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言葉が生まれる時、言葉が光る時

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著者 小池 一郎

雑誌名 言語文化

巻 15

号 4

ページ 273‑287

発行年 2013‑03‑10

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012993

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学術講演記録

言葉が生まれる時、 言葉が光る時

小 池 一 郎

 本日は、私が日頃読んだり、研究したりしている文学や思想の書物の中か ら、六箇所の部分を選んで、そこに見える言葉が如何にして生み出され、ど のような光を発しているか、を考えてみたいと思います。ここで言う「光」

とは、「老子」にある「光っていても目立たない」光のことです。以下、六 つのテーマについて、各十五分程度で、あまり専門的にならないように、皆 さんに理解していただきやすいようにお話ししたいと思います。(なお、テー マによって拙記録の書式が異なりますが、ご容赦ください。)

 * 『老子』第五十八章に「光ありて而しかも嬥めだたず」(光而不嬥)とある。王 弼注本は「嬥」を「耀」に作るが、いま陸徳明「老子音義」に「嬥」に 作るのに従う。『説文』に「嬥は直にして好しき貌さまなり」とある。

1.「宮沢賢治」の擬音語、擬態語

 最近亡くなった井上ひさし氏は、「《忘れられない本》『どんぐりと山猫』

宮沢賢治」(1977年)という文章の中で、次のように述べています。

 「賢治は、生きものや、山や、草や、光や、風を擬声語でとらえた」

 「 この方法で、周囲の自然をどう名付けてよいのか(つまりどう認識すべ きか)わからないでいた山間の小さな町の子ども〔井上ひさし自身のこ こと―小池注〕に、自然との関係のつけ方をたくみに教えてくれたよう におもう」。

 * 『井上ひさしコレクション―ことばの巻』(岩波書店、2005年)198・199頁。

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 ここで、宮沢賢治の作品を読みながら、井上ひさしの言っていることを考 えてみましょう。(擬音語・擬態語は小池が太字で示した。)

○宮沢賢治「どんぐりと山猫」(1921年9月、「注文の多い料理店」所収)

 ある時、主人公の一郎のもとに山猫から「山の中のめんどうな裁判に来て くれ」というはがきが届きました。さて、その翌朝のことです。

 「 まはりの山は、みんなたつたいまできたばかりのやうにうるうるもりあ がつて、まつ青なそらのしたにならんでゐました。」

 「 すきとほつた風がざあつと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとしまし た。」

 「 一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白 いきのこが、どつてこどつてこどつてこと、変な楽隊をやつてゐました。」

井上ひさしは、五十五個の擬声語のうち主人公一郎のために用いられたのは 三個のみ。残りはすべて〈大自然〉のために充てられている、と述べていま す。

 「 一郎が顔をまつかにして、汗をぽとぽとおとしながら、その坂をのぼり ますと、にはかにぱつと明るくなつて、眼がちくつとしました。」

一郎はやがて黄いろの草地にやって来ます。そこに山猫がいました。

 「 そのとき、一郎は、足もとでパチパチ塩のはぜるやうな、音をきゝました。

びつくりして屈かがんで見ますと、草のなかに、あつちにもこつちにも、黄いろの円いものが、ぴかぴかひかつてゐるのでした。」

ドングリの間で「誰が一番えらいか」をめぐって争いが起こっていました。

一郎は提案します。

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 「 このなかでいちばんばかで、めちやくちやで、まるでなつてゐないやう なのが、いちばんえらい」。

それで、争いは収まりました。山猫は「またはがきを出します」と言い、一 郎は黄金のドングリ一升をお土産にもらって帰りました。山猫からのはがき はもう来ませんでした。

 宮沢賢治の擬音語、擬態語は、自然の中に生きる生命の輝きを読者に伝え ます。たとえば、「うるうるもりあがつて」「どつてこどつてこどつてこ」と いった言葉は、前後のことばからは浮き上がって、強い印象を読者に与えま す。それを私は、言葉が光っていると捉えたいと思います。幼い井上ひさし は、この光を放っている言葉を通して、自然を身近かに感じていったのでしょ う。一郎が自然のなかの生き物たちと心をかよわせるようになるに連れて、

擬音語・擬態語の使用がぐっと減ります。幼い井上ひさしとこの童話の主人 公一郎が重なって見えます。

 井上ひさしは、「三十一年たったいま読み返してみて、賢治がまことに周 到な計算のもとに擬声語を使っていることに気がついた。」と述べています。

文章の中で、言葉が光るためには、作者の周到な工夫が必要であり、また、

その「光る言葉」に気がつくためには、読者の側の読む力の成長が求められ るのでしょう。

 * 講演会の参加者から、ここに見られる擬音語、擬態語について、東北方 言との関連、また子供向け童話としての言葉の性格について、貴重なご 指摘をいただきました。たしかに、擬音語、擬態語は、普遍的なものを 持ちますが、同時に広く深い背景をもった表現だと思います。この点に ついては、今後、考慮する必要があると考えます。また、宮沢賢治のオ ノマトペについては、関連論文を、言語学に詳しい方にお教えいただき、

感謝しております。今後の参考にさせていただきます。

2.「古事記」の言葉が紡ぎ出される時、大和ことばと漢語の相克

 次に、日本語における擬音語、擬態語の古い例に遡ってみましょう。最近、

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私は、専攻を異にする友人たちと共に、『古事記』の原文を読み進めていま すので、この中から、私の思い当たった箇所を挙げてみます。

 『古事記』の成立は、太お お の や す ま ろ

安万侶の「序」によると、元明天皇和銅五年 (712)、太安万侶が、それまでに稗ひ え だ の あ れ

田阿礼が暗誦していた帝紀・旧辞を基にして、

古事記三巻を完成、天皇に献上した、ということです。今年でちょうど1300 年ということになります。我々の読書会はこれとは無関係に始めましたが。

○古事記の擬態語

 まず上巻の、大国主命が、八十神に追われて、数代先の祖先・須佐能男命 が居る根の堅かた国(冥界)に行き、その娘の須と結婚したがために、

父・須佐能男命が怒った場面を紹介しましょう。原文は漢字のみで記されて います。いま、ご参考までに、横書きなので読みにくいでしょうが、漢文訓 読の返り点を付けてみました。

   亦鳴なりかぶら鏑 射 -入大野之中、令其矢。故かれ其野時、即以火迴 -燒其野。    於こ こ に是不出之間、鼠來云、内者【此四字以音】外者須   【此四字以音】。如言故、蹈其處、落隱入之間、火者燒過。

    (注:ほら=洞、すぶ=窄ぶ)

訓読すると、次のようになります。

   また鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢を採ら令めたり。かれ、その野 に入りし時、即ち火を以てその野を回めぐり燒きき。ここに出づるを知らざ る間に、鼠来たりて云わく、内は富良富良、外は須夫須夫と。かく言いし 故に、その処を蹈みしかば、落ちて隠れ入りし間に、火は燒き過ぎき。

上の文章の太字で記した所が、擬態語に相当する箇所です。「ほらほら」は、

「空洞」という意味を含みつつ、「すぶすぶ」は入り口が狭いという意味を含 みつつ、それぞれに擬態語化した言葉であると考えられます。ここの文章は、

基本的に正しい漢語(古代中国語)で記されています。それを、本居宣長等 が復元した様な訓読法で、大和言葉として読んでいたものと考えられます。

しかしながら、擬音語・擬態語は、それに該当する漢語が有りません。そこ

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で古注(【 】内)が「音を以てす」と記すように、それら漢語では表現不 可能な大和ことばは、漢字の「音」によって写し取りました。その時、「富 良富良」「須夫須夫」という大和ことばの擬態語は、漢語の文脈のなかにあっ て、やはり「光」を放っていると感じられます。

○大和ことばの表記

 次に、擬態語ではありませんが、漢語による表現が不可能な大和ことばに、

目をやりましょう。

 『古事記』上巻のなかから、前項よりも古い時期で、須佐之男命がまだ存 命中で若い頃のお話です。彼は、父の伊邪那伎命に海原の統治を命ぜられま したが、泣いてばかりで何もしません。その一節を挙げましょう。原文に返 り点をつけたもの、および訓読文を記します。太字箇所が大和ことばの漢字 音表記です。

   其泣状者、青山如枯山泣枯、河海者悉泣乾。是以惡神之音、如狹蝿皆滿、

萬物之妖悉發。故伊邪那岐大御神、詔速須佐之男命、「何由以汝不 事依之國而、哭伊。」 爾ここに答白、「僕はは國根之堅かた。故哭。」

爾伊邪那岐大御神大忿怒、詔「然しからば者汝不此國。」乃神かむ賜也。

   その泣く状は、青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉ことごとく泣き乾しき。

   是を以て悪しき神の音は、狭蝿如す皆満ち、万よろずの物の 妖わざわい悉く発おこりき。

   かれ、伊邪那岐の大御神、速須佐の男の命に詔りたまわく、「何な に し由以かもいまし汝 は事ことせし所の国を治めずて、哭きいさちる。」ここに答へ白もうしく、「僕 は妣ははの国根の堅州国に罷まからんと欲す。かれ哭くなり」と。ここに伊邪那 岐の大御神大いに忿りて、詔りたまわく「然らば汝此の国に住む可か らず」と。乃ち神遣らいにやらい賜いき。

   (注: 「哭きいさちる」=泣きさけぶ。「神遣らいにやらい」=神を追 放する。)

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この節の漢語文は、一部和習(波線箇所)が混じってはいますが、やはり基 本的には正しい漢語によって表記されています。そこに、なんの説明も、前 触れもなく、まるで当たり前であるかの如くに、突然「いさちる」「神かむら いにやらい」という大和ことばの漢字音表記が現れます。その時、やはり一 種の異言語接触のように、そこに摩擦熱が生じ、光が放たれます。

 後の世の日本語を見てみますと、『古事記』で漢語に表現された箇所の文 法と語彙は、ずっと後の日本語に生き続けています。ところが、漢字音表記 に頼らざるを得なかった文法と語彙は、後の日本語であまり使われなくなり、

やがて完全に忘れ去られる運命にあるようです。普遍と個の関係がここでも 成立していると認めるべきなのでしょうか。

3.元代漢語教科書「老乞大」における庶民の話し言葉の魅力と難解

 ここで、中国の文章に目を向けてみましょう。我々の眼からみると、現代 語と古典語の中間的な位置にあるように思われる、モンゴル族支配下の元代 の話し言葉を紹介します。資料は、朝鮮半島(当時は高麗国)で使用されて いた漢語教科書『老乞大』(1998年韓国大邱で発見された刊本)からの一節です。

 漢人と高麗人三人が、元と高麗の国境の近くで知り合い、大都(今の北京)

まで同行、馬と雑貨を売りに行きます。その二日目の宿を捜す場面を次に引 き、後に小池による日本語訳を付します。

漢人「拜揖主人家哥、俺是客人。今日晩也、恁房子裏覔箇宿處。」

宿主「俺房子窄、無處安下。恁別處尋宿處去。」

漢人「你這般大人家、量俺兩三箇客人、恰便下不得那?恁好房子裏不教俺宿    時、則這門前車房裏教俺宿一夜如何?」

(訳)

漢人「こんにちは、ご主人さん。我々旅の者ですが、今日は日が暮れます。

   お宅のお部屋で泊めていただけないでしょうか。」

宿主「 私の家は狭くて、泊まる所はありません。あなた方、他で泊まる所 を探してください。」

漢人「こんなに大きなお宅で、たかだか我々二、三人の旅人をどうして泊め

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   られないのですか。良い部屋に我々を泊まらせたくないのなら、玄関    先の車庫に我々を一晩泊めてもらえないでしょうか。」

   (中略:漢人と宿主のやり取りが続く。)

宿主「雖然這般呵、房子委實窄,宿不得。」

漢人「恁可憐見。恁識者、這早晚日頭落也、教俺那裏尋宿處去?不揀怎生、

   俺宿一宿。」

宿主「這客人怎麼這般硬厮戰!」

(訳)

宿主「そうだとしても、部屋はほんとうに狭くて、泊められません。」

漢人「どうか憐んでください。あなたは見識がお有りの方でしょう。もう日    が暮れる時分です。我々にどこへ宿探しに行けとおっしゃるのですか。

   どうしても我々一泊泊ります。」

宿主「(主の一人言)このお客はどうしてこんなにしつこく絡むんだろう。」

 いま、とくに「俺宿一宿」(我々一泊泊ります)を取りあげます。ここは、

文脈から見れば、「我々を泊めて下さい」となるところです。現に、「老乞大」

の明代清代のテキストは「着我宿一夜(罷)」に作っていて、「着」はこの場合 使役形なので、「我々に一夜泊まらせて下さい」の訳になります。金文京・玄 幸子・佐藤晴彦訳注の平凡社東洋文庫『老乞大―朝鮮中世の中国語会話読本』

(2002年)が「どうあっても、ちょいと泊めてもらいますよ。」と訳するのも、

これと同方向の理解でしょう。しかしなら、原文はあくまでも「俺宿一宿」

のみであり、「一宿」は現代中国語の動詞の繰り返し表現(「ちょっと~する」

の意。間に「一」が入ることがある)とは違って、上文の「一夜」と同文型 であると考えられます。

 漢人の、どうしても高麗人たちに宿をとらせなければならない、という、

せっぱ詰まった気持ちが、思わず、文法規範を飛び越えて断定的な言い方を 生んだのでしょう。また、このように解してこそ、次文の宿主の言葉「どう してこんなにしつこく絡むんだろう」が生きてくると考えられます。ここに、

言葉が生まれる時、言葉が光る時をみることが出来ます。

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4.「柳宗元詩」の創作と典故の関係、杜甫と「断腸の思い」をめぐって

 前項は、少し皆さんに馴染みの薄いテーマを扱いました。今度は、皆さん おなじみの俳人松尾芭蕉の、「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」という一 句に関わりのある漢詩を題材としましょう。中唐の詩人柳宗元が、彼は805年、

都長安から湖南永州に左遷させられましたが、その永州で作った五言絶句で す。

○入黃溪聞猿(黄渓に入りて猿を聞く) 柳宗元   溪路千里曲  渓路 千里の曲

  哀猿何處鳴  哀猿 何いずれの処ところにか鳴く   孤臣淚已盡  孤臣 涙已に尽き   虛作斷腸聲  虚しく作す 断腸の声   (訳)

    溪流沿いの路は、望郷の「千里の曲」を想わせる。

    どこからか、悲しい猿の鳴き声が聞こえてくる。

    一人ぼっちの臣下は涙も枯れ果てて、

    断腸の思いを声にしてみるが、それも虚しい。

柳宗元は、元和年(813)月16日に始めて、永州の郊外にある黄渓を訪れ、

「黄渓に游ぶ記」を書いています。ここでは、風景のすばらしさを讃美して いるだけです。次に同年秋に、柳宗元は「韋使君黄渓に雨を祈るに召さ 見、従い行きて祠下に至る口号」詩を作っています。(「口号」は即興の意。)

ここでは、「罪を俟つは真吏に非ず、翻て慚ず簡書(命令書)を奉るを」と、

屈折した思いを詠っています。この詩では、山水と土地の人々の生活(自然)、

雨乞いの政(人工)、孤臣(詩人自ら)の三者が、永遠に交わらない状態で 存在していて、詩人の苦悩は深まります。上記「黄渓に入りて猿を聞く」詩 は、この「口号」詩と相前後して書かれたものと推測されます。

 この詩の典故としては、

①晋・袁山松『宜都山川記』:

 「 巴東の三峡は猨さるの鳴くこと悲し。猨鳴くこと三声にして、涙衣を霑うるおす。」

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②宋・劉義慶『世説新語』黜ちゅつめん免:

 「 桓かんこう蜀に入り、三峡中に至る。部伍の中に猿の子を得し者有り。其の母 岸に縁りて哀しみ号ごうし、行くこと百余里なるも去らず、遂に跳びて船に 上らんとし、至りて便ち即ただちに絶えたり。破りて其の腹中を視るに、腸 皆寸寸に断たれたり。」

③ 杜甫「秋興」八首その二(大暦元年766夔州での作。家族を伴って長江漂泊)

 「聴猿実下三声涙」(猿を聴けば実に下る三声の涙)

④杜甫「吹笛」詩(同じく大暦元年の作)

 「吹笛秋山風月清、誰家巧作斷腸聲」

   (笛を吹く秋山風月清し、誰が家か巧みに断腸の声を作す。)

点が挙げられます。柳宗元の時代には、長江で猿の鳴き声を聞いて涙を 流し、断腸の思いに駆られるという、詩歌の伝統がすでに確立していました。

その伝統を承けて、柳宗元は、断腸の思いを詠おうとするのですが、「涙も 涸れ果てて、その悲しみを共にすることが出来ない」というのです。

 明・唐汝じょじゅん詢は『唐詩解』で柳宗元のこの「黄溪に入りて猿を聞く」詩に対 して、次のように批評しています。

 「 猿声は哀しと雖も我に涙の滴る可き無し。此れ古詞の中に於いて一新の 意を翻して更に悲し。」

 伝統を翻すことによる、新たな言葉の輝き、それは、木の葉が風に吹かれ て裏面を見せた時に白く光る、その光に似て、目立たぬ光を発しています。

 この項の冒頭にあげた芭蕉の句は、「野ざらし紀行」所収の、41歳の時の 作です。彼自身のまえがきによると、芭蕉は富士川の辺りで、一人の捨て子 を見かけ、飯を与えて立ち去った、とのことです。その時の句が、

  「猿を聞(く)人捨て子に秋の風いかに」

で、一句目七字は、芭蕉の句によく見られる破格だそうです。古本は「聞」

を「聴」に作るそうで、そうだとすると上記杜甫③との繋がりの可能性が強 まります。破格を嫌って「人」を「く」の誤字とする見方もあるようですが、

それでは、この句が凡作になってしまうでしょう。突き放した所があるのが、

この句の根幹だと思われます。その点で、この詩は、杜甫の「巧みに断腸の 声を作す」句よりも、柳宗元の「虚しく作す断腸の声」に近づいているよう

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に感じられます。

 * 講演会の参加者から、「虚しく作す」の主体は孤臣(詩人)ではなくて、

第二句目の「哀猿」ではないか、とのご質問をいただきました。その解 釈も十分に成り立つであろうと思います。中国近年の注釈の大多数、ま た最近刊行の下定雅弘編訳『柳宗元詩選』(岩波文庫、2012年)は「哀猿」

または「猿の悲しい鳴き声」の解を取っています。私は、これらの解釈 に留意しつつ、上記杜甫④の用例が典故になっている、また第二句では 第四句の主体となるには離れすぎていると考えて、「虚作」の主体は第 三句の「孤臣」すなわち柳宗元自身と理解しました。「涙が涸れて、猿 の悲しい鳴き声を聞いても悲しむことが出来ない」というのでは、詩心 が平板になり、とても「翻」とは評せないのではないでしょうか。

5.「漱石の漢詩」その作詩の現場と漢語の消化

 中国の漢詩を読みましたので、次に日本の夏目漱石の漢詩を一首読むこと にいたしましょう。その前に、漢詩ではないのですが、漱石の小品から一箇 所、ここで読んでみたいと思います。

○夏目漱石「永日小品」蛇(明治42年1909作、後半部)

 語り手が雨中、叔父と河にウナギを捕りに来ている場面です。

   雨あまあしはしだいに黒くなる。河の色はだんだん重くなる。渦の紋もんは劇はげしく 水みな

かみ

から回めぐって来る。この時どす黒い波が鋭く眼の前を通り過そうとす る中に、ちらりと色の変った模ようが見えた。瞬まばたきを容ゆるさぬとっさの光を受 けたその模様には長さの感じがあった。これは大きな鰻うなぎだなと思った。

    途たんに流れに逆さからって、網の柄を握っていた叔父さんの右の手首が、

蓑の下から肩の上まで弾ね返かえるように動いた。続いて長いものが叔父さ んの手を離れた。それが暗い雨のふりしきる中に、重たい縄なわのような曲 線を描いて、向うの土手の上に落ちた。と思うと、草の中からむくりと 鎌かま

くび

を一尺ばかり持上げた。そうして持上げたまま屹きつと二人を見た。

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   「覚えていろ」

    (以下中略)

   「 今でも叔父にこの話をするたびに、誰だかよく分らないと答えては 妙な顔をする。」

私が強調した太字部分は、「黒い波」を背景とした「蛇」の描写ですが、こ の前後「蛇」という言葉は出てきません。それが返って、生命としての蛇の 姿を浮かび上がらせています。私は、この蛇の「とっさの光を受けたその模 様」に、「言葉の光る時」に受ける印象と類似のものを感じます。それで、

ここに取りあげたまでです。

○夏目漱石「無題」詩(大正5年〔1926〕11月20日夜作。12月9日没)

 さて、次に漱石の死の直前の漢詩を読みましょう。漱石は、芥川龍之介と 久米正雄に宛てた書簡(大正月21日)で、次のように記しています。

午前中に新聞連載の小説『明暗』を執筆することを述べた後の部分を引きま す。

 「 毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりま すので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つくらい です。そうして七言律です。」

この時の連作の最後の一首となるのが、これから読む「無題」という題の詩 です。

   無 題 十一月二十日夜

 眞蹤寂寞杳難尋  真しんしょう蹤は寂寞として 杳はるかに尋ね難く、

 欲抱虛懷歩古今  虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す。

 碧水碧山何有我  碧水碧山 何ぞ我有らんや、

 蓋天蓋地是無心  蓋天蓋地 是れ心無し。

 依稀暮色月離草  依たる暮色 月 草を離れ、

 錯落秋聲風在林  錯落たる秋声 風 林に在り。

 眼耳雙忘身亦失  眼がん双つながら忘れて 身も亦失い、

 空中獨唱白雲吟  空中に独り唱うたう 白雲の吟ぎん

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 (注)

  無心: 陶淵明詩「雲は無心にして以て岫を出づ」(帰去来辞)が典故と して、よく引かれるが、ここはむしろ仏教的な「無心」、「心は実 体が無い」ことを言っている。

  月 : 寒山詩に「月は是れ心の枢要なり」とある。「月」は「心」の象 徴としてとらえられている可能性がある。

  依稀:ぼんやりと定かでない様。

  在林: 例えば銭起の詩に「林に在るも世を避くるに非ず、拙を守って自 ら群を離る」とある。一般には、俗世から離れて住むことを言う。

  空中: 玄奘訳『般若心経』に「色即是空、空即是色」「是故空中、無色 無受想行識、無眼耳鼻舌身意」とある。

非常に難しい詩ですが、仮に通釈を付けてみます。

  本当の道というのは、誰も通わず、はるか彼方尋ね難い。

  胸の内を虚しくして、古今にそれを求めようとした。

  碧い川碧い山はどうして「自己」が有ろうか。

  天を覆い地を覆うこの宇宙に「心」というものは無い。

  うすぼんやりとした夕景色、月が草を離れて昇る。

  カサカサと秋の音を立てて、風が林の中を吹いている。

  眼も耳も両方忘れ、身体もまた失い、

  空中で一人、白雲のうたを唱う。

この詩の言葉のどこが光っているかと言えば、皆さんご想像の通り、「月離草」

(月草を離る)なのです。幻想的な印象を読者に与えるこの三字が在ること によって、この無題詩は生きてくるのだと思います。もしこの三字が無けれ ば、ただの静寂な禅の境地を詠った詩に止まります。同時に、この三字に連 続する次句上二字の「錯落」という、金属質の音を表す擬音語が気になりま す。それがなぜ、また林の中に在るのでしょうか。この詩の光る言葉の正体 を求めて、まだまだ思索を続けねばならないと、私自身考えています。

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 * 講演会の後の懇親会において、英文学を専攻するある先生から、「草を 離れる」という表現から、ホイットマン(Walt Whitman)の詩集「草の葉」

(Leaves of grass)を想起する」というご示唆をいただきました。「Leave」

は「去る、離れる」の意を持ちます。私は意表を突かれる思いでしたが、

研究分野の違う方々に自分の持つ疑問点を聞いてもらうことの有り難さ をしみじみと感じた次第です。漱石はホイットマンを世に紹介し、若か りし時にホイットマンに関する論文も書いています。「離草」の二字に、

漱石にとっての西欧文明受容の痕跡がなんらかの影を落としているか。

いまの私には、手に余る問題であるのですが。

6.「楚簡老子甲本」老子思想の原型とその言葉

 最後に、思想の言葉「老子」について、お話いたします。項目にあげまし た「楚簡老子」と言うのは、1993年に湖北省郭店楚墓より出土した「老子」

最古の写本で、甲乙丙三本からなり、現行の「老子道徳経」の約三分の一の 分量が残っています。戦国末期、前350年くらいの成立かと推測されます。

その中で甲本が最も古く、私はこれが「老子」の原型に当たると考えていま す(必ずしも学界の定説というわけではありません)。

 一方、さらに20年前の1973年には湖南省馬王堆漢墓から「帛書老子」が出 土しました。秦から前漢初期の成立です。これは甲乙二本で、「老子道徳経」

のほぼ全てが含まれています。

 「楚簡甲本竹簡24号」の文章をまず挙げます。字体は現行のものに改めま した。その次に、楚簡と対照するために、「帛書老子」および代表的な原行 本である「王弼注老子道徳経」から、楚簡と同一箇所を引用します。

【楚簡甲本24】

 「 致虚極也。守中篤也。万物併作、居以須復也。夫道員員、各復其根。」

(現行第十六章前半)

  虚を致すこと、極まるなり。中を守ること、篤きなり。万物併ならび作おこれば、

居りて以て復かえるを須つなり。夫の道は員うん員として、各々その根こんに復る。

【訳】

   空虚さをできる限り招き寄せて、内部をしっかりと守る。すると、あら

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ゆる物が並び起こってくる。じっとしてそれらが元の状態に戻ってゆく のを待つ。それらは多くのうねうねとした道を、それぞれその根もとに戻っ てゆく。

【注】

  『楚辞』九歌・少司命「君誰をか雲の際きわに須つ。」

  池田知久:簡本の「天道」は「夫物」の誤写かも知れない。

    *『郭店楚簡老子の新研究』(汲古書院、2011年)

  『釈名』釈天「雲は猶お云うん云のごとし、衆く盛んなる意なり。」

  武内義雄「『老子』の古い部分は韻文で記されていた」(『老子の研究』)

【帛書老子】

 「 致虚極也。守静篤也。万物並作、吾以観其復也。夫物芸芸、各復帰於其根。」

 ここで、楚簡のテキストを帛書と比較してみましょう。帛書波線部分が、

楚簡と異なる所です。楚簡の「中」が帛書では「静」、「居」が「吾」、「夫の 道」が「夫の物」に変化し、また帛書では楚簡に無かった「帰於」が新たに 追加されています。また、楚簡では三、四言でリズムがそろった、均整のと れた韻文であるのに比して、帛書では、リズムが不安定になっています。

 楚簡では、「心中」を守り、万物が元に戻るのをじっと待ちます。すると、

それぞれが自分の道を根本に戻って行くのが見えてきます。全てが、身体の 感覚によって受けとめられ、少しも概念的な所がありません。「吾」という 意識さえなく、「道」もそれぞれの道筋であるに過ぎません。私はこれが、「老 子」の原型であると考えています。次に王弼注本は以下の通りです。

【王弼注本老子道徳経】

 「致虛極。守靜篤。萬物並作、吾以觀復。夫物芸芸、各復歸其根。

帛書とは違い、リズムを整える姿勢が窺われます。しかし、楚簡に戻ること はありませんでした。「也」を全て外しました。六朝貴族に受け容れられや すい方向への改変であろうと考えられます。次に、「楚簡甲本24」の位置を より明らかにするために、「楚簡甲本21~23」の全文を引きましょう。竹簡 番号は必ずしも竹簡の新旧を表わしません。内容から見て、「楚簡甲本24」が、

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「21~23」に先行するように推測されます。

【楚簡甲本竹簡21~23号】

 「 有状混成、先天地生。悦穆独立不改、可以為天下母。未知其名、字之曰道。

吾強為之名曰大、大曰逝、逝曰遠、遠曰反。天大、地大、道大、王亦大。

国中有四大、案王居一焉。人法地、地法天、天法道、道法自然。」

(現行第二十五章)

【訓 読】状の混成する有り。天地に先んじて生ず。悦えつぼく(もの寂しい様)と して独り立ちて改めず。以て天下の母と為す可し。未だ其の名を知らず。

  これに字あざなして「道」と曰う。

吾強いてこれが為に名づけて「大」と曰う。「大だい」は「逝せい」と曰い、「逝」

は「遠えん」と曰い、「遠」は「反はん」と曰う。天は大、地は大、道は大にして、

王も亦大なり。国中に四大有り。案すなわち王は一に居れり。

人は地に法のっとり、地は天に法とり、天は道に法とり、道は自然に法とる。

ここでは、万物の根源について考察し、それを普遍的な「道」と命名してい ます。個別の「夫の道(筋)」から普遍的な「道」が生み出されました。そ して「吾」という一人称がここで出現します。「吾」は「道」を天地の間に 押し広め、それが最終的には「自然(ありのまま)」を手本にすることを説 きます。じっとして待っている。すると浮かび上がってくるもの、それが「自 然」です。「楚簡甲本24」の「居りて以て復かえるを須つなり。夫の道は員うん員と して、各々その根こんに復る」こそが、その出発点であり、これこそが、言葉の 生まれる時、言葉の光る時だと考えられます。しかし、その放つ光は、わず か数十年のうちに失われ、「帛書」の言葉へと変貌して行きます。そして、

もとの「光っていても目立たない」光は、以後二千にわたって、忘れられた ままでした。生まれる言葉、光る言葉とは、そのようなものでもあります。

      以上       (2012年月26日講演、2012年11月30日記)

参照

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