑﹁抽象的に危険な行為﹂の可罰性は客観的に不注意な︵これは
ー禁止の背後に存在する
i
益侵害あるいは具体的な法益の危険に関係づけられた︶( 11 )
ことを意味するのであるという︒
以上のホルンの見解は︑二つの﹁抽象的危険犯﹂の解釈方向を示し︑﹁危険ー結果犯﹂を法との不一致により排斥
し︑﹁危険ー行為犯﹂による解決に賛同を示している点は興味深い︒なぜなら︑わが国では︑﹁抽象的危険﹂は︑具体
( 12 )
的危険同様﹁結果﹂であるという主張が存在しているからである︒確かに︑法の文言解釈に﹁結果﹂︵抽象的危険︶ ような行為カテゴリーを﹁抽象的危険犯﹂と呼ぶこと
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
メルクマールヘ制限される
九
﹁抽
象的
危険
犯﹂
にお
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶
九 ( 13 )
を含めることが可能な抽象的危険犯はそのような展開をなしうるという可能性も存在するが︑この場合︑﹁結果とし
ての抽象的危険﹂の要求が文言解釈によって可能であれば︑それはすでに﹁抽象的危険﹂の要求ではなく︑﹁具体的
危険﹂の要求と解釈することも可能なのではないか︑そうであるならそこではすでに﹁抽象的危険犯﹂ではなく︑
( 14 )
﹁具体的危険犯﹂が問題となっているという疑問が浮かび上がってくる︒また︑抽象的危険犯を﹁危険結果犯﹂と考
える場合︑なぜ︑書かれざる構成要件要素として危険を要求しうるのか︑また︑なぜ︑その危険が具体的危険ではな
く﹁抽象的危険﹂の要求にとどまるのかが答えられねばならないであろう︒しかし︑ある抽象的危険犯の正当な制限
方向は︑抽象的危険犯を﹁危険行為犯﹂としてではなく︑﹁危険結果犯﹂として理解することであろう︒従って︑ホ
ルンのように﹁客観的な注意義務﹂によって制限するという見解は︑あまりにも行為無価値的な発想であり︑疑問で
( 15 )
ある
︒
( 16 )
︵1 7
)
さらに︑プレームも客観的注意義務による抽象的危険犯の制限を主張する︒プレームはミュンツベルクの違法論に
依拠し︑次のような見解を提示する︒﹁違法性の判断は︑事前の観点から
(v
on
ei
ne
m Standpunkt
ex n t a e )
行われ
るのである︒なぜなら︑命令︑禁止の内容は行為が実現される以前に確定されなければないからである︒結果が生ぜ
しめられたという事後の確定は︑負責
(H
af
tu
ng
)
にとって意義があるだけである︒違法性判断の枠内においては︑
( 18 )
︵1 9
)
結果は可能な結果としてのみ意義があるのであるという︒放火を例としてプレームはさらに論述する︒三
0
六条の場合︑違法性を法益から考察し︑かつ違法性判断を専ら行為に関連づけるなら︑三
0
六条は特殊なものを含んではいないの
であ
る︒
︱︱
1 0
六条は︑事前の観点から
(v
on
St
an
dp
un
kt
ex
an t e a u s )
判断し︑人の生命を侵害するに適してい
る行為を記述しているのである︒なぜなら︑行為はこの実害傾向をもつという理由で︑行為は通常︑違法として判断
︵二
七九
︶
︵ 二 八 〇
︶
されなければならないのである︒そこでは︑結果の欠如は︑重要ではない︒なぜなら︑後に生じる結果が︑フィード
( r t i c k w i r k e n d )
行為を違法だとはなしえないからである︒それによって︑すでに︑個々の場合において
法益攻撃が欠けるという理由で︑処罰が不適切と思われる場合の限界
( E i n g r e n z u n g )
が明らかになるのである︒次
の場合がそうである︒つまり︑保護法益の侵害への行為の適性が︑行為者の観点から否定されなければならない場合
である︒我々の出発点を保持し︑義務違反な行為を違法と呼ぶなら︑三
0
六条の場合に︑違法な行為を承認する二つ( 20 )
の方法のみが考慮されるのであるという︒
プレームによれば︑二つの方法とは︑国個々の場合から抽象化された︑また決して修正
( K o r r e k t u r )
を可能とは
しない抽象的適性︑何具体的場合において実害結果を惹起するに適しているような行為のみがここでも違法であると
( 22 )
考える具体的適性である︒プレームは︑しかし︑最初の見解を前提とし︑適性を抽象的に規定するなら︑通説とは異
なった結果を獲得しえず︑裁判官は︑行為に害がないことを確信したときさえ有罪判決をしなければならないという︒
しかし︑なぜ︑行為者は処罰されなければならないのかという問いに答えるには︑適性を具体的に判断しなければな
( 23 )
らな
いと
する
︒
プレームによれば︑この方法は︑三
0
六条において実行可能かどうかは︑立法者が行った類型化( T y p i s i e r u n g )
( 24 )を裁判官が︑どの程度修正
( k o r r i g i e r e n
)
︑つまり類型修正( T y p e n k o r r e k t u r )
してよいかに依存する︒この点に関
( 25 )
して︑プレームは︑構成要件解釈︑実質的な構成要件該当性︑社会相当性︑許された危険︑過失犯を例として挙げ︑
1 ︱ ︱
0
六条︑つまり抽象的危険犯の場合には︑以上と同様に具体的考察方法が可能であるかどうかは構成要件該当性と違法性の関係が詳しく考慮されるときのみ確定されえ︑通説の帰結は︑抽象的危険犯の際に︑構成要件該当性によっ バックして
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
九四
﹁抽
象的
危険
犯﹂
にお
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶
義の産物
( Re l i kt )
九五
て同時に違法性が与えられるときのみ正しいものであるという︒それではプレームによれば︑抽象的危険犯の場合︑
( 2 6 )
法律構成要件によって︑すでに違法性は与えられているだろうか︒不法価値の実質的な考察が︑構成要件該当性に対
プレームは︑この問いに次のようにいう︒通説によれば︑抽象的危険犯の場合︑法律構成要件下への包摂可能性
(S
ub
su
mi
er
ba
rk
ei
t)
によって違法性が一般的に確定される︒しかし︑法と立法者の動機とのこの区別は︑法実証主
( 27 )
である︒従って︑プレームは︑法と立法者の動機を厳格に分離する考えを支持しない︒
以上を前提として︑プレームは三
0
六条の放火について次のようにいう︒﹁ここでは構成要件の意図は︑人の生命の危殆化を防止する点に存在するのである︒通説は三
0
六条を生命危殆化犯であることを前提とするなら︑行為者に︑彼が義務違反に行為したということが非難されえなければならない︒しかし︑この義務違反は形式的な禁止違反から
は生じず︑むしろ︵事前に
ex
a nt e )
生命という法益を侵害するに適した行為を行ったということからのみ生じるの
である︒具体的場合における適性
(E
ig
nu
ng
)
に関する確定を放棄し︑禁止違反からのみ違法性を導くなら︑保護法
益との関連は放棄され︑かつ構成要件はもはや生命危殆化犯と特徴づけられず︑それは純粋な形式犯
(F
or
ma
ld
el
ik
t)
( 28 )
にな
るで
あろ
う﹂
︑と
︒
適性は︑プレームによれば︑次のとき与えられる︒つまり︑多くの場合には︑住居の火つけは行為者の観点から人
を危険にもたらすに適しているのである︒これらの場合には︑常に義務違反性も存在し︑それ故行為は違法なのであ
( 29 )
る︒違法性判断はここでは過失行為のそれに一致する︒以上からプレームは自説を次のように結論づける︒﹁義務侵
害が存在するかどうか︑という問題にとってまず第一に殺害禁止が決定的である︒︱︱
1 0
六条下に包摂しうる行為は︑ して付加的なメルクマールを要求するのだろうか︒
︵二
八一
︶
行為者が特別な調査
( E r k u n d i g u n g )
によって殺害禁止を遵守しなかったという前提の下でのみ︑義務違反でり︑
( 30 )
従って違法なのである︒それ故︑三
0
六条に記述されている行為は行為者が特別な認識をもっていないときのみ違法なのである︒実際︑誰かが建物にいることが認識しえず︑行為者が︑誰も危険にもたらされないことを前提とするな
( 31 )
ら︑注意義務の侵害は存在せず‑︱
1 0
六条の適用は︑たとえ誰かが殺されたとしても︑排除されるのである︒
以上のブレームの見解は︑違法の本質論において︑従って︑行為無価値一元論の展開において否定されねばならな
い︒行為を出発点として違法論を考えると︑
るから︑﹁可能な結果﹂のみが違法性に属するということではあるが︑やはり︑侵害犯︑ないしは結果犯を念頭にお
いて構成すべきであろう︒この点に問題はありはしないだろうか︒また︑抽象的危険犯の限定においても︑客観的な
( 32 )
注意義務侵害を中心に据える見解は問題であり︑可罰性の制限は危険という観点から行うべきであろう︒
( 33 )
最後に︑主観的な注意義務を要求するシューネマンの見解が検討されなければならない︒シューネマンは︑従来の
意味における抽象的危険犯を﹁三つの異なるカテゴリー﹂に区別する︒
まず︑賄賂罪並びに偽証罪のごとく精神化された中間法益
( Z w i s c h e n r e c h t s g u t )
をもつ犯罪が最初のグループで
ある︒ここでは︑すでに中間法益の侵害が当罰的な無価値であり︑可罰性の制限は︑次のような方法でのみ考慮され
微な違反
( M i n i m a l v e r s t o B e )
︵二
八二
︶
つまり事前の判断のみで考察すると確かに結果は事後的に生じるのであ
︵例えば︑三三一条以下における些細な贈物のごとく︶軽
は︑限定的な構成要件解釈によって取り除かれるのである︒
第二のグループには︑︵とりわけ道路交通における︶大量行為が属する︒例外なき規範遵守
( N o r m b e f o l g u n g )
は ︑ここでは学習理論的な理由から
( a u s l e r n t h e o r e t i s c h e n G r u n d e n )
要請されるのである︒なぜなら︑さもなければ るにすぎないのである︒つまり︑クラーマーに依拠して︑
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
九六
( 5 )
︵例えば︑道路交通における右側通行の︶必要な自動化( A u t o m a t i s i e r u n g )
九七
一部
を
はまさにこの規範の単なる形式的な秩
序機能の故に成功しえないからである︒その結果︑すべての違反は規範目的下にも属し︑可罰性の制限はおよそ考慮
第三のグループは︑中間法益も大量行為も問題とはならない︒ここでは︑過失未遂という法形象によって責任原理
と一致にもたらされうるのである︒これは︑故意犯における不能未遂に関して︑またホルンとブレームの見解とはこ
となって客観的ではなく︑むしろ主観的注意義務違反によって特徴づけられるのである︒
( S i c h t )
と能力
( V e r m i : i g e n )
要件を実現する者は︑彼の予防措置が客観的にすべての事情の考慮において十分と思われるときも︑その危険性に基
( 34 )
づいて抽象的危殆構成要件から処罰されるべきであるとする︒
( 35 )
以上がシューネマンの見解である︒シューネマンは︑抽象的危険犯とされる犯罪の一部を侵害犯に転化し︑
主観的注意義務を要求することにとって︑制限を試みた︒シューネマンのごとく抽象的危険犯の細分化は︑必要なよ
うに思われるが︑どのような観点から行うのかは︑非常に困難な問題だと言わなければならない︒また︑中間法益を
どの様に規定するのか︑そこではこの法益の侵害をどの点にみいだすのかが問題であるように思える︒さらに︑学習
( 36 )
理論的要請がなぜ︑大量行為にのみ妥当するのであろうか︒
実質的危険説 からあらゆる実害可能性の排除に必要な予防措置をなすことなしに︑三
0
六条の構成この見解の特徴は︑個々の行為から不法を基礎づけるという点にある︒従って︑﹁形式的危険﹂が処罰根拠ではな
﹁抽
象的
危険
犯﹂
おに
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶
されないのである︒
つまり︑自らの見地
︵二
八三
︶
く︑﹁実質的危険﹂が処罰根拠であるとする見解である︒
( 3 7 )
例えば︑ヴォルターは︑態度様式のみが禁止されうるとするが︑しかし︑犯罪行為は不服従という表現としてでは
( 38 )
のゆえに禁止されるのである︒刑法の不法には︑なく︑それと結びつけられる法益侵害の現実的な見込み
( C h a n c e )
︵二
八四
︶
危険性不法および結果不法も属するのである︒つまり︑不法の根拠づけのプロトタイプ
( 39 )
的に非難される危険︑従って︑行為不法を越える客観的危険性不法の惹起なのである︒ヴォルターは︑この危険性不
法を第一次的な結果不法と呼んでいが︑︒この第一次的な結果不法の他に︑ヴォルターは︑侵害犯︑具体的危険犯の場
合︑それに加えて︑事後的に
( e x p o s t )
判断されうる第二次的な結果不法としての危険実現を要求する︒
以上を前提として︑ヴォルターは︑︵例えば︑道路交通における︶大量行為等が問題となる場合︑単なる秩序違反
の場合︑それらに含めて考えられない場合を分け︑最後の場合には︑三
0
六条が属するとし︑本条は︑刑法的に重要な﹁個人に対する罪としての性質﹂
( l n d i v i d u a l c h a r a k t e r )
を有しており︑この﹁非本来的な抽象的危険犯罪行為﹂
の場合には︑生命︑身体︵あるいはまた個々の場合において重要な財物に対する具体的危険性ないし危殆との﹁直接
的な﹂関連なしで︑刑法の中に規定をそのままにしようとするなら︑そのことは刑事不法︑責任原理に対する違反で
( 41 )
あろ
うと
いう
︒
それでは︑ヴォルターは三
0
六条︵放火罪︶を如何に考えているのか︒ヴォルターによれば︑三0
六条二号は︑行為者が故意の放火︵行為︶の他に︑︵少なくとも︶﹁過失により﹂第一次的な結果不法としての﹁相当な侵害危険﹂
︵危険性不法︶をつくりだすか︑あるいは
( 42 )
いる﹂ときのみ実現される︒ 関法第四六巻第二号
︵﹁故意﹂かつ憶測上により︶そのような﹁危険﹂を﹁惹起すると思って
( P r o t o t y p )
は︑相当な︑法
九八
九九
それ故︑ヴォルターの見解によれば︑行為者が放火の前に︑建物には人がいないということを︵適切に︶確信して
いたなら︑相当な生命の危険性それどころか危険結果あるいは侵害結果に関するあらゆる行為不法︑︵第一次的なな
いし第二次的な)結果不法並びにあらゆる責任が欠けるのである。つまり、裁判官が、客観的~後予測において、
放火行為の観点︑時点から︵遅くとも︑放火未遂の終了の際に︶︑決して人は︵生命の︶危険にさらされないあるい
はさらされえないと確証するなら︑すでに刑法典三
0
六条が前提とする﹁客観的﹂側面が欠けるのである︒またI︵あるいは予期可能性
(E
rw
ar
ba
rk
ei
t)
)
に反
して
││
'︑
火
をつけた建物にいる人が危険にさらされあるいは侵害されたとしても︑刑法典︱︱
1 0
六条は問題とはならないという︒
ここでは︑客観的︵並びに主観的︶に帰属可能な︵生命︶危殆危険の創出が欠ける︒これに反して︑行為者が彼の確
認
( V
er
ge
wi
ss
er
un
g)
によって︑他人の危殆ないし侵害は排除されていると錯誤しているなら三
0
六条二号によっ( 4 3 )
て有罪としなければならないであろうとヴォルターはいう︒
( 44 )
ヴォルターは︑第一次的結果不法である危険性不法のみではなく︑不能な故意的危険創出をも抽象的危険不法を基
礎つけるという﹁二元的構成﹂を採ったのに対し︑マルティンは︑第一次的結果不法のみが抽象的危険犯にとって決
( 45 )
定的だとした︒マルティンによれば︑事前に保護法益に対して危険でない行為をも︑抽象的危険犯において援用する
ことは客観的な事実的危険創出を軽視することになるからである︒このことが抽象的危険犯の可罰性にとっての第一
( 46 )
︵4 7
)
次的な是認であるという︒というのは︑﹁客観的危険創出のみが直接的な法益保護に義務づけられているからである﹂︒
( 48 )
︵4 9 )
さらに、ヒルシュ、アンドレアス•H・マイヤーは、抽象的危険犯を危険性犯と捉え、事前の行為の危険性、危険
性無価値でもって︑抽象的危険犯を制限する︒ヒルシュは抽象的危険犯を具体的危険性犯と抽象的危険性犯と称する
﹁抽
象的
危険
犯﹂
にお
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶
行為時に関する客観的﹁かつ﹂主観的予期
(E
rw
ar
tu
ng
)
︵二
八五
︶
⑥ 観 念 的 法 益 毀 損 説
( 52 )
ベルツは︑刑法的反作用の是認は 事情だということである︒ 犯罪形態に区別をなすのに対して︑マイヤーは︑抽象的危険犯を一括して具体的危険性犯として構成する︒なぜなら︑
( 5 0 )
マイヤーは﹁消極的法益連関を犯罪行為の必要条件﹂と解するからである︒
以上
の諸
見解
は︑
1ヴォルターは二元的構成であるが1総括して﹁危険性不法﹂を抽象的危険犯の処罰根拠と
みているということができる︒ヴォルター︑
ヒル
シュ
︑
マイヤーは行為不法だと考えている︒しかし︑危険性不法が結果不法であるか行為不法であるか否かに係
わりなく︑事前の危険性不法のみによって抽象的危険犯の不法を制限しうるかはわが国においてはとりわけ︑疑問と
なる︒なぜなら︑ドイツ刑法における三
0
六条の放火罪は︑わが国の現在建造物放火のごとく︑建物の中に現にいることに限った抽象的危険な放火罪を規定していないからである︒従って︑実質的危険説も︑﹁人がいたか否かという
( 5 1 )
事後的に判明する事情﹂は重要ではないという︒それ故︑ここで重要なことは︑人がいるか否かは事後的に判明する
あるいはその妥当要求︑尊重要求の侵害︶を前提とする︒この法益の毀損は︑故意犯の場合︑法益客体の故意の侵害
( 53 )
あるいは具体的危殆化に︑しかしすでに︑侵害あるいは具体的危殆化に向けられた意思の活動に認められるという︒
( 54 )
法益客体の侵害︑具体的危殆化のみが法益毀損でないことを︑ベルツは未遂の例で説明する︒例えば︑未遂犯の場
合︑攻撃客体の現実の侵害あるいは危殆化が可罰性の前提ではない︒このことは不法は︑結果無価値なしにでも︑行
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
マルティンがこの危険性を第一次的な結果不法に位置づけるのに対し︑
︵観念的︶法益の毀損︵抽象的な価値︑観念的な事態としての法益の妥当軽視︑
10
0
︵ ︱
‑ 八
六 ︶
しかし︑行為者が外部へ発現した一定の事情とともに事後に検証可能な
実害に導かないということを確実に知っており︑かつ実害が実際にも生じないときのみ事態は異なりうるのである︒
結局︑この場合その他の法仲間の信頼
( V e r t r a u e n e d r i i b r i g e n R e c h t s g e n o s s e n )
と ︒
一般的に人々の共同生活に必要な信頼基礎
( V e r t r a u e n s b a s i s )
を揺さぶるから︑基本的に行為不法を基礎づけ
( 57 )
るのである﹂︒つまり︑﹁その種の行為の実行は︑概して︑保護法益の妥当の軽視
( M i B a c h t u n d g e r G e l t u n g )
︑な
い
( 58 )
の侵
害を
意味
する
ので
ある
﹂︑
しそれを前提とする妥当要求
( G e l t u n g s '
︶あるいは尊重要求
( A c h t u n g s a n s p r u c h )
' こ ︑
﹁抽
象的
危険
犯﹂
にお
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶ ( 55 )
為不法のみによって基礎づけられることを明らかにする︒
10
以上の一般刑法的理論から導かれた認識が︑抽象的危険犯に寵接適用しうるかが問題であるとする︒つまり︑法益
毀損にとって︑法益客体への結果発生に依存せづに︑行為で十分なのであるという公式は︑修正を必要とするのであ
ろうか︒この点に関し︑ベルツは︑抽象的危険犯の犯罪行為の類型的特殊性から一定の変更が必要であるという︒つ
まり︑抽象的危険犯以外の犯罪類型にとって重要な行為は価値中立であり︑実害発生の故意あるいは過失といった他
人の価値を軽視する行為者の意思をもつことによって法的に非難に値する︒しかし︑抽象的危険構成要件に記述され
ている行為には︑この価値の中立性が欠ける︒なぜなら︑行為は類型的に法益侵害結果を持つからである︒従って︑
一般的に行為者は︑自らの行為に自らの状況評価を基礎とすることは禁止され︑防止されるべきでる︒﹁包括的な判
( 56 )
断に必要な基礎が行為者に欠ける﹂という懸念が存在するからである│ー技術的な領域のごとく場合ー︒それ故︑
﹁抽象的危険犯は一種の一般的な注意規則を意味し︑その侵害は︑行為が一般的侵害性向
( S c h a d e n s n e i n u n g ) ( n a c
h p r i i f b a r )
事情に基づいて︑行為は
の侵害は排除されている︒しかし
︵二
八七
︶
の故
ながら︑行為者は自らの行為が危険でないということを前提としてはいるが︑しかし︑実害が実際︑生ぜしめられた
ときには︑もはやこのことは妥当しない︒ここでは事後的にまさに一般的な法律上の注意要求
( S o r g f a l t s a n f o r d
e ,
r u n g )
に対立する評価が正しくなかったことが判明し︑その結果︑彼の評価は信頼形成的な措置
( v e r t r a u e n b i
, l
d e n d e M a B n a h m e )
えないのである︒なぜなら︑彼の行為は当該規定の目的また法益を保護する刑法の目的におよそ対立しないからであ
( 59 )
る︒それ故︑抽象的危険犯に形式的に属する行為に際しても︑法益毀損は認められないのである︒
以上から︑ベルツの見解によれば︑抽象的危険犯からする行為の可罰性にとっては実害結果が不発生であっても︑
行為が具体的に侵害に導かないという外部にもわかる確実な意思をもたないで行為したこと︑あるいは保護客体の侵
( 60 )
害あるいは具体的危殆化が生ぜしめられたことで十分なのである︒逆に言えば︑危険でないという外部にもわかる確
実な意思で行為し︑かつ具体的危殆化あるいは侵害が生じなかった場合のみ︑抽象的危険犯は可罰的ではないのであ
( 61 )
る ︒
以上
︑
︵ 二 八 八
︶
とは把握されえないからである︒それに対して︑実害結果が生じないなら︑それによってすでに
ベルツの見解の法益の毀損︑ 一定の予防に基づいて︑危険でないという外部へ認識しうる確実な意思
( m i t e d m s i c h e r e n , a n c h a u B e n e r k e n n b a r e n W i s s e n )
l t : : : f l & ' 1
" '
るなら︑さらに彼は行為不法も決して実現し
つまり︑﹁抽象的な価値︑観念的な事態としての法益の妥当軽視︑あるいはそ
の妥当要求︑尊重要求の侵害﹂は︑行為不法のみによっても結果不法のみによっても基礎づけられるという択一的前
提に特徴があるが︑法益をベルツの意味に抽象化することに︑まず問題がある︒﹁抽象化﹂された法益に対する危険
は︑実は本来の法益︵例えば︑生命︶に対する意味では危険なき場合をも包含することになりかねない︒また︑ベル をもって 結果不法が欠け︑さらに行為者が︑例えば︑
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
10
ツの見解からすれば︑抽象的危険犯と具体的危険犯︵さらには︑侵害犯︶の区別をどのようにするのか疑問である︒
というのは︑すべての犯罪形態が﹁法益の毀損﹂を含むという意味では︑法益から区別しえないことになり︑それら
の差異は存在しないことになるように思えるからである︒すぺての犯罪に︑﹁法益の毀損﹂が必要であり︑それで十
( 62 )
︵6 3 )
分だからである︒さらに︑﹁法益への具体的危険あるいは侵害は常に法益の毀損を意味する﹂とするが︑因果関係は
問題とはならないのだろうか︒ベルツの見解によれば︑因果的に逸脱する侵害あるいは具体的危殆化によっても︑行
( 64 )
為者が処罰されることになり︑その意味では︑結果責任の承認に他ならないことになる︒なぜ︑抽象的危険犯にとっ
( 65 )
て本質的ではない具体的危殆化︑侵害をもちださねばならないのか︒この点を考えるならば︑すでにベルツの前提で
ある﹁法益﹂毀損という前提に問題があるといえよう︒
安全性毀損説
従来の見解とは違った抽象的危険犯の可罰性の根拠づけが︑キントホイザーによってもなされている︒キントホイ
( 66 )
ザーは︑抽象的危険犯の規範も法益保護に奉仕すべきことに異論を訴えない︒しかし︑抽象的危険犯の禁止目的は︑
法益の侵害あるいは具体的危殆化を回避する目的から解放されなければならず︑この目的と同一であってはならな
しという︒なぜなら︑三一六条︵道路交通における酪酎の禁止︶は︑侵害防止が規範目的であるならば︑﹁実害が生
( 68 )
じていないときも逸脱したとみることは単なる論理矛盾である﹂からである︒
有する他人の物の具体的危殆が︑三一五条Cの規範によって禁止されている︒そのことは次のことを意味する︒運転
(7)
さらに︑﹁アルコール摂取のため運転不可能な状態での道路交通への関与による生命︑身体あるいは重要な価値を
﹁抽
象的
危険
犯﹂
にお
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶
I 0 1
1 ︱
︵二
八九
︶
され
てい
る︒
保障された不安のないことである
止
︵ ︱ ‑ 九
0)
手が︑保護法益を侵害しあるいは危険にさらすことにより︑三一六条の規範目的を逸脱した場合︑三一六条は三一五
条Cの背後に退き︑場合によっては︑実現された侵害は問題とはならない︒それ故I三一六条の規範が三一五条C
によって保護される財の具体的危殆化あるいは侵害の回避に役立つべきとするならー︑現行刑法によれば︑三一六
( 69 )
条の意味において実質的な規範違反であり︑この犯罪の故に処罰される場合は考えられない﹂からである︒
従って︑キントホイザーによれば︑中間目的を規定しなければならず︑その逸脱が独立した無価値内容を示し︑そ
( 70 )
れを媒介として抽象的危殆の禁止が刑法の法益保護に組み込まれることになる︒
それでは︑キントホイザーはどのように抽象的危険犯の規範目的を考えているのであろうか︒キントホイザーによ
れば︑抽象的危険犯の規範は︑﹁不安なしで財を自由に使用することに必要な︵他律的な︶安全性条件を毀損する禁
( V e r b o t e d i e z
u r s o r g e l o s e n V e r f i l g u n g U b e r G i l t e r n o t w e n d i g e n ( h e t e r o n o r n e n ) S i c h e r h e i t s b e d i n g u n g e n z u
( 71 )b e e i n t r i i c h t i g e n
)
﹂として解釈され︑また︑安全性というのは︑キントホイザーによれば︑﹁財を自由に使用する際に︑( 72 )
( S i c h e r h e i t i s t b e r e c h t i g t e S o r g e l o s i g k e i t e b i d e r V e r f i l g u n g b U e r
Giiter)」と理臨~この解釈は︑抽象的危殆という概念を使用することを許す︒財の観点から判断しなけかればならない行為効果が問
題であるので︑危殆
( G e f a r d u n g )
であり︑類型化された︑多少とも複合的な保護構想に関係しているかぎり︑この
( 73 )
危殆は抽象的である︒具体的危殆は主たる行為の実行︑つまり損害回避行為の無能力を対象としているのに対し︑抽
( 74 )
象的危殆は補助行為︑損害配慮行為に関係しているのである︒
さらに︑キントホイザーによれば︑例えば︑三
0
六条の重い放火に関して︑三0
六条二号において保護されるのは︑関 法 第 四 六 巻 第 二 号
10
四
(1
)
H a n s
‑ J o a c h i m R u d o l p h i , I n h a l t u n d F u n k t i o n d e s H
a n d !
g
g s
g
w e r t e s 1 m R a h m e n d e r p e r s o n a l e n
U n r e c h t s l e h r e , i n : F e s t s c h r .
f .R e i n h a r t M a u r a c h ,
1 9 7 2 .本論文の紹介として︑真鍋毅﹁ルドルフィ/人的不法論における行為無価値の内容
﹁抽
象的
危険
犯﹂
にお
ける
可罰
性の
制限
につ
いて
︵ニ
・完
︶
ての根本的な発想転換が必要だといえよう︒
10
五
価値の具体的な自由使用ではなく︑当該スペースにおける火による危殆への恐怖なき居住の可能性
( d i e M i : i g l i c h k e i t
( 75 )であるという︒放
d e s
W
o h n e n s i n d e n f r a g l i c h e n
a R u m e n o h n e F u r c h t v o r e i n e r G e f a h r d u n g <
l u r c h e i n e n B r a n d )
( 76 )火の禁止によって︑居住者の損害配慮の無能力が︑規範的に補償されるのである︒
キントホイザーは﹁安全性はすでに行為者による危険配慮がなされないとき毀損されている︒侵害あるいは具体的 危殆に導かなかった条件が︑被害者の観点から
( a u s d e r O p f e r p e r s p e k t i v e )
偶然に生じていなかったとき︑抽象的( 77 )
危殆は否定されなければならないのである﹂というが︑放火罪では︑﹁行為者が人のいない建物に火を放ったとして も︑行為者は住居という概念によって考慮に入れられる財に関する自由使用の安全性が毀損されている︒被害者の観
( 7 8 )
点からみれば︑放火に関する火災時の不在は︑偶然なのである﹂という︒
以上がキントホイザーの見解である︒この見解に対しては︑﹁安全性﹂という概念の中にどのようなものが考慮さ
( 79 )
れるのかという射程が不明確である︒どこまでも広がる可能性が存在する︒キントホイザーは︑放火罪において︑人 のいない建物に火を放ったとしても︑住居という概念によって考慮に入れられる財に関する自由使用の安全性が毀損 されているという︒事前に予防し︑人がいないことを確証し︑事実︑人がいなかったとしてもその意味では︑生
( 80 )
命・身体の安全性は保障されているー︑放火罪を認めることは財産的価値を法益とみるに等しい︒従って︑抽象的 危険犯の合理的な制限には適していない︒また︑﹁安全性﹂という概念︑安全性の保護の承認には︑刑法全体を通し
︵二
九一
︶