飛鳥藤原宮跡発掘調査部
1 9 8 7 年 度 , 飛 鳥 藤 原 宮 跡 発 掘 調 査 部 で は , 飛 鳥 地 域 に お い て , 石 神 遺 跡 , 奥 山 久 米 寺 , 定 林 寺 な ど 1 2 件 の 調 査 を 実 施 し た ( 1 8 頁 の 別 表 参 照 ) 。 以 下 に 主 要 な 調 査 の 概 要 を 報 告 す る 。
1.石神遺跡第7次調査
飛 鳥 寺 旧 寺 域 の 西 北 に 位 置 し , 史 跡 水 落 遺 跡 の 北 に 広 が る 石 神 遺 跡 は , い わ ゆ る 須 弥 山 石 や 石 人 像 が 発 見 さ れ た 場 所 で あ り , 斉 明 朝 の 饗 宴 施 設 で は な い か と い う 想 定 で , 1 9 8 1 年 以 来 調 査 を 継 続 し て い る 。 6 回 の 調 査 で , 斉 明 朝 か ら 藤 原 宮 期 に お よ ぶ 多 数 の 遺 構 を 確 認 す る と と も に , な お 広 が り を 持 ち , 短 期 間 に 多 く の 変 遷 が あ る こ と が わ か っ て き た 。 そ の 範 囲 や 具 体 的 な 性 格 の 解 明 の た め , 本 年 度 も 第 6 次 調 査 地 に 北 接 す る 水 田 で 調 査 を 行 っ た 。 調 査 区 は 東 西 6 2 m , 南 北 1 8 m で あ る 。 な お , 戦 前 に 調 査 さ れ そ の 後 露 出 保 存 さ れ て い る 石 敷 ( 飛 鳥 浄 御 原 宮 推 定 地 ) が 調 査 区 の す ぐ 西 側 に あ る の で , こ れ を 西 区 と し て 清 掃 ・ 実 測 調 査 を 実 施 し た 。 検 出 し た 遺 構 は こ れ ま で と 同 様 に 4 時 期 ( A 期 : 斉 明 朝 , B 期 : 天 武 朝 , C 期 : 7 世 紀 末 , D 期 : 藤 原 宮 期 )
に大別できる。
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A 期 の 遺 構 飛 鳥 寺 ( 崇 峻 元年=5 8 8 年創建)と水落遺 跡(斉明6年=6 6 6 年設置の 水時計)の北側に東西大垣 S A 6 0 0 が作られ,石神遺跡の 区画が形成された時期であ る。第4次調査で検出した 大井戸S E 8 0 0 の存続する時 期で,井戸から北へのびる 石組溝の変遷などを手がか
りに,これまで3期に細分 してきた。しかし今調査で 井戸から北流する石組溝を さらに1条確認したので,
従 来 の A − 1 期 を A − 2 期 ,
A−2期をA−3期と改め, あらたに検出した石組溝に ともなう遺構をA−1期とする。 石神遺跡・水落遺跡周辺調査位置図
飛 鳥 地 域 の 発 掘 調 査
A−1期石組溝S D l 21 0 は今回あらたに検出した南北溝で,さらに北へのび,南はS E8 0 0 に
連なると思われる。側石の上半は破壊されているが,本来は暗渠であったと思われる。A−1期 に先行する遺構として,斜行大瀧S D 1240がある。長さ約7,分を確認しさらに南北にのびる。
溝幅は約1 0 mに復原でき,埋土中に多量の炭化物を含み,飛鳥I段階の土器が出土した。
A −2期石組溝S D 900は,A−1期の石組溝S D l 210の東にある南北方向の暗渠で,井戸 SE800から北へのびる排水溝の延長部でもある。
A −3期この地域が最も整備された時期である。南面の東西大垣S A 60 0 や井戸SE80 0 周辺の 建物は踏襲するが,A−2期以前のその他の遺構をすべて廃し,全面に整地を施す。この整地 後に土拡S K 1 1 5 0 . 1 1 5 1 . 1 1 5 2 が掘り込まれる。S K 1 1 5 0 は,南北約9 . 5 m,東西約7m,深さ約 1. 5mの大規模なものであるが,これらの掘削の理由は不明である。これらを埋めたてて大規模 な造営が行なわれる。A−3期の遺構群は,南北廊S C 8 2 0 を境に東西に分けられる。
南北廊S C 8 2 0 は梁行1間(5m)の単廊で,桁行7間分(2 . 5 m等間)を検出した。南端は大
垣 に 取 り 付 く と 考 え ら れ , 大 垣 か ら 北 3 5 〜 4 1 間 目 に 相 当 し , 総 延 長 1 0 1 . 5 m 以 上 と な る 。 従 来 の 調 査 所 見 で は , 南 北 廊 の 東 西 両 縁 に は 石 組 の 雨 落 渉 S D 7 9 0 . 1 0 8 0 が あ る が , 今 調 査 区 で は , 南 北 廊 西 側 の 建 物 S B 1 3 0 0 に よ っ て S D 1 0 8 0 が 破 壊 さ れ て い る 。 ま た 南 北 廊 は 焼 失 し た こ と が 今 回
明らかになった。
南 北 廊 の 東 に は 南 北 棟 S B9 8 0 . 9 9 0 . 1 2 0 0 と 石 組 溝 S D9 8 0 が 整 然 と 並 ぶ 。 S B9 8 0 . 9 9 0 は , と も に 梁 行 2 間 , 桁 行 1 6 間 以 上 の 同 一 規 模 の 南 北 棟 建 物 で , 第 5 次 調 査 で 検 出 し た 東 西 棟 建 物 S B8 6 0 の 両 端 に 柱 筋 を 揃 え て い る 。 S B8 6 0 . 9 8 0 . 9 9 0 の 3 棟 は 桁 行 ・ 梁 行 と も 柱 間 2 . 1 m 等 間 , 隣 棟 間 隔 も 柱 間 1 間 分 で 整 然 と し た 配 置 を と り , 東 西 幅 2 5 m , 南 北 4 0 m 以 上 の 南 北 に 長 い 長 方 形 区 画 を 形 成 す る 。 こ の 区 画 全 体 が 低 い 基 壇 状 を 呈 し て い た 可 能 性 が あ り , S B 9 8 0 の 東 に は 石 組 の 雨 落 溝 S D1 1 3 0 , S B 9 9 0 の 西 に も 雨 落 櫛 の 東 側 石 列 S X 1 1 9 0 が あ る 。 前 回 調 査 で は , こ の 区 画 の 南 半 に す っ ぽ り お さ ま り 桁 行 6 間 ・ 梁 行 2 間 の 東 西 棟 建 物 S B 1 0 0 0 を 検 出 し た 。 S B 1 2 0 0 は そ の 北 約 3 . 5 m に あ る 大 規 模 な 南 北 棟 建 物 で , 桁 行 8 間 ・ 梁 行 3 間 の 身 舎 の ま わ り に 四 面 庇 を も ち , こ の 区 画 の 正 殿 で あ る 。 長 方 形 区 画 西 辺 の S B 9 9 0 と 南 北 廊 S C 8 2 0 と の ほ ぼ 中 央 に は 南 北 方 向 の 石 組 暗 渠 S D8 9 0 が あ る 。 こ の 溝 は 長 方 形 区 画 の 建 設 に と も な い A − 2 期 の 暗 渠 S D9 0 0 を 廃 し て , そ の 西 約 5 m に 新 設 し た も の で あ る 。 S D8 9 0 の 東 西 に 接 す る 石 敷 S X 1 2 0 5 . 1 2 3 0 は , 暗 渠 に 向 っ て 緩 や か に 傾 斜 し , 南 半 で は 蓋 石 と 面 を 揃 え て い た ら し く 、 南 北 廊 S C 8 2 0 と S B 9 9 0 の 間 は 本 来 全 面 が 石 敷 で , S D8 9 0 は 大 井 戸 の 排 水 と と も に 石 敷 周 辺 の 雨 水 処 理 も 兼 ね て い た の で あ ろ う 。 石 敷 S X 1 2 0 5 に と も な う 施 設 と し て 斜 行 す る 石 組 暗 渠 S D1 1 8 5 が あ る 。 西 は S D8 9 0 に 流 入 し , 東 に
さ ら に の び て S B 9 9 0 の 床 下 を 貫 通 し 長 方 形 区 画 内 の 排 水 を 担 っ て い た 可 能 性 が あ る 。
南 北 廊 の 西 に は 建 物 S B1 3 0 0 と そ の 南 側 に 広 が る 石 敷 S X 1 2 7 0 , 石 組 溝 S D1 2 6 0 . 1 2 9 0 な ど が あ る 。 S B l 3 0 0 は , 桁 行 3 間 以 上 ・ 梁 行 3 間 の 身 舎 の 束 ・ 南 ・ 西 に 庇 が つ く 南 北 棟 建 物 で , お そ ら く 四 面 庇 建 物 で あ ろ う 。 S B 1 3 0 0 の 造 営 は 南 北 廊 よ り 遅 れ , 南 北 廊 と 同 時 に 焼 失 し た と 考 え ら れ
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石 神 遺 跡 第 5 . 6 . 7 次 調 査 遺 構 配 置 図
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る 。 石 敷 S X1270は , 前 回 検 出 し た S B1100北 方 の 石 敷 S X1105と 一 体 の も の で , S B1300の 南 庇 に 接 し て 大 き な 見 切 り の 石 列 を 東 西 に 並 べ , そ の 他 の 部 分 に は 人 頭 大 の 石 を 用 い る 。 今 回 実 測 調 査 し た 西 方 の 石 敷 S X 1 3 1 0 は S X 1 2 7 0 と 一 連 の も の と 思 わ れ , 斜 め の 見 切 り の 石 列 が あ り , 北 を 一 段 高 く し て 大 ぶ り の 石 を 置 き , 南 半 に 小 ぶ り の 石 を 敷 く 。 南 北 廊 の 西 側 に は 全 面 的 に 石 敷 が 広 が り , そ の 間 に 四 面 庇 建 物 が 並 ん で い た と 推 定 さ れ る 。 斜 行 す る 石 組 溝 S D1 2 6 0 は 石 敷 S X 1 2 7 0 の 見 切 り か ら 6 m 南 に あ り , 西 端 を 石 敷 に な じ む よ う に 特 殊 な 納 め 方 と し , 東 半 分 は 南 北 廊 を 斜 め に 横 断 し 東 雨 落 溝 S D7 9 0 に 注 い で い た よ う で あ る 。 調 査 区 北 端 に あ る 小 規 模 な 東 西 石 組 暗 渠 S D1 2 9 0 は , 南 北 廊 の 建 設 と と も に 設 け ら れ , 東 端 は 西 雨 落 溝 に 合 流 し て い た と 考 え ら れ る が , S B 1 3 0 0 の 柱 穴 で 寸 断 さ れ 南 北 廊 西 雨 落 溝 の 抜 取 溝 に よ っ て 壊 さ れ て い る 。
B期の遺構A期の建物群が南北廊などの焼失を機に取り壊され,南面大垣がやや南に作り替 え ら れ , 総 柱 建 物 が 整 然 と 建 ち 並 ぶ 時 期 で あ る 。 掘 立 柱 建 物 5 棟 , 掘 立 柱 塀 4 条 な ど が あ り , 遺 構 の 方 位 が 北 で 東 に や や 振 れ る 。 2 時 期 に 細 分 で き る が , 1 時 期 に ま と め て 報 告 す る 。 調 査
区東端のS A 9 8 6 は前回調査区から北へ続く南北塀で,7間分を検出し,12間分を確認した。 SB 1 1 2 0 はSA 9 8 6 の西にある桁行2間.梁行1間の小規模な南北棟建物で,南北に各1間の塀41
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S A 1 1 2 1 がとりつく。南北塀S A 1 1 2 2 はS B 1 1 2 0 より新しく,3間分を検出した。S B 1 2 2 0 は前回調
査区から続く桁行8間・梁行2間の南北棟建物,SB 1 2 1 5 はSB 1 2 2 0 の北にある桁行2間以上・梁 行2間の南北棟建物,S B 1 2 5 0 は桁行4間以上・梁行2間の南北棟建物であり,S B 1 2 9 5 は南北建 物の南妻部分であろう。
C 期 の 遺 構 遺 構 の 方 位 は 北 で 西 へ わ ず か に 振 れ る 。 掘 形 は A ・ B 期 よ り 小 ぶ り に な り , 埋 土 に炭を含む。調査区東部の南北塀SA 1 0 6 0 は,10間分を検出した。前回調査区でも6間分を検出 し,B期としたが,造営方位の振れがC期の遺構に近いので改めた。S B 1 1 4 0 はS A 7 5 1 の東にあ る桁行4間・梁行2間の南北棟建物である。素掘り南北溝SD 1 1 6 5 は調査区中央やや東寄りにあ り1 6 , 分を検出した。素掘り東西溝SD 1 2 7 5 は調査区西半にあり2 3 , 分を確認しさらに西にのび る。
D期の遺構遺構の方位は北で振れるが,わずかな差があり2時期に細分できる。柱穴・溝と もに炭を含み,C期の遺構と酷似する。
、 −1期調査区東端の素掘り南北溝S D 6 2 1 は幅約2 . 5 m・深さ0 . 5 〜0 . 6 mで,17,分を検出し た。第3次調査区に南端があり,総延長9 2 mとなる。南北塀S A 7 8 1 はS D 6 2 1 の西2 4 mにあり,
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7間分を検出し,調査区北端で西に折れ,S A 1 1 7 5 となる。西へ1 0 間分続き,1間おいてさらに 西に続く。S A 7 8 1 は第4次調査区でも西に折れ,南北約7 0 m・東西3 2 m以上の範囲を区画してい ることが判明した。この区画内にS B 1 1 8 0 ,SE1 1 7 0 . 1 2 8 0 がある。S B 1 1 8 0 は桁行3間・梁行2間 の東西棟建物,SE1 1 7 0 . 1 2 8 0 は円形の石組井戸で藤原宮期の遺物が少量出土した。
D −2期D−1期の区画が存続し,素掘り溝S D 6 4 0 . 1 1 3 5 と多数の土拡がある。S D 6 4 0 は幅約 2 . 5 〜3m,深さ0 . 5 〜0 . 8 m,S D1 1 3 5 は幅約0 . 5 〜0 . 7 m,深さ0 . 1 〜0 . 2 mである。両者は心々距 離7 . 5 mで,規模に差はあるが道路の両側溝であろう。この道路は南北総延長1 0 0 m以上あり, 第3次調査区で東へ折れ,第1次調査区で南へ折れ飛鳥寺寺域の西辺にそってさらに南下する
ものとみられる。
出土遺物土器には縄文時代から平安時代に至る各時期のものがあり,特記すべきものとして 東北地方の黒色土師器が数点ある。瓦はきわめて少なく,軒丸瓦が2点出土したにすぎない。
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金属製品では鉄製品が大多数で,錐・斧・刀子・盤・鑓・釘・鎌・紡錘車などがあるが,出 土量は第4.5次調査区に比して少なくなる傾向にある。
まとめ7次にわたる調査で,東西・南北とも最大1 2 0 mの範囲を調査したことになり,遺構 の分布状況がかなり明らかになってきた。今回の調査で得た重要な知見を時期別にまとめる。
A期南北廊の東側の区画内で,四面に庇をもつ正殿S B 12 0 0 を検出した。この区画の建物群は,
他に例をみない特異な配置であり,縁辺を周囲より一段高く基壇状に整えており,南北廊東側 の中枢的施設である。南北廊の西側にも大規模な建物群がある。建物の周囲には広い石敷があ りさらに西方に続き,この区画にも重要な施設が存在していた。南北廊の東西の区画は一連の 施設ではあるが,用途は異なると考えられる。これまでに判明した遺構の状況は,宮殿や官術,
あるいは居宅とも異なる特殊なもので,その性格について即断はできない。このような建物配 置の起源,史料との照合など,今後の調査の進展とともに十分な検討がまたれる。また,南北 廊とその西の建物SB 1 3 0 0 は焼失し,それを契機としてA期の遺構が廃されたと考えられる。こ れは続くB期の遺構の性格を理解する上で重要な知見といえよう。
B・C期A期とくらべ遺構が散在する。B期では第5次調査区以南にある総柱建物にかわり,
南北塀や南北棟建物が数棟建つ形にかわる。c期も南北塀や小規模な建物が存在するだけで,
この配置や性格については今後の調査の進展にまたれる点が多い。
D期南北道路の西に展開する掘立柱塀による大きな区画と,内部に点在する建物.井戸.土 坑などの施設が明らかとなってきた。遺構の性格については,出土遺物の検討によっていずれ
はっきりとするであろう。
このように石神遺跡ではわずか半世紀の間に,幾度もの造り替えや改修が繰り返されていた ことが明らかになった。大がかりな改作の前後では遺構の状況が一変しており,この地域の性 格,機能はめまぐるしく変化している。それだけに,ここが飛鳥の中でも重要な施設を設ける にふさわしい場であったのであろう。その意味で,今後の調査の進展が大いに期待される。
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2.奥山久米寺の調査(1 9 8 7 ‑ 1 次)
奥 山 久 米 寺 の 庫 裡 改 築 計 画 に 伴 う 事 前 調 査 で , 塔 跡 と 庫 裡 の 間 の 約 1 0 0 ㎡ を 調 査 し , 併 せ て 塔 跡 基 壇 と 庫 裡 の 東 側 と 北 側 で ト レ ン チ 調 査 を 行 っ た 。
塔 塔 の 基 壇 外 装 は 残 っ て い な い が 基 壇 の 掘 込 作 業 ・ 地 覆 石 抜 取 跡 を 検 出 し , 一 辺 約 1 2 m の 基 壇 で あ る こ と が 判 明 し た 。 掘 込 地 業 は 旧 地 表 面 か ら 深 さ 約 1 m あ り , 版 築 に よ る 基 壇 土 は 旧 地 表 面 上 0 . 6 5 , 分 残 る 。 側 通 り の 礎 石 が 概 ね 旧 位 置 を 保 っ て 基 壇 土 上 に あ り , 基 壇 高 は 1 . 4 5 m に 復 原 で き る 。 基 壇 外 装 は , 当 初 は 地 覆 石 に 花 尚 岩 を , 羽 目 石 等 に は 凝 灰 岩 を 用 い て お り , 後 に 地 覆 石 に 花 尚 岩 の 川 原 石 を 用 い て 改 修 し て い る 。 基 壇 上 に は 礎 石 が 1 0 箇 残 り , 方 三 間 の 平 面 に 復 原 で き る 。 柱 間 寸 法 は 2 . 2 m 等 間 。 心 礎 位 置 に は 鎌 倉 時 代 の 十 三 重 石 塔 が 立 ち , 四 天 柱 礎 石
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奥 山 久 米 寺 周 辺 調 査 位 置 図
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は石塔を立てるために中央寄りへ移動している。四天柱の礎石には柱座を,側柱の礎石には柱
座 と 地 覆 座 を 造 り 出 す 。 地 覆 座 は 中 央 間 が 幅 0 . 6 m , 両 脇 間 が 0 . 3 m で , 中 央 間 が 扉 構 え , 両 脇 間は壁としたものであろう。基壇周囲には人頭大の川原石列が2条廻る。共に基壇外側の犬走 り 状 の 壇 の 縁 石 で , 一 辺 の 長 さ は 内 側 1 3 . 8 m ・ 外 側 1 8 . 5 m で あ り , 内 側 の 石 列 よ り 外 方 に は 瓦
を敷きつめている。基壇南辺と北辺の中央部に階段の痕跡がある。北辺では地覆石の抜取り痕 跡があり,南辺では後補の地覆石と踏石の一部が残る。塔基壇の掘込地業よりやや北にずれて 一段階古い掘込地業があり,塔北面段階部で北側へ広がっている。塔以前の別の建物のもの,地業の工程差の二様に考えられる。
参道と燈篭塔の北縁部内側の犬走りの北約1mから,3 . 5 m間隔で2条の石列が北へのびる。
石列間は塔と金堂をつなぐ参道であろう。参道上の塔基壇北縁から約7. 5 mに直径1. 5 mの円形 の穴があり,地表下0. 85mに榛原石の板石が据えられ,柱状のものの抜取り痕跡がみとめられ た。燈龍の竿もしくは瞳支柱を据えた跡と考えられる。
金 堂 塔 基 壇 北 辺 の 1 3 m 北 に 金 堂 の 基 壇 が あ る 。 基 壇 縁 は 南 辺 と 西 辺 の 一 部 を 確 認 し た 。 参 道中軸を基準にすると,金堂基壇の東西幅は2 3 mとなる。南北長は不明だが,奥山久米寺北側 の民家敷地内にも基壇土らしき山土が広がり,12m以上と推定できる。基壇の現存高は0. 3m,
掘込地業の深さは1. 2mに及び版築を施している。基壇外装は当初は凝灰岩等を用い,後に花満 岩の川原石を用いて塔と同様に改修している。
遺 物 瓦 と 土 器 類 が 出 土 し た ◎ 塔 所 用 の 瓦 は 山 田 寺 式 軒 丸 瓦 と 四 重 弧 文 軒 平 瓦 の 組 合 せ で あ る。塔基壇土内から,7世紀前半の軒丸瓦・ 鬼瓦・ 丸瓦・ 平瓦と7世紀後半の土器が出土した。
遺構の造営時期と伽藍塔は7世紀後半の造営で山田寺式軒瓦を用いたと考えられる。塔基壇 土中に7世紀前半の瓦が多く含まれることから,古い掘込地業を用いていわゆる奥山久米寺式 を含む瓦で葺いた7世紀前半の建物が前身に存在した可能性もある。塔周辺の瓦敷きには奈良
〜平安時代の瓦が含まれ,そのころ境内の整備が行われたとみられる。金堂の造営年代を知る 手がかりはない。参道の基壇は出土土器から7世紀後半の築造と考えられるが,やや時期が降 る可能性もある。燈龍の竿の掘形の掘削は参道と同時と推定され,廃絶は1 0 世紀と考えられる。
従来の奥山久米寺周辺の小規模調査の成果を合わせると,奥山久米寺の伽藍配置は,塔・金 堂が一列に並ぶ山田寺式もしくは四天王寺式である。伽藍中軸線から西面回廊内側まで約2 7 m, 金堂を山田寺程度の規模と仮定すると金堂・塔の心々距離は約2 7 mとなる。この距離は高麗尺 の7 5 0 尺に当たり法隆寺若草伽藍とほぼ同規模で,山田寺より回廊東西幅がやや狭くなる。
今回検出した遺構は従来知られた奥山久米寺式軒丸瓦と直接結び付くものではなく,今後前 身 の 遺 構 及 び 金 堂 ・ 講 堂 ・ 門 等 , 他 の 堂 舎 の 解 明 が 望 ま れ る 。 ( 岩 永 省 三 )
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塔 基 壇 断 面 図