• 検索結果がありません。

曲田統『共犯の本質と可罰性』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "曲田統『共犯の本質と可罰性』"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

曲田統『共犯の本質と可罰性』

要旨

本論文は、共同正犯、教唆犯および従犯の本質、可罰性に関して論じたものである。これ ら三者の共通点、類似点、相違点を探りつつ、それぞれの行為(共同正犯行為、教唆行為、

幇助行為)の本質的実体、そしてそれぞれ成否基準・成立要件を明らかにすることを目的と している。

全体に通底するのは、団体犯原理である共同意思主体説の基本思想である。単独犯にはな い特殊な性質を共犯現象に認める視座にもとづき、理論展開が図られている。もっとも、特 に狭義の共犯に関しては、教唆犯と従犯の相違に光が当てられ、それぞれの特性に応じた性 格づけ・要件論展開が試みられている。

主張の骨子は、ごく簡略には、次のとおりである。

共同正犯に関しては、特に共謀共同正犯を念頭に、団体犯原理である共同意思主体説の基 本思想に依拠して、その本質を把握する必要がある。しかし、同説には修正が必要である。

修正を経た共同意思主体説の論理にしたがうことで、共同正犯の成立範囲が適切に画され ることなる。

教唆犯に関しては、教唆行為の本質を動機支配性に求め、最小従属形式として理解される べきである。処罰根拠論としては、正犯の構成要件該当性に従属しつつ独立の不法によって 成立が根拠づけられるとする、純粋惹起説を修正した考えが妥当である。

従犯は、制限従属形式として理解されるべきである。処罰根拠論としては、結果の間接惹 起という要素に加え、正犯不法との質的近接性という要素が認められるときに成立が根拠 づけられるとする、混合惹起説を修正した考えが妥当である。中立的行為による幇助に関し ては、確定的故意にもとづく幇助行為であるばあいに、「コミュニティにとって耐えがたい 悪しき手本として市民が受け止めることになる状況」が生じ、それによって正犯との近接性 が肯定され、当該幇助行為の正犯への従属(従属適格性)が認められることになると解する べきである。

以下、各章の要旨である。

【第1章】共謀共同正犯と共同意思主体説

本章では、団体犯原理に基づく共犯本質論である「共同意思主体説」について検討が加え られている。特に、共謀共同正犯を肯定する理論として共同意思主体説は採用可能かという 問いを立て、理論的見地から考察が進められている。

本章は、最終的には、共同意思主体説の基本構想に立脚しつつ、同説に修正を加えた考え 方が、共犯本質論として妥当であるとの見方に至っているが、ここに至るまでの論理は以下 のとおりである。

(2)

2

(共謀)共同正犯の理論的基礎づけに関しては、「機能的行為支配説」に代表される、個 人犯原理に基づく共同正犯理論が今日有力である。しかし、こうした個人犯原理の視座から、

共同正犯現象の実体を正確に把握することは難しい。共同正犯現象の実体を見誤らないた めには、個々の関与行為の性質というミクロレベルにとどまらない視点から、共同正犯性を 根拠づけることが必要である。その意味で、マクロ的視点をもちいてきた共同意思主体説の 思考枠組みが採用されるべきである、というのである。共同正犯の本質については、集団の 安定的一体性を重視する、団体犯原理によってはじめて正しく把握されうるというのが、本 章の主張の柱である。

もっとも、共同正犯における共同意思主体の内容について、従来の共同意思主体説は、必 ずしも十分に説明してきていない。そのため、同説に修正を加える必要があると筆者は指摘 する。すなわち、共同正犯の成立に必要となる共同意思主体の形成は、団体の一体性を根拠 づけるべき概念であるはずであるから、単に複数人が同じ目的に向かうことに合意したと きに認められる程度の心理的状態を超え、①関与者における目的・計画への主観的適合傾向、

そして②関与者相互の主観的結束性、という二つのミクロレベルの観点から確認される「狭 義の共同意思主体」が形成されたといえるばあいにはじめて肯定できる、と主張するのであ る。こうしたミクロ特性を有する複数の者で構成される集団それ自体の特性を、マクロ的視 点から捉えなおすことで、共同意思主体説が語ってきた「団体犯としての共謀共同正犯」の 本質を示すことが可能となるとされている。

【第2章】もう一つの共同意思主体説の展開、【補章】片面的従犯

前章では、共謀共同正犯の理論的根拠づけに関して、団体主義原理の見地からこれをおこ なうことの意義が示された。これは、共同意思主体説の基本視座の妥当性、およびその修正 の必要性の指摘である。第2章においては、こうした見地から、まず、(1)狭義の共犯(特 に従犯)における共同意思主体(筆者の言葉によれば「広義の共同意思主体」)の意義に関 して論じられている。そして、あわせて、(2)これまで多くの耳目を集めてきた重要判例、

すなわち最決平成15年5月1日(刑集57巻5号507頁)=いわゆるスワット事件、そし て最決平成17年11月29日(裁判集[刑事]288号 543頁)=いわゆる親衛隊事件が取り 上げられている。

(1)広義の共同意思主体の実体に関して、従来の共同意思主体説は、これを共同正犯の 共同意思主体と明確に区別することなく、2人以上の者が共同の目的に向かって合一すると ころに生じる、個人心理を離れた特殊の団体心理であるとしてきた。これは、しばしば、1 人でできないことも他者と共にであればできるといった心理現象であるとも解説される。

しかし、本章では、従犯における被幇助者において、このことは必ずしも当てはまらないと 指摘される。被幇助者は一人でも実行する決意をしている者であるからである。そこで、本

章では、Le Bonの群衆心理論、Festingerの没個性化理論といった古典的な社会心理学理論、

ならびにリスキー・シフト、コーシャス・シフトといった今日的な社会心理学的観点に徴し、

(3)

3

広義の共同意思主体は、集団構成員に生じる規範的心理抵抗の減弱という現象であると再 定義されている。

共同意思主体説の見地からすると、こうした心理現象が関与者相互的に生じるのでなけ れば、狭義の共犯性は基礎づけられない。そうした観点からは、片面的幇助は可罰的従犯た りえないこととなるが、その主張が「補章」にて展開されている。

(2)15 年決定、17 年決定については、いずれにおいても、黙示の意思疎通が肯定され たが、この点については首肯できるとされる。他方、共謀共同正犯を肯定した結論に異が唱 えられている。本書が依拠する共同意思主体説の見地からは、相互的な意思拘束性が共謀共 同正犯の成立には不可欠であるところ、いずれの事案も、相互的な意思拘束性の認められな いケースであるからである。本章では、両事案いずれも、組織的権力機構による間接正犯(組 織支配による間接正犯、正犯の背後の正犯)を肯定できる(肯定すべき)事案であったと説 かれている。

【第3章】共同意思主体説の修正と、共謀共同正犯の限定

本章では、まず、共謀概念に関する重要な先例である練馬事件判決と、その後の判例との 位置関係に関する分析をとおして、共謀を客観的要件として捉える立場から共謀共同正犯 の成立範囲を適切に限定することの困難性が指摘される。

と同時に、共謀を主観的要件として捉える立場に立つことで問題解決が可能かというと そうでもないとも説かれる。従来の共同意思主体説の主観的謀議説も、自己の犯罪性の視点 も、判断の基準内容が明瞭とはいいがたいというのがその理由である。もっとも、共謀の核 心を主観的一体性に求めつつ、この一体性概念を、当該者に目的・計画への主観的適合性が あり、かつ関与者相互間に主観的結束性が認められるところに生じる性質と構想すること で、共謀共同正犯の成立範囲をより明確に限定することが可能になると主張される。この観 点により、一つの集団に属しているようにみえるだけの者が、具体的な根拠をもって適切に 共同正犯の範囲から外されることになるというのである。たとえば、いわゆる廃棄物不法投 棄事件決定(最決平成19年11月14日刑集61 巻8号757頁)の事案における客観的事情 はいずれも、被告人らの主観的な目的追求意欲なり、被告人を含めた関与者間の相互的な心 理拘束性なりを推論させるような事情とはいえず、よって主観的共謀を否定すべき事案と して整理されるべきとされる。共謀共同正犯が肯定される共謀概念を上記のような主観的 内容として整理することで、振幅の小さい判断が可能になり、かつ共謀共同正犯の成立範囲 の適切な限定を図ることもできるようになる旨説かれている。

本章の終盤においては、共謀共同正犯の成立範囲の適切な限定にならんで、組織的権力機 構による間接正犯の成立可能性について再び述べられている。そして、その更なる理論展開 として、法規範から乖離する、高度にハイラーキカルな構造をもつ組織(たとえばテロ組織)

において、手下の者が、組織の意思に沿って傷害や殺人に向かう行動にでたばあいに関して 言及がなされている。このばあい、手下の者によるその行動の時点で、指揮・命令権者につ

(4)

4

いてそうした犯罪の実行の着手を肯定することができる旨説かれている。また、指揮・命令 権者が指示をおこなったばあいは、その指示を終えれば、結果実現は手下の者に委ねられた ことなるため、その時点をもって「手放し」が認められ、背後者たる指揮・命令権者に実行 の着手が肯定されるという論理も示されている。

【第4章】教唆犯の本質と従属性

教唆犯と従犯は、従来、従属性や処罰根拠の点において、概してひとまとまりに扱われて きた。本章は、この取り扱いについて疑問を呈するものである。

教唆犯の法定刑は正犯のそれと同じである。この点を見逃さないならば、教唆犯は本来、

正犯に近い性質(正犯との類似性)をもつ類型として位置づけられることになると説かれる。

また、「決意の喚起」を教唆行為の本質とする従来の理解は、教唆犯の成立範囲を過度に広 げるという実質的な面でも問題を抱えるとされ、教唆犯の成立範囲を適切な範囲に収める ことの必要性も指摘されている。こうした観点から、被教唆者の動機の本質的部分に強い影 響を及ぼす寄与行為(動機支配性を有する行為)に高い不法が認められること、そしてそれ 故、そうした寄与行為こそ教唆行為として位置づけられるべきとの主張が展開されている。

この考えにより、結果的に決意を喚起した行為であったとしても、被教唆者の動機を支配し なかった行為については、教唆犯の成立は否定されるということになり、教唆犯の成立範囲 を適切に画することが可能となる。

次に、教唆犯の従属形式について論じられている。これも、従来は、従犯とセットで取り 扱われてきた事項である。しかし本章では、その正犯類似的性質から、教唆犯は最小従属形 式と見るのが妥当であるとされる。教唆犯は、犯罪事象において正犯に匹敵する地位にある ものと評価されるべき側面を持ち合わせているとの理解を前提に、法益侵害に対して教唆 犯もまた一次的責任を負いうるものと理解すべきというのである。こうして、たとえば正当 行為の教唆行為等に関しても教唆犯は成立しうるとされている。

【第5章】従犯の本質と従属性

従犯には、教唆犯と違って、正犯に類似する性質がない。これを前提に、第5章では、従 犯を制限従属形式とみる従来の理解の妥当性がまず確認される。そのうえで、次のように論 が進められる。すなわち、従犯を制限従属形式と理解したとしても、従犯不法は正犯不法に 連帯して認められるものではない。すなわち、正犯不法に従属する適格性ある幇助行為のみ に正犯従属が認められるのである。従犯の成否は、正犯に対する「従属適格性」の有無に左 右されると主張されるのである。

従犯の成否基準は、「中立的行為による幇助」の問題を契機に、今日あらためて議論され ている。近時は、もっぱら客観的基準から問題解決を図ろうとする立場が有力に展開されて いる。しかし、本章は、客観的事情のみからこうした問題を解決することは困難であるとす る。行為者の主観面を判断対象とすることなしに、当該行為に対する規範的評価は不可能で

(5)

5

あると解しているのである。こうして、行為者の主観面を判断基底に積極的に組み込み、従 属適格性の有無の点から従犯性について評価するという判断方法が示される。すなわち、従 属適格性の有無を決めるのは、幇助行為者の主観面を重視して判断される「正犯不法との近 接性」であり、基本的に、幇助行為が正犯実行を確定的に認識していたばあいに、正犯不法 との近接性が認められ、その幇助行為は正犯に従属する性質を獲得することになると説か れている。ここにいう確定的認識とは、正犯によって引き起こされた不法事実の本質的部 分・意味を具体的に認識していたときにはじめて認められるものであるという。このような、

いわば自己の行為の影響の具体的意味認識まで抱いていたにもかかわらずその幇助行為を おこなうという態度について、正犯に質的に近接する性質を見て取ることができると説か れている。

【第6章】従犯の処罰根拠と、教唆犯の処罰根拠

共犯の処罰根拠に関しても、教唆犯と従犯はひとくくりに扱われてきた。しかし、第4章・

第 5 章のアプローチから明らかなように、果たして両者の処罰根拠は重なるのかという問 いを掲げ、検討しなければならない。第6章は、このような課題を設定し考察を進めたもの である。

今日、共犯の処罰根拠論としての責任共犯説および不法共犯説は、すでに過去の立場であ るかのごとく消極的な評価を受け、広く惹起説が支持されている。しかし、本章は、構成要 件的結果(法益侵害結果)との因果性の観点から共犯の処罰根拠を説明しようとする惹起説 は、今日的な狭義の共犯上の諸問題を検討対象とするとき、十分な処罰根拠の説明ができな いと指摘する。そして、従来型の惹起説の不十分さを補おうとする理論上の試みに注目すべ きであると説いている。具体的には、示唆的な見解として「他人の不法との連帯説」が取り 上げられ、同説の考え方を基礎にすべきこと、すなわち、従犯に特別な不法が認められるば あいに従犯の処罰根拠が生じるとの論が相当である旨述べられている。そしてここから、結 果の間接惹起という要素に加え、正犯不法との質的近接性という要素が認められるときに、

従犯の処罰根拠が生じるとの見方(混合惹起説の修正説)が展開されるに至っている。ここ にいう正犯不法との質的近接性とは、自己の行為が正犯の犯行に役立つことについて、具体 的な認識があるというばあい(確定的認識があるばあい)に認められる性質である。この性 質を帯びるとき、正犯との質的離隔性が打ち消され、当該幇助行為は正犯に従属し、処罰根 拠が生じるとされている。

他方、教唆犯は、正犯類似の性質を有していることから、処罰根拠について従犯とは異な る帰結となる旨説かれている。すなわち、教唆犯の不法は、正犯の不法にもとづく部分を持 たず、もっぱら教唆行為それ自体の不法によって構成されると解するべきであり、したがっ て、純粋惹起説的論理が適合するというのである。ただ、正犯の構成要件該当性に従属する 性質は保持されるべきともされ、その意味で、純粋惹起説の修正説が妥当だという。教唆犯 の不法を認めるためには、被教唆者が不法な行為に出ることは必ずしも要されないが、構成

(6)

6

要件の発している規範を乗り越えたことは必要とすることで、共犯の従属的性質と自立的 性質とを共存的に持ち合わせる教唆犯の本質に即した処罰根拠論になると主張されている。

こうした理解は、教唆犯の処罰の限界づけに資することになるともされている。

【第7章】日常的行為と従犯

本章は、(価値)中立的行為とも言われる幇助行為の従犯性について立ち入って論じた章 である。わが国およびドイツにおける判例・学説を分析・検討し、可罰的幇助と不可罰的幇 助との区別について考察している。

わが国の判例に関しては、少なくとも行為・事実の客観的側面のみに着眼して問題解決を 図ろうとする態度はとられていないと分析される。ドイツの判例についても、RGは行為者 の主観面を基準にした判断をおこなっており、BGHは客観と主観の双方を考慮に入れた判 断手法を展開していることから、やはり行為・事実の客観的側面のみから問題解決を図ろう とはしてきていないことが確認される。

対して、学説は、たとえば、わが国における、業務上の通常性を基準に据える見解、仮定 的代替原因を考慮し判断する見解、そしてドイツにおける Jakobs、Welzel、Hassemer、

Weigend、Frisch等による各見解によって、行為・事実の客観的側面を基準にする判断手法

が広く展開されているという。

そうした中、折衷説ともいうべき見解がRoxinにより展開されている。これは、「日常行 為そのものがあるわけではない。むしろ行為の目的いかんによって日常的行為かどうかが 決まる。」との基本的視座から出発しつつ、行為・事実の客観的側面のみならず、行為者の 主観面を考慮に入れてはじめて行為の実質的な評価が可能になると説くものである。筆者 は、この考え方が方向性として妥当であるとする。主観を評価対象に含めず判断する手法で は、規範との行為との関係性について見誤る可能性が大きくなるというのである。

もっとも、筆者の見解は、Roxin説に完全に依拠したものではない。従犯不法の本質をよ り明らかにしうる Schumann 説を取り込んだ折衷説を妥当としている。すなわち、コミュ ニティにとって耐えがたい悪しき手本として市民が受け止めることになる状況を生じさせ たか否かという観点を、判断基準に組み込むべきとされている。筆者によれば、同状況を生 じさせたか否かは、基本的に、幇助行為が確定的故意をもってなされたか否か(正犯の犯行 計画を知っていたか否か)によって決まる(この点で Schumann 説に変更が加えられてい る)。確定的故意にもとづく幇助行為が、コミュニティにとって耐えがたい悪しき手本とし て市民が受け止めることになる状況を生じさせることから、不確定的故意にもとづく幇助 行為は、原則として不可罰的幇助として整理されることになる。確定的故意にもとづく幇助 行為は、原則として前記状況を生じさせるが、筆者によれば、それによって、正犯との近接 性が肯定され、そうして最終的に、当該幇助行為の正犯への従属が認められることになる

(可罰的幇助との帰結)。

(7)

7

【第8章】Winny事件決定について

本章では、中立的行為による幇助にかかる最重要判例、最決平成23年12月19日につい て分析・検討が加えられているとともに、同種のケースにいかなる判断基準で対処すべきか について論じられている。

(1) 本決定については、次のように述べられている。

最高裁は、本事案を、「ソフトを入手する者のうち例外的とはいえない範囲の者が同ソフ トを著作権侵害に利用する蓋然性が高いと認められる」事案と位置づけ、従犯が成立する幇 助類型に当たるとしつつも、被告人にそのことについての認識・認容が認められないという ことを理由に、結局従犯の成立を否定したが、筆者によれば、これは、幇助の主観的要件を 通例よりも厳格に解することで導かれた結論である。すなわち、故意は一般に概括的故意で 足るとされているところ、ソフトの受領者のうち誰かが違法利用し著作権侵害に至ること を認識していたはずの被告人につき、幇助の故意を否定するという結論は、従犯の成立に必 要な故意に、概括的故意以上のものを要求していることを示していると分析するのである。

(2) また、本決定の事案は、「不特定多数者に対する中立的行為による幇助」がなされた という点で特徴的であるところ、こうした特徴を有するケースに対して、諸説がいかなる判 断基準を用いようとしているのかについては、たとえば、道具の提供者が法益侵害の「危険 の中心」となっていたと評価できるばあいに可罰的幇助になるとする見解や、当該行為の危 険性と有用性を比較衡量し、前者が後者を上回らないばあいには幇助犯の成立は否定され るとする見解が挙げられ、検討が加えられている。本章は、これらの見解の功利計算的性質 を批判している。

さらに、本章では、この種の幇助行為の社会的意味は、全体的観察をとおしてはじめて見 定められうるとの考えを土台に、次のような主張が展開されている。すなわち、本件のよう なケースに関しては、道具の受領者のうち例外的とはいえない範囲の者が違法利用に至る と認識していたかどうかが重要であり、こうした認識をともなってなされた一括提供行為 にこそ、社会に危険な印象を生じさせる幇助行為としての性質を認めることができるとさ れているのである。こうした認識を抱いている者は、自己の行為を、まさに違法利用に至便 的な性質をもつ行為と認識しているにほかならず、そうした認識をもちながらその行為を とどめないことに対して、コミュニティは危険性の印象を抱くことになるからであると説 かれている。

【第9章】従犯の主観的要件の実体について

本章においては、従犯の成立に必要な主観内容はどのようなものであるかについて論じ られている。

従犯のばあい、犯罪を実現するかどうかは被幇助者に懸かっている。このことは、特に中 立的行為による幇助において際立つ。中立的行為としての幇助行為を違法利用するかは、ま さに被幇助者次第なのである。そこで、本章は、中立的性質をもつ行為をおこなおうとする

(8)

8

者に対して、例外なく、行為後の事象の成り行きに細心の関心を向けることを求めることは 妥当でないと指摘する。むしろ、当該行動にともなう事の成り行きについて行為者が「無関 心」でいることを、コミュニティは一定の範囲で許容すると説く。そうした許容される無関 心にもとづく行動に対して、コミュニティが危険性の印象を抱くことはなく、それが従犯否 定の結論を導くというのである。

ただ、道具等の提供者が、受領者によって不正利用されることを知っていたようなばあい は、その不正利用の帰結に関する提供者側の無関心は、コミュニティに脅威感を抱かせる無 関心として位置づけられるという。したがって、このような無関心にもとづく幇助行為につ いては、従犯成立は排除されないこととなる。

こうして、「正犯意思を確実には知らないでなされる、実行の着手以前の幇助行為」は、

基本的には不可罰的幇助であること、「正犯の意思を知った上でなされる、実行の着手以前 の幇助行為」は、基本的には可罰的幇助であることが説かれる。「実行の着手後の幇助行為」

のばあいも、基本的に、正犯意思についての確定的認識の有無が重要であり、実行の着手後 であるという形式的事実から正犯との近接性が肯定されるわけではない旨主張されている。

【補章】片面的従犯

第2章の要旨の中で、合わせて記載。

以上

参照

関連したドキュメント

ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を

前章 / 節からの流れで、計算可能な関数のもつ性質を抽象的に捉えることから始めよう。話を 単純にするために、以下では次のような型のプログラム を考える。 は部分関数 (

特に、その応用として、 Donaldson不変量とSeiberg-Witten不変量が等しいというWittenの予想を代数

荒天の際に係留する場合は、1つのビットに 2 本(可能であれば 3

能率競争の確保 競争者の競争単位としての存立の確保について︑述べる︒

現在まで地域経済統合、域内の平和と秩序という目的と、武力放棄、紛争の平和的解

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに