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今 月 の マ エ ス ト ロ ス テ フ ァ ヌ ド ゥ ネ ー ヴ 道 女 の 対 話 で 小 澤 征 爾 のアシス タントを 務 めた このとき ドゥネ ーヴは 小 澤 から 大 きな 影 響 を 受 けた と 述 べている( 翌 年 同 じプロダク ションのパリ オペラ 座 公 演 でも 小

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015

Stéphane D

enève

©Drew Farrell

山田治生

世界が注目する気鋭の指揮者

今月のマエストロ

ステファヌ・ドゥネーヴ

 近年、ステファヌ・ドゥネーヴの 活躍が目覚しい。2011 年からシュ トゥットガルト放送交響楽団の首席 指揮者を務め、2014 年からはフィ ラデルフィア管弦楽団の首席客演指 揮者を兼務している。そして、2015 年 9 月にはブリュッセル・フィルハ ーモニー管弦楽団の首席指揮者に就 任する。シュトゥットガルト放送交 響楽団とのコラボレーションは、ラ ヴェル管弦楽曲集のCDや 2013 年 の来日公演などを通して、日本でも 知られている。また、フィラデルフ ィア管弦楽団では、音楽監督のヤニ ック・ネゼ・セガンとともに、若い 2 人で新しい時代を切り拓ひらく。  ドゥネーヴは、1971 年、フラン ス北部のトゥールコワンに生まれた。 そこは作曲家のアルベール・ルーセ ルの故郷でもある。パリ国立高等音 楽院で学んだ彼は、ゲオルク・ショ ルティに才能を見出され、パリ国立 オペラ(ガルニエ宮)やロンドン・ フィルハーモニー管弦楽団で彼のア シスタントを務めた。 オーケストラから引き出す こだわりの音色  ドゥネーヴと日本との関係は比較 的早くから始まり、1998 年、サイ トウ・キネン・フェスティバル松本の プーランクの《歌劇「カルメル派修

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今月の     ヌ・ 色彩に彼独自の響きを感じた。サイ トウ・キネン・フェスティバルの《ス ペインの時》でもオーケストラの美 しい音色が魅力的であった。  ドゥネーヴは、2005 年から 2012 年までロイヤル・スコットランド・ナ ショナル管弦楽団音楽監督を務めた。 その期間、同オーケストラと積極的 に録音を進め、ルーセルの交響曲全 集やドビュッシー管弦楽曲集などを 残している。これらのディスクでも ドゥネーヴの音色へのこだわりが聴 くことができる。 初共演の楽しみどころ  今回、NHK交響楽団との初共演 に際してドゥネーヴは、彼の最も得 意とするレパートリーであるフラン ス音楽でプログラムを組んだ。特に ルーセルの《交響曲第 3 番》は彼 の勝負曲といえよう。ロイヤル・ス コットランド・ナショナル管弦楽団 と録音を残すだけでなく、フィラデ ルフィア管弦楽団、ボストン交響楽 団、フランス国立管弦楽団、バイエ ルン放送交響楽団、ベルリン・ドイ ツ交響楽団でも、この作品を取り上 げている。ルーセルの《交響曲第 3 番》は、理知的であるとともにしゃ れがきいていて、大編成でありなが ら新古典主義的で、リズミックで色 彩的な作品。ドゥネーヴの音楽性に よく合っていると思う。ドゥネーヴ は、「ルーセルの作品にはドビュッ シーともラヴェルとも違う彼独自の 響きがある」という。今回の演奏会 ではそれを聴くのが一番の楽しみで 道女の対話」》で小澤征爾のアシス タントを務めた。このとき、ドゥネ ーヴは小澤から大きな影響を受けた と述べている(翌年、同じプロダク ションのパリ・オペラ座公演でも小 澤のアシスタントを務め、一度だけ 本公演を指揮し、それが彼の本格的 なパリ・オペラ座デビューとなった)。 その後、2003 年 3 月に新日本フィ ルハーモニー交響楽団を指揮して日 本デビュー。フォーレの《レクイ エム》、R. シュトラウスの《死と変 容》などを取り上げた。2008 年 12 月には東京都交響楽団に客演し、ベ ルリオーズの《幻想交響曲》などを 指揮。2013 年4月にシュトゥット ガルト放送交響楽団と来日し、ベル リオーズ、ドビュッシー、ラヴェル、 ブラームスのなど作品を披露。同年 8 月、サイトウ・キネン・フェスティ バル松本に戻ってきて、ラヴェル の《歌劇「スペインの時」》(小澤征 爾指揮の《こどもと魔法》とのダブ ル・ビル)を指揮した。  ドゥネーヴの演奏で特に印象に残 っているのは音色へのこだわりであ る。新日本フィルハーモニー交響楽 団とのフォーレの《レクイエム》で は、ソプラノ独唱に東京少年少女合 唱隊のメンバーを起用、また、東京 都交響楽団との《幻想交響曲》では、 2 台のハープを舞台の両サイドに分 けて演奏させるなど、創意工夫に満 ちた音作りを思い出す。シュトゥッ トガルト放送響との来日公演時の 《幻想交響曲》では、彼がオーケス トラから引き出す淡いフランス的な

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 だわり、ジャズ的なフレージングに こだわる。そして、彼独自の《ボレ ロ》の響きを生み出す。N響ではど のような《ボレロ》を作り上げるの か大いに期待したい。  前述したオーケストラのほかにも、 近年、シカゴ交響楽団、クリーヴラ ンド管弦楽団、ニューヨーク・フィ ルハーモニック、ロサンゼルス・フ ィルハーモニック、ロイヤル・コン セルトヘボウ管弦楽団、チェコ・フ ィルハーモニー管弦楽団、ロンドン 交響楽団、フィルハーモニア管弦楽 団、北ドイツ放送交響楽団と共演す るなど、ステファヌ・ドゥネーヴは、 今まさに世界が注目する指揮者とな っている。得意のラヴェルとルーセ ルを並べたN響との初めての共演は、 彼の真価を聴くものとなるであろう。 (やまだ・はるお 音楽評論家) あるといってよいだろう。ラヴェル の《道化師の朝の歌》は非常に微細 なオーケストレーションが施されて いる曲なので、ドゥネーヴがどう再 現するのか、興味津々である。  演奏会の最後を締め括るのはラヴ ェルの《ボレロ》。テンポが一定で あり、転調もない曲ゆえに、指揮者 の解釈云うん々ぬんよりも、オーケストラ・ プレーヤーが個々の腕前を披露する ための作品のように思われがちだが、 実際は、テンポが一定で転調もない がゆえに、どんな響きを作り上げ、 どう聴かせるか、まさに指揮者の手 腕が問われる作品なのである。その ことをドゥネーヴがシュトゥットガ ルト放送響を相手に《ボレロ》をリ ハーサルをする映像を見て、実感し た。ドゥネーヴは、ひとつひとつの 音の長さにこだわり、レガートにこ ルト放送交響楽団首席指揮者、フィ ラデルフィア管弦楽団首席客演指揮 者を兼務。2015 年 9 月にはブリュ ッセル・フィルハーモニー管弦楽団 の首席指揮者にも就任する。2003 年、 新日本フィルハーモニー交響楽団を 指揮して日本デビュー。2013 年に はサイトウ・キネン・フェスティバル 松本で《スペインの時》を指揮。録 音には、ラヴェルやドビュッシーの 管弦楽曲集、ルーセルの交響曲全集 などがある。NHK交響楽団とは初 共演。 (山田治生)  1971 年、フランス北部のトゥー ルコワンに生まれた。1995 年、パ リ国立高等音楽院を卒業。パリ国立 オペラの《ドン・ジョヴァンニ》な どでゲオルク・ショルティのアシス タントを務めた後、1998 年には小 澤征爾のアシスタントとしてサイト ウ・キネン・フェスティバル松本に参 加。パリ国立オペラで《ボエーム》 《フィガロの結婚》などを指揮。ラ イン・ドイツ・オペラのカペルマイス ターを経て、ロイヤル・スコットラ ンド・ナショナル管弦楽団音楽監督 を務めた。現在は、シュトゥットガ プロフィール

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Tadaaki O

taka

© M ar tin R ic ha rd so n 相場ひろ

堂々としたスケール感が加わり、さらなる円熟へ 

今月のマエストロ

尾高忠明

 日本のオーケストラ・シーンの発 展に、尾高忠明ほど貢献した指揮者 はけっして多くない。東京フィルハ ーモニー交響楽団や読売日本交響楽 団、あるいは札幌交響楽団などと長 年にわたるパートナーシップを結ん で楽団の錬成に尽力したのは周知の ことと思う。また紀尾井シンフォニ エッタ東京の設立にあたって首席指 揮者に就いたり、新国立劇場オペラ 部門の芸術監督に就任したりと、若 い団体を預かってそれらの個性を開 花させる役割も多く担ってきた。  その尾高にとって最も縁の深いオ ーケストラのひとつがNHK交響楽 団であることは疑いない。彼のプロ フェッショナルな指揮活動は同楽団 の指揮研究員として始まったのだ し、その後も本格的な演奏会からテ レビの音楽番組まで、両者はさまざ まな機会を通じて共演を重ねてきた。 2010 年より尾高にNHK交響楽団 正指揮者のタイトルが与えられたこ とは、長年にわたる良好な関係を思 えば当然ともいえる。  もちろん、尾高が初めてN響を振 った 1971 年から現在に至るまでに、 両者はそれぞれに齢よわいを重ね、大きく 成長し、変化していった。N響は技 術的な洗練の度を増した上で、独墺

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 わせて、1 小節の中で、あるいはひ とつのフレーズの中で微妙に伸び縮 みし、楽譜に込められた大小の起伏 に合わせてテンポも不断に変化して いく。そうした拍やテンポの変動が、 ひとりひとりの演奏家の個性に繋が る訳だが、尾高の場合、演奏する音 楽の性格に応じて、ひとつひとつの 拍の伸び縮みを積極的に、かつ自然 な息遣いと共に振り分けていること が強く感じられる。特に歌謡性の豊 かな音楽を指揮するときの彼は、拍 やテンポの繊細な揺らぎを効果的に 用いて、旋律を悠揚と、伸びやかに 歌わせていく。その大らかで温かみ を失わない個性的なスタイルが、彼 の音楽にノーブルな香気を与えるの だ。エルガーのような、厳とした面 持ちの中に気高さと優しさを併せ持 つ音楽で尾高が聴衆の支持を得たの は、そうしたスタイルと音楽の性格 とが見事に合致するからだろう。  近年の尾高は、日本でのステージ やディスクに刻まれた海外での活躍 を聴く限り、持ち前の高貴さをベー スとしつつ、さらなる円熟へと向か っているように思える。叙情的な旋 律を感情のおもむくままに野放図に 歌うのでなしに、伸びやかさはその ままに細部によく神経を通わせてき りりと制御し、音楽を力強く構築し て凜りんとしたたたずまいを与えようと いう意思を、強く感じさせるように なってきたのだ。声高に人を圧倒す ることはないものの、以前よりも力 強さをより率直に音にして、ノーブ ルな趣に堂々としたスケール感を加 系偏重だったレパートリーを改革し、 古典から近現代音楽まで、より柔軟 な適応性をみせる楽団へと変貌した。 また尾高は海外に進出し、BBCウ ェールズ交響楽団(現BBCウェー ルズ・ナショナル管弦楽団)の首席 指揮者やメルボルン交響楽団の首席 客演指揮者を務めた他、世界各地の そうそうたるオーケストラと共演し て、その確かな腕前とセンスによっ て、高い評価を得るに至った。特に イギリスとの縁は深く、英国王室か らは大英帝国勲章を受けたり、また 近代イギリスを代表する作曲家であ るエドワード・エルガーのスペシャ リストとして英国エルガー協会から エルガー・メダルを授与されたりも している。けれどもそれぞれが別々 に大きく道を切り開いた今となって も、尾高とN響はひとたび対面する や、意思伝達の苦労や齟そ齬ごなど感じ させることなく、親密で温かい音楽 を奏でてくれるように思う。 自然な息遣いで歌わせる 高貴な音楽  尾高が作る音楽は、まず何より高 い気品を放つ。クラシック音楽の楽 譜は一般に、3 拍子や 4 拍子といっ た規則正しい拍の刻みを基礎とし て書かれている。しかし、だから といって 1 小節の中が正確に 3 つ や 4 つに分割されている訳ではない し、隣り合う小節同士が同じ長さを 持っている訳でもない。どんなに硬 く、杓しやくし子定規な指揮棒の下にあって も、音楽は演奏する者の息遣いに合

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マニノフやグラズノフの交響曲全曲 録音を完成させたことがある。それ らに聴かれるのは、作品にある野趣 ともいうべき薫りを適度に残しつつ、 居丈高になったり、迫力のみで聴き 手を圧倒しようとせずに、作品の豊 かさをじっくりと説き明かそうとす る態度である。その格調高く、同時 に親しみやすいアプローチは、ロシ ア音楽中でも特に西欧への憧れを強 く抱いた 2 人の音楽家による作品 において、大いに威力を発揮するこ とだろう。小山実稚恵と共演するチ ャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第 1 番》もさることながら、演奏会に かかることの珍しいラフマニノフの 《交響曲第 1 番》から、今の円熟し た尾高がどのような音楽を引き出し てくれるのか、興味は尽きない。 (あいば・ひろ 音楽ライター) えるようになったのが、今の尾高の スタイルといえるかもしれない。 じっくりと解き明かされる ロシア音楽に期待  こうしたスタイルが音楽との相性 のよさをみせるのは、エルガーのよ うなイギリス近代音楽ばかりではな い。武満徹など、日本の現代音楽を 振るときでも、尾高は音響の切れの よさを失うことなく、旋律の歌い口 や仕上がりの手触りに、余計な刺激 を削ぎ落とした、味わいの豊かなふ くらみを与えてくれる。今回のNH K交響楽団との共演で採り上げるチ ャイコフスキーとラフマニノフも、 彼の得意とするレパートリーだ。濃 厚な民俗的味わいをたたえたロシア 音楽と尾高のスタイルは一見相反す るようでいながら、彼はかつてラフ 年まで新国立劇場オペラ芸術監督を 歴任した。現在、NHK交響楽団 正指揮者の座にある。また海外で も広く活動し、1987 年から 1995 年 までBBCウェールズ・ナショナル 管弦楽団の首席指揮者(現桂冠指揮 者)、2010 年より 2012 年までメル ボルン交響楽団首席客演指揮者を務 めた。これまで 1991 年度サントリ ー音楽賞、2012 年有馬賞を受賞し た他、1997 年には大英勲章CBEを、 また 1999 年には英国エルガー協会 より、日本人初のエルガー・メダル を授与されている。   (相場ひろ)  1947 年生まれ。桐朋学園大学で 齋藤秀雄に師事し、NHK交響楽団 指揮研究員を経て、ウィーン国立 アカデミーでハンス・スワロフスキ ーに師事する。1974 年から 1991 年 まで東京フィルハーモニー交響楽団 常任指揮者(現桂冠指揮者)、1992 年より 1998 年まで読売日本交響楽 団常任指揮者(現名誉客演指揮者)、 1995 年より 2003 年まで紀尾井シン フォニエッタ東京のミュージカル・ アドバイザー兼首席指揮者(現桂冠 名誉指揮者)、2004 年より 2015 年 3 月まで札幌交響楽団音楽監督(現 名誉音楽監督)、2010 年より 2014 プロフィール 今月の     尾高忠明

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015

Andris Poga

©Ugo Ponte

奥田佳道

現代指揮界の寵児、登場!

今月のマエストロ

アンドリス・ポーガ

 豊ほうじよう穣な文化を育んできた北欧バル ト 3 国のひとつラトビアから、また 一人、愛すべきマエストロが名乗り を挙あげた。ボストン交響楽団の音楽 監督アンドリス・ネルソンス(1978 年生まれ)に続け、とばかりに檜ひのき舞 台に登場したのは、今年 35 歳のア ンドリス・ポーガ。ラトビア語の発 音ではプアガとなるポーガは、指揮 者としてはなるほど若い。しかし、 すでに欧米、アジア第一線のステー ジに欠かせない存在となりつつある。  N響とは 2013 年 6 月、オーチャ ード定期で顔をあわせ、ブラームス の《悲劇的序曲》、ブルッフの《ヴ ァイオリン協奏曲第 1 番》(独奏: 南 紫音)、それにチャイコフスキー の《交響曲第 4 番》を指揮。オーケ ストラに確かな手応えを与えるとと もに、客席を大いに沸かせたのだっ た。今回、満を持して N 響定期に デビューを飾る。 生まれ育ったラトビア、リガの街  ラトビアの首都リガの音楽院、オ ーケストラ、オペラハウスから羽ば たいた音楽家は、枚挙にいとまがな い。  歴史的偉人としては、昨年生誕 100 年を迎えたアルヴィート・ヤン ソンス(1914 〜 1984、マリスの父) の名を挙げておこう。現代のトッ

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今月の     ス・ トビア大学で哲学を修め、さらに 多くの若手指揮者を育てたウィー ン国立音楽大学のウロシュ・ラヨヴ ィチ教授のクラスで学んだ。スロベ ニア・フィルハーモニー管弦楽団の 指揮者としても知られるラヨヴィチ (1944 年リュブリャナ出身)は、長ら くウィーンで教えた名物教授だった。  リガのウインド・オーケストラや 室内オーケストラの音楽監督を務め つつ、同地のラトビア国立交響楽団 への客演で地歩を固めていたポーガ の名は、2010 年 5 月にフランスの モンペリエで開催されたエフゲー ニ・スヴェトラーノフ国際指揮者コ ンクールの優勝で広く知られるよう になる。優勝者ガラ・コンサートで 披露したチャイコフスキーの《交響 曲第 4 番》は、20 世紀の偉大なロ シア人指揮者の系譜を受け継ぐのは ポーガ、とまで評された。30歳だった。 各地で築いてきた信頼関係  欧米のオーケストラやマネジメン トが注目する国際コンクールに優勝 すれば、特典として多くのオーケス トラに客演するチャンスを与えられ る。しかしそれを生かすも殺すも本 人次第。相性もあるが、甘い世界で はない。浮ついたところのないポー ガは行く先々でリピーターとなった ばかりでなく、パーヴォ・ヤルヴィ とパリ管弦楽団に認められ、アシス タント・コンダクターに就任。オー ケストラとともに歩む日々が始まる。 さらにボストン交響楽団のアシスタ ント指揮者選考にも応募した。卓越 プ・アーティストとしては、72 歳に なった名匠マリス・ヤンソンス、ヴ ァイオリン芸術のフィールドを広げ た鬼才ギドン・クレーメル、愛娘を 交えてのリサイタルや室内楽にも興 じるチェロのミーシャ・マイスキー、 それに前述のネルソンスがいる。  歌い手を眺めるならば、今をと きめくカルメン歌いでもあるエリ ーナ・ガランチャに、やはり舞台映 えするソプラノのクリスティーネ・ オポライス、男声では、ヤノフスキ 指揮N響が出演した「東京・春・音楽 祭」の《ラインの黄金》《ワルキュ ーレ》でウォータンを歌ったエギル ス・シリンスもラトビアの出身である。  余談というにはスケールの大き なお話になってしまうが、バルト 海の真珠とも貴婦人とも讃えられ る首都リガには、血気盛んな時期 のリヒャルト・ワーグナー(1813 〜 1883)も滞在していた。バルト・ ドイツ商人の拠点でもあった湾岸 都市リガ。ワーグナーが 1837 年か ら 1839 年まで滞在した家跡の銘板 に は “RIHARDS VAGNERS” な る 文 字が刻まれていた。リガには「ワー グネラ通り」も由緒ある「ワーグナ ー・ホール」もある。アンドリス・ポ ーガはそんな街で育ったのだ。  リガに、たったひとつだけあった ユース・オーケストラでトランペッ トを吹いていた少年ポーガは、早く から指揮者への道を志していたよ うである。ヤーセプス・ヴィートリ ス・ラトビア音楽院でトランペット と指揮の学位を得るとともに、ラ

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 く、このように各地のオーケストラ と信頼関係を築いてきたアンドリ ス・ポーガが 2013 年秋、母国を代 表するオーケストラであるラトビア 国立交響楽団の音楽監督に就任した のは、当然の芸術的帰結だった。  2014 年 10 月、ポーガはミュンヘ ン・フィルハーモニー管弦楽団の北 京、台北公演でR. シュトラウスの 《ドン・キホーテ》《ツァラトゥスト ラはこう語った》《アルプス交響曲》 などを指揮し、賞賛の拍手に包まれ たという。同年 7 月に 84 歳で召さ れたロリン・マゼールがタクトを執 るはずの公演だった。  ホルンの申し子ラデク・バボラー クを交えたN響定期公演では、さて どんな顔を見せるか。ラフマニノフ 芸術の最後を飾る《交響的舞曲》を 携え、現代指揮界の寵ちようじ児、さあ登場 だ。(おくだ・よしみち 音楽評論家) した手腕が認められ、ボストン響の 定期公演やタングルウッド音楽祭の ステージをも彩った。  東京のステージに初めて登場した のは 2012 年 6 月、新日本フィルハ ーモニー交響楽団のパルテノン多摩 公演だった(筆者は未聴)。同フィ ルはただちにポーガの再 招しようへい聘 を決 め、2014 年 4 月にはショスタコー ヴィチの《交響曲第 13 番「バビ・ ヤール」》での共演が実現した。同 郷のバス、エギルス・シリンスの歌 ともども、客席に感銘を与える忘れ 難いライヴとなった。なお前出の 2012 年 6 月の来日時には、京都市 交響楽団の定期演奏会にデビューし、 ラトビア音楽院の入試やスヴェトラ ーノフ・コンクールの予選で指揮し たというブラームスの《交響曲第 1 番》に腕を揮ふるっている。  華やかなコンクール歴云々ではな を卒業。ラトビア大学で哲学を修め た。さらにウィーン国立音楽大学 指揮科のウロシュ・ラヨヴィチ教授 のもとで指揮を学ぶ。2010 年 5 月、 フランス・モンペリエで開催された エフゲーニ・スヴェトラーノフ国際 指揮者コンクールに優勝し、一躍そ の名を知られるようになった。2013 年 9 月、かねてから客演していたラ トビア国立交響楽団の音楽監督に就 任。なおラトビア語の発音ではポー ガではなく、プアガとなる。N響定 期公演には初登場。  (奥田佳道)  北欧ラトビア出身の若手で、すで にパリ管弦楽団、ミュンヘン・フィ ルハーモニー管弦楽団などを指揮。 ボストン交響楽団でも成功を収めて いる。2012 年以降、京都市交響楽団、 NHK交響楽団、新日本フィルハー モニー交響楽団などに招かれ、ブラ ームス、チャイコフスキー、メシア ン、ショスタコーヴィチなどで好評 を博している。存在感抜群のマエス トロだ。  1980 年生まれ。ユース・オーケス トラでの活動を経てラトビア音楽院 プロフィール

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Program

A

1811th Subscription Concert / NHK Hall6th (Sat.) June, 6:00pm 7th (Sun.) June, 3:00pm

第 1811 回 NHKホール 6/6[土]開演 6:00pm 6/7[日]開演 3:00pm

[指揮] ステファヌ・ドゥネーヴ

[conductor]

Stéphane Denève

Program

A

ラヴェル 道化師の朝の歌(8’) ラロ スペイン交響曲 ニ短調 作品 21*(34’) Ⅰ アレグロ・ノン・トロッポ Ⅱ スケルツァンド:アレグロ・モルト Ⅲ 間奏曲:アレグレット・ノン・トロッポ Ⅳ アンダンテ Ⅴ ロンド:アレグロ

Maurice Ravel (1875-1937)

Alborada del gracioso

Édouard Lalo (1823-1892)

“Symphonie espagnole”, d minor op.21

Ⅰ Allegro non troppo Ⅱ Scherzando: Allegro molto Ⅲ Intermezzo: Allegretto non troppo Ⅳ Andante Ⅴ Rondo: Allegro [violin]

Renaud Capuçon

* [ヴァイオリン] ルノー・カプソン*

Albert Roussel (1869-1937)

Symphony No.3 g minor op.42

Ⅰ Allegro vivace Ⅱ Adagio Ⅲ Vivace

Ⅳ Allegro con spirito

Maurice Ravel

Boléro

ルーセル 交響曲 第 3 番 ト短調 作品 42(24’) Ⅰ アレグロ・ヴィヴァーチェ Ⅱ アダージョ Ⅲ ヴィヴァーチェ Ⅳ アレグロ・コン・スピーリト ラヴェル ボレロ(15’) [コンサートマスター] 篠崎史紀 [concertmaster] Fuminori Shinozaki 休憩 Intermission

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015

Soloist

Renaud Capuçon

ヴァイオリン

ルノー・カプソン

にデビュー。それ以降も世界的なオ ーケストラと共演を続けている。室 内楽にも積極的で、これまでにマル タ・アルゲリッチ、ヴァディム・レー ピン、ユーリ・バシュメットなどと 共演した。録音も数多い。NHK交 響楽団とは 2004 年シャルル・デュト ワ指揮によりサン・サーンス《ヴァ イオリン協奏曲第 3 番》を、2006 年 6 月に渡邊一正指揮でメンデルス ゾーン《ヴァイオリン協奏曲》を演 奏。現在の使用楽器は 1737 年製グ ァルネリ・デル・ジェス「パネッテ」 である。(片桐卓也/音楽ライター)  フランスを代表するヴァイオリニ ストとして活躍中のルノー・カプソ ンは、1976 年ローヌ・アルプ地方の シャンベリに生まれ、14 歳でパリ 国立高等音楽院に入学。ヴァイオリ ンと室内楽でプルミエ・プリ(一等 賞)を獲得し、その後ベルリンでト ーマス・ブランディスに学んだ。故 クラウディオ・アバドから招聘され 1997 年からグスタフ・マーラー・ユ ーゲント・オーケストラのコンサー トマスターを務め、2002 年 11 月に ベルナルト・ハイティンク指揮のベ ルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ©Virgin Classics

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Program

A

ラヴェルは精神的にも肉体的にも弱 っていた。第一次世界大戦中、志願 して輸送隊の運転兵になったラヴ ェルは身体をこわして除隊になり、 1917 年には最愛の母にも死に別れ、 そのショックからなかなか立ち直れ ずにいた。そのようなラヴェルにと って、管弦楽編曲は創作活動に戻る ためのステップとなったのである。  管弦楽編曲はおおむねピアノの原 曲に忠実になされている。ピアノ版 では同音連打やグリッサンドが特徴 的だが、それらが巧みにオーケスト ラへと移されている。  作品はABA+コーダの形で書か れている。冒頭、弦楽器のピチカー トとハープによってギターの響きを 模倣したスペイン風のリズムで始ま り、続いてオーボエが主要主題を奏 し出す。中間部はファゴットの官能 的な旋律とスペイン風のリズムによ る和音のやりとりがなされる。やが て、再現部に戻り、大規模なコーダ へと進み、華々しい幕切れへと突き 進む。        (井上さつき)  近代フランス音楽の代表的な作曲 家、モーリス・ラヴェルの作品には、 ピアノ版からオーケストラ版に編曲 されたものが多いが、《道化師の朝 の歌》もそのひとつ。原曲のピア ノ版は、5 曲からなる組曲《鏡》の 第 4 曲。タイトルはスペイン語(ア ルボラーダ・デル・グラシオーソ)で 書かれている。「アルボラーダ」は スペインのガリシア地方起源のオー バード(朝の歌)の一種。「グラシ オーソ」はスペイン喜劇に登場する 道化役である。母親がバスク(フラ ンス・スペイン国境にまたがる地方) 出身のラヴェルにとって、スペイン はとりわけ愛着のある国だった。  本作はラヴェルの管弦楽編曲の中 でも特に成功している作品で、ラ ヴェルはピアノ曲を作曲する段階で、 すでにオーケストラの音色を思い浮 かべていたのではないかと思われる ほどである。  しかし実際に編曲がなされたの はピアノ曲の作曲から 13 年を経た 1918 年のことであった。この時期、

ラヴェル

道化師の朝の歌

Maurice Ravel

1875-1937

作曲年代:原曲のピアノ版の作曲は 1904 〜 1905 年。管弦楽編曲は 1918 年 初演:1919 年 5 月 17 日、パリにて、ルネ・バ トン指揮、パドルー管弦楽団 楽器編成:フルート 3(ピッコロ 1)、オーボエ 2、イングリッシュ・ホルン 1、クラリネット 2、 ファゴット 2、コントラファゴット 1、ホルン 4、トランペット 2、トロンボーン 3、テュー バ 1、ティンパニ 1、アンティーク・シンバル、 トライアングル、タンブリン、カスタネット、 小太鼓、シンバル、サスペンデッド・シンバ ル、大太鼓、シロフォン、ハープ 2、弦楽

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 ものの、そうした妙技はオーケスト ラの響きの中へ巧みに溶け込み、交 響曲のようなスケールの大きさと音 響の厚みを感じさせている。ソナタ 形式の第 1 楽章は 2/2 拍子、ニ短調 で、ティンパニの打音が印象的な冒 頭のあと、ソロがアルペッジョで登 場する。スペイン色が濃厚に感じら れる第 2 楽章は 3/8 拍子、ト長調で、 3 部形式でボレロのリズム、民俗調 の旋律などが聞こえてくる。間奏曲 と題された第 3 楽章は 2/4 拍子、イ 短調。ハバネラのリズムが効果的に 用いられているが、同楽章は初演時 には省略されていたという。全楽章 中、もっとも有名なのが第 4 楽章で はないだろうか。3/4 拍子、ニ短調で、 叙情味あふれる甘美な主題とソロの 技巧を凝らしたパッセージが聴きど ころになっている。第 5 楽章は 6/8 拍子、ニ長調。アレグロのロンド形 式。躍動するリズムによる潑はつらつ剌とし た主題を生かした華やかなフィナー レになっている。 (伊藤制子)  スペイン系フランス人の作曲家エ ドゥアール・ラロは、自身がすぐれ たヴァイオリン奏者だということも あってか、4 曲のヴァイオリンと管 弦楽のための作品を書いている。最 初のヴァイオリン協奏曲である《作 品 1》は名手サラサーテの手で初演 され、ヴァイオリン音楽でのラロの 名声を高める曲となった。1875 年 にサラサーテのソロ、コンセール・ ポピュレールの演奏会で初演され た《スペイン交響曲》は、当時から 好評を得ており、現在でもヴァイオ リン協奏曲の主要なレパートリーの 位置を占めている。なおこの曲は初 演者に献呈されている。ラロの生き た時代は芸術において異国情緒を採 り入れる手法が広く使われていたが、 スペイン風というのも中央ヨーロッ パからするとエキゾチックな魅力を もつ異国として解釈されていた。  「交響曲」というタイトルをもつ この作品は、全 5 楽章で通常の協奏 曲とは若干異なる構成となっている。 独奏は高度な技巧で耳をひきつける

ラロ

スペイン交響曲 ニ短調 作品 21

Édouard Lalo

1823-1892

作曲年代:1874 年 初演:1875 年、サラサーテのソロ、コンセー ル・ポピュレールの演奏会にて 楽器編成:フルート 2、ピッコロ 1、オーボエ 2、 クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、ト ランペット 2、トロンボーン 3、ティンパニ 1、小太鼓、トライアングル、ハープ1、弦 楽、ヴァイオリン・ソロ

(14)

Program

A

響楽団によって初演された。この演 奏会はボストン交響楽団 50 周年に あたり、ルーセル作品はその記念と して委嘱されたのである。  どの楽章も緻ち密みつなリズムの妙味と 原色の色彩感が支配している。第 1 楽章はソナタ形式。シンコペーショ ンのリズムが印象的な第 1 主題とフ ルートによる第 2 主題を軸に展開し ていく。アダージョの第 2 楽章は 3 部形式。中間部でフーガが使われ、 ルーセルの対位法的な書法への趣向 を示唆している。第 3 楽章はスケル ツォ的な楽章で、第 1 楽章にもまし てリズムに工夫が見られ、祝祭のよ うな賑にぎわいさえ醸し出している。第 4 楽章はロンド形式。金管の豊かな 響きやヴァイオリン・ソロのリリカ ルなフレーズなども効果的に使われ ている。まず木管による主題の提示 があり、以後、3 拍子、4 拍子とが 交互に登場。さらに変拍子を使うな ど工夫されたリズム造形部分を経て、 最後にはユニゾンで力強く全体がし めくくられる。     (伊藤制子)  「音楽家にならなければ水夫にな りたかった」。そう語っていたのは ドビュッシーだが、彼に続くフラン ス近代の作曲家アルベール・ルーセ ルは作曲家になる以前は海軍の軍人 だったという異色の経歴の持ち主で ある。音楽への未練も捨てきれず、 結局海軍を辞職し、パリのスコラ・ カントルムで、ヴァンサン ・ ダンデ ィに師事することになるが、やはり、 海にずっととりつかれていたのかも しれない。新婚旅行をかねて 4 か月 もの間インドなどへクルージングに 出かけ、ノルマンディーの海岸沿い の別荘で晩年を過ごすなど、海には 生涯魅了されていたようである。そ の作風は明るく華やいだ色彩感と絵 画性をもち、新古典的な明快さを備 えている。ピアノや歌曲、さらにバ レエ音楽などを残しているが、交響 曲を 4 曲書いており、生来古典的 な志向をもっていたことを窺うかがわせる。 《交響曲第 3 番》は 1929 年から翌年 にかけて作曲され、1930 年 10 月 24 日、 クーセヴィツキー指揮のボストン交

ルーセル

交響曲 第 3 番 ト短調 作品 42

Albert Roussel

1869-1937

作曲年代:1929 〜 1930 年 初演:1930 年 10 月 24 日、クーセヴィツキー 指揮、ボストン交響楽団 楽器編成:フルート 3(ピッコロ 2)、オーボ エ 2、イングリッシュ・ホルン 1、クラリネ ット 2、バス・クラリネット 1、ファゴット 2、コントラファゴット 1、ホルン 4、トラン ペット 4、トロンボーン 3、テューバ 1、ティ ンパニ 1、トライアングル、小太鼓、タンブ リン、シンバル、サスペンデッド・シンバル、 大太鼓、タムタム、チェレスタ 1、ハープ 2、 弦楽

(15)

Ph ilh arm on y Ju ne 2 015  ラヴェル自身は《ボレロ》がオー ケストラのレパートリーとして定着 するとは予期していなかったが、案 に相違して、この作品は爆発的な成 功を収め、彼の名前は津々浦々にま で知られるようになった。  ラヴェルは 1930 年 1 月、この作 品の演奏会での初演を自らの指揮で 行って以来、しばしば指揮台に立っ たが、彼の指揮はつねに厳格で、中 庸のテンポを守ったものだった。と ころが、1930 年 5 月 4 日、名指揮者 アルトゥーロ・トスカニーニがニュ ーヨーク・フィルハーモニー交響楽 団(現ニューヨーク・フィルハーモ ニック)を率いてパリ・オペラ座で 公演を行った際、《ボレロ》の演奏 を聴いたラヴェルはひどく憤慨した。 トスカニーニのテンポが速すぎ、し かもアッチェレランドしていたから である。演奏が終わり拍手喝采され る中で、トスカニーニはラヴェルに 拍手に応えるように合図したが、ラ ヴェルは頑かたくなにそれを拒否した。廊下 でふたりは言い争い、ラヴェルに怒 られたトスカニーニは「あなたは自 分の音楽がわかっていない。こう演 奏するしかないんです!」と言い返 したという。もっともその後、ラヴ ェルはトスカニーニに釈明の手紙を 送っている。  モーリス・ラヴェルの作品のなか でも、特に有名な《ボレロ》は、ロ シア生まれの名舞踏家イダ・ルビン シテインの依頼で作曲された。彼女 は元ロシア・バレエ団の一員で、自 分が主宰するバレエ団のために、ラ ヴェルにスペイン風のバレエ作品を 委嘱したのである。ラヴェルはアメ リカ旅行から帰った後、1928 年 7 月 から 10 月にかけて《ボレロ》の作 曲に取り組んだ。  その夏、ラヴェルは、サン・ジャ ン・ド・リューズで友人と泳ぎに行く 前にピアノでメロディーを 1 本指 で弾いてみせ、「この主題には何か しら執しつよう拗なものがあると思わないか い」と問い、「ぼくはこいつを全然 展開させずに何度も何度も繰り返し て、自分のできる限り、オーケスト レーションを少しずつ大きくしてい こうと思っているんだ」と述べたと いう。  初演はルビンシテインを主役とす る彼女のバレエ団によって、1928 年 11 月 22 日にパリ・オペラ座で行わ れた。舞台はスペインの小さな酒場。 若い女性が舞台で物憂げなボレロを 踊りはじめ、次第に周りの人々もそ の踊りに引き込まれ、最後には全員 が踊りに熱狂するという筋書きであ る。

ラヴェル

ボレロ

Maurice Ravel

1875-1937

(16)

Program

A

 この作品は、スペイン舞曲の一種 であるボレロのリズムに乗って、ス ペイン=アラブ風の主題が徹頭徹尾 繰り返されるという単純かつ大胆な 形式によって書かれている。主題は フルートのソロに始まり、楽器の組 み合わせをさまざまに変えながら、 しだいに厚みを増していく。  冒頭の 4 小節において、特徴ある リズム主題が小太鼓によってピアニ ッシモで奏でられ、ヴィオラとチェ ロのピチカートが拍子の重点を補強 する。このリズム主題は 340 小節か らなる全曲のなかで、169 回打ち鳴 らされ続け、他の楽器が随時そのリ ズムに加わる。このリズムから解放 されるのは最後の 2 小節だけである。 そして、和声的な土台となる「ハ 音 – ト音」が 326 小節に渡って聞か れる。第 5 小節から始まる主題はハ 長調で、全音音階的な部分(A)と より半音階的な部分(B)に分かれ る。このA・Bは、それぞれ、リズ ム主題を前奏(または間奏)として もち、音色を変えながら合計 9 回現 れる。うち 4 回はA・A・B・Bの形 式、最後はA・Bに縮められた形で 提示される。この最後のBの部分で 意外にもホ長調へ転調するが、すぐ にハ長調に戻り主和音で終わる。つ まり、《ボレロ》は一般的な意味で の主題の変奏や展開などは一切行わ れず、もっぱら音色の変化と音量の 増大に焦点が当てられており、「音 色のパッサカリア」と評されるほど 楽器法上の変化に富む作品になって いる。  なお、自筆譜を調査したラヴェ ル研究者のアービー・オレンシュタ インによれば、トライアングルとカ スタネットは当初加えられていたが、 結局、除かれたという。ラヴェルが スペイン色の濃いこの作品の楽器編 成から、あえてカスタネットを外し たことは興味深い。 (井上さつき) 作曲年代:1928 年 7 〜 10 月 初演:1928 年 11 月 22 日、パリ・オペラ座、ワ ルター・ストララム指揮、アレクサンドル・ブ ノワによる舞台装置と衣裳、ブロニスラヴァ・ ニジンスカ振付。演奏会での初演は 1930 年 1 月 11 日パリ、作曲者自身の指揮によるラムル ー管弦楽団 楽器編成:フルート 2(ピッコロ 1)、ピッコ ロ 1、オーボエ 2(オーボエ・ダモーレ 1)、イ ングリッシュ・ホルン 1、クラリネット 2(Es クラリネット 1)、バス・クラリネット 1、ソ プラノ・サクソフォン 1、テナー・サクソフォ ン 1、ファゴット 2、コントラファゴット 1、 ホルン 4、トランペット 3、ピッコロ・トラン ペット 1、トロンボーン 3、テューバ 1、ティ ンパニ 1、シンバル、タムタム、大太鼓、小 太鼓、チェレスタ 1、ハープ 1、弦楽

(17)

Ph ilh arm on y Ju ne 2 015

1813th Subscription Concert / Suntory Hall 17th (Wed.) June, 7:00pm 18th (Thu.) June, 7:00pm 第 1813 回 サントリーホール 6/17[水]開演 7:00pm 6/18[木]開演 7:00pm [指揮] 尾高忠明

[conductor]

Tadaaki Otaka

Program

B

チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第 1 番 変ロ短調 作品 23(34’) Ⅰ アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・ マエストーソ Ⅱ アンダンティーノ・センプリチェ Ⅲ アレグロ・コン・フオーコ

Peter Ilich Tchaikovsky (1840-1893)

Piano Concerto No.1 b-flat minor op.23

Ⅰ Allegro non troppo e molto maestoso Ⅱ Andantino semplice

Ⅲ Allegro con fuoco

[piano]

Michie Koyama

[concertmaster] Ryotaro Ito [ピアノ] 小山実稚恵 [コンサートマスター] 伊藤亮太郎

Sergei Rakhmaninov (1873-1943)

Symphony No.1 d minor op.13

Ⅰ Grave – Allegro ma non troppo Ⅱ Allegro animato

Ⅲ Larghetto Ⅳ Allegro con fuoco ラフマニノフ 交響曲 第 1 番 ニ短調 作品 13(50’) Ⅰ グラーヴェ―アレグロ・マ・ノン・トロッポ Ⅱ アレグロ・アニマート Ⅲ ラルゲット Ⅳ アレグロ・コン・フオーコ 休憩 Intermission

(18)

Program

B

Soloist

Michie Koyama

ピアノ

小山実稚恵

ンクールで第 3 位、1985 年ショパ ン国際ピアノ・コンクールで第 4 位 という両名門に入賞した、日本人で は唯一のピアニスト。2010 年のシ ョパン国際ピアノ・コンクールのほ か、チャイコフスキー、ロン・ティ ボー、ミュンヘンなど、名門国際コ ンクールの審査員も務めてきた。  2006 年から、バロックから近代 の作品まで多彩なプログラムで構成 された「12 年間・24 回リサイタル・ シリーズ」を開始し、現在も進行中。 東日本大震災以降、東北被災地での 演奏活動も積極的に行っている。 (青澤隆明/音楽評論家)  着実に成熟を歩み、しっかりと音 楽を物語るピアニスト。東京藝術大 学卒業、同大学院を修了。N響定 期にはオットマール・スウィトナー、 シャルル・デュトワらの指揮で、こ れまで 6 度登場。2010 年 5 月のラ フマニノフに続き今回も尾高忠明の 指揮で、チャイコフスキー《ピアノ 協奏曲第 1 番》を共演する。60 を 超える幅広い協奏曲レパートリーを もつが、近年のフェドセーエフとの 共演を含め、ロシア音楽に定評があ る名手だけに、スケールの大きな充 実した演奏が期待される。  1982 年チャイコフスキー国際コ ©Kazuo Matsuda

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 パートの書法がいささか洗練さに欠 けていたりする点が、「欠点」と捉 えられなくもないのである。実際、 「一音たりとも変えない」と言い放 った当のチャイコフスキーも、その 後 1879 年と 1888 年の 2 度にわたっ て改訂を施しており、現在演奏され るのはルビンシテインが酷評した初 版とはかなり異なっている。それで も、チャイコフスキーは少なくとも 初版ではまさに「一音たりとも変え ず」に出版した。  献呈されたビューローはこの作品 をはじめから絶賛し、チャイコフス キーのことを「現代の最も傑出した 個性の持ち主」のひとりだと評した。 そして 1875 年の秋、自身のピアノ 独奏によりアメリカのボストンに て初演。その見事な演奏のおかげも あって、ボストンの聴衆は熱狂した。 草稿の段階でこの曲を否定したルビ ンシテインも、同年のモスクワでの 初演では自らタクトを振り、その後 かつての評を撤回したのであった。  この曲はチャイコフスキーの存命 中に人気を博し、チャイコフスキ ーの名声を一躍高めることとなった。 西欧各地でも次々と演奏されたほ か、1891 年春にはカーネギー・ホー ルのこけら落としでも演奏されてい る。雄大な曲想、甘美な旋律にあふ  チャイコフスキーは、作曲家とし てロシアの音楽界に認められつつあ った 1874 年秋に初めて、ピアノ協 奏曲というジャンル関心を見せ、作 曲に取り組んだ。当初は師であるニ コライ・ルビンシテインに初演のソ リストを頼み、曲を彼に献呈するつ もりでいた。しかし、その年の末に 草稿の段階でルビンシテインに聴か せたところ、「まったく駄目な作品」 「他人の作品からの借用がある」「ピ アノのパートは演奏不能、不器用」 「私の意見に従って書き直せば演奏 しても良い」と全否定される。その 言葉に傷ついたものの、作品に自信 をもつチャイコフスキーは「いや、 一音たりとも変えずに出版する」と 応酬し、ルビンシテインへの献呈を 取り下げた。そしてピアニスト、ク リントヴォルトの助言に従い、この 作品をドイツ人ピアニスト・指揮者 のハンス・フォン・ビューローに献呈 することになった。  ルビンシテインがはじめ酷評した ことには頷うなずける点もある。第 1 楽章 の序奏が異様なまでに長く印象的で ありながら、曲全体における位置づ けが曖あいまい昧で、またメインとなるはず の第 1 楽章第 1 主題の印象が驚く ほど薄かったり、全体を通して調性 の扱いが奇異であったり、ピアノ・

チャイコフスキー

ピアノ協奏曲 第 1 番 変ロ短調 作品 23

(20)

Program

B

作曲年代:1874 〜 1875 年。1879 年、1888 年 に改訂 初演:1875 年 10 月 25 日、ハンス・フォン・ビ ューローのピアノ、ベンジャミン・ジョンソ ン・ラングの指揮、ボストンにて 楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ ット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペッ ト 2、トロンボーン 3、ティンパニ 1、弦楽、 ピアノ・ソロ れ、華麗な技巧的パッセージに満ち たピアノとオーケストラが丁々発止 のかけあいを見せるこの曲は、現在 でも古今東西のピアノ協奏曲のうち 最も人気の高い曲のひとつとして世 界各地で愛されている。 第 1 楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・ エ・モルト・マエストーソ、変則的な ソナタ形式。冒頭の勇壮なホルンの 旋律に続いてピアノが広い音域で和 音を繰り返し力強く刻んでいくな か、序奏の主題が様々に形を変えな がら奏されていく。序奏は第 1 楽章 のおよそ 1/6 をも占める長さで、こ の主題がこの曲の中心かと思わせる が、実際には序奏が終わると二度と 出てこない。この長大な序奏の後お どけた感じの第 1 主題が提示される。 これは妹の嫁ぎ先ウクライナのカメ ンカに滞在しているときにスケッチ したウクライナ民謡がもとになって いる。そして、優美で郷愁を誘う第 2 主題(A)、そしてやや明るい希望 をもった第 2 主題(B)が提示され る。展開部では、ピアノとオーケス トラが対等な関係で対話を繰り返し ながらクライマックスを築く。最後 はカデンツァを経て、雄大なコーダ で楽章を閉じる。 第 2 楽章 アンダンティーノ・センプ リチェ、3 部形式あるいはロンド形式。 弦のピチカートの上をフルートによ って柔らく奏でられる牧歌的なノク ターン風のアンダンティーノ(A) と、スケルツォ風でもありワルツ風 でもあるプレスティッシモ(B)の 2 つによる 3 部形式とされるが、ロ ンド形式とも見なされる。この B の 主題は、チャイコフスキーが若い頃 思いを寄せたベルギー出身のメゾ・ ソプラノ歌手デジレ・アルトーの愛 唱曲フランスのシャンソン《さあ、 楽しんで踊って笑わなくては》の引 用である。 第 3 楽章 アレグロ・コン・フオーコ、 ロンド形式あるいは変則的なソナタ 形式。第 1 主題はウクライナ民謡 の春の賛歌《イヴァンカ、出ておい で》によるもので、軽快に奏される。 第 2 主題は第 1 楽章の序奏の主題に 通じる曲想を持つ優美な旋律である。 これらの主題が展開される中、ピア ノが細やかに駆け巡るなど、曲想は クライマックスに向かって様々な表 情を見せていく。その後、第 2 主題 が堂々と再現され、圧倒的なスケー ル感をもって生命の賛歌を歌い上げ る。そして一気にコーダへと向かい、 絢 けん 爛 らん 豪 ごう 華かに曲が結ばれる。 (高橋健一郎)

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 訂への意欲も幾分見せていた。しか し、時が経つにつれ同曲への自信を なくし、十月革命でロシアを去る直 前には「演奏することも、スコアを 閲覧することも禁ずる」と書いてい る。その後《交響曲第 1 番》のスコ アは、ラフマニノフが亡命する際に 自宅に置いてきてしまったため行方 不明となった。再び日の目を見たの はラフマニノフの死後、1944 年に批 評家・音楽学者のアレクサンドル・オ ッソフスキーがレニングラード音楽 院の図書館でオーケストラのパート 譜を発見し、総スコアを復元した時 である。  《交響曲第 1 番》は、1945 年 10 月 17 日にモスクワ音楽院でアレクサン ドル・ガウク指揮、ソヴィエト国立 交響楽団により復演され、大成功を 収めた。また、1947 年にはソヴィエ ト国立音楽研究所より楽譜が出版さ れ、1948 年 3 月 19 日にはフィラデ ルフィア音楽アカデミーにて、ユー ジン・オーマンディ指揮、フィラデ ルフィア管弦楽団によりアメリカ初 演が果たされた。これによって同曲 の再評価が進み、今ではオーケスト ラのレパートリーとして定着してい る。  《交響曲第 1 番》初演失敗の理由 については諸説あるが、同曲が当時  1894 年 9 月、ラフマニノフは《交 響曲第 1 番》の構想を練り始め、翌 年 1 月から 10 月にかけてロシアの タンボフ県イワノフカで本格的な作 曲に取り組んだ。本作の完成には、 それまでの作曲ペースでは想像し難 いほどの長時間を要したが、師タネ ーエフからは「メロディーが萎しおれて いる」と変更を強いられ、初演のリ ハーサルに立ち会ったリムスキー・ コルサコフからは「全く理解できな い」と共感を得られなかった。そし て最大の問題は、オーケストラの指 揮を務めるグラズノフが、同曲の音 楽的意図に全く理解を示さなかった ことである。ラフマニノフは何度も 自分の要望を伝えようとしたが、グ ラズノフは聞き入れず、むしろ勝手 にスコアに手を入れるばかりだった という。ラフマニノフ自身もヴィオ ラ・パートの旋律や管楽器の編成を 変え、また第 2 楽章を部分的に削除 するなど、事態は混乱を極めた。  とうとう迎えた 1897 年 3 月 15 日 の初演。演奏は散々なもので、ラフ マニノフは途中で耐えられず会場を 後にした。ホールでは演奏直後から あちこちで悪口雑言が飛び交い、当 時の批評界の大御所ツェーザリ・キ ュイは「地獄の音楽」と酷評した。  初演失敗直後、ラフマニノフは改

ラフマニノフ

交響曲 第 1 番 ニ短調 作品 13

Sergei Rakhmaninov

1873-1943

(22)

Program

B

のロシア音楽界にとって「新し過ぎ た」という可能性が考えられる。直 接の引用ではないが、ロマの音楽、 グレゴリオ聖歌《怒りの日》、ロシ アの古いズナメニ聖歌に近似した 3 種類の旋律により、楽章間の主題が 見事に統一されている。また、第 1 楽章で提示される主題が全楽章にわ たって使われ、前楽章から次の楽章 にかけて、主題と主題の断片が次々 に変化しては新しい主題を形作って いくという構造になっている。これ により 4 つの楽章が相互に緊密に連 関し、交響曲全体の統一性を生み出 している(ツェーザリ・キュイが同 曲で不満を持ったのはまさにこの点 で、「主題の貧困さ」「意味のない同 じ短い芸当の繰り返し」と記してい る)。  第 1 楽章は、ソナタ形式。冒頭の アウフタクトによる転回ターン(一 種の装飾音)で荘厳に序奏が始ま り、グレゴリオ聖歌の《怒りの日》 を思わせる主題が続く。その後アレ グロ・マ・ノン・トロッポに移り、第 2 主題では増 2 度音程のロマの音楽の 音階による魅力的な旋律がヴァイオ リンで奏でられる。第 2 楽章は、幻 想的なスケルツォによるロンド形式。 短い旋律の主題が特徴的で、時とし てその反転形も不意に聴かれる。中 間部では、第 1 楽章の冒頭の動機に 続き、ヴァイオリン独奏のもとロマ の音楽のような雰囲気を醸し出す旋 律が奏でられる。第 3 楽章は、落ち 着いた叙情的な 3 部形式。クラリネ ットが柔和な主要主題を奏で、オー ボエ、フルート、第 1 ヴァイオリン へと引き継がれていく。中間部では 弱音器をつけたホルンによって陰いんうつ鬱 な和声が刻まれ、そこに弦楽器が絡 み、荒々しく展開していく。第 4 楽 章は、複合 3 部形式。やはり転回 ターンによって切り出され、破滅的 な運命観が描かれる。行進的なリズ ムの金管楽器が《怒りの日》による 主題を奏で、その後ヴァイオリンの もとで活気に満ちたパッセージとな る。中間部は第 2 楽章および第 3 楽 章に基づいており、低弦楽器による アレグロ・モッソでは興味深いシン コペーションのリズムが際立つ。そ の後の再現部では主要主題が回帰 し、ダイナミックなオーケストラの 激情と共にクライマックスへと突入 する。コーダの後で銅ど鑼らが鳴り響き、 終結部では転回ターンによる装飾が 施された旋律が弦のもとでゆっくり と、しかし執しつよう拗に奏でられ、金管楽 器、打楽器によってさらに強調され ていく。 (神竹喜重子) 作曲年代:1895 年 1 〜 10 月 初演:1897 年 3 月 15 日、アレクサンドル・グ ラズノフ指揮、ペテルブルクにて 楽器編成:フルート 3(ピッコロ 1)、オーボ エ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 3、トロンボーン 3、テュー バ 1、ティンパニ 1、大太鼓、小太鼓、シン バル、サスペンデッド・シンバル、トライア ングル、タンブリン、タムタム、弦楽

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015

1812th Subscription Concert / NHK Hall 12th (Fri.) June, 7:00pm 13th (Sat.) June, 3:00pm 第 1812 回 NHKホール 6/12[金]開演 7:00pm 6/13[土]開演 3:00pm [指揮] アンドリス・ポーガ

[conductor]

Andris Poga

Program

C

モーツァルト 交響曲 第 1 番 変ホ長調 K.16(13’) Ⅰ モルト・アレグロ Ⅱ アンダンテ Ⅲ プレスト モーツァルト ホルン協奏曲 第 1 番 ニ長調 K.412 (レヴィン補筆完成版)(9’) Ⅰ アレグロ Ⅱ ロンド:アレグロ R. シュトラウス ホルン協奏曲 第 1 番 変ホ長調 作品 11(17’) Ⅰ アレグロ Ⅱ アンダンテ Ⅲ ロンド:アレグロ

Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)

Symphony No.1 E-flat major K.16

Ⅰ Molto allegro Ⅱ Andante Ⅲ Presto

Wolfgang Amadeus Mozart

Horn Concerto No.1 D major K.412

(Completed by Robert Levin)

Ⅰ Allegro Ⅱ Rondo: Allegro

Richard Strauss (1864-1949)

Horn Concerto No.1 E-flat major op.11

Ⅰ Allegro Ⅱ Andante Ⅲ Rondo: Allegro [horn]

Radek Baborák

[concertmaster] Ryotaro Ito [ホルン] ラデク・バボラーク [コンサートマスター] 伊藤亮太郎

Sergei Rakhmaninov (1873-1943)

Symphonic Dances op.45

Ⅰ Non allegro

Ⅱ Andante con moto (Tempo di valse) Ⅲ Lento assai – Allegro vivace ラフマニノフ 交響的舞曲 作品 45(35’) Ⅰ ノン・アレグロ Ⅱ アンダンテ・コン・モート (テンポ・ディ・ヴァルス) Ⅲ レント・アッサイ ―アレグロ・ヴィヴァーチェ 休憩 Intermission

(24)

Program

C

Soloist

Radek Baborák

ホルン

ラデク・バボラーク

ら創設したチェコ・シンフォニエッ タなどで指揮者としても活動。日本 でも、2013 年水戸室内管弦楽団定 期演奏会にデビューし、楽員と聴衆 から絶大な支持を集めた。N響では、 2012 年 6 月定期でアシュケナージ 指揮のもとグリエール《ホルン協奏 曲》を演奏し、「最も心に残ったソ リスト 2012」で第 1 位を獲得。以 来 2 度目の登場となる今回も、協奏 曲を 2 曲聴かせる点と相まって、期 待は大きい。 (柴田克彦/音楽評論家)  美しく柔らかな音色、完璧な技 巧、豊かな表現力でホルンの究極 の魅力を伝える、歴史的な名奏者。 1976 年チェコに生まれ、プラハ音 楽院で学ぶ。1994 年ミュンヘン国 際コンクールで優勝。チェコ・フィ ルハーモニー管弦楽団、ミュンヘ ン・フィルハーモニー管弦楽団、バ ンベルク交響楽団、ベルリン・フィ ルハーモニー管弦楽団のソロ奏者を 歴任し、ソロ活動も活発に展開。ア フラートゥス・クインテットをはじ め、室内楽にも力を注ぐ。2009 年 12 月ベルリン・フィル退団後は、自

(25)

Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 ほとんどが忘れられている。このこ とひとつとっても、「交響曲」につ いての当時の彼の理解が私たちとは 大きく異なることが想像できよう。  彼の交響曲に詳しいニール・ザス ラウの言葉を引くまでもなく、当時 の交響曲は後世の室内楽に近く、比 較的小さな編成だったし、モーツ ァルトは《プラハ交響曲》(K.504、 1786 年)より前の作品では、基本 的にリハーサル 1 回で演奏できる難 易度の音楽を書いていた。つまり作 曲者の技量や習熟とは別の、実演上 の都合で、簡素な書法になっていた (だからこそ、彼がそうした条件か ら自由になって書き始めた最後の数 曲の発展は驚異的である)。  前述の J.C. バッハやアーベルの交 響曲をモデルに、モーツァルトはロ ンドンの最新音楽をきちんと把握し てこの作品をまとめた。そこには 8 歳の少年の傑出した(というより末 恐ろしい)才能が証されている。 第 1 楽章 モルト・アレグロ 変ホ長調 4/4 拍子。ソナタ形式。第 2 楽章 ア ンダンテ ハ短調 2/4 拍子。2 部形式。 第 3 楽章 プレスト 変ホ長調 3/8 拍子。 ロンド形式。     (小岩信治)  《第 41 番「ジュピター」》などモ ーツァルトの後の交響曲や、ベート ーヴェン以降のこのジャンルの大作 を知っている現代人にとって、15 分 前後のこの曲は交響曲の名にそぐわ ないように感じられる。急速楽章 (モルト・アレグロ)から緩やかな第 2 楽章(アンダンテ)に続くことは のちの規範と基本的に同じだが、そ のあと舞曲風、この場合ジーグ風の 短い楽章(プレスト)で全曲が終わ る。メヌエットやスケルツォから重 厚な終楽章へ、という流れを期待し ていると、あっけない幕切れである。 あのモーツァルトも最初はこんな曲 しか書けなかったのね。そんな感想 を抱くかもしれない。それではこの 曲は、後の「成熟した」交響曲への 準備段階に過ぎないのだろうか。  ウォルフガング・アマデウス・モー ツァルトはこの曲の作曲までにパリ、 そしてロンドンで大量の交響曲に接 していた(1763 〜 1766年、西方大旅 行)。ロンドンではヨハン・クリステ ィアン・バッハ(1735 〜 1782)、カ ール・フリードリヒ・アーベル(1723 〜 1787)らが活躍していた。当時こ れらの都市で響いた交響曲は、今日、

モーツァルト

交響曲 第 1 番 変ホ長調 K.16

作曲年代:1764 年末 初演:不明(1765 年?) 楽器編成:オーボエ 2、ホルン 2、弦楽

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Program

C

ァルトの未完の総譜に基づいたロン ド楽章の補筆完成版を作成した(楽 譜出版は 2013 年)。ジュースマイヤ ーによる版は、モーツァルトの総譜 とは無関係に成立したとみられ、オ ーケストラの扱いが劣るほか、楽曲 構成も若干異なっている。レヴィン 版はその点、作曲者本来の意図によ り近いものといえるのである。  モーツァルトは、他の 3 つのホル ン協奏曲と同様、友人のホルン奏者 ロイトゲープ(1732 〜 1811)のた めにこの曲を手がけた(ロンド楽章 の独奏パートには、友人をからかう 言葉も添えている)。その際、60 歳 近い年齢を配慮し、これまでより簡 潔で平易な曲作りを心がけたようで ある。その結果、とりわけ親しみや すさが魅力をなすホルン協奏曲が、 我々に残されることとなったのであ る。 第 1 楽章 アレグロ ニ長調 4/4 拍子。 第 2 楽章 ロンド:アレグロ ニ長調 6/8 拍子。 (松田 聡)  モーツァルトの《ホルン協奏曲第 1 番》 の 成 立 年 代 は、 従 来、1782 年とされてきたが、再発見された自 筆譜の研究により、近年は 1791 年 と考えられるようになった。4 曲あ るホルン協奏曲の中で、作曲家が亡 くなった年に手がけられた、最後の 作品ということになる。しかも、未 完成作品である。第 1 楽章は仕上げ られたものの、ロンド楽章の総譜は オーケストラ伴奏が書きかけであり、 緩徐楽章を中間楽章に置く予定だっ たとしても手付かずのまま、モーツ ァルトは世を去ったのだった。  しかし、その後、弟子のジュース マイヤーが、モーツァルトの残した スケッチをもとに、新たにロンド楽 章を書き上げたため、事態が錯さくそう綜し てくる。これがモーツァルト自身に よる完成版とみなされ、それを第 2 楽章とする《第 1 番》が広く演奏さ れるようになったのである。  この曲の正確な成立事情が明らか になったのは 1980 年代のこと。そ の後、アメリカのピアニスト・音楽 学者ロバート・レヴィンは、モーツ

モーツァルト

ホルン協奏曲 第 1 番 ニ長調 K.412

(レヴィン補筆完成版)

Wolfgang Amadeus Mozart

1756-1791

作曲年代:1791 年 初演:不明

楽器編成:オーボエ 2、ファゴット 2、弦楽、 ホルン・ソロ

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Ph ilh arm on y Ju ne 2 015 めていた、ということだろう。  3 つの楽章を途切れずに演奏する というアイディアは、おそらくはメ ンデルスゾーンの《ヴァイオリン協 奏曲》、あるいはシューマンの《交 響曲第 4 番》から想を得たものだろ う。3 つの楽章をソナタ形式の提示 部(第 1 楽章)、展開部(第 2 楽章)、 再現部(第 3 楽章)と捉えることも 可能で、シュトラウスがごく若い頃 から、多楽章形式の曲を単一楽章形 式のなかで捉える志向を持っていた ことが窺うかがえる。この時期、その闊かつたつ達 な音楽にはまだ後年に特徴的なワー グナーからの影響は見られないが、 1890 年代に作曲した交響詩とは確か な道で繋つながっている。この曲は変ホ 長調で書かれているが、独奏ホルン のパートはF管(へ音)で書かれて おり、ナチュラル・ホルンではなく、 ヴァルヴを備えたホルンでの演奏が 念頭に置かれていたことを窺わせる。 第 3 楽章冒頭、細かく駆け回るロン ド主題などは、まさに次世代の楽器 による演奏を見据えた楽節ではなか ったか。        (広瀬大介)  リヒャルト・シュトラウスが、「ホ ルンのヨアヒム」とまで呼ばれた名 手であった父親フランツの楽器を用 いた協奏曲をはじめて完成させたの は、1883 年、ようやくティーンエ イジャーを脱しようかという頃であ った。同年にはみずからピアノ・ス コアを作り、父親のお気に入りの弟 子であったブルーノ・ホイヤーとの 演奏で、ミュンヘンでの初演を果た している。その後、マイニンゲンの ソロ・ホルン奏者、グスタフ・ライン ホスがどうしてもこの作品の初演を したい、と頼み込み、1885 年 3 月 に、そのマイニンゲンのオーケスト ラ、ハンス・フォン・ビューローの指 揮によって同地での初演が実現した。  ビューロー自身はこの曲に対して ほとんど感銘を受けなかった。と りわけ、その旋律が貧相であると見 なした、というのは意外ではあるが、 この 2 か月後、ビューローはマイニ ンゲンの公爵に対し、若きシュトラ ウスを同オーケストラのカペルマイ スターに推薦する。曲の真価とシュ トラウスの音楽的能力はきちんと認

R.シュトラウス

ホルン協奏曲 第 1 番 変ホ長調 作品 11

Richard Strauss

1864-1949

作曲年代:1882 〜 1883 年 初演:1885 年 3 月 4 日、マイニンゲン宮廷劇 場、ホルン独奏グスタフ・ラインホス、指揮ハ ンス・フォン・ビューロー 楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネ ット 2、ファゴット 2、ホルン 2、トランペッ ト 2、ティンパニ 1、弦楽、ホルン・ソロ

参照

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