論 文
1.はじめに ―― 教の政治文化圏と いう問題意識について
「政教関係」という熟語は,研究書を除いて は近年一般にはほとんど使用されていないよう である。だが「政教」の後に「分離」「一致」「合 体」を付ければ現代でもしばしば人々の口に上 る。朝鮮半島南北両国,中国においても事情は 同様である。なぜ「政教関係」という言葉だけ が相対的に廃れたのか。この問題は「政教関係」
の政教と,「政教分離」に代表されるその他熟 語の政教とでは,含有する意味が必ずしも完全 には一致しないことと関係していると考えられ る。20 世紀初頭までの近代東北アジア(1)におい て政教関係という時,政教は伝統的に「政治と 教・ ・化」の意で用いられ,そのあるべき関係の追 及が政治上の大きな課題であった。この政教と いう熟語は,近代西欧に由来する「政教分離」
概念――即ち統治において政治と宗教を分離す る原則――の受容の遥か前から使用されてきた ため,教に「教化」の意味合いが比較的色濃く 残っている。
それでは,なぜ東北アジアで「政治と教・ ・化の 関係」に対する問題意識が希薄化してしまった
のかといえば,近代以降「政」のあり方に対し て国民国家体系という解が与えられため,「教」
がその代替概念の「宗教」に押されて教自体の 存在意義が薄れたからである。よしんば政教関 係を「政治と宗・ ・教の関係」であると理解すると しても,同じように問題意識は希薄化している。
政教分離が統治上の原則として遍く定着してい る昨今,この問題をめぐって公論を惹起する必 要性に駆られる人はまずほとんどいないからで あろう。以上が筆者が考える「政教関係」衰退 の背景である。
ところで本稿では敢えてこの東北アジアにお ける「政教関係」を問題とする。その理由は,
東北アジアにおける政教関係のあり方がこの地 域の政治文化を規定したという仮説に関係して いるからである。換言すれば本稿は「教の政治 文化圏」という問題意識から出発している。以 下にこの問題意識につき,概念と枠組み,キリ スト教に対する共通の認識様式及び異なる対応 方法という視角から詳述する。
第一に「政教関係」という概念についてであ るが,数千年の歴史の中で近接する諸概念を 次々に包摂してきた漢字というものの特性上,
厳密な定義の付与は恣意性を免れ得ないため,
*早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程4年
曺 明 玉
*近代中国の政教関係
ここでは概念像を解説するに留める。政教関係 の概念像は近代東北アジアの知識人たちが政教 関係に言及した際,引合いに出した別の言葉か ら導き出すことができる。初めに「政」の概念 像についてであるがこれは,正しさ,政治,国 家,権力,政体,政権,統治を象徴する。古代 からの言葉でいう「まつりごと」に包含される イメージである。次に「教」の概念像について だが,教化,教育,教学,学問,道徳,倫理,
正統,宗教などがある。中でもとりわけ「教化」
という語に伝統的な概念が凝縮されている。「教 化」には古来,人を教え導き感化して善に進ま せるという意味が込められていた(2)。この語に は儒教社会で政治を司る支配層が民衆を教育す るという権力者のまなざしが投影されている。
教化の「教」とは,時の権力即ち政が「善」と みなす道徳倫理的価値観である。従って,極論 すれば政が変われば「善」とされるものも変わ りうる。喩えていうなら教化の教とは,統治イ デオロギーを注入する器のようなものであった と理解することができよう。中国において,時 の権力が善とする「教」の正道は漢の時代以来 一貫して孔子の教え,儒教であった。儒教以外 に「教」とされたものに,道教と仏教がある。
これらは支配層から邪道視されたため,事実上 唯一の正道の地位を儒教が独占してきた。朝鮮 と日本も李氏朝鮮時代と江戸時代に儒教を統治 理念として掲げて以来,中国と同様の「教」観 念と教化の意志を保有してきたとみることがで きる。
第二に政教関係の枠組みについて述べたい。
東北アジアにおいて,「教」は単体で成立する 観念ではなかった。プロトタイプとしての「教」
は「政」と一対を為し,「政」に従属する存在
であった。一方で教は政の下位にありながら,
政が形作った「容器」の中身を普遍的な価値で 満たして,転じて政を規定することになる。抗 力が働かなければ,政教という一対の関係を維 持し得ないからである。この相互規定関係を他 に例えるなら立憲体制における憲法を挙げられ よう。国家は憲法の枠組みを提供するが,いっ たん憲法が制定されれば,憲法が逆に国家のあ り方を規制するようになる。この例えはあくま でも仕組みついてであることに留意されたい。
概念については,伝統的な教と近代の憲法を同 じレベルで比較することは到底できない。教は 包括的な観念であるため,そこに「宗教」やそ の他のイデオロギーがすっぽり当てはまるとい うような現象が起こり得るし,実際それを東北 アジアは経験している。政の性格が教を規定し,
規定された教が逆に政を規定するという相互作 用によって,東北アジア 3 カ国は同じ教という 政治文化を基底にもちながら相異なる政教関係 を形成した。
第三の視角は,キリスト教に対する東北アジ ア共通の認識様式である。東北アジアにとって 近代とは,政のあり方を根本から立て直すこと を迫られ,それに伴い教も変容を余儀なくされ た時代であった。東北アジアの政を揺り動かし たのは,西欧からの近代性の衝撃であった。こ の衝撃を受けた東北アジアの 3 カ国は,互いに 共通する初動反応を示した。その反応とは即ち,
教との因果関係を分析することで政における危 機対応の解を求めたことである。当時の東北ア ジアが導き出した分析結果はいわば「西欧帝国 主義はキリスト教という国家の機軸,即ち教を 有している」というものであった。ここに筆者 が「教の政治文化」というキーワードを想起し
た所以がある。例えば以下に挙げた康有為と伊 藤博文の言葉には伝統的な政教関係に基づく共 通の思考様式をみてとれる。
「沿海通商が大いに解禁した時,康有為は,
欧州各国が教皇を崇めることで国の政治を操縦 することを見て,外国が富強に至る原因が之れ によると思い込んだ」[康 1987:1040]
「抑歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌芽セル事千餘 年,獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス,
又タ宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ爲シ,深ク人 心ニ滲潤シテ人心之ニ歸一セリ(3)。」[伊藤博文,
1888 年 6 月 18 日「大日本帝国憲法」草案,枢 密院第一会議会演説]
欧州が「教皇」即ち宗教的権威を崇めること により「国の政治」を「操縦する」という康有 為の解釈,欧州の統治(政)が憲法政治のみな らず「宗教」を機軸とする人心掌握により成り 立っているという伊藤博文の解釈は,繰り返し になるがいずれも伝統的な政教関係に基づく思 考様式の表れであるとみることができる。
キリスト教の効用を政の視点から認知するよ う に な っ て 以 降, 教 化 に 由 来 す る「 教 」 と religion の翻訳語に由来する「宗教」との間に 不明瞭な関係が生じる。今もってなお「教」と
「宗教」は概念上の線引きが明確でない。近代 東北アジアがキリスト教に代表される信仰体系 を religion,その翻訳語を「宗教」として受容 して以来,伝統的な「教」観念が揺らぎ始め,
揺らいだ「教」観念に引きずられて「宗教」概 念に混乱が生じるという現象が起こった。両概 念の擦り合わせの過程で,「教化」は統治者が 用いる言葉としては 20 世紀初頭までに風化す るに至ったが,一方で「教」観念の方は国民国 家体制が定着する過程で「宗教」,「政治」,「教
育」の三分野を浸食するという形で保存された。
現在我々が目撃している東北アジアの政教関係 はその浸食の産物である。
教に混乱をきたし,結果として政教関係に変 動をもたらした西欧の近代性に対し,東北アジ アはいかに対応したのか。この第四の視角につ いては,置かれた構造的環境の相違に鑑みれば 当然の帰結であるが各国とも対応方法に相違が あった。以下に日本,朝鮮,中国における対応 方法につき詳述する。
日本は 3 カ国中でいち早く近代国家体系に参 入し,キリスト教とその背後に控える西欧近代 国家及び西欧文明との緊張関係の中で「教」を 支配体制の管理下に編入させた。明治近代国家 の体制内で「教」は religion に対応する「宗教」
の他に「祭祀」「教育」に転移させられ,これ らが,太政官布告(4),帝国憲法(5),教育勅語(6)
といった法令の中で,言わば「政」の枠組みの 中で,自らの場所をみいだした(7)。
朝鮮の政教関係にとって西欧的近代性の衝撃 は,西欧,日本,中国の三方面からやってきた。
西欧の衝撃は宣教師が直接朝鮮の地で施した医 療や教育から始まった。日本からの衝撃は,留 学や使節として渡日した朝鮮人がもち帰った間 接的近代性と,朝鮮の中央権力を蚕食した日本 の統治体制という直接的近代性であった。中国 からの衝撃は更に複雑で,影響の大きいものと しては戊戌の政変で日本に亡命した梁啓超が日 本から中国本土に向けて発行した出版物(8)を挙 げられる。それらに朝鮮の知識人層が啓発され,
愛国啓蒙運動運動(1905-1910)が起こり,国 権回復のための方法論をめぐり議論が活発化し た。植民地転落直前にあって最も切実に国力の 増強が希求されたこの時期,朝鮮では近代史上
稀にみるあらゆる宗教的要素の発露がみられ た。現地化したキリスト教の心霊大復興運動,
日本の国粋主義と中国の愛国主義に啓発された 檀君教運動,統監府の朝鮮儒者囲い込みに反発 し宗教革命で国難を乗り切ろうとした儒教の宗 教化運動の他,日本の神社設立運動,親日的な 仏教・東学運動,他各種新興宗教の興隆などで ある(9)。日本の植民地に転落した後も独立運動 を行った多くの開化知識人らは国権回復――政
――に必要なイデオロギー――教――を求め て,キリスト教や大倧教,共産主義や無政府主 義などに乗り移っていった。
最後に「教」を生んだ東北アジアの大国――
中国にとっての近代性の衝撃についてである が,それは西欧と日本からもたらされた。西欧 からの衝撃はアヘン戦争,アロー戦争の敗北と それに伴う国力の疲弊,開港,直接間接的なキ リスト教宣教師との接触と軋轢があった。日本 からの衝撃は日清戦争の敗北と,その後の知識 人らの近代日本研究熱の高揚があった。これら 山積する政の問題に直面し「孔教国教化」を掲 げ政治改革を提唱したのが戊戌変法の立役者,
康有為とその弟子梁啓超である。ここから「孔 教」と康有為によって命名された「教」,日本 から輸入した religion の翻訳語の「宗教」,そ して目標とする「政」のあり方,すなわち政体 をめぐるカオスの幕が切って落とされる。
本稿第 2 章以降では,近代中国で「教」認識 の変容に影響力をもった人物を一定の基準に 沿って選択し,その背後にある「政」を構造的 に明らかにする。人物の選択にあたっては,政 教関係の議論を惹起した人物,展開した人物,
実践した人物に焦点を当てた。即ち政教関係の 議論を惹起した康有為とその議論の展開及び転
回において常に旗振り役であった梁啓超を中心 に据えつつ,彼らの議論を権力の中枢で応用し た人物――張之洞,袁世凱――を主に考察する ことにした。よって,本論は政の変容に即した 教の位相全てを網羅してはいないことを予め断 わっておく。政教関係に対して積極的な問題提 起を行った人物は他にも,章太炎,陳独秀,梁 漱溟など枚挙にいとまがない。これらを含む政 教関係のより包括的な考察については,後の機 会を期したい。
2.宣教師,清朝官僚,康有為 ――
「教」は“Religion”か
中国には唐の時代から断続的にカトリックの 宣教師が入ってきていた。その幅広い知識と中 国文化への理解によって 16 世紀にはマテオ・
リッチを筆頭として皇帝の側近になる者も出た ほどであった。儒教を一種の哲学として理解し ていた当時の宣教師らは,儒教的な祖先祭祀を 排除しなかったため,多くの知識人たちが洗礼 を受け,儒者でありながら同時にキリスト教徒 になった。宣教師らと中国の政治権力との間の 力関係は圧倒的に中国政治権力側に有利であっ たがこのような力関係に変化が生じたのは,帝 国主義時代の 19 世紀に入ってからである。ア ヘン戦争,アロー戦争を経た中国は国際法体系 に否応なく引きずり込まれ,公式に中国本土内 におけるキリスト教の自由な宣教活動を認めざ る得なくなる。この時期優勢であったのはプロ テスタント宣教師らである。彼らは歴史の前例 に倣って中国語を習得し,漢訳した聖書を携え て民衆の中に入っていった。彼らによってキリ スト教は「天主教」あるいは「耶蘇聖教」といっ た よ う に, 一 種 の「 教 」 と し て 紹 介 さ れ た
[Chen1999:40]。そしてこのキリスト教はその 他「教」のつくおしえ――儒教,道教,仏教―
―と同列に位置付けられることによって,「教」
の枠組みの中で中国人に認識されるようにな る。他方,当時の宣教師らは,「教」の原型であ り正道として認知されていた儒教を,religion の枠組みの中で海外に紹介していった(10)。この ようにして「教」は“religion”と同義でない にも関わらず,儒教とキリスト教の背後でうご めく国家間の力関係の影響を受け,religion と いう外枠が与えられてしまった。この「『教』
即“religion”」の命題は 1920 年代まで続く宗 教論争の萌芽となる。
1893 年 9 月シカゴで開催された万国宗教大 会で清朝の官僚彭光誉が披歴した「教」認識は,
この時代の知識人層の政教観を知る手掛かりと なる。“Confucianism”というタイトルの 64 ペー ジに及ぶ長い英語報告の冒頭で彭は,”religion”
との比較の中で 「教」 を解説した。その骨子は 次の通りである。
中国の知識人は「教」は「政」,「政」は「教」
に置換可能であると認識している,なぜなら両 者とも皇帝の権威から生じるものだからであ る。そして統治者と師による教が人民を導く正 しい道であるとされている(11)。また,「教」に は仏教や道教が自らの信仰システムと区別する ために使用した「儒教」という別名があるが(12), 本来教の正式な体系である「礼教」のみが中国 的な教に対する呼称である(13)。一方 religion は,
Webster によれば「崇拝,愛,服従の対象とし て神を認知すること,あるいは神に対する正当 な理解に基づく正当な感情」との語義であるの で,「おしえ」を意味する「教」よりも「巫」
や「祝」が適当である[Barrows:375-376]。
伝統的な「教」とは正式には礼教を指すので あり,これは「政」と表裏一体の関係にあるこ と,他方 religion は神の道を唱道するものであ るから本来は「教」という漢字は当てはまらな い, こ れ が 彭 が 外 国 人 に 向 け て 発 し た ” religion”と「教」の比較論である。これは 19 世紀末の中国人知識人のごく一般的な「教」お よびキリスト教に対する見方であったようだ
(14)。
彭光誉が 1893 年,教を人の道であり「政」
であると定義づけ,神の道である religion の訳 として教は不適切だと指摘したのとは対照的 に,その 20 年後の 1913 年,康有為は religion は中国では「教」と称すべきであると主張した。
「孔教会序」(1912 年 10 月)中で康が展開した 論旨は次の通りである。religion の対訳として 日本由来の「宗教」という語が広まるにつれ,
まるで 「宗教」 が「神の道」のみを指すかのよ うに受け止められている。神の道と人の道を区 別するのは適切ではない。太古の時代の「神の 道」が進化発展して「人の道」に至ったのだか らこれらを一括りに「教」とすべきなのだ[康 2006 ‐ 9:345 - 346]。
この 20 年の間にいかなる教認識の変化が起 こったのか,総括すると次のようにいえるだろ う。「宗教」という言葉が religion の訳語とし て日本から輸入され,定着した。変法運動と同 時期,康有為が「孔教国教化(15)」運動を惹起し,
梁啓超がそれを言論活動で支援した。しかるに ほどなくして「孔教」の「宗教」性を否定する 論が梁啓超により展開された。「孔教国教化」
論に反応した論者の多くは「宗教」言説の政治 効用に基づき発言したため,「孔教」「宗教」,「経
書」,「尊孔」の狭間で議論が白熱した。
上記教認識の変容に関しては,次章でその事 例とそれに紐づく政の構造から考察する。
3.張之洞,袁世凱 ―― 「宗教」と「孔 教」の興隆
中国全土に遍く広まった(16)『勧学編』(1898 年)を通じて「中体西用」論を提唱し,政界に 多大な影響力を揮っていた清末官僚の張之洞
(1837-1909)は,1903 年に制定した『学務綱要』
中に「中国の経書はすなわち中国の宗教」(17)と いう文言を挿入した。経書を宗教と断定する理 由について張之洞は次のように説明する。経書 が廃止されれば中国は国を維持することができ ない。学がその本を失えば無学になり,政がそ の本を失えば無政になる。その本を失えば,愛 国愛類の心もそれに従って変わってしまう。ど うして富強の望みがあるだろうか,という内容 である[多賀 1972:210]。張は「宗教」と呼 ばれるものが国家の富強を達成する上で必要不 可欠であるという効用面のみに焦点を当てて,
儒教の経典が政治の要諦であり愛国愛類の心を 育てる根本としての機能を有すという筋立てか ら経書を宗教であると断定したのである。この ように宗教を国家の富強達成の手段という効用 面で評価する論理は,政と教の相互補完関係に 基づく伝統的な政教観の反映であり,康有為の 政教観に共通するものである。康有為は張之洞 の『学務要綱』に先駆けて変法運動前から,国
(政)の目的を達成せんがために保教を戦略的 に選択したのである(18)。
ところで変法自強運動当時の張之洞は,康有 為が教を孔教として religion と同列に置き「宗 教化」することに断固反対していた。『勧学編』
(1898 年)の中では,救国という目的に対して は学問という手段を以て臨むべきであると主張 したほどであるのに,この 5 年の間に何が彼の 主張を変化させたのであろうか。義和団事件
(1900 年)後一層窮地に追い込まれた清朝が自 ら変法を宣布実施する中,官僚の重鎮であった 張之洞も「宗教」言説の利用に踏み切らざるを えなくなったのだとみることができよう。救国 の手段としては教の宗教言説化も憚らないとい う点で,張之洞が康有為に接近したとみること ができる。
清朝末期は,中国の歴史の中で孔教が最も国 教(state religion)に近づいた時期である。政 教関係のあり方もわざわざ伝統の枠組みの中で 説かれている。1906 年発布の「学部奏清宣示 教育宗旨摺」[多賀 1972:634]には,中国固 有の政教を明らかにし異説を遠ざけるには「忠 君」と「尊孔」が必要で,国民を奮起させるに は「尚武」「尚公」「尚実」が必要である,と記 述された。尊孔を説いた個所では「国教」とい う言葉が使用されている(19)。施すべき尊孔教育 としては,小学堂における経学の必須科目化,
孔子の歌の賛揚,春秋釈奠と孔子の生誕日に慣 行すべき祭祀等の儀式も含まれていた。また 1906 年以降,孔子の祭祀は皇帝が自ら執り行 う大祀に格上げされた[森 2005:183]。これ まで孔教に対する朝廷の優位性を示すべく中祀 として執り行ってきた尊孔儀礼を大祀に格上げ したのは,孔教に頼らなければ朝廷の正統性が 容易に保てないほどに清朝権力が脆弱化してい たためであった[Chen1999:104]。
孫文ら革命派が樹立した中華民国(1912)は,
康有為が推進する孔教国教化構想を挫くため
「信教の自由」原則を建国当初から臨時約法に
盛り込む。そして 1912 年 9 月に公示された新「教 育宗旨」からは,「忠君」と「尊孔」が排除さ れた(20)。新「教育宗旨」の作成者は南京臨時政 府教育総長に就任した蔡元培(1868-1940)で ある。蔡は就任直後の同年 2 月に発表した『対 于教育方針之意見』の中で新教育宗旨は,1)
軍国民教育,2)実利主義教育,3)公民道徳 教育,4)世界観教育,5)美感教育の保有と す べ き で あ る と 表 明 し た[ 多 賀 1973:48;
Chen1999:105-106]。新教育の宗旨から「忠君」
と「尊孔」を排除した理由は皇帝のいない共和 制の新国家となった中国にとって「忠君」は当 然のことながら不要であり,「尊孔」は臨時約 法に定めた信教の自由原則に抵触するからで あった。蔡元培は同『意見』において教育界は 孔子と孔教を区別することに特に留意しなけれ ばならないとし,孔子と宗教との関係を否定し ている[Chen1999:107]。注目すべきはドイツ 留学経験のあった蔡元培でさえも「宗教」自体 の概念には触れずに頭から孔教を宗教として排 除しようとした点である。これに関する当時の 知識人らの思考様式には尊孔の制度化に対して これを「宗教」として論じる傾向があった。行 動様式は,これまでみてきたように彼らの政へ の志向性を勘案すると明快である。孫文に代表 される立憲共和制志向者あるいは革命派は,孔 教を否定し政教分離の原則を掲げ,康有為に代 表される立憲君主制志向者あるいは改良派及び 保守派は政教一致(孔教国教化)に偏りがちで あった。
清朝末期官僚から中華民国大総統に転身した 袁世凱(1859-1916)は本稿で取り上げる他の どの人物より自らの個人的な政治目的の達成の ために,宗教言説を巧みに操った人物であるよ
うに映る。彼の政の志向は君主制から共和制に,
次いで共和制から君主制に変移した。民国の国 内政治が建国直後から大混乱(21)に陥る中で最高 権力の座に就いた袁世凱は,1914 年 2 月 7 日 大総統令をもって,祭天・祀孔の復活を号令し,
1915 年 2 月には「法孔孟(孔孟を法とすべし)(22)」 を加えた「頒定教育要旨」を発表した[高 1999:
204]。その一方で尊孔や国家祭祀は「宗教」で はない旨を再三にわたって強調した(23)。清末時 代の尊孔方針に限りなく近づけてもそれを「宗 教」(religion)であると認めなかったのには,
袁世凱特有のプラグマティックな考えがあっ た。政教分離の原則を公的に蔑ろにすれば当時 の政治基盤であった革命派から非難を受けるは 必至であり,尊孔を否定すれば自らが今後拠り 所とするつもりの保守派を敵に回すことにな る。Chen[1999:167]によれば,「宗教」で あることを認めないまま尊孔の態度を示してお けば,孔教運動家からもある程度の理解をえる ことができるという算段である。帝政の復活を 目論んでいた袁世凱にとって皇帝としての正統 性の根拠となる尊孔は,強化こそすれ廃棄する ものではなかった[Chen1999:169]。
袁世凱が採ったこれらの政策は奇しくも明治 日本の政教政策と軌を一にするものであった。
日本天皇の祭祀と中国皇帝の祭祀は「祭政一致」
による正統性顕示の表れであり,政治と「宗教」
の形式的な分離は両国の「政教分離」政策にお ける共通点であり,教の道徳面を盛り込んだ「教 育勅語」と学校における袁世凱の尊孔方針には 共通性がみられる。
教そのものではなく教が果たしうる政治効用 に着目したがために,張之洞は孔子の教えや孔 子に対する信仰心を宗教であると認め,他方袁
世凱はそれを否定した。政の局面が異なったた め教に対する彼らの行動は食い違ったが,共通 点は彼らにとって教は政なしに存在し得ないこ とである。そのため,政に対し副次的な存在の 教が「宗教」であるか否かの議論は彼らにとっ てさほど重要ではなかった。意識するとしない とにかかわらず,彼らは伝統的な政教関係の枠 組みの中で行動していたのだ。
一方で蔡元培に代表される新中国の知識人ら の宗教認識は,西欧由来の一定の価値観に基づ いていた。その価値観とは「宗教」を迷信とし て排斥し「科学」を信奉する社会進化論(24)的近 代文明国家論が投影されたものであった。ただ し康有為の孔教国教化論に社会進化論が投影さ れていなかったということではない。梁啓超は かつて康有為の孔教を六大主義と称し,その項 目として進化,平等,兼善,強立,博包,重魂 を挙げて紹介している[梁 1941 ? ‐ 12:55 - 56]。孔教の基底をなす彼の大同思想には社会 進化論のみならず,共産主義,無政府主義相互 扶助論など西欧の先進的な思想が「付会」とい う形であれ取り込まれ,伝統の衣で被われてい た(25)。それにも関らず中国知識人の「宗教」へ の対応がこのように両極化するに至ったのは,
繰り返しになるが,それがいかなる政治目標に 紐づいているのかということと必然的に関係し ている。君主制を標榜するのなら君主の正統性 と連結しやすい国教議論を惹起し,共和制確立 を目指すなら政教分離原則に結び付けた方が,
目標とする体制を整備しやすい。
「宗教」への対応に両極化をもたらした契機 は,梁啓超の言動に凝縮されている。義和団事 件,袁世凱の復辟,帝国主義列強の圧力,第一 次世界大戦の終結,こういった国際政治環境に
いかに対応すべきかをめぐって梁啓超の政治志 向は揺れ動いた。次章で梁啓超の政治志向の揺 れとそれに呼応した教認識の変移につき考察す る。
4.梁 啓 超 ―― 「 孔 教 」 と「 宗 教 」 の否定から「宗教」肯定へ
梁啓超(1873-1929)は中国の言論界で圧倒 的な影響力を有していた。梁によって 1898 年 の日本亡命直後に発刊された『清議報』(1899- 1902)とそれに次ぐ『新民叢報』は当時の中国 知識人の思想形成に絶大なる影響を及ぼした。
梁啓超も師匠の康有為同様,「宗教」を救国の 問題と結び付けて考え,この問題を積極的に世 論に問うた。
梁啓超は母国の維新に向けて世論を盛り上げ るために『清議報』にもてる情熱を注ぎ込んだ。
「目を見開き肝っ玉を据えて政府を攻撃したの は,この時がもっとも激烈」[島田 2004 -1:
292]であったと自ら述懐している。『清議報』
の刊行期間である 1899 年から 1902 年は,日本,
ホノルル,中国,オーストラリアを飛び回りつ つ康有為の片腕として勤皇蜂起や保皇会運動の ために奔走し,かたや日本の書物から西欧近代 思想を摂取し清議報から救国のメッセージを発 信していた時期とも重なる。当時 30 歳手前で あった梁啓超は革命派孫文との合作を取り付け て師匠の康有為に非難され(26),康有為が企図し た杜撰な蜂起計画(27)に対する懐疑をホノルルか ら書簡で康有為本人にぶつけて更に非難され弁 明したり猛省したり(28)と,方法論において既に 師匠との間に揺らぎと亀裂が生じていた。日本 滞在中に西欧近代思想に啓発され「思想が一変 した」[島田 2004:291]梁啓超は達成すべき
政治目標として「自由」と「民権」,「共和」の 理念に傾倒していった。そのため「革命」路線 に対しても一定の理解を示すようになってい た。一方で師匠の康有為は「立憲君主制」を標 榜し,「革命」ではなく「改良」「改革」こそが 中国を救う最善の路線であると考えていた。当 初梁はその路線に全幅の信頼を寄せ,渡日後も
「論支那宗教改革」(1899),「南海先生伝」(1901)
の中で積極的に康有為の構想を紹介していっ た。これらは『清議報』に掲載され遠く中国ま で運ばれて,「宗教」という訳語を中国国内に 認知させることとなった(29)。1902 年の劈頭,
30 歳の節目を迎えた梁啓超は『新民叢報(30)』
(1902 - 1906)を創刊した。梁は,この年を精 神的,思想的に康有為から独立した転機であっ たと後に述懐した(31)。概して「変法改良派」と 称される梁が一生の中で最も「革命排満共和」
[梁 1974:278]の議論に傾いていたこの時期,
それまで喧伝に努めていた康有為の孔教国教主 義を批判する論文を発表したのだ。件の論文「保 教は孔(子)を尊ぶ所以に非らざるの論(32)」の 骨子は次のとおりである。
所 謂 西 洋 人 の 宗 教 と は「 迷 信 宗 仰 」[ 梁 1941 ?- 9:52]である。懐疑を禁じ人の思想 の自由を塞ぐ。社会進化の第一期には功徳が あったかも知れぬが,第二期以降は弊害でしか ない。その点孔子は,世界国家の事や倫理道徳 の源を教え,迷信や礼拝はなく,懐疑を禁じず,
外道を怨むこともない。孔子は哲学家・経世家・
教育家ではあっても宗教家ではなかった。社会 進化の第二期は科学の力が日ごとに増し迷信の 力が日ごとに衰える。自由の領域が広がり,神 権の領域が縮む。ヨーロッパにおいては宗教の 政治への参加が禁止され,教育の権限も国家に
移っている[梁 1941 ? ‐ 9:52 - 53]。孔教 の精神は専制でなく自由である(33)。そして,今 後重要になってくるのは「教」を保とうと躍起 になることではなく,「国」を保つことである と云う[島田 2004 ‐ 2:134]。
梁は「教」と「宗教」の両単語をこの論文の 中で併用しているが,教と宗教の弁別を意図的 には行っていない。認識の上では日本の思想界 が当時議論していた「宗教」概念をもって「教」
を論じていたようである(34)。宗教を国家にとっ て不要だと否定した背景にはブルンチュリの
『国家論』の和訳版(35)(1889 年)の影響がある とされている。『新民叢報』は『清議報』にも 増して中国の知識人に熱狂的に読まれていた雑 誌であったこともあり[梁 1974:271 - 272;
島田 2004 ‐ 2:131 - 132],梁の孔教を宗教 でないとする言説は瞬く間に中国人の間で広ま り五四運動の時代まで続く宗教論争の火付け役 となった[Chen1999:96]。
ところで同年の 1902 年 12 月に発表した「論 仏教与群治之関係(36)」で梁は伝統的教と宗教に 対する認識に言及して,「孔教者,教育之教也,
非宗教之教也。其為教也,主於実行,不主於信 仰」[梁 1941 ?- 10:45]と主張した。梁の 主張は次の通りである。孔教という時,教は教 育を指す。宗教の教でない。実践の側面はある ものの信仰の側面はない。国家に信仰が必要で あるとするなら,その要素を欠いている孔教は 役不足である。孔教がだめなら,これまで信仰 が無かった中国に最適な信仰は何であろうか。
最も高尚な「哲学の宗教」[森 1999:206]で ある仏教が最適である(37)。以上が梁の主張の骨 子であるが,注目すべきは前述の論文で儒教の 宗教化に反対し,宗教には何の政治的効用もな
ければ国を保つ能力もないと主張してから1年 も経ずして,国家には信仰が必要であると逆の 立場を表明した点である。この背景にはこの間 に梁が取得した新しい知識とそれへの感銘があ る。即ち梁はベンジャミン・キッドの“Social Evolution”の和訳版(1899 年)(38)を読み,自分 が標榜する新国家建設のための国民創出という 目標と宗教との関係を改めて確認したからに他 ならない。梁は 1902 年に「進化論革命者頡徳 之学説」という論文を発表している[島田 2004
‐ 2:183]。この中で梁は,社会の進歩は個人 の超理性的な力量を引き出す宗教に負うところ が大きいというキッドの主張(39)に同調し,それ を中国社会の進歩に重ね合わせた。
梁啓超は前述の「論仏教与群治之関係」を発 表した 1902 年 10 月に,康有為に宛てて,革命 を鼓舞してきた自らの言動について反省し謝罪 する書簡を送った[島田 2004 ‐ 2:169]。心 境の変化は深まり 1903 年中盤を過ぎた頃から 梁ははっきりと革命反対を唱えるようになる。
本人いわく「新党の混乱腐敗した状態に懲りた」
[島田 2004 ‐ 2:213]のが直接の理由であり,
また黄遵憲との文通で将来の政体について議論 を重ねたことも影響したようである[島田 2004
- 2:171-181]。政教関係の視点からは,梁が 中国に信仰が必要だと認めた時期と,彼が再び 立憲君主制を標榜するようになった時期とが一 致していることを指摘しておきたい。
政治目標を主軸にしつつ教と宗教を副次的に 論じる梁の傾向は,彼が晩年を迎える 1920 年 代まで大きく変化しなかった。20 年代前後に 政界から引退し,五四新文化運動を目撃し,そ の後 1 年に亘って世界大戦に疲弊した欧州を旅 行したことによって,梁はこれまで鼓吹してき
た欧日流の国家主義を相対化し(40),政治目標に 従属した学問ではなく,学問のための学問を提 唱し自ら実践していく。そしてかつて自分が種 を巻いた「新青年」たちの宗教論争を傍目に,
文化論の視点を取り入れて宗教をみつめなお す。欧米の定義を翻訳するのでなく,初めて自 ら宗教の定義を試みたのもこの時期である。梁 は「評非宗教同盟」という講演中,「宗教是各 個人信仰的対象(41)」[梁 1941 ? ‐ 38:19]で あるとし,この命題に含まれるそれぞれの語義 までも明らかにした。梁によると,信仰の「対 象」は,人,人でないもの,主義,事情等様々で,
その人が信仰を寄せているものであれば何で あってもそれが信仰の対象となる。「信仰」に は二つの特徴があり,一つは情感の産物であっ て理性の産物でないこと。第二に信仰は目的で あって手段ではないこと。他のことを犠牲にし て信仰を守ることはあっても,信仰を犠牲にし て他のことを為すことはありえない。「各個人」
に関しては,信仰はそれぞれ異なるので夫婦父 子間であっても互いに喩してはならない[梁 1941 ?‐38:19]。この定義に従えば自分は「徹 頭徹尾」「非非宗教者〔宗教を信じない者では ない――筆者注〕」と認める[梁 1941 ?- 38:
23]。
これまでみてきたように梁の宗教肯定までの 道程には二つの段階がある。第一段階は国家主 義という政の目的を前提とする宗教の肯定であ り,第二段階は個人の信仰自体を目的とする宗 教の肯定である。第二段階に達した時点で梁啓 超は伝統的な政教関係の認識様式から脱却した のだろうか? 筆者が現時点で準備できる答え は「否」である。「否」の意味を解説するなら,
梁は従来の曖昧な政教関係の認識様式に舞い
戻ったというよりは,一生をかけた長い試行錯 誤の末に自らの居場所を明確に定めそこから新 境地を切り開いたのだと表現したい。梁啓超が 提示した「宗教」の概念は,あらゆる信仰の包 含可能性に言及しているという点で伝統的な
「教」観念に近づいたとみることができる。梁 は「宗教は神聖であり,人類社会にとって有益 且つ必要なものであると認め」[梁 1941 ? ‐ 38:23]ているが,ここでの「宗教」は個別の 宗教を指していないため「教」と代替可能であ る。「教」はその特性上,政治目的と紐づくイ デオロギーさえ包摂するのであるが,梁は同講 演中特定の運動家らを皮肉を込めて「排満教 徒」,「マルクス教徒」と呼び,彼らの精神作用 は一般の教徒が信じる教えと「無二無別」であ ると喝破している[梁 1941 ?‐38:19]。さて,
この段階で梁の宗教理解が遥かな思想遍歴の果 てに中国古来の「教」に近づいたのだとすれば,
その政の目的は何であろう。それは梁の言葉を 借りるなら「世界主義」であり,康有為の一門 である今文学派が救国運動の当初から提唱して きた「大同思想」に他ならない(42)。大同思想は 中国という「国家」を乗り越えて「教」に集約 される中国精神思想文明で世界を照らすことを 目的とする。国家主義はそのための一時的な手 段にはなり得ても,決して目的にはなり得ない のだ。
5.おわりに
本稿では中国近代政教関係における政の優位 性と,教の政に対する補完的な役割について東 北アジアを視野に入れつつ確認した。本稿は近 代を扱ったわけだが,問題意識の背景には,近 代の先人たちの政教観と,現代の「宗教」研究
の成果がある。
近代東北アジアの先人たちが残した言葉か ら,彼らの政教観を振り返ってみたい。
「祭は以て政となり,政は以て教となる。教 と政と未だ嘗て分れて二とならず」(会沢正志 斎,1825 年,『新論』より)[会沢 1942:13]。
幕末の尊王攘夷運動の精神的支柱となった会 沢正志斎は上記『新論』(1825)において,祭 と政と教は全て分かつことができない,一体化 しているだと指摘した。
欧州旧思想以「政治為宗教的付属物」,中国 與之相反,而以「宗教為政治之付属物」。(梁啓 超,1901 年,「国家思想変遷異動論」,『新民叢報』
第 10 号より) [梁 1941 ?- 6:17]
上記は梁啓超が『新民叢報』(1901)誌上で 欧州と中国の政治と宗教の関係における相違点 につき端的に述べた箇所である。欧州の旧思想 は「政治を以て宗教の付属物と為す」のに対し,
中国では「宗教が政治の付属物」として機能し ているとの見解である。
どうして教道が政体に無関係であるなどとい うのであろう。政体と教道の関係は大変親密な ものである。まるで車の両輪が互いに補い合う ようなものであり,唇と歯が互いに依存してい るようでもあり,ともに行動しても食い違った り反発したりせず,いつ何時いかに差し迫った ときにも互いに離れることはできないのであ る(43)」(崔炳憲,1906,「宗教と政治の関係」,『大 韓毎日申報』雑報より)[大韓毎日申報 1906:
申 2002:64]
上述のように朝鮮においても教と政は相互依 存関係にあるとの認識が示されている。
最後に現代の「宗教」研究についても触れて おきたい。本研究は,現時点で進行している「宗 教」概念の相対化の問題を共有している。この 潮流は,「宗教」は近代西欧が作り上げた「言説」
にすぎないということ(44),すなわちプロトタイ プとしての「宗教」は歴史的な認識様式の構築 物にすぎず,決して唯一の正しい定義など存在 しないという立場をとる。著者も同様の立場か ら,「教」は近代の「宗教」言説を包摂しうる 普遍的な観念であるという知見を導き出した。
近代東北アジアにあって「教」を問題にする 議論は西欧的な「宗教」言説の浸透に伴い康有 為を最後に消滅に向かったが,梁啓超の例に顕 著に表れたように,意識するとしないとに係ら ず実際には現代にあってもなお東北アジアで政 に携わる人々の多くが伝統的政教関係の枠組み の中で行動しているのはないだろうか。それは
「教」という漢字を理解する文化圏に属す人々 の政治文化と呼べる気がしてならない。
〔投稿受理日 2010.9.25 /掲載決定日 2011.1.27〕
注
⑴ 本稿で東北アジアというとき,日本,中国,南 北朝鮮を指すものとする。
⑵ 「教化」,『全訳漢辞海』第二版 2008 三省堂,p.
629。
⑶ 国立公文書館蔵『枢密院会議筆記・一,憲法草 案・明治二十一年自六月十八日至七月十三日』(ア ジア歴史資料センターから電子閲覧可能,リファ レンスコード A03033488000,画像 4-7)(『明治 憲法実録』http://www.geocities.jp/somohompo/
meiken/index.html よ り 2006 年 6 月 3 日 ダ ウ ン ロード)。
⑷ 1871(明治 4)年 7 月 1 日太政官布告「神社ハ 国家ノ宗祀」。
⑸ 1889(明治 20)年 2 月 11 日『大日本帝国憲法』
発布「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
(第1章第1条)。「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス 及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由 ヲ有ス」(第 2 章第 28 条)。
⑹ 1890(明治 23)年 10 月 30 日教育勅語渙発「(前 略)我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ 世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ 敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟 ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛 衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳 器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ 重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ 天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ 忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ 顯彰スルニ足ラン(後略)」。
⑺ 日本における政教関係については,2009 年曺 明玉社学研論文「近代東北アジアにおける日本の 宗教的ナショナリズム―天皇中心主義イデオロ ギーの確立とその朝鮮への移植」で取り上げた。
⑻ 『清議報』『飲冰室文集』『新民叢報』等は朝鮮 の代理販売所から発行されていた[牛 2002]。
⑼ 詳細については 2006 年曺明玉修士論文「『檀君 ナショナリズム』と大倧教」で取り上げた。
⑽ 詳 細 に つ い て は[Chen1999:1-18]
Introduction を参照されたい。
⑾ With Chinese scholars the words“kao”〔「教」
――筆者注〕― instruction― and“ching”〔「政」
―― 筆 者 注 〕 ―law― are interchangeable, because both derive their authority from the Emperor. Instruction by rulers, and instruction by teachers are the established modes of instructing the people [Barrows 1893: 375].
⑿ Even the term "Yu kao〔「儒教」――筆者注〕,"
or Confucian school, is employed only by the Taoists and Buddhists to distinguish the established system of instruction founded upon the principles of social relation, from their own systems of belief, which they call "Tao-kao" and
"Foh-kao" respectively, by prefixing the word
"yu" to the general term "kao"[Barrows1894:
375-376].
⒀ The only term that is of a Chinese origin is "li- kao," or the proper system of instruction [Barrows 1893: 375].
⒁ 村田[村田 2004:238]によれば,彭の示した「宗 教」理解は,当時の中国においてはきわめて一般 的なものであり,とくに彼の創見に出るものでは なく,この理解はイエズス会宣教師や M. ウェー バーの儒教理解にも重なる。
⒂ 変法運動時期に始まった孔教国教運動は,①教 祖に孔子を置き,②祭祀の対象を天と師(孔子)
と祖先の三者「三本説」に基づき,③教旨として
「時宜に応じた改制」を掲げ,④教団編成案とし て国家に教部を置き全国に孔子教会を組織するこ とを主張していた。その目的は,宗教トラブル(教 案)を防ぐこと,とくに列強の侵略の手先になり かねない中国人のキリスト教改宗を止めて,孔子 教に繋ぎとめることにあり,その本質は「反帝国 主義」運動の一つのあらわれ[竹内 2008:397]
だけでなく,孔教で命名された文化救国の指導理 念であった[蕭 2004:163]。
⒃ 『勧学編』は上諭によって各省に頒布され,刊 行数百万部を超えたと言われている[山室 2001:
283]。
⒄ 一中小学堂宜注重読経以存聖教。 外国学童有 宗教一門,中国之経書,即是中国之宗教,若学童 不読経書,則是尭舜禹湯文武周公孔子之道,所謂 三綱五常者,盡行廃絶,中国必不能立国矣,学失 其本則無学,政失其本則無政,其本既失,則愛国 愛類之心亦随之改易矣,安有富強之望乎,〔後略〕
[多賀 1972:210]。
⒅ 康有為は 30 代の頃に以下の考えをもっていた とされている。「私が急いで国の富強を使命とな すことは,教化を保護することによるのである[康 1987:1041]。」
⒆ 各国教育必於本国言語文字歴史風俗宗教而尊重 之 保 全 之 故 其 学 堂 皆 有 礼 敬 国 教[ 多 賀 1972:
634]。太線は著者による。
⒇ 原文は[多賀 1973:578 - 580]を参照されたい。
東北三省自治宣言の張作霖の名における発表
(1912 年 6 月),総選挙で圧勝した国民党党首宋 教仁の袁世凱による暗殺(1913 年 3 月),袁世凱 による国民党強制解散,孫文の亡命と立て続けに
事件が起こっている。
原文は[多賀 1973:579]から参照できる。
原文に当たることができなかったため,Chen の 英 文 翻 訳 を 参 照 用 に 記 す。“‘Religious freedom’ is an international common law… As for the seasonal sacrificial ceremonies of worshipping the sages and the worthies, they were stipulated in the regulations of the former Qing dynasty. It has nothing to do with
‘religion.’”(Yuan Shikai, 1914, edict) [Chen1999:
167-168].“The worship of the Ultimate Sage is borne from the sincere admiration of the multitudes. It shall not be compared to the advocacy of a ‘religion.’”(Yuan Shikai, 1915, edict)[Chen 1999: 168].
社会進化論とは,人文社会科学者が進化論のア ナロジーを用いて,人文・社会科学の科学化を図 る企てとして 1880 年ごろから 1920 年ごろにかけ て展開された理論をいう[阪上 2003:9]。
社会進化論等西欧の近代思想の取り込みについ ては竹内の研究[竹内 2008:228]を参照した。
一方中村哲夫[中村 1999:399]は,小野川秀美 の研究成果を紹介しつつ康有為の『大同書』(1913)
が仏教学と公羊学に基づくものであると述べてい る。著者自身は,康有為の大同思想が西欧の近代 思想と伝統思想(仏教学と公羊学)を止揚したも ので,包括的な視座からは両論共両立するのでは ないかと考える。
梁が孫文の革命に賛意を示し彼と合作問題を検 討したことが,シンガポール滞在中の康有為の耳 に入り大いに怒りを買ったことは『梁啓超年譜長 編』第一巻[島田 2004‐1:301 - 302]に詳しい。
蜂起(1890 年 7 月)に参加するために梁がホ ノルルから上海に上陸した翌日には漢口で同志ら のほとんどが官憲に捕えられ蜂起計画はあえなく 失敗に終わっている。
蜂起に至った経緯と行動については『梁啓超年 譜長編』第二巻[島田 2004 - 2:3-110]に詳し く記されている。
康有為が「宗教」という語を中国国内に紹介し,
梁啓超がそれを普及させたというのが,村田
[2004]や Chen[1999]等多くの先行研究で明ら かになっている。
『新民叢報』は一般に改良派の雑誌と紹介され
るが,梁啓超がほぼ独力で編集執筆していた。梁 啓超は,康有為と違って,獲得した知識と変化す る情勢に応じて刻々と主張を変えていったため,
梁の思想の変化が刻印されている『新民叢報』を 一纏めに改良派の雑誌と括ることはできない。か つて梁はみずからを「今日の我をもって,昔日の 我を非難することを厭わない」[小野 1974:278]
人間と称し,それを世間の多くから欠点であると みられたことを認めている。しかし新国家のため の国民育成という政治目標はこの時期を通してぶ れずに堅持し続け,その目標に合致する学術思想 や文学作品を雑誌に紹介していった。
1920 年に初版が出版された『清代学術概論』
の中で梁啓超は自らを客観的に省みて「30 歳以 後は『偽経』を語らず『改制』についても多くを 語らなかった。その師の康有為は,孔教会を設立 し,孔教を国教に定め,天を祀って孔子を配享す る議論を大いに喧伝し,国内では少なからぬ人々 がそれに付和したが,梁啓超はそれを不満として,
しばしば論駁に立った」と述懐している[梁 1974:278]。
「保教非所以尊孔論」,『新民叢報』第二号,(1902 年 2 月 3 日付)
「孔教之精神非専制的而自由的也」[梁 1941 ?
‐ 9:58]。
梁啓超は,加藤弘行,姉崎正治,井上円了等の 著作から,西欧的な「宗教」概念と同時に「哲学」
概念を受容した。そして「宗教」を,神聖さや超 越的存在に対する信念,信仰行動に限定して使用 するようになった[森 1999:202]。バスチドの 研究によれば,本論における梁の立論―宗教には 政治的効用がないという点と儒教は宗教ではない という点―は『哲学雑誌』から得た知識によると いう[Bastid-Bruguiere1994:343 ‐ 344]。
ブルンチュリ著,平田東助・平塚定二郎訳,
1889,『国家論』,東京,春陽堂。
『新民叢報』第一九号(1902 年 12 月)。
仏教は「哲学の宗教」であるという認識には,
日本で接した井上円了らの欧化主義的仏教哲学の 影響がみられる[森 1999:206]が,もともと清 末知識人の間で仏教に救国のヒントを求める潮流 もあった[梁 1974]。
Kid, Benjamin, 1894, Social Evolution, New York : Macmillan。 和 訳 は, 基 徳 著, 角 田 柳 作 訳,
1899,『 社 会 之 進 化 』, 東 京, 開 拓 社[Bastid- Bruguiere1994:371 注 111]。 バスチドによれば 1900 年前後の日本の思想界は有賀長雄の社会進 化有機体論に代表される生物学的社会学から Franklin Henry Giddings や Benjamin Kid に 代 表される心理学的社会学にその関心を転移させて いた[Bastid-Bruguiere1994:349]。
キッドは”Social Evolution”中の第五章 The Function of Religious Belief の中で,次のような 命題を示している。”No form of belief is capable of functioning as a religion in the evolution of society which does not provide an ultra-rational sanction for social conduct in the individual”
[Kidd 1895:108-109]。
朋友譚嗣同の『仁学』が「世界主義」に帰結す ることを解説しつつ,梁啓超は自らを振り返って
「〔これら普遍主義の議論は―著者注〕みな,当時 の今文学派が日々提唱したものであった。その後 梁啓超は日本に住み,ヨーロッパ,日本の俗論に 染まり,盛んに偏狭なる国家主義を唱えた。亡く なった友に対して慙愧に堪えぬ」[梁 1974:296]
とコメントしている。
内容は梁が 1922 年に哲学社に赴いて講演した ものである。『梁任公学術講演集』第一輯(1922 年 11 月)[島田 2004-4:539,注 85]及び「評非 宗 教 同 盟 」(『 飲 冰 室 文 集 』38)[ 梁 1941 ? ‐ 38:19]に所収。
梁啓超は『清代学術概論』の「二十七清末思想 界の彗星,譚嗣同」の章で,譚の『仁学』から引 用しつつ次のように「世界主義」を説明した。「『春 秋』の大一統の原理は,天地の間に国があっては ならないことである。発願して自国を救おうとす るばかりでなく,かの隆盛をきわめたる西国とそ の人類とをあわせて,いっさいみな済度しようと するものである。…自分で自分を『某国人である』
と言ってはならぬ。万国を平等視して,みなみず からの国,みずからの民とすべきである」[梁 1974:295 - 296]。
和訳は申光徹[2002:64]を引用している。
磯前によれば,宗教概念および宗教学が「言説」
として捉えるはじめられた背景には,ポスト構造 主義に代表される近代西洋批判があるということ で,この議論は 1990 年代以降本格化した。[磯前 2003:2 - 9]。
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