著者 園 明美
出版者 法政大学国文学会
雑誌名 日本文学誌要
巻 68
ページ 3‑12
発行年 2003‑07
URL http://doi.org/10.15002/00009931
「紫の上」という呼利
「紫の上」という呼称は、それがこの人物の通称として人口に謄灸しており、その命名の由来もはっきりしているためか、それ自体として論じられることは多くはないように見受けられ性Iろ。注zそもそも、源氏が紫止を求めた動機は、藤壷との容姿の酷似とその血縁関係によるものであった。北山で紫上を見出し、彼女に執する源氏の心情を、物語は次のように記述する。秋の夕は、まして、心のいとまなく思し乱るる人の御あ秋の夕は、まして、心のいとまたりに心をかけて、あながちなる心まさりたまふなるべし、「消え思し出でられて、恋しくも、またがにあやふし。 はじめに 〈論文〉
「紫の上」という呼称
「消えんそらなき」とありし夕また、見ば劣りやせむとさす ゆかりもたづねまほしき 手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草(若紫一’二三九頁)この記述からも、紫上が藤壷のゆかりとして源氏に求められたのは明らかである。また、源氏の詠歌は、『古今集』の「紫のひともとゆゑにむざしのの草はみながらあはれとぞ見る」(雑上・八六七)等を念頭に置いた表現である。更に、物語の中では紫上に対して、「かの紫のゆかり」だとか「紫のゆゑ」だとか言われている。以上のようなことから、従来は、『源氏物語』における「紫のゆかり(ゆゑ)」といえば藤壷に関わるものと限定されるものであり、それ故に「紫の上」という呼称は、藤壷の縁に連なる源氏最愛の女性であることを示すものであると定義して事足れりとしてきた部分があるのではないか。「紫の上」という呼称が、藤壷との血縁関係と、そこから喚起される古歌のイメージによる命名であることは間違いないが、物語中の「紫の上」、或いは「紫のゆかり(ゆゑどの用例
園 明美
日本文學誌要第68号 3
周知の如く、紫上が源氏に求められたのは、彼女が藤壷の姪であるということに起因する。しかし、このことは源氏以外に知る者はない。故に、「紫の上」という呼称の持つ意味が、「藤壷ゆかりの女君」ということにとどまるのであれば、源氏以外の作中人物がこの呼称を用いることはないはずである。ところが、実際には、物語中に以下のような用例がある。①蓮の花の盛りに、(明石ノ中宮C御八識せらる。六条院の御ため、紫の上などみな思し分けつつ、御経、仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく尊くなんありける。(蜻蛉六’二四七頁)②かやうのこと(Ⅱ女三の宮の幼さ)を、大将の君も、げにこそありがたき世なりけれ、紫の御用意、気色の、ここらの年経ぬれど、ともかくも漏り出で、見え聞こえたるところなく、しづやかなるを本として、さすがに心うつくしう、人をも消たず身をもやむごとなく、心にくくもてなしそへたまへることと、見し面影も忘れがたくのみなむ思ひ出でられける。(若菜上四’一三四頁) 注3を概観する時、この呼称には右のように定義すう○だけでは把握しきれない部分があるように思う。本稿は、「紫の上」という呼称が持つ意味が、「藤壷ゆかりの女君」ということに留まらないという点を、本文と向き合いつつ考察するものである。
一、「紫の上」呼称の属性 ③天の下の人、院を恋ひきこえぬなく、とにかくにつけても、世はただ火を消ちたるやうに、何ごともはえなき嘆きをせぬをりなかりけり。まして殿の内の人々、御方々、宮たちなどはさらにも聞こえず、限りなき御事をばさるものにて、またかの紫の御ありさまを心にしめつつ、よるづのことにつけて、恩ひ出できこえたまはい時の間なし。(匂兵部卿五’二一頁)①は明石中宮、②は夕霧のそれぞれの心中、そして③は、紫上没後、遺された人々がその遺徳を慕う心情を述べるものである。前述したように、紫上が藤壷ゆかりの女性であるが故に源氏に愛されたということは、源氏以外に知るはずのないlむ注4しろ知られてはならない事実である。ところがこれらの例からは、明石中宮・夕霧という養女・継子という関係にある人物を含めた、多くの人々に、「紫」・「紫の上」という呼び方が認知されていることが窺える。これは、やはり「紫の上」という呼称の属性が、単に「藤壷ゆかりの女君」ということにとどまらないことを示唆するものではないだろうか。このようなことを踏まえた上で、『源氏物語』における「紫の上」の用例を概観してみると、そこにはある傾向が看取できるように思う。それは、この呼称は「源氏の家の問題」に関わることが話題となる場面に現れるのではないかということである。以下に、「紫の上」の用例を挙げる。尚、「紫の上」の用例は、私に調査したところ、右の①の例を含め、計一五例である。①紫の上も、姫君の御あっらへにことつけて、物語は捨
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てがたく思したり。(蛍三’二一四頁)②この大将(Ⅱ鬚黒)は、春宮の女御の御兄弟にぞぉはしける。大臣たちを措きたてまつりて、さし次ぎの御おぼえいとやむごとなき君なり。年一一一十二三のほどにものしたまふ。北の方は蜘渕u■の御姉ぞかし。式部卿宮の御大君よ。年のほど三つ四つが年上は、ことなるかたはにもあらぬを、人柄やいかがおはしけむ、躯とつけて心にも入れず、いかで背きなんと恩へり。その筋により、六条の大臣は、大将の御事は、似げなくいとほしからむと恩したるなめり。(藤袴一一一’一一一四三頁)③殿も、いとほしう人々も恩ひ疑ひける筋丁玉霞との仲)を、心漬くあらはしたまひて、わが心ながら、うちつけにねぢけたることは好まずかしと、昔よりのことも思し出でて、紫の上にも、「思し疑ひたりしよ」など聞こえたまふ。(真木柱三’三五一一一頁)④六条院は、なま心苦しうさまざま思し乱る。紫の上も、かかる御定めなど、かねてもほの間きたまひけれど、さしもあらじ、前斎院をもねむごろに聞こえたまふやうなりしかど、わざとしも恩し遂げずなりにしを、など恩して、さることやあるとも間ひきこえたまはず、何心もなくておはするに、いとほしく、このことをいかに思さむ、わが心はつゆも変るまじく、さることあらんにつけては、なかなかいとど深さこそまさらめ、見定めたまはざらむほど、いかに思ひ疑ひたまはむ、など、やすからず思さる。(若菜上四’五○頁) ⑤鍋剃りuにも、(朱雀院ヨリ)御消息ことにあり。(中略)大殿も見たまひて、「あはれなる御消息を。かしこまり聞こえたまへ」とて、御使にも、女房して、土器さし出でさせたまひて、強ひさせたまふ。(若菜上四’七五頁)⑥宮(Ⅱ春宮)より(明石ノ女御一一)とく参りたまふくきよしのみあれば、「かく思したる、ことわりなり。めづらしきことさへ添ひて、いかに心もとなく恩さるらん」と、紫の上ものたまひて、若宮忍びて参らせたてまつらん御心づかひしたまふ。(若菜上四’一一二頁)⑦廟の中の御障子を放ちて、こなたかなた御几帳ばかりをけぢめにて、中の間は院のおはすべき御座よそひたり。(中略)内には、御褥ども並べて、御琴どもまゐりわたす。秘したまふ御琴ども、うろはしき紺地の袋どもに入れたる取り出でて、明石の御方に琵琶、幽詞叫回に和琴、女御の君に箏の御琴、宮には、かくことごとしき琴はまだえ弾きたまはずやとあやふくて、例の手馴らしたまへろをぞ調べて奉りたまふ。(若菜下四’一八七頁)⑧幽剰uuは、葡萄染にやあらむ、色濃き小桂、薄蘇芳の細長に御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、大きさなどよきほどに様体あらまほしく、あたりににほひ満ちたる心地して、花といはぱ桜にたとへても、なほ物よりすぐれたるけはひことにものしたまふ。(若菜下四’一九二頁)⑨夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏どもあらはしたまへる供養せさせたまふ。(中略)幡のざまなど、なっかしう心ことなる唐の錦を選び縫はせたまへり。紫の
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上ぞ、いそぎせさせたまひける。(鈴虫四’三七三頁)⑩(女三ノ宮ノ持仏開眼供養二参集シダ)七僧の法服など、すべておほかたのことども住みな紫の上せさせたまへり。(鈴虫四L一一七七頁)⑪(夕霧卜落葉ノ宮トノ噂ヲ聞イタ源氏ガ)紫の上にも、来し方行く先のこと思し出でつつ、かうやうの例を聞くにつけても、亡からむ後、うしろめたう恩ひきこゆるさまをのたまへば、御顔うち赤めて、心憂く、ざまで後らかしたまふべきにや、と恩したり。(夕霧四’四五六頁)⑫幽捌uu、いたうわづらひたまひし御心地の後、いとあっしくなりたまひて、そこはかとなくなやみわたりたまふこと久しくなりぬ。いとおどろおどろしうはあらねど、年月重なれば、噸もしげなく、いとどあえかになりまさりたまへろを、院の忠ほし嘆くこと限りなし。(御法四’四九三頁)⑬紫の上の御心寄せことにはぐくみきこえたまひしゆゑ、三の宮は一一条院におはします。春宮をば、さるやむごとなきものにおきたてまつりたまて、帝、后いみじうかなしうしたてまつり、かしづききこえさせたまふ宮なれば、内裏住みをせさせたてまつりたまへど、なほ心やすき古里に住みよくしたまふなりけり。(匂兵部卿五’一七頁)⑭鵠伽列回の、とりわきてこの二ところ(Ⅱ女一の宮と匂宮)をばならはしきこえたまひしかば、あまたの御中に、隔てなく恩ひかはしきこえたまへり。(総角五’三○五頁) ①は、源氏と紫上が姫君の教育方針について語り合う場面、②・③は、玉鬘と鬚黒の結婚に関わる場面のものである。玉童の身の振り方は、六条院の秩序と関わる問題であった。また、④・⑤は女三宮の入輿に関わる場面で、⑥は、明石女御の皇子出産に関わるもの。⑦・⑧は、女楽の場面におけるものである。女楽は、内輪の催しであるとはいえ、朱雀院の五十賀の試楽としての性格を帯びたもので、そこで女三宮が難なく琴を弾きこなすことが即ち六条院において彼女が大切にされていることを示すことに繋がるのであり、源家にとっては重要な行泰注5であるといえよう。⑨・⑩は女三宮出家後の持仏開眼供養の場面で、⑪は柏木の死後、夕霧と落葉の宮との噂を聞いた源氏の憂慮を語る場面。夕霧の問題は、家庭内の不和や家の不面目をもたらし、紫上に女の人生についての述懐を促し、延いては明石女御腹の女一宮の教育について思いを巡らさせるものであった。⑫は、紫上の死が間近に迫った場面。紫上の死は、発病当時夕霧に「この人亡せたまはば、院もかならず世を背く御本意遂げたまひてむ」(若菜下四’一二四頁)と言わしめたように、光源氏の人生の終焉にも結びつく重大事である。そして⑬・⑭は、紫上死後の源氏の血筋の皇族達の様子を語る場面のもの。また、先に挙げた例も、明石中宮による源家の人々の供養のための法華八講の場面であった。以上のように、「紫の上」という呼称は、いずれも源家の「家の問題」が話題となる場面で用いられるという傾向があるように思う。前掲の「紫」という呼び方にしても、周囲との和を図り、六条院の秩序を保つ紫上のあり方を称揚する場面と、
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「紫の上」という呼称
呼称「紫の上」の用例を概観して、この呼び名には「源家の家刀自」という属性があるのではないかという見解を提示した。しかし、すでに確認されている通り、この呼称は、紫上が藤壷の姪、即ち「紫のゆかり」であることに起因することは間違いないのであるから、そこから「紫の上」に今述べたような属性があると論じるのはこじつけであるとの譲りも免れ得まい。 紫止の去った六条院は、火を消したような寂しさであるという。つまり、六条院の繁栄を支えていたのは、紫上の存在であったというのである。このような、六条院北源家の主婦としての紫上の位置付けを示す呼称が、「紫の上」であったということなのではないだろうか。 源家ゆかりの人々が紫上を追慕する場面のものである。以上のような傾向を通して、「紫の上」という呼称には、次のような属性を認めることができるのではないかと考える。それは、「源家の家刀自」という側面である。紫上が六条院にとってどのような存在であったのかは、彼女が発病後に静養のため二条院へ移った時の記述からも窺える。御琴どももすさまじくて、みな引き寵められ、院の内の人々は、みなある限り二条院に集ひ参りてこの院には、火を消ちたるやうにて、ただ、二、「紫のゆかり」・「紫のゆゑ」 の御けけりと、⑪ 、女どちおはして、人ひとり(若菜下四’二一五頁)
さいへど紫のゆゑ一」よなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや苦しからむ。(朝顔二’四九二頁)①は、幼い紫上が二条院に迎えられた当初のことで、藤壺の姪であることがその動機であったのはいうまでもない。また② そこでここでは、「紫のゆかり」・「紫のゆゑ」という語を手掛かりに、「紫の上」には「源家の家刀自」という属性があると考える根拠について述べることとする。『源氏物語』において、紫上に対して「紫のゆかり」・「紫のゆゑ」の語が用いられるのは、次の三例である。
かの紫のゆかり尋ねとりたまへりしをり恩し出づるに、かれはされて言ふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり、憎げにおし立ちたることなどはあるまじかめりと恩すものから、いとあまりもののはえなき御ざまかなと見たてまつりたまふ。(若菜上四’六三百〈)③(藤詣ハ)やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの並びなくものしたまひしを、君こそは、 ①かの鍋列副uかり尋ねとりたまひては、そのうつくしみに心入りたまひて、六条わたりにだに離れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿(Ⅱ末摘花邸)は、あはれに恩しおこたらずながら、ものうきぞわりなかりける。(末摘花一’二八九頁)②姫宮は、げにまだいと小さく片なりにおはする中にも、いといはけなき気色して、ひたみちに若びたまへり。
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住女三宮入輿後、源氏が心中で宮とかつての紫上とを比較する場面。(源氏が女三宮の入輿を承引した理由も、一つには彼女が藤壺のゆかりであることによる。)③は、朝顔巻の雪まるばしの場面で、源氏自身が、紫上に向かって彼女が藤壷の姪、つまり「紫のゆゑ」である故に、藤壷によく似ていると語るものであり、これについては、清水好子氏の「源氏はここで、思注6わずなぜ紫の上を愛したのかを語ったことになる。」という指摘もある。以上の例はいずれも、「紫のゆかり」・「紫のゆゑ」が藤壷ゆかりの人物であることを示すわけだが、次のように、その範晴に収まらない例もあることに注意する必要はあるだろう。兵部卿宮、はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、この三年ばかり独り住みにてわびたまへぱ、うけばりて今は気色ばみたまふ。今朝もいといたうそら乱れして、藤の花をかざしてなよびさうどきたまへる御さまいとをかし。大臣も、思ししさまかなふと下には恩せど、せめて知らず顔をつくりたまふ。御土器のついでにいみじうもて悩みたまうて、「恩ふ心はくらずは、まかり逃げはべりなまし。いとたへがたしや」とすまひたまふ。むらさきのゆゑに心をしめたればふちに身なげん名やはをしけきとて、大臣の君に同じかざしをまゐりたまふ。いといた毒フほほ笑みたまひて、ふちに身を投げつくしやとこの春は花のあたりを立ちさらで見よ と切にとどめたまへぱ、え立ちあかれたまはで、今朝の御遊びましていとおもしろし。(胡蝶三’一七○頁)これは、玉鬘に思いを寄せる兵部卿宮が、源氏にその意を訴える場面のものであるが、ここでの「紫のゆゑ」は、玉霞に対して言われたものである。この時点では、まだ玉鬘は源氏の実子ということになっているので、この場合の「紫のゆかり」とは、源氏ゆかりの人物ということになる。もう一例、竹河巻の語り出しの部分。これは、源氏の御族にも離れたまへりし後大殿わたりにありける悪御達の落ちとまり残れるが間はず語りしおきたるは、紫のゆかりにも似ざめれど、かの女どもの言ひけるは、「源氏の御末々にひが事どものまじりて間こゆろは、我よりも年の数つもりほけたりける人のひが言にや」などあやしがりける、いづれかはまことならむ。(竹河五’五九頁)この巻は、鬚黒邸の古女房達の問わず語りであるという体裁を取るが、ここに「紫のゆかり」の語が現れることに注意したい。この「紫のゆかり」は一般に、「紫上に関わる話」と解されているが、ここでは、これから語られるのが「源氏の御族にも離れたまへりし」一族の物語であるということが重要なのである。したがって、この「紫のゆかり」は、「紫上に関わる話」というよりはむしろ、「源氏一族に関わる話」と解するべきであろう。つまり、『源氏物語』における「紫のゆかり」・「紫のゆゑ」は、確かに「藤壷のゆかり」を指すものでもあるが、その意味
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「紫の上」という呼杓
「紫の上」という呼称には、「藤壷ゆかりの女君」という属性のみならず、「源家の家〃、」という屈性も認められるということを、『源氏物語』における「紫のゆかり(ゆゑ)」が「藤砺のゆかり」のみならず、「源氏のゆかり・源氏一族」を示す場合もあることを根拠に述べてきたわけだが、般後に、「紫」という色と「源氏の家」との関わりについて考えておきたい。「紫」が『源氏物語』を象徴する色であることは、すでに先注7学によって指摘されているが、その多くは、この物謎叩が「桐壷更衣(桐の花Ⅱ紫色)↓藤壷↓紫上」という「紫の色調によって象徴せられる美しきものの系譜を示すものにほからならな に限定されるのではなく、物語中では「源氏のゆかり・源氏一族」という意味合いでも使われているものと考える。更に、「紫の上」の呼称が初めて現れるのが、兵部卿宮が「むらさきのゆゑに心をしめたれば」の歌を詠んだ胡蝶巻の直後の蛍巻であることにも注意しておきたい。「紫のゆゑ」が「源氏のゆかり」を指すものとして用いられた後で初めてこの呼称が現れるのは、「紫のゆかり(ゆゑEと「紫のh」との関わりを反映するものではないだろうか。私が、「紫のk」という呼称を概観する時「藤壷ゆかりの女料」という属性だけでなく、「源家の家〃日」という屈性をも看取できるのではないかと考えるのは、以上のような理由による。
三、「源家の色」としての「紫」 『刑Hい」というような見解に基づくJ鉤)のである。確かに「紫のゆか注9」り」は、一つには藤壷のゆかりの女性を表象するものであるから、「紫」と藤壷との間に深い関わりがあることは否定できない。しかしながら、物語中には次のような例があることにも注意しておきたい。①梅虚の御力には、(中略)絵は厄勢柑覧、手は紀質之答けh/・紙屋紙に唐の綺を階して、亦紫の表紙、紫檀の軸、Ⅲの術のよそひなり。(中略)(右カハ)2日き色紙、青き表紙、黄なるKの軸なり。(絵〈Ⅱ二1一一八一頁)②左は紫檀の箱に蘇芳の蕪足、敷物には紫地の唐の錦、打数は葡萄染の唐の綺なり。童六人、赤色に桜襲の汗杉、杣は紅に藤襲の織物なり。(中略)右は沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の錦、あしゆひの組、乖足の心ばへなど今めかし。竜、青色に柳の汁杉、山吹聾の細着たり、みな御前にかき立つ。(絵合一一’一一一八五頁)⑪|は藤礪の御前での絵〈Ⅱ、②は帝の御前における絵合の場、の揃写であるが、いずれの例からも左方の梅砺女御Ⅱ源氏方は紫を推調とした装いで臨んでいることがわかる。これに対して、右の椎中納一一一一回(かっての蝋中将)力は一凶して背を腿調とt0した装いである。つまhソ、「紫」は「源家の色」として用いられているのである。「紫」という色が源氏方を表象するものとしてはっきりと現れるのはここだけなので、これだけの例を以て「紫」Ⅱ「源家の色」と定義するのは性急かもしれない。
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しかし、この場面は実質的な後宮の勢力争いを描くものであり、その勝利がやがては秋好中宮の立后へも繋がってゆくことを考えれば、ここで源氏方の表象としての「紫」が現れる意味は大きいといえよう。また、これは傍証になるが、左の如く、『源氏物語』において紫の紙が手紙の料紙として川いられるのは、源氏もしくは源氏一族の人物の賄答に限られることにも注目される。①鯛‐回細の年経にければ灰おくれ古めいたるに、(末摘花↓源氏)(末摘花一’二八七頁)②劇刎鯏『勘引綱に、(源氏↓六条御息所)(葵二’五二頁)③浅からずしめたる調四綱に、墨つき濃く薄く紛らはして、(明石科↓源氏)(明朽二’二五○頁)④鵠1,綱、立又すくよかにて藤の花につけたまへり。(源氏↓朝顔斎院)(少女一一T一七頁)⑤蛸司別測欄なりけり。(夕霧↓雲居雁)(野分一一一’二八一一一画)⑥鋼刎潤同酬創引綱すくよかにて、小少将ぞ、例の、聞こえたる。(小少将(落葉宵)↓夕鶴)(夕霧川’四五四頁)⑦調回漸欄にて桜につけたる文を、(匂宮↓浮舟)(浮舟六’一七三頁)右に挙げた例の中には、①のように負の評価を与えられるものもあるが、蟻しい手紙が登場するこの物語において、紫の紙が用いられるのが源氏及びその縁者に限られるというのは、偶 然ではないように思われる。更に言えば、藤裏葉巻で、「准太上天皇」になった源氏に内大臣が詠みかけた歌もまた、源氏と「紫」の関わりを示すものではないか。鋤引司ヨヨリ調にまがへる菊の花にごりなき世の星かとぞ見る(藤裂葉一『T川六一頁)ここでいう「むらさきの雲」とは、いうまでもなく瑞雲のことであるから、「太上天皇になずらふ御位」を得た源氏を寿ぐにふさわしいものであり、無雌な炎現であるとも言える。しかし、これは朱雀院と冷泉帝も同席している場面でのことである。そのような場で、源氏に対してのみ「紫」に関わる表現が用いられていることには、やはり注意を引かれる。以上のような事例を勘案するに、やはり私は、「源氏物語』における「紫」には、「源家を象徴する色」という側面があるように思う。そしてこれは、とりもなおさずこの物語が「源氏の物語」であることを示すものではないだろうか。紫という尚賀な色は、源家を象徴するにふさわしいものであると同時に、藤壷と紫上(更には女三宮をも)を繋ぐ「ゆかりの色」でもある。しかし、その「ゆかり」は、もとはといえば源氏が繋いだものであることを忘れてはならないと思うのである。それ故に「紫の上」といえば「源氏の上」Ⅱ「源家の家刀自」ということにもなるのではないだろうか。これは穿ちすぎかもしれないが、そうしてみると、『紫式部日記』の有名な記事、左衛門の督、「あなかしこ、このわたりに、わかむらさき
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「紫の上」という呼称
「紫の上」という呼称には、「藤壷ゆかりの女君」というに留まらず、「源家の家刀自」という属性をも看取することができるのではないかという見解を述べた。最初に述べたように、従来この呼称に関しては、「紫のゆかり(ゆゑEが藤壷の縁に繋がることに限定して用いられるものであるという理解に基づいて、「藤壷ゆかりの女君」であることを示すものと捉えることが多いように思われる。しかし、改めて『源氏物語』の本文と向き合って考えてみろと、以上のような定義のみでは把握できない部分は決して少なくはないのであり、本稿はそのいわば収まりきらない部分を理解しようとする試みであった。尚、「紫の上」という呼称は、「紫のゆかり(ゆゑE或いは「紫」という言葉とも深い関わりを持つものである故に、本稿でも呼称の用法の分析に留まらず、これらの語についての考察をも試みたわけだが、十全に理解できたとは言い難い。右の問題に関する考察は、今回は『源氏物語』内部のことに も、或いは作者の弓源氏の物語』はあくまで光源氏の物語なのだ。源氏があっての紫上なのだ。」という意識の表出ではないかとも思われる。
結び 副判刈たまはぬに、かの上は、まいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。(一六五頁) やさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も限られたが、今後は他作品及び和漢の比較検討等を通して、より広く、かつ深く考察する必要を痛感している。
注1管見に入ったものとしては、「紫の上」という呼称は読者の命名によるもので、それを作者が物語中に取り入れたものだとする小山敦子氏の論弓源氏物語の研究』武蔵野書院昭五○)や、弓紫のうへ』とは、光源氏を主人公とする〃紫の(ゆかりの)物語“とは別の物語における語り手が、紫の上を〃紫の物語“の『うへ』と称したものではないか。」とする清水婦久子氏の論(「源氏物語の人物呼称l『うへ』と語りの問題l」(『源氏物語の人物と構造』笠間書院昭五七))、また、『むらさき(Ⅱ紫草)Ⅱ紫色』が、男性愛情の対象となる女性の感覚象徴の映像を形象する」ものであり、「邸宅の主婦と規定するのが『うへ』である」としたfで、「源氏最愛の女性であるだけでなく、六条院の主婦としての地位と機能を発揮する」、「いわば、『女』と『うへ』とを完全に兼具する認定を基盤とする呼称が『紫の上』だった。」とする神尾腸子氏の論(「物語女性の呼称表現l紫上呼称の選定原理l」(『源氏物語と歌物語研究と資料』武蔵野書院昭五九))、或いは、婚姻の観点から紫上を律令でいうところの「妾」であると位置づけた上で、「紫の上」という呼称は、彼女が「妾であることを読者に意識させたくない時」に用いられるものであろうとする工藤重矩氏の論冑平安朝の結婚制度と文学』風間書一男平六)等がある。2便宜上、通称の場合は「紫上」、物語中で用いられている
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呼称の場合は弓紫の上巨と表記する。3実は、「紫の上」という呼称が藤壷との関わりを示す場面で用いられる例はない。4工藤氏注1前掲書も、②の用例について「用語として不用意である。夕霧が紫上のことを『紫』だと知っているはずがない。」と指摘する。5小学館新編日本古典文学全集は、女楽の場面の頭注に「彼女T女三宮)の目ざましい上達は、来るべき朱雀院五十の賀に、源氏がいかに院の負託に応え、女三の宮に対して誠意を尽してかしずいてきたかを証示するものとなろう。」
6清水好子「紫の上」弓別冊国文学源氏物語必携Ⅱ昭和
7荒木良雄「源氏物語象徴論I特に女性の呼び名についてl」(『国文学解釈と鑑賞』昭三三)、伊原昭「紫の象徴l源氏物語におけるl」(『平安朝文学の色相l特に散文作品についてl』笠間書院昭四二『一色和寿子「源氏物語における色彩思考lその十四l「紫」から読む源氏物語」(『源氏こぼれ草』二六平一一一、一二)、大野孝子・野村糖一「源氏物語の色彩l紫のゆかりをめぐってl」(『実践国文学』四四平五二○)等.また、『更級日記』の「鋼刎‐切洲川を見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、……」や「調刎物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、……」という例が示すように、『源氏物語』は古くは『紫の物語』或いは『紫のゆかりの物語』などとも呼ばれたらしいことは広く知られている。8注7前掲荒木論文。伊原論文・一色論文も同意見。 五七) と記す。 ※『源氏物語』、『更級日記』、『紫式部日記』の引用本文は、全て『新編日本古典文学全集』(小学館)による。尚、『源氏物語』に関しては(巻名巻号1頁)のように示した。 9但し、私見としては桐壷更衣をもこのゆかりに含めることに疑問を感じる。、注7前掲大野・野村論文に指摘がある。
(そのあけみ・通信教育部講師)
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