Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
16
) 駒澤大學佛数篳部研究 紀要第49
號平成
3
年3
月離 言
(
nirabhilapya
)
の
思
想
背 景
袴
谷
憲
昭
1
問
題
の所 在
本 稿は, 以下の 二 つ の 命題 1)が 互い に真 向か ら対立するもの で あ るこ とを
前
提 に, そ れに 関 連 する問題を, 表 題の ごとき関心 か ら取 上 げて み よ うとす るもの で あ る。a
)
真理 は 言葉に よ っ て表
現で きず 言語 表現 を超
え たも
の (nirabhilapya , 離言 )で
あ
る。b
) 言 葉によ っ て論
理 的に正 し く主 張さ れ た もの だけが真理 である。仏 教 とは ,
後
述 するよ うに,後者
の考え方
に立っ て 批判 的 な主張 を展 開 して き た もの と私に は思 われる が, その 展 開は絶
えず 前者の 考え方 によ っ て 取 っ て 代え られよ うと し た歴史で もあ っ た とい え る。 ため に仏 教思 想 と は前 者の 考え方
の 側 に あ るとさ え思わ れ て きた の で ある が , こ の離
言 (nirabhilapya )の 系 譜 を支え た 思 想 的 背景にい か なる理論があっ たかを, い さ さ か な り とも指 摘す る こ と が で き れ ば, 本 稿の当面の 目的は 達せ られ た こ とに な るで あ ろ う。考
察
の 発 端 は, ッ ォ ン カバ (Tsong
kha
paBlo
bzang
gragspa
,1357
−1419
)の『
善
説心髄 』 (Legs
bsh
αd
sngingp
・)中
の次
の よ うな一 節にある。 そ れ は, 否 定対 象 (
dgag
bya
) と しての 増益 (sgro ’dogs
)をいか に して 否 定 するか とい う テ ー
マ 中の 「否
定
そ の もの 」(dgag
padngos
) を問 題 とす る冒
頭箇所
に示
さ れ る文
で,以下の とお り2)で ある。
1
)『解 深密 経』(dGongs
’9
「el,Saptdhinirmocana
) に お い て は, 依 他起 (gzhandbang
, paratantra ) が所 分 別 (kun
brtags
,parikalpita
)につ い て空で ある と証 明する論理 は ま だ説か れて い ない こ と を理解せ しめ ん が た めに, 『菩薩地』(
Bs
,ang sa
,
Bodhisa
・ttvabhtimi ) と 『摂 〔決択分 〕』 (
bsDu
ba
,Vinis
’scayasaPtgraha ”i)3)とにおいて
,そ れ
ぞ れ三 つ の論 理が説か れ て お り, また 『摂大 乗 論』 (
Theg
bsdUS
, ハ血 加 頚 π 邵 α堪gプ ・Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
離言 (nirabhilapya )の 思 想背 景 (袴谷) (
17
) aha )4)におい て も, 「依他 起の 自性 (gzhan
gyi
dbang
gi
ngobo
nyid , paratantra .sva .bhava
)は所分別の 自性 (kun
brtag
Pa’i
bdag
nyid = ngobo
nyid , parikalpita ・svabh ・ava )と して 顕 現 して い る と お りの もの を本 質とする もので は ない とい うこ と は, なに に よっ て知 られるか。」 と問が設 けら れ たこ との 答 と して, 「言葉 (ming , nEman )よ り以 前に知 覚は な いか ら, ま た多で あ る か ら, ま た必然的で ない か ら, そ れ を 本質と す るこ と や, 自体が多で あ ること や, 自体が 混同 するこ と が, 矛 盾 に よっ て成立す る で あ ろ う。」 と説かれて い る の で あ る。 そ こ で, (
1
)かの法を本質とするもの と して は矛 盾するか ら, 依 他起は所 分別につ い て空で ある こ とが成立する仕 方 を理解 しや すい よ うに 述べ る な ら ば, 瓶 (bu
皿 pa )とい う言 語的営 為 (tha snyad , vyavahara )の基 盤 (gzhi)あ るいは基体 (gnas
)で ある, かの腹 丸きもの (1to
ldir
ba
)が, 腹 丸きもの の 実質 (gnaslugs
) もしくは 自相 (ranggi mtshan nyid )に よ っ て成立 して い る とするな ら ば, 〔その腹丸き もの は,〕符 牒 (
br
・da
, sarpketa )の力に よ っ て規 定さ れ てい ない もの と な る が, そ うであるな らば, 符牒の 対 象を有する知覚 も符牒に 俟た ない もの とな るか ら, 瓶とい う 言葉 を付 す以 前に, 腹 丸き もの に対 して 瓶で ある と思 う知 覚が生ずる であろう。(2
)一っ の対 象で あ るもの が対象の 自体の 多 な る もの と して 矛 盾 によ っ て成 立すると は, 〔依 他起は所 分 別 を本 質と して い る と考 えることに よっ て所分 別が実 在で ある と見 倣 す〕対 論者 (phyogs snga )の よ うで ある な ら ば, 一つ の対 象に対 して 〔例え ば, シ ャ ク ラとい う 同一対 象の 同義 異名語 たる〕シ ャ クラ (brgya
byin
, ξakra )や イン ドラ (dbang
Po,indra
)や グラーマ ガータカ (grong ’joms
,gramaghataka
)な どの多くの言葉が働いて いる場合, それは, 実在 (dngos
po
,vasttt )の力に よ っ て働い て い るので な け れ ば な ら ない一方で , 分別に おい て 顕 現 して い る その ま まに実 在に おいて存 続 して い るの で あ る か ら, その対 象は 多な るもので ある こ とにな ろ う。 (
3
) 混同 して い ない対象の あり方が混 同し たもの と して 矛盾に よ っ て成 立すると は, 〔先の 〕対論者のよ うで あ る な ら ば, 二 人の 男 (skyes
bu
)に対 して , 〔同 一 姓 名た る〕ウパ グ プ タ (Nyer
sbas ,Upagupta
)とい う一つ の言葉が働 く時に, こ の 男はウパ グプタだ と思 う知覚が生ずるこ とに は区別は ない わ けで あ り, また その 言葉と分 別 も実 在の力に よっ て その 両者に対して働 くわ けで あ る か ら, 二 つ の 対象が 一つ の 対 象
で あるこ とに な ろ う。
ii
) 分 別の 判断基 盤 (zhen gzhi )で ある か の色 (gzugs , rUpa )などが勝 義 (don
dam
pa, paramartha )あ るい は自相に よっ て 成立 して い る と把握する と して も, 〔それ は,〕 言葉と して 付せ られ る基盤が 自相に よ っ て成立 して い る と把 握 するこ と と同様で あ る か ら, これに は こ の 言葉が あ る と符牒を知るこ と がで き ない ものに おいて も, 否定対 象と して の増益 があるので あ るが, そ れ を 否定する論理 も ま た同様で あ る。iii
)r
菩薩 地』5)で は , 「対 象が先にあ り, 後に これこれの ものだとい う言葉を付託す るの だ とす れ ば, そ の ように まだ 付 託さ れて いない時に は, その対 象の形 象 6〕(ngobo
, 一168
一Komazawa University KomazawaUniversity
(18)
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(nirabhilapya)
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6.
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kun
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stong par sgrubpa'i
rigs pama gsungs pa rtogs par
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sam rang gi mtshan nyidkyis
grub na1
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gis
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yul can gyiblo
yangbrda
la
mi
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bum
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mingbtags
pa'i snga rol naslto
ldir
ba
la
'bum pa'oyam pa'i
blo
skyebar
'gyur ro/1
(2)
don
geig nyiddon
gyibdag
nyid mang por'gal
bas
'grubpa ni phyogs snga
ltar
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gcigla
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dang
dbang
po
dang
grong
'jomsla
sogs pa'i ming
du
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dngos
po'idbang
gis 'jugdgos
Ia
rtogpa
la
ji
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du
dngos
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gnas pa'iphyir
don
de
du
mar 'gyur ro1!
(3)
don
ma 'dres pa'i ngobo
'drespar
'galbas
'grubpaniphyogs snga
ltar
na1
skyesbu
gnyis
la
nyer sbas zhes pa'i ming gcig 'jug pa'itshe 'di
nyer sbas so snyam pa:i
blo
skyeba
la
khyad
par
medpa'i
phyir
dang1
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mingdang
rtog pa yangdngos
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gnyis
la
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gnyis
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ll
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Bblan
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,gcs,-Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 離言 (nirabhilapya )の思想背景 (袴谷) (19) 否定 基盤で ある依 他 起 が 否
定
対 象であ
る所
分 別につ い て空であ
ることを主 張す
る 唯識説の 立 場7) に暫 定 的に 立 ち な が ら, 唯 識 説 とは逆に依他 起 が所
分別 を本質
と して い る とい うよ うに考え るこ とに よ っ て 否定 対象
た るべ き所分別の側
の言 語 基 盤の客体
が実在
で ある と増
益 す る (唯 識か らみれば, 否定対象 として無た るべ きもの を有と なすので あるか ら, 明 らかに増 益で ある)対
論 者 (phy 。gs snga )を否 定 する た め に, 主 と して 「摂大 乗 論 』に基づ きな が ら, そ の対
論 者 否 定の 論理 を要約
して 述 べ て い るの で ある 。 こ の記 述の 中心 は,D
の 段の(1
)にわ た る三種の
論
理 にあ る が, 既に指 摘 され て い る よ うに, それは 「摂 大 乗論
』中
に 実 際 トレ ース す る こ と がで きる8) 。 しか も, ツ ォ ン カバ の述 べ る とこ ろに よれ ば, その 三 種の 論 理 は , 更に 遡 っ て , 『菩薩
地』や 「摂決
択分 』 に も トレ ース で き な け れ ばな らな い が , そ れ につ い て は後述 する9) こ とに して , こ こ で は, ツ ォ ン カバ の手 を借 りた上引
の 唯識
説の 側か らの対
論 者 否定 の 論理 が, チベ ッ トの 彼以 降の 学者 に も明瞭 に継 承 されて い た こ と を示 す た め に, チ ャ ン キ ャ (ICang
skyaR
・l
pa
’i rdo rje, 1717 −−1786
)の 『教 義 規 定』 (Grub
Pa
’i
mtha ’ rnampar
bxhag
pa
)よ り, ほ ぼ 同
種
の テ ーマ を
扱
っ た箇所
を 引 く。 そ れ は, 唯識派の教 義 を述べ る章の う ちで, 否定
対 象
と しての 増 益 をいか に して否 定 するか とい う仕方
を 扱 っ た箇所
の 全文
1°)である。その 否 定の 仕 方の 説 明に 関 して,
r
菩薩地』(Byang
sa ,Bodhis
αttvabhami ) とr
摂大 乗論』 (
Theg
b5dus
,Mahapanasaptgraha
) とに 説か れて い る 論 理の 一要点 (gnadgcig
pa
)に従え ば以下 の とお りで あ る。i
)r
摂 大乗 論』に おい ては, 「言葉よ り以前に 知覚はないか ら, また多で あ る か ら, また 必 然的で ない か ら, それ を本 質 とする こと や, 自体が多である こ と や, 自体が混 同す
る ことが, 矛盾によっ て成立する で あろう。」 と説か れて い るの で ある。 そ こ で, 三 つ の
論 理 (rigs pa gsum ) 中, (1)最初
1
こつ いて。 命題の主 語(chos can )11)で ある腹丸き もの(
lto
ldir
ba
)が 瓶 とい う言説的営 為の基盤と して 働き符牒に 絶対に俟た ない もの とい う帰 謬と な る。 な ぜな ら, 腹丸 き もの に して それ と類 似の言語的 営為の 基 盤で ある とい う
それは, 自己の実質 (rang
gi
gnaslugs
)のカに よ っ て 成立 して い るか らで ある。 〔それ が〕承認さ れ るな らば, 腹丸き もの に対 して瓶で ある と 思 う知覚 が 生 ずる もの は符牒
に俟たず して 生 ずる とい う帰 謬 となる。 なぜ な ら, 〔それは〕承 認 さ れて い た か らで あ
る。 〔それ が〕承 認 さ れ るな らば , 瓶 とい う言葉 が ま だ付さ れて い ない 以 前 に おい て も, 腹丸 き もの を見た だ け で これ は 瓶で あ る と 思 う知 覚が 生 ず る とい う帰謬と な る の で ある。 (2)第二 の論理につ い て。 一つ の 神格 (skyes
bu
)IC
対して 〔同 義異 名た る〕イン ド ラやシ ャ クラや グラーマ ガ ータカ な どの多くの言葉が働いて い る その場合に , それ らの 言葉 が その神格に対 して実 在の存 続 して い る限 りの 力に よ っ て働い てい る とい う帰謬 とな る。 一
166
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University (20) 離言 (nirabhilapya )の思 想 背 景 (袴 谷) なぜな ら, そ の神 格 はそれ らの 言葉の働 く基盤と して 自相に よ っ て成 立 して い る か らで ある。 〔それ が〕承 認 さ れ る な らば, その 一つ の神格は , 言葉 が多な る もの で あ るままに 対 象 も多なる もの と して存続 す る とい う 帰 謬 と な るの である。 (3)第三 の論理につ いて 。 二 人の男 (skyes
bu
)に対 して , 〔同 一姓名た る〕ウパ グプ タ とい う一つ の言葉が共通 し て働 く時に, その 二人にこ の言葉 が実 在のカ (dngos
dbang
)に よ っ て 働い て い る とい う帰謬 となる。 なぜ な ら, そ の二人の 男 は 一つ の言 葉の働 く基 盤と し て 自己の存続 して い る 限 りの力によ っ て成立 して い るか らで あ る。 〔それが〕承認 され る な ら ば, その二人 は, 一つ の言葉の よ う に, そ れ が そこ で 働い て い る対象も 一つ で ある とい う帰謬と な る。 〔それ が〕 承認 さ れ る な らば, その二 人の男は 一つ の相 続 (rgyud , sarlltatlの 中に 混 同 して い る とい う帰 謬と なる の で ある。ii) 以上の 論理 は三つ と も 〔帰謬論法の〕証因 (sgrub
byed
) を換 位で きる (’phenpa )12)か ら
, そ れ らの 過 失のゆえに, 諸実在 (
dngos
po rnams )は, 自己13)で あると 述 べ る言語的 営 為の働 く基盤 と して 自相に よ っ て は成立 して い ない。
iii)
『菩 薩地』 に おい て , 「腹丸 き もの (
lto
ldir
ba
)が先にあ り, 後に瓶とい う 言葉 を付託するの だとすれ ば, 言葉が そ のよ うに ま だ 付託さ れて いない時に は、 その対象の 自己の形象 (rang gi ngobo
)が ない こ とに な るが, も し も ま だ 付 託 さ れてい ない時に も, 形象が あ り そ れに対 して後に付託するのだ とすれば, 言葉が ま だ付 託されて いない 時に おい て も, これは 色で あ る と 思 う知 覚が生 ずるで あろ う。」 と 否定が な さ れて い るの で ある。de
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離 言 (nirabhilapya )の思想 背景 (袴谷 ) (
21
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ゼ gyur ro 〃 zhesbkago
!!以 上の チ ャ ン キ ャ の 記述 は, 互 い に比較 すれ ば直ちに 明 らかな よ うに, 上
引
の ッ ォ ン カバ の 記述 を確実
に踏
まえ な が ら , そ れ を, ツ ォ ン カバ 以 降の チベ ッ トに おい て 周知
徹 底 される よ うに なっ た論 理学
上の 知 識を利 用 する こ とに よ っ て 簡明 に説 明せん と した もの で ある。 ただ, 遺憾な こ とに,私 自身が , チベ ッ トに お け る論理学
上の 展 開に つ い て全 く無 知で あ る た め に, 却 っ てその 簡 明 な論 述 をよく
理解で きずに誤 りを 含ん だ読 解 に な っ て い るか もしれ ない こ と を惧れ るが , 本 稿 の 力 点は, 勿 論, か か る論理学 上の 問 題に置か れて い る わ けで は ない 。 む しろ , そ う した後 代の 問 題よ りは, チ ャ ン キ ャ に よ っ て 「三 っ の 論理 (rigspa
gsum
)」 と呼ば れて い た もの の淵 源 をで きるだ け古く辿 っ てみ よ うとす るとこ ろに本 稿の 目的は あるの で あ る。こ の 「三 つ の論理 」 は, ツ ォ ン カバ に よ っ て 「
依
他 起が所分別につ い て空で あ ると証 明す る論理」 と呼 ばれて い た わ けで あるが, ツ ォ ン カバ の見 る とこ ろに従 え ば, こ の 論理は 『解 深 密 経』 では ま だ説
かれて い な か っ た も の の , 『菩 薩地』 と 『摂 決 択分 』 で は説か れて い た とい う こ とに な る。 『善 説 心 髄 』の 英 訳者
サ ー マ ン 教 授は , こ の 二 つ の典 籍 中に , その 当該箇所
を特定 して いない 14)が , 私の 調 べ た ところで は , 「菩薩
地』の 「真 実義
品」 (Tattvarthapatala
)の 一節 と, それに 対応
する 『摂
決択 分 』 中の 一節
が 明 らかにその 箇 所と特 定で きる もの で あるが, そ の こ と は 「善 説心 髄 』 に対す るシ ャ ーケ ーゲロ ン (Shakya
’i
dge
slongdPaPbyor
lhun
grub
) の 『説示燈 明』 (bsTan
Pa
’isgr ・n nre )の 引用に よ っ て も支 持される。
もっ とも, 「説示燈明 』に お け る, 前
者
の 引用 は 「三 つ の 論理 」の それ ぞ れ の中
心となる記 述を正確 に大 部分 引 き写 した もの で あるの に対 し,後 者の それ は, 当該
箇
一 164 一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University (
22
) 離言 (nirabhilapya )の思 想背景 (袴 谷) .所の冒
頭 部分 を , 総論 部分 と「三 つ の 論理 」の若 干の 部分の みにつ い て 示して い る }ζすぎず
15)・ これ に よ っ て 『摂決択
分 』の当該箇
所 を代用 させ る ことは で きないが , そ の箇所
の確
認 には充分 で あ ろ う。 ところで , 「菩薩
地 』と「摂 決択
分』とに お ける 「三 つ の 論理」は・ 『摂 大乗論
』の そ れ が(
1)
(
2)
(
3)
で ある のを一応基準にす れ ば ,(
2)
(
1)
(3
)の順 序と なっ て い る。 文 献の 歴史的展 開か らい え ぱ, こ ち ら の 方 が 『摂 大 乗 論 』のよ うに変わ っ た と言 うべ きで あろ うが, 本 稿で はあ くまで も便 宜 的で は あ るが,『摂 大乗論
』 の順 序を基準
に取る こ と に させ て 頂き た い 。 以下に, こ の1
順序番
号を採用 し挿 入 してr
説
示燈明 』 の 引用箇所
16) を示せ ぱ次
の と お りで ある 。i
)de
yang
BOrang
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!(2)
“gal te chos
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dang
!dngos
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以上 の手 続に よ っ て , ツ ォ ン カバ が 厂依 他 起 が 所分別につ い て空で あ る と証 明 する論 理」 と呼ん だ ところの 『摂 大 乗 論』 の 「三 つ の 論理」は, 『
菩
薩地 』「真 実Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 離言 (nirabhilapya )の思 想背 景 (袴 谷) (
23
)義
品」及びそれ に付 随 す る 『摂 決択分 』 の 特 定箇
所にまで 遡 り う る こ とが ほ ぼ確実
になっ た と思 わ れる。 しか し, こ の こ とが判
明 した か ら とい っ て , 関 連諸
問題
が必 ず し も容 易 に処理 しうるよ うに なる わ けの もの で は ない。 例え ば, ツ ォ ン カ バ は , この 「依他 起 が所
分 別 につ い て空 である と 証明 する論理 」 を, 『解 深 密 経』 に は ま だ説
か れてい な か っ た が 『菩 薩 地 』や 『摂 決 択分 』に な っ て や っ と明らか に され るよ うに な っ た もの と考え て い るわ けであ
ろう
が, 『摂決択
分 』 は と も か く, 今日の文
献 史 的成 果に よれ ば,r
解 深 密 経」 が まず
あ っ て , それか ら 「菩 薩 地』 が形 成された と は, 事 実 問題 と して な か な か容
認 さ れ難
い ことで あ ろ う。 今 日で は , む しろ, 『菩 薩地』 か ら 『摂 決択分 』 へ とい う 編 纂過 程 の 途 上に 『解深 密 経』 の成 立 を 位置
づ けよ うとする説1η が主 流で あ る よ うに思 うか らである。 現 に , 三 自性 (tri・svabhava )に内
在す る論理 構 造の 精粗
を問 わ ない こ とにす れ ば, 『菩薩 地』 に は三 自性は説か れて い ない の に対して 『解 深 密経』では説か れて い るわ けで あ る か ら, 見て呉れ だ けは後 者が新 しい こ と は ほ とん ど決 定 的と言っ ても
よい で あ ろ う。 た だ し, 三 自性 説の 論理 的根幹
を なす実
在 論 (vastu −vada )は, ツ ォ ン カバ も示 唆 す るとお り , 『解 深密
経 』 とは 比較
に もな らな い精 度にお い て , 『菩 薩地 』「真 実 義 品」 によ っ て 初めて 確 立 され た と見 倣 さな けれ ば な らな い の で ある。 もっ とも, 上述 した よ うに,r
菩 薩地』 は, 三 自性を 説 か ない の で あ る から, ッ ォ ン カバ の言
う 「依他
起 が所
分 別 につ い て空で ある と証明する論
理 」 を 三 自性に即 して述べ る こ と は ない わ けで あ るが, そ の ツ ォ ン カバ の 呼 称 を 『菩 薩 地 』 風にア レ ン ジ して用いれ ば, 『菩
薩地
』 「真
実 義品」に示 される論理 と は , 「実在 (
dngos
po
, vastu ) が言葉
(ming , naman )につ い て 空で あ る と証 明す る論理 」と呼ぶ こ とがで きるで あ ろ う。 そ して , この 論理 に よ っ て 証 明され ん と した 「真
実 義 品 」の 根
本
的 主 張こ そ 「すべ て の存在
は言 語表
現 を超え た もの で あ るこ とを 固 有の 性質と して い る (nirabhilapya −svabhavata sarva ・dharmapam
, sarva −dhar
皿a4
・諏
Pnirabhilapya
・svabhavata , nirabhilapya −svabhav 飾 sarva ・dharm
鋤, 一切 法 (諸 法 )離言 自性 )」18)とい う命 題に ほ か ならない 。
II
言
葉
と真
理以 上の 準 備を俟 っ て , こ こで再 び 冒頭 に示 した, 互 い に
相
反 する a)b
)
二 っ の 命 題に 立 戻 っ て み よ う。 そ して, 「すべ て の存 在 は言
語表 現を超え た もの である こと を固 有の 性 質 と して い る」とい う 「真 実 義 品」 の命 題が, こ の二 つ の 命題 の 一162
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
24
) 離 言 (nirabhilapya )の 思想背景 (袴谷 ) いず
れと合 致す る か を考えて み れ ば, a)
の そ れ と同じで あ るこ と は直
ちに 明らか で あろ うと 思 わ れ る。 た だ 問 題 は, 「真実義
品 」に お け る命 題の主語 で あ るdharma
が, なに を根 拠に 「存在」 と訳 し う る 意 味を担
うか が説 明され な け れ ば な ら ない 点 にある であろう。 しかし, こ の説 明に移る前に, 冒頭 の a)b
)
二 つ の命題 が表 わ して い る思 想の 本 質 的差異 に つ い て 若 干の 考 察を加えて お くこ とに した い 。 こ こで, 二 つ の 命題 を再提 示 す れ ば 次の とお りであ る。a
)
真理 は 言葉に よ っ て 表現で きず 言語表現 を 超 え た もの (nirabhilapya , 離 言 )で あ る。b
)
言 葉に よ っ て 論理 的 に 正 し く主張さ れ たもの だ け が真理 で ある。
以上の 二 つ の命題 を, よ り簡 明な形で述べ る こ とが許 され る な ら, そ れ は次の ご とき もの と な ろ う。
a’
)
真 理は言葉 を離 れた もの で ある。
b
’ )正 しい 言 葉だけが
真
理 で ある。以 上の 操 作に よ っ て よ り鮮 明にな っ た こ とは, 二 つ の
命
題そ れ ぞれの 「言
葉」 に対
する考え方
が まる で 逆で ある ことがは っ き りし た こ とによ り, それに規定
さ れ る それぞ れ の 「真 理 」 もま た, そ の名 称の 一致 に もか か わ らず, 全 く逆の もの を指 し示 して い る とい うこ とで あ る。 a − a’ )の 「真理」は , 「言 葉 」 と は本
質 的 な関 係を もたず, 従 っ て 「言 葉」の 有 無に か か わ らず,時
間を超えて , 永 遠に実 在 して い るもの に ほ かな らない 。 それ ゆえ , この 「真 理」の 把握 は 「言葉」 に本 質 的に依 存 する こ との ない 究 極 的 意 味で の 神 秘体験
によ るほか はない で あ ろ う。 これ に反 して ,b
−b
’)
の 「真理 」 は, 「言 葉」 の 背後 にな ん らの実 在 を 想 定 する 必要 さ え な い が, そ の か わ り絶 えず 「言 葉 」 だ けに よ っ て 真 偽を決しな が ら そ の 正 しさが 主 張 さ れて い くの で な け れ ば な る まい 。 そ れ ゆ え, この 「真 理」 の把握
は 「言葉
」 だけに よ る主 張 命 題の真偽
の決着
以 外に はあ りえ ない で あ ろ う。 こ の よ うに, 両者
の命題 は, 互 に決 して相 容れ るこ との ない もの であるが , か か る両 命題 の対 立は,洋の 東 西にか な り普遍的な こ と で あろ うと思 われ る。 しか し,普遍 的な現 象 に眼が行 っ た 時には 必ず特
殊的 な差 異に も注 意 しな けれ ば な らない との 私の持論
か ら付 け加 え る な らば, 西 欧が時
に は ど ん な 反動が あ ろ うとも両 命題 中 のb
−b
’)の 「真理 」観を 主 流と してき たの に対 して , イ ン ドを中心 とする東洋
では大 した抵 抗 もな く a− a’)
の 「真 理」観
が圧 倒的
主流
を占
めて きたの だ とい う差 異 を強 調 して お か なければなるまい 。 こ の 差異 も強 調 した上で , 更に私見 をKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 離 言 (nirabhilapya )の思 想背 景 (袴谷 ) (
25
) 加え て お け ば, a − a’)
の 「真理 」観を支
持 す るもの は 「場所の 哲 学 (topical phi ・losophy
)」 の 主張者
で あ り,b
−bt
)
の 「真理 」観を支 持す るもの は 「批 判の 哲 学 (critical philosophy )」 の主張者なの だ とい うこ とで ある19)。 しか も, 「真理 (Wa
・hrheit
, truth , v6rite)」 と は, 前 者に と っ て は 「隠れ な さ (aletheia ,Unverb
。rgen −heit
)」, 後者
に とっ て は 「正 しさ (orthotes ,Richtigkeit
)」20) と して 現わ れ る で あ ろ う。 一
方
, こ の両 語に見合
う用語をサ ン ス ク リッ ト語の中
か ら拾い 出すこ とに は多 少の困難
が あるか も しれ ない が, 敢 え て それ を試み る とすれ ば, 前 者 に は 「実在 (vastu )」, 後 者に は 「真 実 (satya )」を 当て て もよ い よ うな気が す る。 いず れに せ よ, 「真
理」 と は,前者
にとっ て は 「隠 れ な き実
在や事 実
」, 後者
にとっ て は 「正 しい言葉
や真
実 」 と して 現 わ れて こ ざ る を え ない で あ ろ う。 そ の 意味で , 私は, 前 者の系 譜を 「事 実信者」,後
者の 系 譜を 「言 葉信者 」 と呼ん だ こ と も あ っ た 21) の で ある。しか し, 以上の 対比が 余 りに も図 式 的に過 ぎる と思われ る方 も
多
い か も しれ な い の で , 以下, 従 来の 私 見を も踏まえ なが ら, 多 少 具体
的に両者
の 相違 の ポ イ ン トを指 摘 して み た い 。a− a ’)の 「真理 」観は, 通 念に よ っ て大多 数の人に馴染 ま れて い る 見 方 で あ る か ら多 言を要 し ない と思 うが, そ れ が 「隠れ なき実 在や事 実 」を重ん じて 「言
葉
」 を軽ん ずるも
の だ か ら とい っ て , 必ず
しも 「言
葉」 を制 限した り放 鄭 した り する方
向だ けに向か わず
, む しろ無 責 任に 「言
葉 」を多 用 する側につ き た が る 傾 向の もの で あ る とい う こ と は充分 に認識さ れて い な け れ ばな らない 。 と ころで , 「正 しい言葉
だ け が真 理で ある」 とい うb
−b
’)の 「真 理」観に敵対
す る a− a’)
の 「真
理」観
が なにゆ え に 「言葉」 の 多用 に向か うの か とい うことにつ い て は, プ ラ トン の著 作よ り, 二 箇所
の 引 用 を試み て お けばよ い と思 う。 一方
は, α)r
饗
宴』 (SormP
・si・n)か らの 引用 で , 言葉の名 手
ア ガ トン の 演 説 終 了後
に, そ れ に因 ん で ソ ク ラ テ ス が 語 っ た一節22), 他 方 は,β
)『パ イ ドロ ス 』 (Phaidros
) か らの もの で , ソ フ ィ ス トたちの説 く 弁 論術
(rhetorice )に つ い て ソ クラ テ ス に報
告 す るパ イ ドロ ス が 語 っ た一節 23)で ある 。 α) ところ が , 見 受 ける ところ, それ (真実 を語る こ と)は 明 らかに, 物を美 し く讃 美 する仕 方で は な か っ た。 そ れ が実際そ う なのか ど う か は問題外で, むしろ ただ その対 象に考え ら れ る か ぎりの もっ と も大き く, もっ とも美 しい性 質を くっ つ けれ ば い い のだ っ た、 もしまたそれが間違い で も, そんな こ とは少しも構い は し ない 。 見 受 ける と ころ, 一160
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
26
) 離言 (nirabhilapya )の 思想 背景 (袴 谷 ) 最 初か ら話はき まっ て い たのだものね え.僕たちがめい めい本
当に エ ロ ス を讃美 し よ う とい うこ とで は なくて , た だ讃美 する者の よ うに 見せ か けよ うとい うこ と に。 そ れ だ か らこ そ諸 君は (僕はそ う思 う), あ りと あ らゆる語句を 持 出して来て, これ をエ ロ ス に帰 して , 彼は か くか くの 性質を持ちまたこれ ほ ど たくさ んの 賜物を授け る なぞ とい っ て , そ れで 彼を もっ とも美しいかっ もっ と も優れ た神の よ うに見せ か けよ う とす る, 勿 論 無 識者にだ一 ま さ か識者に で は あ る まいか ら, する と讃 美 演説は 美 しくも荘重にも な るのだ ! し か し, して見 る と, 僕は や は り 讃 美の仕方 とい う ものを 知 らなかっ た 訳 だ ね え、 また知 らなか っ た か らこそ, 順番が来た ら僕 もまた讃辞 を 述べ よ う な ど と約 束 し たの だ。
β)
その点につ いて は, 親愛な るソクラ テス , 私 は次の ように 聞い て い ます。 つ まり, 将来 弁 論家 (rhet6r )と なるべ き者が学ばなけ れば な ら ない も の は, ほん とうの 意味で の正 しい (
dikai
。s)事柄で は な く, 群衆に一 彼らこそ裁き手と なるべ き 人々なの です が一 そ の群 衆の 心 に 正 しい と思 われる可 能性の ある事 柄なの だ。 さ ら に は, ほ ん とう に善い こと や, ほ ん と う に 美 しい こ とで は な く, ただそ う 思 われる で あろ う よ う な 事 柄 を学ば な け れ ば な らぬ 。 な ぜ な ら ば, 説 得す る とい うこ と は, こ の, 人 々 になるほ ど と 思 われる よ うな事 柄を 用い て こそ, で きる こ と なの で あっ て, 真実 (aletheia )が説得を 可能にするわ けで は ない の だか ら, とこ うい うの で す。こ の よ う な見 方によれば, 「言葉 」 と は, 「正 しい事 柄」 で は なく 「正 しい と思 わ れ る可 能 性のある事
柄
」 を多数
の 人に 納得さ せ るた め にの み多 用さ れ る弁
論 術 で しか なく
, そ れ が正 しい 「真
理」を述べ て い るか ど うか な ど とい うこ と は ど う で も よい こ と なの で あ る。 「そ れ が実際 そ うなの か ど うか は問題 外で, む し ろ た だ そ の対象
に考え られ るか ぎ りの もっ とも大き く, もっ と も美 しい性質
を くっ つ けれ ばい い の だ。」 しか も, か か る無 責 任な言 葉の 多 用は, ど うで もよい 言葉
の背
後に は言 葉で は捉え ら れ ない が体験 や直 観 に よ っ て は捉え られ るはずの 「隠れ な き実在
や事
実」 が必ず
存在
して い るとい う通念
に導 か れて い る場合
が圧 倒 的に多 い 。 だか ら群 衆 に も 受 け る わ け な の だ が, か か る 「真
理 」 をヘ ラ ク レ イ トス は 「一者
(hen
)」とも呼ん だの で あ る。 そ して, 「 この意味
で の 「真 理」 は, ハ ィデ ッ ガ ーも言 うよ うに 「隠 れな さ (aletheia )」で あ っ て 当 然であろうが, か か る 「一 者」 の ごとき 「真理 」 を批 判して, 「真理」に 「正 しさ」(・rth・tes)」 の 意味
を初
めて 明瞭に 確立 した人こ そ プ ラ トン で あ る と見 做 す とこ ろに最 も重 要な 力点
が 置 か れ るの で な けれ ば なる まい 。 こ の 肝要な点を見 失わな け れ ば, 西欧の 思想 史にお ける正統 説 (orthodoxy > orthos +
doxa
, 正 しい 意見, 正 しい判 断 ) は, 例えばヘ ル ダ ー リン を
始
め とする ドイ ッ観念論
が プ ラ トン の 『饗宴
』中
に描 か れ るヘ ラKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 離 言 (nirabhilapya )の思 想背 景 (袴谷) (
27
) クレ イ トス の 「一者 (hen
)」の 考え方を 逆 用 して い かに 「一者」 の 「真理 」 を讃美
しよ うが24), ま た, ハ イ デ ッ ガ ー が 「真理 」の 意 味の 「隠れ なさ (aletheia )」 か ら 「正 しさ (orthothes )」へ とい う展開の 事実
を逆 用 して い か に前者
を 原 義 で あ ると力説 しよ う が25), a − a’ )の 「真理 」観を決 定的 な意 味におい て容認 した こ と は一度 もなかっ た とい うこ とに思い が廻 ら され るの で は ないか と思 う。従っ て , 西 欧に お い て は, a − at)の 「真理 」観 を排 し, 「正 しい 言葉だ け が真 理 で あ る」 とい う
h
−b
’)の 「真理 」観の み が正 統 説 と見 做 されて い たの で は な い かと考え るが, しか し, だ か らとい っ て正統 説が必 ず多 数
を占
めて い た わ けで は ない 。 む しろ事実 は, か か る正 統 説 が 確立 され た 伝 統 の 中に あ っ て さ え, 大 抵 数の 上 で は 逆 に展 開す るもの なの で あ る。 そ ん な わけで ,17
世紀の 近代の ヨ ー ロ ッ パ に お い て ,再
び明確
にb
−b
’)
の 「真理 」観を樹立 し直
したの がデ カル トで あ っ た とい え る。 彼が 「私は考え る。 そ れ ゆ えに 私 は あ る。 (Je
pense , 己oncje
suis.)」とい うこ と を 哲学
の 「第一 原 理 (le
premier principe)」 と して主 張 し た のは
有
名だ が , それ に よ っ て彼は考え る こ とも しない 独 存 的 精神
の 存 在 を主張 したわ けで は全 くな く, 人 間の 「
本
質や性 質は考え る こ と に しか な い (dont
toutePe
’
ssence ou
Ia
nature n’est quede
penser )」 とい うこ と を 主 張 した だ け なの で ある26)。しかも, こ の 「考え る (penser )」 と は, 「言
葉
(parole)」 と 「理性
(raison )」 とによ っ て正 しい 判 断 (
jugjement
) を下す こ とにほ か な らない。従
っ て , 人間
がその 本 質ともい うべ き 「言 葉」 と 「理性
」を欠落 し て しま っ た な ら, 人閭は た と え存 在 する こ とがで きた と して も もは や 人 間た る こ とを完 全に放棄
して しまっ た こ と に なる だ ろ う。 デ カル トが ,「言 葉」 と 「理性 」 とい うもの の 有 無に よ っ て人間
と動 物を峻 別 しよ う と した27 )の も その た め で あ る。 しか る に , 人 間が その 本質
を もっ て人間
と して 存 在す
る よ りも以前に , まず 動物
と して存 在 して い る と い う 事 実に注 目す るの が大 事だ と して , 「実
存は本 質に先立 っ (L
’ existence pr6c さde
Pe
・ ssence )」28)と主 張 し たの が 実存
主 義 (existentialisme ) だ っ た ので あ り, そ れ は デ カル トの 「第
一原理」に対
する暗
黙の反抗
だ っ たとも言 えよ う。 だ が, 戦 後の ヨ ー ロ ッ パ 社会
に おい て , 実 存 主 義の 系譜が 数の 上 で い かに猛 威 を振る っ て いた か に見え よ うとも, 西 欧 思 想 史に おける正 統説がデ カル ト的 「第 一 原理 」を 全く
排 除 して しまっ た と は信じ難い ことで ある。 従っ て 私は, 「正 しい言 葉だ けが真理 で あ る」 とい うb
−b
’)の 「真理 」観は今な お健 在で ある と考えて い る の で あ り, その 「真理 」観に よれ ば, 「真理 」 と は必 ず 「言 葉 」によ る命題 と して 主 張 一158
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
28
) 離言 (nirabhilapya )の思 想背景 (袴谷) され な け れ ば な らない 。 し か も, その 命題 は 「理性」 に よ る真 偽の 判断を俟っ て断
えず
正 しい ものだ けが選 ばれ るの で なけれ ばな らぬ の で あ る。 か くして, 「理性
(raison )」 とは, デ カル トに よ れ ば, 「よ く判 断 し, 真な るもの を偽 な る もの か ら分 つ とこ ろ の能 力 (la
puissancede
bien
juger
, etdistinguer
le
vraid
’avecle
faux
)」の こ とで あるが, 私が 「批 判の 哲学
」 と呼ぶ の は, か か る 「判 断Guge
・ment >
juger
)」 に基づく哲学
の こ とを指 す29)。 もっ とも, デ カル トは, ギ リシ
ア 語 の 「批 判 (critic 。s > crin6 )」に 語形 上で よ りよ く対 応 す る 「批 判 (critique
> critiquer )」をほ と ん ど用い ない が, 彼が頻 繁に使 用 す る 「判 断 (
jUgement
>juger
)」は意味
上 ギ リシ ア 語の 「批
判 (critic ・s > crin6 )」 に合
致して い ると考えられるか ら, 私がデ カ ル ト由
来
の哲学 を 「批判の 哲 学」 と呼ぶ こ と は決して不 当 なこ とで は ない の であ る。私
の言 う「批判
」が, ともすれ ば 「非 難
」 の よ うに誤解
される こ と も多
くなっ た よ うな気
がするの で, 敢 えて蛇 足を加え さ せて頂い た 。さて , そ ろそ ろ, 本 節の 始めに 予 告 した
dharma
の 意 味の 説明に 移 ら な け れ ば な らない が, こ こ に 至 るまで に なぜ か くも長々 と互 い に敵 対 す る 「真 理」観に つ い て述べ て き たか とい う と ,dharma
の 意 味の 違 い は, 以 上の 二 つ の 「真理 」 観の 違 い に密 接に関わ っ て い る と私 には 思 わ れ る か ら なの で あ る。dharma
の 原 義は, 松本史
朗氏
に よ っ て, 「保た れ る もの」 に限定 さ れ, そ の 意 味 も 「性 質 」 を第一義 と す る と規 定さ れ た が, 私 はそ の見 解に全面 的に 賛意 を表 明してお り 30) 今 もそ れ を取
り消
す必 要を全 く感じて い ない 。 従 っ て, 以 下におい て,dharma
の意味
の 違い につ い て述べ る場 合で も, 松 本 氏に よ っ て限定 され規 定 された 「保 た れ る もの」 「性 質」 とい う意 味をag
−一義と して考えてみ たい と思 う。とこ ろで,
今
しが た私
は,dharma
の意味
の違
いは, こ れまで検
討 して きた二 つ の 「真 理 」 観の違い に密 接に関 わ っ て い ると書
いた。 そこ で ,実
際そ れ を確認 す るため に, 先に提 示 し て きた a − at )とb
−b
’)
とい う双 方の 命 題 中の 「真理 」 をdharma
に 置 き換えてそ れ らの命題 を再 提 示 して み たい 。a− a’ )
dharma
は言 葉に よ っ て 表 現で きず 言語表 現を 超 え た もの (nirabh −ilapya
)で あ る。dharma
は言葉を離れ た もの で あ る。b
−b
’ )言 葉によ っ て 論理 的に正 し く 主 張さ れ た もの だ けが
dharma
で あ る。 正 しい 言葉だ けがdharma
で あ る。上に示 した相 反 する二 つ の命題 中の
dharma
に対 して , こ こで , 松 本 氏によ っ てdharma
の 原義と規定 さ れ た 「保た れる もの」「性質
」 の意味
を代 入 する と 一 一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
離言 (nirabhilfipya )の思 想 背景 (袴谷 )
(29 ) す れ ば, 代 入 して も論 旨が 明瞭に成 り立 ち うるの は
b
−b
’)
の 命 題の側だ けで あ ろ う。 な ぜ な ら,後者
の 「真
理」 観 によ れ ば, 言 葉に よ っ て 正 しく判 断 され た も の だ が 正 しい 「性質
」 で あ り, 正 しい 言葉 だけが 正 しい 「性 質 」 を指 摘す るこ と に な るが, 前者
の それは, か か る 「性質」 を拒 否 して い るか らで ある。 勿論
, 言 葉によ る判 断や指 摘に も誤 りは ある わけで , か かる場 合に, そ れ は 正 しか らざる 「性質
」 と呼
ば れる。 そ して , これ が, 「性 質 」に関 して サ ン ス ク リッ ト で 極 普 通 に用 い られ るdharma
(正 し さ, 正 しい性 質)と adharma (不 正, 正 しか らざる性 質)の 意 味なの で ある。 か か る正 邪の 決 着 こ そ 仏教が 重 ん じ た 知 性 (pra ;fia , 知 慧, 般若)に ほか な らない が, 仏 教の 正統 説 (orthodQxy )によ れ ば , 「知 性 と は 正 し さの 決着であ る (praifiadharma
・pravicayab )31」 と定 義 されて い る。 こ の よ う な 知 性で ある限 り, それ は, デ カル トのい う 「理 性 (rais ・n)」 に見 合 う働き とみてもよ い と 思 われるが, か か る 知
性
に よ っ て決 着 さ れ た 仏 教の 「性 質 (dharma
)」こ そ 「無 我 (anatma )」 や 「縁起 (pratityasamutpada )」
1
こ ほ か な らな かっ た の である。 しか る に, 「
性質
」 が言葉 によ っ て 明確に規 定さ れ る ため に は, 主 張 命題 (pratiji議)」 が 立 て られ ね ば な ら な い が, その 代表的 主張 命題 の 一 つ が 「すべ て の 性 質は無 我で ある (sarva −dhar
・na anatmanall , 諸法無 我)32 )」 とい わ れ る も の だっ た と言え よ う。 か く して, 仏 教は, その 当
初
よ り明 確な言 葉によ る命 題化
を強
く 志 向して いた と思 わ れ, 従 っ て , 言を左右 に して い か な る命題 を も拒否す る不 可 知 論を 「鰻の よ うに捉え どこ ろの ない 散乱 した説 (amara −vikkhepa )」 と呼ん で 忌 避 した の で ある。 しか し, こ の 問 題 に つ い ては, 別稿 33)で 論じた の で こ こ で は こ れ 以 上触れ る こ と を し ない 。さて , 仏 教で は, 上 述の ご と く, すべ て の 「性 質」 を 「無 我 」 であ り 「
縁
起」 で ある と 見 做 す の で , 「概 念 (sarpjfia )」や 「主 張命題 (pratijfia)」や 「言語 的営
為 (vyavahfira )」 の ほか に そ れ ら を 根 底か ら支えて い る 厂保つ もの 」 と しての 無 時 間 的永 遠の 「実 体 (atmam
,我)」は一 切認 め られ ない が, 以下に, その 考え方
を比 較 的よ く表わ して い ると思 わ れ る一 節をr
雑
阿 含 経』 (Samyuktagama
)所収
の 一経3の よ り引
い て おきた い 。とい う わけで , 比 丘た ち よ, 実に, これ は単なる概 念 (sarpjfi 訌・m2traka )だけ (eva )
で あり, これ は単な る 主張 命題 (pratijfi5・matraka )だけで あり, これは単なる言 語的営 為 (vyavahara −matraka )だ けで あ る。 こ れ らすべ て の性 質 (
dharma
)は無常で ある し, 条 件づ け られ た もの (sarpsk ;ta)35)は 思考力 (cetana)によ っ て投入された もの であり縁