美的仮象と遊戯の国
──フリードリヒ・シラーの『人間の美的教育についての 一連の書簡』第26書簡と第27書簡について
田口 博子
緒言
ハンス=ゲオルク・ガダマー(Hans-GeorgGadamer)は『真理と 方法』で遊びの概念について論究している。遊びは文化人類学や教育 学、そして精神分析学の主要なテーマである。しかしながら、美学に おいても重要な役割を演じてきた。このテーマをガダマーが選んだの は、近代の美学と人間学に支配的なある潮流に異を唱えるためであっ た。その潮流とは、「芸術の経験との関連で遊びについて語る場合」に
「主観的意味」を強調することである1。この流れの源はカントに辿る ことができ、それを決定づけたのはシラーであるという。「a美的教育 への疑念」の項ではシラーの『人間の美的教育についての一連の書簡』
(文中では『美的教育書簡』と略す)について言及され、カントからシ ラーへの主観化の流れは以下のように解説される。
彼(シラー)は趣味に関する超越論的な思考を道徳的要請に転換 し、「汝、美的にふるまうべし」という命法として定式化してい る。カントが徹底的な主観化によって趣味判断とその普遍妥当性 への要請を超越論的に正当化したのに対し、シラーは美学に関す る著作において、この徹底的な主観化を方法論的前提から内容的 前提へと変化させたのである2。
ただし、シラーの主張はフィヒテに依拠しているとガダマーは指摘 する。
カントは認識能力の自由な戯れによって趣味と天才のアプリオリ を基礎づけたが、シラーはこの認識能力の自由な戯れを、フィヒ テの意欲説(Trieblehre)に基づいて人間学的に理解した。形式 意欲と素材意欲との調和は遊戯衝動によってもたらされるのであ り、この衝動の陶冶こそ美的教育の目的であるというのである3。
シラーの見解は、後世の芸術解釈に影響を及ぼす。それ以降、芸術 は「美的仮象」として「日常的現実」に対置され、仮象と現実という 対立のもとで理解されるようになる。ガダマーによれば、古から芸術 は自然と対置されたが、双方の関連は相互補完的であり、「〈芸術〉も また現実を完成する活動のひとつ」であった。しかしながら、現実と 仮象の対立により芸術が規定されると、芸術は独自の領域を有するよ うになり、そこでの「自律的な支配権」を要求するようになる。他方、
「自然という包括的な枠組み」は破壊されるに至る4。
芸術が支配する領域では美の法則が統べ、現実の限界を超える。そ こは「国家や社会による道徳主義的な監督」に縛られない「理想の王 国」である。この理想の王国を範として、「芸術によって用意されるべ き真の道徳的で政治的な自由」を現実の世界で実現化させる。『美的教 育書簡』の当初の意図はそこにあったのだが、筆を進めるうちに「芸 術による教育は芸術への教育」に変質してしまった。すなわち「美的 国家」の形成は「芸術に関心を抱く教養社会の形成」にしか過ぎなく なってしまったとガダマーは論じている5。
本稿では『美的教育書簡』第26書簡と第27書簡を中心に、フリード リヒ・シラー(JohannChristophFriedrichSchiller,1759-1805)の「美
的仮象」と「美的国家」には相互主観性と共同体形成の契機が果たし て見受けられないのかを確認したい6。
Ⅰ 美的仮象をめぐって
1 「美」の萌芽の展開
第26書簡では「美的仮象」(derästhetischeSchein)に取り組む前 に、人間は「美」をどのようにして見出したのかという問題が歴史哲 学的に解説される。まず、第23書簡から第25書簡で取り扱われた「美 的気分」(dieästhetischeStimmung)の起源が語られる。美的気分は
「自然からの贈り物」であり、「……偶然に与えられた恩寵のみ、自然 的状態という枷を解き放ち、野生人を美へと導くことができるのです」
(NA20 398)。ここではその経緯を説明した箇所を引用したい。
美の萌芽は、以下のようなところではいわばほとんど育つことは ないのです。そこでは自然が乏しくて人間からすべての生気を奪っ てしまう。そして〔それとは反対に〕自然があまりに豊かで気前 良く、自ら行わなければならない努力を人間から免除してしまう ところ。つまり、〔豊かさに慣れて〕鈍った感性が何ら欲求を感じ ないところ。そして、激しい欲望が飽くことを知らないところ
(Ibid.)。
環境が劣悪で生存が脅かされることもなく、逆に恵まれ過ぎて感性が 鈍ることもない。つまり〈ほどよい〉自然環境のもとで美の萌芽は育 つ。
次に、個人と集団の関連において対照的な例を挙げながら、「人間 性」(Menschheit)が美の展開の鍵となることが述べられる。
洞穴の住居者0 0 0 0 0 0のように洞窟に自らを隠して、永遠に変わらずひと りひとりであり、人間性を自らの外0 0 0 0に見つけることができないと ころ。また、遊牧民族0 0 0 0のように大群で移動して、永遠に変わらず
〔集団を構成する〕たんなる多数であり、人間性を自らの裡0 0 0 0に見出 すことのできないところ。このようなところでは、萌芽を育でる ことはできないのです。人間が自分の小屋に静かに住まい自己と 対峙し、そこから立ち居出るやいなや、全種族とともに語る。そ のような場合でのみ、美の愛らしい蕾が花開くのです(Ibid.)。
太古の民族は危険から身を守るために、時代が下って隠修士たちは 瞑想するために穴居に住まう7。いずれにせよ他者との交流は密ではな い。他方、部族で移動しつつ牧畜を行う民が自己を顧みる時間を持つ ことは難しい。「人間性」を他者のみならず、自己を客観視して自己の 裡にも見出すことができるような環境のもとではじめて美が見いださ れる。この箇所には美の相互主観的な性格とともに、美の成立と自己 の確立に深い関連があることが示唆されている8。
このような環境では感覚器官が無理なく働き、対象はたんなる「質 料」として扱われることはない。そして素材のなかに「形式」が見出 される。相反する「活動」と「享受」、「生命」と「秩序」が並び立ち、
「……そのようなところでは構想力が現実から永遠に逃れているにもか かわらず、自然の単純さ〔という道〕から決して踏み外すことはない のです。ここでのみ、感覚と精神、感受する力と形成する力は幸福な バランスで発展するでしょう。このバランスは、美の魂であり、人間 性の条件なのです」(NA20 398f.)9。ここでは第22書簡で展開された、
美あるいは「美的状態」の中間的な性格がよく示されている10。 さまざまな民族の歴史を辿ると、共通して「人間性へと一歩踏み出 したことを告げ知らせる」ある現象が見受けられる。それは「仮象0 0へ
の喜び、装飾0 0と遊び0 0への傾向性(dieFreudeamSchein,dieNeigung zumPutzundzumSpiele)」である(NA20 399)。後者は第27書簡で 詳説されるので、ここでは「仮象への喜び」について取り扱う。「実在 性への欲求と現実的なものへの依存(dasBedürfnißderRealitätund dieAnhänglichkeitandasWirkliche)」(Ibid.)は仮象への感受性の欠 如をあらわす。逆に「……実在性への無関心と仮象への関心は人間性 の真の意味での拡大であり、陶冶(Kultur)への決定的な一歩なので す」(Ibid.)。
この状態は人間が「外的な自由」とともに「内的な自由」を有する に至ったことを証している。美の萌芽が生育する環境と同じく、窮乏 したり、欲求が押し寄せたりする場合、「構想力(Einbildungskraft)
はきつい枷をはめられて現実的なものへと結びつけられている」11。前 者が叶えられ、現実的なものという外的要因の強制から自由になるこ とによって、「構想力はその能力を拘束されずに発展するのです」
(Ibid.)。それは、「内的な自由」をも証する。「……なぜならば、この ことはわれわれが〔自分たちの〕外側にある質料から独立して、自ら を自らによって動かし、〔自らに〕押し寄せてくる質料を自分から離し ておくエネルギーを十分に有する力を見せてくれるからです」(Ibid.)。
質料に依存しないことは受動的な態度から能動的な態度への転換にも 関連する。「事物の実在性は、その(事物の)産物です。〔それに対し て〕事物の仮象は人間の産物なのです。そして、仮象を楽しむ心情は、
受け取るものを面白がることをもはやしないのです。そうではなく、
気持ちが能動的に行うことを面白がるのです」(Ibid.)。
2 真理との関連
2 - 1 論理的仮象と真理からの区別
後に説明するように「美的仮象」には謂れのない不信の眼差しが向 けられている。この状況を改め、正当に評価されることをシラーは目 指す。かれによれば、美的仮象は現実と真理から区別されるものであ り、自らを真理であると称することは決してない。それに対置される のが「論理的仮象」(derlogische[Schein])である。後者はたんに
「欺瞞」である。その理由は、「真理が損なわれる唯一の方法」である
「仮象を真理であるとしてしまう危険」を冒すからである。そして「た だ最初の仮象〔美的仮象〕だけが遊戯なのです」と主張される(NA 20 399f.)。
「知性」(Verstand)は実在性を熱心に追求する余り、それに基づか ない美的仮象を排除してしまうことがある。その裏には、仮象として 類縁である論理的仮象が真理を僭称することが思い起こされているこ とをシラーは指摘する。「最初に挙げたような仮象を軽蔑すること。そ れはあらゆる芸術を軽蔑することなのです。芸術の本質とは仮象なの ですから」(NA20 400)。このように芸術の本質を仮象と遊戯に求め る点がシラーの芸術解釈の大きな特徴である。
2 - 2 仮象の成立に対する身体的な条件
仮象を成立させる身体的な条件として、視覚と聴覚という感官の特 徴にシラーは注目する。触覚、嗅覚、味覚といった感覚器官は対象(素 材)に直に触れ、その「力」(Gewalt)を直接に被る。それに対して 視覚と聴覚において目と耳は、素材と距離を置き、その対象は「われ われが生み出した形式」である。いわゆる「未開人」12の段階では、「仮 象の諸感官」(視覚・聴覚)は他の「動物的な」感官に奉仕している。
「人間が瞳で享受をし始め、見ることがかれにとって独立した価値に至 るや否や、人間はすでに美的に自由であり、遊戯衝動が発展するので す」(Ibid.)。直接的なものから間接的なものへ、素材から形式へとい う流れの抽象化が進むほど仮象の成立に近づく。
この段落の冒頭部分はこのように始まっている。「人間を実在性から 仮象へと上昇させたのは自然自身なのです。それは、人間に二つの感 官という装備を施し、仮象を通して人間を現実的なものへの認識へと 導いたのです」(Ibid.)。次項でも自然と美的仮象の関連を取り扱うが、
自然は美的仮象を生み出す苗床であり、この関連をシラーはつねに意 識していたことを指摘しておきたい。
2 - 3 仮象の世界
美的仮象が真理や現実を侵害することがないのは、結界をつくり自 らの作用を及ぼすことができる領域を限定するというその特性にも因 る。現実に存在するものは「〔自らとは〕異なる力としての自然」に由 来するが、仮象は「表象する主体としての人間」に由来する(NA20 401)。
それゆえ、自然が分離しているものを関連付けて考えたり、逆に自然 が結び付けているものを分析して考えたりすることもできる。「人間が 境界に注目するようになりさえすれば。境界を設定して、事物がそこ にあること、すなわち自然の領域から自らの0 0 0領域を区分するようにな りさえすれば、そこでは自らの法則だけが聖なるものであることが許 されるのです」(Ibid.)13。つまり「仮象という技術0 0 0 0 0 0 0において(inder Kunst des Scheins)」、人間は自らの法則が支配する領域を創り上げる。
「より厳しく人間がここで我のものと汝のものを区別すればするほど」
─これは主体と客体、主観と客観を明確に区分できるようになること を意味していると推測されるが─、存在者から形態をより入念に分離 すればするほど、「形態により独立性を与える術を知っていればいるほ
ど」、美の領域を拡張するだけでなく、「真理の境界自身を保持するこ とができる」(Ibid.)。「仮象の世界0 0 0 0 0、すなわち構想力が働く実在性なき 領域でのみ」、理論を構築する際には「実在について語ることを誠実に 差し控えるかぎり」、実践に際しては「実在を与えること」、すなわち 現実に影響を与えることを諦めるかぎり、人間はこの領域での至上権 を行使できる(Ibid.)14。
3 実在性との関連
実在性との関連において美的仮象は以下のように規定される。
正直で0 0 0ある(実在性に対するあらゆる要求をはっきりと手放す)
限りでのみ、そして独立して0 0 0 0 いる(実在性のあらゆる助力無しに すませる)限りでのみ、仮象は美的なのです。偽りであり、実在 性を装うかぎり、そして不純であり、自らのはたらきのために実 在性を必要とする限り、仮象は物質的な諸目的〔を達成する〕た めの卑小な道具に他ならず、精神の自由のためには何一つ証する ことができないのです(NA20 402)。
美的仮象は実在性に依存しないことが前提とされる。しかしながら、
人間がそこに美を見出す対象自体は実在性を有していても一向にかま わない。むしろ対象の実在性の有無にこだわる場合、それは美的な判 断とは言えない。ただし生きているもののなかに「純粋な仮象」を感 じ取ることは、芸術作品に美的仮象を見て取ることに比して「より高 次な程度の美的陶冶」を必要とする。個人のみならず共同体も、美的 仮象を見出すことのできる段階に至ると「現実の生活に対して理想、
所有に対して名誉、享楽に対して思考、存在に対して不死の夢」を重
んじるようになる。この段階にある共同体では「オリーブの冠が紫衣 よりも敬われるでしょう」(Ibid.)。すなわち、紫衣を纏う為政者や聖 職者よりも、オリーブの冠を頂く詩人の声が傾聴されるようになり、
それが「公の声」(dieöffentlicheStimme)に近いものとなる。
個人と共同体の双方とも、仮象を通して実在性に援助を与えようと する場合は、「かれらの道徳的な無価値さ」、実在性を通して美的仮象 に援助を与えようとする場合は「かれらの美的な無能力さ」を露呈し てしまう(NA20 402f.)。どの程度まで仮象は道徳界において存在す ることができるのかという問いに対して、「それが美的仮象であるかぎ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 り0。すなわち、実在性の代りを務めるつもりがないか、あるいは実在 性によって代理される必要がない仮象であるかぎり」(NA20 403)と 答えている。
ところが、「厳格な道徳の裁判官」は仮象を重要視しようとする時代 の趨勢を激しく非難する。それに対して、かれらの非難は不当である とシラーは反論する。かれらは「真理を隠したり、現実を代表すると 僭称したりする偽りの仮装」のみならず、「空虚さを充たし、貧しさを 覆う善き仮象、また卑小な現実を高貴なものにする理想的な仮象」を も無差別に攻撃している(Ibid.)。かれらはまた交際における「礼儀作 法」(Höflichkeit)も道徳から外れたものと見なす。それは、礼儀作法 に適うか否かばかりが取り沙汰されて、「真の功績」が等閑にされてい るとかれらが感じているからである。さらに、「仮象が功績にも求めら れ、内的実質も心地よい形式から免れることができない」ことが癪に 障るからである(NA20 404)。かつては「心がこもったこと、核心を ついたこと、そして実直なこと」が存在したが、現在では失われてし まった。このような嘆きから、「最初期の習俗のぎこちなさや粗野さ、
古い形式の無骨さ、かつてのゴシック様式の過剰さ」15を現在に復活さ せたいと願う。このような判断からは、かれらが「質料自体に対して 0 0 0 0 0 0 0 0
敬意を表していること」が推測される。「……この敬意は人間性にはふ さわしくないのです。むしろ、形態にたいして素材を受け入れ、理念 の領域を広めることができるかぎりにおいてのみ、人間性は質料的な ものを評価すべきなのです」(Ibid.)。
先に挙げた非難が流布しているということは、われわれはいまここ に存在するものと現象を区別して、美的仮象を「純粋な仮象」に押し 上げることに失敗している。つまり現状では美的仮象は充分には承認 されていないとシラーは判定している。
Ⅱ 仮象と遊戯の国
第26書簡の中心テーマであった美的仮象についての「高次の概念」
は現在の段階ではまだ濫用されていて、このことが真理と実在性を脅 かす。それを回避するには、この概念を普遍的にすべく人間を陶冶し なければならないとシラーは説く(NA20 404)。第27書簡の前半部分 では、いかにして人間は美的仮象に辿り着いたのかが、「余剰」あるい は「遊戯」というキーワードをもとに分析される。後半部分では理想 の共同体とはいかなるものであるかが語られる。まず、美的仮象への 到達過程の特徴を明らかにしたい。
1 余剰から遊びへ
1 - 1 美的仮象の獲得の過程
「独立した仮象」すなわち美的仮象に至るには、実在性に限定された 段階を越えて行かなければならない。ただ「現実への道」を省いて理 想への道を歩みたいと思うのは心得違いも甚だしい16。この道を進む には「抽象化の能力」、「心の自由」、「意志のエネルギー」が必要であ る(NA20 404f.)。これまでの歴史を振り返ると、質料的なものに縛
られていたので、「……理想の芸術において仮象に固有の人格性を認め るまで、人間は久しくこの仮象を単に自らの諸目的に奉仕させていた のです。後者〔仮象に固有の人格性を認めること〕のためには、自ら の感受の方法すべてにおける全面的な革命が必要なのです。この手の 革命を起こさなければ、人間は理想への道の途上にいる0 0 0 0 0 0 0とさえ言えな いでしょう」(NA20 405)。固有の人格性を有するとはここでは仮象 が自己目的を持つことを指す17。「質料」よりも「形態」を優先し、「純 粋な仮象を、無関心で自由に評価するという痕跡」には、「人間本性の かくのごとき変革と人間性の本来的な端緒」を見出すことができる
(Ibid.)。
自然本性を充たし、「必要」(Bedürfniß)が促すものに飽き足らず、
人間はやがて余剰を求めるようになる。まず「素材0 0 〔自体〕の過剰」、
それから「素材にかんする余剰0 0 0 0 0 0 0 0 0、つまり美的な付加」(Ibid.)。前者は 将来に備えて素材を蓄え、想像のなかでそれを享受することにより「現 在という瞬間」を超えるが、「時間」そのものの枠を超えることはな い。それに対して後者は享受する際に「形態」を意識して、「自らの欲 求を満足させる対象の諸形式」に注目するようになる。するとその対 象自体を離れて、〈いま(時間)、ここ(空間)〉を超えて享受すること になる。
自らの生命と自然本性を維持するための欲求を満たすだけにとどま らず、人間は余剰を求めるようになる。この箇所は、先に言及した第 26書簡の「仮象0 0への喜び、装飾0 0と遊び0 0への傾向性」(NA20 399)を人 間性への第一歩と見なすことに呼応している。その際、自己と他者と の関連の類型が提示されたが(NA20 398f.)、ここでは自然界に遊戯 の端緒を探し当てている。自然界にも自由な運動や質料的な遊戯を見 出すことができる。例えば、ライオンは生存の危機が迫っていない平 穏無事なときには、時として「……ありあまる強さ自体が対象をみず
からに創り出すのです」(NA20 406)。そして、咆哮を響かせて「……
ありあまる力を目的もなく浪費して楽しむのです」(Ibid.)。「なんらか の欠乏がその活動の推進力になっている場合に、動物は働きます0 0 0 0。力 の豊かさがその推進力になっている場合。つまり生命の過剰さが自ら を刺激して活動させている場合、動物は遊ぶのです0 0 0 0 0 」(Ibid.)。
「外的な欲求」からの自由にしか過ぎないが、昆虫が陽光のなかを群 れ飛ぶさまや、鳥の囀りといった運動のなかにもシラーは自由を看取 している。また、植物は個体や種の維持に必要な数より遥かに多くの 葉や枝を繁らせる。「諸力のそのような浪費」と「規定性の弛み」をシ ラーは質料的な意味での「遊戯」と把握して、自然は質料の領域で「制 約なきものの前奏曲」を奏でていると表現する。このような「自然的 遊戯」から「美的遊戯」の推移は以下のごとく要約される。
必要の強制、すなわち自然の真面目さ0 0 0 0 0 0 0 から、自然は余剰という強 制、すなわち自然の遊戯0 0 0 0 0を経て、美的遊戯へ移行するのです。あ らゆる目的という枷を越えて、美という高い次元の自由において、
自然は自らを高めるまえに、自由な運動0 0 0 0 0の中ですでに少なくとも 遠くからこの独立性へと近づいているのです。この運動は自らが 目的であり手段なのです(Ibid.)18。
1 - 2 構想力の遊戯から美的遊戯へ
次に構想力と美的遊戯の関連が問題とされる。構想力は「自由な運 動」と「質料的な遊戯」を行う。後者の「質料的な遊戯」では形式が
「ファンタジーの遊戯」(Phantasiespiele)と関連することなく、「さま ざまな形象が強制されずに続いて行く」。その状態はいまだ「人間の動 物的な生命」に属している。また外部からの感覚に働きかける強制か ら自由であるだけで、「独立した形成力」の存在をそこに推定すること
はできない(NA20 406f.)。
しかし「自由に観念が継起する0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 このような遊戯から〔中略〕構想力 は、自由な形式0 0 0 0 0 の試みのなかでついに美的遊戯への跳躍をとげるので す」(NA20 407)。ここではじめて「全く新しい力」が働くようにな り、「法則を与える精神」が「本能の行為」へと入り込み、構想力の恣 意的な振る舞いが制御される(Ibid.)。ただし次項で説明するような
「粗野な趣味」の段階で「美的遊戯衝動」を認識することは困難であ る。なぜならば、「感性的な遊戯衝動」がまだ勢力を揮っているからで ある(NA20 407f.)。
1 - 3 趣味の展開
「粗野な趣味」は奇を衒って新しいものを目指し、結果として「グロ テスクな形態」が形成される。この段階での「美しい」が意味するこ とは、人間を昂奮させて「……可能的な像〔をつくる〕ために0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0自らに 質料を与えるもの」である(NA20 408)。ここにシラーは趣味判断の 形式に注目すべき変化が起こったことを読み取る。それは自分が受動 的に受け取る何かではなく、それに対して能動的に行為しなければな らない何かを与える対象を人間が求めるようになったこと。また、必 要から気に入るのではなく、「まだ微かであるとしても自分の胸に語り かける法則」に満足するようになったことである(Ibid.)。
程なく更なる変化が訪れる。たんに物を気に入るのではなく、最初 は自分の所有するものを通して、ついには自分自身の在り方を通して、
自らを気に入ること、対象のなかに自分自身の刻印を見出すことを欲 するようになる。古のゲルマン人の手になる、見事な細工を施された 日用品や武具を例にとりながら、自分の所有するもの、創り出したも のが何らかの目的に役立つだけではなく、自らの才知、技能、「晴れや かで自由な精神」を「照り返す」ものでなくてはならなくなることが
説明される。もはや必要なものに美的な余剰を施すことだけでは満足 を得られなくなり、「……より自由な遊戯衝動はついに必要という枷か ら我が身を完全に引き離します。そして、美はそれ自体のためだけに 遊戯衝動の努力の対象となるのです」(Ibid.)19。
このような趣味の変化は、人間における形式への関連の変化により 齎される。まず住居、家具、衣装などの外側を取り囲むものに形式が 取り入れられる。すると所作や動作などの表現形式である「外なる人 間」、次に「内なる人間」(NA20 409)、さらには個人と他者、あるい は共同体との関連も変化する。この変化を示すために、シラーはトロ イヤ軍とギリシア軍の行軍の様子を対照させる20。トロイヤ軍は「盲 目的な諸力の驕慢さ」、他方ギリシア軍は「形式の勝利と法則の単純な 威厳」を体現している(Ibid.)。
この段階に到達すると、「より美しき必然性がいまや人類を一緒につ なぎ合わせるのです。そして心が関与することで、つながりを保持す ることを助けるのです。欲望はこのつながりを結び付けているのです が、その結びつきはただきまぐれで変わりやすいのです」(Ibid.)。「よ り美しき必然性」とは、自然状態であらわれる必然性ではなく「美的 仮象」あるいは「美的遊戯」を指すものであろう。人々をまとめるこ の美しき必然性の原理は無論強制ではない。「心に適うという欲求は、
力あるものを、趣味という繊細な審判に服させるのです。なぜならば、
人間は快を奪うことはできますが、愛は恩寵でなければなりません」
(Ibid.)。質料ではなく、形式を通してのみ、趣味に従うように努力す ることができるようになる。すると、「弱さ」(優しさ)が「飼いなら されていない強さ」(暴力)に対して、その武力を放棄させるようにな る。そして、第 9 書簡で芸術家の像を語る際に登場させたギリシア悲 劇のオレステスの故事を踏まえて、「いかなる流血も鎮めることができ なかった復讐を落涙が根絶させます。憎悪ですら名誉の繊細な声に気
を配り、勝利者の剣は武器を棄てた敵をいたわり、異邦人にとっては 恐ろしい岸辺で、そこで待ち受けているのは殺害されることだったの ですが、そうではなくて客をもてなすために竈から煙が立ち上るので す」と記される(NA20 410)21。趣味という法廷に従った他者への接 し方は、敵対する人々や、自らの共同体に属さない「異邦人」にも適 用される。
2 美的仮象から国家論へ
美的仮象と美的遊戯の議論を踏まえて第27書簡の後半では「美的国 家」に対する考察がなされる。すでに第 3 書簡から第 4 書簡でシラー は国家論を展開させている。美的国家論を俎上にのせる前に、第 3 書 簡と第 4 書簡での国家論を参照しておきたい22。
2 - 1 「自然国家」と「道徳国家」
人間は自分自身が人間であると認識したときにはすでに否応なく国 家という制度に投げ込まれている。国家の起源をシラーは、さまざま や脅威から自分の属する集団を維持させるなどの人間の欲求のなかに 見ている。そしてこれらの必要から「たんなる自然の諸法則」によっ て組織されたのが「必要の国」(Nothstaat)である(NA20 313)。こ の共同体は「自然国家」(Naturstaat)とも名付けられ、「自らの組織 の源が理性の法則ではなく、自然の諸力に由来しているような政治体」
(NA20 314)という説明が付されている。
ところがこのような自然国家にやがて人間は満足できなくなる。先 行する箇所では自然と個人の関係に即して以下のように述べられる。
しかしながら単なる自然が人間から作り出したものの許にそのま まとどまるのではない。そうではなくて、人間は以下のような能
力を有している。それは自然が人間にたいして先取りした歩みを、
理性を通して再び辿り直し、必然の所産をみずからの自由な選択 の所産につくり変え、自然的必然性を道徳的必然性に高める能力 なのです。このことがまさに人間を人間にするのです(NA20 313)。
これと平行して共同体のレヴェルでも、「成年に達した民族が自然国 家を道徳国家へと改造する試み」(NA20 314)が生じる。ただしこの 試みには多大な危険が付きまとう。理性が統べる道徳国家に移行する 際、可能だがいまだ実現されていない理想を優先させ、自然国家を廃 絶してしまったとする。たしかに道徳的な社会の理念は、現在のとこ ろ形成されつつある。しかしいまだ定着していない。するとその社会 は危機にさらされかねない(Ibid.)。
この事態をシラーは時計の修理という比喩で説明する。曰く、職人 が時計を修理する場合には、時計を分解して、歯車の動きは止められ る。それに比して国家は「生ける時計」であり、時計が時を刻むこと、
すなわち国家としての活動を一刻も止めてはならない。また止めれば あらゆる面で支障が生じる。「ここでは動く歯車が回転しているあいだ に交換することが肝要なのです。したがって社会の継続のためにひと つの支えを探さざるをえないのです」(Ibid.)。
このような支えは、利己的で暴力的で、破壊を目指すような、人間 の自然的な性格、また形成途上にある道徳的な性格のうちに見出すこ とはできない。そうではなくて双方に親しくて、「……単なる力の支配 から法則の支配への移行を軌道に乗せ、道徳的性格の発達を妨げるこ となく、むしろ眼に見えぬ道徳性の感覚的な担保の役割を果たすよう な、第三の性格を生み出す」ことが重要である(NA20 315)。そのよ うな第三の性格がそこに住まう多くの人々に共有されるようになって、
「道徳的諸原理」に従った国家への変容が完成するとシラーは解説する
(Ibid.)。
2 - 2 美的な国
それに比して第27書簡では政治的制度としての国家よりも、個人と 個人、あるいは個人と社会との関連、共同体の在り方に焦点が当てら れ、その類型が論じられる23。
諸力が支配する恐ろしい国の只中に、法則が支配する神聖なる国 の只中に、美的な形成衝動は遊戯と仮象の喜ばしき第三の王国の 建設にそっと従事するのです。そこでこの衝動はあらゆる諸関連 からなる枷を人間から取り去り、自然的なものにおけるのと同様 に道徳的なものにおいて強制とよばれるものすべてから人間を解 放するのです(NA20 410)。
法則が支配する「動力学的な0 0 0 0 0国」(derdynamischeStaat)において、
人間は「力」(Kraft)としての人間に出会い、自分の活動を制限する。
すなわち、人間の自然本性を自然本性によって制することによって社 会が成立する。義務が支配する「倫理的な0 0 0 0国」(derethischeStaat)に おいて、人間は「法則の威厳さをもって」人間に対峙し、自分の意志 に枷をはめる。すなわち、「個々人の意志を普遍的な全体の意志に従わ せることによって」はじめて社会が道徳的に必然的になる。それに対 して「美しき社交の領域」、つまり「美的な0 0 0国」(derästhetische Staat)
において、人間は「形態」としてあらわれ、「自由な遊戯」の対象とな る。「自由を通して自由を与えること0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 が、この王国の根本法則なので す」。そして、「美的な国だけが社会を実現させるのです。なぜならば、
全体の意志を個体の自然本性を通して実行するからなのです」(Ibid.)。
人間は必要に促され社会を形成し、理性によって社会の根本原則を
植え付けられる。それに対して、美だけが人間に「社交的な性格0 0 0 0 0 0 」(ein geselliger Charakter)を与えることができる。「趣味だけが調和を社会 にもたらすことができるのです。なぜならば、趣味は個人のなかに調 和を授けるからなのです」。人間には「感性的な部分」と「精神的な部 分」(Ibid.)が存在し、趣味は双方の自然本性が調和することにより成 立する24。趣味が判定する対象が美的仮象であり、それは「……個別 的な感覚表象であるが、現実存在とは区別された単なる現象であり、
趣味はこの美的表象について個々人の利害関心から離れた普遍的な立 場で判定する」25。趣味と美は個人に深く関連するのみならず、個人を 超えた普遍性をも志向する。この両面性については以下のように換言 されている。「美だけをわれわれは個体として、また類的存在として同 時に、つまり類的存在の代表0 0として享受します」(NA20 411)。
さて「美的な国」の有様とはいかなるものであろうか。「趣味が支配 し、美的仮象の領域が広まって行くかぎり、いかなる優位、いかなる 独裁も許されないのです」(Ibid.)。この領域は、形式がいまだ生じな いところから、あらゆる質料がなくなるところまで。自然衝動が支配 するところから、理性が支配するところまで広がっている。そこでは 他者を顧みない欲望から利己心が抜け落ち、感官を惹きつける快適さ が精神にも関連するようになる。「必然性の厳格な声である義務」は、
それを遵守しないものたちをただ非難するのではなく、かれらを信頼 して自発的に遂行するのを待つ。
「学という密儀から、趣味は認識を共通感覚(Gemeinsinn)の開か れた天空のもとへと連れ出し、諸学派の所有物を人間の社会すべての 共有財産へ変容させるのです」(NA20 412)。一握りの専門家だけが 知を独占するという学の閉鎖性がここでは「密儀」(Mysterien)、あ るいは「諸学派の所有物」という言葉で暗に批判されている。そうで はなく、学の営為により得られた認識を誰もがアクセスできる共有財
産にする。また、趣味の領域では天才も幼子の心持ちに同期しなけれ ばならず、力あるものは優美の三美神の前に首を垂れなければならな い。そのために、趣味は「自然的な欲求」にヴェールを広げて和らげ、
「自由の好ましい幻影」のなかで素材との類縁性を隠す。
趣味を通して翼を与えられ、地を這いつくばい賃金を得る術は塵 芥をみずから払い落し、奴隷の身分という軛が、趣味のもつ〔魔 法の〕杖で触れられると、生命あるものと同じく、生命なきもの からも離れ落ちるのです。美的な国ではあらゆるもの──縦令そ れが奉仕する道具であっても、最も高貴な市民と同じ権利を有す る自由な市民なのです。そして、忍耐する民衆をみずからの目的 のもとに暴力的に屈服させる知性は、そこではかれらがそれに同 意するかどうかを尋ねなければならないのです。すなわちここで は、つまり美的仮象の領域では、平等という理想が成就されるの です(Ibid.)。
趣味が統べる美的仮象の国では職業の貴賤はない。また、他者を隷 属させ搾取するなどということは起こりえない。これは人間や動植物 だけではなく、モノにも当てはまる。道具も「自由な市民」なのであ る。また、知を狡猾に利用して事情に明るくない人々を暴虐的に支配 することは許されない。
Ⅲ 考察
果たして美的仮象が支配する国は存在するのか。掉尾でシラーはこ の問を立てる。「もしも〔探そうと〕欲するならば、純良な心持である あらゆる魂のなかに存在するのです」(Ibid.)。このような領域を内面
に有する個人は存在する。「〔しかしながら〕事実に即せば、このよう な国はおそらく、純粋なかたちの教会や共和制のような、たいへんに その数が少なく選び抜かれたいくつかのサークルのなかにしかみつけ ることはできないでしょう」(Ibid.)。現実の世界での存在は確かに否 定されてはいない。しかし、それは『老子』第80章で説かれるような 小国寡民を思い起こさせるユートピアの側面が強い。
ユルゲン・ハーバマス(JürgenHabermas)は『近代の哲学的ディ スクルス』でシラーの『美的教育書簡』について論じている。ハーバ マスの見解を手掛かりにして、冒頭で立てた問いについて、若干の考 察を加えたい。ハーバマスによれば、『美的教育書簡』はヘルダーリ ン、シェリング、ヘーゲルが描いたヴィジョンを以下の点において先 取りしている。それは、「近代における自己分裂についての分析をカン ト哲学の諸概念を用いて遂行し、美的なユートピアを描き出している かぎりである。それはまさに芸術に社会的─革命的な役割を与えるも のであった」26。「つまり芸術自体は、人類が真の政治的な自由へと至 るための陶冶としての媒介である」27。媒介となるべく、すなわち近代 における自己分裂を宥和するという使命を成就するためには以下のこ とが必要となる。それは個人のみならず、個々人が共有するライフス タイルを変化させることである。「それゆえシラーは芸術の有する、対 話的で、共同体を作り上げ、連帯する力、すなわち〈芸術の公共的性 格〉に期待をかける」28。
このような美的ユートピアをハーバマスは、ヘーゲル―マルクスの 伝統、後にルカーチからマルクーゼによって受け継がれる系譜と関連 づける。「シラーはこのような美的ユートピアを構想することによっ て、芸術は対話的理性を純粋に実現化するととらえている……」。その 方策として、かつて「破壊された共通感覚の復活」が推挙される29。 本稿でも取り扱った第26書簡の洞穴の住民と遊牧民を、ハーバマス
は相互主観性に関連する二つの極、対比をなす類型と見なしている。
洞窟に住む穴居人のあり方は他者が視界の外にある個別化、遊牧民の ように部族で移動する人々には自己として存在することが許されない 集団化。両極のバランスが取れたときに、個々人はそのアイデンティ ティーを脅かされずに、かつ対話の構造を作り出す30。
『美的教育書簡』に関するガダマーとハーバマスの解釈は対照的であ る。これはシラーの描く美的仮象のなかに趣味と共通感覚とのつなが りを見出すか否かに起因していると推測される。古来の共通感覚と趣 味についての伝統はシラーには受け継がれなかったとガダマーは把握 している。それに対してハーバマスによれば、シラーの「美的判断力」
はカントの概念と伝統的な概念を混在させたものであり、「……この伝 統的な概念はアリストテレス哲学の伝統において(それはハンナ・アー レントに至るまで)、共通感覚のもつ政治的なコンセプトとの結びつき を完全に失ったことは決してなかった」31。第26書簡と第27書簡を考察 する限りにおいては相互主観性の問題も含めて、後者の見解がより実 像に近いように見受けられる。
ガダマーは現実と仮象の対立軸で美的仮象を捉え、現実と乖離して いる分、理想的な共同体の形成に寄与しえないとしている32。美的仮 象については第15書簡のテーマである遊戯衝動と第22書簡のテーマで ある美的状態、さらにシラーが依拠したカントの「共通感覚」を分析 する必要がある。この問題の解明を今後の課題としたい。
本稿において引用するシラーの著作は以下( )内の略号で記し、巻数、頁数 の順にアラビア数字で示す。
(NA20)Schillers Werke. Nationalausgabe.Bd.20.PhilosophischeSchriften.- Teil1.Hrsg.vonBennovonWeise.Weimar2001.
(NA21)Schillers Werke.Nationalausgabe. Bd.21.PhilosophischeSchriften.-
Teil2.Hrsg.vonBennovonWeise.Weimar1963.
(SW5)Sämtliche Werke.Bd.5.Erzählungen,theoretischeSchriften.Hrsg.von GöpfertHerbertGeorg.München1980.
引用における〔 〕は筆者による補足を示し、シラーによる強調は原文では斜 体、訳文では傍点で記す。また、訳出の際に石原達二訳『美学芸術論集』冨山 房百科文庫、1973年を参照した。
註
(1) ハンス=ゲオルク・ガダマー(轡田収、麻生健他訳)、『真理と方法』第 I巻、法政大学出版局、1986年、145-146頁。
(2) ガダマー、前掲書、116頁。なお、引用内の括弧の添付は筆者による。
(3) ガダマー、前掲書、116-117頁。
(4) ガダマー、前掲書、117頁。
(5) ガダマー、前掲書、117-118頁。この変化は、かれの美学の存在論的基盤 そのものがカントからずれていったことに関連するとガダマーは推測し ている。
(6) シラーの思想における社会統合の問題については、田中均「シラーの思 想における社会統合の問題─「美的国家」とその前史─」『美学』、第53 巻 1 号(209号)、2002年を、特にガダマーの見解に対する反論は28頁を 参照。
(7) 洞穴の住居民についての記述は、遡れば古代ギリシアのヘロドトスやス トラボン、聖書にも見受けられる。シラーの時代では、モンテスキュー の書簡体小説『ペルシア人の手紙』の影響を推測できる。主人公である ペルシア人のユスベクとリカが、異文化であるフランス(西洋)文化を 評論するという設定が当時評判を呼ぶ。『ペルシア人の手紙』について は、西嶋幸右『文明評論家モンテスキュー──『ペルシア人の手紙』を 読む』、九州大学出版会、1996年を参照のこと。西嶋によれば、モンテス キューが架空の異邦人の眼を通して文化を比較したのは、出版物への厳 しい検閲もさることながら、この形式により読者に内容が効果的に表現
することができると考えたからである。かれの真の意図は、「フランスの 知識人貴族の立場に立って、現実にフランスの直面する諸問題(諸矛盾)
を指摘し分析することによって、崩壊の危機に瀕したフランス王国に対 して警鐘を荒らすことであった」。また、「比較文明論という形式による
(自己)批判の論理の流れ」はヴォルテール、ルソー、ディドロに受け継 がれるとしている(西嶋、前掲書、131-134頁)。シラーもこの流れを汲 んでいるのは明らかであろう。
(8) III 考察のハーバマスの分析を参照。
(9) 人間性にかんするこの記述に対応する雑誌『ホーレン』の箇所では註が 付されている。そこにはヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの『イデー ン(人間史の哲学の諸理念)』(1784~1791)の第13章で取り扱われるギ リシアにおける精神の展開が引き合いに出されている。Vgl.SW51156.
(10)Vgl.NA20379-383.
(11)Einbildungskraftは想像力とも翻訳されるが、カントとの影響関係を鑑み て構想力と訳出する。
(12)Wilderに対して「未開人」という訳語を充てることは今日では必ずしも 適切ではないが、歴史的経緯を鑑みてこの訳語を使用する。
(13)Vgl.SW51156.
(14)この直後にシラーは詩人がいかなる立場をとるべきかについて自説を披 歴している。この問題については別稿で取り上げる予定である。Vgl.NA 20401f,SW51156.
(15)「ゴシック」という言葉はシラーの時代には「悪趣味の」という含意が込 められていた。Vgl.SW51157.
(16)この批難の言は、シラーの真価を認識できなかった後世の人々がシラー に浴びせる言と一致している。また、『ホーレン』で対応する箇所では
「現実と真理への道」となっている。Vgl.SW51157.
(17)Ibid.
(18)余剰から遊びへの展開で示されている自然観は、ゲーテから送付された
„InwieferndieIdee:SchönheitseyVollkommenheitmitFreiheit,auf organischeNaturenangewendetwerdenkönne “に影響を受けたのでは ないかという推測についてはNA21276f.とSW51157、シラーの「優美さ」
(Anmut)と「美」の概念との関連については以下の著書を参照。Peter- AndréAlt,Schiller. Leben, Werk, Zeit.Bd.2,München2004,S.108.
(19)美が遊戯衝動の対象であることについては、第15書簡で以下のように述 べられている。「遊戯衝動の対象は、一般的な図式のうちで言い表すなら ば、ゆえに生ける形式であると言えるでしょう。つまり、諸現象のあら ゆる美的なあり方と、いわばもっとも広義での美と名付けうるものを表 記するのに役立つ概念なのです」(NA20 355)。
(20)トロイヤ軍とギリシア軍の描写については、ホメロスの叙事詩『イリア ス』第 3 巻V1- 9 、レッシングの『ラオコーン』に依拠していることに ついては、NA21277,SW51157を参照。
(21)Vgl.NA20333,NA21277,SW51157.なお、オレステスに仮託した芸術 家の像については以下を参照。拙稿「ディストピアとしての現在――フ リードリヒ・シラーの『人間の美的教育についての一連の書簡』におけ るユートピア的なもの」『白百合女子大学キリスト教文化研究論集』第19 号、2018年、38-39頁、43頁。
(22)田口、前掲書、23-26頁。
(23)田中、前掲書、22、28頁。第27書簡の国家観については以下を参照。
AlexanderSchmidt,“TheLibertyoftheAncients?FriedrichSchiller andAestheticRepublicanism”,inHistory of Political Thought,30(2), 2009,pp.308-12.
(24)小田部胤久『西洋美学史』、東京大学出版会、2009年、153頁。
(25)田中、前掲書、23頁。
(26)Jürgen Habermas, Der philosophische Diskurs der Moderne, Zwölf Vorlesungen,FrankfurtamMain1985,S.59.なお、訳出する際には、ハー バマス(三島憲一他訳)『近代の哲学的ディスクルス』I、岩波書店、1999 年を参照した。
(27)Ibid.
(28)Ibid.59f.
(29)Ibid.62.
(30)Ibid.63.
(31)Ibid.62.
(32)ガダマー、前掲書、119-126頁。
本稿は2013年度の日本宗教学会第72回学術大会(於國學院大學)における口頭 発表に加筆修正を行ったものである。