飛 鳥 ・ 藤 原 宮 跡 の 調 査
飛 鳥 ・ 藤 原 宮 跡 発 掘 調 査 部
1981年度,飛鳥・藤原宮跡発掘調査部では,飛鳥地域において,飛鳥水落.石神の両遺跡を
始 め と し て 大 官 大 寺 、 桧 隈 寺 な ど 1 9 件 , 藤 原 博 ・ 京 城 に お い て , 宮 西 南 隅 , 西 方 官 簡 , 東 方 宮 簡 な ど 1 1 件 , 合 わ せ て 3 0 件 に 及 ぶ 調 査 を 実 施 し た 。 以 下 に 主 要 な 調 査 の 概 要 を 報 告 す る C
l、藤原宮跡・藤原京跡の調査
藤原宮西南隅(第3 4 次)の調査本調査は藤原宮の凹至確認調査のひとつとして行なったも
のである。南面大垣と西面大垣の起点となる西南の隅角を巾心に,外濠と内濠を含む範囲を発掘したが,外濠の隅角にあたる部分は民家があって調査できなかった。検出した遺構は藤原宮
期,藤原宮以後,藤原宮以前の各期にわたる。藤原宮期の遺構には宮の外郭施設である大垣,内際,外濠と斜行溝1条がある。西面大垣 S A 2 5 8 は 南 北 方 向 の 掘 立 柱 塀 で 7 間 分 を 検 出 し た 。 柱 間 寸 法 は 2 . 7 m ( 9 尺 ) 等 間 で あ る 。 掘 形 の 大 き さ は 一 辺 1 . 5 m 前 後 , い ず れ も 西 側 に 抜 取 穴 を 伴 う 。 南 面 大 垣 S A 2 9 0 0 は 6 間 分 を 検 出 し た 。 柱 間 寸 法 は 2 . 7 m ( 9 尺 ) と 同 じ で あ る が 柱 掘 形 は 西 面 大 垣 よ り 大 き く 一 辺 が 1 . 8 〜 2 m , 隅角となる西端の柱のみは西南側に,その他はすべて南側に抜きとっている。礎板等の痕跡は み と め ら れ な い 。 大 垣 の 内 側 に 沿 っ て 内 際 S D 1 4 0 0 , S D 5 0 2 が あ る 。 S D 1 4 0 0 は 幅 2 . 2 m , S D 5 0 2 は 東 端 で 幅 1 . 8 m あ り , と も に 深 さ は 0 . 7 m で あ る 。 堆 積 土 層 は 3 層 で , 上 層 か ら は 多 量 の 藤 原 宮 の 瓦 が 出 土 し た が , 中 , 下 Ⅲ , │ は 遺 物 が 少 な く , 流 水 の 跡 は 稀 薄 で あ る 。 S D 1 4 0 0 潅 心 と 西 面 大 垣 の 距 離 は 1 1 . 6 m , S D 5 0 2 と 南 面 大 垣 の 距 離 は 1 1 . 7 m で あ る 。 斜 行 港 S D 3 1 5 7 は 内 濠 . 大 垣 よ り 古 い も の で , 藤 原 宮 造 営 に 伴 う 満 と み ら れ る 。 四 面 外 濠 S D 2 6 0 は 南 北 方 向 の 大 瀧 で , 総 長 2 7 m を 検 出 し た 。 後 世 の 氾 濫 と 浸 蝕 に よ っ て 著 し く 拡 大 , 変 形 し , 調 査 区 I : │ ・ I 央 付 近 で 幅 は 約 1 0 m で あ る 。 東 岸 の 南 半 部 と 西 岸 北 に 当 初 の 外 濠 流 路 が 残 り , こ れ か ら 外 濠 下 底 幅 は 5 m 程 と 推 測 で き る 。 深 さ は 南 端 で 1 . 3 m , 北 端 で 1 . 6 m で あ る 。 鍍 下 胴 の 灰 色 バ ラ ス 層 は 広 が う た 溝 全 域 に あ っ て , 藤 原 宮 期 か ら 平 安 初 期 ま で の 遺 物 を 含 み , 最 上 ル サ の 灰 色 粘 土 脳 か ら は , 1 0 世 紀 の 遺 物 が 出 土 し て い る 。 南 面 外 濠 S D 5 0 1 は 東 西 方 向 の 溝 で 2 0 , 分 を 検 出 し た 。 潅 幅 は 東 端 付 近 で は 約 6 . 2 m あ る が , 氾 濫 に よ っ て 南 へ 広 が っ た も の で , 溝 下 底 に 幅 3 m の 本 来 の 流 路 痕 跡 を 残 し て い る 。 さ ら に こ の 溝 は 調 査 区 の 西 半 で 北 西 方 向 に 斜 行 し て , 西 面 外 濠 の 束 岸 に 向 っ て い る 。 深 さ は 1 m , 瀧 底 は 西 而 外 濠 よ り 0 . 5 m 高 い 。 西 面 外 濠 心 と 西 而 大 垣 と の 距 離 は , 西 岸 上 肩 を 際 西 端 と し て 2 2 . 7 m , 下 盾 を 西 端 と し た 場 合 で ほ ぼ 2 1 m と な り 第 2 3 − 5 次 調 査 で 得 ら れ た 数 字 2 0 . 7 m に 近 い 。 濠 1 冊 も 約 1 0 m で 西 面 外 濠 が 束 而 や 北 面 の 外 濠 幅 の 2 倍 の 規 模 で あ る こ と が 確 認 さ れ た 。 南 面 外 濠 心 と 南 面 大 垣 の 距 離 は 2 4 . 1 m ・ 南 面 I : │ , 1 門 位 慨 で は 2 1 m で あ る か ら 外 嬢 は , 四 半 部 で 南 に ず れ て い る こ と に な る 。 西 面 ・ 南 面 ど ち ら の 外 濠 も 宮 廃 絶 後 も 水 路 と し て 利 用 さ れ , 1 1 世 紀 頃 ま で は 溝 と し て 機 能 し て い た よ う で あ る 。
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第 3 4 次 調 究 適 職 図
外 濠 か ら は 木 簡 1 点 , 土 器 ・ 瓦 ・ 土 馬 な ど の 土 製 I I f 1 , 人 形 な ど の 木 製 品 , 銭 貨 , 馬 骨 な ど 多
くの遺物が出土した。
宮 廃 絶 後 ま も な い 時 期 の 辿 柵 と し て , 2 棟 の 掘 立 柱 建 物 S B 3 1 6 5 . 3 1 6 6 が あ る 。 S B 3 1 6 5 は 四 面 大 垣 が と り 払 わ れ た 後 に 造 ら れ た 桁 行 3 間 ( 5 . 7 m ) , 梁 行 2 間 ( 3 . 6 m ) の 小 規 模 な 東 西 棟 で , 柱 傑 は 1 5 c m 程 度 で あ る 。 S B 3 1 6 6 は S B 3 1 6 5 廃 絶 後 に 位 磁 を 南 に ず ら し , 規 模 を 縮
小して造られている。
平 安 時 代 の 辿 構 に は , # I 泣 柱 建 物 3 棟 , 塀 4 条 , 井 戸 2 基 , 堰 な ど が あ る 。 建 物 S B 3 1 5 4 . 3 1 5 5 . 3 1 6 7 は 塀 S A 3 1 5 6 . 3 1 5 8 . 3 1 6 3 . 3 1 6 4 と と も に 東 西 2 0 m , 南 北 1 6 m ほ ど の 一 区 画 を 構 成 し て い る 。 井 戸 S E 3 1 5 0 は 深 さ 2 . 2 m , 一 辺 1 . 1 m の 縦 板 組 の 井 戸 で , 北 側 の 建 物 ・ 塀 と 同 時 期 と み ら れ る 。 S E 3 1 7 4 は I M I 物 を 2 段 に 据 え た 井 戸 で あ り , 堰 S X 3 1 7 1 は 石 を │ 脳 1 . 5 m
長さ6mにならべたもので,Iノ ロ 面外濠が半ば埋れた時期に設けられている。藤 原 宮 以 前 の 遺 構 と し て は , 弥 ノ │ ミ 時 代 の 井 戸 S E 3 1 6 8 . 3 1 7 5 , 瀧 S D 3 1 1 4 , 土 城 S K 3 1 4 5 . 3 1 7 4 , 古 墳 時 代 の 溝 S D 3 1 7 8 な ど を 検 出 し た 。 井 戸 S E 3 1 7 5 か ら は 弥 生 時 代 後 期 の 畿 内 第 V
様式土器一桶と,編物片,加工板材などが出土している。
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西 方 官 街 地 域 ( 第 3 3 次 ) の 調 査 こ の 調 査 は 市 立 鴨 公 幼 稚 園 の 運 動 場 建 設 に 伴 う 事 前 調 査 と し て 実 施 し た も の で , 第 5 〜 9 次 調 査 で 確 認 さ れ た 藤 原 宮 西 方 宮 簡 地 域 の 一 画 に あ た る 。 検 出 し
た 遺 構 は 藤 原 宮 期 と そ の 前 後 の 3 時 期 に 分 け ら れ る 。
藤 原 宮 期 の 遺 椛 に は 宮 西 面 の 内 濠 S D 1 4 0 0 と 井 戸 S E 3094が あ る 。 S D 1 4 0 0 は 幅 4 . 2 m , 深 さ 0 . 6 m で , 中 央 の 1 . 2 , 幅 が 一 段 深 い 流 路 と な っ て い る 。 鮫 下 層 は 多 く の 木 片 , 削 屑 を 包 含 し て お り , 軒 平 瓦 6647型 式 1 点 が 出 土 し た 。 井 戸 S E 3 0 9 4 は 一 辺 2 . 6 m , 深 さ 1 . 2 m の 隅 丸 方 形 の 掘 形 の 南 寄 り に , 8 0 × 4 0 c m の 長 方 形 の 井 戸 枠 を 据 え て い る 。 枠 組 の 大 き さ , 位 瞬 , 用 材 か ら 二 次 的 に 作 り か え ら れ た も の と 考 え ら れ る 。 井 戸 内 埋 土 か ら 藤 原 宮 期 の 土 師 器 が 出 土 し た 。
藤 原 宮 以 前 の 7 世 紀 後 半 の 遺 構 と し て は 掘 立 柱 建 物 S B 3 0 9 5 , 塀 S A 3 0 9 6 . 3 1 0 5 が あ る 。 古 墳 時 代 の 土 器 を 包 含 す る 暗 褐 色 粘 土 は 調 査 区 の ほ ぼ 全 域 に わ た っ て 広 が っ て お り , 藤 原 宮 期 及 び 7 世 紀 後 半 の 辿 柵 の ベ ー ス に な っ て い る 。 さ ら に 下 層 の 弥 生 土 器 包 含 層 も ほ ぼ 同 じ 範 囲 に 広 が っ て お り , 両 脳 と も 自 然 河 川 S D 3 1 0 0 の 西 岸 に 形 成 さ れ た 沖 積 層 の 一 部 と み ら れ る 。 堆 積 層 調 査 の た め の 小 ト レ ン チ 内 で , 古 墳 時 代 の 井 戸 S E 3 1 1 5 . 3 1 1 6 , 土 職 S K 3 1 1 3 , 及 び 弥 生 時 代 の 土 波 状 遺 櫛 S X 3 1 1 8 . 3 1 1 9 , 溝 状 遺 構 S X 3 1 1 7 な ど を 検 出 し た 。
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画.
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第 3 3 次 調 査 造 ; 構 図
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藤原宮以後の遺構には4棟の
掘立柱建物と塀,沼状遺構など
がある。掘立柱建物4棟はSB 3 0 8 5 .3 0 8 6 .3 0 8 7 .3 0 8 8 の順に ほぼ同位侭で4度にわたって建 て替えられている。藤原宮西方官筒は,宮の内濠 から西一坊大路計画線までの東 西180m,西面中門から西面南 門に至る南北27 0mの範囲を占 める官街と推定されており,こ の区画の北半部には.字形に配 侭された長大な掘立柱建物5棟 が発見されている。南半部につ いては今回が初めての調査であ り,西面南門までには未調査地 もあるので,この結果のみでは 断言できないが,北半部に較べ て建物が少なく,空閑地として 使われた様子がうかがわれる。
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−23− 第 3 5 次 調 査 進 拙 図
東方官街地域(第35.33−4.33−7次)の調査第3 5 次調査は東方官簡地域の実態を解明す るための一連の調査である。洲査地は第3 0 次調査区の西に接し,その西側拡張区に一部重複し た東西6 5 m,南北3 5 mの範朋である。なお第33−4.33−7次調査は民家新築に伴う小規模な 調査であるが,東方官街の一画にあたるため,併せて報告する。
第3 5 次調査で検出した遺櫛は,古墳時代,7世紀,藤原宮期及び藤原宮以降の4期に大別 で き る 。 藤 原 宮 期 の 遺 構 に は , 掘 立 柱 建 物 S B 2 8 4 0 . 2 8 4 1 . 3 3 0 0 . 3 2 7 0 , 井 戸 S E 3 2 7 5 , 土 城
SK3281がある。SB2840は第3 0 次調査でその束半部を検出している桁行1 2 間( 総避3 5 . 2 m) ,梁行 2 間 の 東 西 棟 で , 柱 間 は 桁 行 , 梁 行 と も 2 . 9 3 m ( 1 0 尺 ) 等 間 で あ る 。 今 回 , そ の 西 妻 を 確 認 し
た。SB2841は,SB2840から7.3m四に離れた位侭にある桁行1 1 間( 総長2 9 . 3 m) ,梁行2間の 東 西 棟 で あ る 。 柱 問 は 桁 行 2 . 6 4 m ( 9 尺 ) 等 間 , 梁 行 2 . 9 3 m ( 1 0 尺 ) 等 間 に 復 原 で き る 。 こ の 建
物には,側柱掘形の内側に各1列,I+1通りに2列,計4列の床束の束石が点々と残っており,桁行方向に4列の根太を渡し,梁行方向に床板を張ったものと考えられる。SB3300はSB 2841の6m西にある桁行3間以上,梁行3間の総柱の建物である。柱間は桁行が2 . 9 3 m( 10尺)
等間,梁行は中央間が3.5m( 1 2 尺) ,IlIj端間が2 . 3 4 m( 8尺) に復原できる。SB3270はSB3300 より14m南にある桁行3間以上,梁行2間の身舎に北廟がつく東西棟である。柱間は桁行が 2 , 9 3 m( 1 0 尺) 等間,梁行は身舎が2m(7尺) ,廟が1 . 4 5 m( 5尺) である。井戸SE3275はSB 3270の3m東にあり,径2m,深さ0.7mの規模を有する。井戸枠は抜き取られており,底に 敷いたとみられる拳大の1 1 」磯が多数道存していた。土城SK3281はSB2841の南西にある平 面楕円形の浅い土城である。SE3 275, SK3281の埋土からは藤原宮期の土器が少飛出土した。
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7世紀の遺構には掘立柱建物SB3271・3272.
3280.3282.3290.3310がある。出土遺物が乏しく
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その方位が方眼方位に対して北で西へ14. 前後偏す るSB3280.3310の2群に分けることができる。
古墳時代の遺構には,第30 次調査で束半部を検出 した東西溝SD2848の西半部と,その西側延長部 と み ら れ る S D 3 3 0 5 を 調 査 区 西 端 で 検 出 し た 。 洲
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査区北東部で検出した井戸SE3315.3316はいずれ1..... 0
も 平 面 が 楕 円 形 を 呈 す る 素 掘 り の 井 戸 で あ る 。 S D 第33−3次調査遺構図 2 8 4 8 . 3 3 0 5 , SE3315.3316の埋土からは古墳時代前期の布留式土器が出土した。
第30.35次の調査で検出した東方官街の4棟の建物SB2840.2841.3300.3270と,2基 の井戸SE2846.3275の櫛成は,東西棟を主体とするか南北棟を主体とするかの違いはある が,長大な建物を並列する建物配瞬において,すでに明らかにされている四方官簡の一画に共 通する点が多く,藤原宮における官筒の基木的なあり方を示していると考えられる。全体の配 配憧計画や性格については今後の調査の進展に待つところが大きいが,4棟の建物は,東西あ るいは南北方向に整然と配されており,なんらかの配瞬計画に基づいていることは明らかであ る。4棟の建物のうち,SB3300はさらに西方へ延びていると思われ,東方官置の一両はその 東西幅がさらに広大になるものと推測される。
一方,民家の新築に伴う躯前調査として東方官簡地域で実施した第33 ‑ 4. 33‑ 7次調査では,
条坊計画線である東二坊坊間路SF2115とそのi I I I i 側溝,四条条間路SF1731とその両側溝及び 藤原宮期の掘立柱建物SB3225.3226とSB2119を検出した。第3 0 次調査区の南約1 6 0 mの 第3 3 ‑ 4 次調査区で検出したSB3225と,同じく第3 0 次調査区の南2 0 mの第3 3 ‑ 7 次調査区で検 出したSB2119の2棟の掘立柱建物はいずれも束大垣の西約40mに位侭しており,第3 0次調 査 区 で は 東 大 垣 か ら 約 6 0 m の 間 が 空 閑 地 と み ら れ る こ と と 異 な る 様 相 を 示 し て い る 。 ま た ,
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第33−4次調査遺構図
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S B3225.3226.2119の建物方位は,宮内の他の 地 域 の 建 物 と 同 じ く , 方 眼 方 位 に 対 し て 北 で 西 に わずかに伽しており,第30.35次調査区の4棟の 建物が北で束に1. 5 6' 前後偏する点と異なる特色 を も っ て い る 。 こ の よ う に , 東 面 北 門 か ら そ の 閣 南に広がる官簡の北半と南半では建物の配瞬や造 営方位が異なっていた可能性もあり,東方官衛地 域 に お け る 今 後 の 調 査 の 進 展 が 待 た れ る 。
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号
藤原京二条大路( 第3 3‑ 3 次) の調査この調在は民家新築に伴う噸前 調査として実施したものである。調査地は大極殿の西北約6 0 0 mに位 慨し,藤原京二条大路とi ノ' イニ坊坊間路の交叉点にあたる。調査の紡果,
二条大路SF3200とその南側渉SD3201,西二坊坊間路SF3205とそ の東西の側瀧SD3206.3207を検出した。二条大路と西二坊坊間路の 交叉する部分では,坊間路の東側溝が二条大路の路面を横断する形に なっており,従来の右京でのあり方と一致する。i ノ Li ‑ 妻坊坊間路の' 陥只 は両側溝の心々距離で6.5mである。二条大路のl 陥貝については,そ の北側溝が今阿の調査区外にあり,15m以上と推定されるにとどま った。ただし,これまでの成果を参考にすると,昭和42 年の奈良県教 育委員会による洲在で検出された束│ノ[ i 溝SD150が二条大路北側瀧に あたるものと考えられ,その場合, 一条大路の' ' 1 M貝は1 7 . 4 mとなる。
藤原京左京九条三坊( 村道耳成線第2次) の調査この調査は村道耳 成線の改良エリ; に先立って行ったものである。洲11地は大官火. がのi J I i 北方,左京九条三坊の北東坪と南東坪にあたり,節1次調森区の北に 延びる南北170m,東西12mの範囲である。調査の結果,第1次調杏 で検出した大規.模な整地覗業がさらに北方に座がることを確認した。
この整地脳の範囲は第1次調査区を含め南北3 3 0 mに及ぶ。東│ ノ L i につ いても,大官大寺北辺の第7次洲査│Xで検出した此褐色砂質上や,今 回の調査中に第1次調査区i ノヒi 方で確認した盤地雌j が一連のものとする と,その範朋は東西300m以上に及ぶことになる。また,盤地〃1の出 土土器から,この盤地事業が7 1 1 1 : 紀の第Ⅱ四半期頃に行われたことを 再確認した。洲杏範I 〃l が狭く,幣地肘に伴う│ リj 碓な辿櫛は検出できな かったが,東i J I i 3 0 0 m以上,南北3 3 0 mに及ぶ終地胴の広がりとその 出土遺物から,整地 j 『業の要因を好明朝の「飛烏岡本宵」 ,あるいは
斉 明 朝 の 「 後 飛 鳥 岡 本 官 」 の 造 憐 と 関 連 づ け る 先 の 想 定 ( 年 報 1 9 8 1 ) を
補強する資料を得ることができた。7111紀代の辿構として,飛!: 、 3 1 1 1 段階の土器を{、 │ くう井戸SE95,k城 S K86.90.91と,藤原宮期の土器を伴うハ: 戸SE81.85,土波SK64
〜69.72〜74.80などを検出した。これらに伴う建物遺構は明らかで ない。この他,藤原京の条坊関係の遺構として,東西溝SD75を検 出した。このSD75は位慨的には六条条間路の北側瀧に相〕! ↑するが,
調査区内では南側溝は確認できず,その当否については今後の淵査の 進 展 を 待 っ て , さ ら に 検 討 を 加 え る 必 要 が あ る 。 左 京 九 条
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2 . 飛 鳥 諸 寺 の 調 査
大官大寺北面回廊・寺域東限(第8次)の調査本年度は,北面回廊と寺域の東限を確認す るために,講堂の北方( 西区) と,そこから東10 0mにわたる範囲( 東区) の調査を行なった。そ の結果,北面回廊と寺域東限の南北塀,寺造営前の遺構などを検出することができた。
北面同廊SC650は西区で5カ所,束区で9カ所( 8間分) の礎石据付痕跡を検出した。これ によって,北面回廊は梁行1間( 1 4 尺) の単廊で,桁行は中央1間が1 7 尺,両脇1 7 間が1 3 尺等間,
東西両端間が14尺で,総長487尺の規模に復原できる。実長は伽藍中軸線から回廊東北隅礎石 までの距離が72.1mであるから,東西幅は1 4 4 . 2 mとなり,造営尺は1尺=0 . 2 9 6 mになる。
寺域東限の南北塀SA633は4間分を検出した。柱間はややばらつきがあるが,ほぼ1.9m 等間である。このSA633は第7次調査で検出した寺域北限の東西塀SA690に共通した状況 を示しており,またその位慨から寺域東限を画す施設と考えられる。南北大溝SD630は,そ の西岸のみを検出したが,幅8m以上あり,深さは1.2mである。出土遺物から大官大寺の 時期にも存統していたと判断される。なお,このSD630は中ツ道の想定線上に位置している が,調査区内では道路の痕跡は全く認められなかった。
寺造営前の遺構には,掘立柱建物SB631.651.652.660と塀SA530がある。SA530は 西区中央にある掘立柱の南北塀で,第6次調査区で検出した部分と合わせると総長44.5mに 及ぶ。これらの建物と塀は,遺椛の重複関係,出土遺物から,大官大寺造営に先行する7世紀 の後半期に営まれたものと考えられる。それぞれの存続時期については明確でないが,造営方 位から,北で西に1。 前後偏するSB631.660.SA530と,北でわずかに東へ振れるSB6 5 1 . 6 5 2 の2群に区分できる。この他に,掘立柱建物SB632,塀SA634.653.654を検出したが, いずれもその時期は明確ではない。また,大官大寺所用の屋瓦を多量に含む土漉SK656.
657.661と,礎石落し込み土壌1 6 カ所を検出した。これらの土壌から出土した軒瓦は,軒丸瓦 6231B型式と軒平瓦6661B型式がその大半を占め,南・東面回廊と同じくこの組合せが北面 回 廊 の 軒 瓦 の 主 体 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 今 回 の 調 査 で 北 面 回 廊 の 位 徹 と 規 模 が 判 明 し , 回 廊
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大官大寺第8次調査遺構図(網目は礎石落し込み土城)
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が 講 堂 を 取 り 囲 む 特 異 な 伽 藤 配 賦 が 明 ら か に なった。なお,北面' 1 1 1 廊の北,あるいは東に 僧房の存在を想定していたが,その遺構は確 認できなかった。ただし,礎石落し込み土城 の中には,回廊から20m以上離れてあるも のもあり,礎石建物がこの付近に存花した可 能性は残されている。
これまでの調査によって主要伽睦の配『! i が ほぼ確定し,寺域についてもいくつかの重要 な手掛りが得られた。ここで,これまでの調 査の成果によって,大官大寺の寺域と藤原京 条坊との関係及びその伽藍配置計画に関して 少しふれておこう。朱雀大路・四条条間路の 交 叉 点 と 大 官 大 寺 金 堂 心 の 距 離 を 測 る と , 藤
交 叉 点 と 大 官 大 寺 金 堂 心 の 距 離 を 測 る と , 藤 北 面 回 廊 S C 6 5 0 ( 東 か ら )
原 京 条 坊 の 方 眼 方 位 に 対 す る 振 れ を 既 に Ⅲ 」 ら か に な っ て い る 藤 原 寓 の 1 . l 1 I l i l l l 線 と 同 じ N 2 6 ' 3 0 " W と す る と , 南 北 は 1 , 5 3 2 . 4 m , 東 西 は 9 3 6 . 8 m と な る 。 条 坊 の 町 数 で は 南 北 が 1 1 . 5 町 , 東 西 が 7 町 と 想 定 さ れ る の で , そ れ ぞ れ 1 町 は 1 3 3 . 8 , , 1 3 3 . 3 m と な る 。 こ の 数 l l I I i は 従 来 の 調 査 で 確 認 し て い る 1 町 の 平 均 的 距 離 1 3 3 m に ほ ぼ 一 致 し て お り , 大 官 大 寺 の 金 堂 心 が 九 条 大 路 と ‑ . ' 一 条 条 間 路 の 二 等 分 線 上 に あ り , か つ 金 堂 心 を 通 る 1 1 1 1 1 藍 中 軸 線 が 東 四 坊 坊 間 路 に 一 致 す る と み て ま ず誤りはない。すなわち大官大寺の寺地・伽藍は藤原京条坊に正しく則って設定されていると 判 断 で き る 。 と こ ろ で , 寺 域 北 限 の 塀 S A 6 0 0 は 金 歳 心 の 北 1 8 0 m ( 6 0 0 尺 ) , す な わ ち 寺 域 の 北 を 通 る 九 条 条 間 路 心 か ら 南 約 2 2 . 2 m の 位 侭 に あ る 。 ま た , 寺 域 西 限 の 南 北 塀 S A 2 7 0 0 は 東 三 坊 大 路 心 か ら 東 2 2 m 余 り の , 位 瞬 に あ り , 寺 域 北 限 と │ 「 d じ 設 定 の あ り 方 を 示 す 。 そ れ に 対 し て , 今 回 の 調 査 で 検 出 し た 寺 域 東 限 の 塀 S A 6 3 3 は 伽 監 I l ‑ 1 I l i l I I 線 の 束 9 4 . 8 m に あ り , 西 限 の 塀 と 対 称 の 位 侭 で は な く , 約 1 6 m 内 側 に 怖 し て い る 。 こ れ は 寺 域 東 限 の 束 四 坊 大 路 ( 中 ツ 道 ) の 想 定 位 置 に 幅 の 広 い 南 北 溝 が 辿 っ て い る こ と に よ る 現 象 と も 考 え ら れ る が , な お 検 討 を 要 す る .
伽藍配瞬についても,中心にある金堂の位祇が基準になっていると苔えられる。同廊の規模 は , 南 面 回 廊 の 東 西 幅 が 1 4 3 . 6 m ( 4 7 9 尺 ) で あ り , 造 営 尺 は 1 尺 = 0 . 3 0 0 m と な る 。 一 方 , 北 面
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回廊の東西幅は1 4 4 . 2 m ( 4 8 7 尺) であり,1尺の長 さは0.296mとなる。ま た束面回廊の南半では1 尺=0. 301mの造営尺が 得 ら れ る な ど , 1 尺 の 実 長 が 場 所 に よ っ て 異 な る 現 象 が 認 め ら れ る 。 そ の 原 因 は 必 ず し も 明 ら か で はないが,大枠の地判り と建物細部の割り付けが 異 な る 基 準 に 基 づ い て い る た め で は な い か と 思 わ れる。回廊の東西幅は南 面が4 7 9 尺,北面が4 8 7 尺 であり,南北幅は365 尺 前後に復原できる。また 金堂心から南面i ‑ i I廊南側 柱までの距離は29 6尺で あ る 。 こ う し た こ と か ら 推 埜 し て , 同 廊 東 西 幅 を 4 8 0 尺, 金堂心を中心にし て北面回廊をその北3 6 0 尺,南面回廊を南3 00尺
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尺 , 南 凹 ' 1 . 1 1 1 郎 を i 羽 3 UU尺 寺 域 と 伽 藍 配 磁 ( 数 字 は 調 査 次 数 )
に設定したものとすると,それぞれ大尺で4 0 0 尺,3 0 0 尺,2 5 0 尺という整然とした数仙を得る ことができる。この想定が妥当ならば,回廊全休の規模は金堂を中心に大尺で設計し,柱間寸 法など細部の削り付けには小尺を用いたために,南・北回廊がほぼ同長でありながら,尺によ
る数値が異なり,造鴬尺の実長が異なるという現象が生じたのではないかと考えられる。
大官大寺北限の塀SA600は,前述のように金堂心の北6 0 0 尺の位置にあるが,これはまた 5 00大尺であり,仮に寺城南限の施設が金堂心を中心に対象の位置にあるとすると,寺域の南 北幅は1, 000大尺という極めて整った数値になる。大官大寺の寺域や伽藍配瞬の設定に大尺が 使用されたかどうかについては,なお今後の調査成果を含めて検討する必要があり,一概には 断じ難いが,同時期の他の寺院の例や藤原宮の地削りのあり方などとも合わせて,さらに検討 を 深 め る 必 要 が あ る 興 味 深 い 問 迦 と い え よ う 。
− 2 8 −
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1,0m 副0
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に あ た る 四 半 部 は 一 旦 基 型 下 面 ま で 盤 地 し て ,
南北21.2m( 7 2 尺) ,高さ1.2mである。基型外装は半減した平瓦 後に玉石積みで一部補修している。基聴上及び周辺の瓦堆積脳から 桧 隈 寺 講 堂 ( 第 3 次 ) の 調 査 本 年 度 の 調 査 は , 誠 強 跡
識 堂 の
規模は東西35.3m( 1 2 0 尺) ,
と い わ れ る 土 壇 の 四 半 部 と 基 垣 東 辺 部 を 調 査 し , 規 模 と 回 廊 の と り つ き を 明 ら か に す る 目 的 で 実 施 し た も
で あ る 。 そ の 結 果 , 講 堂 S B 6 0 0 と , そ の 基 埋 , 雨 落
,足場穴などを検出した。
基 壊 上 で 検 出 し た 礎 石 建 物 S B 6 0 0 は 桁 行 5 間 , 梁 行
の 瀧
2 間 の 身 舎 の 四 而 に 願 が つ く 東 W 棟 建 物 で あ る 。 桁 行 7
、) ,梁行4間(総長15. 3m)の規模を有し,柱 間(総長2 9 . 4 1
間寸法は基準尺を29. 4 cmとすると,桁行は「│ ・I央3問が 16尺,両脇各1間が1 5尺,廟が1 1尺となる。梁行は身舎 廟が1 1 尺となり,桁行総長100 尺,梁行52 2間が1 5 尺,
尺 の 大 規 模 な 建 物 と な る 。 礎 石 は 基 埋 北 半 部 を 中 心 に 1 5 調 査 位 慨 間
そ の う ち 1 4 個 は 長 大 な 花 尚 岩 の 自 然 石 で あ る が , 北 側 柱 束 第 2 の 礎 石 に 佃 が 原 位 侭 を 保 ち ,
は凝灰岩切石(竜山石)を用いる。この切石は711 1: 紀代の石納式石室の底不「 を転用したものであ る。礎石は基壇築成の途中で; 限石を撒いて据えつけ,さらに基晩上面まで土を積み上げて基砿 を完成している。基塩は,丘陵の' ' 1地形を利用して,東半部は地111を削り出して整形し,斜面 そ の 上 に 版 築 に よ る 基 聴 を 築 成 し て い る 。 基 壊
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を 積 み 上 げ た 瓦 積 基 壇 で ,
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講 堂 基 鯉 北 面 の 瓦 積 み と 雨 落 瀧
多 最 の 方 坤 が 出 土 し て お り,創建当初の基壇上面 は 噂 敷 き で あ っ た と 考 え ら れ る 。 階 段 は 後 補 の 玉 石積基亜に伴うもので,
南 面 ・ 西 面 ・ 北 面 の 3 カ 所 で 検 出 し た . い ず れ も 玉 石 を 用 い て お り , 基 壇 に 入 り 込 む 形 で と り つ く。西面階段は身舎北間
,1幅3m以下で2段が残 に設置し,幅2.5mで2段残る。南・北面階段は巾央間にとりつき,幅3m以下で2段が残 る。雨落瀧は基壇端から約1mにあり,幅約20cm,深さ5cmの素掘りの溝である。なお,
北面と西面の基壇周辺,及び北面の基嘘外装の瓦積み而下で,軒足場穴とみられる小柱穴を検 出した。
礎石建物SB600の廃絶後に,基壇中央に桁行3間(9m) ,梁行3間(7 . 2 m)の礎石建物 SB601が造られる。SB600の礎石を一部利用し,またSB600以外の他の堂宇に用いられた
円形柱座をもつ礎石を転用している。
遺物は膨大な量の瓦類と,土器,金属製品がある。礎石建物SB600の建立時に用いられた 軒瓦はいわゆる藤原宮式の一組である。この他に7 1 1 . t 紀前半にまで遡る単弁1 1 弁蓮華文軒丸瓦 や,広島県横見廃寺例と同箔とみられる火焔文をもつ山i 1 1 寺式の軒丸瓦などが少1 1 t 出土してお り,先行建物が周辺に存在したことがうかがわれる。基型上面には11〜15世紀頃の土師器皿や
瓦器椀が多延に堆積していた。金属製品としては,開元通宝を含む中国銭,銅製花瓶のほか,
1 0 0 点以上にのぼる鉄釘が出土している。
礎石建物SB600は,その規模と位置から講堂跡であることはほぼまちがいない。建立年代 は主体となる藤原宮式の軒瓦の年代から71m紀末と考えられる。玉石積みによる基壇外装の補
修 は , 階 段 裏 込 め か ら 出 土 し た 土 器 の 型 式 か ら 平 安 時 代 後 期 ( 1 1 〜 1 2 世 紀 頃 ) と 推 定 さ れ , そ の 時
期は塔跡における13重石塔婆の設置時期にほぼ一致する。SB600の廃絶時期については明確 にしがたいが,廃絶後その基壇上に造られた礎石建物SB601の建立時期は1 4 〜15世紀頃と推 定される。今回の調査で講堂の規模と建立年代が明らかになったが,塔と講堂とは礎石に同じ く自然石を用いていること,軒瓦が共通することから一連の造営になるものと思われる。これ に対し,55年度に調査した金環は,一時期古い7世紀後半の建立と考えられる。しかし,今回 の調査でも回廊の所在については不明のままであり,また塔の南に金堂を配する点など,桧隈 寺の伽藍配置,規模,方位については,なお解明しえない多くの問題点が残っており,今後の 調 査 の 進 展 に 待 つ と こ ろ が 大 き い 。 ( 岩 本 圭 輔 ・ 大 脇 潔 )−30−
右 京 二 条 一 坊 東 方 官 筒 二条大路 東方官間 西方宮簡 西方宮簡 東 方 官 簡 1981 年 度 飛 鳥 . 藤 原 宮 跡 発 掘 調 査 部 調 査 一 覧
8 1 .4 .2 8 〜5.2
81.6.23〜6.24 81.8.7〜8 .2 2 8 1 .1 1 .2 0 〜12.4 82.1.7〜1.20 82.3.18〜3.30 82.3.18
− 3 1 −
調壷地区逝跡・』淵張次数洲迩期Ⅲ而祇|側 岩
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藤原宮 藤原宮 藤原宮
第3 3 次 第3 4 次 第3 5 次
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西方官衝 西南隅 東 方 官 簡 81.4.6〜6.8
81.5.22〜82.3.18 82.2.1〜8 2.5.12
U U B U T U R
● ● □ ● ● ● D P C J B F F B J J J J J J J A A A A A A A
6 6 6 6 6 6 6
藤原宮 藤原宮 藤原宮 藤原宮 藤原嵩 藤原宮 藤 原 富
次 次 次 次 次 次 次 1 2 3 4 5 6 7 − 一 一 一 ﹄ ﹃ 一 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 第 第 第 第 第 第 鰯
54,2 2m2 3 4 1 mp 3 4 9 m2 1 0 4 m2 1 2 0 m2 10mg
寺 域 北 方
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●●■●●●唾 麺 麺 醒 唖 癖 函 函 皿 皿 皿 醒
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1 ,5 0 0 ,3 940mg 645,2 15mg 20mg 43mg 村 道 耳 成 線 第 2 次
浄御原富推定地 浄御原宮推定地 浄御原富推定地 田中宮推定地
田 中 宮 推 定 地
左 京 九 条 三 坊 石神遺跡 水 落 遺 跡 8 1 .1 2 .4 〜82.1.30
81.9.3〜82.1.29 81.9.3〜12.26 82.2.24〜2.25 81.6.9〜6.10 81.12.7〜1 2.9
大 官 大 寺 第 8 次 桧 隈 寺 第 3 次 檎 隈 寺 第 3 − 1 次 飛鳥寺
川原寺 川 原 寺 坂田寺 坂 田 寺 奥山久米寺 奥山久米寺 豊浦寺 豊 浦 寺 豊 浦 寺 日 向 寺
L570mz 670m型 60mg 16,2 4mg 30.5mg 11mg 3mg 49,2 2.3,2 4,2 9mg 6.9mg 26,2
北 而 回 廊 ・ 寺 城 東 限 誠堂
寺城東方 寺 城 東 北 方 81.7.13〜12.25
81.7.6〜1 1 .1 7 8 1 .1 0 .1 〜1 0 .1 9 8 1 .4 .2 0 〜4.24 81.6.2〜6.3 82.3.11〜3.15 81.6.15〜6.16 82.2.15〜2.19
81.4.9〜4.16 81.12.3 81.6.17〜6.18 81.6.24〜6.25 81.12.3 82.1.26〜1.29
寺 域 北 方
金 堂 西 方 寺 城 南 限