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駒澤大學佛教學部研究紀要 49 - 008袴谷 憲昭「離言(nirabhilapya)の思想背景」

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(1)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (

16

) 駒澤大學佛数篳部研究 紀要第

49

 

平成

3

3

離 言

nirabhilapya

背 景

袴  

 

 

1

 

所 在

 

本 稿は, 以下の 二 つ の 命題 1)が 互 真 向 ら対

に, そ れに 関 連 する問題を, 表 題の ごとき関心 か ら取 上 げて み よ うとす るもの で あ る。

  

a

理 は 言 っ て

現で きず 言語 表現 を

え た

の (nirabhilapya , 離

 

言 )で

る。

  

b

) 言 葉によ っ て

理 的に正 し く主 張さ れ た もの だけが真理 である。

 

仏 教 とは ,

述 するよ うに,

後者

の考え

に立っ て 批判 的 な主張 を展 開 して き た もの と私に は思 われる が, その 展 開は

えず 前者の 考え方 によ っ て 取 っ て 代え られよ うと し た歴史で もあ っ た とい え る。 ため に仏 教思 想 と は前 者の 考え

の 側 に あ るとさ え思わ れ て きた の で る が , こ の

言 (nirabhilapya )の 系 譜 を支え た 思 想 的 背景にい か なる理論があっ たかを, い さ さ か な り とも指 摘す る こ と が で き れ ば, 本 稿の当面の 目的は 達せ られ た こ とに な るで あ ろ う。

 

の 発 端 は, ッ ォ ン カバ (

Tsong

 

kha

 pa 

Blo

 

bzang

 grags 

pa

1357

1419

)の

説心髄 』 (

Legs

 

bsh

α

d

 snging  

p

・)

の よ うな一 節にある。 そ れ は, 否 定

対 象 (

dgag

 

bya

) と し増益 (sgro ’

dogs

)をいか に して 否 定 するか とい う テ ー

マ 中 「否

もの

dgag

 pa 

dngos

) を問 題 とす

箇所

さ れ る

で,

以下の とお り2)で る。

 

1

『解 深密 経』(

dGongs

9

「el, 

Saptdhinirmocana

) に お い て は, 依 他起 (gzhan

 

dbang

, paratantra ) が所 分 別 (

kun

 

brtags

, 

parikalpita

)につ い て空で ある と証 明する論

 

理 は ま だ説か れて い ない こ と を理解せ しめ ん が た めに, 『菩薩地』(

Bs

,ang  sa

, 

Bodhisa

 

ttvabhtimi ) と 『摂 〔決択分 〕』 (

bsDu

 

ba

, 

Vinis

scayasaPtgraha i3)

,そ れ

 

ぞ れ三 つ の論 理が説か れ て お り, また 『摂大 乗 論』 (

Theg

 

bsdUS

, ハ血 加 頚 π 邵 α堪gプ ・

(2)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

離言 (nirabhilapya 思 想背 景 (袴谷

17

aha 4)い て

, 「依他 起の 自性 (gzhan  

gyi

 

dbang

 

gi

 ngo  

bo

 nyid , paratantra .sva .

bhava

)は所分別の 自性 (

kun

 

brtag

 Pa’

i

 

bdag

 nyid = ngo  

bo

  nyid  parikalpita ・svabh ・

ava )と して 顕 現 して い る と お りの もの を本 質とする もので は ない とい うこ と は, なに に よっ て知 られるか。」 と問が設 けら れ たこ との 答 と して, 「言葉 (ming , nEman )よ り以 前に知 覚は な いか ら, ま た多で あ る か ら, ま た必然的で ない か ら, そ れ を 本質と す るこ と や, 自体が多で あ ること や, 自体が 混同 するこ と が, 矛 盾 に よっ て成立す る で あ ろ う。」 と説かれて い る の で あ る。  そ こ で, (

1

)かの法を本質とするもの と して は矛 盾するか ら, 依 他起は所 分別につ い て空で ある こ とが成立する仕 方 を理解 しや すい よ うに 述べ る な ら ば, 瓶 (

bu

皿 pa )とい う言 語的営 為 (tha snyad ,  vyavahara )の基 盤 (gzhi)あ るいは基体 (

gnas

)で ある かの腹 丸きもの (

1to

 

ldir

 

ba

)が 腹 丸もの の 質 (gnas 

lugs

) も 自相 (rang

gi mtshan   nyid に よ っ て成立 して い る とするな ら ば, 〔その腹丸き もの は,〕符 牒 (

br

da

, sarpketa )の力に よ っ て規 定さ れ てい ない もの と な る が, そ うであるな らば, 符牒の 対 象を有する知覚 も符牒に 俟た ない もの とな るか ら, 瓶とい う 言葉 を付 す以 前に, 腹 丸き もの に対 して 瓶で ある と思 う知 覚が生ずる であろう。(

2

)一っ の対 象で あ るもの が対象の 自体の 多 な る もの と して 矛 盾 によ っ て成 立すると は, 〔依 他起は所 分 別 を本 質と して い る と考 えることに よっ て所分 別が実 在で ある と見 倣 す〕対 論者 (phyogs  snga )の よ うで ある な ら ば, 一つ の対 象に対 して 〔例え ば, シ ャ ク ラとい う 同一対 象の 同義 異名語 たる〕シ ャ クラ (

brgya

 

byin

ξakra や イン ドラ (

dbang

 Po 

indra

ラーマ ガータカ (grong ’

joms

, 

gramaghataka

)な どの多くの言葉が働いて いる場合, それは, 実在 (

dngos

 

po

vasttt の力に よ っ て働い て い るので な け れ ば な ら ない一方で , 分別に おい て 顕 現 して い る その ま まに実 在に おいて存 続 して い るの で あ る か ら, その対 象は 多な るもので ある こ とにな ろ う。 (

3

) 混同 して い ない対象の あり方が混 同し たもの と して 矛盾に よ っ て成 立

すると は, 〔先の 〕対論者のよ うで あ る な ら ば, 二 人の 男 (skyes  

bu

)に対 して , 〔同 一 姓 名た る〕ウパ グ プ タ

Nyer

 sbas  

Upagupta

い う一つ の言葉が働 く時に, こ の 男

はウパ だ と 知覚生ずこ とに は区別は ない わ けで あ り, また その 言葉と分 別 も実 在の力に よっ て その 両者に対して働 くわ けで あ る か ら, 二 つ の 対象が 一つ の 対 象

で あるこ とに な ろ う。

 

ii

) 分 別の 判断基 盤 (zhen  gzhi )で ある か の色 (gzugs , rUpa )などが勝 義 (

don

 

dam

pa, paramartha )あ るい は自相に よっ て 成立 して い る と把握する と して も, 〔それ は,〕 言葉と して 付せ られ る基盤が 自相に よ っ て成立 して い る と把 握 するこ と と同様で あ る か ら, これに は こ の 言葉が あ る と符牒を知るこ と がで き ない ものに おいて も, 否定対 象と して の益 があるので あ るが, そ れ を 否定する論理 も ま た同様で あ る。  

iii

r

菩薩 地』5) , 「対 象が先にあ り, 後に これこれの ものだとい う言葉を付託す るの だ とす れ ば, そ の ように まだ 付 託さ れて いない時に は, その対 象の形 象 6〕ngo  

bo

, 一

168

(3)

Komazawa University KomazawaUniversity

(18)

esg

(nirabhilapya)

cD,NMWft

(reas)

ritpa =

akara)

ab>"

ts

vi

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Uc

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4

'(!

6

6

5

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)

g

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e*LvaimOP

(gzugs,

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-(yth6e,ees

vaesabs!t-g"6-z!

a

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t

AMfoSV:*

l・t-CVh6O-(f

as

6.

i)

dGongs

tgrel

las

gzhan

dbang

kun

brtags

kyis

stong par sgrub

pa'i

rigs pa

ma gsungs pa rtogs par

bya

ba'i

phyir

Borang

sa

dang

bsDu

ba

las

rigs pa gsum

gsum

gsungs

shing/Thag

bsdcrs

las

kyang

/

"gzhan gyi

dbang

gi

nge

bo

[nyid)

kun

brtags

pa'i

bdag

nyid

du

ji

ltar

snang

ba

de

yi

bdag

nyid ma yin

par

cis rnngon

zhe na

/"

zhes

dri

ba

bkod

pa'i

lan

du

1

"ming gi snga rol

blo

rned phyir

/1

mang

ba'i

phyir

dang

ma nges phyir

1!

de

yi

bdag

nyid

bdag

mang

dang

11

bdag

'dres 'gal

bas

'grub

par 'gyur

1"

zhes

gsungs

so

11

de

la

(1)

ehos

de'i

bdag

nyid

du

'gal

bas

gzhan

dbang

kun

brtags

kyis

stong

pa 'grub tshul

go

sla bar

brjod

na

1

lto

ldir

ba

bum

pa'itha snyad

kyi

gzhi 'am

gnas yin pa

de

lto

ldir

ba'i

gnas

lugs

sam rang gi mtshan nyid

kyis

grub na

1

brda'i

dbang

gis

ma

bzhag

par 'gyur

la

de

lta

na

brda'i

yul can gyi

blo

yang

brda

la

mi

ltos

pas

l

bum

pa'i

ming

btags

pa'i snga rol nas

lto

ldir

ba

la

'bum pa'o

yam pa'i

blo

skye

bar

'gyur ro

/1

(2)

don

geig nyid

don

gyi

bdag

nyid mang por

'gal

bas

'grub

pa ni phyogs snga

ltar

na

don

gcig

la

brgya

byin

dang

dbang

po

dang

grong

'joms

la

sogs pa'i ming

du

ma 'jug pa

de

/

dngos

po'i

dbang

gis 'jug

dgos

Ia

rtog

pa

la

ji

ltar

snang

ba

de

bzhin

du

dngos

po

la

gnas pa'i

phyir

don

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du

mar 'gyur ro

1!

(3)

don

ma 'dres pa'i ngo

bo

'dres

par

'gal

bas

'grubpani

phyogs snga

ltar

na

1

skyes

bu

gnyis

la

nyer sbas zhes pa'i ming gcig 'jug pa'i

tshe 'di

nyer sbas so snyam pa:i

blo

skye

ba

la

khyad

par

med

pa'i

phyir

dang1

de'i

ming

dang

rtog pa yang

dngos

po'i

dbang

gis

de

gnyis

la

'jug pa'i phyir

don

gnyis

don

gcig

tu 'gyur

ro

ll

ii)

gzugs

sogs rtog

pa'i

zhen

gzhi

yin

pa

de

don

dam

pa' am rang gi mtshan

nyid

kyis

grub

par

'dzin na'ang ming

du

btags

pa'i

gnas

rang mtshan

gyis

grub

par

'dzin

pa

dang

'dra

bas

!

'di'i

ming 'di'e

zhes

brda

mi shes pa

la

yang

dgag

bya

sgro 'dogs yod

la

de

'gog

pa'i rigs

pa

yang

'dra'o

1!

iii)

Bblan

sar

don

sngar yod

la

'di 'di'o zhes ming

phyis

'dogs na

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ltar

ma

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pa'i

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med par 'gyur

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ma

btags

pa'itshe yang ngo

bo

yod

pa

la

phyis

'dogs

na ming rna

btags

pa'i

dus

su 'di gzugs so snyam pa'i

bro

skye

bar

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go

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J;I

Llt,

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i)

ii)

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op

=-

ee

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L7:-em

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7

t 7

de

,gcs,

(4)

-Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 離言 (nirabhilapya の思想背景 (谷) 19 否定 基盤で る依 他 起 が 否

対 象で

分 別につ い て空で

ることを主 張

る 唯識説の 立 場7) に暫 定 的に 立 ち な が ら, 唯 識 説 とは逆に依他 起 が

分別 を

本質

と して い る とい うよ うに考え るこ とに よ っ て 否定 対

た るべ き所分別の

の言 語 基 盤の

客体

実在

で ある と

益 す る (唯 識か らみれば, 否定対象 として無た るべ きもの を有と なすので あるか ら, 明 らかに増 益で ある)

論 者 (phy 。gs snga )を否 定 する た め に, 主 と して 「摂大 乗 論 』に基づ きな が ら そ の

論 者 否 定の 論理 を要

して 述 べ の で 。 こ の記 述の 中心 は,

D

の 段の(

1

 

  にわ た る三種の

理 にあ る が, 既に指 摘 され て い る よ うに, それは 「摂 大 乗

に 実 際 トレ ース す る こ と がで きる8) 。 しか も, ツ ォ ン カバ の述 べ る とこ ろに よれ ば, その 三 種の 論 理 は , 更に 遡 っ て , 『菩

地』や 「摂

択分 』 に も トレ ース で き な け れ ばな らな い が , そ れ につ い て 9) , こ こ で は ツ ォ ン カバ の手 を借 りた上

の 側か らの

論 者 否定 の 理 が, チベ ッ トの 彼以 降の 学者 に も明瞭 に継 承 されて い た こ と を示 す た め に, チ ャ ン キ ャ (

ICang

 skya  

R

l

 

pa

i  rdo  rje 1717 −−

1786

)の 『教 義 規 定』 (

Grub

 

Pa

i

 mtha ’ rnam  

par

 

bxhag

 

pa

, ほ ぼ 同

の テ ー

マ を

っ た

箇所

を 引 く そ れ は 唯識派の教 義 を述べ る章 う ち

, 否定

対 象

と しての 増 益 をいか に して否 定 するか とい う仕

を 扱 っ た

箇所

の 全

1°)である。

  

その 否 定の 仕 方説 明に 関 して,

r

菩薩地』(

Byang

 sa , 

Bodhis

αttvabhami ) と

r

 

大 乗論』 (

Theg

 

b5dus

, 

Mahapanasaptgraha

) とに 説か れて い る 論 理の 一要点 (gnad

 gcig 

pa

に従え ば以下 の お りで あ る。

  i

 

r

摂 大乗 論』に おい ては, 「言葉よ り以前に 知覚はないか ら, また多で あ る か ら, ま

 

た 必 然的で ない か ら, それ を本 質 とする こと や, 自体が多である こ と や, 自体が混 同す

 

る ことが, 矛盾によっ て成立する で あろう。」 と説か れて い るの で ある そ こ で 三 つ の

 

論 理 (rigs  pa gsum ) 中, (1)最初

1

こつ いて。 命題の主 語(chos   can )11)で ある腹丸き もの

 

lto

 

ldir

 

ba

が 瓶 とい う言説的営 為の基と して に 絶対にた ない もの とい う

 

帰 謬と な る。 な ぜな ら, 腹丸 き もの に して それ と類 似の言語的 営為の 基 盤で ある とい う

 

それは, 自己の実質 (rang  

gi

 gnas 

lugs

)のカに よ っ て 成立 して い るか らで ある 〔そ

 

れ が承認さ れ るな らば, 腹丸き もの に対 して瓶で ある と 思 う知覚 が 生 ずる もの は符牒

 

たず して 生 ずる とい う帰 謬 となる。 なぜ な ら, 〔それは〕承 認 さ れて い た か らで あ

 

る。 〔それ が〕承 認 さ れ るな らば , 瓶 とい う言葉 が ま だ付さ れて い ない 以 前 に おい て も, 腹丸 き もの た だ け で これ は 瓶で あ る と 思 う知 覚が 生 ず る とい う帰謬と な る の で る。 (2)第二 の理につ い て。 一つ の 神格 (skyes  

bu

IC

対して 〔同 義異 名た る〕イン ド ラや

 

シ ャ クラや グラーマ ガ ーカ な どのくの言葉が働いて い る その場合に , それ らの 言葉 が その神格に対 して実 在の存 続 して い る限 りの 力に よ っ て働い てい る とい う帰謬 とな る。 一

166

(5)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University (20) 離言 (nirabhilapya の思 想 背 景 (袴 谷) なぜな ら, そ の神 格 はそれ らの 言葉の働 く基盤と して 自相に よ っ て成 立 して い る か らで ある。 〔それ が〕承 認 さ れ る な らば, その 一 神格 , 言葉 が多な る もの で あ るままに 対 象 も多なる もの と して存続 す る とい う 帰 謬 と な るの である。 (3)第三 の論理につ いて 。 二 の男 (skyes  

bu

に対 して , 〔同 一 プ タ とい う一つ の言葉が共通 し て働 く時に, その 二人にこ の言葉 が実 在のカ (

dngos

 

dbang

)に よ っ て 働い て い る とい う帰謬 となる。 なぜ な ら, そ の二人の 男 は 一 言 葉働 く基 盤と し て 存続 し い る 限 りの力によ っ て成立 して い るか らで あ る。 〔それが〕承認 され る な ら ば, その二人 は, 一つ の言葉の よ う に, そ れ が そこ で 働い て い る対象も 一 る と と な 〔それ が〕 承認 さ れ る な らば, その二 人の男は 一 相 続 rgyud , sarlltatlの 中に 混 同 して い る とい う帰 謬と なる の で ある。

 

ii) 以上の 理 は三つ と 法の証因 (sgrub  

byed

) を換 位で きる (’phen

pa )12)か ら

, そ れ らの 過 失のゆえに, 諸実在 (

dngos

 po rnams )は, 自己

13) と 述語的 営 為の働 く基盤 と して 自相に よ っ て は成立 して い ない。

 

iii)

 

菩 薩地』 に おい て , 「腹丸 き もの (

lto

 

ldir

 

ba

)が先にあ り, 後に瓶とい う 言葉 を付託するの とすれ ば, 言葉が そ のよ うに ま だ 付託さ れて いない時に は、 その対象の 自己の形象 (rang  gi ngo  

bo

が ない こ とに な るが, も し も ま だ 付 託 さ れてい ない時に も, 形象が あ り そ れに対 して後に付託するのだ とすれば, 言葉が ま だ付 託されて いない 時に おい て も, これは 色で あ る と 思 う知 覚が生 ずるで あろ う。」 と 否定が な さ れて い るの で ある。

 de

’ gog pa

i

 tshul 

bshad

 pa 

la

 

Byang

 sa

 

dang

 Theg

 

bsdus las

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rigs  pa,

i

 

gnad

 gcig Pas ,

di

 

ltar

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i)

 

Theg

 

bsdus

 

las

 

1

ming  

gi

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blo

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ba

i

 

phyir

 

dang

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phyir

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yi

 

bdag

 nyid  

bdag

 mang  

dang

1

 

bdag

dres

’gal 

bas

’grub

par ’

gyur  

11

zhes  gsung  so

de

 

la

 rigs  pa 

gsum

 

las

1

dang  

Po  ni !

lto

 

ldir

ba

 chQs  can

bum

 pa’i tha  snyad  

kyi

 gzh 三r ’

jog

 pa 

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1a

 gtan  lni  

ltos

 par

thal

khyod

 

de

 

dra

i

 tha  snyad  

kyi

 

gzhi

 

yin

 

pa

 

de

 rang  gi gnas

 

lugs

 

kyi

 

dbang

gis

 

grub

 pa’i phyir

dod

 na

khyod

 

la

 

bum

 pa’o snyam  pa’

i

 

blo

 skye  

ba

 

brda

la

i

 

ltos

 

par

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dod

 pa’

i

 phyir 

1

dod

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 pa’

i

 ming  ma

btags

 pa

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du

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lto

 

ldir

 

ba

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ba

 tsam  nas ’

di

 

burn

 

pa

’Q snyam

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blo

 skye  

bar

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lo

 

2

 

rigs

 

pa gnyis

 

pa ni !skyes  

bu

 

gcig

 

la

 

dbang

 

Po

dang

 

brgya

 

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du

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 Pa 

de

 

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dag

 

skyes  

bu

 

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dngos

 

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kyi

 

dbang

 

gis

 

jug

 

Par

 thal /

 

skyes

bu

 

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 ming  

de

 

dag

 gi

jug

 gzhir rang  

gi

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kyis

 grub 

pa

i

 

phyir

 

1

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na skyes  

bu

 gcig pu 

de

ming  

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 ma  

bzhin

 

du

 

don

 

yang

 

du

 mar  gnas par thal

lo

〃 (3)rigs  pa 

gsum

 pa ni skyes  

bu

 gnyis 

Ia

 nyer  sbas ces pa’五ming  gcig thun

(6)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

離 言 (nirabhilapya の思想 背景 (袴谷 ) (

21

)  mong  

du

jug

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 gnyis ming  gcig pa 

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IQ

 

11

 

dod

 na

 

!skyes  

bu  

de

 gnyis

 

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 gi

 

phyir  na  

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 po  rnams  rang  zhes  

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 pa’i tha  snyad  

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1

   iii

 Byang

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ldir

 

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la

 

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 pa’i ming   phyis ’

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di

 

bum

 pa’o snyam  pa ,

i

 

blo

 skye  

ba

gyur ro zhes  

bkago

 

以 上の チ ャ ン キ ャ の 記述 は, 互 い に比較 すれ ば直ちに 明 らかな よ うに, 上

の ッ ォ ン カバ 述 を

な が ら , そ れ を, ツ ォ ン カバ 以 降の チベ ッ トに おい て 周

徹 底 される よ うに なっ た論 理

上の 知 識を利 用 する こ とに よ に説 明せん と した もの で ある。 ただ, 遺憾な こ とに,私 自身が , チベ ッ トに お け る論理

上の 展 開に つ い て全 く無 知で あ る た め に, 却 っ てその 簡 明 な論 述 をよ

理解で きずに誤 りを 含ん だ読 解 に な っ て い るか もしれ ない こ と を惧れ るが , 本 稿 の 力 点は, 勿 論, か か る論理学 上の 問 題に置か れて い る わ けで は ない む しろ , そ う した後 代の 問 題よ りは, チ ャ ン キ ャ に よ っ て 「三 っ の 論理 (rigs 

pa

 

gsum

)」 と呼ば れて い た もの の淵 源 をで きるだ け古く辿 っ てみ よ うとす るとこ ろに本 稿 目的は あるの で あ る。

 

こ の 「三 つ の論理 」 は ツ ォ ン カバ に よ っ て 「

他 起が所分別につ て空 あ ると証 明す る論理」 と呼 ばれて い た わ けで るが, ツ ォ ン カバ の見 る とこ ろに従 え ば, こ の 論理は 『解 深 密 経』 では ま だ

かれて い な か っ た も の の , 『菩 薩地』 と 『摂 決 択分 』 で は説か れて い た とい う こ とに な る。 『善 説 心 髄 』の 英 訳

サ ー マ ン 教 授は , こ の 二 つ の典 籍 中に , その 当該箇

を特定 して いない 14) , 私の 調 べ た と , 「菩

地』の 「

真 実義

品」 (

Tattvarthapatala

)の 一節 と, それに 対

する 『

決択 分 』 中の 一

が 明 らかにその 箇 所と特 定で きる もの で あるが, そ の こ と は 「善 説心 髄 』 に対す るシ ーケ ーゲロ ン

Shakya

i 

dge

 slong  

dPaPbyor

lhun

 

grub

の 『説示燈 明』 (

bsTan

 

Pa

’i

 sgr ・n nre )の 引用に よ っ て も支 持される。

もっ とも, 「説示燈明 』に お け る, 前

の 引用 は 「三 つ の 論理 」の それ ぞ れ の

となる記 述を正確 に大 部分 引 き写 した もの で あるの に対 し,後 者の それ は, 当該

一 164 一

(7)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University (

22

) 離言 (nirabhilapya の思 想背景 (袴 谷) .

頭 部分 を , 総論 部分 と「三 つ の 論理 」の若 干の 部分の みにつ い て 示して る }ζ

ぎず

15)・ これ に よ っ て 『摂

決択

分 』の

当該箇

所 を代用 させ る ことは で きないが , そ の箇

認 には充分 で あ ろ う。 ところで , 「菩

地 』と「摂 決

分』とに お ける 「三 つ の 論理」は・ 『摂 大

乗論

』の そ れ が

1)

2)

3)

で ある のを一応基準にす れ ば ,

2

1)

3

)の順 序と なっ て い る。 文 献の 歴史的展 開か らい え ぱ こ ち ら の 方 が 『摂 大 乗 論 』のよ うに変わ っ た と言 うべ きで あろ うが, 本 稿で はあ くまで も便 宜 的で は あ るが,『摂 大

乗論

』 の順 序を基

に取る こ と に させ て 頂き た い 。 以下に, こ の

1

順序

号を採用 し挿 入 して

r

示燈明 』 の

箇所

16) を示せ ぱ

と お

 

 

 

 

i

 

de

 

yang

 

BOrang

 sa

 

las

 

(2)

 

“gal te chos

 

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dang

 

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3

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1

(2)“

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la

 rag

 

las

 par

 

mi  rung  ngo ”

zhes

  gsungS  SO

 

 

以上 の手 続に よ っ て , ツ ォ ン カバ が 厂依 他 起 が 所分別につ い て空で あ る と証 明 する論 理」 と呼ん だ ところの 『摂 大 乗 論』 の 「三 つ の は, 『

薩地 』「真 実

(8)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 離言 (nirabhilapya の思 想背 景 (袴 谷) (

23

品」及びそれ に付 随 す る 『摂 決択分 』 の 特 定

所にまで 遡 り う る こ とが ほ ぼ確

になっ た と思 わ れる。 しか し, こ の こ とが

明 した か ら とい っ て , 関 連

が必 ず し も容 易 に処理 しうるよ うに なる わ けの もの で は ない。 例え ば, ツ ォ ン カ バ , この 「依他 起 が

分 別 につ い て空 である と 証明 する論理 」 を, 『解 深 密 経』 に は ま だ

か れてい な か っ た が 『菩 薩 地 』や 『摂 決 択分 』に な っ て や っ と明らか に され るよ うに な っ た もの と考え て い るわ けで

が, 『摂

決択

分 』 は と も か く, 今日の

献 史 的成 果に よれ ば,

r

解 深 密 経」 が ま

あ っ て , それか ら 「菩 薩 地』 が形 成された と は, 事 実 問題 と して な か な か

認 さ れ

い ことで あ ろ う。 今 日で は , む しろ, 『菩 薩地』 か ら 『摂 決択分 』 へ とい う 編 纂過 程 の 途 上に 『解深 密 経』 の成 立 を 位

よ うとする説1η が主 流で あ る よ うに思 うか らである。 現 に , 三 自性 (tri・svabhava )に

在す る論理 構 造の 精

を問 わ ない こ とにす れ ば 『菩薩 地』 に は三 自性は説か れて い ない の に対して 『解 深 密経』では説か れて い るわ けで あ る か ら, 見て呉れ だ けは後 者が新 しい こ と は ほ とん ど決 定 的と言っ て

よい で あ ろ う。 た だ し, 三 自性 説の 論理 的

根幹

を なす

在 論 (vastu −vada )は ツ ォ ン カバ も示 唆 す , 『解 深

経 』 とは 比

に もな らな い精 度にお い て , 『菩 薩地 』「真 実 義 品」 によ っ て 初めて 確 立 され た と見 倣 さな けれ ば な らな い の で ある。 もっ とも, 上述 した よ うに,

r

菩 薩地』 は, 三 自性を 説 か ない の で あ る から, ッ ォ ン カバ の

う 「

依他

起 が

分 別 につ い て空で ある と証明する

理 」 を 三 自性に即 して述べ る こ と は ない わ けで あ るが, そ の ツ ォ ン カバ の 呼 称 を 『菩 薩 地 』 風にア レ ン ジ れ ば

』 「

実 義 理 と は , 「実

在 (

dngos

 

po

, vastu ) が

言葉

(ming , naman )につ い て 空で あ る と証 明す る論理 」

と呼ぶ こ とがで きるで あ ろ う。 そ して , この 論理 に よ っ て 証 明され ん と した 「真

実 義 品 」の 根

的 主 張こ そ 「すべ

存在

は言 語

現 を超え た もの で あ るこ とを 固 有の 性質と して い る (nirabhilapya −svabhavata  sarva ・

dharmapam

 sarva −

dhar

a4

Pnirabhilapya

・svabhavata , nirabhilapya −svabhav 飾 sarva ・

dharm

鋤, 一切 法 (諸 法 )

離言 自性 )」18) 命 題に ほ か な

II

 

以 上の 準 備を俟 っ て , こ こで再 び 冒頭 に示 した, 互 い に

反 する a)

b

二 っ の 命 題に 立 戻 っ て み よ う。 そ して, 「すべ て の存 在 は

語表 現を超え た もの である こと を固 有の 性 質 と して い る」とい う 「真 実 義 品」 の命 題が, こ の二 つ の 命題 の 一

162

(9)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (

24

) 離 言 (nirabhilapya の 思想背景 (袴谷 ) い

れと合 致す る か を考えて み れ ば, a

の そ れ と同じで あ るこ と は

ちに 明らか で あろ うと 思 わ れ る。 た だ 問 題 は, 「真

実義

品 」に お け る命 題の主語 で あ る

dharma

が, なに を根 拠に 「存在」 と訳 し う る 意 味を

うか が説 明され な け れ ば な ら ない 点 にある であろう。 しかし, こ の説 明に移る前に, 冒頭 の a)

b

二 つ の命題 が表 わ して い る思 想の 本 質 的差異 に つ い て 若 干の 考 察を加えて お くこ とに した い 。   こ こで, 二 つ の 命題 を再提 示 す れ ば 次の とお りであ る。

  

a

真理 は 言葉に よ っ て 表現で きず 言語表現 を 超 え た もの (nirabhilapya , 離  言 )で あ る。

  

b

 

言 葉に よ っ て 論理 的 に 正 し く主張さ れ たもの だ け が真理 で ある。

 

以上の 二 つ の命題 を, よ り簡 明な形で述べ る こ とが許 され る な ら, そ れ は次の ご とき もの と な ろ う。

  

a’

 

真 理は言葉 を離 れた もの で ある。

  

b

’ )

 

正 しい 言 葉だけが

理 で ある。

 

以 上の 操 作に よ っ て よ り鮮 明にな っ た こ とは, 二 つ の

題そ れ ぞれの 「

葉」 に

する考え

が まる で 逆で ある ことがは っ き りし た こ とによ り, それに規

さ れ る それぞ れ の 「真 理 」 もま た, そ の名 称の 一 に もか か わ らず, 全 く逆の もの を指 し示 して い る とい うこ とで あ る。 a − a’ )の 「真理」は , 「言 葉 」 と は

質 的 な関 係を もたず, 従 っ て 「言 葉」の 有 無に か か わ らず,

間を超えて , 永 遠に実 在 して い るもの に ほ かな らない 。 それ ゆえ , この 「真 理」の 把握 は 「言葉」 に本 質 的に依 存 する こ との ない 究 極 的 意 味で の 神 秘

体験

によ るほか はない で あ ろ う。 これ に反 して ,

b

b

の 「真理 」 は, 「言 葉」 の 背後 にな ん らの実 在 を 想 定 する 必要 さ え な い が, そ の か わ り絶 えず 「言 葉 」 だ けに よ っ て 真 偽を決しな が ら そ の 正 しさが 主 張 さ れて い くの で な け れ ば な る まい 。 そ れ ゆ え, この 「真 理」 の

把握

は 「言

」 だけに よ る主 張 命 題の

真偽

決着

以 外に はあ りえ ない で あ ろ う。 こ の よ うに, 両

の命題 は, 互 に決 して相 容れ るこ との ない もの であるが , か か る両 命題 の対 立は,洋の 東 西にか な り普遍的な こ と で あろ うと思 われ る。 しか し,普遍 的な現 象 に眼が行 っ た 時には 必

ず特

殊的 な差 異に も注 意 しな けれ ば な らない との 私の

持論

か ら付 け加 え る な らば, 西 欧が

に は ど ん な 反動が あ ろ うとも両 命題 中 の

b

b

’)の 「真理 」観を 主 流と してき たの に対 して , イ ン ドを中心 とする

東洋

では大 した抵 抗 もな く a− a’

の 「真 理」

圧 倒的

めて きたの だ とい う差 異 を強 調 して お か なければなるまい 。 こ の 差異 も強 調 した上で , 更に私見 を

(10)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 離 言 (nirabhilapya の思 想背 景 (袴谷 ) (

25

) 加え て お け ば, a − a

の 「真理 」観を

持 す るもの は 「場所の 哲 学 (topical phi ・

losophy

)」 の 主張

で あ り, 

b

bt

理 」支 持 批 判 哲 学 (critical  philosophy の主張者なの だ とい うこ とで ある19)。 しか も, 「真理 (

Wa

hrheit

, truth , v6rite)」 と は, 前 者に と っ て は 「隠れ な さ (aletheia , 

Unverb

。rgen −

heit

っ て は 「正 しさ (orthotes , 

Richtigkeit

)」

20) と して 現わ れ る で あ ろ う。 一

, こ の両 語に見

う用語をサ ン ス ク リッ ト語の

か ら拾い 出すこ とに は多 少の困

が あるか も しれ ない が, 敢 え て それ を試み る とすれ ば, 前 者 に は 「実在 (vastu 後 者に は 「真 実 (satya )」を 当て て もよ い よ うな気が す る。 いず れに せ よ, 「

理」 と は,

前者

にとっ て は 「隠 れ な き

在や

事 実

」, 後

にとっ て は 「正 しい言

実 」 と して 現 わ れて こ ざ る を え ない で あ ろ う。 そ の 意味で , 私は, 前 者の系 譜を 「事 実信者」,

者の 系 譜を 「言 葉信者 」 と呼ん だ こ と も あ っ た 21) の で ある。

 

しか し, 以上の 対比が 余 りに も図 式 的に過 ぎる と思われ る方 も

い か も しれ な い の で , 以下, 従 来の 私 見を も踏まえ なが ら, 多 少 具

的に両

の 相違 の ポ イ ン トを指 摘 して み た い 。

 

a− a ’の 「真理 」観は, 通 念に よ っ て大多 数の人に馴染 ま れて い る 見 方 で あ る か ら多 言を要 し ない と思 うが, そ れ が 「隠れ なき実 在や事 実 」を重ん じて 「言

」 を軽ん ずる

の だ か ら とい っ て , 必

しも 「

葉」 を制 限した り放 鄭 した り する

向だ けに向か わ

, む しろ無 責 任に 「

葉 」を多 用 する側につ き た が る 傾 向の もの で あ る とい う こ と は充分 に認識さ れて い な け れ ばな らない 。 と ころで , 「正 しい

言葉

だ け が真 理で る」 とい

b

b

真 理」観に敵

す る a− a’

の 「

理」

が なにゆ え に 「言葉」 の 用 に向か うの か とい ことにつ い て は, プ ラ トン の著 作よ り, 二 箇

の 引 用 を試み て お けばよ い と思 う。 一

は, α)

r

宴』 (

SormP

・si・n)か らの 引用 で , 言葉の

名 手

ア ガ トン の 演 説 終 了

に, そ れ に因 ん で ソ ク ラ テ ス が 語 っ た一節22), 他 方 は,

β

)『パ イ ドロ ス 』 (

Phaidros

) か らの もの で , ソ フ ィ ス トたちの説 く 弁 論

(rhetorice )に つ い て ソ クラ テ ス に

告 す るパ イ ドロ ス が 語 っ た一節 23) 。  α) ところ が , 見 受 ける ところ, それ (真実 を語る こ と)は 明 らかに, 物を美 し く讃 美 する仕 方で は な か っ た。 そ れ が実際そ う なのか ど う か は問題外で, むしろ ただ その対 象に考え ら れ る か ぎりの もっ と も大き く, もっ とも美 しい性 質を くっ つ けれ ば い い のだ っ た もしまたそれが間違い で も, そんな こ とは少しも構い は し ない 。 見 受 ける と ころ, 一

160

(11)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (

26

) 離言 (nirabhilapya の 思想 背景 (袴 谷 ) 最 初か ら話はき まっ て い たのだものね え.僕たちがめい めい

当に エ ロ ス を讃美 し よ う とい うこ とで は なくて , た だ讃美 する者の よ うに 見せ か けよ うとい うこ と に。 そ れ だ か らこ そ諸 君は (僕はそ う思 う), あ りと あ らゆる語句を 持 出して来て, これ をエ ロ ス に帰  して , 彼は か くか くの 性質を持ちまたこれ ほ ど たくさ んの 賜物を授け る なぞ とい っ て , そ れで 彼を もっ とも美しいかっ もっ と も優れ た神の よ うに見せ か けよ う とす る, 勿 論 無 識者にだ一 ま さ か識者に で は あ る まいか ら

  

, する と讃 美 演説は 美 しくも荘重にも な るのだ !  し か し, して見 る と, 僕は や は り 讃 美の仕方 とい う ものを 知 らなかっ た 訳 だ ね え、 また知 らなか っ た か らこそ, 順番が来た ら僕 もまた讃辞 を 述べ よ う な ど と約 束  し たの

 

β)

 

その点につ いて は, 親愛な るソクラ テス , 私 は次の ように 聞い て い ます。 つ まり, 将来 弁 論家 (rhet6r と なるべ き者け れば な ら ない も の は, ほん とうの 意味で の正 しい

dikai

。s)事柄で は な く, 群衆に一 彼らこそ裁き手と なるべ き 人々なの です が一 そ の群 衆の 心 に 正 しい と思 われる可 能性の ある事 柄なの だ。 さ ら に は, ほ ん とう  に善い こと や, ほ ん と う に 美 しい こ とで は な く, ただそ う 思 われる で あろ う よ う な 事 柄 を学ば な け れ ば な らぬ 。 な ぜ な ら ば, 説 得す る とい うこ と は, こ の, 人 々 になるほ ど と 思 われる よ うな事 柄を 用い て こそ, で きる こ と なの で あっ て, 真実 (aletheia )が説得を  可能にするわ けで は ない の だか ら, とこ うい うの で す。

 

こ の よ う な見 方によれば, 「言葉 」 と は, 「正 しい事 柄」 で は なく 「正 しい と思 わ れ る可 能 性のある事

」 を

多数

に 納得さ せ るた め にの み多 用さ れ る

論 術 で しか な

, そ れ が正 しい 「

理」を述べ て い るか ど うか な ど とい うこ と は ど う で も よい こ と なの で あ る。 「そ れ が実際 そ うなの か ど うか は問題 外で, む し ろ た だ そ の対

に考え られ るか ぎ りの もっ とも大き く, もっ と も美 しい

性質

を くっ つ けれ ばい い の 。」 しか も, か か る無 責 任な言 葉の 多 用は, ど うで もよい 言

後に は言 葉で は捉え ら れ ない が体験 や直 観 に よ っ て は捉え られ るはずの 「隠れ な き実

実」 が必

して い るとい う通

に導 か れて い る場

が圧 倒 的に多 い 。 だか ら群 衆 に も 受 け る わ け な の だ が, か か る 「

理 」 をヘ ラ ク レ イ トス は 「一

hen

)」とも呼ん だの で あ る。 そ して, 「 この意

で の 「真 理」 は, ハ ィデ ッ ガ ーも言 うよ うに 「隠 れな さ (aletheia )」で あ っ て 当 然であろうが, か か る 「一 者」 の ごとき 「真理 」 を批 判して, 「真理」に 「正 しさ」(・rth・tes)」 の 意

めて 明瞭に 確立 した人こ そ プ ラ トン で あ る と見 做 す とこ ろに最 も重 要な 力

が 置 か れ るの で な けれ ば なる まい 。 こ の 肝要な点を見 失わな け れ ば, 西欧の 思想 史に

お ける正統 説 (orthodoxy orthos +

doxa

, 正 しい 意見, 正 しい判 断 ) は, 例えば

ダ ー リ

め と

観念論

が プ ラ トン の 『

饗宴

に描 か れ るヘ ラ

(12)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 離 言 (nirabhilapya の思 想背 景 (袴谷) (

27

) クレ イ トス の

hen

)」の え方を 逆 用 して い かに 「一者」 の 「真理 」 を讃

しよ うが24), ま た, ハ イ デ ッ ガ ー が 「真理 」の 意 味の 「隠れ なさ (aletheia )」 か ら 「正 しさ (orthothes )」 う展

逆 用 して い

前者

を 原 義 で あ ると力説 しよ う が25), a − a’ )の 「真理 」を決 定的 な意 味におい て容認 した こ と は一度 もなかっ た とい うこ とに思い が廻 ら され るの で は ないか と思 う。

 

従っ て , 西 欧に お い て は, a − at 理 」 を排 し, 「正 しい 言葉だ け が真 理 で あ る」 とい

h

b

の 「真理 」観の み が正 統 説 と見 做 されて い たの で は な い と考え るが, しか し, だ か らとい っ て正統 説が必 ず

多 数

めて い た わ けで は ない 。 む しろ事実 は, か か る正 統 説 が 確立 され た 伝 統 の 中に あ っ て さ え, 大 抵 数の 上 で は 逆 に展 開す るもの なの で あ る。 そ ん な わけで ,

17

世紀の 近代の ヨ ー ロ ッ パ に お い て ,

び明

b

b

の 「真理 」観を樹立 し

したの がデ カル トで あ っ た とい え る。 彼が 「私は考え る。 そ れ ゆ えに 私 は あ る。 (

Je

 pense , 己onc  

je

suis.)」とい うこ と を 哲

の 「第一 原 理 (

le

 premier  principe) と して主 張 し た の

名だ が , それ に よ っ て彼は考え る こ とも しない 独 存 的 精

の 存 在 を主張 した

わ けで は全 くな く, 人 間の 「

質や性 質は考え る こ と に しか な い (

dont

 toute 

Pe

ssence  ou  

Ia

 nature  n’est que 

de

 penser )」 と と を 主 張 した だ け なの で ある26)。

しかも, こ の 「考え る (penser )」 と は, 「言

(parole)」 と 「理

(raison )」 とに

よ っ て正 しい 判 断 (

jugjement

) を下す こ とにほ か な らない。

っ て , 人

がその 本 質ともい うべ き 「言 葉」 と

欠落 し て しま っ た な ら, 人閭は た と え存 在 する こ とがで きた と して も もは や 人 間た る こ とを完 全に放

して しまっ た こ と に なる だ ろ う。 デ カル トが ,「言 葉」 と 「理性 」 とい うもの の 有 無に よ っ て人

と動 物を峻 別 しよ う と した27 ) も そ た め で あ る。 しか る に , 人 間が その 本

を もっ て人

と して 存 在

る よ りも以前に まず 動

と して存 在 して い る と い う 事 実に注 目す るの が大 事だ と して , 「

存は本 質に先立 っ (

L

’ existence  pr6c さ

de

 

Pe

・ ssence 28)主 張 し た が 実

主 義 (existentialisme ) だ っ た ので あ り, そ れ は デ カル トの 「

理」に

する

黙の反

だ っ たとも言 えよ う。 だ が, 戦 後の ヨ ー ッ パ 社

に おい て , 実 存 主 義の 系譜が 数の 上 で い かに猛 威 を振る っ て いた か に見え よ うとも, 西 欧 思 想 史に おける正 統説がデ カル ト的 「第 一 原理 」を 全

除 して しまっ た と は信じ難い ことで ある 従っ て 私は 「正 しい言 葉だ けが真理 で あ る」 とい う

b

b

’)の 「真理 」観は今な お健 在で ある と考えて い る の で あ り, その 「真理 」観に よれ ば, 「真理 」 と は必 ず 「言 葉 」によ る命題 と して 主 張 一

158

(13)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (

28

) 離言 (nirabhilapya の思 想背景 (袴谷) され な け れ ば な らない 。 し か も, その 命題 は 「理性」 に よ る真 偽の 判断を俟っ て

正 しい ものだ けが選 ばれ るの で なけれ ばな らぬ の で あ る。 か くして, 「理

(raison 」 とは デ カル トに よ れ ば, 「よ く判 断 し, 真な るもの を偽 な る もの か ら分 つ とこ ろ の能 力 (

la

 puissance 

de

 

bien

 

juger

 et 

distinguer

 

le

 vrai  

d

’avec  

le

faux

こ とで あるが, 私が 「批 判の 哲

」 と呼ぶ の は, か か る 「判 断

Guge

ment

juger

)」

く哲学

の こ とを指 す29)

。 もっ とも, デ カル トは, ギ リシ

ア 語 の 「批 判 (critic 。s > crin6 )」に 語形 上で よ りよ く対 応 す る 「批 判 (critique

> critiquer と ん ど い が, 彼が頻 繁に使 用 す る 「判 断 (

jUgement

juger

)」は意

上 ギ リシ ア の 「

判 (critic ・s crin6

て い ると考え

られるか ら, 私がデ カ ル ト由

の哲学 を 「批判の 哲 学」 と呼ぶ こ と は決して不 当 なこ とで は ない の であ る。

の言 う「批

」が, ともすれ ば 「

非 難

」 の よ うに誤

される こ と も

くなっ た よ うな

がするの で, 敢 えて蛇 足を加え さ せて頂い た 。

 

さて , そ ろそ ろ, 本 節の 始めに 予 告 した

dharma

の 意 味の 説明に 移 ら な け れ ば な らない が, こ こ に 至 るまで に なぜ か くも長々 と互 い に敵 対 す る 「真 理」観に つ い て述べ き たか と う と

dharma

の 意 味の 違 い は, 以 上の 二 つ の 「真理 」 観の 違 い に密 接に関わ っ て い る と私 には 思 わ れ る か ら なの で あ る。

dharma

の 原 義は, 松

本史

に よ っ て, 「保た れ る もの」 に限定 さ れ, そ の 意 味 も 「性 質 」 を第一義 と す る と規 定さ れ た が, 私 はそ の見 解に全面 的に 賛意 を表 明してお り 30) 今 もそ れ を

す必 要を全 く感じて い ない 。 従 っ て, 以 下におい て,

dharma

の意

の 違い につ い て述べ 場 合で も, 松 本 氏に よ っ て限定 され規 定 された 「保 た れ る もの」 「性 質」 とい 意 味を

ag

−一義と して考えてみ たい と思 う。

 

とこ ろで,

しが た

は,

dharma

意味

いは, こ れまで

討 して きた二 つ 「真 理 」 観違い に密 接に関 わ っ て い ると

いた。 そこ で ,

際そ れ を確認 す るため に, 先に提 示 し て きた a − at

b

b

とい う双 方の 命 題 中の 「真理 」 を

dharma

に 置 き換えてそ れ らの命題 を再 提 示 して み たい 。

   

a− a’ )

dharma

は言 葉に よ っ て 表 現で きず 言語表 現を 超 え た もの (nirabh −  

ilapya

)で あ る。   

dharma

は言葉を離れ た もの で あ る。

   

b

b

’ )

 

言 葉によ っ て 論理 的に正 し く 主 張さ れ た もの だ けが

dharma

で あ   る。    正 しい 言葉だ けが

dharma

で あ る。

 

上に示 した相 反 する二 つ の命題 中の

dharma

に対 して , こ こで , 松 本 氏によ っ て

dharma

の 原義と規定 さ れ た 「保た れる もの」「

性質

」 の意

を代 入 する と 一 一

(14)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

      

離言 nirabhilfipya 思 想 背(袴谷 )

        

29 ) す れ ば, 代 入 して も論 旨が 明瞭に成 り立 ち うるの は

b

b

命 題の側だ けで あ ろ う。 な ぜ な ら,

後者

の 「

理」 観 によ れ ば 言 葉に よ っ て 正 しく判 断 され た も の だ が 正 しい 「性

あ り, 正 しい 言葉 だけが 正 しい 「性 質 」 を指 摘す るこ と に な るが, 前

の それは, か か る 「性質」 を拒 否 して い るか らで ある

, 言 葉によ る判 断や指 摘に も誤 りは ある わけで , か かる場 合に, そ れ は 正 しか らざる 「性

」 と

ば れる。 そ して , これ が, 「性 質 」に関 して サ ン ス ク リッ ト で 極 普 通 に用 い られ る

dharma

正 し さ, 正 しい性 質)と adharma (不 正, 正 しか らざる性 質)の 意 味なの で ある。 か か る正 邪の 決 着 こ そ 仏教が 重 ん じ た 知 性 (pra ;fia , 知 慧, 般若)に ほか な らない が 仏 教の 正統 説 (orthodQxy )によ れ ば , 「知 性 と は 正 し さの 決着であ る (praifia 

dharma

・pravicayab 31」 と定 義 されて い る。 こ の よ う な 知 性で る限 り, それ は, デ カル トのい う 「理 性 (rais ・n)」 に見 合 う働き とみて

もよ い と 思 われるが, か か る 知

に よ っ て決 着 さ れ た 仏 教の 「性 質 (

dharma

)」

こ そ 「無 我 (anatma )」 や 「縁起 (pratityasamutpada

1

こ ほ か な らな かっ た の で

ある。 しか る に, 「

性質

」 が言葉 によ っ て 明確に規 定さ れ る ため に は, 主 張 命題 (pratiji議)」 が 立 て られ ね ば な ら な い が, その 代表的 主張 命題 の 一 つ が 「すべ て の 性 質は無 我で る (sarva −

dhar

・na  anatmanall 諸法無 我)32 )」 と わ れ る

っ た と言え よ う。 か く して, 仏 教は, その 当

よ り明 確な言 葉によ る命 題

く 志 向して いた と思 わ れ, 従 っ て , 言を左右 に して い か な る命題 を も拒否す る不 可 知 論を 「鰻の よ うに捉え どこ ろの ない 乱 した説 (amara −vikkhepa 」 と で 忌 避 した の で ある。 しか し, こ の 問 題 に つ い ては 別稿 33) 論じた の で こ こ で は こ れ 以 上触れ る こ と を し ない 。

 

さて , 仏 教で は, 上 述の ご と く, すべ て の 「性 質」 を 「無 我 」 であ り 「

起」 で ある と 見 做 す の で , 「概 念 (sarpjfia )」や 「主 張命題 (pratijfia)」や 「言語 的

為 (vyavahfira )」 の ほか に そ れ ら を 根 底か ら支えて い る 厂保つ 」 と しての 時 間 的永 遠の 「実 体

atmam

,我)」は一 切認 め られ ない が, 以下に, その 考え

を比 較 的よ く表わ して い ると思 わ れ る一 節を

r

阿 含 経』 (

Samyuktagama

所収

の 一3の よ り

い て おきた い 。

 

とい う わけで , 比 丘た ち よ, 実に, これ は単なる概 念 (sarpjfi 訌・m2traka )だけ (eva )

り, これ は単な る 主張 命題 (pratijfi5・matraka )だけで あり これは単なる言 語的営 為 (vyavahara −matraka だ けで あ る。 こ れ らすべ て の性 質 (

dharma

)は無常で ある し 条 件づ け られ た もの (sarpsk ta35)は 思考力 (cetana

)によ っ て投入された もの であり縁

参照

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